2015年07月25日

野馬追い始まる (北郷の武者の集まる館)



 野馬追い始まる
 
 (北郷の武者の集まる館)

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北郷の郷士集まる館

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五輪塔で同系統で同じ村だろう

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 北郷の郷士集まる館かな

 鬼百合や列に加わる旗印

 振り向きぬ同類の旗誇らかに

 草青し旗をなびかせ馬の列

 集まれる館や馬のいななきぬ
 
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野馬追いというのは野馬追いの行列がはじまる前から見ないとわからない、
それぞれの郷があり郷士がそこからでる。
今日は中村の宇多郷と北郷が合流して鹿島区で行列がある。
これはそんなに馬が出ないから迫力はない。
 
でも野馬追いというのはどこからその馬がでてくるのかその旗印はどこから出てくるのかが大事なのである。
それが地元でもわかりにくいのである。
なぜなら年に一回しかなくどこから馬がくるのか見えないからである。
今回は五輪塔の旗が二騎つづいてきたのでこれは同じ系統の旗であり同じ村のものであるまずこういうふうにとれることがなかなかできないのである。
野馬追いは旗祭りだというときその旗がどこから出るのか大事になる
でもそれがほとんどわからないのである。
行列になったときはすでにその馬がどこから来たかわからないのである。

北郷の郷士の集まる館は海老原さんの家である。そこに宇多郷の人も集まり行列になる。ここの写真の旗印はみんな北郷のものである。
ここに宇多郷の騎馬が集まるとどこの旗印だかわからなくなる。
この旗印を見分けるのが野馬追いではむずかしい。
地元の人でも旗の数が多いからわからないのである。
そして写真でもそれが一瞬のチャンスしかないから写真もとれないのである。
去年までは復興の野馬追いで盛り上がったがまた平年並になるのか?
去年までは草茫々だったが原野に草原になっていたが今は青田もあり半々の景色になっている。

野馬追いはもともと相馬藩の郷士であった人しか原則的には参加できない
誰でも参加できないということで地元でも他は見るだけだから盛り上がらないともなる
参加できる人は確かに侍の出だということで誇らしいとなる
だから野馬追いに金がかかっても出るとなる。
やはり何か侍になったような気分になることは確かだし戦国絵巻の再現である。
その時代だったら何か戦争というのも現代の戦争とは違い人間的だった。
今の戦争は人間が戦争しているのか機械が戦争しているのかわからないからである。
野馬追いの時だけ馬が活きるというのも祭りの特徴である。

なんか野馬追いを外部の人に説明するとなるとまた違ったものとなる。
自分のプログも報道機関の一つだから説明しなければならないと写真をとってきたのである。
地元の報道機関になるとやはり取材があり何かを伝えるという作業である。
それは自分なりにしてきた。
それで相馬のことも他でも理解される一端とはなる。
それはある意味で自分の仕事だともなる


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北郷の本陣に相馬藩の殿を迎える(野馬追い写真)



北郷の本陣に相馬藩の殿を迎える(野馬追い写真)



北郷の本陣に殿を迎えける法螺貝ひびきて威を正すかも

大将の赤き母衣(ほろ)の一段と映えて青田を進みけるかも

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先陣の馬が走る

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大将の赤き母衣(ほろ)の一段と映えて青田を進みけるかも
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北郷本陣へ

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本陣へ総大将が来る

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中村神社(相馬市)

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北郷と宇多郷の行列



北郷の館の海老原さんは副大将であり紫の衣だったが写真はとれなかった

総大将の殿様の赤い衣だけが目立つ

戦国時代はやはり殿が中心となってまとまっていたからか

中心として総大将の赤い衣が一番目だつ、副大将の紫の衣があっても目立たない

本陣に殿を迎えるときも主役は総大将の殿様なのである。

総大将を中心にして家来が取り囲み守る

だから戦国時代は殿様の総大将の首がとられたり戦いは終わるのである。


明日は雲雀が原へ神旗争奪戦へ

500頭は普通は出る


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2015年07月26日

野馬追いの一考察ーなぜ赤い母衣の大将が目立つのか? (鉄砲を捨てた日本人から戦国時代ふりかえる)


野馬追いの一考察ーなぜ赤い母衣の大将が目立つのか?


(鉄砲を捨てた日本人から戦国時代ふりかえる)

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ノエル ペリンは、江戸時代の日本が鉄砲を放棄したことを、「世界史におそらく類例を見ない」と注目している。
「高い技術を持った文明国が、自発的に高度な武器を捨てて、古臭い武器に逆戻りする道を選んだ。
そして、その国日本は、この逆戻りの道を選びとって成功した。」
江戸時代の日本は、鉄砲を製造できる高い技術を持ちながら、あえて、鉄砲を捨てた。
製造できなかったのではなく、製造しなかったのである。
(鉄砲を捨てた日本人)


NHKで信長の長篠の戦いを実験して説明していた。
鉄砲が戦争を根本的に変えただけではなく、社会まで変えた
鉄砲は質より量であり一人一人が名のり争う古典的な戦ではない。
鉄砲だと誰が撃って殺したかわからないという
それは大将が名乗りでて一騎討ちとかの争いとも違う。
鉄砲とは現代にも通じる近代戦と同じだったのである。
鉄砲は足軽隊がになうものであり家柄とも関係ないものだった。
それまで一人の大将とか名だたる武将とかが戦国時代の主役だった
ところが鉄砲が作られたときそうした古典的な武士の世界は喪失した
それが現代の戦争と同じようなものになった。

