2015年07月02日

紫陽花(朝と夕べ)

紫陽花(朝と夕べ)

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photoショプで加工

これで何かartになった

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紫陽花に朝日さしそめ蝶一羽舞いつつ去るや田舎の明けぬ
しっとりと雨にぬれたる紫陽花に夏菊映えて朝日さしそむ
紫陽花のあまた咲きにし夏菊の映えて田舎の夕暮静けし
紫陽花の咲いて落ち着く人にあれ雨しととふる田舎の道に

紫陽花の季節だけど昨日は夕べみたらこの写真の感じと違っていた。
写真でも朝と夕べは違っている。
光の具合で違っている。
昨日は曇って雨がふっていたから紫陽花にあっていた。
紫陽花は梅雨の花であるからそうなる

今日の朝見たら光がさしてきてまた違って見える、写真も違っている
多少明るい感じになる、ただこの辺は微妙でありわかりにくい
写真というのは光の影響が大きいと思った。
だからこの光の微妙な感覚を出すにはいいデジカメでないと写せない
六万のソニーのカメラはその光の感じをとらえている。
6万でも相当にこれはいいものだと感心した。

この紫陽花の咲いている道の向かい側では復興住宅が建ったし団地もまた建てている
だからまだまだこの辺は前のような落ち着きを取り戻していない
仮設に住んでいる人も大勢でありその人たちはそこにずっと住めるわけではない
それでも老人は何か慣れてかえって隣近所で友達もできていいとなった。
でもやはりここにずっと住むわけではないし来年は避難解除にもなるから落ち着くとはならない

ともかく写真は角度を変えてとると違ったものになる
それは技巧というのではなくただ角度を変えるだけなのである。
現代は膨大な写真が素人でもとっている。
写真芸術の時代でもある
写真は俳句の写生であり写真は偽らないものを写しだす
写真がありそこに俳句でも短歌でもそえる
写真とともに鑑賞する時代であり写真がないと鑑賞もできないとなる
それでも写真だけではものたりない、それは俳句は写生だが短歌は人間の心を反映するからである。心の反映したものを写真だけでは現せないのである。
だから言語は人間の心をの内面を伝えるものでありそれは写真だけでは伝えられないのである。
写真は朝とか夕暮なのかいつの時なのかわからないときがある。
季節だってわからない時がある。
特に雲とか太陽とかは夕日でも春なのか秋なのかわかりにくいのである。
写真だけでは何でも現すことができないことも確かである。

抽象画(地形など)


抽象画(地形など)

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春の入江


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複雑な地形


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マンボウ



フォトショップの試験版で変化させてみた
ソフトが違うとまた別なものができる
ソフトはなれるのが大変だから買っても使えないのが多かった
だから一万となるとソフトは高かった
使えなく終わると丸損になるからだ
まあ、これせ投資でありあまりケチるといいものはできない
何か新しいものができればそれて得したとかなる
タグ:地形

2015年07月03日

最近の二つの事件の共通性



最近の二つの事件の共通性

(新幹線焼身自殺とギリシャの債務不履行問題)


恐るべき高齢化社会(孤立化する老人の暴走)
http://musubu.sblo.jp/article/41682077.html


このジジィと似た人が近所にもいたよ。
家族が全員、時期はバラバラなんだが首吊り自殺してて暫く独りで住んでた。
ろくな生活してなかったし、世間を怨んでた。
集落の集まりなんて知らないよくらいの勢いで孤立してたし、村八分だった。
最後は原因不明の住宅火災で死亡。
死体は真っ黒。12センチくらいの塊になって死んだ。
逃げ遅れて死んだのだろうと言われてはいるが、
実際は世間への不満を吐き出せずぼっちで生きているのが辛くなって自分に火を着けてしまったんじゃないかと噂されている。
実はその家の両隣近所も、、、首吊り自殺者が出ていて空き家のまま。
燃えた家は、片付ける人もいないから今もそのままだよ。


