2015年07月25日

北郷の本陣に相馬藩の殿を迎える(野馬追い写真)



北郷の本陣に相馬藩の殿を迎える(野馬追い写真)



北郷の本陣に殿を迎えける法螺貝ひびきて威を正すかも

大将の赤き母衣(ほろ)の一段と映えて青田を進みけるかも

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先陣の馬が走る

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大将の赤き母衣(ほろ)の一段と映えて青田を進みけるかも
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北郷本陣へ

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本陣へ総大将が来る

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中村神社(相馬市)

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北郷と宇多郷の行列



北郷の館の海老原さんは副大将であり紫の衣だったが写真はとれなかった

総大将の殿様の赤い衣だけが目立つ

戦国時代はやはり殿が中心となってまとまっていたからか

中心として総大将の赤い衣が一番目だつ、副大将の紫の衣があっても目立たない

本陣に殿を迎えるときも主役は総大将の殿様なのである。

総大将を中心にして家来が取り囲み守る

だから戦国時代は殿様の総大将の首がとられたり戦いは終わるのである。


明日は雲雀が原へ神旗争奪戦へ

500頭は普通は出る


posted by 老鶯 at 16:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

野馬追い始まる (北郷の武者の集まる館)



 野馬追い始まる
 
 (北郷の武者の集まる館)

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北郷の郷士集まる館

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五輪塔で同系統で同じ村だろう

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 北郷の郷士集まる館かな

 鬼百合や列に加わる旗印

 振り向きぬ同類の旗誇らかに

 草青し旗をなびかせ馬の列

 集まれる館や馬のいななきぬ
 
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野馬追いというのは野馬追いの行列がはじまる前から見ないとわからない、
それぞれの郷があり郷士がそこからでる。
今日は中村の宇多郷と北郷が合流して鹿島区で行列がある。
これはそんなに馬が出ないから迫力はない。
 
でも野馬追いというのはどこからその馬がでてくるのかその旗印はどこから出てくるのかが大事なのである。
それが地元でもわかりにくいのである。
なぜなら年に一回しかなくどこから馬がくるのか見えないからである。
今回は五輪塔の旗が二騎つづいてきたのでこれは同じ系統の旗であり同じ村のものであるまずこういうふうにとれることがなかなかできないのである。
野馬追いは旗祭りだというときその旗がどこから出るのか大事になる
でもそれがほとんどわからないのである。
行列になったときはすでにその馬がどこから来たかわからないのである。

北郷の郷士の集まる館は海老原さんの家である。そこに宇多郷の人も集まり行列になる。ここの写真の旗印はみんな北郷のものである。
ここに宇多郷の騎馬が集まるとどこの旗印だかわからなくなる。
この旗印を見分けるのが野馬追いではむずかしい。
地元の人でも旗の数が多いからわからないのである。
そして写真でもそれが一瞬のチャンスしかないから写真もとれないのである。
去年までは復興の野馬追いで盛り上がったがまた平年並になるのか?
去年までは草茫々だったが原野に草原になっていたが今は青田もあり半々の景色になっている。

野馬追いはもともと相馬藩の郷士であった人しか原則的には参加できない
誰でも参加できないということで地元でも他は見るだけだから盛り上がらないともなる
参加できる人は確かに侍の出だということで誇らしいとなる
だから野馬追いに金がかかっても出るとなる。
やはり何か侍になったような気分になることは確かだし戦国絵巻の再現である。
その時代だったら何か戦争というのも現代の戦争とは違い人間的だった。
今の戦争は人間が戦争しているのか機械が戦争しているのかわからないからである。
野馬追いの時だけ馬が活きるというのも祭りの特徴である。

なんか野馬追いを外部の人に説明するとなるとまた違ったものとなる。
自分のプログも報道機関の一つだから説明しなければならないと写真をとってきたのである。
地元の報道機関になるとやはり取材があり何かを伝えるという作業である。
それは自分なりにしてきた。
それで相馬のことも他でも理解される一端とはなる。
それはある意味で自分の仕事だともなる


posted by 老鶯 at 12:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

人間は何であれこの世に生きていれば連帯責任 (自分は手を汚さないでも戦争でも加担することになるー自衛隊にすべてをまかせることはできない)


人間は何であれこの世に生きていれば連帯責任


(自分は手を汚さないでも戦争でも加担することになるー自衛隊にすべてまかせることはできない)


