2015年07月05日

沙羅の花(梅雨の時期に咲く花は映えない)


沙羅の花(梅雨の時期に咲く花は映えない)

kabochaaa123.jpg

kusabbb123.jpg

blueeeefff1.jpg


沙羅の花祇園精舎に今日も散る
曇る日や野に働く夏薊
家広く五輪匂いぬ百合の花

しっとりと朝の霧にし月見草ぬれて咲きにつ朝の明けにき
芋の葉に水玉大きくこの畑カボチャの花の咲きて暮れにき
沙羅の花風にそよぎて今日一日咲きてまた散る道に面して



沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす

沙羅の花の由来である。これも暑い所に咲く、蓮でも暑い所にあっている。
だから梅雨の時期に日本で咲くのにあっいない、泰山木の花も梅雨の時期だとあっていない、もともとアメリカが原産だとすると毎日晴れている大陸的な場所にふさわしい。
花はその原産地に一番あって咲いている。
インドの暑さを知らないと蓮の花にしても鑑賞できない、蓮の花も梅雨の時期に咲くから映えないのである。
花にしてもすでにそれは歴史があり文化化した花なのである。
蓮といえばお釈迦様であり日本では桜が国の花になったように歴史と文化としての花となっている。
蓮はエジプトでロータスとなっているからエジプトも暑いからあっていたのである。
オベリスクとかにロータスの花が刻まれている
ナイル川の河畔に蓮の花が咲いていた。大きな川だから花もその川に映えていたのである

花からイメージされるのはその背景の歴史と文化を知る必要がある。
沙羅の花を注目したのは自分の庭に植えたりしたから注目した。
でもこれまで沙羅の花も知らなかった。
沙羅の花は夏椿だと思っていた。もともとは沙羅の花だったのである。
椿よりこぶりの花である。ただ小さいというだけの花だともなる。
ただそれに歴史とか文化が背景にあり違っていた。
沙羅の花は数が多く咲く、一日咲いて一日で散ってゆく
沙羅の花から釈迦をイメージすることはなかった。
祇園精舎に咲いて散るのにふさわしいとなるのか?

ともかく梅雨の時期は花は映えない、菖蒲とか紫陽花は映える、その他はあまり映えない、だから梅雨の時期はいいとは言えない、この時期はいつも北海道に行っていた。
それはあまりにも恵まれていたのである。
どうしても出かけるときといつ帰ることもなく自由に旅ができないと旅にならない
二日とか三日で帰らねばならないとしたら旅する気もしないのである

朝にこの辺は深い霧だった。それで月見草がしっとりとぬれていたからこれは梅雨の時期にあっていた。
芋の葉に大きな水玉がたまっていてカボチャの花が咲いていた、短歌も基本は写生であるありのままを写生にすることが基本である。
あまり感情的なものを入れない、要するに芋の葉がありそこに水玉がありカボチャの花が咲いている
それだけを写生していればその写生自体が写真でも俳句でも短歌でも訴えるものとなる
そこに説明的なものや感情的なものを入れると写生でなくなる
写生だとすると意外と俳句で短歌でも誰でもできるともなる
これも何か創作的なものはない、ありのつまを写真のように文字にすることが基本になるからだ。
ところが下手な俳句や短歌は写生に徹していないのである。
余計なことを飾って言いすぎるのである。
現代ではデシカメなくしては写生の俳句も短歌も成り立たない
写生を基本するとまず写真があって写生の俳句や短歌があるともなるからだ。
タグ:沙羅の花

抽象画(ギリシャの遺跡)



抽象画(ギリシャの遺跡)

isekiii1111.jpg



gggggggg1111.jpg

gggggggg1111444.jpg

gggggggg111144455.jpg

gggggggg11114445566.jpg


これは何か?
抽象画ではまず何が出てくるかわからない
それてこれは何なのだろうととなる
これはギリシャの遺跡だと思ったのは
海があり遺跡に見えたからである。
ギリシャは海と切り離せない、島々に遺跡があるからだ

あとはそれに類似したものである。
ギリシャには教会も多い、ギリシャ正教会をイメージする
この一連の抽象画には何かギリシャ的なものがある
それはただ偶然にフォトショプを操作していたらできたのである。

これが何だろうなと思うとき抽象画でも具象画をイメージできると
何かわけわからなものではなく鑑賞できるともなる
それぞれにイメージされるのは違っていても抽象画はいいのである。

ただギリシャの遺跡だとイメージするとなるとやはり一回くらいはギリシャに行ってみないとイメージできないということはある。
ともかくギリシャはいたるところ遺跡の国だからである。
タグ:ギリシャ