人間社会は道具によって変わるということは常に言われてきた。
戦争というのも道具によって武器によって全く変質したものになった。
信長は鉄砲に目をつけ足軽に鉄砲隊を編成して城下に住まわせた
名だたる家来とか大将とかではない、無名でも量を重んじた専門の足軽の鉄砲隊を編成したのである。
信長は旧来の殿様というより社長だったというときまさに商業も重んじたからそうだったそして日本の鉄砲はすでに分業で部品化した世界でも最先端のもので朝鮮に秀吉が攻めた時も明では日本の鉄砲は優れているから戦わない方がいいといっていたのである。
日本人の特質は外来のものでもすぐに取り入れて自家薬籠中の物にするのが得意である。それは戦国時代に信長の時からそうだったのである。

ではなぜその後鉄砲を捨てたのか?これも謎だけどあえて優れた鉄砲を捨てて鎖国して平和な社会、徳川幕府の支配体制で300年もの戦争のない社会を作った。
こういうことは世界史でもないから軍縮を果たした歴史として評価される
ただ日本がそれができたのは大陸のように他国から攻めにくい海に囲まれていたという理由もある。国内だったら鉄砲を捨てて鎖国して平和が保てたのである。
大陸になると国と国、民族と民族の戦いは陸続きだからさけられないし熾烈になる。
民族みな殺しというのも大陸だから起きてくることなのである。
それは日本の特殊な地政として必然的になったともいえる。
このことはあとで考察することにして今回は野馬追いのことである。


野馬追いでは古典的な武士の戦の再現なのである。
鉄砲隊があったとしても主役はそれぞれが旗印をもち大将とか副大将とかの役があり
人間中心の騎馬軍団なのである。それは武田の騎馬軍団であり信長の鉄砲隊が中心の
近代戦に通じるものではない、
そもそもあれほど馬や鎧兜で着飾るというのが正にそうである。
不思議なのはそうした装飾によって相手を畏怖させるということもあるが何か現代のファションショーのようにも見える
どうだ俺の出で立ちを見ろ、格好いいだろうとか強そうに見えるだろう。
そういう装飾性を競っていることも不思議である。
むしろ殺し合いとなると信長の鉄砲隊のようになるのが合理的なのである。
殺し合いにそんな出で立ちを飾る必要がないのである。
ただ一番目立つ母衣(ほろ)にしてもそれは矢を受けるとかのものであっても大将が常に中心にいるということ、大将の存在感が大きいことがわかる

今回北郷の副大将の館に宇多郷(中村)と北郷(鹿島)の郷士が集まったが副大将の母衣は紫である。紫だと目立たない、どうして真っ赤な総大将の母衣が一番目立ち中心になる。
だから北郷の本陣に総大将をむかえたときは一番盛り上がるのである。
ただこれほど総大将の存在感があるのはやはり古典的な戦としての時代を反映している
それほど殿とか総大将とかがいかに古典的な戦いでは重要であり中心的なものになっていたかということである。
それはただ軍隊としてではなく精神的支柱としても殿様が総大将が中心として形成されていて忠義の中心として武士社会は形成されていたのである。

つまり総大将の真っ赤な母衣が一番目立って主役であり副大将の紫の母衣は目立たない
こういうところに何か戦国時代とか武士社会の在りし日の姿をみる
それは明治維新以降大将とか何かそうした中心的存在感となるものが消失したから殿様とか総大将とかの重みを感じなくなったのである。
それは鉄砲が戦いの主役の時に近代戦と同じようになり殿様とか総大将とかの重みが失われたのと通じている。
現代はもう機械の戦争のようにさえ見える、そこに母衣(ほろ)や鎧兜で身を飾り名を重んじるとか武士道的なものは喪失した。
野馬追いの行列とは身を挺して真っ赤な母衣(ほろ)の殿様、総大将を守る行列なのであるともかく戦国時代が殿様の総大将の首がとられれば負けであり戦争は終わる
だから殿様を守ることが一番大事になるという世界だった。
こういう世界は中心がはっきりしているから外見的にもその結束とかはっきり見えるのである。
現代になると何でも戦争でもどうなっているのかわからなくなったのである。


不思議なのは日本は鉄砲を捨てたというとき江戸時代は鉄砲など強力な武器があるとまた不穏になり平和が乱されるので鉄砲を捨てた。
鉄砲より武士社会の秩序を重んじることを選んだのである。
鉄砲があって足軽でも大将でも変わりないとなると武士の威厳も何もなくなってしまうからである。
そうしたら武士の地位も威厳も何もなくなり足軽や平民とは同じだとなってしまうから
秩序が保てなくなるから鉄砲をもたせなかった。
それで入鉄砲が一番関所で警戒されたことでもわかる。
武士が精神的存在として威厳とか地位を保つには鉄砲があってはできなかったというのも歴史の教訓が日本にあったとなる。
武器は技術はそもそも社会を根本的に変えてしまうのである。
刀には精神性があり重んじられたが鉄砲にはないから捨てたというのも不思議である。
刀は単に人を切るものではない、刀が侍の魂だというとき精神的なものとしてあった。


それは実際に明治維新以降日本がどれだけ変わってしまったかを見れば誰でも実感していることなのである。
現代では戦争は常に否定されるけど戦国時代も過酷でも何か人間的なものがあるから救われているともなる。
殺し合いでもそこに人間的なものがあったから救われる
現代の戦争はそういうものがなくただ人間の大量虐殺となっているだけだから忌避されるのである。
鉄砲から日本の歴史をみるのもまた一つの視点である。
だからこの本は読む価値があるのですぐにアマゾンで注文した。
こういうふうに本がすぐに手に入るので今は知識が広まる
だからまた本を相当買っている、でも読むのは触りだけなのである。
そんな時間がないからだいたい今は触りを読むだけで全体もわかる
本というのは膨大に知らない本があったのである。
だから肝心なものを読んでいないのが多いのである。


