2015年08月08日

抽象画(火山、富士山など)



抽象画(火山、富士山など)

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海底火山

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小高の懸の森(かけのもりのゼンマイ)


抽象画と具象画は実際切り離せない、山のようなものが操作して偶然にできたがこれは富士山だなと思いそこを手を入れて変えてゆく
山としか見えなければそれは具象画になる
抽象画は一応題はつけているがそれがすべてではない、いろいろな見方が生まれるからだ日本は富士山だから何かこのようなものを記念のメダルとして作ればいいとか思った。
そういうことができる造形だった。

結局抽象画は変化の芸術である、ソフトでこんなふうに変化するのかという驚きである。ただいくら変化させてうまくいかないものがある
ここのところが謎でもある、ソフトではみんな有効にはならない
変化しやすいソフトがありそれがフォトショップで広がったのである。
要するにソフトの利用による芸術だからソフトの使い方になれる必要がある。
今使っているのはペイントショップとフォトショップだけである。

タグ:富士山

2015年08月10日

抽象画(人間は色に反応する)



抽象画(人間は色に反応する)

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外光


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パソコンの抽象画で感じたことはまずは色である。
絵画というと構成とかあるが建築的なものもあるが基本的には色である。
印象画が色を究めたことが最大の発見だった。
色にはもともと神秘的なものがあった
人間の五感というとき一番色に感じることは確かである。
あとは匂いとか音とか肌触りとかいろいろある。
日々感じるのは人間は色なのである。

だから人間は例えは色のない世界は地獄のようになのるではないか?
冥王星とかはまるで色がない、暗黒の惑星である。
光と色は一体だったのである。
この世に色がなかったら黒と灰色とかてかなかったら闇の世界であり地獄である。
そういう世界に人間は耐えられない
でも動物は匂いは感じても色をどこまで感じているのか?
蝶は色に反応していることは確かである。
でもどれだけ色に反応するか疑問である


つまり人間だけが豊かな色に反応するのである。
様々な色が人間の脳に反応する
人間の心が色によっていかに影響されるか
赤い色とか青い色とかによって心の状態を示されるのもそのためである。
仏教で色心不二というとき色と心は一体だからである。
その時の心の状態が色によってイメージ化される
日本語でも赤き心とかあり色がその心を示しているからそうなる
ただ赤でも青でも実際はまたそこから百通りくらいの赤があり青があるから
色の世界は無限である。
特にパソコンの電気の色は今までにない色なのである。
つまりパソコンの色は新しく生まれた色なのである。


パソコンだとインターネットに出たものだとそれが簡単に変化させられる
それがまた今までとは違う、常に変化するのがパソコンの抽象画の特徴である。
普通有名な絵なら変わらないことに価値がある。
抽象画が変わることによってまた新たな価値が見方がでてくる
この絵もまた変化させたものなのである。
ただ元の絵がわからなくなったとき著作違反ともならないのである。

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東京オリンピックのエンブレム問題 (野馬追いの旗ともにている)



東京オリンピックのエンブレム問題

(野馬追いの旗ともにている)

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人間は一つの社会を形成して集団で暮らすようになるとその集団を象徴するものが生まれる。それは人間が群れをなして集まり暮らしたときから始まっていた。
トーテムがそれである。狼とか熊とかを部族の神として象徴として祀り一族の団結を計る今回のエンブレム問題の深層もそこにあった。

紋章とか旗印とかができるのもそうである。
ヨーロッパと日本では封建制があり城が非常に多い、するとそうした地域地域の独自性が生まれは紋章とか旗印でも多様になるのが共通している。

野馬追いの旗は複雑であり簡単に分類できない

●血統的な一族意識
●地域性的な一族意識
●役割としての旗印
●単純に他者と区別するもの

これだげではない他にいろいろあるが地元の人でも説明できないほど複雑である。
すでに旗印を受け継いだ家ですらなぜその旗印なのかわからないのである。
旗は戦場で他者と区別するものとしてあった。それは敵だけではなく味方でも区別していたのである。

オリンピックのエンブレムそうである。血統という民族的象徴として日本国がありまた東京をシンボル化したものとして作られた。
そしてオリンピックを象徴するものが必要だった。そういうものをとても小さなエンブレムにもりこむことはむずかしい。
複雑になるとかえって訴えるものがないことがありあのような単純なものになった。
シンプルなものがかえって訴えることがあるからだ
それがあまりに単純なのでパクリだとされた。それと酷似したものが外国にあった。
それはだから真似たもの盗用したから著作権違反として訴えられた。
何か何十億もの金がそれにつぎこまれたとかなったこともある。
金が関係しないならあれでこんな問題にはならなかったろう。

これも一つの抽象画である。自分も抽象画をずいぶん出してきた。
抽象画は果たして創作物なのかという疑問がありながら面白いから出してきた。
それはパソコンが生まれたパソコンのソフトから生まれものである。
それと電気の光であり色だから今までのように絵の具で描いているのとは全く違うのである。絵の具では出せない色を出している。
チューブ入りの絵の具の発明は絵画を変えた



チューブ入りの絵の具の発明とは、意味合いが違います。

簡単に絵が描けるようになったことで、本来描かなかった人たちも描くようになり、作品に対する考え方も安易になりました。

手描きの絵はオリジナルの一枚絵ですが、デジタルはオリジナルの原画というものは存在しないというところが最大の相違点ではないでしょうか


なんていうか「デザインとは無から有を作り出すことじゃなくて 
既にあるデザインを分解して再構成することだ!」みたいなこと 
本気で思ってそう。


まさに自分がしていることがこれだった。あるところを切り取って新しく自分のイメージに構成したりまたソフトで変化させるだけである。
これは絵が全く描けない自分でもできたことに驚き面白いからしている。
こういうことはデジタル写真でも生まれた。これまでの写真はプロでないとうまくとれない。それがデジタル化した結果誰でも写真の世界に入れるようになったのである。
6万のカメラでも今や一万円のカメラでもでも画素数があがりきれいにとれるのである。
いいカメラだと光の具合が良くでているから感動した。


今回の東京オリンピックのエンブレム問題も何かこうした技術の変化と関係していた。
これはコピーにすぎないじゃないかというときそもそもパソコンやインターネットはコピーペーストの世界なのである。
文章すら絶えずコピーしてペーストして書くようになった。
だから文章でもコピーされて盗作されて文章の一部が切り取られて再構成されている。
ただそれは良くわからないのがインターネットの世界である。
それが世界的に広がっているから世界的にコピーされて著作権違反がかなりあるだろう。外国になると盗用してもわかりずらくなるからだ。
だから明らかに自分の作品も盗用されているというより自分も盗用しているのかとなる。ただそれが金にはならないしどれだけの創造性があるかわからないから問題にならないのである。


