2015年07月10日

青葉風 (仙台の青葉通りの俳句十句ー都会と田舎が融合すると文化が育まれる)



青葉風

(仙台の青葉通りの俳句十句ー都会と田舎が融合すると文化が育まれる)

aobaaa12355.jpg

aobagou1111.jpg



夏菊の雨ぬれバスに六号線
高速を一路走るや夏燕
駅よりや通り吹き抜け青葉風
仙台に外人交じり青葉風
若き等の街を闊歩す青葉風
鳩歩む通りや青葉の影涼し
影なして青葉通りや学都かな
雨しとと青葉の濡れて喫茶店
新幹線仙台に着く青葉かな
夏日射し人々あまた熱気かな
夏の陽の雲に映えるや街の朝
新幹線仙台に着く青葉かな
仙台や青葉の日影朝歩む
仙台や朝サイクル車青葉かな



仙台は青葉である。今頃が一番青葉映えて青葉通りになる。
青葉風が通りをふきぬける、バスを待っているとふきぬける
いろんな人が歩いている、外人も歩いていたし杖ついた老人も歩いていたし
昨今の事情なのかホームレスも歩いていた。
外人も今どきはどこにでも歩いているが仙台はやはり多い。
仙台は東北では一番の都会であり交通の要所である。
だから東北仙石ラインが新しくできて石巻まで50分だった。
青森までも二時間かからないのである。それは今は南相馬市と同じ時間である。
人間の距離の感覚は交通の便で変わってしまう。
石巻が50分か、青森が二時間もかからないのかとなる

仙台にと来たのもひさしぶりだった。やはり人間は田舎だけでは生活が豊かにならない
文化も生まれない、田舎的なものと都会的なものが融合すると文化を育む
田舎的なものだけだと何か精神も沈滞してくる。
都会での刺激が必要なのである。それは歓楽街とかではない
青葉通りの道路に面した喫茶店で歩いてゆく人を見ているだけで何か活気を感じる
それはなぜか、人が歩いていることを車社会になって見ないからである。
道路を人を歩いていないのである。
その象徴として駅前がシャッター通りになったことである
人は全然あるいていない、車が素通りしてゆくだけである。
人間が仙台のように歩いている姿が見れないのである。
それは結局車社会になったとき駅前通りでも歩かないからである。

今日ひさしぶりで原町の駅前の大きな病院でみてもらった。採血して糖尿病の検査をした糖尿病ではなかった。
そこに若い女性が多い、田舎で一番にぎわっているというと変だけでそこは病院であり
介護施設なのである。他では若い女性はいても少ないしだから病院だけで若い女性に接することができるとなる。
あとはイオンとかスーパーに人が集まるくらいである。
一番若い女性が多いのは病院なのである。
仙台では青葉通りを若い人も老人も歩いている、病院はどうしても老人が多い
そこに若い女性が看護師だけではない、事務員でも多いのである。
田舎の勤め先は病院と老人の施設が一番多いのである。

仙台の特徴は東北の中心都市でありそこにが学都でもあり森の都であり学生も多い。
若い人が働く場でもある。だから青森の津軽鉄道の終点の中里のタクシー運転手の息子は仙台で働いているとか仙台は東京のように若い人が集まっているのである。
震災後は余計に避難者などが仙台に集まり人口が増えたのである。
本でも大きな本屋がありそこで立ち読みするとなにか頭に入るのも不思議である。
書店の効用はなぜか本を買うというのではなく立ち読みすることにある。
ある意味で図書館的な役割を果たしている。そのためにある量がないとできない
そういう書店はもう東北では仙台くらいしかないのである。
通販だとどうしても中味が読めない、立ち読みがうまくできない、一部紹介されていはいる。
でも書店での立ち読みのようなことはできないから困る

それで石巻のことを知りたくて古本屋に入った。
その書店でめずらしく経営している人が郷土史に詳しかった。
郡山の安積疎水とかで明治以降開拓に入った人が親戚にいて良く・・・バイとか九州弁をしゃべっていたという、・・・バイとかはオイドンとかはテレビなどで聞く
明治から百年以上たってそれだけまだ九州弁をしゃっべっているということはそれだけの人数が開拓に入ったということである。
相馬藩でも越中などの移民が天明の飢饉以降入っているからその風習、真宗の火葬などが入ってきた。
ただノバとか裸というのは真宗の方の方言だったらしい、それを子供の頃使っていた。
他の土地の言葉が入り伝えられることは相当な歳月が必要である。
百年過ぎてもやはり九州の方言をしゃべっていた人がいたというのもそれだけの人数がいたということだろう。
そうでなければ数人単位だったら方言も残らないだろう。
アメリカなどはメキシコ辺りから移民が多いから英語とスペイン語が半々くらいになっている。だから英語だけでは通じないからスペイン語も習っている人がいるのである。

新地が伊達藩だったということを言ってその方面の本が郷土史研究であったので買った。戊辰戦争のことが駒ヶ峰の攻防戦のことが出ていたので買った。
郷土史研究はまず資料をそろえないとできない、その時は必要でなくてもあとで必要になったりするからである。
その人はしきりに郷土史研究でも売れないと言っていた。
ネットでも販売している、まずそうしたものは興味ある人でないと売れない
仙台市は大きくなりすぎて歴史を調べるのも容易ではない
かえって今は小さな範囲だと郷土史というのもにも興味をもつ
範囲が広くなると興味あるものをしぼれないのである。
だから石巻市とか女川とかは興味をもったのである。
仙台の人が言っているが仙台では観光する場所がない、案内する場所がないと言っている仙台は何か目立つものがない、青葉城だって石垣だけだし何か60万石となるものが残っていない
あそこは一回上ればあきるのである。
ただ青葉通りというのが都会では気持いいのである。
その青葉には何か都会的なものを感じる、青葉風というとき仙台のイメージにぴったりのなのである。
新幹線がその青葉から仙台駅に到着したときあっていたのである。

仙台ではなにすることなく喫茶店でコーヒーをのみ通りの人を見ていると何か都会的な雰囲気にひたれるのである。
自分はともかく喫茶店が好きだったのである。そこで瞑想して書き物をしたりする。
何かそれが気分転換になる。食べ物も仙台はいろいろある。
ナンとかもありインドの旅行を思い出す、今回と中華料理店で焼き飯を食べたけどそれはチャーハンと違っていた。
中国人が経営している店だから中国的な焼き飯だったのである。
最近は遠くに旅できないからなにかそうした料理にも注意を向けるようになったのである本を買わなくなったので仙台には行くのはまれになったがやはり都会的雰囲気を味わうことも必要である。
田舎的なものと都会的なものが交わるとき文化が生まれるのである。
ただ盲点は文化というのが都会的なものであり都会だけの志向の人が多いのである。
田舎的なものがあり都会的なものがあるとき文化なのである。
欅の並木は自然でありその自然を活かして通りがあるから文化の街となるのである。
タグ:青葉

2015年07月11日

石巻の歴史 (東北の港でもあり様々なテーマがあった)


石巻の歴史

(東北の港でもあり様々なテーマがあった)



雄勝の硯
この石は玄昌石(げんしょうせき)とよばれています
http://www.mediaship.ne.jp/~elsoshu/my%20home%20p/suzuri.htm