●自分が手を汚さなくてもやはり殺すことに関与している

猫は子を産みすぎるから捨てる人も多い、オーストラリアで200万頭の野良猫を殺すというのもそのためである。
猫は繁殖力が強いからそうせざるをえない、例えばの話、猫の子を捨てるのを金で頼んだとすると頼んだ人は金を払っただけで手を汚していない
でも実際は間接的にかかわっていて汚れているのである。
これと同じように豚であれ鶏であれ牛であれたいだいその屠殺には関係していないのが現代である。
だから現代では屠殺の現場を見ている人はいない、でもやはり誰かが屠殺して肉にしているのである。
屠殺場を作ることを反対しているが豚肉を食べたいとなればどこに屠殺場を作らざるをえないのである。
それが近くにあったときいつもそこを通るから嫌だった。
今はなくなったけどなぜかそこが屠殺場だったという記憶があるからその嫌な記憶が消えないのである。
そこで豚が殺され続けたというときその土地があまりいい感じがしないだろう。
今は福祉の施設になっているから知らない人もいるだろう。
そこには何か土地の因縁というものが残る感じがする
そういう場所には住宅を建てたくないということもある。
それは理屈ではない、何となく嫌だということをさけることができないのである。
自殺があった家やアパートの部屋が住む人がいないとか安くなるというのはそのためである。

人間がなんでも今は直接的にかかわらないことが多い、毎日買う商品そのものがそうである。
どうしてその商品が作られてきたのかわからない、ただ金を払えば手に入れられる
その商品を作るのには豚肉でもやはり豚を屠殺してそれを加工している人がいるのであるそれはあらゆる商品がそうである、中国の鰻はなぜあんなに安いの?
それは太らす特殊の薬を使っているという、なぜ肉厚なのが不思議だったがそれは薬で太らせていたとなると食べる気がなくなった
何らか体に影響してくるからである。
食品の場合はそれが作られ過程がわからない、何かいろいろな薬品が入りすぎるのである今の社会は直接知るということが少なすぎるのである。
極端な貧乏を新聞とかでとりあげたとしてもそれは極端でないと注目しないからとりあげる
でもその真偽はわからないしたいがい嘘だろうとネットで言うようなっている。
自分もそう思う、そんな極端な貧乏は注目をひくために出しているのである。
それもその本人から直接話を聞けないからそうなっている
だからマスコミから出る情報はやらせがあり真偽を見極めにくい

人間が自分が手を汚さなくてもあらゆるものに関与しているというとき
それはいろいろな分野にある。
サラ金きか消費者金融のバックに金を出していたのが銀行だったというのもそうである。サラ金が暴利でもうけていたが銀行ももうけていたのである。
でも銀行は面に出てこないしきれいなものだとして社会から見られている
実際は銀行もブラックだったのである。
「みんなブラックじゃねえか」ということを自分は前に書いた
自分が手を汚さなくて間接的にブラックなこの世とかかわるからそうなる
アメリカの投資で自分がもうけているというときもそうである。
自分は株を直接取引していない、頼んでいるだけだがやはり株でもうけているとなると
資本主義の恩恵を受けているとなる

●自衛隊に金を払うから戦場で死んで戦いというのもそうである

人間でも人殺しを金で頼んだりすることが推理ドラマでは常にある。
地位があり権力がある人は自分の手を汚さないで殺人を暴力団関係に依頼したりする
それは直接的に手を汚さないのだがやはり殺人に関与している
例えば最近の防衛論議でもそうである。
自衛隊には十分な税金を払っているのだから戦場で戦ってもらって死んでもしょうがないとなる
税金で食べているのだから死んでこそその勤めを果すのが自衛隊だと極端に言う人もいるつまり自衛隊の仕事は戦場で死んでこそ意味あるものだとなる
ただ訓練ばかりしていて何になるのだとなる
そんなら楽じゃないかとなる
でもこれも地位とか権力がある人が暴力団関係に人殺しを頼むのとにていないか?
自衛隊は暴力団ではないにしろにているのである。
「お前らに金やるんだからいざとなれば戦場に行き敵を殺せよ」となる
そういうことが意外とみんなが肯定しているのである。
本当は戦争で人を殺すためとなると徴兵制の方が公平である。
なぜなら誰かに戦争を暴力団のように頼むことではなく自ら引き受けることになからである。
そうでなければ国となると大きいから守れないからである。
つまり国民自身が手を汚さなくては守れないのである。
誰かが手を汚さずに守ってくれるというのは虫がいいとなる