でも今回はこんなもので何十億の金になるのかということで問題になったのである。
これよりもっといいものを作れる人はいるだろう。
ただなかなか芸術となると理解しにくいのである。
どこに独創性があり価値があるかを見極めるのがむずかしい
それは芸術のあらゆる分野でそうである、俳句でも全く同じものがあったりしても不思議ではないのである。それは短いからそうなる。
そして類似俳句とか類想俳句とかがある世界なのである。
芸術は他人の作品にヒントを得るということが必ずある世界である。
それはあらゆるものが他からのヒントを得てしている、技術の世界でも何でも文明自体がそうである。
だから模倣するなとかは言えない、模倣も想像に通じてゆくからである
このエンブレムが本当に想像性があったのかないのかそれが問題になる。
でも模倣していても創造性があるのはある。その辺の見極めがむずかしい
ただこれは模倣性が強く創造性がないことは誰が見ても明かなので批判されているのである。

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このなかにオリンピックのエンブレムとにたものがある
野馬追いの旗には単純なものも多いからである。



野馬追い関係


抽象画の部

タグ:エンブレム
posted by 老鶯 at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2015年08月11日

分断されて帰還がむずかしい原発避難者 (現代の広域経済なども影響してばらばらになった)


分断されて帰還がむずかしい原発避難者

(現代の広域経済なども影響してばらばらになった)


双葉町となるとあれだけ原発に近いのだから補償金でも何でも一つにまとまるように見える。実際は補償金でも違っていて四つくらいにさらに分断されているとういう。
中間貯蔵施設問題でも地権者に賛成派と反対派がいて分断されていた。
双葉とか大熊町となると外からみればどこも放射線量が高いと思うがそんなところでも放射線量で区別されている。
だいたい土地はつながっているのだから空間だってそうだしそんなに区域を分けること自体が疑問だった。
南相馬市でも30キロで区切られてその区切られた隣り合っても補償金がもらえる人ともらえない人がでてきて分断された。

自分の住んでいる場所は30キロ圏外であり除染をはじめるという連絡がきた。
0.3以上は除染するというがここは0・2であるからしなくてもいいのかと思った。
ただ一部樋の下などが高い、でも地域的に一軒でも除染しないと回りに影響するから
地域の人と相談した方がいいと言われた。
つまり一軒だけ除染しない勝手にすると回りに影響するからだ


このことを考えると地域的に放射線量で分断して補償金の差をつけたりしていることが納得いかないのである。
もし隣合っているならほとんど実際は放射線量は変わらないし風でも隣から飛んでくるのだから同じことなのである。
水だって流れてきて泥でセシウムが運ばれてくるから一地域だけを除染しても無駄にな
放射性物質の問題は一地域を除染したりそこだけをとりのぞいてたからといって解決しないのである。
点の問題ではなく面の問題として放射能汚染があるのでありそんなふうに分断したのはなぜだろうと前から疑問だった


つまりそれは双葉町でも大熊町でも南相馬市でもどこでも政府や東電で意図的にわざわざ住民の心を分断させるために補償金で差をつけたのかとなる
住民同士がいがみあえば補償金でもまとまって払う必要がないとなる
まとまって交渉されると圧力が大きくなるから補償金を支払う方では困るからである。
結局そういう政府や東電のずるい意図に住民もはまり操られたともなる


ともかく大熊町とか双葉町や浪江町は旧相馬藩内だから南相馬市とかと連携して協力して解決策を求めてゆけとなるのもそれも簡単にはいかないだろう。
第一鹿島区に避難した小高の人たちとすでに補償金でもめてここも分断されているからである。
小高の人は全部ではないにしろ金もらってかえって威張っているとかなっている。
このことは別にここだけではない原発避難者として同じなのである。
イワキであれ二本松であれ会津であれ福島市であれ原発避難者は補償金をもらっていても受け入れた市はもらっていないからである。
そこに大きな不満がある。相馬市すら原発避難者に大きな不満がある。
なぜあの人たちは働いていないのに贅沢しているのだろうとなる
女性はこまかいところを見ているからスーパーで高いものを買っているとか見ているのである。


いくら同じ相馬藩としてめんどうみろとかいわれても今の時代はまた違っていてむずかしい。
避難先のイワキ市とかに双葉町とか大熊町とか浪江町とかを作る計画をしたがこれも無理だとなった。
なぜなら一つの市にまた別な町があることは摩擦を生み困るとなる。
そして一体避難者はいつまでも補償金をもらえるのか?補償金で暮らす気なのか
なぜあの人たちは補償金でいい車を買い毎日遊んでいるのか?
真っ先に土地も買い家も建てているのか、前からの住民は金もないからかえって土地が上がり家も建てられないとなり不満になる
ある人は浪江の人は避難先で遊んでいるのもまずいと商売をはじめたが地元の人に世話になっているのに競争を相手となり客を奪ってしまうのが気がひけるとか言っていた。
なぜそういう問題が起きるのかというと数が多いためなのである。
ある市や町に一挙に2000人とか移住するということが摩擦を生んだのである。
これば百人単位とかで散らばったらそんなに摩擦にならなかったかもしれない
一挙に2000人も増えたら一見人口増えて経済的にいいと思うが実査気はそうはならなかった。

別に補償金をもらってその町に金を使っているのだからいいじゃないかとならなかった。
補償金もらって毎日パチンコ通いだとか遊んでいるだけだとというとき批判された。
そして何でも原発避難者は病院でも介護でも優先されて地元の人は後回しにされたりと不満が大きくなったのである。
実際復興に働いたのは地元の人ではない、外から来た人たちだったのである。
地元の人は遊んでいたからボランティアの人とかは喧嘩になったというのもわかる。
これも現代を象徴している、広域社会になると地元だけの経済ではない、全国と関係しているし外国とも関係している、食料でもどこからも入ってくる。
もし自給自足のような小規模な経済だったらこんな問題は起きていない。
もちろんそういう経済はまともに電気もない生活だったから比べることもできない