ほまち

「帆待ち」「外待ち」と書く。
このあたりでは「ほまちかせぎ」と使われることが多く、「ほまづ」と濁ります。方言ではなく、国語辞典にも「出帆を待つ間の船頭さんの稼ぎ」「臨時の収入」「へそくり」と載っています。多く東北地方で言われてきた言葉と但し書きがついて。相馬に行くと「小遣い」「駄賃」の意味となるそうです。
 http://archive.ishinomaki-support.com/index.php?gid=10161

この難破船事故の積荷には仙台藩の城米が主力では有ったのですが、その他には荒銅、堅炭、辛子、大豆、和薬等も積んでいたのですが
http://red.ap.teacup.com/hangui/1498.html

仙台藩は 石巻、 気仙沼などの良港にめぐまれ あわび ふかひれ
などの高級海産物を長崎を通じて 輸出して 外貨を稼いだ。 さらに 鉄、
金などの鉱山を持っていた。 仙台藩の経済力は 幕府にとっては 脅威
であった。


石巻の人がしきり言っていたのは「雄勝の硯」のことだった。この職人の一団が住んでいたところに津波が来てその職人の一団が死んで困ったという。
スレートという材料が出てこの硯の歴史は相当に古い、それで石巻から江戸に出していたのかと思ったらそういう記録はない、すると伊達藩とかで使われていたのか東北中心に使われていた硯だったのかとなる。
スレートでは新しい東京駅の屋根に使われたとかテレビで放送されていた。
石巻で興味をもつのはそこは東北の港ともなっていることだった。
北上川は平泉に通じてそこからいろいろな品物が運ばれたと言われる
特に名古屋の常滑焼が多いのである。
他に象牙などはどういう径路で入ってきたのか未だに謎にされている。
江戸時代は北上川が交通路になり盛岡の方まで通じていて物資が運ばれた。
だから石巻は東北の港とも言える、一伊達藩の港ではない、そこも魅力なのである。
石巻の港には南部・八戸・一関といった東北諸藩の蔵が次々と建てられ、
だから穀町とか千石町とかの地名がある。主に米を積み出したからである。

 
彼は、薩摩藩士で安政年間に東北を歴訪し、見聞をもとに『東北風談』(風譚とする写本もあり)を著し、東北諸藩の藩政と海防について的確な批評をした。
肝付兼武は仙台について、広い平野に水田が広がり、諸藩に冠たる米の大産地だが、米以外にみるべき産物がなく、およそ衣服器材はみな他国に求めている、と産業の実情を述べている。
 これ自体、現在にも通じる宮城の産業構造を的確に捉えているが、もっとビックリするのは、次の民情の批評だ。
 http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/200604020000/
 
江戸に送られたのは主に米であり江戸の米相場まで左右したというから仙台米はそれだけ江戸で食べられていたのである。
北上川沿いとか仙台平野は米倉となった。それは広いからそれだけの米がとれたが米ばかり作って飢饉のときに米がとれなくなり苦しんだとなる。
コーヒーだけ作っている国が飢饉になれば苦しむのと同じである。
米は商品作物となっていたのである。

もう一つ面白いのは鋳銭場があったことである。仙台藩で経済が困窮したとき「寛永通宝」が作られた。それによって一時的に藩の財政を支えた。
でもそのことが日本経済全体に影響した。これも何か経済学のテーマだった。
ここから探求すれば一つの論文が書けるだろう。
つまり学問は必ず一つのテーマをもって追及することからはじまるのである。
そういうテーマは身近にいくらでもあるのだが見いだされないだけなのである。
海の民、漁師の影響は日本では海に囲まれているのだから古くからあった。
「ほまち」というのが帆待ちから来ていたのか?
シケているというのは海が荒れているということで伝わっていることはわかる。
他にも漁師の言葉が他にも伝わっているのである。

石巻はいろいろ探求することがある。
そこで聞いた話で自分の母親は山形の人で北海道に船に向かう途中船酔いで石巻におりてそこで嫁になってしまったという。
これも嘘のような話だが人間の運命はみんな数奇なものなのである。
どうしてその人と結婚するようになったかとなるとそれも数奇であり不思議としか言いようがないことが多いのである。
特に戦後になると広域化して全国の人が交わり結婚するからこういうことも今ではめずらしくなくなったことでもわかる。
ただ石巻は港であり他国の人の出入りが多いからそうなりやすかったことは昔からあったことはわかる。

石巻に関してのネットの情報はかなりある。、仙台藩についてもあった。
やはり大藩だから歴史の集積があるからそうなる。
ただ広すぎてなにかしぼれないということで仙台では郷土史に興味を持つ人は少ないとなる。
でも石巻とかにしぼればそこから興味が広がるのである。
仙台はどうしても大藩だから東北とも関係して江戸とも関係して全国的に伊達政宗の時代からなっていたのである。
伊達政宗にしてもその歴史の裏話としては伊達政宗だけが脚光をあびるが伊達政宗によって滅ぼされた武家もいる。葛西氏は石巻を支配していたが伊達政宗に滅ぼされた。
その逸話も残っている。月鑑斎(げっかんさい)などもそうである。
相馬氏は伊達政宗に滅ぼされなかったのはなぜかというのもまた歴史のテーマになる。
石巻から登米(とめ)には行ったことがないのは鉄道が通っていないためだった。
行きたいと思っても行けないのである。車がないと行けない場所だったのである。
自転車で旅するにしてもそれは一部しかできないからぬける所が多い
鉄道が通っていれば何度でも行けるのである。

葛西氏の伊達に追われて殿入沢逃れざるかなここに果てにき
鉄道の通じざるかな登米遠くなお行かじ我が齢も尽きむとすも
万石浦浦宿すぎて女川や百羽の鴎夏に舞ふかな
石巻津波の被害なおあらわ空地のめだち夏も淋しき
石巻ここに住み着く親のこと語るも奇しき海風の吹く


タグ:石巻の歴史

2015年07月12日

紫外線も適度に必要 (人間は風土から作られるー原発事故にも関係していた)


紫外線も適度に必要

(人間は風土から作られるー原発事故にも関係していた)


●白人の肌は少ない紫外線を吸収するために白くなった

sapporo1111.jpg

北海道は紫外線をこれだけ多くあびねばならない
それは緯度が同じ西ヨーロッパとかと同じだったのである


日経のテレビで紫外線が有害ではなく体に必要なものだということを科学的に立証したと研究者が言っていたのは興味深い。
ヨーロッパなど寒い地域の人たちが肌が白いのは紫外線をあびる量が少ないからだという肌が白いということは科学的には紫外線を吸収しやすくしているのである。

人間の皮膚の色はさまざまです。それは黒褐色のメラニン色素のためで、メラニンが多いほど肌の色は黒くなり、紫外線に対して抵抗性があります。白人では紫外線を浴びても赤くなるだけで、あまり褐色になりません。日本人は赤くなるとその後数日して褐色になります。黒人は紫外線をあびるから黒い肌になった。その風土の中で黒い肌になり白人は白くなった。

