2015年07月17日

経済学とは経世済民(日々の生活のであり一番身近なもの)


経済学とは経世済民

(日々の生活であり一番身近なもの)


「経世済民」

 経世というのは「世を治める」の意味です。「済民」は「民を救う」という意味です。世を治め民を救う、この4文字の言葉から「エコノミー」は「経済」と訳したらどうかということになり、そのまま経済という言葉として定着しました。

大学で経済学部を専攻した。でも自分はそもそも勉強が嫌いであり学校に適応できなかった。受験の勉強であり勉強が好きになれなかった。
だから勉強とは常に試験とかで強いられたものであり暗記であり高校まで自分で考えたことがない、ところが学問とはそもそも学び問うというように何かの問いがありそれを解決するものとして生まれた。
この世に生きる限り様々な疑問が生まれてくるからである。
今や文明生活は複雑であり疑問だらけでありその全容を知ることはできない
「なぜ3百万人も死んだ戦争があったのか?」
これも深刻な問いでありその明確な解答などないのである。
「なぜ人間は死ぬのか」
これも人間にとって個々人にとって最大の問いになる。
それで求道になりその問いをの答えを求めるのが人間である。
そしてその問いの答えは必ずある
だから真剣な問いがあることが学問のはじまりである。
学問というとき問い学ぶとあるが学ぶはまねるでありそのまねる、暗記だけだと学問は嫌になる。
簡単な算数でも今になると暗記でありそれをいろいろ考えて学習すると勉強好きになった算数を数字だけで抽象的に考えているとわかりにくいのである。
子供の学習で像から考えろというとき、一、二、三・・・と数があるときそれを具体的なものとして一個二個三個として図形として数字をとらえるとわかりやすくなる
数字は極めて抽象的なものだからとらえにくいからである。

そしてでは経済学とは何なのだろうとなる。学問は現代では様々な分野に分化してしまった。学問は学び問うが基本であり問うとはやはり哲学でありギリシャの学問が哲学であり問答形式になっていたことでもわかる。
経済学にしても商学部とか経営学部もあり分化している。
ただ経済となるとより一般的になり総合的になるから哲学的にもなる
商学部とか経営学部は実用的なものとしてある。
経済学部とは何か宗教にも通じている。世を治めるというとき宗教もそうだからである。資本主義がそもそも修道院から生まれたキリスト教のモラルから生まれたというのもそのためである。
仏教でも勤めというのはまさに仏に勤行をあげるとかが勤めでありそれが一般社会にも勤めるとなり働くとなった。
自分は今になると学問好きだったと思うようになった。
ともかく自分は考えることが好きなのである。何か実践することは苦手である。
だから実業家とか政治家とか現実社会で何か事業をしたりすることは向いていない
だから学者タイプだったのである。

経済学とはあらゆる分野に必要になる。根本的には経済とは何か、それはコストの問題があらゆることに最初に問題になるからそれが経済学なのである。

「エコロジー幻想ー武田邦彦)という本を例にすると

鉄道とバスと自動車を比べた場合、一人を一キロ運ぶエネルギーが鉄道は100、バスは178、自動車は595になるという。こんなに違うのかというのも意外である。
自動車は一人でも使うから効率的ではない、多人数を運べばバスの方が効率的になる

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田舎では一人一台車をもっているのが普通である。それは大量にエネルギー消費しているから都会より田舎の方がエネルギーを無駄にしているとなる。
それでコンパクトシティがいいというとき現代の便利な生活を維持するにはエネルギーでもコストがかかりすぎるからそうなる。
料理するとき湯で卵にするためにガスとか電気を使う、ガスだと5分とかであり電気だと10分とかになる。その時常に自分は無駄を感じていた。
つまり卵二個だけゆで卵することにそれだけのエネルギーを使うのかという実感である。なぜなら5個でも使うエネルギーは同じでありさらに十個でもほとんど変わらないからである。何かこれが田舎の生活がかえってエネルギーを消費しているというのとにている。都会だと人が集まっているから人間を卵に例えると百個でもゆで卵にできるとなる
それが毎日のことだから実感としてエネルギー消費を考える。
それは水道などでも同じである。一人風呂に入るのと五人風呂に入る水道の料は同じなのである。そこに水の無駄が生まれているのである。
現代は個々の暮らしが多くなったからこういうエネルギーの無駄が多いのである。
つまり車がエネルギーをそれだけ消費するのはゆで卵を一個を同じエネルギーで消費しているからである。バスだったら十人のせるが車は一人だからである。