タグ:母衣(ほろ)
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野馬追いー神旗争奪戦の雲雀が原へ(写真)


 
野馬追いー神旗争奪戦の雲雀が原へ(写真)


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北郷から雲雀が原へ鹿島の一石坂を上る

旗印同じや越える一石坂旗をとらむと雲雀が原へ
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小高郷の陣営が出番を待つ

黄色の畠は小高神社の旗

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これは江戸時代から伝わったものか古い感じ


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馬もばてたのか?鼻血を出して倒れる、あとで起き上がった

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葵の紋


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雲雀が原へ行列

 
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鉄砲隊

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かもめの旗が面白い


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総大将

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北郷ー副大将

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中村神社

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武田の紋

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雲雀が原で神旗争奪戦

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北郷から出た葵の紋に注目ー神旗をとる

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野馬追いの行列は順序まで決められている

名前と役柄を記されたものがあり出場した人の名前が全部出ていた。

旗にも役割があり伝統的に決められたものである。

今日は暑く雲雀が原には入場しないで他から写真をとった

写真はとる場所によって相当に影響する

遠くをとれるカメラだったので本陣山に旗をとって上る馬をとれた

菊の紋は北郷(鹿島区)の人でその人は鹿島から馬で来た

今はみんな車ののせてくる。

野馬追いもなんでも機械に頼ると昔が再現されないのである。

馬でもせめて原町とか鹿島とか小高くらいは馬で来たら

当時の状態をしのべる

ともかく500頭集まれば壮観なものになる

江戸時代はまさに戦闘訓練だからこんなものではない

雲雀が原の十倍の原で戦闘訓練をしていた

馬が500頭であれ千頭であれ集まると迫力あるなとなる

戦国絵巻を映画などで見るが何か狭い画面で見るから迫力が伝わらないのである。

もし一万とかの馬を見たら凄い迫力になる

そういう戦争となると今では想像できない

戦争は馬が主役でもあり馬がどれだけいるかが戦争で有利かが決まる

だから武田の騎馬軍団が力をもったのである。

その馬に頼らず信長が鉄砲で時代を変えたのである。

馬というのが競馬とかでしか見ないから馬がどういうものかわからなくなったのである。




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2015年07月27日

夏の鳥(山鳩など写真三枚)



夏の鳥(山鳩など写真三枚)

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山鳩や故郷の祭り里帰り
山鳩や青葉のつつみ影深し
山鳩の枝移る樹の青葉かな
三色のハイビスカスや店に映ゆ

ヒヨドリのとまり尾長もとまりさる風にそよぎて青竹清し
青竹の風にそよぎて清流のここにひびきて鳥とびにけり


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昨日の雲雀が原の観客席には入らずに入り口の木陰で休んでいた。
その木陰が意外にも涼しくいい場所だった。
桜の樹が大きく日影も広く気持いい場所だったのである。
今年は暑いから木陰が気持ちいい
からっとした暑さだと木陰は余計に気持いい
砂漠の国は暑くてもからっとしているから蒸し暑くないから
木陰とか日影にいると意外と涼しいのである。


その木陰で見上げてたら山鳩がとまっていた。
鳩は平和の象徴である。
山鳩だと普通の土鳩ととは違う、本当の鳩である。
山鳩には何か温和でありやさしさが現されたものである。
羊は柔和さが現れたものである。
山鳩は何か母とか優しいものをイメージする


祭りは夏の季語であり野馬追いには里帰りする女性がいる
でも男性には里帰りとは違っているが故郷に帰ることがある
故郷というときやはり父とか母とともに過ごした場所でもある
もしそこに愛された場所なら山鳩のように平和な感じる場所になる
ただ故郷を嫌う人もいる、一茶は不幸だったから茨の花が故郷だった
故郷とといってもみんないいものではない
故郷はやはり祭りがあり自然がありそこに憩うとなる
それが山鳩で象徴されていたのである。

今年の夏は夏らしい夏である。今日も暑いがからっとしている。
コメリに三色のハイビスカスが咲いていた。
これせ買うと高いが花というのは買わなくても見るだけでもいい
食べ物は食べなければ何にも感じない
花は別に他人の庭でも見るのは無料なのである。
花は別に金がないから鑑賞できないということはないのである。




 
タグ:夏の鳥

2015年07月28日

異常な暑さはなぜ? (人間は自然に適合しないで暑さに苦しむようになった)


異常な暑さはなぜ?


(人間は自然に適合しないで暑さに苦しむようになった)


最近なぜ35度とかの暑さがつづくのだろうか?
地球的規模になるとそんなに暑くはなっていないという
では日本の暑さは何なのだろうとなる
地形的には内陸部,盆地は暑くなる
京都も暑いし福島市も盆地で暑い
もう一つは東京とか大都市近辺がクーラーの熱風などで暑くなる
それからアスファルトで暑くなる
それは自転車で感じる
車ではクーラーがあるから感じにくいのである。

暑いというとき海に面している地域は比較的暑くないだろう
海から涼しい風が吹いてくるからである。
福島県では福島市と会津は暑いし盛岡市でも35度になったのかとびっくりした
北海道でも海に面していない地域は暑くなっているのかもしれない
ただ西の方は全般的に暑くなっている
気候は福島県でも広いから地域差があり狭い地域でも天候には差がある
天候というのはだから広い範囲で見るから誤解しやい