そもそもなぜそういう汚いことに人間がかかわるのかというと人間には肉を食いたいという欲望がありそれで誰かが豚を殺さざるをえない
その人間の限りない欲望が誰かを豚を殺さざるをえないようにしむけているのである。
みんな豚肉なんか食べたくないとなれば誰も豚を殺す必要がないからである。
でも豚を殺すのでも牛を殺すのでも自分はしたくないとは言える
他の人もそうしたら肉は提供されないということはある。
でもまたこれもそうした屠殺にかかわる人もやはり仕事がないとかなれば誰かがすることになる。
代わりで殺人する人も嫌でも金になるということでするからこれも欲望のためである。
原発でもそんな危険なものいらないとは簡単に言えない
なぜならみんなが電気を必要としている、暑ければクーラーがなければいられない
今は特に温暖化しているから余計にそうなったのである。
クーラーが最高の効果があるからである。
電気は今は石油が主だけど石油だって相当危険な場所、紛争が絶えない、戦争している中東にとりにいかなければならない、そんな所に自分は行かないからいいやとはならない
誰かがその危険を引き受けているから石油が手に入り楽しているのである。
そういうことは常に現代の便利な社会にはある。
ただ直接的に手を汚していない、危険にあわないから金さえ払えば電気が使えるとなっているのだ
結果的に原発事故がありこの辺では甚大な被害となったのである。
それはここ住んでいる人たちの欲望も深く関係していたのである。

●戦争を否定するのには豚肉を食べないような覚悟が必要

現代は便利さを求め欲望がかぎりなく肥大化したのである。
豚肉を食べ、鶏肉を食べ、牛を食べ・・・あらゆるものを食べる
そのためには間接的にでも実際は豚を殺し鶏を殺し牛を殺しているのである。
それが現代では意識しにくいから感じないのである。
でも豚肉を食うなとか牛の肉を食うなとは誰も言えない
それが言えないのは人間の欲望が否定できないからである。
この世のことはあらゆることが関係ないではすまないしかかわっている
本当は自分だけが安全地帯にいることはできない
戦争は自衛隊にまかせればいいとかはなりえない、なぜなら戦争となれば国全体の問題になるからである。
つまり自衛隊員でももう戦場に行かせられるならやめたいという人が増えるというとき
殺人で手を汚したないからそうなる。別にやめてもいいからである。
ネットウヨが率先して戦場に行けよというのも正論なのである。
それだけ口で勇ましいことを言っているのだから実際に戦場で戦ってこいとなる。
いざ戦争となったら自衛隊だけでは絶対に守れないのである。
要するに戦争といってもそれは現代では日本ではゲームのような感覚になる。
戦争を実感するのは実際に戦場で人を殺したときだろう。また殺された人を見たときだろう。
戦争した人が戦争だけはしたくないというのはそのためである。
何らかの罪悪感をいだかざるをえないからである。

とにかく集団的自衛権であれ自衛隊が海外の戦場にゆくことは海外で人を殺したりしたらそれは日本にいる一般の人も実際は手を貸しているということである。
自分たちは海外のことは自衛隊のことは知らないとはならない
金を税金を出して自衛隊にやらせるとなってもそれは人殺しを金が頼むとんのと同じなのである。
ではお前は国をどうしけ守るんだ、九条で平和ばかり念仏のように唱えて守れるのかとなる
その前になぜ戦争が起きるのかということを考えねばならない
戦争をさけるということを世界の国々で計らねばならない
そんなことはお人好しであり中国であれロシアであれ攻めてきてたちまち国民は蹂躙されて奴隷にされるのが国際社会の現実だともなる
でも世界の歴史で軍事力で世界を支配できたかというとできなかった。
それはモンゴルのように一過性で終わる
ただ戦争を否定しようとしたとき左翼のように9条を守るというだけではできない
豚肉を食べたいという欲望をなくすようなことが必要になる。

原発事故でもそうだった、それも人間の欲望と深く関係していたからである。
つまり原発反対のデモに行った人が帰ってきて暑くてどんどんクーラーび冷やしてくれと言うのも矛盾なのである。
結局9条を実行するとなると宗教のように無抵抗主義になり人は絶対殺さない、殺すなら殺されてもしょうがないとかなるかもしれない、そこまで覚悟せざるをえなくなる。
ただ世界史では強い国が勝つとは限らないのである。
それを証明したのがベトナムだった。アメリカはベトナムに勝つことができなかったのである。強いということは必ずしも軍事力があるということでもない
聖書では軍事力ではない、神に頼って勝ってきたのである。
だから何らかそこに神の関与があったとなるのである。
つまり戦争でもあまりに不条理なことモラルに反する国が一方的に他国を蹂躙できるのかとなる。それはやはり神が許さないとなり神の関与があるとなる
この世のことはなんらか神の関与がある。原発事故も津波とかで神の怒りだったのかもしれない、原発は何か神を怒らせるもので呪われていたのである。




 
タグ:自衛隊
posted by 老鶯 at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層