それから太陽電池発電がこの辺でも原発事故以降いたるところに見られる
これも自然エネルギーだからすべてがいいというわけではないという。
それもコストの問題なのである。税金を投入しているから安いものではない、その設備投資でも保守するのにも金がかかる、これもコストの問題があり経済学なのである。
科学が技術だけの問題ではない経済学が関係しているのである。
つまりあらゆるものにコストがどれだけかかるということが常に問題になるからである。だから゛あらゆる分野で経済学が問題になる。
それはコストの問題が最初にあるからである。物を買うにしてもこれが買う価値があるのか、これだけの金を払う価値があるのかとかこの人を雇って価値があるのかとかコストの問題になる。それが経済学なのである。
オリンピンクの国立競技場問題もそうである。そんな大金をつぎこむ価値があるのか?
コストの問題がありそれでもめているのである。


原発事故でも経済学が関係していた。原発を建てるにば金がかかる、それだけの金を使う価値があるのかとなる。なぜそんな危険なものを作る必要が日本にあるのかとなる。
それはコストだけではない、アメリカの要請とか核兵器にするという裏の目的もあったのかとなる。
ただ東電の社長がコストカッターとして資材部から社長にのしあがったということでやはりコストが関係していた。
最初は高い所に原発を建てる計画だったのを低くしたのもコストのためだったのである。つまり安全を計ればコストがかかるからであり現実に津波の予想を東電ではしていたのである。
それをあえて津波対策の工事をしなかったのはコストがかかるためである。
これも経済的問題であり経済学だった。
この経済的問題はあらゆるところに生じる
日々の主婦のやりくりも経済学なのである。


介護問題にしてもこれも経済学の問題である。そもそも介護保険があるとしてそれは税金からでている。その金も膨大なのである。
確かに一日ディサービスでとまると5000円くらいとられる、でも現実は介護保険からその8倍くらいは出ているのである。もしその分をはらったら一日8万とかなると高級ホテルに泊まることと同じ料金がかかることになる
それで一カ月部屋が空いているから泊めたらどうかとケアマネジャーに言われた。
これまでは空いた部屋がないと思っていた。この辺では人手不足でもあるから実際そうだった
でも一カ月泊まりませんかというと空いているのだろう。
空いたままではホテルと同じように金にならないからすすめられた
一カ月15万は別に高くないのである。
ところがその15万は介護保険から出ると7倍8倍となったら百万にもなってしまう。
そういう計算をすると空恐ろしくなるのである。


別に介護保険から出るからいいじゃないかとなるがコスト的にはどうかなと疑問になる
なぜならその一カ月百万の金は税金だとすると個々人でも介護保険から払っているから実際は無料ではない、みんなして税金とて払っているものである
それで若い人にこうした保険料でも負担が多すぎるから健康保険でもコスト面で問題になる。国民年金でも若い人に税金の負担をかけているから問題になる。
税金をとったり払ったりすること使ったりすることも経済学なのである。
それが額が大きすぎるから何か実感しないが個々人でも月給からも税金としてひかれているのである。
高齢化社会とか介護とか医療には金がかけすぎるから政府でも何とか減らそうとするのはわかるのである。
それは自分の家の問題でもあるからよそ事としてではなく自分の問題として経済学がある経済学とは日々の生活のことであり学問としてむずかしいことではない
経済学は今ではグローバル経済になるとますます世界的なことも経済学としてみるようになる。
世界のことは関係ないとしていられないのである。アメリカに投資したらアメリカの動向や世界のことが常に気になってくるのである。
それは自分にも直接影響するからである。
経済学はまた倫理学である。昔だったら物を大切に使う、使い捨てなどしない、自転車でも高いから一生磨いて使うものだった。新しいものを買う金がないからである。
そういう貧乏な時代は何でも物でも大切に使っていた。