最近くる病により頭蓋骨全体が軟化(頭蓋癆)が増えている。
女性が紫外線をあびけいないのでビタミンDが不足している。それで骨が弱くなっている
母体が幼児に影響するからタバコを吸っている女性は気をつけろとか言われる。
人間はその風土に適応して体がつくられてゆく、それは何千年という長い間の中でその風土に見合ったものとして作られてゆく
だから欧米人は肉食が基本だとするとき肉を消化する酵素が胃からでる。日本人は穀物を消化するために腸が長くなった。
だからそもそも日本人は米など穀物中心のアジアは肉食が向いていないとなる。
原発事故でもチェルノブエリではヨウソが不足しているから甲状腺癌になった。
日本ではヨウソを海草類からとっているからヨウソ不足にならないから危険をまねがれるということが言われた。それも風土の差だった。
欧米人には白人には皮膚癌が多い、日本人には少ないのである。
癌の種類でも欧米化して食事が変わるともともと少なかった癌が日本人に増えている。
前立腺ガンなどは少なかったが増えているし他にも大腸癌とかも増えている。
それは明らかに食事が欧米型になっ結果である。

そもそもその土地に風土に適応して生きてきたのが生物である。
人間も生物なのだから当然そうした影響を受ける。
グローバル経済というのは一見いいようでもそもそも風土は別々でありそこに育まれる育つ食料でも何でも違っているのである。
日本では牛肉とか豚肉を大量に食べるようになった。果たしてそれがいいものだったかどうかそのために欧米型の癌が増えた。
肉を消化する酵素がアジアでは出ないということは肉食は向いていないのである。
学問の基礎はこれは科学的なものとして証明したのだが他の科目でも共通したものがある学問の基礎は風土学にあった。その土地土地のものが食料でもありその土地にあった食物が育つように地球ではできている。
文化もだからその土地を耕すものとして生まれる。その土地から離れて文化もありえないグローバル経済は何か世界を何でも一様化することなのである。
科学とか数学とかはそうなりやすい、それはグローバルなものとして共通言語になる
言葉でも共通にはなりえない、例え英語でも英語には英語が生まれた文化的背景があり
それは数学のような記号ではないのである。
だから当然英語を使えば英語圏の文化の影響を受けるのである。
人間が国内でも日本では多様な世界だった。それが言葉でも方言がなくなったら地域性もなく言葉のあたたかみもなくグローバル化した世界のように無味乾燥になってしまう。

●学問の基礎は風土にある

原発事故でもそうした地域性とか風土とかが原因になっていた。
アメリカでは竜巻で度々被害を受けていた。それで竜巻を想定して頭にあるから電源を地下にした。まずフクシマ原発は最初に原発が作られたのでアメリカの指導によって作られたからである。アメリカでは日本の風土を地震が多いと津波のことを想定しようがなかったのである。
ただアメリカでさえ東部にほとんどの原発があり西部にはなかった。
それは西部では太平洋岸沿いは地震が起きているからである。
つまり自分の国内なら安全をやはりアメリカでも計っていた。
ところが外国になると無責任になる。それは外国になれば誰も自国を本気になって守らないと同じである。
アメリカでも日本が中国と戦争になれば本気に守らない、死んでまで犠牲になることはない、それよりかえって中国と日本を戦争させて利益を得たいというさえなる。
それが国際関係であり外交である。漁夫の利を得たいとなる。ロシアは常にそうであった誰も他国を命をかけてまで守ろうとはしないのである。
国もそうだが個々の家だってそうである。家を守るものは家族しかいない、だから家の中に入って働く人は一番危険になる。
そもそもその人たちは家のために働くといっても金のためにしかないのだからその家のために尽くす動機がないのだから危険なのである。
その家から奪ってやろうという気持しかないとしたら油断できない、いつも看視している他なくなる。それで家で働く人は問題を起こすのである。
ベビーシッターでも他人の子をまかせたらそうなる


それは国と国の関係にもにていたのである。原発でもアメリカは古い原子炉を売ってもうけたくて日本にすすめたとかある。
それは外国になるともうければいい、事故になってもいいとかまでなってしまうのである一体そもそも国であれ家族であれ守るものは誰なのか?
それは個々人でもそうである。自分を守るものは他人なのか?
例えば健康でも自分を守るものは自分しかいない、だから節制しないと病気になることはわかっている。病気が怖いといっても医者や看護師が全部直してくれるわけではない、
基本的には健康も極力守れる範囲で自分で守らなければ守れないのである。
地域にしても故郷にしても守るのは誰なのか?
東京電力はフクシマに原発を作ったのは自分たちの安全を計るためである。
フクシマが事故になっても東京は離れているから安全だとなる
つまり地域を守るもの故郷を守るものもそこに住んでいる人しかないのである。

●国でも地域でも家族でも自分でも守るのは誰 か

ある人が見栄で借金してその借金を他人になんとかしてくれと借りにくる。
その額も事業に失敗したので大きい、それをなぜ他人に頼るのかとなる。
それもこっちも苦しい病気のとき要求してくる。
相手が弱ったときチャンスとなり弱ったとき攻めてくる。
まさにこれは外交であり国際関係であった。それは戦国時代と同じである。
弱みを見せればつけこまれる、火事場泥棒にもあうのである。
だから外国に他人に頼るのは極力しないようにするのが基本である。
それは原発でも同じだった。アメリカに頼りすぎて日本の技術がないためにそうなった。アメリカの言う通りになったのが危険たったのである。
防衛面でも今やアメリカにだけ頼る時代ではなくなった。
だからそこで戦後70年とかで大転換期になった。
軍備を増強するとかではなく何か日本の自主性を日本を日本で守るという精神の復古が必要になるから右翼が台頭する時代になる。
そこにはまた戦争の危険性がある、ただ戦争も良しともするのもやはり時代の反映なのだろう。
そもそも日本人の心として日本を守ろうとする気概すら消失しているからである。

ただ戦後70年は経済の豊かさの便利さの追及しかなかった。
日本は危機的状態から守られてきたのである。それはアメリカが良きにしろ悪しきにしろあったということである。
ソビエトの冷戦時代も終わり日本はまた中国とかアメリカとかロシアの中で独立路線を進となると戦争になると孤立するのである。
紫外線の問題は科学的なものの専門分野としてある。
でもそれを深く追及してゆけば風土の問題とか全体の問題になる。
グローバル化して白人はアメリカなどに住むようになった結果、紫外線をあびすぎて皮膚ガンが増えた。
日本人も肉食化して大腸ガンとかその他の癌が増えてくる。
人間はやはり風土の問題とか地域の独自の成り立ちとか歴史を無視できないのである。
それは理系とか文系とかではない総合的な問題として考察すべきなのである。
だから原発はただ科学だけの問題ではないその土地の風土と郷土史とも関係していたのである。
そういうふうに総合的に見る目が文明から欠如している。
まず文明全体とかみれる人などいないからである。
文明の災禍はそうして全体が見えないからこそ起きてくる
原発自体だってそれにたずさわる人さえ全部を知りえる人などいないからである。
原発の問題はさらにその土地のこと風土であれ全体を知ってこそできるものだった。
そういう全体の視点が喪失していたから事故になったのである。


タグ:紫外線
posted by 天華 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2015年07月13日