大都会が暑くなっているのはヒ-トアイランドの影響が確かにある
あれだけビルや家が建てこんでいれば涼しい風も吹いてこないし
は水まいたくらいでは効果ない

涼風(すずかぜ)の曲がりくねつて来たりけり
一文が水も馬に呑せけり 一茶

というように、水に値がついているものは、一茶の住んでいた本所付近では、水を買って使っていたので、水が貴重品だったのだろう。
江戸だったらやはり都会だから何でも金になる。水も売られていたのである。
涼風がくるのも曲がりくねってくるというときそれだけ家がたて込んでいたからである。でも涼風は来ていたのである。
都会ではこれだけの温度になると熱風になってしまうだろ。
江戸時代にはアスファルトとかでていから土だから水をまけばそれなりに効果があった
ただその水も簡単には使えない、金もかかっていたから問題である。
土間が夏が涼しく冬はあたたかいというとき土がエアコンの役割を果たしていた
暑いというとき、寒いときでも人間は知恵を働かせて自然に適合していた
江戸時代になると今の大都会と同じような面が現れていた
でも一応涼しい風は吹いていたし今のようなエアコンの熱風とかにはならない

異常な暑さの原因は明らかに都会化とエアコンやアスファルトととか文明の発達が原因している
それが全部ではないにしろその要素を否定できない

家の作りやうは、夏をむねとすべし*。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。
 深き水は、涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。細かなる物を見るに、遣戸は、蔀の間よりも明し*。天井の高きは、冬寒く、燈暗し。造作は、用なき所を作りたる*、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし*。

 徒然草(上)
第55段 家の作りやうは、夏をむねとすべし。(徒然草)


京都は盆地で暑いからこういうことになった。北海道なら冬をむねとすべしとなる。
日本では夏はもともと暑いものだったが31度とか32度くらいで耐えられる暑さだった。
これは自然現象というよりやはり大都会化したことが確実に影響している
この表現で面白いのは川のことで浅く流れているのが涼しい・・・というのである。
さらさらと流れている浅い川が瀬音のする川がいいというのは日本的である。
まず外国の大陸の川では運河のようであり日本のような川がないのである。
それでこの辺で新田川が意外と浅い川であり瀬音がするからかえって情緒があり夏なら涼しいとなる、深い川は何か淀んだような感じになるから夏にはいいとは思えない
真野川は長い川であり瀬音があまりしないのである。
京都辺りでも川があるが瀬音のする川である。盛岡の中津川もそうである。仙台の広瀬川も歌にもなったから有名である。
ただ仙台は都会化しすぎたからあそこにそれほど涼しさは感じないだろう。


天井の高きは、冬寒く、燈暗し・・・これも今とは違う、今は天井が高い方がいい、空間的にまさにspacious(贅沢)に感じる、狭苦しい所に日本人は住みすぎるので兎小屋と言われる。それが人間に余裕ないものをもたらしている。
狭いところに常時住んでいれば狭苦しい思考に自ずとなってしまうのである。
その当時は電気もない暗い時代だからそうなったのであり現代にはあてはまらない
大き家の屋根に猫いて夏の月(自作)
こんなふうに大きい家の方が猫まで余裕がでてくる
日本の文化は京都が中心だというとき京都の気候が影響している。
それが暑いことでありそれで涼を求める文化が生まれた。
料理でも暑さ向きのが日本の料理であり淡白なのもそうである。
暑いと何かこってりとした肉料理とか食欲がなく食べたくないのである。
それで寿司とか刺身などはすっきりしていいし酢のものが夏には向いているし
漬け物を梅干しでも食欲をそそるようにできていた。
懐石料理などもそれに通じている。
それから冷しソーメンとか夏の料理が結構多いのも日本である
それらはこってりとはしていない、さっぱりして淡白なのである。
日本人は分厚い豚肉と牛肉など食べなかったのである。

結局日本はその風土にあって日本らしくあるべきなのである。
夏は暑いにしても涼しいということを味わう楽しさがある
木陰も気持ちいいし夏に気持良くなるのがある。
夏は夏らしく夏を味わうのが自然なのである。
こんなに暑いとどうしてもクーラーを使う、今でも自分の部屋は暑いので29度とかなっている
でも扇風機だけでクーラーはとめた。なんとか過ごせるようだ
クーラーを使うことはエネルギーの効果的な利用方法ではない
エネルギーは貴重だということは原発事故でわかった。
蝋燭でもその溶けた蝋まで集める仕事があったりと江戸時代は何でも無駄にするものがない、エネルギーがそれだけ貴重だったからである。

ろうそくは、1か月もかけてじっくりと作られた貴重品で、現在ではほとんど省みられることもなくそのまま捨てられてしまうような溶け残りであっても、蝋涙(ろうるい)と呼ばれ、これを回収し、商う行商などがいたようです。


人間は文明化して自然に対してかえって無駄なエネルギーを浪費するようになった。
暑ければクーラーだとなりその消費量は膨大である。
それは大都会化とかアスファルトなどで暑さが文明によって作り出されたものである。
そのために無駄なエネルギーを消費して原発も石油も欠かせないとなりこの辺は取り返しつかないものになったのである。
もう35度になったら暑さを楽しむことはできない、熱中症となり病気になり死ぬこともある。
それも自然に逆らった生活の結果だということは言えるのである。
ただそれでもクーラーのあるとないでは今では寿命にも命にもかかわるだろう。
クーラーの効果はあまりにと大きいのである。
クーラーがあるからこそ今や文明人はこの極暑で生き延びているとさえいえる

