2015年07月17日

経済学とは経世済民(日々の生活のであり一番身近なもの)


経済学とは経世済民

(日々の生活であり一番身近なもの)


「経世済民」

 経世というのは「世を治める」の意味です。「済民」は「民を救う」という意味です。世を治め民を救う、この4文字の言葉から「エコノミー」は「経済」と訳したらどうかということになり、そのまま経済という言葉として定着しました。

大学で経済学部を専攻した。でも自分はそもそも勉強が嫌いであり学校に適応できなかった。受験の勉強であり勉強が好きになれなかった。
だから勉強とは常に試験とかで強いられたものであり暗記であり高校まで自分で考えたことがない、ところが学問とはそもそも学び問うというように何かの問いがありそれを解決するものとして生まれた。
この世に生きる限り様々な疑問が生まれてくるからである。
今や文明生活は複雑であり疑問だらけでありその全容を知ることはできない
「なぜ3百万人も死んだ戦争があったのか?」
これも深刻な問いでありその明確な解答などないのである。
「なぜ人間は死ぬのか」
これも人間にとって個々人にとって最大の問いになる。
それで求道になりその問いをの答えを求めるのが人間である。
そしてその問いの答えは必ずある
だから真剣な問いがあることが学問のはじまりである。
学問というとき問い学ぶとあるが学ぶはまねるでありそのまねる、暗記だけだと学問は嫌になる。
簡単な算数でも今になると暗記でありそれをいろいろ考えて学習すると勉強好きになった算数を数字だけで抽象的に考えているとわかりにくいのである。
子供の学習で像から考えろというとき、一、二、三・・・と数があるときそれを具体的なものとして一個二個三個として図形として数字をとらえるとわかりやすくなる
数字は極めて抽象的なものだからとらえにくいからである。

そしてでは経済学とは何なのだろうとなる。学問は現代では様々な分野に分化してしまった。学問は学び問うが基本であり問うとはやはり哲学でありギリシャの学問が哲学であり問答形式になっていたことでもわかる。
経済学にしても商学部とか経営学部もあり分化している。
ただ経済となるとより一般的になり総合的になるから哲学的にもなる
商学部とか経営学部は実用的なものとしてある。
経済学部とは何か宗教にも通じている。世を治めるというとき宗教もそうだからである。資本主義がそもそも修道院から生まれたキリスト教のモラルから生まれたというのもそのためである。
仏教でも勤めというのはまさに仏に勤行をあげるとかが勤めでありそれが一般社会にも勤めるとなり働くとなった。
自分は今になると学問好きだったと思うようになった。
ともかく自分は考えることが好きなのである。何か実践することは苦手である。
だから実業家とか政治家とか現実社会で何か事業をしたりすることは向いていない
だから学者タイプだったのである。

経済学とはあらゆる分野に必要になる。根本的には経済とは何か、それはコストの問題があらゆることに最初に問題になるからそれが経済学なのである。

「エコロジー幻想ー武田邦彦)という本を例にすると

鉄道とバスと自動車を比べた場合、一人を一キロ運ぶエネルギーが鉄道は100、バスは178、自動車は595になるという。こんなに違うのかというのも意外である。
自動車は一人でも使うから効率的ではない、多人数を運べばバスの方が効率的になる

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田舎では一人一台車をもっているのが普通である。それは大量にエネルギー消費しているから都会より田舎の方がエネルギーを無駄にしているとなる。
それでコンパクトシティがいいというとき現代の便利な生活を維持するにはエネルギーでもコストがかかりすぎるからそうなる。
料理するとき湯で卵にするためにガスとか電気を使う、ガスだと5分とかであり電気だと10分とかになる。その時常に自分は無駄を感じていた。
つまり卵二個だけゆで卵することにそれだけのエネルギーを使うのかという実感である。なぜなら5個でも使うエネルギーは同じでありさらに十個でもほとんど変わらないからである。何かこれが田舎の生活がかえってエネルギーを消費しているというのとにている。都会だと人が集まっているから人間を卵に例えると百個でもゆで卵にできるとなる
それが毎日のことだから実感としてエネルギー消費を考える。
それは水道などでも同じである。一人風呂に入るのと五人風呂に入る水道の料は同じなのである。そこに水の無駄が生まれているのである。
現代は個々の暮らしが多くなったからこういうエネルギーの無駄が多いのである。
つまり車がエネルギーをそれだけ消費するのはゆで卵を一個を同じエネルギーで消費しているからである。バスだったら十人のせるが車は一人だからである。

それから太陽電池発電がこの辺でも原発事故以降いたるところに見られる
これも自然エネルギーだからすべてがいいというわけではないという。
それもコストの問題なのである。税金を投入しているから安いものではない、その設備投資でも保守するのにも金がかかる、これもコストの問題があり経済学なのである。
科学が技術だけの問題ではない経済学が関係しているのである。
つまりあらゆるものにコストがどれだけかかるということが常に問題になるからである。だから゛あらゆる分野で経済学が問題になる。
それはコストの問題が最初にあるからである。物を買うにしてもこれが買う価値があるのか、これだけの金を払う価値があるのかとかこの人を雇って価値があるのかとかコストの問題になる。それが経済学なのである。
オリンピンクの国立競技場問題もそうである。そんな大金をつぎこむ価値があるのか?
コストの問題がありそれでもめているのである。


原発事故でも経済学が関係していた。原発を建てるにば金がかかる、それだけの金を使う価値があるのかとなる。なぜそんな危険なものを作る必要が日本にあるのかとなる。
それはコストだけではない、アメリカの要請とか核兵器にするという裏の目的もあったのかとなる。
ただ東電の社長がコストカッターとして資材部から社長にのしあがったということでやはりコストが関係していた。
最初は高い所に原発を建てる計画だったのを低くしたのもコストのためだったのである。つまり安全を計ればコストがかかるからであり現実に津波の予想を東電ではしていたのである。
それをあえて津波対策の工事をしなかったのはコストがかかるためである。
これも経済的問題であり経済学だった。
この経済的問題はあらゆるところに生じる
日々の主婦のやりくりも経済学なのである。


介護問題にしてもこれも経済学の問題である。そもそも介護保険があるとしてそれは税金からでている。その金も膨大なのである。
確かに一日ディサービスでとまると5000円くらいとられる、でも現実は介護保険からその8倍くらいは出ているのである。もしその分をはらったら一日8万とかなると高級ホテルに泊まることと同じ料金がかかることになる
それで一カ月部屋が空いているから泊めたらどうかとケアマネジャーに言われた。
これまでは空いた部屋がないと思っていた。この辺では人手不足でもあるから実際そうだった
でも一カ月泊まりませんかというと空いているのだろう。
空いたままではホテルと同じように金にならないからすすめられた
一カ月15万は別に高くないのである。
ところがその15万は介護保険から出ると7倍8倍となったら百万にもなってしまう。
そういう計算をすると空恐ろしくなるのである。