とにかくこの辺で大東建託とかがアパートを十棟以上も次々に建ったり建売住宅も次々に建った。それは地元の大工さんとか建築業者がしているのではない、働いているわけではない、今は組み立て式だから地元の大工さんが地元の材料で建てることもないのである。つまり全く地元の人がかかわらないでも家が建っているのである。
金さえあれば建売住宅で一週間くらいで組み立てて建ってしまうのである。
だから金さえあれば別に避難した先の人に世話になるということでもないとなる
そうなると避難した先でも別に何の世話にもならないとなりかえって威張っているというふうにもなる
それで地元の人と軋轢が生まれたのである。


そもそもなぜ原発避難者が一つにまとまらないのかというとき政府とか東電によって放射線量で地域を分断させられたこともあるがこうした広域化社会になったということもあった。
小さな町でも村でも広範囲に全国と世界ともつながり生きている社会なのである。
だから田舎でも隣近所が助けあわないとか疎遠になるとかあった。
それはとりもなおさず隣近所とか狭い地域で助け合わなくても生きられる社会になっていたからだろう。
そういう現代の社会も影響して分断されてしまったということがある。

こうなるとやはり日頃の生活が問題になる。例えは大工さんとか手に職をもっているとか何か技術をもっているとか故郷を離れても仕事ができる人は強いとなる。
今は人手不足だからどこでも受け入れるからである。だから看護師は原発事故以後すぐに移住した人も多い、南相馬市立病院では半分がたちまちいなくなったとかあって問題になった。
故郷を両親や祖父母を見捨てるのかとかとも言われた。
農業とか漁業となると他に移って簡単にはできない、一部でしても土地が必要だったり簡単にはできない、でも大工さんとか看護師とか他に手に職をもっていたり技術をもっている人は就職しやすいからどこに行っても移住しても生活できなるとなる
だからいろいろもめているのもめんどうだから移住してしまって帰らないということになりやすかった。


いづれにしろ避難した人が2000人とかなるとその人たちは目立つしもし浪江町とかとしてまとまって住むとなるとこれも問題なになる、同じ町に別な町があることは軋轢を生む
そしてその人たちがみんな避難した先で貢献できなるのかといったらそれもむずかしい。でも大堀の陶工は白河市とかに窯をもって定着したという。
それも技術をもっていたからできたとなる。
やはりこういう困難に直面すると日頃の生活がものいうし影響するともなる
ニートとか遊び人のような人も補償金をもらって喜んでいたがではそんな人を他の土地で受け入れるかとなるとならないだろう。
そして補償金はいつまでももらえるものではないのである。
だからよその土地で針の筵(むしろ)のように思って暮らしている人もいるかもしれない
補償金もらっているからとなんてもいいとはならなかったのである。


「この家は誰が建てているんですか」
「大東建託だよ」
「地元の人はかかわらないんですか」
「かかわらないよ、全国から来ているよ」
「津波と原発の被害では沖縄から北海道まで全国から来ている
  地元の人は別に何もしない人が多い、パチンコ屋通いとか批判された」
 「自分などは大東建託という会社に勤めて金をもらっている
 別に地元に貢献するという意識はない
 仕事があれば全国に派遣されるだけだよ、自分たちは会社員なんだよ
 会社にさされば全国どこにでもゆくほかない、自分たちにとって大事なのは会社だよ
 自分たちが住んでいる所じゃない」
 「補償金もらって原発避難者が家建てているけど」
 「そんなの関係ない、金さえもらえばいいんだよ、地元の事情は自分等には関係ない」
  
 今の社会はこんなふうになっている。
 でも地元の人が避難者のために家を建てるとなると違ってくる。
 
 「この地域は補償金などもらっていない、それなのに補償金をもらっているよそ者のた   めに家を建てている、働いているというのも納得いかない、
 自分たちも被害者なのだから補償金もらいたのだ
 補償金もらって遊んでいま人のために働くの馬鹿らしい」

 こんなふうになってしまうかもしれん、広域経済では日本国内だけではない世界ともつ  ながるから狭い地元のことを考慮しない社会なのである。
 何かそういう矛盾が原発避難者と受け入れた側の軋轢を生んだことは確かである。
 

posted by 老鶯 at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

フラワーアレンジメントした写真を加工する (別なものに変質して新な美を生む)



フラワーアレンジメントした写真を加工する


(別なものに変質して新な美を生む)

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これは前にフラワーアレンジメントしたものを写真にとっていた。
それをフォトショップで加工してみた
そしたら何か斬新なものとなって別な見方が生まれた。
こういうことがソフトできる
デザインというかそういうことが素人でもパソコンでできるようになった
写真でもいいろいろ見栄えを良くできるのである。
これは雑誌などでしていたがこれも自力でパソコンでできるようになった
このデジタル写真とパソコンのソフトの加工の分野は映像に対して素人でも
プロ並みのものができるようになった

まず絵が全く描けなくても写真がその代わりをしてくれるしパソコンやインターネットがその代わりにしてくれる
人間の頭脳の働きを機械がしてくれるということである。
ただその原画となるのものはやはり人間が作っている
これは他からのものを使っていない、自分のものである。
フラワアレンメントしたのは自分である。
だから自分で作り加工したものは著作権違反にならないのである。

2015年08月12日

フラワーアレンジメントの加工(2)


フラワーアレンジメントの加工(2)


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加工した方がただそのままを写真に撮るより見栄えが良くなる
ありのままが必ずしもいいとはならない
だから写真でものままではなく加工して見栄えを良くできる
それはパソコンのソフトでできる
フォトショッフはにはそういう加工をするソフトである。
ただ全部が使える訳ではない
結局この加工は試してみて偶然にこれがいいとか発見する作業である。
なれてくるとこれをこう加工したら操作したらいいのとかなる
画家だとそんな作業はしない
機械に頼らないからである。

才能がある人はそれができるが才能のないものは機械に頼りデザインできる
つまりパソコンは明らかに人間の頭脳の役割を果すようになったのである。
だから人工頭脳というのができてくる
機械化できるものは機械化する、それは物の生産でも機械化できるのはロボットがやるようになる。
でもどうしてもできないものが残る、それが人間の仕事だとなってしまうかもしれない
機械には美的判断とかできない、ただ機械的に美も醜もなく写しているだけなのである。
だから機械には限界があり人間のようになることはできないのである。

2015年08月13日

フラワーアレンジメントも芸術的創造のセンスが必要 (花屋もただ花を売っているだけで商売となるのか?)