これも自分のプログで一番読まれているこれからの老人問題を予見したけど本当にそういう事件が起きた。
自分も被害者になったから追い詰められた老人が切羽詰まって事件を起こすのが増えてくる。
まず国民年金などで生活できない、今の生活そのものが何かと金がかかるシステムに作られている。
新幹線で事件を起こした人は2カ月で24万とかもらっていたから一カ月は12万はもらっていた。でも家賃が4万もひかれたら8万で生活しなければならない
それでもできるじゃないかとなるがもう食べるだけで精一杯になり何もできない
つまり家賃4万で都会で生活することは追い詰めたのである。
田舎ではこの辺では部屋が三つある市営住宅で4000円とかで住んでいる
その人はどれくらいもらっているかわからないけど8万くらいかもしれない
それでもぎりぎりであり社交もできない、それで何でも借りてカラオケなどをしていた。老後の趣味はカラオケが多い、人間食べれればいいじゃないかとなるがそれは昔の話である。
みんなそういう環境のときはみんな貧乏だから貧乏していても恥ずかしくもないのである

現代は何かみんな本当は贅沢できないのに無理している
見栄でも無理している。それで消費者金融から8人に一人が借りているのも異常である。
事業していた人は事業失敗していたのに成功していたと消費者金融から借金していた。
事業している人はやはり信用問題があるから失敗したことを隠すのである。
金もないのにいい車もっているし成功を装っていた。
でもそんなことしていたらいつかはわかる、その時はどうにもらないほど傷口が大きくなっている。
そしてそのことが回りに迷惑をかけることになる
自分もそうして一人には犯罪にあい一人には病気のとき借金している人に金のことで責められたのである。
そのことを書いてきたが保険金殺人のような恐怖を味わったのである。
まず推理ドラマで一番犯罪で動機が借金の人がいかに多いかである。
それは現実社会でもそうなのである。借金から犯罪に走る人が割合的に本当に多いのである。
まず借金していれば大きな動機をもつのでそこから調べているのである。

奈良県民から聞いた話だけど
大仏があるおかげで全国から人が来て
そんな観光客相手にしてればそこそこの日銭が簡単に稼げる
商売人ですら額に汗せずそんな感じだから
奈良発祥の全国レベルの企業が存在しないんだ
と言ってた
曰く「大仏商売」とのこと

ギリシャ人はそれに輪をかけて納税意識がめちゃくちゃ低い
経済が好転する理由が一つもないわな

ギリシャ人はなぜ働かないのか (ギリシャは日本の江戸時代とにているのかな?)
http://musubu.sblo.jp/article/49945359.html


奈良と京都は何か違ってる。奈良は街があっても奇妙に感じたけどその郊外に田畑があり古い農家があった。回りも万葉以来の山に囲まれている。その山は万葉に歌われた山のままなのである。
一方京都は山に囲まれた大都会でありあくまでも古い都であっても現代の都会であり現代の産業も京都では活きている。
奈良にはそうした現代の産業がともしいから何か田舎に感じるというのは不思議である。関西でもそうみられている。何かのんびりした感じになる。
それがまたいい面であり悪い面になる。
まず人を別に宣伝しなくても来てくれる土地なのである。
それは京都ともにている。特別宣伝しなくても観光に来てくれる、今は外国からもいくらでも来てくれるとなる。

ギリシャも過去の遺跡で活きていたからにている。いくらでも遺跡があるからだ。
ただギリシャの神々の遺跡は現代に活きてはいない、お参りしたりしないのである。
だから日本の神社とも違う、それはすでに二千年前にその歴史は終わり遺跡としてのみ活きているのである。
だから子供でも学校ではギリシャ神話の名前を覚えている人は少ないという
でも聖書にでてくる人物はみんな覚えていたという。聖書はまだ生活に活きているのである。
遺跡というのは全く過去のものであり現代のギリシャ人に継続されたものではない
ただピラミッドを作ったエジプト人はアフリカ人だったとか言われるがその人たちはもう残っていない、アラブ人は人種的に別人でありピラミッドを作ったエジプト人とは関係ないのである。
ギリシャ人は人種的には同じでもその文化は過去の遺跡しかなく継承して発展したものがない、ローマにその文化が伝わりルネサンスと華開いたがギリシャは発展しなかったのである。