別に介護保険から出るからいいじゃないかとなるがコスト的にはどうかなと疑問になる
なぜならその一カ月百万の金は税金だとすると個々人でも介護保険から払っているから実際は無料ではない、みんなして税金とて払っているものである
それで若い人にこうした保険料でも負担が多すぎるから健康保険でもコスト面で問題になる。国民年金でも若い人に税金の負担をかけているから問題になる。
税金をとったり払ったりすること使ったりすることも経済学なのである。
それが額が大きすぎるから何か実感しないが個々人でも月給からも税金としてひかれているのである。
高齢化社会とか介護とか医療には金がかけすぎるから政府でも何とか減らそうとするのはわかるのである。
それは自分の家の問題でもあるからよそ事としてではなく自分の問題として経済学がある経済学とは日々の生活のことであり学問としてむずかしいことではない
経済学は今ではグローバル経済になるとますます世界的なことも経済学としてみるようになる。
世界のことは関係ないとしていられないのである。アメリカに投資したらアメリカの動向や世界のことが常に気になってくるのである。
それは自分にも直接影響するからである。
経済学はまた倫理学である。昔だったら物を大切に使う、使い捨てなどしない、自転車でも高いから一生磨いて使うものだった。新しいものを買う金がないからである。
そういう貧乏な時代は何でも物でも大切に使っていた。

経済学はモラルの問題でもあるから「経世済民」になった。
医療とか介護とかも科学だけの医療技術の進歩だけでも解決しない
コストの問題がありそんなに保険を税金をつぎこんでいいのかとなる
それですでに国がつぶれるとまでなる、
ともかく物を今のように消費して使い捨てるとかの経済は成り立たなくなる
そんなに資源を無駄にするほど地球は人間に与えない
物を大切にするということはやはり経済学の基本でありモラルの基本なのである。
何でも新しいもの新しいものを求めるのも問題なのである。
今あるものを大事に使うというのも長く使うというのもコストの面でモラルの面でも必要なのである。結局そうならざるをえなくなる。
現代の消費生活はギリシャのように借金してまで贅沢するよう生活は経済学的にも破綻するということである。
医療とか介護分野でもそんなに金を使うことは経済の破綻になる。
何も介護など金をかけないでもできる。金を使えば個々人にも全体にも負担が大きくなり経済にコスト面で破綻してしまうのである。
やはり経世済民とは経済は世を治めることなのである。
何でもコストの問題が最初にありそれに納得してもらえれば世は治まるとなるからである現代とは税金の無駄が多すぎるからである。その税金が公務員に使われているとか不満が多いから世が治まらないのである。



タグ:経済学とは
posted by 老鶯 at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2015年07月18日

paintshopで変化させた樹齢千年の古木


 
paintshopで変化させた樹齢千年の古木

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老木



paintshopは変化させるに向いていた、普通に絵を描くのは絵の才能がないから使いこなせない
これも前に何か相当苦労して作り出していた
操作する回数が多い、目的をもって操作しているのではない、偶然の結果なのだが
何か意味ありそうなものが抽象画にしている
それがいくら操作しても意味ありそうにならないものもある
だから偶然なのである。
これはもともと抽象画になりやすいものだったから変化しても意味あるものとなった
だからソフトによって新たな抽象画ができるのがこの世界である。
タグ:古木 老木

2015年07月19日

男性的なものと女性的なものの探求 (岩と甘い声(詩)


 
男性的なものと女性的なものの探求

( 岩と甘い声(詩)


岩と甘い声

a rock and sweet gentle voices

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その女性の声は甘くやさしく
我が心にひびき癒される
大輪の花のように
悪びれることなく
馥郁と香りを放つ
その声は若々しく
新緑が風にそよぐように
その中に小鳥は伸びやかに
さえづりは森にひびきわたる
その余韻は森に木霊する
一方一つの古びた岩は
冬の寒さと雨の冷たさ
唸り吹く風の冷たさ
その辛さを語る
年老いて刻まれた深い皺
老人のように語る
人生の織りなす四季
人はこの岩を見ず
美しい花と甘い声を求める
岩は何を語るのか
岩は風雪を帯びて
威厳のある相貌
人生の辛さを耐えた沈黙
それもまた森に不可欠なもの
女性と男性に別れた性
自然もまた二つに分かれる
女性的なものと男性的なもの
その二つがありて調和する
妙なるハーモニィを奏でる



女性と男性は永遠に神秘である。そもそも人間は女性を男性は体験できないし男性を女性は体験できない、だから相互にわかりあうことがむずかしいとなる。
男性は子供を産めないし産む経験がないのだから子供を産むということが根本的に理解できない
快楽でも男性と女性は根本的に違っている。
そこに必ず行き違いが生まれるから離婚が三分の一とかになる。

ヨーロッパ系の言語がフランス語でもイタリア語でもドイツ語でもスペイン語でも男女を別にしているのはなぜだろうとなる。
自然を男性的なものと女性的なものとして分けて見ていた。中性というのもあるが男性的なものと女性的なものと分けた。
中国は陰陽に分けた。それはやはり動物だと雄と雌がいて成り立つように世界が作られていたからである。
猫でも雌より雄は外を出歩くというのも何かそもそも動物と人間はいろいろな面でにているのである。
それはペットとして飼うとわかるのである。
男性的なもの女性的なものというとき別に男性だから女性だからというのではなく
男性の中に女性的なものがあり女性の中にも男性的なものがある。
草食系男性とか肉食系女性というのがいるし女性的なもの男性的なものが実際に明確に別れるものでもない

でも一般的には女性なら癒し的な要素が大きく男性は闘争的とか逞しいとか強いのが男性である。
でも男性でも女性的な側面は内面的に精神的にもっている。
それも個人差が大きい、自分は何か女性的であり男性的に強さに欠けている
芸術家でも男性的タイプと女性的タイプがあり作品に現れている。
そもそも人間はもともと一つでありアダムの肋骨から作られたのが女性である。
だからこそ男性と女性は一体化しようとするのである。
もともと一つのものが二つ分かれたのだから実際は別れても一つなのである。
肉体的にも男性にも女性となり女性も男性となる作りがあるのでもわかる。
肉体という面だけが強調されるが精神的な面の相違も神秘である。

その女性は不運だった。結婚して障害児をもち、離婚して貧乏がつづき、苦労の連続でふけてしまった。
もともと見栄えが良くない、岩長姫だった。
ただ苦労しているから話は面白い、同世代だから話が合うとういことはある。
それはこの女性だけではない、そもそも女性だと若い時は余りに違うし別人のようにさえ思うだろう。
女性の華は若いときである。でも今は40でも50でも60でも若くなっている
それは男性にも言えるし個人差も大きい、
老人になると生気が衰えてくる、若い人には生気がありそこが根本的に違っている
だから老人は若い人と接すると若い人の生気を受けるからいいとなるが若い人でもいろいろいるから全部がいいというわけではない。
ただ女性というと肉体的なことにだけ注目するが声も大きな要素である。