 
フラワーアレンジメントも芸術的創造のセンスが必要


(花屋もただ花を売っているだけで商売となるのか?)


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皇室の紋様

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花を見るというとき野の花とか高山の花を見てきた。
でも自分はフラワーアレンジメントをしたこともないし生け花も知らない
フラワーアレンジメントは野の花を見るのとは違う
そもそも外国の花が多いから日本の野に咲いてない花を扱うからである。
菊なら日本的な花だから菊からイメージするものが皇室とかなる

まずフラワーアレンジメントは花をランダムに挿すことからはじまる
単にそれだけで色が交じり合い一つの花の世界が生まれる
それはあんまり考える必要もないし創作的でもないが
これも偶然の結果として何か一つの美の世界が生まれる

これもただ偶然の結果である。ただ白藤と都忘れは合っているなと白藤に都忘れを添えた写真では都忘れが良く写っていない、だからまず写真の撮り方が結構むずかしいことがわかる
花をとることは結構むずかしい、これはまず写真の技術が必要になる
雑誌とかに出ているのは何気ないようでもプロが出しているから鑑賞に耐えている
素人は何かその辺が作れないということはある。
その一つが都忘れがうまくとれていないことだった

だからフラワーアレンジメントと写真の技術とパソコンの加工の技術などで写真でとってさらに配置などを変えて見栄えを良くする必要が出てくる。
つまりフラワーアレンジメントは写真をとり加工してみてまたそき配置を変えたりすることも必要である。
そういう相互作用を経て作品化してゆく
でもそれにはかなりの時間が必要になる、なぜなら花は枯れやすいからである。
花を見ている時間も短いのである。
だからこそ写真にとってその美の瞬間を保存する作用がまずあった

ともかくフラワーアレンジメントはやはり芸術の創作でありセンスも要求されるが技術も要求される、そして花の性質とかどう育てるかとも知る必要があるから
本当は花屋は意外と創造的仕事なのかもしれない
もちろんそんなことまでしないでただ花を売っているという店も普通である。
しかしそれだけでは本当は花屋という商売を活性化できない
やはり常に時代の最先端をゆかないと取り残されるということがある
あらゆるものがそうである。パソコンとかインターネットなどなくてもいいとかとなる
そんなものめんどうだからしなくてもいいとかなる
そうなるとなんでも時代に遅れてしまうということがあり店に魅力がなくなる
そもそも花屋はスーバーのようにただ花を売るだけではない
だから誰にでもなれるものでもない
花屋の人はフラワーアレンジメントはしている
それに感心してこの人はやはり花屋だからセンスがあるのだと思った
しかしせっかく飾っても売れないと正月に言っていた
それは高いこともあったが正月用として上手な作りだったのである

実際花の世界は今はこれもグローバル化して多様なのである。
いろいろ知らない花が外国から入ってくるのである。
すると知識も必要だしセンスも必要になる
つまり芸術的感性が必要な商売なのである。
花についての詩なども知っていればいいがそういう人はほとんどいない
何か現代というのは何でも機械化するとき人間の仕事は芸術的な創作的なものが
仕事として残るが機械的にできることは人間は必要なくなる世界である
するとこれからの課題は創作性を磨くことになる
機械にできないことは創作的なことだからである。


この辺のスーバーでレジの一部が機械化した、するとそれで人手が省かれる
事務でも機械化して事務員も必要なくなる
人手不足が騒がれているが一方で機械化して人手不足を補っている
弁当まで機械でオカズを配置して大量生産している
でも一方で手作りの味は人間にしかできないとか人間にしかできないことが貴重となり高価となる
第一本を売るだけの書店でも創作的なことがない誰にでもできる仕事である
もしその本を読んで感想を批評できるようだと違ってくる
ただこれも相当な知識と創作性が必要になる
書店でもそうだが何かどこでもただ売っているだけでは創作性がないのである。
これからの仕事は何でも創作性が必要になる
佐賀のうどんとかソーメンは他のよりうまいとか蕎麦でも会津のはうまいとかなるが
それも創作性であり同じものだったら価値がなくなるのである。
何か芸術というとき特殊ものもをイメージするがどこでもそうした創作的なものがないとどこでも同じだとなると魅力がなく売れないとなってしまう
貧乏な時代なら味よりただ腹一杯になればいいですむが今のような贅沢な社会はそうならないのである。


タグ:花屋

津波原発事故から4年半過ぎて (お盆のまためぐりて我が心境の短歌30首)



津波原発事故から4年半過ぎて


(お盆のまためぐりて我が心境の短歌30首)

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大熊町に残された手押し車




紫陽花や厨ににあうは女性かな

(墓参り)

五年のはや過ぎなむや姉の墓赤々と映ゆほおづきの花
我が墓地の街中にあり天保の碑知らずありしもひぐらしの鳴く
我が墓地に同級生の墓ありしお盆めぐりてみな老いにけり
あわれかな原町の実家の墓参り年に二度なりまた来るかな
忙しく時は過ぎにきめぐりくるお盆に死者を偲ぶはよしも
我が家の墓の近くに雨しととお盆に参り花をさしにき
戦没者なお偲ぶかも戦友を思う人しも90を越えるかな

(村々のこと)

我が暮らし今日も屋形を通りつつ蝉鳴く声やあわれ暮れにき
のうぜんの花は燃え咲き散りにける我が家に勤めなお暮らすかな
久しくも橲原に行かじ立目石秋となれるや虫の鳴くらむ
土地土地に暮らしのありて思いあり夏も過ぎなむひぐらしの鳴く
大原に老木一つここに住む人も死にけり跡継ぎなしも
鳩原村そこに育ちし人もあれ帰る日あれや墓も淋しき
墓地あれや下栃窪や遠しかな秋の蝉鳴く声聞きつ帰るかな
飯館に一年も行かじ荒れにしや墓参りする人もありなむ
原町にスーパーヒタチとまりつつ動かざるかな五年も過ぎむ
全国の人の来たりて仕事する事故の傷痕消えざりしかも
放置さる避難区域に手押し車誰か使いしや人は住まじも
鹿島にそ小高の人の五年しも住みて長しやひぐらしの鳴く
いつまでや離ればなれになる人のいつ帰りなむ老いゆくものを
人の世はかくも変わらむ津波跡なお残りし庭の樹を見ゆ

(百歳の母)

