2015年07月19日

涼しさ(今年は秋が早いかもしれん)


涼しさ(今年は秋が早いかもしれん)

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涼しさや水無し川の今日流る
涼しさや青竹伸びて流る音
川の瀬の音を聞きつつ橋に合歓
ノウゼンに夕日のさして虫一つ
ノウゼンに夕焼け映えて今日の暮る
山の影夕べ涼しき月と星

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今日もかなり暑かった。32度くらいにはなった。クーラが前の部屋にあったので試してみたが壊れていない、これも20年前とかかもしれない、古いものだが意外と壊れない、
このクーラーは20万とかしたから高いのである。
それで古いから電気を食うと思った。でも長い間使っていて壊れないしまだ使えるということは今では貴重に思った。
その部屋には液晶テレビになる前の重いテレビがあった。
液晶タイプにする前でありそれがもう動かせないほど重いものである。
それも最新式だったがそれから軽量化したからあまりにも違いすぎて使いものにならない技術が進歩して使いものならないものとさほど変わらず使えるものがある。

洗濯機でも冷蔵庫でもクーラーなどはまだ使える、クーラーは古いと電気料が高くなるから問題である。
今なら10年も使えるとしたらもうけものだとなる。
その他のカメラとか電子機器は変わり方が激しいからである。
こっち日新月歩なのである。


水無し川はどこにでもある。今日は水が流れていて涼しい
青竹が伸びて水の流れる音が聞こえる
日本の川は瀬音が気持ちいいし涼しいとなる
浅い流れだから仙台の広瀬川でもそしうだし原町の新田川もそうである。
真野川は瀬音があまりしない、ただ長いという川である。
川で良かったのはやはり浪江である。二つの川がありこの辺では一番いい川だった。
それで詩も残されたのである。


ノウゼンに夕焼けが映えて暑い一日が終わった。
そして夕月と星が出て涼しい
どうもこの涼しい感じも今年はこの辺で終わり早めに秋がくるかもしれない
これからまた梅雨の曇りになるからだ
暑さのピークは過ぎたかもしれない
何か体がぐったりして弱った、食欲もない、でも明日からは曇り気温も低くなる
だから意外と夏は早めに終わり今年は秋が早いのかもしれない
今年は暑さが早めであったがそれも終わり秋が来るのかもしれない

とにかく今年の気候は変則的でわからないことはいえる。
やはり確率としては7月までは暑いとしても8月からは低い割合が多くなる。
琴氏は残暑もそれほどでなく早い秋が来るのかもしれない
するとクーラーもいらないとなると楽である
すでに夏ばて気味になっているからである。


タグ:涼しさ

男性的なものと女性的なものの探求 (岩と甘い声(詩)


 
男性的なものと女性的なものの探求

( 岩と甘い声(詩)


岩と甘い声

a rock and sweet gentle voices

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その女性の声は甘くやさしく
我が心にひびき癒される
大輪の花のように
悪びれることなく
馥郁と香りを放つ
その声は若々しく
新緑が風にそよぐように
その中に小鳥は伸びやかに
さえづりは森にひびきわたる
その余韻は森に木霊する
一方一つの古びた岩は
冬の寒さと雨の冷たさ
唸り吹く風の冷たさ
その辛さを語る
年老いて刻まれた深い皺
老人のように語る
人生の織りなす四季
人はこの岩を見ず
美しい花と甘い声を求める
岩は何を語るのか
岩は風雪を帯びて
威厳のある相貌
人生の辛さを耐えた沈黙
それもまた森に不可欠なもの
女性と男性に別れた性
自然もまた二つに分かれる
女性的なものと男性的なもの
その二つがありて調和する
妙なるハーモニィを奏でる



女性と男性は永遠に神秘である。そもそも人間は女性を男性は体験できないし男性を女性は体験できない、だから相互にわかりあうことがむずかしいとなる。
男性は子供を産めないし産む経験がないのだから子供を産むということが根本的に理解できない
快楽でも男性と女性は根本的に違っている。
そこに必ず行き違いが生まれるから離婚が三分の一とかになる。

ヨーロッパ系の言語がフランス語でもイタリア語でもドイツ語でもスペイン語でも男女を別にしているのはなぜだろうとなる。
自然を男性的なものと女性的なものとして分けて見ていた。中性というのもあるが男性的なものと女性的なものと分けた。
中国は陰陽に分けた。それはやはり動物だと雄と雌がいて成り立つように世界が作られていたからである。
猫でも雌より雄は外を出歩くというのも何かそもそも動物と人間はいろいろな面でにているのである。
それはペットとして飼うとわかるのである。
男性的なもの女性的なものというとき別に男性だから女性だからというのではなく
男性の中に女性的なものがあり女性の中にも男性的なものがある。
草食系男性とか肉食系女性というのがいるし女性的なもの男性的なものが実際に明確に別れるものでもない