夏の花四種(詩とエッセイ)


夏の花四種(詩とエッセイ)

ttttttt123.jpg

合歓の花が向こうに咲いている

tachiiii123.jpg

写真でこのように見えたが肉眼では見えなかった
写真でないと見えないものがかなりある
花は特に近づいてとると見えないものが見えるのである。


夏の花四種

合歓の花は高みに咲きて風そよぐ
立葵は健やかに伸び咲きて
藪甘草は故郷の山む向き咲く
その赤心の花は土着の花
夕暮れ匂うは貴婦人のラベンダー
高雅なる紫色の衣ににて

花にもいろいろ個性がある。不思議なのはこの四種類の花でも合歓の花は外来種である。合歓の花はベトナムのフエの王宮では街路樹になっていた。

ベトナムの王宮たずねあわれかな合歓の花みな散りし後かな

ベトナム辺りでは美人を連想するときは合歓の花になるのだろう。他に南国だからいろいろ鮮やかな花が咲いていた。

伝統的にハーブとして古代エジプト、ギリシャ、ローマ、アラビア、ヨーロッパなどで薬や調理に利用され、芳香植物としてその香りが活用されてきた
ラベンダーも外来種であり香りが珍重されたことは今に通じている。それは何か貴婦人の高雅な香りなのである。
花にもいろいろあるがこのうよに外来種が多くなったのが現代である。

このなかで藪甘草は土着的な花である。だから野馬追いとかにもあっている。

青田中行列行くや藪甘草

今年は青田が増えたからそこに藪甘草が咲いて野馬追いの行列が行く
野馬追いでもそうだがそもそせ祭りは土着的なものから生まれた
土着的なものがないなら祭りではない、祭りはそれだけみんな古いからである。
それで仙台になると何か東京のように土着性がなくなる、都会化し郷土史に興味がもてないし土着的な文化が生まれないというのもわかる。
賢治とか啄木には土着性があったというのもわかる。
啄木の場合は土着的になれずに終わったが土着的なものをあの若さでもっていたから故郷を偲ぶを歌を残したのである。
二人とも天才であり本当の土着性となると三野混沌とかの本当に土とともに生きて死んだ人になる。
この辺は海があっても高い山がないから故郷の山というとイメージできない
山でもいつも高い山を見ていると心に影響する。
この辺はそれがないからものたりないのである。

ともかく昨日は暑かった、ぐったりした。暑さにも弱いから暑いところは寒い所に住みたくないのである。
浜通りは暑さと寒さが極端でとないから気候だけはいいから老人には気候では適している最近異常に暑くなっているから南とか暑い地域には住みたくない
沖縄の方が涼しいというのも異常である。沖縄では海に囲まれているから32度くらいまでしかならないのである。
それでも暑いが35度になるともう住みたくないとなる

タグ:立葵

土着的なものになって文化は興隆する (「心に青雲」には土着的なものが欠如している)


土着的なものになって文化は興隆する

(「心に青雲」には土着的なものが欠如している)

 
「『鎌倉仏教』は、日本の土着世界観の幾世紀もの持続に、深くうち込まれた楔であった。」(280ページ)、「土着世界観の著しい特徴の一つ、抽象的な全体の秩序へではなく、具体的な部分の詳細への鋭い関心……」
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/taguchikosou.htm
 
仏教は土着的ではない、一つの思想でありそれは世界的に通じる普遍的な理論である。
だからはこそ国が変わっても通じるものがなりそれが中国的なものとして土着して
韓国的なものとして土着して日本的なものとして土着した。
日本でも時代が変わると鎌倉時代には武士の仏教として禅を中心に土着化した。
土着化するということはまさにその土地と一体化することなのである。
ゲルマンの森と大地と一体化してゴシックの石の大聖堂が作られた。
土着化とはその土地と自然と一体化することなのである。
宗教にはそういうことがあったがマルキシズムは世界的普遍的なものとして受け入れられるたとしてもそれが土着化するということはなかった
一つの科学的理論と同じである。それは民主主義とか資本主義とかも主義でありそれが土着化するということはなかった。
ただ資本主義のはじまりが北のドイツなどの修道院からはじまったというときそれは宗教的なものとしてはじまった。
神に奉仕するということで勤勉の哲学がありそれはエトスとして庶民にも共有された。
日本でも武士の精神は武士道は庶民にも影響していたのである。

そもそも民族とか国というのは必ず土着化したある地域からはじまっている。
日本の民族の国のはじまりがヤマトだというときそれは奈良の一地域にヤマトがありそこが国のはじまりだったのである。

抽象的な全体の秩序へではなく、具体的な部分の詳細への鋭い関心

奈良が山に囲まれているというとき「やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし・・」その青山でありその山でも個々に山がありその山と一体化してゆく。万葉集もそうした明確な像となるオブジェクト、対象があって歌われたものである。
まだ架空のもの、詩のように空想化されたものは歌われていない。その土地の像と不可分に結びついていたのである。
日本人の精神の源流として山自体が信仰の対象となる、三輪山がそうである。御神体が山なのである。つまり抽象的なものではない、山とか石が御神体になるのである。
これはユダヤ教とかイスラム教とかキリスト教でも偶像崇拝とはなる。
それ自体を神として崇めることには問題がある。
ただ山とか石とかがもっている原生質を人間が精神化するモラル化することは別に偶像崇拝でもないのである。仏像でもそれを神ではなく精神的なものの表象として見れば偶像とはならない、ただ常にどうしても人間は偶像崇拝に陥るからそれを厳しく戒めたのであるカルト教団でもほとんど教祖が偶像化していることでわかる
具体的なものとして人がいないと理論だけでは庶民でも理解できないからである。
だからつまらない人間でも現代では偶像化しやすいのである。
特にマスメデアは常に偶像を作り出しているからである。
それでイスラムではテレビとか写真に人間の顔が写ることを拒否することまでしているのである。

「心に青雲」の著者が像で考えろというときまさにその具体的な像がないと人間は実感できない、ところが都会になると山もない樹もない、石もない、自然がなくビルだけを見ていたらどういう像が形成されるのかとなる。
都会に土着的になるものがない、それは仙台でも都会化東京化すると土着的なものはなくなる
だから仙台には賢治とか啄木のような土着的な詩人が生まれなかったと言う人もいる。
つまり詩人は芸術家でも土着的でなければ詩も絵にもならないだろう。
毎日高層ビルを見ていても深い精神性は養われない、ただそこにあるのは損得を毎日計算しているビジネスマンがいるだけだとなる。
「心に青雲」の言っていることはまともなのだけどでは純なる日本はどこにあるのかとなる。純なる日本はやはり日本の自然にあり神道はその純なる日本の自然にあった。
その大和言葉にあった。
罪(つみ)とはつつむでありつつみかくすでありつつしむとか日本の自然は余りに美しいのでその自然に罪をつつみかくすということがあった。
それは犠牲の小羊で血を流して罪を清めるという文化とはあまりにも違っていたのである日本ではそもそも馬とか牛とか羊がいないと魏志倭人伝にあるように動物を犠牲にするという文化がないかち理解できないのである。