経済学はモラルの問題でもあるから「経世済民」になった。
医療とか介護とかも科学だけの医療技術の進歩だけでも解決しない
コストの問題がありそんなに保険を税金をつぎこんでいいのかとなる
それですでに国がつぶれるとまでなる、
ともかく物を今のように消費して使い捨てるとかの経済は成り立たなくなる
そんなに資源を無駄にするほど地球は人間に与えない
物を大切にするということはやはり経済学の基本でありモラルの基本なのである。
何でも新しいもの新しいものを求めるのも問題なのである。
今あるものを大事に使うというのも長く使うというのもコストの面でモラルの面でも必要なのである。結局そうならざるをえなくなる。
現代の消費生活はギリシャのように借金してまで贅沢するよう生活は経済学的にも破綻するということである。
医療とか介護分野でもそんなに金を使うことは経済の破綻になる。
何も介護など金をかけないでもできる。金を使えば個々人にも全体にも負担が大きくなり経済にコスト面で破綻してしまうのである。
やはり経世済民とは経済は世を治めることなのである。
何でもコストの問題が最初にありそれに納得してもらえれば世は治まるとなるからである現代とは税金の無駄が多すぎるからである。その税金が公務員に使われているとか不満が多いから世が治まらないのである。



タグ:経済学とは
posted by 老鶯 at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

認知症予防には家事をつづけること (高齢化は人類の課題として与えられた)


 
認知症予防には家事をつづけること

(高齢化は人類の課題として与えられた)


なぜ認知症になるのか?それを実際に認知症を家族として介護した経験からわかったことがある
一人は家事を90以上までつづけていた、一人は退職して何もしない、家事もしなかった。二人の女性を見ていたとき一人は家事をやらされて一人は何もしないのだから働かされている女性は高齢だし辛いとみるんいい役回りだとは見ない
家事もしないて三食用意される人の方が幸せだと見る
ところが人間の幸せというのは何が幸せの原因になるかわからない
人生で不幸が幸せの原因になることは良くあることである。
幸福ばかりの恵まれた人生がかえって仇になり不幸になることもある
土地もちの大地主の女性の姉妹が飢え死にしたというのもそうである。
財産があっても財産を管理できなかったのである。
もちろん金持ちだと常にその金がねらわられて殺されるということも常に起きている。
金があることはいいとしてもまたそれが不幸の原因になる
金がないこともまた不幸の原因になっていることは普通であるが金があることも不幸の原因になっていることもあるから何がいいのかわからなくなる

認知症の予防にはいろいろなことが言われる、そもそも原因が良くわからないからであるただ現実に認知症になった人をみているからその経験を基に書いている
一人は趣味もなにもなかったが家事を90以上までしていたのである
92才頃までしていて認知症になっていなかったのである。
一人は一緒に住んでいても家事をしなかった。
そして自分はいつも頭がいいと言って死ぬまで自慢していた。
それは実際に本当であり頭がいいし体も丈夫だったのである。
ただ退職してからは家事はしていない、怠惰になり何もしなくなったのである。
そのことをあまり重大なものとは見ていなかった
しかし死んでから5年とかすぎるとそれが大きな問題だったのである。

家事をすでに介護とかして7年間もしているが家事はいろいろな仕事がある。
掃除、洗濯、かたづけ、料理とか様々なものがある
金銭の管理もありこれもなかなか一仕事であり頭を使う
家事をすることはそれだけ頭を使うし手も体も使う仕事なのである。
家事はそれだけ全人間的な仕事なのである。
だから自分は家事をしていても料理を未だにできない
それだけの時間を費やすことができないからである。
そして認知症の予防には家事をつづけることだというときなぜか?
例えば冷蔵庫でもどこに何を置くとか分類整理することが一仕事になるし
それが記憶力とかなり関係していたのである。
何をどこに置くか、それをどう利用するというのは記憶力が必要になる。
認知症になと下駄箱に食器など置いたりするからである。
日々記憶の能力を使うから記憶する海馬が鍛えることになるのかもしれない
簡単な計算をするのもいいいうが具体的に体や手や頭を同時に使うのがいいのである。

それが家事にはあり家事をしないとボケやすいというのはありうると思った。
だから嫁さんに「おばあちゃんは何もしないでいいですよ、テレビを見ていて下さい」と言われたおばあちゃんがボケやすいのである。
テレビは何か頭を使わないものなのである。読書なら頭を使うがテレビは一方的洗脳のメデアなのである。
それは無意識的にもそうなっているのである。
それでレナウン、レナウンというコマーシャルがあったことを思い出した。
それは女性と会話してそのことが思い出したのである。
わすれていたがテレビではレナウン娘とか何度もそれ何百回も見ていたかもしれない
それでそのレナウンのコマーシャルのことを思い出してのだある。
とにかくテレビのコマーシャルは見る回数が多いと無意識的に記憶されるのである。
何か考えることなく一方的にコマーシャルでも洗脳されやすいのがテレビなのである。
テレビを見て何か考えるということがない、だからテレビは一方的洗脳メデアになりやすいのである。
テレビばかり見ていると馬鹿になるというのはそういうメデアの特質があるからである。


