2015年07月08日

石巻の袖の渡しで津波の被害にあった人と語る (南相馬市の事情と良くにていた)



 
石巻の袖の渡しで津波の被害にあった人と語る

(南相馬市の事情と良くにていた)

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陸前大塚駅

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前の遠名駅

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新しい野蒜駅

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新しい女川駅の景観




仙石線で陸前大塚駅の場所は変わってないかった。前に防波堤が作られて島が見えにくくなったかやはり見えている。
景観はそれほどそこなわれていない、ただ東名駅は山の陰になりそこは全く海が見えない、あそこは景観的には全く変わってしまった。
でもそこに住宅地ができて家が建つ、でもまだ建っていない
次の野蒜駅もかなりの高台に移った。でもその高台から白波が寄せるのが見えた
景観としては全く変わったが海は見えていた。
それから石巻についた。何か仙台だと交通の交差路になり忙しい感じになる。
石巻に来ると時間が遅くなる感じがした。
やはり仙台の中心部と石巻だと時間の感覚が違ってくるのだ。
仙台は交通の要所だから何か追われている感覚になる
石巻につくと時間が一瞬とまり遅くなる感じになる

駅前で自転車を借りて袖の渡しにゆく
そこに津波の被害にあった人とかなり話した。
日和山の裏側で被害がないようで二階に逃げて辛うじて助かったという。
日和山で津波が遮られたにしてももろに津波に急襲されなくてもぎりぎりで助かったとなる。
日和山があっても川をさかのぼり津波が押し寄せたから逃れられなかった。
途中家族で逃げた人でも家族が死んだとか仲間と逃げて仲間が死んだとか何か南相馬市の津波の被害とにていた。
今回の津波の被害には共通性があった。
日和山の前は家が密集して博物館もあり壊滅的な被害を受けた。
それは土台だけが残ったとかこの辺の海岸の村とにている。
ただ津波の被害で川沿いに家が残ったりしているとその被害が少ないように錯覚する。
家が残ったとしても被害が大きい場合があった。
この辺でも家が残っているから被害がたいしたことがないと思っても実際は津波の到達地点のすぐ前だったけど床上浸水で潮水を被り大きな被害だったのである。

その人の話で興味をもったのは被害者の家族には手厚い補償金がやはり出ていた。
一軒に五百万とか出たという。そんなにもらはったのかとも意外だった。
原発事故地域とは違ってそんなに金をもらったとは思っていなかったからである。
保険金でも本当は地震保険でも津波には適用されないとなっていたが特別措置で津波にも保険金が出たという。
その額が大きくおじいちゃんがもらった金が一億円とかで使い切れないとかみんなうそうした義援金とか保険金とかで遊んでいるというのもこの辺とにているなと意外だった。
そこは女川原発があっても事故にはなっていないからそんなに補償金が出ないと思っていた。
ただ漁業組合と船主になると原発があるだけで補償金がてる。
それで東北電力から漁業関係者には補償金が出ていたろう。
だからこの辺で石巻辺りはにていたのである。
あれが事故になったらこの辺と同じ状態になったから悲惨である。
仙台の人に聞いたら屋根には放射性物質で汚染され樋では一マイクロあったというから意外だった。
仙台でもそれなりに放射能で汚染されていたのである。
一マイクロというと今でもそれで高いとか原町の山側では騒いで除染しているからである80キロ圏内は住めないとか避難しろとかアメリカでも警告していた。
それだけ放射のの被害は大きかったのである。

石巻では女川町と合併する話があったが女川町では反対してしなかった。
その原因はやはり女川町には補償金が出ているからだと思った。
この辺では双葉町とか大熊町とか小さな町でも合併しなかったのは東京電力から金がでていたからである。
それもにていたし原発があることでいろいろ事情が同じだと思った。
その人とはかなり長く話した。
海の風が涼しく吹いてきて鴎が飛んでいた。
何かあういう歴史的な場所で景観のいい場所で話すると印象的なものとして旅といえないまでも心に残る。
今回は人との出会いがどうしても津波という共通の体験で広がったのである。
津波を知るにはその場に立って被害を受けた人の話を聞くとリアルに感じるのである。
だから津波を知るには三陸でもその場に立って被害を受けた人の話を聞くと
印象が強くなり心に記憶されるのである。
それで三陸の方に次に行って見たくなったのである。

女川では女川原発の下辺りで小学校の先生をした人にあった。
その人は絹を漁具として綱として使っていたという話をした。
絹というのは養蚕が盛んだったから基幹産業となっていた。
ただそれが漁具としてまで使われていたことはいかにも女川らしいとなる
女川では鯨の解体したのを見たことがある。
それも40年前とかになるからずいぶん昔になったと思う。
そのあとはどういうわけが女川には来ていなかった。
今回は直接に土地の人の話を聞けたから良かった。
でも石巻の通りの店は開いてのは本当に少ない
三年前だったか来たときとたいして変わっていないのだ。
その人が言うには神戸辺りからボランティア来て神戸に行ってみたが
20十年たってもその影響があり立ち直っていないという
それだけの大きな被害だったのが神戸地震だったのである。
この津波の被害も20年たってもやはり回復しないのは同じかもしれない
それだけの期間が回復にはかかるということである。
慶長津波の20年後辺りで塩田を石巻でも女川でも作った。
それは相馬藩でも津波の跡に塩田を作って復興したと推測する学者もいる
それでも20年後とかなのである。
10年たってもそれほど回復しないとかいう大災害だったのである。