「心の青雲」でしきりに徴兵制を復活して若者を鍛えなおすべきだというのもわかる。
やはり人間の精神形成は30代までほとんど完成してしまうからである。
青春時代を放蕩していたりしたら何らもはや人間的な精神形成が不可能になる。
青春時代を浪費することはそれはのちのちまでたたりとりかえしつかなくなるから怖いのである。
ただそういうふうに青春時代を思う人はまれである。
青春時代がいつまでもつづくと思っているのが人間でありそれは世代が変わって変わらないのである。
青春時代はたちまち過ぎて老人になっているのが人間なのである。
青春時代に精神形成ができてそのあとは何か余祿みたいになるのが人生なのである。
ただその後も紆余曲折があっても青春時代に悟り突破するものがあれば確かに精神を病むとかなくなるのは確かである。
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」である
人間は一度狂わなければ逆に狂ってしまうのも人間なのである。
吉田松陰が狂いと言ったのは正しかったしそうしなければ乗り切れない時代だった。
ただその狂いもただ狂っていたのでは効果はない、的を得ないと本当に狂気になって終わる。

ともかく青春時代はいろんな面で二度とない、自分もカルト教団などで青春を浪費したが自分が追及していたのは権力などではなかった。でもカルト教団はすでに世俗より俗世化したものだから権力御利益しか目指すものがなかったのである。
精神形成として若者を鍛えるべきだというのはわかるがそれが国家のために戦争の時のように仕向けるのには疑問がある
別に国家を第一にしなくても精神形成とか求道はありうる。
ただ国家に奉仕するのが生きる目的でもないからである。
国家的ヒロイズムとしての「心に青雲」の主張は疑問がある。
アレキサンダーの時代ならそれもあっても現代の戦争は全く違ったものでありただ人間の無駄な殺戮だけあり人間が殺戮マシーンになっているだけだとなる
日本兵は確かに粗末な食でも戦場で耐えたということはわかる。
その苦労はなみたいていなことではないし今の飽食の日本人には耐えられないことであるでも実際に従軍看護婦をした人が家族にいたので聞いたがもう耐えられなくで病院の窓から飛び下りたとか自殺した人がかなりいたのである。
それほど過酷だったのである。
だからそういう日本兵をみんな英雄視できるかは疑問なのである。

そして教育にしても土着性が喪失した結果として荒廃がある。
それは明治維新後急激な過度な富国強兵の欧米列強に伍するための中央集権になったからである。
廃藩置県というのも今になると土地の土着性を無視した結果であり問題が起きている。
やはり土地に根ざして人間の精神が形成されるというとき江戸時代の方が貧乏でも人間の精神はまともだった。
教育でも武士が中心でも藩校とかあり土着的でありそこから明治維新の逸材が生まれた。明治維新には混乱して評価が定まらないがやはりわれだけ若いのにあれだけのことをやれたという驚きがある。
今の若者でも団塊の世代でもそうしたことをまねてもできない、全学連などは全く腰砕けで終わったからである。

団塊の世代はその後はただ企業戦士として高度成長時代を築いたのである。
ただこれは評価されないし若い人の反発をかっているだけだとなる
戦後70年たって国際情勢でも変わったし国内でも変わったから教育にしても何でも変換を求められている。
今回の津波とか原発事故もそうした変わり目に起きたのである。
つまり復古というときやはり日本の土着性の復古でありどうしても都会的な所から起きてこない
仙台が何か東京化しているから土着的なものを喪失しているから詩人が生まれないというときそうである。
自然がないと土着的な創造は生まれないのである。
その土着的なものを破壊したのが原発事故でもあった。
第一次産業があって土着的なものが育まれるからである。それがなくなったらどうなるのかということを書いてきた。
田んぼがない田園社会がイメージできなくなったということである。
東京のような大都会だと田んぼがもともとないのだから米がどうしてできるのか像として具体的にイメージできないのである。具体的な像となるべきものがないのである。


タグ:土着の思想

2015年07月14日

立葵(抽象画)


立葵(抽象画)


tachiiii123.jpg


;tttttaa1.jpg

aaaaaaat222.jpg

aaaaaaat222333.jpg

rrraaaa333.jpg


これも一つの抽象画になる、自分は花をテーマにしてきた
立葵としての花の変化したものに確かに見えるのである
タグ:立葵

津波で失われたものに木陰があった (右田の松原は消えて木陰ないので行けない)


 
津波で失われたものに木陰があった

(右田の松原は消えて木陰ないので行けない)


今日は朝から暑かった、福島市で40度に一時なっていたから記録的な暑さである。
ただ福島市と南相馬市は温度でも相当違っている。
浜通りは浜風が吹くから涼しいのである。
それでもここも今日は異常に暑かった。こうなるとやはりクーラーが自分の部屋にないといられなくなる、自分の部屋は二階にあって隣のトタン屋根が焼けて三度くらい暑くなるから余計にいられなくなる
そして思い出したのがいつまも右田の松原の日影で休んでいたことである。
松原が長く影になっていて海から風が吹くから涼しいのである
今になると日影になる場所が海辺には全くない
他の人も日影になる場所がないと言っていた。
これもまた津波で失ったものだったのである。

木陰というとなんでもない当たり前にあるもののように思っていた。
木陰は木がないと木陰にならない
その木がないのだから木陰にならない
そしてその木というのは簡単に作れない、成長しないのである。
それで確かに土盛りした高台に樹の苗をボランティアとともに植えた
でもその樹が育つのは50年後とかなってしまうだろう
そもそも右田の松原は江戸時代からあったのか?
百年は軽くすぎている,比較的太い松が多かったのである。
松川浦の松は年月が浅いから細い松林だった
だから右田の松原は貴重だと思っていた

もともと松原は人工的風景だったのである。
自然林ではなかった、そして松原は根が強く張らないので津波に弱かった
混生林だったら自然林だったら津波に強かったし点々と残っている樹は松は一本もないのである。
松は津波に弱いものだった、竹は強く根をはるから津波に強くそれで津波が遮られてよわめられておさえられて助かった所もある
松原といのうは津波を全く想定していなかった
それは海側を干拓して潮風を防ぐ防潮林として人工的に作られていた
ただ不思議なのは慶長津波(1611)の後の20年後くらいに津波の跡は塩田化して利用されたただその時田としても干拓した地域が仙台平野にあった
「潮入り」とかの地名は津波の跡がなお残っていた土地らしい
松原が日本にこれだけ増えたのは慶長時代の津波の後から大分たってからだろう
それは百年くらいたってからかもしれない
その時津波のことなど忘れていた。米をとるために防潮林として松原が作られた
それは自然と調和した光景のように見えていた
実際松原は日本の自然の風景となっていた