それでホメーロスの『オデュッセイア』でセーレンの声に魅了されてしまう神話は何か生々しいのである。
それが肉体ではなく声だったことなのである。
人間は肉体ではなくても延々と女性的なものにひかれているのである。
そして人間の求めているものは心地よいもの快なのである。
何か性でもうまいものを食べたときでもそれが心地よいものとして脳に記憶されて消えないのである。
そしてその快楽をまた味わいたいというなる。
だから老人になってもたとえ肉体的なものでなくても老人が女性を求めることは変わりない
近くでイタリアンジェラードというソフトクリームを売っているけどこれもうまいから高くてもやめられなくなった。
快楽はつくづく食べ物でも中毒になるのだ。誰も苦しみを求めたりしない、それはやむをえないものとしてある。
だから麻薬ても快楽は脳に記憶されて習慣化されやすくたつことができなくなる。
それは別に麻薬でなくてもこのソフトクリームを毎日食べたくなったことでもわかる。
脳に快楽として記憶されたものはまた同じ快楽を味わいたいとなるのである。


いづれにしろ詩とか芸術になると女性ぬきでは語れない、だから詩となると若い時は恋愛詩になる。でもこれも浅薄なものとして終わる。
ダンテがベアトチェーリに憧れたということはわかる。
女性だとどうしても花に例えられる。岩とか男性に例えられる
花をテーマに自分がしたとき自分は女性的だがまた同時に石や岩もテーマとしてきた。
芸術になると理想は男性的なものと女性的なものの両方があるといいがどうしてもそんな性格をもつ人はまれである。
人間の個性でも限られている、あらゆる面をもつ人などありえないのてある。
それはまさに神のようになってしまうたろう。
ただ詩となると自然と人間も不可分に結びついている。
小説になると自然より人間中心になるが詩となると自然と結びついたものとして表現する自然から離れると人間だけだと芸術はそもそもありえないのである。



ホメーロスの『オデュッセイア』に登場する。オデュッセウスの帰路の際、彼は歌を聞いて楽しみたいと思い、船員には蝋で耳栓をさせ、自身をマストに縛り付け決して解かないよう船員に命じた。歌が聞こえると、オデュッセウスはセイレーンのもとへ行こうと暴れたが、船員はますます強く彼を縛った。船が遠ざかり歌が聞こえなくなると、落ち着いたオデュッセウスは初めて船員に耳栓を外すよう命じた。ホメーロスはセイレーンのその後を語らないが、『神話物語集』によれば、セイレーンが歌を聞かせて生き残った人間が現れた時にはセイレーンは死ぬ運命となっていたため、海に身を投げて自殺した。死体は岩となり、岩礁の一部になったという。しかし声だけは死なず、現在でもある時期になるとセイレーンの歌声が聞こえ、船員がその声を聞いた船は沈没すると言われる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3


 
タグ:男性と女性

涼しさ(今年は秋が早いかもしれん)


涼しさ(今年は秋が早いかもしれん)

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涼しさや水無し川の今日流る
涼しさや青竹伸びて流る音
川の瀬の音を聞きつつ橋に合歓
ノウゼンに夕日のさして虫一つ
ノウゼンに夕焼け映えて今日の暮る
山の影夕べ涼しき月と星

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今日もかなり暑かった。32度くらいにはなった。クーラが前の部屋にあったので試してみたが壊れていない、これも20年前とかかもしれない、古いものだが意外と壊れない、
このクーラーは20万とかしたから高いのである。
それで古いから電気を食うと思った。でも長い間使っていて壊れないしまだ使えるということは今では貴重に思った。
その部屋には液晶テレビになる前の重いテレビがあった。
液晶タイプにする前でありそれがもう動かせないほど重いものである。
それも最新式だったがそれから軽量化したからあまりにも違いすぎて使いものにならない技術が進歩して使いものならないものとさほど変わらず使えるものがある。

洗濯機でも冷蔵庫でもクーラーなどはまだ使える、クーラーは古いと電気料が高くなるから問題である。
今なら10年も使えるとしたらもうけものだとなる。
その他のカメラとか電子機器は変わり方が激しいからである。
こっち日新月歩なのである。


水無し川はどこにでもある。今日は水が流れていて涼しい
青竹が伸びて水の流れる音が聞こえる
日本の川は瀬音が気持ちいいし涼しいとなる
浅い流れだから仙台の広瀬川でもそしうだし原町の新田川もそうである。
真野川は瀬音があまりしない、ただ長いという川である。
川で良かったのはやはり浪江である。二つの川がありこの辺では一番いい川だった。
それで詩も残されたのである。


ノウゼンに夕焼けが映えて暑い一日が終わった。
そして夕月と星が出て涼しい
どうもこの涼しい感じも今年はこの辺で終わり早めに秋がくるかもしれない
これからまた梅雨の曇りになるからだ
暑さのピークは過ぎたかもしれない
何か体がぐったりして弱った、食欲もない、でも明日からは曇り気温も低くなる
だから意外と夏は早めに終わり今年は秋が早いのかもしれない
今年は暑さが早めであったがそれも終わり秋が来るのかもしれない

とにかく今年の気候は変則的でわからないことはいえる。
やはり確率としては7月までは暑いとしても8月からは低い割合が多くなる。
琴氏は残暑もそれほどでなく早い秋が来るのかもしれない
するとクーラーもいらないとなると楽である
すでに夏ばて気味になっているからである。


タグ:涼しさ

2015年07月20日

涼しさー六号線で感じる東風 (津波で海が見えるようになった浜街道)


涼しさー六号線で感じる東風


(津波で海が見えるようになった浜街道)

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海見えて浜風涼し6号線
涼しさや夕風吹いて6号線
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cool
evening winds
on route 6

涼しさや夕風に走るサイクル車
草原に海風涼し6号線
鬼百合やこの道幾度越えて行く
この辺り蝶の眠るや合歓の花

六号線は浜街道がありその脇を走る。浜街道というとき海が身近に感じられるから浜街道になる。東海道もそうである。
でも実際は海が見える場所はまれだった。だから海を意識しないのである。
松原があったときは海が見えなかったのである。
でも津波で松原とか家すらなくなり海が見えるようになった。
もともとは海が迫っていたのである。
海から吹いてくる風は東風(こち)である。でもなかなか風というのはわかりにくい。
風はその場所に長く住んでいないと意識できない

それで菅原道真の歌「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花、主(あるじ)なしとて春を忘るな」の歌がどうしてできたのか?
この歌は京都であり山に囲まれている、東風は山から吹いてくる。その感覚がわかりにくい。ここでは東風は海から吹いてくるからである。
その広大な太平洋から吹いてくる風なのである。
ただ東風吹かば・・とあるとき常に京都でも東風が吹くときを意識していたのである。
ここでは丁度原発事故のあったとき東風(こち)が吹いて飯館の山の方に放射性物質が流れて悲劇になった。
だから東風吹かば・・・・となるときここでは原発事故を思い出すのである。
風は旅していても意識しにくい、まず旅していると方角がわからなくなる。それで余計に風のことは意識できない、どっちから吹いてきた風なのかなど旅してもわかりにくい