奈良もにているにしてもやはり違っている。奈良の大仏でも必ずしも過去の遺跡というのではなく日本の歴史の継続したものの象徴としてある。
日本は天皇からして連綿として日本の歴史で死んだことがないし活きた存在なのである。神社にしても今でもお参りしているのだから生活の中で以前として活きているのである。文化にしても短歌があるとすればそれは万葉集からの継続の文化である。
何かギリシャにはそうした連続した文化が歴史が二千年前で終わっているのである。
だから今のギリシャ人は別物だとか言われる、遺跡があっても歴史として文化として継続性がともしいからそうなる。
ギリシャ語は使われているからその言葉からギリシャ文化を探ることはある。
全くないということでもないがあまりにもともしいから過去のギリシャ人とは別人だと思われるのである。

この二つの問題は事件は共通性がないようである。
日本では年金で暮らしていけないという老後難民がこれから鰻上りに増えてくる。
恵まれた人は数バーセントだろう。あとはぎりぎりの暮らしでありその不満が事件になるその不満が高じると事件になり関係ない人まで巻き添えになる。
そのために女性一人が死んだがそういうことも自分も身をもって受けたからこれからは年金でも暮らしていけないとか事件が起きる。
金持ちもそういう切羽詰まった人が多くなると治安面で危険になる。
家に入ってくる人は特に危険である。家政婦になった人が勤め先の家を放火して回ったとか家政婦とか家で働くような人は不満が多いのである。
神田ウノがお手伝いさんに宝石など盗まれたとかなりやすいのである。
高齢化社会は介護であれ共倒れになり親を殺すとか自殺するとか日常的に起きてくる。
だからこうしてモラルが崩壊することは恐ろしいごとだと書いた。
新幹線でも安全策を講じなければならなくなり国民の大迷惑になったからである。

ギリシャにしても自分たちが観光でのんびりするのはいいとしてもそれがグローバル経済の中で世界的に迷惑になる、影響するから怖いのである。
別にのんびり生活したいなら現代の贅沢を拒否してギリシャ人は貧乏でも誇り高く哲学を生んだ国らしく生きればいいとなる。そういう哲人はデオゲネスとかいろいろ思想的にも生んだ国だからである。
現代文明の贅沢を享受してそれが自分たちの国の富でするのならいいが他国の稼ぎで金でそんな生活していたらつきあえないとなるのである。
それも借金で贅沢しているようなものでありその金は他国で払い、借金は大きくなって払えないというのも勝手である。
要するにグローバル経済というのはギリシャなど日本では中国でも関係ないようでも関係してくる世界のシステムになっているのである。
そういうシステムに世界が組み入れられているからギリシャの問題も隣人のように考えざるをえなくなっている。

 
posted by 天華 at 06:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

相馬市をイメージした抽象画 (ソフトで新たな創作ができる抽象画)



相馬市をイメージした抽象画


(ソフトで新たな創作ができる抽象画)

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フォトショプの試験版で作ってみた。
やはり今までできないことができる
相馬市の雰囲気は静かな城下町なのである。
六万石で城跡しか残っていないけど城下町である。
土臭い城下町である。
名古屋城とか大坂城とか姫路城とかとはあまりにも違っている。
でも城下町ということがその街の色となる

何回も言っていたきたけど原町はいち早く近代化した街であり駅前通りから発展した。
原町機関区があり物資を東京に運んだ。
東洋一の無線塔も大正時代に建った。
相馬市の城下町より原町は発展した。
それは会津の城下町より喜多方市が商業都市として発展したとにている。
古い城下町は新しいものをとりいれにくかったのである。
だから南相馬市でも相馬市でも新地でもそれぞれのカラーがあると思った。
もちろん飯館村もそうである。
つまり一地域でもそれぞれ歴史も違っていて個性がある。
だからこそそれぞれの個性を一地域で活かすことが地域にとっては良かった。