それにしても今回の津波で松原が喪失したことは驚きだった
なぜこんなうふうにてったのか今も解せないだろう
それは人間が悪いとも思えないからである。
ただ問題は松原が作られたのは日本では土地がないから海側に干拓したことが原因になっていた
松原が作られたのは稲作するために干拓したことがそもそもの原因だったのである。
それは日本は土地が狭く田んぼにする土地がないから海側を無理して干拓したのである。それは日本の風土の宿命というべきものだった
日本が満州に進出したのはやはり満州という広い土地で稲作するためだったのである。
満州は寒いから稲作には適していない後日本人は米を作ろうとしていた
その米を作ることがまさに日本人の業(カルマ)となっていたのである。
だから今になって米が余っているということは当時の人からみたら想像もできないことである。
減反政策など想像すらできないことである。
干拓とか海を埋め立てするかとかは自然に逆らうことだった
そういう無理が大きな自然災害を生んだのである。
文明は自然に逆らうことである。
原発事故でも実際は自然に逆らうことであった。核を分裂させて放射能の毒をもたらすからである。
自然には毒はもともないのである。
文明の災禍はこれからも大規模に起きてくる。人間の技、業(カルマ)なのである。
その業(カルマ)をとめることができないからまた災い(技わい)がとめられないのである。
いづれにしろ50年後に樹が成長してその木陰でまた休んでいたい

50年すぎて木陰に我はまた休みてあらむ海風涼しく

右田浜松影涼し昔かな

生きている内にもう木陰休むことはできない、でも30年くらいたてば木陰ができているかもしれない
それにしてもその歳月は長い、この津波の復興は20年たっても以前としてできない
それだけの長い時間が必要になってしまったのである。
タグ:松原
posted by 天華 at 19:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2015年07月15日

君が代は日本の土着的な誇るべき歌 (磐をイメージして聞くべき歌)


君が代は日本の土着的な誇るべき歌


(磐をイメージして聞くべき歌)


君が代の歌詞は古今集からだとすると古い。
曲は明治になって雅楽を基にして生まれたとなると日本的な伝統から生まれた音楽となる雅楽はなじみがないし宮廷の貴族だけが楽しむようなものだと思っていた。
ただ宮廷だけでもそれが音楽として伝えられるものがあったとすると日本の伝統である。貴族はいろいろ批判されるけどやはりその国のモラルと文化を作ってきたのである。
マルクキシズムになるとそうした貴族階級の否定になるから文化も破壊されるのである。中国の文化革命がそうであり文化の破壊であり実際に中国の文化財が破壊されたことでもわかる。
日本でも武士階級が批判があってもモラルと文化を江戸時代に作ったのである。
江戸時代には仏教は侍の下部組織となって役所のようになってしまった。
江戸時代のモラルは武士が作っていたのであり寺は戸籍などを管理する役所になっていたただ武士道というのは江戸時代にはなかったというし古い武士の出身が武士道を否定しているのもそれだけすでに武士道はもうどんな武士の出でも何も受け継がれていないのが現代である。
この辺では野馬追いがあっても武士道というものはない、ただ祭りとなっているだけである。


武士道というときやはり剣道とか柔道とかに受け継がれている。それは姿勢を真っ直ぐにするとか真直な道の追及なのである。
空手でも武士道が何か受け継がれている。ただ確かに道とついてはいなかった、剣術であり柔術として江戸時代にあったという「心の青雲」の著者の指摘がある。
何か術となると精神性がない感じになる。
いづれにしろ日本の歴史は江戸時代の300年がありその時代につちかわれたものに純な日本があったことは確かである。
ところが明治になったときその江戸時代にあったものが何でも変えられたのでわからなくなった。
でも明治にかえって漢詩が一番興隆したとかなるから日本の伝統的なものが江戸時代から継続したものが明治になって新たなものとなって復古したのである。
歌舞伎などでもそうらしい、明治に新しく作られた歌舞伎なのである。
なぜそういうことができたかというと明治にはまだ色濃く江戸時代に培われたものが残っていたのである。
一葉の文学でも古文調でありあのように大和言葉が古文調が残っていたから明治になり独特のものとして小説が作られた。
つまり和魂洋才であるが和魂があって大和心があって唐心があったようにまず和魂がなかったら洋才もありえないのである。
その和魂が明治にも根強く残っていたから明治は文化の興隆時期だったのである。

だからキリスト教にしても内村鑑三の武士道キリスト教とか戦後では手島郁朗の神道的キリスト教とかが主張された。手島郁朗氏については理解しにくいにしても何か日本の伝統的なものを受け継いでいたのである。
そもそも明治維新が複雑でわかりにくいにしろ江戸時代300年に培われたものが西欧文明の挑戦を受けて日本の伝統に根ざしたものが維新した、改められた時代だったのである。その後はその江戸時代に培われた日本の伝統が失われた時代だった。
だから日本とは何なのだろうとまた古きをたずねて新しきを知る、温故知心の時代になったのである。
国の歴史となると明治維新だけをみる人が多いがそもそも江戸時代の前から戦国時代から継続が歴史だというとき明治維新もまたそこまでさかのぼって考える必要が出てくる。
つまり安土桃山時代にキリスト教を導入していればどうなっていたかとなる。
その時明治維新と同じように日本は400年前に西欧文明と対峙することになったからである。それを拒否して鎖国したから明治維新があったとなる。
太平洋戦争の原因もそこまでさかのぼることにもなる。
そういうふうに国の歴史となると長い目で見る必要がでてくるのである。

君が代とは

我が君は 千世にやちよに さゝれ石の いはほと成て 苔のむすまて(題知らす/読人知らず)

歌詞としてはここから出ている。でも曲はどうしてできたのか明治以降にできたのである雅楽から生まれたというときやはりそこに日本の伝統が継続されて生まれたから意義あるとなる。
ただ君が代は天皇とは限らない、日本民族の継続せんとする歌だから国家にふさわしい。君が代には思想性がある。他の国家のように単純なリズム的なものではなく土着的なものがこの歌からはひびいてくるから荘重なものとなる。
バッハの音楽がゲルマンの森にひびきわたるように荘重なものがある。
音楽というと今ではリズムであり何か思想性があるものがなくなった
文化とは常にcultivate-cultureであり耕すものなのである。
それには土着的なものがないと生まれないのである。
明治には江戸時代の土着的なものが根強く残っていたから和魂洋才として日本の文化も華開いたとなる。
なぜなら現代の創始者をたずねると明治にはじまっているからである。
そして明治からすでに140年とかすぎて戦後70年もすぎるとまた日本の変革期復古期になったのである。
精神的にもそうだて現実の外交でもやはり自立が強いられるから戦争への準備だと安保改革が批判される。
アメリカも日本を守らないし中国が巨大化して日本はまた孤立化して太平洋戦争のような状態になりやすい地政なのである。
とにかく君が代は

千世にやちよに さゝれ石の いはほと成て 苔のむすまて

磐を歌うものだから磐の心を知らないと感じない、国家的なものだけではない千歳の磐を歌うものだからである。
自分は磐の詩を百編書いたからまさにこの歌にシンパシィーを感じたのである。
君が代は天皇をイメージするのではない、千歳の磐を像としてイメージする、磐の持続性、忍耐とか人間の精神化されたものとしての磐である。
これは磐だけではない山にも通じるものである。
山とか磐に通じる荘重な思想性がある音楽なのである。だから君が代は日本の国歌は誇るべきものだと思った。
もちろん自分は音痴であり音楽はわからないにしてもこの君が代はシンプルだからわかりすいいのである。
音楽もやはりその国であれ地域であれ土着的なものとして結びつくと荘重なものになる。日本ではそれがないのだがこの君が代には単純だが土着した荘重なものを感じるのである
natinal fundmental deepend  and rooted songなのである。
だから君が代を歌うとき日本人の誇りが満ちてくる、それが天皇を讃えるということで君が代を批判するが歌と曲そのものはこれ以上国歌にふさわしいものはないのと思う。