我が母の百歳すぎて何思ふただいねにつつ齢伸ばしぬ
百歳を生きてなにをか思ふらむただいねにつつ言もなきしも
継母に育てられにし母なれやその一生の労苦のみなり
百歳に大正生まれなお生きぬめまぐるしくも変わりし世かな
90過ぎて家を離れてアパートに住むこともありしその労苦かな
我が家に強き姉しも今はなし故郷に咲く鬼百合の花



津波原発事故からすでに4年半を過ぎようとしている。この間に自分の一身上でもめまぐるしく変わった。七年間介護であり自分の病気であり自分も様々なことに追いまくられた来た相手も良くなかった。相手もまた事業に失敗した、生活がぎりぎりで苦しいとか犯罪にあうとかそのことを延々と書いてきた。
つくづく人生は過酷である。津波で死んだ人も過酷だし原発事故で避難した人もいろいろ言われたが過酷であった。
自分の一身上でも過酷だった。それも自業自得だったともなる
何か嫌な予感はしていたがそれが想像以上に過酷なものとして身にふりかかった。
つまり原発事故も津波もみん想定外のごとだったと同じだった
60以上は人生の総決算みたいなことが起きてくることは確かである。

お盆だから墓参りをした。母の実家の墓参りもした。でも彼岸とお盆しか行っていなかった。それも何か以前として忙しく追われているからである。
結局自分はこの七年間家のことで自分のことで悪戦苦闘してきた
この間誰にも助けられなかった、ただかえって弱者になったとき責められるだけだったのである。人間がいかに非情が身をもって知った。
ただ求めてきたのは金だけだったということである。

そして自分の周辺もまた以前として正常にもどっていない、仮設はそのままだし2000人とか仮設にいる、小高の人は来年帰るというけどこれも延長するとかなると長引く
まず津波原発事故の後遺症は以前として消えることはない
5年過ぎても何ら変わらないということがあるだろう。それほどの大災害だったのである

故郷は何なのかなど考える必要もない、当たり前にあるものだったがこれも住めなくなった時考えるようになった。
故郷の山はありがたきかなとか故郷に住めることはありがたきかなともまでなってしまった。
故郷とは何なのだろうというきそれはそこに住む人の思いが残っている場所である。
それは一代だけではない、何代も前の人々の思いが残った場所なのである。
だから不思議なのは津波の跡の家の庭に残っている樹がまだあるがそれが何か普通の樹とは違う。その家に土地に離れがたく残っている人間のように見えたのである。
自然の樹とも違う、人間化した樹だったのである。

故郷というとき広いからそれぞれの土地に村に思いがある。
橲原(じさばら)だったら立目石とかがあり大原村だったら老木が一本ありあそこで農業して死んだ人を知っている、でもその家は空家になっている
小高の鳩原村に育った人もいて荒れ果てた故郷を悲しんでいた。
それぞれの村には暮らしがあり死んだ人であれ思いが残りそれでお盆には墓参りして
死んだ人をしのぶのである。
だからお盆というのは死者を偲ぶものとしていい風習である。
ただこれは仏教とは何の関係もない、日本的風習なのである。

それにしても避難区域に残された手押し車とか見ると不思議である。
あれ押して老人が往き来していた、それか突然誰もいない街となってしまったのである。あの手押し車でも押していたときそこに暮らしがあったのである。
だからこの辺の状況はまるで映画のようにさえ見えたし今でもそうである。
突然いくつかの町が村が放棄されたためそうなった。
街自体が突然廃墟のようになってしまったのである。
もちろん津波で消えて土台しかなくなった村もいくつもある
そうしうた荒廃した状況が未だにつづいているのである。

自分の母の一生はただ労苦の一生だった。時代といえば時代だが不運といえば不運である運命といえば運命である。人間の一生が様々で何らか苦労がないものはいない
戦争で死んだ人たちも何なのだったかとまた問われる、ただそれも70年過ぎると関心がうすれてゆく、70年は長いからである。
あれほど災禍でもわすれられてゆくのが人間である。
この津波原発事故はまだまだ地元では特に忘れられないし生々しいものとして痛々しいものとしてある。

今年の夏は異常に暑く体力が消耗した。今日は涼しいし雨が降っている
なんかまだ暑さがつづくとなると嫌である。
ともかく五年過ぎて小高の避難者などが帰還すれば元のようになるのか?
以前としてこの辺は五年すぎてもさほど変わっていない
そして自分も延々と家を守ることに悪戦苦闘している
家事というのは実際はいろいろあって知恵も必要である。
そういうのは女性があっていることがつくづくわかった。
厨に台所に立つのは女性があっている、庭に紫陽花が咲いて女性がふさわしかった。
介護も女性の方が何かと向いているのだ。それを全部自分でしているから毎日が追われているのである。


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2015年08月14日

明治維新を背後で操作したフリーメーソンーユニテリアンなどの謎 (科学技術信仰でもあり原発事故で文明の崩壊現象が起きた)


 
明治維新を背後で操作したフリーメーソンーユニテリアンなどの謎

(科学技術信仰でもあり原発事故で文明の崩壊現象が起きた)

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●明治維新は外国人によって指導された

明治維新は様々な謎があり複雑である。あらゆる面で欧米との接触から始まったし欧米の宗教であり思想であれ科学技術であれ取り入れる過程で複雑なものになった。
その背後で操ったのが欧米勢力でありフリーメーソンやユニテリアンの組織だという解説が出てきた。
明治維新の真実は未だに解明されていない、本流は最初公武合体であり別に開国しないとかではなかったのである。
それが薩摩長州連合によって幕府が朝敵となり新しい日本が作られた。
その背後には資金面でも援助したフリーメーソンやユニテリアンの組織が知識人などがかかわったとある。
坂本竜馬は長崎のグラバー邸に出入りしてそこで資金を調達して武器を仕入れて売り込み薩摩や長州に力をもち薩摩長州連合を押し進めて明治維新を成したと良く言われる。
明治維新は日本人のみで成したものではなく欧米勢力が背後でかかわり成されたものだという主張である。
実際は公武合体派が純な日本の系統だったともなる。