でも一般的には女性なら癒し的な要素が大きく男性は闘争的とか逞しいとか強いのが男性である。
でも男性でも女性的な側面は内面的に精神的にもっている。
それも個人差が大きい、自分は何か女性的であり男性的に強さに欠けている
芸術家でも男性的タイプと女性的タイプがあり作品に現れている。
そもそも人間はもともと一つでありアダムの肋骨から作られたのが女性である。
だからこそ男性と女性は一体化しようとするのである。
もともと一つのものが二つ分かれたのだから実際は別れても一つなのである。
肉体的にも男性にも女性となり女性も男性となる作りがあるのでもわかる。
肉体という面だけが強調されるが精神的な面の相違も神秘である。

その女性は不運だった。結婚して障害児をもち、離婚して貧乏がつづき、苦労の連続でふけてしまった。
もともと見栄えが良くない、岩長姫だった。
ただ苦労しているから話は面白い、同世代だから話が合うとういことはある。
それはこの女性だけではない、そもそも女性だと若い時は余りに違うし別人のようにさえ思うだろう。
女性の華は若いときである。でも今は40でも50でも60でも若くなっている
それは男性にも言えるし個人差も大きい、
老人になると生気が衰えてくる、若い人には生気がありそこが根本的に違っている
だから老人は若い人と接すると若い人の生気を受けるからいいとなるが若い人でもいろいろいるから全部がいいというわけではない。
ただ女性というと肉体的なことにだけ注目するが声も大きな要素である。

それでホメーロスの『オデュッセイア』でセーレンの声に魅了されてしまう神話は何か生々しいのである。
それが肉体ではなく声だったことなのである。
人間は肉体ではなくても延々と女性的なものにひかれているのである。
そして人間の求めているものは心地よいもの快なのである。
何か性でもうまいものを食べたときでもそれが心地よいものとして脳に記憶されて消えないのである。
そしてその快楽をまた味わいたいというなる。
だから老人になってもたとえ肉体的なものでなくても老人が女性を求めることは変わりない
近くでイタリアンジェラードというソフトクリームを売っているけどこれもうまいから高くてもやめられなくなった。
快楽はつくづく食べ物でも中毒になるのだ。誰も苦しみを求めたりしない、それはやむをえないものとしてある。
だから麻薬ても快楽は脳に記憶されて習慣化されやすくたつことができなくなる。
それは別に麻薬でなくてもこのソフトクリームを毎日食べたくなったことでもわかる。
脳に快楽として記憶されたものはまた同じ快楽を味わいたいとなるのである。


いづれにしろ詩とか芸術になると女性ぬきでは語れない、だから詩となると若い時は恋愛詩になる。でもこれも浅薄なものとして終わる。
ダンテがベアトチェーリに憧れたということはわかる。
女性だとどうしても花に例えられる。岩とか男性に例えられる
花をテーマに自分がしたとき自分は女性的だがまた同時に石や岩もテーマとしてきた。
芸術になると理想は男性的なものと女性的なものの両方があるといいがどうしてもそんな性格をもつ人はまれである。
人間の個性でも限られている、あらゆる面をもつ人などありえないのてある。
それはまさに神のようになってしまうたろう。
ただ詩となると自然と人間も不可分に結びついている。
小説になると自然より人間中心になるが詩となると自然と結びついたものとして表現する自然から離れると人間だけだと芸術はそもそもありえないのである。



ホメーロスの『オデュッセイア』に登場する。オデュッセウスの帰路の際、彼は歌を聞いて楽しみたいと思い、船員には蝋で耳栓をさせ、自身をマストに縛り付け決して解かないよう船員に命じた。歌が聞こえると、オデュッセウスはセイレーンのもとへ行こうと暴れたが、船員はますます強く彼を縛った。船が遠ざかり歌が聞こえなくなると、落ち着いたオデュッセウスは初めて船員に耳栓を外すよう命じた。ホメーロスはセイレーンのその後を語らないが、『神話物語集』によれば、セイレーンが歌を聞かせて生き残った人間が現れた時にはセイレーンは死ぬ運命となっていたため、海に身を投げて自殺した。死体は岩となり、岩礁の一部になったという。しかし声だけは死なず、現在でもある時期になるとセイレーンの歌声が聞こえ、船員がその声を聞いた船は沈没すると言われる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3


 
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