女川から石巻にまた帰り泊まろうとしたら部屋があいていなかった。
このところずっと部屋は空いていないです、この近くで泊まるところありませんかと聞いたらそれはどうですかないでしょうねとか言うのであせった。
ところが仙台から高城町回りで新しい線ができていたのである。
それは急行であり石巻から50分でついた。
それも早いと思った。それでホテルを探したら東横インが空いていたので助かった。
仙台もとまれないかもしれないと石巻のホテルの人が言っていたのであせっていた。
南相馬市に帰る最終便はもうまにあわなかったからである。
この辺はまだ工事関係者が入っているからホテルが一杯なのかと思った。
何しろ南相馬市では除染作業員など宿泊所がないから困っている
そのブレハブの宿泊所がいたるところに立っているし新しいホテルも山の方にできたりしているからだ。
宮城県もそうした工事関係者まだ外部から入ってきてホテルが一杯になっているかと思った。
今回は泊まれたがそれでもホテルが満室になることは異常である。
普通は空くようにあれだけの部屋数に設定されているからだ。
いづれにしろ仙台は新幹線といえ新しい東北ラインという便利になるからいい。
常磐線も後二年で開通するからそうなると便利であり復興してゆく。
やはり鉄道は未だに要なのである

仙石東北ライン(せんせきとうほくライン)
タグ:石巻
posted by 老鶯 at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

仙台駅の中で青森ヒバの製品を売っていた人 (復興した仙石線で石巻から女川までゆく)


仙台駅の中で青森ヒバの製品を売っていた人

(復興した仙石線で石巻から女川までゆく)

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リンゴの形をした青森ヒバ



本県を中心とするヒノキアスナロは北方型、木曽地方を中心とするアスナロは南方型の二つに区分される。青森ヒバは、特にヒノキアスナロと呼ばれている。
「青森ひば」は、ヒノキ科アスナロ属の針葉樹で和名をヒノキアスナロといい、日本固有の樹種として、その約8割が青森県内(主に下北半島・津軽半島)に集中しています。
雪の多い地方でなければ育たないと言われる「青森ひば」は、北の厳しい風雪に耐えながらゆっくり年輪を重ねます。長い年月をかけてじっくりと成長した「青森ひば」だからこそ、緻密で狂いが少なく、木目も細やかで美しい木材になるのです。


仙台の駅の中で青森ヒバのまな板とか売っていた。
青森ヒバは始めて聞く、調べてみるとヒノキとにているからヒノキアスナロとか名づけられていた。
ただ青森特産であり青森地方に8割とかあるから青森という寒い気候にあっている樹なのだろう。
シロアリとかに荒らされないのもいい、ヒノキとにていて良質の木材である。
木の種類も多い、日本では特に多い、北海道のアイヌ村では槐(エンジュ)の樹というのがありこれは固く灰皿にも使える樹だった。
それとにて青森ヒバも特別な良質の木材なのである。
青森はやはり森の国なのか、青森ヒバというのもその一つなのか?
た青森は北海道に近くやはりそういう特殊の樹を気候が育てるとなる。
寒い国の樹は成長が遅い、南国の樹は成長は早く植物でなんでも伸びる
それは何か人間的にも南国の人は植物でも成長が早いし果物も多く食料を苦労せずに得られることから人間はのんびりしてくる。

ギリシャなどはオレンジがとれたり地中海に面した南国なのである。
デオゲネスが樽で裸で暮らすことができたのはあたたかい気候だったからだろう。
とてもドイツなどは寒いからできない、ゲルマンの森は青森の森と北海道の森と通うじている。
そういう場所からゴシック建築とか哲学とベートベンの音楽が生まれたのである。
南と北の文化の相違が生まれたのである。
宗教的にはプロテスタントであり勤勉のエートスが生まれ資本主義が生まれた。
そもそも資本主義とは勤勉に働き神に奉仕して仕えるということからはじまった。
だからギリシャとは遊んでいて怠け者であるから何かドイツとは正反対の国なのである。それは風土に影響されてそうなった。

日本の特性としては風土としては小さい島国でも一つの島国で南と北の風土がありそれで文化の相違も生まれた。
沖縄までが日本とすると沖縄は南国であり北海道は北国であり日本海そいや東北も北の風土の文化を育む。
青森はどちらうかというと北海道的なものと日本海的なものと本州のみちのく的なものの混交となる特殊な地域なのである。
丸山山内の縄文遺跡が縄文都市だというとき海に囲まれて交易の場所でありまた大きな柱の跡があったということは青森特産のヒバの木材を活かしているとかなにか森の国でもあった。
縄文土器が湿った森から生まれたというのもまた日本的である。
日本は森が今でも多いから樹の文化の国である。


ただ今はヒノキであれヒバであれ高価だから家の材料には使われないから意識しなくなったのである。
やはりいかに良質なものでもあったとしてもそれが日常的に使われないと何でも廃れてゆくのである。
あらゆるものは使われてこそ活きてくる。だから廃屋は活かされていないから大問題なのである。
今回はまず仙台駅前で青森ヒバの製品売っている青森県の人と出会い、次に石巻でも津波の被害にあった人に出会い結構話した。
最後は仙台の古本屋の人と郷土史のことなどを話した。
それで資料なども買った、ネットでも販売しているというがなかなか中味は専門的になるとわかりにくい、相馬藩のことは伊達藩のことも調べないとわからないのである。
それで宮城県の郷土史研究などの冊子があり参考になった。

次は石巻で津波の被害にあった人の話を書く・・・
タグ:青森ヒバ