幕府と朝廷の公武合体派が正しい勢力だったのである。
それに対してイギリスによる裏側から管理指導を受けていたのが薩長同盟である。
明治維新は日本人が成したものだというが実際は欧米勢力、最初はイギリスが深くかかわって成されたともなる。
それは実際の資金とか武器の供与とかだけではない、イギリスが当時文明を代表するものそして明治維新にかかわり新しい日本の明治を作る人物も養成したのだとなる
それはカトリックとかの旧教会勢力ではない、その思想はフリーメーソン、石工の団体から発して理神論としてのユテリニアニズムの宗教である。
これは神を理論的に理解するものだから極めて理論的であり知識人が科学者などしか理解できないものである。だから一般の人にはなじみのないものである。
ただ指導者層がフリーメーソンでありユテニリアンだったとなる
ハーバード大学がもともと修道院でありユテニリアンのメッカだったというのもうなづける。
そこには最高の知識人が養成されているし何より科学研究の世界の殿堂になっていることでもわかる。

だから明治維新のときの今は偉人とされる人はなんらかこのフリーメーソンにユテニリアンの思想の影響を受けている、福沢諭吉もそうだったというとき実際にユテリニアンの教授を大学に招請している。
というよりはもともと明治維新には新しい日本を作るにはそうした外国人の技術者であれ知識人を招請しなければできない、そういう人たちに指導されたのだから当然だったともなる。明治以降にできた大学で外国の宣教師が深くかかわるものが多い。
それは外国人の援助なしに大学だって作れなかったのである。
東北学院とか青山学院とか立教大学とか一番古いのでは新島襄が創設した立命館とかでもそうである。アメリカから多額の資金を援助されて設立された。
そういう大学は日本人が設立したのではないのである。
だからそういうものには日本人の独立性が欠けているのである。
ただ内村鑑三は別だった。ユテニリアンの組織に世話になったとしてもあとは別な日本人としてのキリスト教を唱えた。
だから外国の宣教師とかかわるなと言っているからである。
この草創期には何らか知識人であれ外国人とかかわらざるをえなかったのである。

●フリーメーソンとかユテリニアンとかは現代文明の思想の基

そもそもフリーメーソンとかユテリニアンとは何なのか?
それを思想面からみればそれは別に何か秘密でも隠されたものでもない、要するに近代を作り上げた思想でありそれはこの世が神が作ったとかキリストが神の子であるとかを否定する思想である。
ただそれは公には言えないので無神論はタブーなので欧米で神を理性的に理解するとなったのである。
でもこれは珍しいものでもなんでもないのである。
現代では文明人ならばみんなそういう思想のもとに日常化している、生活の中でそんなむずかしい理論を知らなくても理解できなくても実行している。
弁証法を解くとしてもそれも無神論でありやはりユテニリアンの系譜になる。
理屈で理性で世界を解きあかそうとしているからである。
とても理屈とか理性でこの世を解明などできないのである。

アメリカは清廉潔白を旨とするピューリタンが建国したのではない
早い時期から世俗化して金儲け主義、合理主義者となった

現代文明の特徴はニーチェの「神が死んだ」とかすでに理性とか人権主義とか合理主義とかに変わったことである。そもそもカトリック教会の腐敗からキリスト教を嫌悪する人たちが公然と増えたのが現代である。
それにとって変わったのがフランス革命とかの自由、平等、友愛という思想はキリスト教のものではない、人権主義もそうである。
だから別に明治維新だけではない、今や世界がそうした近代化の思想が実現されたグローバル社会になっているのだ。
マルクス主義もまたその分派であり神を否定して社会改革を望んだのである。
結局いくらピューリタンとか清廉だとか言っても世俗化の力には勝てない

今や文明の宗教がカルト化してただ人間の欲望の全面的に肯定するようになるのも当然である。
世俗化の力とは人間の欲望を否定できないことである。
その欲望の力がまさるからグローバルに資本主義も欲望をあくなく追及するようになったそれはユダヤ人がどうのこうのとういのではなくそれは人間の欲望がそうした社会を作ったのである。近代文明社会そのものがそういう世界的にそういう社会にしたのである。
一見こういうことが原発事故と関係ないように見える。
でもこの原発事故を深く考えればこうした現代文明の崩壊現象ではなかったかとも見える自分を苦しめた人たちやまたなぜフクシマで自分の住む周辺がこんな状態になったのか?
それは大きくみれば文明の崩壊現象ではないか?
その原因はいろいろであってもそれは別に知識人でなくても技術者でなくても個々人が庶民が追及しているのはこうした指導層の人たちと全く一致している。
金儲けが第一であり金が神の如くなったというのは別に日常的の生活でそうなっている。
だからこの辺の一人一人を見ても金がないのに借金までして立派な家を立てたり俺は事業の成功者だとして装い自分の所に病気のとき借金を要求して恐喝まがいのことをしてくる最悪なのは「金をくれ」と来て本当に家捜して大金を失った。
頭の中が金しかなくなっているのである。同情もなにもない、昔の日本人の義理人情もなにもモラルさえなくなくなっているのはそれは近代化して文明化して起きてきたことなのである。

そういう自分もこの現代文明にとりこまれている。アメリカの株のようなものでもうけて外国の国債を買ったりしてもうけているのかとなる。
それは世界がそういうシステムに誰でも否応なくとりこまれているということである。
そこで損したり得したり大きな格差が生まれたりと矛盾してくる。
アメリカで富が何パーセントかに集中していあとは貧乏だというのもおかしな話なのである。
そうした世界の矛盾が何かの拍子で一気に崩壊することがありうる。
そうした矛盾が神が許さないからだともなる。
それは世界的だから世界的崩壊につながる恐怖がある。
いくら金を貯えてもそれが紙切れになることがありうるからだ。
現代の宗教とはフリーメーソンとかユテリニアンとかむずかしいものではなく一部の知識人や技術者が指導しているというのでもなく世界の人がそういう意識になっている。
世界が共通した思想であり意識をもっている。だから背後からフリーメーソンが指導しているとか関係なのである。
すでに世界の人が中国人でもアフリカ人でもそうしたグローバルな世界経済の中に資本主義の中に組み入れられているのである。エジプトの果てまでロバに乗った少年が一ドルくれとかなる。そんなところまでアフリカの部族までドルが通用していることでもわかる。それはとりもなおさずアメリカが世界を支配しているともなる。