でもついには石油が入らないとか電気がもう供給できないとかなるかもしれない
その時原発も再稼働しろとなり今回のようなとりかえしのつかない事故になり
住めなくなりマヤ文明のように神殿も放置されて人がいなくなるということにもなる
とにかくクーラーの風は効果があっても自然の風ではないのである。
人工の風でありそれが熱風ともなり暑さを増したりしているから問題なのである。
土間が涼しいというときまさに土は自然であり冷房とか暖房の自然の装置だったとなる。
この辺は31度とか32度であり海風も吹くしなんとか暑さでも涼しさがあり楽しめる場所である。
それでこの気候だけは浜通りではいい、老人には向いているともなる。
35度になったらもう夏は楽しめない、生命の危険状態になるからである。




タグ:暑さ

2015年07月29日

鬼百合(気丈夫な姉を思い出した)



鬼百合(気丈夫な姉を思い出した)

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ノウゼンの玄関に散り人入る
ノウゼンや出陣前の馬の列
涼しさや海鳥隠る草原に
大き家の屋根に猫いて夏の月
鬼百合や我が家守りし姉はなし

夏草に道標埋もれ久しくも栃窪にも飯館にも行かじ
知らぬ間に我が庭に入り揚羽蝶休みてありぬ夏の午後かな

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右田の方は工事であり残った一本松は枯れるだろう。枯れそうにみえたからである。
今考えると一本松が残ったというけど松は松原になっていて意味があった。
もともと防潮林だから松原でないと意味がない
一本松でも海側でないなら意味のある伝説もある松が残されている
とにかく津波の跡には休む日影かないから暑く感じる
ただ草原化してそこに海の鳥が隠れ海の風が吹いてくるから涼しい

今日も異常に暑かった。二階には隣がトタン屋根だかその影響で熱がこもっていた。
それでクーラーを一時的に使ったが一日はしていない、夜はしない
それでも今日は暑かった、蒸し暑いと耐えられなくなる
自分の家を建てたのは自分ではない、姉と母が建てたものであり気丈夫な姉が家を守ってきた。
姉は男性でも相手にてもひるまない、男性が恐れるような強気の女性だった。
だから怖いなと男性が姉について言っていたのである。
だから本当に鬼百合がふさわしい女性だった。
強気の女性は鬼百合がふさわしい、女性にもいろいろいるし花にもいろいろある
鬼瓦とあるけどまさに家守るものだった。

家を守るにはやはり自分がその跡を継いでわかったが鬼瓦のように強気でないと守れないということがあった。
それがこの七年間の苦しみで経験したことである。
これほど家に入ってくるものに家が荒らされると思わなかったからである。
そういうことをプログで書いてきた。
姉は最後は認知症になり無惨な姿で死んだ。
いくら強くても老いには病気には勝てなかったのである。

今頃の暑さはやはり鬼百合であり暑さの最盛期にいつもなっている。
この暑さは今年はいつまでつづくのかやはりお盆あたりまでなのか?
それとも長くつづくのか?暑さも体力を消耗する

横手には道標があり栃窪へ記してあるのが飯館村にもすでに一年以上行っていない
そろそろまた行かないとと思っているが暑いのに自転車は弱い
栃窪でも昔だったら歩いてとかなると遠いから道標があったりする
この道標はあくまでも歩いていた時代だから作られたのである。
飯館村はそのものが葦に夏草に埋もれてしまったというのも不思議である。


タグ:鬼百合

城の美学(建築は精神の具現化したもの) a Japanese castle is an embodied spirit



城の美学(建築は精神の具現化したもの)
a Japanese castle is an embodied spirit

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建築はまず原材料に規定される。料理でも材料が良くなければいくら料理人が優れていてもいいものは作れない。
この辺でとれた石鰈は松川浦でとれたものを売りにきていたとき、新鮮だからとにかくうまい、魚は鮮度が勝負である。
家でもいい材料を使えばいい家が自ずとできる。
青森ヒバの家とか総檜作りとかなったら今は最高の贅沢である。
もうそういう家は大金持ちしか建てられないだろう。
建売住宅は見栄えはいいが中身はいい材料を使っていない。
だから住んでみると確かに機能的には昔の家より優れている
昔の家は大きな座敷があり襖で区切られているだけで今風に個人の部屋がない
子供部屋もないとか個人主義となった現代の生活には合わなくなった。

建築がまず材料だというときヨーロッパは重厚な石を素材にしている、彫刻でも大理石を使っているし他もエジプトのピラミッドからして石である。
石は千年とか軽く残るから歴史が石を通じてヨーロッパに残っていてローマでも二千年の歴史が石となって残っているからそれだけの年月の感覚が自ずと養われる
日本ではもう百年も残る家となるとまれである。
今は30年で古くなり建て替えるとなると歴史感覚が養えないのである。
日本文化は生(き)の文化だというとき木は石のような恒久性がない

式年遷宮(しきねんせんぐう)とは継承し、繰り返されることの永遠。
伊勢神宮には常に新しくありつづける、常若の思想があります。
平成25年に行われる式年遷宮とは、20年に一度行われる壮大で重要なお祭りです。神宮の建物を新しく建て直すとともに場所を遷し、さらに殿内の宝物もすべて新調します
http://ise.jr-central.co.jp/shikinensenguu/

枕詞のあらたまも年にかかるから常に年ごとにあらたまるというのが日本の文化である。それは日本の文化であり悪いというわけではないが常にあらたまりばかりでは継続する歴史が感じられない、何かいいものが必ず時代時代で作られているのが人間である。
その継続の歴史がたたれることは深刻なのである。
日本で明治時代が文化的に興隆したのは和魂洋才で和魂が江戸時代の継続で継承されていたから洋才もそこで日本文化として受容されたのである。
内村鑑三の「武士道」とキリスト教が結びついたのもそのためである。

建築の基本要素は材料であり機能性があり装飾性がある。機能性というとき戦国時代はいかに防御するかということに苦心した。
それが城作りの要点でもある。日本の城は外国と比べてシンプルである。質素であり構造も複雑ではない、外国の城はまずwallであり敵に進入を防ぐために壁でとりかこむことからはじまっている。城本体より壁の方に重点がおかれていたのである。
日本の城には装飾性はない、機能美が主体であり簡潔であり無駄がない、だからかえってそれは江戸時代であれ質素であり武士の精神を象徴するものとなった。
つまり建築は embodied spiritなのである。大坂城にはそれがみられないというときはなぜなのか?