それが原発事故でだいしなしになった。
相馬藩内の地域的個性が失われたのである。
それを復興させることはかなりむずかしくなった。
どうししても現代は辺鄙な地域は切り捨てられやすいからである。
辛うじて維持していた辺鄙な過疎地域も一気に原発事故で崩壊したのである。
それは前々からそういう状態にあり原発事故が加速させたともいえる。
抽象画もやはり芸術なのである。
それで相馬藩内を小高、原町、鹿島,日立木、相馬市、新地、飯館とかそれぞれ色分けしたものとしてみる、それがパソコンのソフトでできる

花に例えると相馬市は藤の花なのである。
日立木は街道の細道があり菖蒲である
鹿島は草深く咲く月見草である
原町は近代化した街の機関区としてひまわりである
小高は小高城があったところであり一番相馬藩では古いから紅梅である。
小高城跡には紅梅が咲いて海が見えたのである。
新地は海の色であり泰山木の花がにあっていた。
飯館村はキクザキイチゲなど山草がにあわっている
つまり一地域でも個性があることによって芸術化されやすい
だから都会はそうした地域の特性がないからかえってつまらないともなる
ただ狭い地域の個性を知るのは外から来てはわかりにくい
城とか目立ったものがないとわかりにくいのである。

タグ:相馬市

2015年07月05日

抽象画(ギリシャの遺跡)



抽象画(ギリシャの遺跡)

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これは何か?
抽象画ではまず何が出てくるかわからない
それてこれは何なのだろうととなる
これはギリシャの遺跡だと思ったのは
海があり遺跡に見えたからである。
ギリシャは海と切り離せない、島々に遺跡があるからだ

あとはそれに類似したものである。
ギリシャには教会も多い、ギリシャ正教会をイメージする
この一連の抽象画には何かギリシャ的なものがある
それはただ偶然にフォトショプを操作していたらできたのである。

これが何だろうなと思うとき抽象画でも具象画をイメージできると
何かわけわからなものではなく鑑賞できるともなる
それぞれにイメージされるのは違っていても抽象画はいいのである。

ただギリシャの遺跡だとイメージするとなるとやはり一回くらいはギリシャに行ってみないとイメージできないということはある。
ともかくギリシャはいたるところ遺跡の国だからである。
タグ:ギリシャ

沙羅の花(梅雨の時期に咲く花は映えない)


沙羅の花(梅雨の時期に咲く花は映えない)

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沙羅の花祇園精舎に今日も散る
曇る日や野に働く夏薊
家広く五輪匂いぬ百合の花

しっとりと朝の霧にし月見草ぬれて咲きにつ朝の明けにき
芋の葉に水玉大きくこの畑カボチャの花の咲きて暮れにき
沙羅の花風にそよぎて今日一日咲きてまた散る道に面して



沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす

沙羅の花の由来である。これも暑い所に咲く、蓮でも暑い所にあっている。
だから梅雨の時期に日本で咲くのにあっいない、泰山木の花も梅雨の時期だとあっていない、もともとアメリカが原産だとすると毎日晴れている大陸的な場所にふさわしい。
花はその原産地に一番あって咲いている。
インドの暑さを知らないと蓮の花にしても鑑賞できない、蓮の花も梅雨の時期に咲くから映えないのである。
花にしてもすでにそれは歴史があり文化化した花なのである。
蓮といえばお釈迦様であり日本では桜が国の花になったように歴史と文化としての花となっている。
蓮はエジプトでロータスとなっているからエジプトも暑いからあっていたのである。
オベリスクとかにロータスの花が刻まれている
ナイル川の河畔に蓮の花が咲いていた。大きな川だから花もその川に映えていたのである

花からイメージされるのはその背景の歴史と文化を知る必要がある。
沙羅の花を注目したのは自分の庭に植えたりしたから注目した。
でもこれまで沙羅の花も知らなかった。
沙羅の花は夏椿だと思っていた。もともとは沙羅の花だったのである。
椿よりこぶりの花である。ただ小さいというだけの花だともなる。
ただそれに歴史とか文化が背景にあり違っていた。
沙羅の花は数が多く咲く、一日咲いて一日で散ってゆく
沙羅の花から釈迦をイメージすることはなかった。
祇園精舎に咲いて散るのにふさわしいとなるのか?