●原発事故は科学技術信仰の文明崩壊現象

原発事故を考えてもこれもやはりユテニリアンの思想の崩壊だったのかともなる。
現代の共通の信仰は科学技術だということである。合理主義とか金が第一とかもそうである。それは普通の庶民でもそういうふうに現実日々生活で実感して実行している。
だから映画では核を信仰の対象にしていた。
核というとき原子力はいい核で核兵器はそうではない、人類に役立つとか思っているがこれもコインの裏と表なのである。
つまり科学技術信仰であり科学技術が人間の理性が信仰の対象である。
それはとりもなおさず人間の力の信仰なのである。神はもはや存在しないということは科学技術が信仰の対象となる。
科学技術がもう人間が死なない命をもつとかまでなる。
科学技術があらゆるものを人間の問題をすべて解決されるとしているのが現代文明なのである。
それはフリーメーソンが指導しているとかユテリニアンの思想だとか隠されたものでもなく文明人はみんなそのようにして現実日々生きている。
ただ病気でもすべてが科学の力で解決しないから宗教に頼ったりするが現実は科学の力を信じている。いづれは科学技術が解決してくれるというのが信仰になっているのである。カルト宗教団体でもそこに医者がいて科学者がいれば権威をもてる。
世界では今やキリスト教でも仏教でも一番権威をなくしたのは僧侶階級なのも共通している。

科学技術のように実際の社会でご利益を与えないからそうなる。
ユテリニアンはカトリックの僧侶を嫌悪していたというのもわかる。
神の権威を元に威張っているだけで何もできないとなったのが近代なのでありそれは正しいことでもあったからだ。
つまりユテリニアンの思想の方が宗教によって自由を拘束されたものから近代は解放されたのである。
アメリカは特にそうしたヨーロッパの宗教支配から脱する新天地だったのである。
でもそうした近代も原発事故で科学技術信仰の崩壊現象として起きたとも言える。
その信頼はもろくも崩れさったからである。
この辺の津波や原発事故の後の荒廃は何を意味しているのか?
それはまさに文明の崩壊現象として起きているとしかいいようがないのである。
何か原発は神殿でありその神殿は崩壊して住むこともできなくなった。
その回りは荒れ果ててしまった。それはマヤ文明とかとにている
森の中に神殿が放置されてて謎のマヤの文字が残りなぜそうなったのか謎となる
科学技術信仰が崩壊すれば実際にこんなふうに荒れ果てた地域となるという見本がこの辺なのである。

●科学技術文明の崩壊
●理性理神論の崩壊
●グローバリズム資本主義の崩壊

この辺でと確かにこういうことが起きたのである。グローバリズム資本主義というときなぜコミニュティまで破壊されて補償金で分断されているというのもそうだし
金を第一にすれば一億円もらえるなら別にどこに住んでもいいということであり外国でもいいとなる。それはとりもなおさずコミニュティとか人の絆とは関係ない社会である。
それよりも金が大事だとなり若い人は去り老人だけが取り残されたとなる。
それは原発事故だから起きたというのではなく前から金が大事だとなるとき故郷とかその土地に縛られない生活を望んでいたとなるとそれが補償金で実現したともなる
すでに原発を作ったとき市町村すら政府とか東電によって買い上げられていたのであり
事故の後は放射性物質の廃棄場になることが予定されていたともなる
漁業権者でも漁業権を売り渡して巨額の補償金をもらっていたのである。
これはここだけの問題ではない、今の文明そのものの問題であり原発事故周辺に顕著に現実化したのである。
様々な現代文明の矛盾がこの辺に集中的に現れたのである。

福島第一原子力発電所の事故の原因の深層 (イリイチの「専門家時代の幻想を読んで)
http://musubu.sblo.jp/article/44433485.html
posted by 老鶯 at 02:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2015年08月15日

現代人はなぜ労働したくないのか? (jobでなく[lifework]を目指すべき)


 
現代人はなぜ労働したくないのか?

(jobでなく[lifework]を目指すべき)


働くこととを探求してゆくとこれも複雑なのである。
jobだと賃[手間]仕事をするとか半端仕事とかある。
workだと•one's life's work [lifework]であり作品の意味もある。
現代に増えた仕事はjobである。
作品をしあげるとなると江戸時代の職人はみんな一つの作品を仕上げるために精出していた。
だから下駄でも何でも作った人の名前がついたりしている。
今でも特殊なきれのいい包丁を作っている所が近くにあった。それには名前が刻まれていた。
名前か刻まれていることはそこに誇りがあったのである。
そこから職人気質とかが生まれたのである。
今は大量生産になれば作った人の名前など記されていない、誰が作ったかもわからない、もしかしたらロボットが作っているのじゃないかとさえ思う
大量規格生産だったらそうなる、大量に同じものを作ることになったからである。


そういうものは貴重なものではない、例えは江戸時代など簪(かんざし)などあるがあれも一本一本手作りで貴重だったろう。
戦前の十年後とかまでは物はないから何でも貴重だった。自転車だって一生磨き使っていた。
物は職人でも丹精こめて一つ一つ手作りで作っていたから貴重になりその材料も大量生産するほどないしわずかだからさらに貴重になる。
簪(かんざし)でも銀の材料が貴重だから産地の秋田まで職人が移動したとかも言われる。当時は簡単に材料でも運べないからそうなる。
職人はすでにその仕事自体はone's life's work [lifework]であった。
そういう仕事をしている人は今の人の仕事とは全く違った意識をもっていたのである。
まさにwork(作品)を仕上げることが仕事だったのである。


現代人が豊かでも物があふれても何か満たされないということもこれも過去の比較でみるとわかりやすいのである。
まずこうして[lifework]として仕事をしている人はまれだから仕事はただその場稼ぎというか賃金を得るためのものであり生きがいを見いだせないのである。
自分にしても能力かないから若いときから流れ作業のような仕事しか与えられなかった。それ以来仕事を嫌悪するようになり仕事していないのもそのためである。
現代ではまず生きがいある仕事をできる人は特別な能力がある人しかなれない
ほとんどの人があとはロボットのような大量生産の部品を作る人になるしjobになる。
ともかく仕事はその場限りとかではなく本当は[lifework]になるとき仕事なのである。
だから昔の職人は技をみがくために一生努力する、現代ではその場限りなら技を磨く必要もないし何か仕事に上達するとかもない、その場限りで手間賃を得るだけだとなる
そうすると仕事に生きがいをもていなから仕事したくないとしてニートとか働かない若者も膨大に増えたのである。
それだけの余力が家にあったりするからそういうこともできるのが現代である。