特に電車でも来るまでも今は風を感じないからである。
それでバイクで風を感じたいという人が中高年でも乗っているということがある。
自然を感じない旅は旅ではない、ただの移動になってしまうのである。
昔の船乗りとか帆船の時代だったら風を感じるだろう。風を知らないでは船も操作できないからである。今ではヨットが一番風を感じるものになる。
自然を感じる旅はどうしても便利すぎると機械に頼るとできない
余りに現代のような便利の社会では自然を感じるにはわざわざは不便にしないと本当の旅はできない。
だからかえって時間がかかるし手間になるし難儀になるのである。

ともかく自分が旅していても風を感じたことはほとんどない、最近春に津軽平野の十三湖に行ったとき西風が吹いていたのでここは西風が太平洋から吹いてくるのだと意識した。それで余計に荒寥としたものを感じたのである。
あの西風を感じたときはじめて津軽平野の荒寥たるものを感じるのである。
もう一つは祖谷の谷間から吹いてきた春風である。
祖谷の葛橋の辺りだと相当に山深い、四国は実際は山国である。
それがなぜ谷間を吹き抜けてくる風があった。それは海からも吹いてくる風だという
風が吹く範囲とそのように広範囲なのである。
それでフクシマの原発事故で海から阿武隈高原の飯館村から福島市まで東風が吹いて放射能汚染されたのである。
谷間が風の通り道となり風がはるか福島市まで吹いたという驚きであった。

ともかく六号線は車の騒音などで嫌なのだが一番活きている道だし毎日のように通る
今日は白い髭をはやした年配の外人が重い荷物をのせて六号線を走っていた。
あれも珍しいと思ったがついていけなかった。
相当な体力がある人だなと見ていた。小島田からの坂はきつい。
自分は前は上っていたが今は上らない、脇道を走っている。
電動自転車だと上れるが脇道の方がいいのであそこは上らない
自転車は坂で疲れるのである。だから体力がない人は自転車はきついのである。
その点バイクは楽なのである。自転車は若い人でもまれである。
でも自転車の旅は今ふりかえると記憶に残っている。
それで思い出して詩を書いているのである。





タグ:6号線

2015年07月21日

夏の写真(雷雲が福島市から広がってきた驚き)


真夏の写真(雷雲が福島市から広がってきた驚き)

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パノラマ写真

この雲は福島市から湧いてきた雷雲

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夏空に若竹伸びる数十本
ひまりわとダリアの庭や陽の盛り
のうぜんにヒマワリ映えて街の庭
山百合の匂い流れて農家一軒
雷雲の福島市より沸き上がる
道の駅交差し去るや夏燕

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梅雨が明けたというけど今日は浜通りはからっとしてさほど暑くなかった。
クーラーも必要ない暑さだった。でも福島市になるとやはり35度くらいになっていた。
それで夕方に黒い大きな雲が湧いてきた。
それはどんどん大きくなったが雷は鳴らなかった。
福島市ではテレビで停電にもなる雷だった
写真の雲は福島市から湧いてきた雷雲だった。
福島市は浜通りとは地形的につながらないようでつながっている
阿武隈高原の向こう側に福島市がありそこから雷雲が湧いてきたのである。
するとそれは福島市から南相馬市まで広がった雷雲だから相当に大きいとなる。
そこまで普通ここではイメージしない

でもちょうどテレビでこの雲を見たとき福島市で大きな停電がありかなり雷があった。
その影響でこの巨大な雷雲が南相馬市までひろができたのである。
福島県はハマ、ナカ、アイヅで天候も相当違っている
浜通りは福島市とある時天候でも関係してくる
今日の雷雲がそうだった。
でも浜通りの暑さは31、2度であり湿気も少なく今日は暑く感じなかったのである。
浜通りは気候だけは恵まれている

福島市まで双葉や大熊か飯館村を通って放射性物質が流れた
これも意外だったがやはり地形的につながっていたからそうなった。
福島県はまず浜通りだったら会津のことは天候的にも地形的にも影響がない
福島市はやはり天候的に影響がある、暑さは浜風が吹いて違っているが今回のように福島市で雷がありその雷雲が浜通りまで広がってきたのである。
雲はこんなに広範囲に広がるものとは思っていなかった。
雲は宇宙から見ないとわからない、風もわかりにくい、それは広範囲に活動しているかだとなる。

夏だとやはりいい写真がとれる、夏には一番花が映えるからである。
ともかくこのくらいの暑さだと過ごしやすいし自転車に乗っていてもそれほど疲れないと思った。
俳句は季語が中心なように極めて日本的なのもである。
日本の季節は変化が激しい、だから気候が挨拶代わりになりそれが俳句文学になったのである。
天候は毎日変わるからブログのようなもの毎日アップするのには向いていた。
今日はまさに天候の報告だったのである。
タグ:雷雲

2015年07月22日

アメリカに投資してもうけている自分の矛盾 (アメリカ人は日本より貧困層の問題が深刻)


アメリカに投資してもうけている自分の矛盾

(アメリカ人は日本より貧困層の問題が深刻)


●アメリカは貧困社会?



アメリカは「特権階級」「プロフェッショナル階級」「貧困層」「落ちこぼれ」という4つの階層に分かれ、「特権階級」「プロフェッショナル階級」の上位二階層を合わせた500万世帯前後、総世帯の5%未満に、全米の60%の富が集中しており、トップ20%が84.4%の富を握っているそうです。そして、経済的に安心して暮らしていけるのは、この5%の金持ちだけだとのことです。

「他人の子供の世話をするために、自分の子供の世話をおろそかにする。自分は標準以下の家に住んで、人さまの家を完璧に磨き上げる」ワーキングプアは「ひたすら与えるばかりの人たちなのだ」とエーレンライクは言います。

小林由美『超・格差社会 アメリカの真実』



日本だとプロフェショナルが何ですかとか言わない、職業より会社名などを言うだろう。プロとはあなたの専門は何ですか?となる
何か専門的な知識やスキルを基にして働くものは収入が大きい。
「特権階級」は親の資産とかを受け継いだ人とかであるがアメリカでは金持ちでも桁はずれるになる。
日本はアメリカを戦後手本にしているのだから当然アメリカ社会に何でもにてくる。
それより世界が資本主義というグローバル経済のシステムに組み入れられているから資本主義経済の影響が大きい。
それでどこの国でも格差が生まれる、それはアメリカだけでなくて世界中で起きていることである。
だからこそアメリカだけの問題ではなのである。
ただアメリカとか中国とかなると国が大きいから極端になるのである。