タグ:君が代

2015年07月16日

間や余白がない西欧化文明化された社会 (日本語の間(マ)の意味)


間や余白がない西欧化文明化された社会

(日本語の間(マ)の意味)


pppppppp1234.jpg


物と物の間の空間は西洋のものの見方では空白でしかないのだが、日本の思想からはそこに何かがあると感じさせる。
http://www.designtope.net/mandara/39.htm

日本の大和言葉にはその国の言葉にはその国の独自の文化とかがあって生まれている。
日本人は日本語がどういう思想あるのかわからない、それを検討するのもむずかしくなっている。
それで本居宣長が大和心と唐心として日本の言葉を分けて日本人の心を知ろうとした。
その国の民族の言葉はその民族の自然の見方とか思想が反映している
日本語にもそれがあるのだがなかなかわかりにくい。
だから唐心とは今では欧米の心でありそれが主に英語になるからそこから対称的に日本語を見るのが今でもわかりやすいのである。

つまりそもそも日本人とは何なのか?日本の文化とは何なのか?そういうことをわかっている人は少ないのである。
日本の文化は中国文化の亜流だと見る人もいるし中国ではそう見ている。
でも日本人が使っている漢字と中国人が使っている漢字の意味は相当に違っている。
特に明治維新語は西欧化して日本の言葉が多くて日本人が造語したのをちゅうごくじんか使っているのである。
日本は何か造語するのがうまいのである。地歴という言葉もうまい言葉だと思う。
そういう言葉は他にもあるが適切でないものもある。
言葉でも社会が変化してゆくと言葉もすたれるし新しい言葉もできるし同じ言葉でも別な意味になってしまう。

日本語の特徴はおそらく一字の言葉だった。一字に何か意味があった。
例えばまとあるとき(間)あてたり(真)あてたりする。
ただこの真にこの両方の意味があるとなるとまた複雑になる
ただ日本語には語尾にまとつく言葉が多いことは確かである。
基本的な言葉でもヤマとかシマとかハマとかがある
マという一語でも意味がある。
間をとれとかある。でも間とは何なのかというとまたはっきりしない。
ヤマとあったらそのマとは何なのだろうとなる
ヤとは何なのか、屋根とあるから屋根をイメージする間は屋根と屋根の間なのだろうかとなる
普通だったら山を見て山と山の間の空間を意識しない、山自体一番意識するのである。
山とは連なる山であり間をおいて連なる山を意識したのかもしれない
島でもそうであり一つの島ではなくて間を置いていくつもある島のことかもしれない
日本列島の地形は連なる山であり島も多いからそうなったのかもしれない
ハマでもこれはハは端(は)であり端(はし)になる、浜はハシにある間だともなる
浜とは何らかの間なのである。須磨(すま)とあれば澄んだ間と感じるから名付けられた。間とは何か、何かほっとする何もない空間なのかもしれない


日本の原自然状態だったらそうした間が多かった、家も少ないしもちろん工場などもないし都会もないから間がいくらでもあった。
その間を埋めつくして発展してきたのが日本でありそれはどこの国でもそうである。
そもそも間というとき部屋が間というのも不思議である。
間というとき何もない空間のことだからである。欧米的には部屋は実用として役にたつものとしてしか意識しない
誰々の部屋とか何を置く部屋とか何に使う部屋とか実用として役に立つものとして家があり部屋がある
それは何でも都市でも用あるものとしてすべてがあり間という考え方がない
間をとるという考え方がないのも不思議である。
space というときspaciousとなり空間なのだが空間が贅沢だという意味がある、宇宙が空間として認識していたことは共通性があるのか?
ただ間という感覚はない、ただ広いということは贅沢だという意味はあった。
でも間という考え方はない、間とは物と物があってその間となるからである。
blank space 余白となるとblankという意味は否定的マイナスのイメージである。
間というとき何か履歴書でもブランクあるなとなると評価されないのである。


間という考え方は日本的なものなのかとなるとすでに中国では無用の用とかの思想があり有名である。それとにていることは確かである。
無用の用とか余白を重んじることは東洋的なものである。
それが最近感じたことがパソコンの画面が正方形で余白のない古い型のものを使っていてわかった。
横に画面が長いと余白が生まれる、その余白が作業しているとき何か余裕をもたらすのである。
ぴっちりとして正方形の画面で作業しているとまさにそこは実用しかなくなる。
一見これは何でもないようで精神に影響していた。
つまり余白がないと何か正方形の画面が実用だけとなり心の余裕がなくなるのである。
その余白は無駄なものではなく無用の用として必要なものとして東洋の思想があった
それは時間にあてはめてもそうである。一時間でこなす仕事でも必ず一時間ぴったりで終わることはないしある程度の時間の余裕をみないと仕事もできない
だから一時間で仕上げろというと人間は余裕をもって仕事ができないのである。
文章をこうして書くのにも3時間で書き上げろと言われてもその前に準備が必要であり
時間の余裕が必要になる。
そして改行して間をおくのも文章を理解するのには役立つ
文章でも話すにしても間が必要なのである。
落語家は間をとるのがうまいというときやはり日本の間の文化がある。床の間もそうである。


最近は家事とか介護に追われるからその余裕がないのである。
それは自分だけではなく間とか余白とかもてない欧米的効率社会になった。
そういうことができるのはまさに機械が適している、人間はそんなに効率的にできないのである。
人間が効率化するために機械に合わせるような世界では人間の心は疲弊するだけだとなるもちろんそれに適合しているのが文明人である。そういう歯車のようにさせられるのが学校から文明人として強いられる。
そういう文明の時間から離脱するとなるアウトサイダーのようなものに社会からはずれたものとなる、そういう生活をするとなる山尾三省のようになる変わり者とされてしまう。ともかくデジタル化すると一分刻みで時間に追われる。
その一分の重みを知ったのは新幹線とか電車にのるときである。自分の時計が一分遅れていたのである。その一分の遅れが致命的になる。
新幹線の時間に間にあわなくなったりする。仕事でも一分刻みで仕事させられている人が工場などにいる
つまり時間でも間をもていなのである。その間をもてないことから文明人は常にギスギスしてイライラしているし心に余裕がないのである。
だから間に満ちていた時代は江戸時代でも日本人はいい顔していたとヨーロッパ人が見たときそれは貧乏でも時間の間が多く空間にもいたる所に間がある社会だったからとなる。
タグ:間の意味

2015年07月17日

認知症予防には家事をつづけること (高齢化は人類の課題として与えられた)


 
認知症予防には家事をつづけること

(高齢化は人類の課題として与えられた)