ともかく梅雨の時期は花は映えない、菖蒲とか紫陽花は映える、その他はあまり映えない、だから梅雨の時期はいいとは言えない、この時期はいつも北海道に行っていた。
それはあまりにも恵まれていたのである。
どうしても出かけるときといつ帰ることもなく自由に旅ができないと旅にならない
二日とか三日で帰らねばならないとしたら旅する気もしないのである

朝にこの辺は深い霧だった。それで月見草がしっとりとぬれていたからこれは梅雨の時期にあっていた。
芋の葉に大きな水玉がたまっていてカボチャの花が咲いていた、短歌も基本は写生であるありのままを写生にすることが基本である。
あまり感情的なものを入れない、要するに芋の葉がありそこに水玉がありカボチャの花が咲いている
それだけを写生していればその写生自体が写真でも俳句でも短歌でも訴えるものとなる
そこに説明的なものや感情的なものを入れると写生でなくなる
写生だとすると意外と俳句で短歌でも誰でもできるともなる
これも何か創作的なものはない、ありのつまを写真のように文字にすることが基本になるからだ。
ところが下手な俳句や短歌は写生に徹していないのである。
余計なことを飾って言いすぎるのである。
現代ではデシカメなくしては写生の俳句も短歌も成り立たない
写生を基本するとまず写真があって写生の俳句や短歌があるともなるからだ。
タグ:沙羅の花

2015年07月07日

仙台へ仙石線が開通したので石巻から女川まで行く


仙台へ仙石線が開通したので石巻から女川まで行く

今日は晴れたし三日間母を施設にあづけたから出かけることにした
仙台から仙石線が開通したので石巻まで行き女川まで行く
津波の後の復興の様子を見に行く
津波の被害を受けた所は高台になって海が見えない
野蒜なども駅前が山のような高台を築いた
あれを見ればいかに津波が高く被害が大きかったわかる
津波を防ぐの山のような高台を築くほかない
ただ海が見えず見晴らしが悪くなるから景観的にはマイナスである
ともかくまた出かけるのはひさしぶりである

2015年07月08日

仙台駅の中で青森ヒバの製品を売っていた人 (復興した仙石線で石巻から女川までゆく)


仙台駅の中で青森ヒバの製品を売っていた人

(復興した仙石線で石巻から女川までゆく)

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リンゴの形をした青森ヒバ



本県を中心とするヒノキアスナロは北方型、木曽地方を中心とするアスナロは南方型の二つに区分される。青森ヒバは、特にヒノキアスナロと呼ばれている。
「青森ひば」は、ヒノキ科アスナロ属の針葉樹で和名をヒノキアスナロといい、日本固有の樹種として、その約8割が青森県内(主に下北半島・津軽半島)に集中しています。
雪の多い地方でなければ育たないと言われる「青森ひば」は、北の厳しい風雪に耐えながらゆっくり年輪を重ねます。長い年月をかけてじっくりと成長した「青森ひば」だからこそ、緻密で狂いが少なく、木目も細やかで美しい木材になるのです。


仙台の駅の中で青森ヒバのまな板とか売っていた。
青森ヒバは始めて聞く、調べてみるとヒノキとにているからヒノキアスナロとか名づけられていた。
ただ青森特産であり青森地方に8割とかあるから青森という寒い気候にあっている樹なのだろう。
シロアリとかに荒らされないのもいい、ヒノキとにていて良質の木材である。
木の種類も多い、日本では特に多い、北海道のアイヌ村では槐(エンジュ)の樹というのがありこれは固く灰皿にも使える樹だった。
それとにて青森ヒバも特別な良質の木材なのである。
青森はやはり森の国なのか、青森ヒバというのもその一つなのか?
た青森は北海道に近くやはりそういう特殊の樹を気候が育てるとなる。
寒い国の樹は成長が遅い、南国の樹は成長は早く植物でなんでも伸びる
それは何か人間的にも南国の人は植物でも成長が早いし果物も多く食料を苦労せずに得られることから人間はのんびりしてくる。