なぜ貧しい人と裕福な人がいるのかとなるとこれもまた今だけの問題ではないし歴史的にもう人類がはじまってからあるだろう。
だからこの格差の問題は今だけではない、根の深い問題なのである。
貧乏の原因を考えるとまずそうした社会的問題としてとらえるのではなく個々人が原因になって起きることが必ずあり自己責任だとして批判されることはやむをえないことである貧困は今は目に見えないしまたそもそも人間の直接に接する人は少ない、10人くらいかもしれない、するとそこから見えてくるもので判断しやすい
良くシングルマザーとかの悲惨な貧困が増えているということを話題にするけどそれもマスコミでは極端なものしか取り上げられないからその内容が本当かどうかもわからない。つまり最低の極端なものが話題にされやすいのである。
普通に生活している人は話題にしても面白くないから極端な貧乏を話題にするのである。だからそういう記事が本当なのかどうかという疑問がわく
ただ全般的に現代が格差社会だということは否定できないだろう。

●貧困の原因

個人的な貧困の原因としては

●親の資産を受け継いでいない
●離婚している
●プロフェシャナルになれない

なぜ親の資産を受け継がないと貧困に落ちるれのかというとこれはまず土地とか家がないということをイメージすればわかる。
何もないところから一から結婚して始めるとなるとその労力は何倍にもなってしまう。
10万とか家のローンを払うとなると月給からその分30十年とかひかれていくのだから辛いそれで老後に破産しているとかが起きている。
でも能力ある人は一からはじめて財産を残している、土地を買い、家を建て、子供を教育して育てている。
農家だって三代しないと農家とは認められないという。
それだけの積み重ねがないと農家にもなれないからそうなる。
「草分け」というのはまさにその名からわかる。
つまり草茫々の原野に入り開拓した家である。
その後から入ってくる人はそうした草分けの家をまず頼りにして働きやがて代を経て財を築いてゆくのが順序である。
だから誰もいつまでも貧乏にとどまるとは限らないのである。
そういう人がなぜ今貧乏なのだ、草分けはうらやましいとか言って盗んだりすることはゆるささないことである。その家は最初は同じように苦労してきたからである。

子孫はその恩恵を受けている、でも恩恵を受けた子孫も零落することはある。
あとからの人がかえってけ苦労して豊かになってゆくということも昔からあったのであるその人は電工であり普通の労働者だけどトラック運転もして人より歩合制で一台いくらで勘定するけど人より運んだから収入になったという。それだけ努力したということである別に特別なスキルがなくても貧乏にならないし土地も家もあり普通の暮らしをできた人も多い。高度成長時代ということもありそういう人はが中産階級になった。
派遣とかフリーターとかはその時代ほとんどいないし正社員の時代だったことは今とは違う。
それから貧乏している人は必ず離婚している、離婚している人は二人分の収入があるのに一人分になるのだから当然貧乏になるのは目に見えている、現代はあまりにも簡単に離婚しすぎるのである。シングルマザーの問題もそこから起きてくる。
夫に問題があっても収入があれば昔ならがまんしていた。現代ではがまんしないから収入が減ってその後の暮らしのことを考えないで離婚する
すぐに生活保護になった人も知っている。
貧乏にはかならず自己責任の部分はあるし否定できないのである。


現代の格差社会を問題にするときそうした個々人の問題に原因があるというのではなく
社会のシステムの影響で貧困から脱することができない問題である。
いくら働いて働いても豊かになれないのはなぜなのか?
それはその本人ではなく社会のシステムで資本主義社会が悪いからそうなっている
それも確実にある。それでピケティの資本の不公平を指摘したのが世界的話題になった。つまり資本主義はもともと資本が元金がないと豊かになるチャンスが与えられないのである。
それは一億円の元金がたまれば株に投資すれば今でもその元金が増える、でもそのまとまった元金が増えなければ増えない、だから一億円あれば働かなくても暮らせるなとためる人もいる。
その一億円の金も資産家なら簡単にもてることができるから格差になる。
だから親の資産を受け継がない人は元金がないから投資もできず細々と働いているほかないのである。
だから資産というのはどうしても一代で築くことはむずかしいと思う。
それは特別能力があるプロフェショナルな人にはできるが普通は苦しくなる。
自分の場合はただ親に恵まれたので今は金には困っていない
でも自分が金持ちだったという気分になったことは一度もないのである。
旅ばかりしていたといっても最低限の旅でありまず外食で千円以上使ったなかったし宿も最低限の宿を探すのに苦労していたのである。
だから贅沢な旅などしたことがない、温泉旅館などに一度も泊まったことがないのであるあと使ったのは本代であり何か贅沢などしたことがないのである。

●毎日家事に追われている自分は金持ちではない

今でも自分が金持ちなのだろうかというとそうではない、実際に毎日家事と介護に追われているとなるとどうして金持ちなのだろうかとなる。
金持ちだったら家政婦でも20万とか30万でも雇うだろう。それこそ金持ちの気分になるだろう。掃除、洗濯、買い物、介護をしていたら自分は召使と今は同じではないか?
あいつは金があるなと言われても自分の状態は召使なのである。
だから自分を自分も金持ちだと思いないし召使としか言いようがないのである。
本当の金持ちは家政婦を二人とか雇っている人である。そういう人がいたが強盗に殺されてしまった。
だから金持ちは何なのかというときその内容もある。毎日家事に追われているような人が金持ちとは言えないのである。
家政婦とかだと一番格差を感じやすいのである。
他人の子供を世話して他人の家をぴかぴかにみがくのはなぜだろう?
そういうとき一番格差を感じやすいのである。
だからアメリカでは手伝いさんを裸にして使うということが極端化してなった。
それだけ格差が大きいと家に入る人はほとんど泥棒だということになってしまうからである。

確かに自分でも一番不思議なのは矛盾なのはアメリカに投資して儲かっていることであるええ、でもアメリカではこんなに貧困者がいるきかという驚きである。
アメリカは極端な格差社会である。移民社会だからそうなる。
つまりアメリカが国として豊かなのに貧困者がそんなにいるのかという疑問である。
そのアメリカで自分が金をもうけているというのも矛盾なのである。
これはグローバル経済では普通のことでもそういう経験がなかったから感じなかった。
アメリカが豊かでもその富はアメリカ人の国籍のある人に還元されていないのである。
誰に還元されているのか?それは株主だというのが資本主義なのである。
アメリカでは特に株主が優先される純粋な資本主義国である。
それは別に日本でもそうである。日本でもうけたものが別に日本人にその富が還元されるわけではない、外国人の投資家にも還元されるからグローバルなのである。
ただギリシャのようになると国自体が貧乏になると国内の格差だけではすまなくなる
全員が貧困状態に陥り国自体が滅亡するとまでなる
それは日本でも言えるのである。格差社会でも国にまだ力があれば国自体が全員貧乏になり滅亡するような状態にはならないのである。




 
タグ:格差社会
posted by 老鶯 at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2015年07月23日

白百合の花と介護している家(詩) (人間は長く人生をともにした家で死ぬのが理想だが・・・・)

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白百合の花と介護している家(詩)

(人間は長く人生をともにした家で死ぬのが理想だが・・・・)



