鉄砲を捨てた日本人を読んで
(すべてを道として精神を重んじた日本人)
柔術は武術の起源と考えることもでき、柔術から派生した武道として柔道や合気道、そして空手のいくつかの流派などが知られています。
もともと武道とは武術であり道ではない、道というとき精神的要素が大きくなる。
武術とはいかにして敵を殺すとか身を守るかとかに発している。
それはあくまでも術であり道となったのは後世のことであり明治以降に道となった。
ヨーロッパなどでも騎士道があるがなぜ日本だけが武術が武道となり道として精神化したかということである。
そのことで興味深いのが「鉄砲を捨てた日本人」日本史に学ぶ軍縮 ノエル=ぺリン著
である。
ここで鉄砲は足軽ものであり侍の身分のあるものは使うものではなかった。
刀とかだと武術が生まれ武道になるものがあった。
しかし鉄砲には鉄砲道にはなりえないものだった。
刀を使うということは人を殺すものとして作られても精神化するものがあった。
子供の時ちゃんばらこっこにこった。
その時確かに映画のように受けてと攻めてが生まれ相互に呼吸を合わせるという感覚になる。鉄砲のように一発で相手を殺すというわけにはいかない
そのやりとりのなかで人間的なものが生まれる。
「おのし、できるな」とか良く言われて技を競うようになる
鉄砲はただ技術的優位で決まるのであり人間的やりとりは喪失する
それは核兵器になったときもう核兵器を使うことはできない、ただ核をもっているという威嚇だけのものになった。
核は使うものではなく核をもっているということで相手を威嚇するだけのものである。
近代になったとき戦争はただ兵器の優劣で技術的なもので決まるのであり技術戦争、機械戦争と化した。
鉄砲も極めて技術そのものでありだから日本人は鉄砲が入ってきたときすでに部品化していて量産して輸出までしていた。
日本人がなぜ明治維新でいち早く西欧列強に追いついたかというのは世界史でも謎であるそれは日本人の資質として戦国時代からすでにそうした優れた技術力があった。
刀でも日本刀はヨーロッパや中国の刀剣より優れている。
日本の工業力とか技術力は高いレベルにあったから明治維新も成功させたとなる。
太平洋戦争でも技術力の戦いでもあった。戦艦大和であれゼロ戦であり日本の技術はアメリカより優れていたのである。ただその後技術的に遅れて敗れた。
レーダーが日本にないというのも致命的だったのである。
ただ太平洋戦争はまだ古典的戦争の面がまだ残っていた。
馬が使われていたことでてある、移動も馬だった。だから馬を飼育することが戦国時代と同じようにあった。南京に入場したのも日本兵は馬だったのである。
今なら戦車で入場するからその辺がまだ戦争でも古典的な要素があった。
そして馬と戦死者を一緒に葬った墓があったりする。馬が供養されている。
馬がまだ活きていた時代だったのである。
馬が野馬追いに出る前に倒れた、すると馬もがんばって起きてくれとか人間的なやりとりが生まれる。
実際馬はペットと同じように人間化するのである。
機械だとそういう人間的やりとりは生まれないから非人間化する。
機械の恐怖は殺人マシーンとなりとても刀で切り合うようなものとはまるで違う。
大量殺戮となりただ人間が物ののように扱われて一片の人間的情も生まれないのである。
それは別に戦争だけではない文明化した結果、人間は機械を使うことが多くなる。
例えは自転車とバイクと車ではそれぞれに差がある。
自転車ばかりにのっていると姿勢が違ってくる。
なぜなら自転車は絶えず風を受けて走るからである。風にのっても走る、風を常に感じるのが自転車なのである。バイクもまた風を感じる、だから自転車と通じている。
でもその速さがあまりに違うから自転車とは比べることができない
自転車は坂を上るにしても人力でありその苦労は歩くとにているのである。
車となるともう風も感じないし外気も感じない、一つの鋼鉄の塊りが自然を無視して突っ走るとなる。その運転する姿勢も風を受けるとかないから硬直化する。
人間は一つの機械と化しているのだ。
この車がいかに社会を変えて人間を変えたか現代人は意識していないのである。
人間が切れやすいというとき車に乗る人はキレ安くなるし精神が安定しないのである。
突然自転車が横切ると「馬鹿野郎」とどなって切れて走りさって行くだけである。
そこに人間的やりとりは全くないし車に乗っている人は外からわからない
旅は道連れなどと言うこともない、そして馬とか牛を使うときは相手も生物だから死んだらあわれだとかなるが機械にはそうした感情は生まれないのである。
だから現代人は情の面で非人間化している。同情心が日頃の生活でも養われないのであるつまりそれは戦国時代の鉄砲が導入したときから始まった現象だったのである。