ギリシャなどはオレンジがとれたり地中海に面した南国なのである。
デオゲネスが樽で裸で暮らすことができたのはあたたかい気候だったからだろう。
とてもドイツなどは寒いからできない、ゲルマンの森は青森の森と北海道の森と通うじている。
そういう場所からゴシック建築とか哲学とベートベンの音楽が生まれたのである。
南と北の文化の相違が生まれたのである。
宗教的にはプロテスタントであり勤勉のエートスが生まれ資本主義が生まれた。
そもそも資本主義とは勤勉に働き神に奉仕して仕えるということからはじまった。
だからギリシャとは遊んでいて怠け者であるから何かドイツとは正反対の国なのである。それは風土に影響されてそうなった。

日本の特性としては風土としては小さい島国でも一つの島国で南と北の風土がありそれで文化の相違も生まれた。
沖縄までが日本とすると沖縄は南国であり北海道は北国であり日本海そいや東北も北の風土の文化を育む。
青森はどちらうかというと北海道的なものと日本海的なものと本州のみちのく的なものの混交となる特殊な地域なのである。
丸山山内の縄文遺跡が縄文都市だというとき海に囲まれて交易の場所でありまた大きな柱の跡があったということは青森特産のヒバの木材を活かしているとかなにか森の国でもあった。
縄文土器が湿った森から生まれたというのもまた日本的である。
日本は森が今でも多いから樹の文化の国である。


ただ今はヒノキであれヒバであれ高価だから家の材料には使われないから意識しなくなったのである。
やはりいかに良質なものでもあったとしてもそれが日常的に使われないと何でも廃れてゆくのである。
あらゆるものは使われてこそ活きてくる。だから廃屋は活かされていないから大問題なのである。
今回はまず仙台駅前で青森ヒバの製品売っている青森県の人と出会い、次に石巻でも津波の被害にあった人に出会い結構話した。
最後は仙台の古本屋の人と郷土史のことなどを話した。
それで資料なども買った、ネットでも販売しているというがなかなか中味は専門的になるとわかりにくい、相馬藩のことは伊達藩のことも調べないとわからないのである。
それで宮城県の郷土史研究などの冊子があり参考になった。

次は石巻で津波の被害にあった人の話を書く・・・
タグ:青森ヒバ

石巻の袖の渡しで津波の被害にあった人と語る (南相馬市の事情と良くにていた)



 
石巻の袖の渡しで津波の被害にあった人と語る

(南相馬市の事情と良くにていた)

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陸前大塚駅

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前の遠名駅

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新しい野蒜駅

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新しい女川駅の景観




仙石線で陸前大塚駅の場所は変わってないかった。前に防波堤が作られて島が見えにくくなったかやはり見えている。
景観はそれほどそこなわれていない、ただ東名駅は山の陰になりそこは全く海が見えない、あそこは景観的には全く変わってしまった。
でもそこに住宅地ができて家が建つ、でもまだ建っていない
次の野蒜駅もかなりの高台に移った。でもその高台から白波が寄せるのが見えた
景観としては全く変わったが海は見えていた。
それから石巻についた。何か仙台だと交通の交差路になり忙しい感じになる。
石巻に来ると時間が遅くなる感じがした。
やはり仙台の中心部と石巻だと時間の感覚が違ってくるのだ。
仙台は交通の要所だから何か追われている感覚になる
石巻につくと時間が一瞬とまり遅くなる感じになる