蝶とまり夕風ゆれる合歓の花

限られし時に鳴きけり蝉の声今しひびきて夕暮れむとす



白百合の花と介護の家

庭の白百合の花、臥す母に向きて咲きにき
その大輪の真白き花や母に向きて咲き今日も暮る
我が家に嫁ぎありし長きその日よ
そが憩うべしはいづこや今は家に安らぐ
それぞれの家に歴史、物語のあれ
悲しみ、喜び、いがみあい、苦しみ、笑い・・・
それぞれの家族に物語のあれ
その長き日よ、その時は帰らじ
ただ思い出として物語として残されぬ
死ぬときよ、真白き百合の花を見む
その花の偽りなき誠の花よ
汝はその花を見て安らかに死ぬべしかな



今日の推理小説のドラマはそれなりに深いものがあった。人間は何か事件があるときそこに人間の問題が具体的に現れるから事件から人間を考える
なぜ夫を妻が殺したのかとなるそれが複雑である。
動機は義理の母を介護していたのに夫は不倫して妻の願いをことごとく無視した。
誰が見てもひどいと思う。
それが介護ということで自分も興味をもった。
介護は介護している人でないとその気持もわからない。
妻は七年も介護していたとか介護は長いからまた負担が大きいのである。
その妻は20数年の平和な家庭生活を壊したくなかったというのが動機だった。
夫から別れるという言葉を聞きたくないがために殺人になった。
その家族の思い出を壊したくないとして殺人になってしまった。
そのことは結婚でも長く一緒にいればそうなるのが普通である。
だから熟年離婚というのが理解できない

ともかく長い期間いて培われたものが何かしらある。
その間に憎んだとしてもそれも愛の反面になる。
長くいるということは何かしら意味があると思うからだ。
なぜそう思うかというとそういう時間がもうなくなるからだ
ではまた新しくはじめればいいというが20数年を御破算にしてまた一から始めるとなると人生にはそんな時間がないのである。
自分が前々から何度も言っているけど人生とは結局何に時間を費やしたかで決まる
そういうとき人間には時間が限られているのだから数十年一緒に過ごしてまた別な人と一緒に過ごすという時間が与えられていないのである。
だからその妻はそうして費やした家庭生活の思い出とかを壊したくないというのがわかるのである。

つまり人間にとって一番貴重なのは時間なのである。
誰と一緒に過ごすか、それも時間を共有するということである。
その共有する時間は一人くらいしか与えられていないのである。
離婚してまた別な人とやればいいとか次も離婚して最初からはじめればいいというわけにはいかない、なぜなら時間が鳴くなてしまうからである。
だから老人になってからなにか深い付き合いと結婚してもうまくいかないように思う。
老人はすでに費やした時間をふりかえるだけだからである。
新しい思い出を作る時間がすでにないからである。

人間の一生は本当にそれぞれの物語である。
だからこの家を苦労して建てたんだというときそこに物語がありその家に重みがでてくる家とは単なる箱もの、物とも違っているのだ。
たいがいこの家は働いて苦労して建てたんだよというときその物語を聞けば家に重みがでてくる。
それは商品にも通じている。この野菜は苦労して作ったんだよと直接聞けばその野菜が貴重に思えるのである。物々交換の時代はそういうことがあった。
今はそうした物語が省かれるから商品でも値段だけがとりあげられる。

介護を考えると自宅で死ぬのが看取られて死ぬのが理想である。
病院とかは施設とかは家ではない、それぞれの家の物語はない
一種のやっかいなものの収容所となってしまう。
介護というときその人がどういうふうに生きてきたのかということが問題になる。
それを一番知っているのは家族だからである。
でも家では延命治療るような余りに負担なことはできない
そんな負担を背負ってまで家でやるというのは余程の人でないとできない
そうされていた介護度5くらいの人を病院で見た。
その人はそれだけのことを家族にしていたからそれだけの介護をされていたのである。
最後はあまりにも悲惨な状態になっていた。
浪江の人だったが今はとどうしているかわからない。

病院で死ぬことも看護師や介護士に世話になることもこれも一時的ならいいが最後の看取りとか世話になることはいいことではない
医者でも看護師でも介護士でも体はめんどうみても心はみない
死んでもそんなこと毎日死んでるから物ののように扱うだけである。
看護師は白衣の天使でもなんでもない、介護士でもそうである。
またこそれを要求するのも無理がある。
見ず知らずの人にそんな愛を要求するのは無理だとなる。
病院はもともとそこで死ぬというより一時的にいる場所だったのである。
延命治療などは人間というより機械に囲まれて最悪だと思う。
人間は直る見込みがないなら延命治療はすべきではない
病院は無機質な冷たい場所なのである。
医者でも看護師でも介護士でも天使でもなんでもない、むしろ冷酷に見ているともなる
それをみんな批判できないだろう。
そういう仕事として割り切ってやっていて家族のようなことはできない
自分にとってだから病院とか恐怖になったし看護師にも怖い目にあったら今では恐怖している。
一時的にいるのはやむをえないがそこで介護のような延命治療のような状態にしておかれることが恐怖なのである。

 
タグ:家で死ぬ

2015年07月24日

東芝“粉飾決算”中心人物のあだ名は「原発野郎」 (モラルの崩壊が事故前にも事故後にも現れた)


東芝“粉飾決算”中心人物のあだ名は「原発野郎」


(モラルの崩壊が事故前にも事故後にも現れた)



 2009年に東芝社長となった佐々木則夫氏は何よりも先に、不適切会計が始まっていた西田厚聡・前社長時代の問題を明るみに出すべきだった
東芝の事業の二大柱は、半導体と原子力発電なのだが、佐々木前社長は原子力事業一筋でのしあがってきた人物。たとえば、東芝は06年、相場の3倍以上の約6000億円を用意し、原発製造大手である米ウエスティングハウス社(WH社)を買収したが、その立役者が佐々木前社長だった。
この佐々木前社長の行為は11年の東日本大震災以降の原発事業の不振をごまかすためだったと見られているのだ。

「06年に経産省が「原子力計画」を発表し、既存原発の60年間運転、30年以降も原発依存度30〜40%を維持、核燃料サイクルの推進、原発輸出を官民一体で行うとぶち上げました。東芝はその先陣を切ってコケた。計画を当時まとめたのが現在、安倍首相の秘書官として出向している経産官僚らです」(元政府高官)〉



東芝というと日本を代表する大会社である。それがなぜ粉飾決算までしなければならなかったのか?
それは原発と深く関係していたのだ。東芝は電気製品より原発に力を注いでいた。
原発はまた官民一体の事業だった。原発はベトナムでもトルコにも売り出したように
日本の産業にもしようとしていた。
それが今回の事故で大打撃を受けた。
原発事業は何か呪われたものだったのである。
東電という会社も日本を代表する巨大な会社だった。
その幹部もまた今回の事故の大きな責任があった。
津波は東電と想定しなかったというが独自の調査で想定していたのである。
ただコストがかかるから津波の防潮堤を作らなかっただけだったのである。
東北電力の女川原発はぎりぎりで助かったのは指導陣が経営陣が津波を想定して高くしたからである。
大失態は一旦高く作ったのに低くして作った、それもコスト面からそうなった。
それはアメリカのGEがアメリカには竜巻が多いからと電源を地下にしたことで最初原発はアメリカに指導されて作ったからGEにも責任があった。
そして東芝でなぜまた幹部が粉飾決算をしたのか?
それは原発の事故と関係していたのである。
原発で打撃を受けて収支が悪くなり粉飾決算になった。