心に青雲」が大坂城に幻滅した原因は何なのか?
天守閣は壊して、石垣や掘りなどの往時の遺物だけ残した公園にしたらよいと思う。大阪の人は「太閤はん」が誇りらしいが、だったらなおのこと、その誇りを大事にして、どうせレプリカなのだからあのラブホみたいな天守閣を破棄すべきではないか。


確かに大坂城をバックにして写真をとらせる人がいたりと大坂城は何か観光用のようにも見える。それに反して石垣は幾重にもあり広いから当時を偲べる
日本の城は石垣はたいがい昔のままに残っている、だから日本では石垣から昔を偲ぶ
会津の城でも新しく再建されたから何か博物館のように見える。
つまり歴史的な建造物でも自然の石や樹と同じように風雪を帯びると貫祿が生まれる
熊本城などは明治維新で陥落しなかったとか鉄砲の玉の跡が残っているとかそういうものがあり魅力がある。
会津の城でも薩摩長州軍に攻撃されて辛うじて残っている城の写真があったがあの写真にその凄まじい傷跡が生々しく残っていたのである。
かえって石垣だけしか残らないとなると世の無常を感じるのである。
真新しく再建されると何か撮影のセットのようにも見える、それが大坂城であり他にもそういう観光用に再建されたものには見える。
あれは徳川幕府が建てたもので秀吉が建てたものではない、秀吉が本拠としていたのは京都の伏見城でありそこに伊達政宗と山形の最上氏が並んで屋敷をもっていたのである

自分は大坂城のとき桜が咲いて散っていた。それが夕日に映えて散っていたのを印象的だった。
まさに秀吉の豪華な安土桃山時代の再現を感じた。でも大坂城は秀吉の城ではない、秀吉は京都の伏見城が本拠でありそこに徳川幕府のように全国の大名の屋敷を構えさせた。東北では伊達と最上が並んで屋敷を持っていたのである。
城でも大坂城でも会津の鶴ヶ城でも再建されたものであり当時のままに残っているのは全国で五つくらいしかないのである。
会津の城は新しく再建されているから真新しく何か博物館にも実際なっているからそれが江戸時代からあったのかと思う。
もし戊辰戦争の時の鉄砲の傷跡とか残っていればそのときの戦いのすさまじさを感じる
何か真新しいものを見ているとまさに博物館であり実物の城のように見えないのである。
その点、弘前城は小さいけど江戸時代からのものであり再建されていない
それは小さいのだけど何か北の質実な古武士のようなものを感じたのである。
歴史に残る建築は人間の精神の表象でありだから単なる物とは違ったものを感じる。
それは刀をただ人を切るものというだけでないものとして侍は帯刀していた。
刀は単に人を切るものではなく精神的なものとしての刀があった。
鉄砲はただ人を殺すだけのものでありそれが否定されたというとき鉄砲は人間の心を精神を否定してしまうからである。
その鉄砲が今や機械の戦争と化していることでもわかる。



 城の美学

徹底的に無駄を省いた造型
簡素簡潔の極みの美
潔白の四面の白壁
忠誠の主君の天主閣
質実の土台の石垣
貧しさの中の無駄のない美
武士道の結晶の美
身を律して静粛なり
冬樹のように張りつめて
ここに自ずと人格は陶冶され
一本筋の通りぬ
城下町の細い道
身を引き締めて
侍の威を正し歩む



城は東北では大きなものはない、一般的に日本の城はなぜあのように小さいのかと思う
今ならビルと比べるとあまりにも小さいのである。やはり日本の狭い島国だからこそ生まれた茶室のような無駄のない建築になっていた。
戦国時代に信長が鉄砲を導入して覇者となったがその後江戸時代になり鉄砲を廃棄した。それは精神性の方を重んじたからだというのがこの見方は世界史ではない
なぜなら熾烈な戦争では武器も核兵器になるまで追求しているからである。
日本の江戸時代のことは何なのかこれもわからなくなっている。
どうして駕籠のような原始的な人間の力だけに頼るもので人を運んでいたかというのも不思議である。

馬車を許可すると、駕篭かきや馬子、馬方、飛脚、船頭など古くから輸送関係の仕事を行なってきた者が職を失なう
同様の理由で、大八車の使用も禁止されていました。
(大八車の使用は江戸市中と駿府のみ許可。他の地域、特に街道での使用は厳禁)。
また、馬に乗ることが許される者の身分を厳格に定めたことも、馬車がなかった背景の一つ。
馬にまたがって手綱を取って乗れるのは武士のみ。