なぜ認知症になるのか?それを実際に認知症を家族として介護した経験からわかったことがある
一人は家事を90以上までつづけていた、一人は退職して何もしない、家事もしなかった。二人の女性を見ていたとき一人は家事をやらされて一人は何もしないのだから働かされている女性は高齢だし辛いとみるんいい役回りだとは見ない
家事もしないて三食用意される人の方が幸せだと見る
ところが人間の幸せというのは何が幸せの原因になるかわからない
人生で不幸が幸せの原因になることは良くあることである。
幸福ばかりの恵まれた人生がかえって仇になり不幸になることもある
土地もちの大地主の女性の姉妹が飢え死にしたというのもそうである。
財産があっても財産を管理できなかったのである。
もちろん金持ちだと常にその金がねらわられて殺されるということも常に起きている。
金があることはいいとしてもまたそれが不幸の原因になる
金がないこともまた不幸の原因になっていることは普通であるが金があることも不幸の原因になっていることもあるから何がいいのかわからなくなる

認知症の予防にはいろいろなことが言われる、そもそも原因が良くわからないからであるただ現実に認知症になった人をみているからその経験を基に書いている
一人は趣味もなにもなかったが家事を90以上までしていたのである
92才頃までしていて認知症になっていなかったのである。
一人は一緒に住んでいても家事をしなかった。
そして自分はいつも頭がいいと言って死ぬまで自慢していた。
それは実際に本当であり頭がいいし体も丈夫だったのである。
ただ退職してからは家事はしていない、怠惰になり何もしなくなったのである。
そのことをあまり重大なものとは見ていなかった
しかし死んでから5年とかすぎるとそれが大きな問題だったのである。

家事をすでに介護とかして7年間もしているが家事はいろいろな仕事がある。
掃除、洗濯、かたづけ、料理とか様々なものがある
金銭の管理もありこれもなかなか一仕事であり頭を使う
家事をすることはそれだけ頭を使うし手も体も使う仕事なのである。
家事はそれだけ全人間的な仕事なのである。
だから自分は家事をしていても料理を未だにできない
それだけの時間を費やすことができないからである。
そして認知症の予防には家事をつづけることだというときなぜか?
例えば冷蔵庫でもどこに何を置くとか分類整理することが一仕事になるし
それが記憶力とかなり関係していたのである。
何をどこに置くか、それをどう利用するというのは記憶力が必要になる。
認知症になと下駄箱に食器など置いたりするからである。
日々記憶の能力を使うから記憶する海馬が鍛えることになるのかもしれない
簡単な計算をするのもいいいうが具体的に体や手や頭を同時に使うのがいいのである。

それが家事にはあり家事をしないとボケやすいというのはありうると思った。
だから嫁さんに「おばあちゃんは何もしないでいいですよ、テレビを見ていて下さい」と言われたおばあちゃんがボケやすいのである。
テレビは何か頭を使わないものなのである。読書なら頭を使うがテレビは一方的洗脳のメデアなのである。
それは無意識的にもそうなっているのである。
それでレナウン、レナウンというコマーシャルがあったことを思い出した。
それは女性と会話してそのことが思い出したのである。
わすれていたがテレビではレナウン娘とか何度もそれ何百回も見ていたかもしれない
それでそのレナウンのコマーシャルのことを思い出してのだある。
とにかくテレビのコマーシャルは見る回数が多いと無意識的に記憶されるのである。
何か考えることなく一方的にコマーシャルでも洗脳されやすいのがテレビなのである。
テレビを見て何か考えるということがない、だからテレビは一方的洗脳メデアになりやすいのである。
テレビばかり見ていると馬鹿になるというのはそういうメデアの特質があるからである。


人間の幸福が何かなど本当にわからない、「おばあちゃんは何もしないでいいですよ、テレビを見ていてください」となればその方か幸せのように見える
一方では苦労して料理をするからである。でも実際は何もしないということが認知症になことに通じていたのである。
家事とはいろいろなものを分類したり管理したり絶えず仕事があるのである。
だから自分は文章を書いたり写真をとったり他にしていると頭が回らなくなるのである
人間一人でてきることは限られているのだ。
家事だけで相当に頭を使う手も体も使う仕事なのである。
だから自分は暇なく何かをしているし余裕がないのである。
つくづく人間は二つのことをこなすことは容易でないことを知った
女性の場合は家事をしないことが認知症なる危険がある
一方で男性でも退職して何もしていないと認知症になる危険があるのは同じだろう。

カルシム不足なにるのはかえって寝ているとそうなるが活動して体を動かすとカルシム不足にならないそうである。
寝てばかりいる兵士は足の骨に負担かからないので体が「カルシウムいらないのだな」と思って尿から体の外にカルシウムを出してしまうのだと考えられます
こに対して一日三時間以上立っている人の場合は足の骨や背骨に負担がかかるので体が「カルシウムが必要だ」と思いカルシウムの流出を防ごうとしているのです
(エコロジー幻想ー武田邦彦)

これも興味深い、

家事もしないと記憶を司る海馬も働かない、働かせる必要がないからだ

家事をしている女性は頭を常に働かせるから海馬が働き強化される

つまり使わないものはいらないとして機能しなくなる、workingしなくなる
それは人間の体でも脳でも社会でもそうである。
社会が活きているということはともかく活用されていることなのである。
道でももし誰も通らないとしたらもう死んだ道となる。
人間がともかく通れば活きた道となる、六号線でもだから車が通って活きていると感じる車さえ通らない道は死んだ道となってしまう。
原発の避難区域は人が住んでいないのだから全体が死んだ街になってしまった。
それでも車が通っているとそこだけは飯館村でも活きた道になっている
双葉や大熊は完全に死んだ街になってしまった
高齢化社会、長生きの時代は認知症を家族で介護したから最高の恐怖だった。
頭がいいとか最後まで言っていても実際は痴呆化していたのだから悲惨である。
だから認知症にならずに死ぬということも高齢化社会では一つの目的となる
高齢化には様々なリスクがある。簡単に死なないことがまたリスクなのである。
長生きするために苦しみが増すということも確かなのである。
ただ認知症にもならず90すぎても自分のことを自分でしている人がいるがそうであれば問題ないのである。
そのためにはどうしたらいいのかとなる。

それで家事をしない女性や退職して生きがいとか仕事がなくなる人には危険がある
原発事故や津波でも何もしないでぶらぶらしていた結果、不活発になりそれが病気にまでなったというのもそのためである。
車椅子で何もできなくなり泣いていた男性がいたがそれも悲惨なのである。
高齢化社会というのはやはり人類にとって必ずしもいいのではなく一つの課題として与えられたものだと思った。
高齢化社会を健康で有益に生きることが課題なのである。
それをみんなができないからこそ課題なのである。
高齢化というのは人類的に起きていることでありそれに対処するまでになっていないのである。
高齢化は体でもそうだが頭でもそれに対処するまでに人類は進化していないともなる
90頃まで一人で自立して健康で生きていれ人の割合が多くなれば高齢化に対応できるようになったとなる。
そういう過渡期として現代があり日本でもそれが試されているのである。

昔の女は家事の他に糸紡ぎや機織り・縫い物繕い物と
手先を動かす作業をしてたからボケにくいんだよ


昔ならいろいろ女性の仕事があったけど今は機械化したりしてなくなったこともある。
何でも機械化してロボットがするようになったら人間はボケになり一体何のための機械化だったのかともなる
だからこそ高齢化は人類的課題として与えられたのである。


タグ:認知症予防