事業というのは何かモラルの面で先に崩壊してゆく、一見技術の問題なのだからモラルとか人の道とかは関係ないように見えるのである。
技術に科学に忠実であればいいように見えるし理系だからあまりそうしたモラルとは関係ないように見える
ただ経営陣は文系であり理系的なものと関係あったとは言えない
親戚というものではないが事業を起こして失敗した人を知っている
理系の人も経営者になり失敗している
その失敗によってその人のモラルも崩壊していたのである。
その人は理系として優秀であり技術者だったのである。
その人も事業が失敗していたが成功を装っていたのである。
だからあの人は頭がいいから成功していると家族まで最近まで思っていたのである。
その人は借金してやりくりしていたけど成功していると思わせていたのである。

それは明らかに粉飾していた、粉飾会計をしていた

それは事業の失敗を隠すためであり嘘ついていたのである。
そのために自分は病気の時、借金を要求されてひどいめにあった。
でも病気になって弱者になったから何も言えなかったのである。
それをいいことに入院保証人になってやるからどうだとか借金をしてくる
その保証人でも誰の保証人となるのか?
それはまさに事業に失敗した肩代わりをしろ、自分の保証人になれと同じではないか?

借金した人ととかかわることは本当に怖いことなのである。
もしその時自分のように弱者になったら何かほんのささいなことでもしてもらったら
借金をしてくるから怖いし断れなくなるから怖い思いをしたのである。
その借金も百万単位で大きいから恐ろしいのである。
そんなことを相手は何にも思っていない、強者になった人は弱者になった人のことをわからないのである。
ただその人も借金があるからブラックな所で働かざるをえなくなったのも
モラル的に崩壊しているから何でも金のためにするようになる。
犯罪では必ず借金していること動機になるから調べる。
借金していれば確実に動機があり犯罪に結びつくことが多いのである。
その人はすでに弱者を恐喝したのだから犯罪者なのである。
別に警察につかまらなくても犯罪者になっている人などいくらでもいるのである。
警察などあてにならないという言うのもわかる
犯罪を置かしても犯罪者にならない人の数は膨大なのである。

原発事故の影響は本当に大きかった。それは日本全体にも世界にも影響した。
原発というのはそれだけ危険でありある意味で呪われたものであった。
つまり原発にかかわること自体が危険でありかかわると呪われるとなる
それは原発が核分裂という自然に逆らう技術であり二万年も消えないプルトニウムの毒を出す恐るべきものだったからである。
その時点で科学者もそのことはわかっていても利益になるから国でも官僚でも一体になり推進されたのである。
いかに原発事故の影響が大きいか、未だに避難区域になっている所は帰れないし元にもどることはない、補償金の問題で批判されるが故郷自体がなくなるということ人が住めなくなり荒廃してゆくことがどういうことか?
その被害の大きさは死者はでないにしろ物質的精神的損失は計りしれないのである。
一億円補償金もらってかえって得したとか言われても家族が離散状態になり
コミニュティは崩壊して故郷で代々築かれた歴史もたたれるという精神的な被害も大きかった。
あなたたち被害者づらしているけど原発では恩恵を受けていたし原発を積極的に誘致したのは住民であったというのも言える。
ただ利益になるということで国も官僚も東電や東芝も住民も一体となり押し進めたとなるそれでも東電はそれほど会計的には損失していない、国の援助があるからだ。
幹部も辞任していないで外国で役員になって暮らしているというのは東芝と大きな違いがある。
これもなぜそうなのかみんな疑問に思っても何ら責任が問われない
その原因は何なのかとなる、国の責任も問われるからかなのかこれも不可解であり
国民は憤りを感じても何ら責任は問われないのである。

 
タグ:東芝
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2015年07月25日

人間は何であれこの世に生きていれば連帯責任 (自分は手を汚さないでも戦争でも加担することになるー自衛隊にすべてをまかせることはできない)


人間は何であれこの世に生きていれば連帯責任


(自分は手を汚さないでも戦争でも加担することになるー自衛隊にすべてまかせることはできない)


●自分が手を汚さなくてもやはり殺すことに関与している

猫は子を産みすぎるから捨てる人も多い、オーストラリアで200万頭の野良猫を殺すというのもそのためである。
猫は繁殖力が強いからそうせざるをえない、例えばの話、猫の子を捨てるのを金で頼んだとすると頼んだ人は金を払っただけで手を汚していない
でも実際は間接的にかかわっていて汚れているのである。
これと同じように豚であれ鶏であれ牛であれたいだいその屠殺には関係していないのが現代である。
だから現代では屠殺の現場を見ている人はいない、でもやはり誰かが屠殺して肉にしているのである。
屠殺場を作ることを反対しているが豚肉を食べたいとなればどこに屠殺場を作らざるをえないのである。
それが近くにあったときいつもそこを通るから嫌だった。
今はなくなったけどなぜかそこが屠殺場だったという記憶があるからその嫌な記憶が消えないのである。
そこで豚が殺され続けたというときその土地があまりいい感じがしないだろう。
今は福祉の施設になっているから知らない人もいるだろう。
そこには何か土地の因縁というものが残る感じがする
そういう場所には住宅を建てたくないということもある。
それは理屈ではない、何となく嫌だということをさけることができないのである。
自殺があった家やアパートの部屋が住む人がいないとか安くなるというのはそのためである。

人間がなんでも今は直接的にかかわらないことが多い、毎日買う商品そのものがそうである。
どうしてその商品が作られてきたのかわからない、ただ金を払えば手に入れられる
その商品を作るのには豚肉でもやはり豚を屠殺してそれを加工している人がいるのであるそれはあらゆる商品がそうである、中国の鰻はなぜあんなに安いの?
それは太らす特殊の薬を使っているという、なぜ肉厚なのが不思議だったがそれは薬で太らせていたとなると食べる気がなくなった
何らか体に影響してくるからである。
食品の場合はそれが作られ過程がわからない、何かいろいろな薬品が入りすぎるのである今の社会は直接知るということが少なすぎるのである。
極端な貧乏を新聞とかでとりあげたとしてもそれは極端でないと注目しないからとりあげる
でもその真偽はわからないしたいがい嘘だろうとネットで言うようなっている。
自分もそう思う、そんな極端な貧乏は注目をひくために出しているのである。
それもその本人から直接話を聞けないからそうなっている
だからマスコミから出る情報はやらせがあり真偽を見極めにくい