江戸時代はあえてこうして技術を否定したのである。こういうことは現代でありえない、そんなことしたら世界から取り残されるという恐怖があるからだ
そして侍が一番偉いんだという身分制封建制社会を維持するのには技術より鉄砲などをみんな使えるようにするより刀とか馬を尊んだ。
馬はヨーロッパでも騎士道でありナポレオンの時代も騎馬隊があって重んじられて貴族が馬をもつことでその地位を維持していたのである。
それは日本でも同じである。相馬野馬追いでもわかるように馬は特別なものだったのである。
いづれにしろ戦国時代に防衛的なものとして城が作られたが平和が三百年もつづけばそうした防衛的なものは城では無用化していたのである。
城で誤解するのは今ではあまりに小さいけど江戸時代は一番高い建物であり目立った。
天守閣が一番高く望まれていたのであり城が中心的な建物としてあった。
白虎隊が城が燃えたから終わりだとなって自決したのはそれだけ城の重みがあったからである。
現代はそういう中心になるもの重みになるものがないからすべてが混沌として分裂しているのである。
現代社会はだから精神的に安定しないしモラルも持ち得ないのである。

大阪城の詩(城の美学)
http://www.musubu.jp/shiropoem.htm

 
タグ:日本の城

2015年07月30日

鉄砲を捨てた日本人を読んで (すべてを道として精神を重んじた日本人)


鉄砲を捨てた日本人を読んで

(すべてを道として精神を重んじた日本人)


柔術は武術の起源と考えることもでき、柔術から派生した武道として柔道や合気道、そして空手のいくつかの流派などが知られています。
もともと武道とは武術であり道ではない、道というとき精神的要素が大きくなる。

武術とはいかにして敵を殺すとか身を守るかとかに発している。
それはあくまでも術であり道となったのは後世のことであり明治以降に道となった。
ヨーロッパなどでも騎士道があるがなぜ日本だけが武術が武道となり道として精神化したかということである。
そのことで興味深いのが「鉄砲を捨てた日本人」日本史に学ぶ軍縮 ノエル=ぺリン著
である。
ここで鉄砲は足軽ものであり侍の身分のあるものは使うものではなかった。
刀とかだと武術が生まれ武道になるものがあった。
しかし鉄砲には鉄砲道にはなりえないものだった。
刀を使うということは人を殺すものとして作られても精神化するものがあった。
子供の時ちゃんばらこっこにこった。
その時確かに映画のように受けてと攻めてが生まれ相互に呼吸を合わせるという感覚になる。鉄砲のように一発で相手を殺すというわけにはいかない
そのやりとりのなかで人間的なものが生まれる。
「おのし、できるな」とか良く言われて技を競うようになる

鉄砲はただ技術的優位で決まるのであり人間的やりとりは喪失する
それは核兵器になったときもう核兵器を使うことはできない、ただ核をもっているという威嚇だけのものになった。
核は使うものではなく核をもっているということで相手を威嚇するだけのものである。
近代になったとき戦争はただ兵器の優劣で技術的なもので決まるのであり技術戦争、機械戦争と化した。
鉄砲も極めて技術そのものでありだから日本人は鉄砲が入ってきたときすでに部品化していて量産して輸出までしていた。
日本人がなぜ明治維新でいち早く西欧列強に追いついたかというのは世界史でも謎であるそれは日本人の資質として戦国時代からすでにそうした優れた技術力があった。
刀でも日本刀はヨーロッパや中国の刀剣より優れている。
日本の工業力とか技術力は高いレベルにあったから明治維新も成功させたとなる。

太平洋戦争でも技術力の戦いでもあった。戦艦大和であれゼロ戦であり日本の技術はアメリカより優れていたのである。ただその後技術的に遅れて敗れた。
レーダーが日本にないというのも致命的だったのである。
ただ太平洋戦争はまだ古典的戦争の面がまだ残っていた。
馬が使われていたことでてある、移動も馬だった。だから馬を飼育することが戦国時代と同じようにあった。南京に入場したのも日本兵は馬だったのである。
今なら戦車で入場するからその辺がまだ戦争でも古典的な要素があった。
そして馬と戦死者を一緒に葬った墓があったりする。馬が供養されている。
馬がまだ活きていた時代だったのである。
馬が野馬追いに出る前に倒れた、すると馬もがんばって起きてくれとか人間的なやりとりが生まれる。
実際馬はペットと同じように人間化するのである。
機械だとそういう人間的やりとりは生まれないから非人間化する。

機械の恐怖は殺人マシーンとなりとても刀で切り合うようなものとはまるで違う。
大量殺戮となりただ人間が物ののように扱われて一片の人間的情も生まれないのである。
それは別に戦争だけではない文明化した結果、人間は機械を使うことが多くなる。
例えは自転車とバイクと車ではそれぞれに差がある。
自転車ばかりにのっていると姿勢が違ってくる。
なぜなら自転車は絶えず風を受けて走るからである。風にのっても走る、風を常に感じるのが自転車なのである。バイクもまた風を感じる、だから自転車と通じている。
でもその速さがあまりに違うから自転車とは比べることができない
自転車は坂を上るにしても人力でありその苦労は歩くとにているのである。
車となるともう風も感じないし外気も感じない、一つの鋼鉄の塊りが自然を無視して突っ走るとなる。その運転する姿勢も風を受けるとかないから硬直化する。
人間は一つの機械と化しているのだ。

この車がいかに社会を変えて人間を変えたか現代人は意識していないのである。
人間が切れやすいというとき車に乗る人はキレ安くなるし精神が安定しないのである。
突然自転車が横切ると「馬鹿野郎」とどなって切れて走りさって行くだけである。
そこに人間的やりとりは全くないし車に乗っている人は外からわからない
旅は道連れなどと言うこともない、そして馬とか牛を使うときは相手も生物だから死んだらあわれだとかなるが機械にはそうした感情は生まれないのである。
だから現代人は情の面で非人間化している。同情心が日頃の生活でも養われないのであるつまりそれは戦国時代の鉄砲が導入したときから始まった現象だったのである。