自分の庭を作ってくれた人はそういう職人だった。大工でもあるし庭作りもできて一人親方になっていた。何でもできるから驚いた。でもそういう能力がある腕が良くてもやはり金がたりないと別なブラックな仕事をしていたのである。
今の社会はそれだけきりなく金が必要になる。それだけ贅沢を求めてきりない社会なのである。
家を建てている人は借金している人が本当に多い、借金してまで贅沢をしているのが現代なのである。
生産社会だったのがこれまでの物を大事にする社会である。もったないの社会である。
それが物がないからであり大量生産できない社会だからでもあった。
物があふれれば物は貴重でなくなる、だから簪でも江戸時代なら貴重でも今ではそうはならない、そうした物の価値も時代によってまるで変わってくるからである。

現代でもそうした職人とかは受け継がれている、エキスパートとかスペシャリストとか専門家がそうなるだろう。そういう人はやはり貴重であり価値ある人となる
でもそういう人になれるのは極まれなのである。
そういう人は別に農業でもいる。農業のエキスパートで成功している人もいた。
浪江の人で野菜作りに優れていて平(いわき)に売って財を成して子供を三人も大学に出した人である。その人は賞ももらっている。
野菜でもネットなどで販売している人では名前を出してその人が作ったものとして売り出しているがそれは昔の職人とにているのである。
だから現代でもそういうことは受け継がれているのである。


宅配とか、自販機の飲料水詰め込みとか
よくあんな仕事やれんなぁ〜と思ってる漏れの仕事(IT土方:夜間オペもやった)も

他人様から見リャ、よくあんな奴隷みたいな仕事やってんなぁ〜という目で見てるんだろねw


確かにこういうことが多いから仕事したくないという人が増えたのである。
自販機などは機械化して手がかかってないようで詰め込む作業を見たら種類が多いから結構な仕事になっていた。なかなか今の仕事は見えないから苦労がわからないのである。


自分は家事が仕事だからゴミだすのも一仕事なのである。するとゴミを投げるからゴミをもってゆく清掃車を見ている。あの人たちもゴミを運んでいるからあれも結構重いから楽じゃないなとかみる。
一つの仕事としての連帯感をもったのも奇妙である。
やはり同じ仕事している人は共感を持つということになる。
そしてあの清掃車の仕事でも市町村を支えているという実感をもった。
なぜならこの辺は人手不足でありみんな補償金とかもらって働かない人が多いからであるこの辺でそうして働かないとゴミすら運ぶ人がいないと市全体で困ることになる
一見そういう仕事はしたくないとなるがそれがするものがなくなったときどうなるのか?
市がもはや成り立たない運営できない、住むこともできないとまでなってしまうだろう。外国とかストライキがあってゴミが街に散乱したことがあっことでもわかる。


原発事故では何かそうした市を町を村を誰が支えるのかということが問題になった。
働き手の若い人がいなくなればゴミを運ぶ人とかまでいなくなればもはや市町村も運営できないとなるからだ。
こういう場所ではまた仕事の意味も違ってくる。でも働かない人はこの辺では老人も多いこともあるが補償金もらっているから他よりずっと多い
それでどこも人手不足になっているからまた事情が違ってきたのである。
だから俺たちの住んでいる市町村で困っているのに働かないということはそこに住めないとまでなる。
そういう危機的状態になれば今までのようにしてはいられないはずなのである。
金があるから働かなくてもいいとかならない、年金もらっているからいいともならない
第一年金暮らしといっても金があっても働いてくれる人がいないなら老人の暮らしも成り立たないのである。
病院でも介護でも働く人がいなくなれば金があってもサービスは受けられないのである。


だから避難区域では現実に帰りたくないというとき働く若い人がいないのだから老人だけ帰っても暮らせるかとなって問題になったことでもわかる。
働くことが端を楽にするというときまんそれは狭い範囲でみた労働感である。
つまり身近な家族でも苦労して働いているから楽にしたいという気持になる。
それが小さな市町村だと家族のようになりそういう意識がこういう緊急事態では生まれた他でも老人だけの村がスーパーも運営できないと自ら働かざるをえなくなったことでもわかる。少子高齢化ではそうなりやすい、人手不足が深刻になるからである
働くとは身近で感じたことであり今のように外国の人が働いて物を運んでくるということなどない
だから働くという目的とかがはっきりと見える社会だった。
今は一体誰のために働いているのかなどわからない、外国の品物が入ってもそれは誰のために働いているかなど関係ないのである。金になればいいとしかないのである。


一方で医者とか看護師とか介護関係などは直接人と接する仕事だから誰のために働いているから明確である。働く相手は現実に向き合う近くの人間だからである。
だからそういう仕事は嫌な面があっても生きがいが生まれる
だからいつも医者とか看護師とか介護士でも感謝されるのである。
品物を作って人とかコンビニとか他にも何か働いても感謝される仕事は少ないである。
ともかく現代は働けといっても働くことが嫌悪される社会なのである。
誰も今や家事なとしたくない、その女性の生きがいはわずかの狭い畑で農業することであるそこで生産するものはほんのわずかである。趣味にすぎないのである。
農業自体は実は苦労があってもまさに実りがあるからそれで働く喜びがある。


でもそういう仕事は一面金にならないし趣味でありかえって金がかかっているのである。でもそれが生きがいだから仕事している、つまり金になって生きがいになる仕事は現代では少なすぎるのである。
だからみんなjobとなりプロフェショナルになはならないのである。
そういうスキルもなにもいらない単純仕事は機械化される、ロボットがするようになる。でも農業などは複雑であり機械化できないのである。
人間の仕事がなくなることなどありえないのである。

株などでも大金が入っても金が入ってもそれ自体では生きがいになはならい

ただそれを消費することが生産に通じることはある

その金で有益なことに消費すれば生産になる、花を高いけどフラワーアレンジメントすれば美を作り出しているとかなる。


ともかく若者はjobではなく若いときから[lifework]をもつべきだとなる
それは趣味の分野でもそうでてある。才能なくても積み重ねてゆけばそれなりのものになる
雑学の分野だってそうである。何度も言うが時間を費やしたものがその人の人生なのである。そして時間はすぐに切れてしまうのである。
人生はつくづく遊ぶ時間すらないものだった。お前はそんなに遊んでいたじゃないかというけどそれでもそれもあっというまに過ぎてしまったとなる
おそらく何をしても人間の時間はたちまち過ぎるということである。
一つの楽器に習熟するのにも一生もかかってしまうのが現実なのである。
何事でも一万時間をかければそれなりのものになる。
いくら天才でも第一与えられた時間は増やせないからである。




 

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posted by 老鶯 at 02:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題