人間が自分が手を汚さなくてもあらゆるものに関与しているというとき
それはいろいろな分野にある。
サラ金きか消費者金融のバックに金を出していたのが銀行だったというのもそうである。サラ金が暴利でもうけていたが銀行ももうけていたのである。
でも銀行は面に出てこないしきれいなものだとして社会から見られている
実際は銀行もブラックだったのである。
「みんなブラックじゃねえか」ということを自分は前に書いた
自分が手を汚さなくて間接的にブラックなこの世とかかわるからそうなる
アメリカの投資で自分がもうけているというときもそうである。
自分は株を直接取引していない、頼んでいるだけだがやはり株でもうけているとなると
資本主義の恩恵を受けているとなる

●自衛隊に金を払うから戦場で死んで戦いというのもそうである

人間でも人殺しを金で頼んだりすることが推理ドラマでは常にある。
地位があり権力がある人は自分の手を汚さないで殺人を暴力団関係に依頼したりする
それは直接的に手を汚さないのだがやはり殺人に関与している
例えば最近の防衛論議でもそうである。
自衛隊には十分な税金を払っているのだから戦場で戦ってもらって死んでもしょうがないとなる
税金で食べているのだから死んでこそその勤めを果すのが自衛隊だと極端に言う人もいるつまり自衛隊の仕事は戦場で死んでこそ意味あるものだとなる
ただ訓練ばかりしていて何になるのだとなる
そんなら楽じゃないかとなる
でもこれも地位とか権力がある人が暴力団関係に人殺しを頼むのとにていないか?
自衛隊は暴力団ではないにしろにているのである。
「お前らに金やるんだからいざとなれば戦場に行き敵を殺せよ」となる
そういうことが意外とみんなが肯定しているのである。
本当は戦争で人を殺すためとなると徴兵制の方が公平である。
なぜなら誰かに戦争を暴力団のように頼むことではなく自ら引き受けることになからである。
そうでなければ国となると大きいから守れないからである。
つまり国民自身が手を汚さなくては守れないのである。
誰かが手を汚さずに守ってくれるというのは虫がいいとなる

そもそもなぜそういう汚いことに人間がかかわるのかというと人間には肉を食いたいという欲望がありそれで誰かが豚を殺さざるをえない
その人間の限りない欲望が誰かを豚を殺さざるをえないようにしむけているのである。
みんな豚肉なんか食べたくないとなれば誰も豚を殺す必要がないからである。
でも豚を殺すのでも牛を殺すのでも自分はしたくないとは言える
他の人もそうしたら肉は提供されないということはある。
でもまたこれもそうした屠殺にかかわる人もやはり仕事がないとかなれば誰かがすることになる。
代わりで殺人する人も嫌でも金になるということでするからこれも欲望のためである。
原発でもそんな危険なものいらないとは簡単に言えない
なぜならみんなが電気を必要としている、暑ければクーラーがなければいられない
今は特に温暖化しているから余計にそうなったのである。
クーラーが最高の効果があるからである。
電気は今は石油が主だけど石油だって相当危険な場所、紛争が絶えない、戦争している中東にとりにいかなければならない、そんな所に自分は行かないからいいやとはならない
誰かがその危険を引き受けているから石油が手に入り楽しているのである。
そういうことは常に現代の便利な社会にはある。
ただ直接的に手を汚していない、危険にあわないから金さえ払えば電気が使えるとなっているのだ
結果的に原発事故がありこの辺では甚大な被害となったのである。
それはここ住んでいる人たちの欲望も深く関係していたのである。

●戦争を否定するのには豚肉を食べないような覚悟が必要

現代は便利さを求め欲望がかぎりなく肥大化したのである。
豚肉を食べ、鶏肉を食べ、牛を食べ・・・あらゆるものを食べる
そのためには間接的にでも実際は豚を殺し鶏を殺し牛を殺しているのである。
それが現代では意識しにくいから感じないのである。
でも豚肉を食うなとか牛の肉を食うなとは誰も言えない
それが言えないのは人間の欲望が否定できないからである。
この世のことはあらゆることが関係ないではすまないしかかわっている
本当は自分だけが安全地帯にいることはできない
戦争は自衛隊にまかせればいいとかはなりえない、なぜなら戦争となれば国全体の問題になるからである。
つまり自衛隊員でももう戦場に行かせられるならやめたいという人が増えるというとき
殺人で手を汚したないからそうなる。別にやめてもいいからである。
ネットウヨが率先して戦場に行けよというのも正論なのである。
それだけ口で勇ましいことを言っているのだから実際に戦場で戦ってこいとなる。
いざ戦争となったら自衛隊だけでは絶対に守れないのである。
要するに戦争といってもそれは現代では日本ではゲームのような感覚になる。
戦争を実感するのは実際に戦場で人を殺したときだろう。また殺された人を見たときだろう。
戦争した人が戦争だけはしたくないというのはそのためである。
何らかの罪悪感をいだかざるをえないからである。

とにかく集団的自衛権であれ自衛隊が海外の戦場にゆくことは海外で人を殺したりしたらそれは日本にいる一般の人も実際は手を貸しているということである。
自分たちは海外のことは自衛隊のことは知らないとはならない
金を税金を出して自衛隊にやらせるとなってもそれは人殺しを金が頼むとんのと同じなのである。
ではお前は国をどうしけ守るんだ、九条で平和ばかり念仏のように唱えて守れるのかとなる
その前になぜ戦争が起きるのかということを考えねばならない
戦争をさけるということを世界の国々で計らねばならない
そんなことはお人好しであり中国であれロシアであれ攻めてきてたちまち国民は蹂躙されて奴隷にされるのが国際社会の現実だともなる
でも世界の歴史で軍事力で世界を支配できたかというとできなかった。
それはモンゴルのように一過性で終わる
ただ戦争を否定しようとしたとき左翼のように9条を守るというだけではできない
豚肉を食べたいという欲望をなくすようなことが必要になる。

原発事故でもそうだった、それも人間の欲望と深く関係していたからである。
つまり原発反対のデモに行った人が帰ってきて暑くてどんどんクーラーび冷やしてくれと言うのも矛盾なのである。
結局9条を実行するとなると宗教のように無抵抗主義になり人は絶対殺さない、殺すなら殺されてもしょうがないとかなるかもしれない、そこまで覚悟せざるをえなくなる。
ただ世界史では強い国が勝つとは限らないのである。
それを証明したのがベトナムだった。アメリカはベトナムに勝つことができなかったのである。強いということは必ずしも軍事力があるということでもない
聖書では軍事力ではない、神に頼って勝ってきたのである。
だから何らかそこに神の関与があったとなるのである。
つまり戦争でもあまりに不条理なことモラルに反する国が一方的に他国を蹂躙できるのかとなる。それはやはり神が許さないとなり神の関与があるとなる
この世のことはなんらか神の関与がある。原発事故も津波とかで神の怒りだったのかもしれない、原発は何か神を怒らせるもので呪われていたのである。




 
タグ:自衛隊
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