要するに建築がembodied sprit であるように人間の体も単なるbodyだけではない
精神を現したものとして作られている。
真っ直ぐな姿勢は真っ直ぐな心、真直な心、直しの姿として現れる。
だから武道で姿勢を重んじる、姿の美を追及している。
曲がった心はその人が体力があっても何か体まで曲がっているように見える
男性でも女性でも何か歪んで体も見えるのである。
腕のいい大工さんはもともと資質も良かったのがぴしっとしてまっすぐであり体力もあった。
自分はれを見ていたら体力的に貧弱だからうらやましくなった。
柔道の段位をもっているようにも見えたのである。
ミケランジェロのダビデであれヨーロッパでは肉体を精神として現すことが多い。
日本では武道とか姿勢を重んじる文化になった。
ともかく鉄砲ということで歴史をふりかえった
人間は使う道具に左右されやすい
鉄砲を使えば鉄砲社会になるし鉄道になれば鉄道社会になるし車になれば車社会になる
だから技術を何でもいいものとて取り入れるのは社会にとっていいかどうかわからない
でも現代はグローバル化で技術をとめることができない、だから技(わざ)は災い(災い)になるとは日本でも古代から考えていたのである。
思うに技術とは道具とはメデアなのである。使う道具によって感覚でも思想でも変わってしまう。
同じ文章を読むにしても本で読むのとパソコンや電子本で読むのは違う。
本は一つの本として起承転結があり一つの世界をもつ、インターネットは断片的になる。本だったら一ページを読むような感覚である。
それから紙に書いてある文字を読むのと電子文字を読むのも違っている。
縦書きで読むのと横書きでも違った感覚を与える
メデア、仲介するものによって伝えられるものが違ってくる。
音からでも声からでも違ったようになるし表情で伝えることもある
道具がメデアだというとき自転車も今は種類が多い
10種類くらい乗ったかみんな乗り心地が違うのである。
それは普通の自転車でもそうでありメーカによっても乗り心地が違うのである。
これは車でも種類が多いから乗り心地とかいろいろ違っているだろう。
人間の感覚は道具によってメデアによって左右されやすいのである。
武術なら弓を使うものであれ剣を使うものとかその使う道具によって人間が左右される
それで弓道も生まれた。
この本で学んだのは鉄砲一つでもこれだけ人間の社会を人間そのものを心まで変えてしまうという現実である。
だから何でも技術が便利だからといって取り入れることは危険でもある。
原発はそもそも地震とかが多い日本の風土には向いていなかったのである。
また西欧文明を明治に技術が便利だとして取り入れたが西欧文明はキリスト教文明でありキリスト教がわからないければとりいれなければ日本は破壊されると内村鑑三が言っていたけどそれが原発事故に現れたのである。
明治に様々な技術が入ってきたけどキリスト教を導入しないと日本は破壊されるというのは鉄砲を入れただけで社会や人間そのものが変わってしまう
江戸時代は鉄砲をすてて精神性を秩序を重んじて武士の社会を構築して300年の平和を保ったことに通じている。
日本は無制限に技術だけを取り入れたが結果的に日本の精神は喪失した。
ただ科学技術や金のみがすべてになってしまった。
それによって日本人の精神はモラルは喪失した。それは明治維新から始まっていたのである。
今日の問題はすでに明治維新の時からはじまりその歴史的結果として現在があるとなる
だから明治維新から150年とか戦後70年は日本人の新たな復古の時代になる。
それはか科学技術ではなく鉄砲を捨てたようにむしろ科学技術的なものを捨てるという発想なのである。
車に乗るより自転車がいいとか歩くのもいいとかなる発想である。
するとそれによって人間性の回復が起こるということである。
この辺で不思議だったのは一時車がガソリンが入らず使えなくなった。
その時本当に江戸時代にもどったようになった。
車がなくなると江戸時代にもどるのである。
その時空間とか時間感覚も江戸時代に一時的にもどった不思議があったのである。
結局これからの生活がとうなるのか?
もうこれ以上私はモノは道具は機械はいらない、それより人間的精神が豊かになるようにしたい
別にそういうものがなくても精神は豊かになれる
だから何でも買い金に頼る生活をしない
それより精神の心の豊かさを求める
そんなに物が金がなくても心豊かに生きる社会にしたい・・・
こんなふうになる。もちろんそれより貧困社会になっているのだから現実はそんな甘いもではないとなるのもわかる。
金はどんなことをしても非情な力をもって世界を支配している。
現実はやはり金であり金で回っている
でもなんらかここで歯止めが必要でありつまり心を変えることが求められているのである