駅前で自転車を借りて袖の渡しにゆく
そこに津波の被害にあった人とかなり話した。
日和山の裏側で被害がないようで二階に逃げて辛うじて助かったという。
日和山で津波が遮られたにしてももろに津波に急襲されなくてもぎりぎりで助かったとなる。
日和山があっても川をさかのぼり津波が押し寄せたから逃れられなかった。
途中家族で逃げた人でも家族が死んだとか仲間と逃げて仲間が死んだとか何か南相馬市の津波の被害とにていた。
今回の津波の被害には共通性があった。
日和山の前は家が密集して博物館もあり壊滅的な被害を受けた。
それは土台だけが残ったとかこの辺の海岸の村とにている。
ただ津波の被害で川沿いに家が残ったりしているとその被害が少ないように錯覚する。
家が残ったとしても被害が大きい場合があった。
この辺でも家が残っているから被害がたいしたことがないと思っても実際は津波の到達地点のすぐ前だったけど床上浸水で潮水を被り大きな被害だったのである。

その人の話で興味をもったのは被害者の家族には手厚い補償金がやはり出ていた。
一軒に五百万とか出たという。そんなにもらはったのかとも意外だった。
原発事故地域とは違ってそんなに金をもらったとは思っていなかったからである。
保険金でも本当は地震保険でも津波には適用されないとなっていたが特別措置で津波にも保険金が出たという。
その額が大きくおじいちゃんがもらった金が一億円とかで使い切れないとかみんなうそうした義援金とか保険金とかで遊んでいるというのもこの辺とにているなと意外だった。
そこは女川原発があっても事故にはなっていないからそんなに補償金が出ないと思っていた。
ただ漁業組合と船主になると原発があるだけで補償金がてる。
それで東北電力から漁業関係者には補償金が出ていたろう。
だからこの辺で石巻辺りはにていたのである。
あれが事故になったらこの辺と同じ状態になったから悲惨である。
仙台の人に聞いたら屋根には放射性物質で汚染され樋では一マイクロあったというから意外だった。
仙台でもそれなりに放射能で汚染されていたのである。
一マイクロというと今でもそれで高いとか原町の山側では騒いで除染しているからである80キロ圏内は住めないとか避難しろとかアメリカでも警告していた。
それだけ放射のの被害は大きかったのである。

石巻では女川町と合併する話があったが女川町では反対してしなかった。
その原因はやはり女川町には補償金が出ているからだと思った。
この辺では双葉町とか大熊町とか小さな町でも合併しなかったのは東京電力から金がでていたからである。
それもにていたし原発があることでいろいろ事情が同じだと思った。
その人とはかなり長く話した。
海の風が涼しく吹いてきて鴎が飛んでいた。
何かあういう歴史的な場所で景観のいい場所で話すると印象的なものとして旅といえないまでも心に残る。
今回は人との出会いがどうしても津波という共通の体験で広がったのである。
津波を知るにはその場に立って被害を受けた人の話を聞くとリアルに感じるのである。
だから津波を知るには三陸でもその場に立って被害を受けた人の話を聞くと
印象が強くなり心に記憶されるのである。
それで三陸の方に次に行って見たくなったのである。

女川では女川原発の下辺りで小学校の先生をした人にあった。
その人は絹を漁具として綱として使っていたという話をした。
絹というのは養蚕が盛んだったから基幹産業となっていた。
ただそれが漁具としてまで使われていたことはいかにも女川らしいとなる
女川では鯨の解体したのを見たことがある。
それも40年前とかになるからずいぶん昔になったと思う。
そのあとはどういうわけが女川には来ていなかった。
今回は直接に土地の人の話を聞けたから良かった。
でも石巻の通りの店は開いてのは本当に少ない
三年前だったか来たときとたいして変わっていないのだ。
その人が言うには神戸辺りからボランティア来て神戸に行ってみたが
20十年たってもその影響があり立ち直っていないという
それだけの大きな被害だったのが神戸地震だったのである。
この津波の被害も20年たってもやはり回復しないのは同じかもしれない
それだけの期間が回復にはかかるということである。
慶長津波の20年後辺りで塩田を石巻でも女川でも作った。
それは相馬藩でも津波の跡に塩田を作って復興したと推測する学者もいる
それでも20年後とかなのである。
10年たってもそれほど回復しないとかいう大災害だったのである。