要するに建築がembodied sprit であるように人間の体も単なるbodyだけではない
精神を現したものとして作られている。
真っ直ぐな姿勢は真っ直ぐな心、真直な心、直しの姿として現れる。
だから武道で姿勢を重んじる、姿の美を追及している。
曲がった心はその人が体力があっても何か体まで曲がっているように見える
男性でも女性でも何か歪んで体も見えるのである。
腕のいい大工さんはもともと資質も良かったのがぴしっとしてまっすぐであり体力もあった。
自分はれを見ていたら体力的に貧弱だからうらやましくなった。
柔道の段位をもっているようにも見えたのである。
ミケランジェロのダビデであれヨーロッパでは肉体を精神として現すことが多い。
日本では武道とか姿勢を重んじる文化になった。

ともかく鉄砲ということで歴史をふりかえった
人間は使う道具に左右されやすい
鉄砲を使えば鉄砲社会になるし鉄道になれば鉄道社会になるし車になれば車社会になる
だから技術を何でもいいものとて取り入れるのは社会にとっていいかどうかわからない
でも現代はグローバル化で技術をとめることができない、だから技(わざ)は災い(災い)になるとは日本でも古代から考えていたのである。
思うに技術とは道具とはメデアなのである。使う道具によって感覚でも思想でも変わってしまう。
同じ文章を読むにしても本で読むのとパソコンや電子本で読むのは違う。
本は一つの本として起承転結があり一つの世界をもつ、インターネットは断片的になる。本だったら一ページを読むような感覚である。
それから紙に書いてある文字を読むのと電子文字を読むのも違っている。
縦書きで読むのと横書きでも違った感覚を与える
メデア、仲介するものによって伝えられるものが違ってくる。
音からでも声からでも違ったようになるし表情で伝えることもある

道具がメデアだというとき自転車も今は種類が多い
10種類くらい乗ったかみんな乗り心地が違うのである。
それは普通の自転車でもそうでありメーカによっても乗り心地が違うのである。
これは車でも種類が多いから乗り心地とかいろいろ違っているだろう。
人間の感覚は道具によってメデアによって左右されやすいのである。
武術なら弓を使うものであれ剣を使うものとかその使う道具によって人間が左右される
それで弓道も生まれた。

この本で学んだのは鉄砲一つでもこれだけ人間の社会を人間そのものを心まで変えてしまうという現実である。
だから何でも技術が便利だからといって取り入れることは危険でもある。
原発はそもそも地震とかが多い日本の風土には向いていなかったのである。
また西欧文明を明治に技術が便利だとして取り入れたが西欧文明はキリスト教文明でありキリスト教がわからないければとりいれなければ日本は破壊されると内村鑑三が言っていたけどそれが原発事故に現れたのである。
明治に様々な技術が入ってきたけどキリスト教を導入しないと日本は破壊されるというのは鉄砲を入れただけで社会や人間そのものが変わってしまう

江戸時代は鉄砲をすてて精神性を秩序を重んじて武士の社会を構築して300年の平和を保ったことに通じている。
日本は無制限に技術だけを取り入れたが結果的に日本の精神は喪失した。
ただ科学技術や金のみがすべてになってしまった。
それによって日本人の精神はモラルは喪失した。それは明治維新から始まっていたのである。
今日の問題はすでに明治維新の時からはじまりその歴史的結果として現在があるとなる
だから明治維新から150年とか戦後70年は日本人の新たな復古の時代になる。
それはか科学技術ではなく鉄砲を捨てたようにむしろ科学技術的なものを捨てるという発想なのである。
車に乗るより自転車がいいとか歩くのもいいとかなる発想である。
するとそれによって人間性の回復が起こるということである。
この辺で不思議だったのは一時車がガソリンが入らず使えなくなった。
その時本当に江戸時代にもどったようになった。
車がなくなると江戸時代にもどるのである。
その時空間とか時間感覚も江戸時代に一時的にもどった不思議があったのである。

結局これからの生活がとうなるのか?

もうこれ以上私はモノは道具は機械はいらない、それより人間的精神が豊かになるようにしたい
別にそういうものがなくても精神は豊かになれる
だから何でも買い金に頼る生活をしない
それより精神の心の豊かさを求める
そんなに物が金がなくても心豊かに生きる社会にしたい・・・

こんなふうになる。もちろんそれより貧困社会になっているのだから現実はそんな甘いもではないとなるのもわかる。
金はどんなことをしても非情な力をもって世界を支配している。
現実はやはり金であり金で回っている
でもなんらかここで歯止めが必要でありつまり心を変えることが求められているのである


タグ:鉄砲

2015年07月31日

抽象画(夏の山ーsummer mountains )


 抽象画(夏の山ーsummer mountains )

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これが原画

下のように変化するとは自分でも想像できないのがパソコンの抽象画


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夕暮れの夏の山

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 これもフォトショプで変化させてみた、なかなか手のこんだ変化ができる
 抽象画はともかく変化なのである。だから無限の変化でありこの絵でもまた変化してゆく、
 抽象画でもこれが山だとして見ないと鑑賞できないだろう
 これが山なんだといえばそうかとなる
 もちろん一見してこれは山だとして鑑賞することもできる
 ただなんかわからないと抽象画も鑑賞できないのである。
 自分がこれを山に見えたから山として抽象画を変化させたのである。
 それも偶然の結果なのがパソコンの抽象画なのである。
 
 
タグ:夏の山