人間の幸福が何かなど本当にわからない、「おばあちゃんは何もしないでいいですよ、テレビを見ていてください」となればその方か幸せのように見える
一方では苦労して料理をするからである。でも実際は何もしないということが認知症になことに通じていたのである。
家事とはいろいろなものを分類したり管理したり絶えず仕事があるのである。
だから自分は文章を書いたり写真をとったり他にしていると頭が回らなくなるのである
人間一人でてきることは限られているのだ。
家事だけで相当に頭を使う手も体も使う仕事なのである。
だから自分は暇なく何かをしているし余裕がないのである。
つくづく人間は二つのことをこなすことは容易でないことを知った
女性の場合は家事をしないことが認知症なる危険がある
一方で男性でも退職して何もしていないと認知症になる危険があるのは同じだろう。

カルシム不足なにるのはかえって寝ているとそうなるが活動して体を動かすとカルシム不足にならないそうである。
寝てばかりいる兵士は足の骨に負担かからないので体が「カルシウムいらないのだな」と思って尿から体の外にカルシウムを出してしまうのだと考えられます
こに対して一日三時間以上立っている人の場合は足の骨や背骨に負担がかかるので体が「カルシウムが必要だ」と思いカルシウムの流出を防ごうとしているのです
(エコロジー幻想ー武田邦彦)

これも興味深い、

家事もしないと記憶を司る海馬も働かない、働かせる必要がないからだ

家事をしている女性は頭を常に働かせるから海馬が働き強化される

つまり使わないものはいらないとして機能しなくなる、workingしなくなる
それは人間の体でも脳でも社会でもそうである。
社会が活きているということはともかく活用されていることなのである。
道でももし誰も通らないとしたらもう死んだ道となる。
人間がともかく通れば活きた道となる、六号線でもだから車が通って活きていると感じる車さえ通らない道は死んだ道となってしまう。
原発の避難区域は人が住んでいないのだから全体が死んだ街になってしまった。
それでも車が通っているとそこだけは飯館村でも活きた道になっている
双葉や大熊は完全に死んだ街になってしまった
高齢化社会、長生きの時代は認知症を家族で介護したから最高の恐怖だった。
頭がいいとか最後まで言っていても実際は痴呆化していたのだから悲惨である。
だから認知症にならずに死ぬということも高齢化社会では一つの目的となる
高齢化には様々なリスクがある。簡単に死なないことがまたリスクなのである。
長生きするために苦しみが増すということも確かなのである。
ただ認知症にもならず90すぎても自分のことを自分でしている人がいるがそうであれば問題ないのである。
そのためにはどうしたらいいのかとなる。

それで家事をしない女性や退職して生きがいとか仕事がなくなる人には危険がある
原発事故や津波でも何もしないでぶらぶらしていた結果、不活発になりそれが病気にまでなったというのもそのためである。
車椅子で何もできなくなり泣いていた男性がいたがそれも悲惨なのである。
高齢化社会というのはやはり人類にとって必ずしもいいのではなく一つの課題として与えられたものだと思った。
高齢化社会を健康で有益に生きることが課題なのである。
それをみんなができないからこそ課題なのである。
高齢化というのは人類的に起きていることでありそれに対処するまでになっていないのである。
高齢化は体でもそうだが頭でもそれに対処するまでに人類は進化していないともなる
90頃まで一人で自立して健康で生きていれ人の割合が多くなれば高齢化に対応できるようになったとなる。
そういう過渡期として現代があり日本でもそれが試されているのである。

昔の女は家事の他に糸紡ぎや機織り・縫い物繕い物と
手先を動かす作業をしてたからボケにくいんだよ


昔ならいろいろ女性の仕事があったけど今は機械化したりしてなくなったこともある。
何でも機械化してロボットがするようになったら人間はボケになり一体何のための機械化だったのかともなる
だからこそ高齢化は人類的課題として与えられたのである。


タグ:認知症予防