女川から石巻にまた帰り泊まろうとしたら部屋があいていなかった。
このところずっと部屋は空いていないです、この近くで泊まるところありませんかと聞いたらそれはどうですかないでしょうねとか言うのであせった。
ところが仙台から高城町回りで新しい線ができていたのである。
それは急行であり石巻から50分でついた。
それも早いと思った。それでホテルを探したら東横インが空いていたので助かった。
仙台もとまれないかもしれないと石巻のホテルの人が言っていたのであせっていた。
南相馬市に帰る最終便はもうまにあわなかったからである。
この辺はまだ工事関係者が入っているからホテルが一杯なのかと思った。
何しろ南相馬市では除染作業員など宿泊所がないから困っている
そのブレハブの宿泊所がいたるところに立っているし新しいホテルも山の方にできたりしているからだ。
宮城県もそうした工事関係者まだ外部から入ってきてホテルが一杯になっているかと思った。
今回は泊まれたがそれでもホテルが満室になることは異常である。
普通は空くようにあれだけの部屋数に設定されているからだ。
いづれにしろ仙台は新幹線といえ新しい東北ラインという便利になるからいい。
常磐線も後二年で開通するからそうなると便利であり復興してゆく。
やはり鉄道は未だに要なのである

仙石東北ライン(せんせきとうほくライン)
タグ:石巻
posted by 天華 at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2015年07月09日

高速で仙台へ仙石線と女川線にのる (夏の俳句と短歌)


高速で仙台へ仙石線と女川線にのる

 
(夏の俳句と短歌)

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奥松島


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女川線駅にカモメや夏の夕

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浦宿を過ぎてカモメや夏の夕

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万石浦


(高速道路)
バスに行く朝の十字路立葵

高速に夏の海見ゆ鴎飛ぶ
大川の二つそそぎて夏の海

(仙石線)
青田見え福田町や仙石線
若竹や仙石線に夏の海
老鶯や島々親し松の影
奥松島島影重なり合歓の花
奥松島島影一つ合歓の花
鳴瀬川河口に白波夏の海

(石巻)
千石町穀町海の風涼し
夏の日や石巻駅夕鴎
女川線駅に鴎や夏の夕
涼しきや万石浦夕鴎
合歓の花万石浦の夕べかな
浦宿を過ぎて鴎や夏の夕


ふるさとの山に青田や風そよぎ海を望みてバス走りさる
夏の朝風のそよぎて高速に海を望みて仙台に着きぬ
亘理駅電車とまりて鴎とぶ一羽やあわれ晩秋の野かな
故郷の山に向かいて月見草青田に鷺の朝に漁りす
ときわぎの松麗しく五大堂夏の日さして朝海光りぬ
ときわぎの松の緑に五大堂影の涼しく夏の午後かな
野蒜駅高台に移り白波よする夏の海見ゆ
石巻の人と語りぬ鴎飛び海風涼し残る松かな
石巻煉瓦造りの建物や日傘をさして歩む女かな
風涼し袖の渡しや石巻の人と語りて女川に行く
数十羽女川の駅に鴎とび復興の工事夏の夕暮
女川の湾にい出にし船入りて鴎あまたや夏の夕暮


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石巻煉瓦造りの建物や日傘をさして歩む女かな

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復興した仙石線で変わったのは東名駅と野蒜駅であり全く前と違っていた。
野蒜駅は高台に移り海が見えたから海を意識するが東名駅は山の陰になり
全く海が見えないから淋しい
仙台から仙石線は都会的であり頻繁に通る通勤の電車だから違っている。
一時間に一回とかでは本当は鉄道では少ないのである。
仙石線は東北ではだから珍しい線だと思う。
こういう線は関東とか関西には多いが東北ではほとんどないのである。
頻繁に通っているのは今では新幹線なのである。
鉄道の路線にも個性がある。それはみんな違った感じをもつ、仙石線は東北では特別なのである。
松島から奥松島と景色もいいから気持いいのである。
松島までは家が密集しているから景色は良くない、でも福田町までの区間に青田が見えたりするからその名のごとくなっているからやはり田舎的なのである。
多賀城は都会化して海も何も見えないからつまらない、ただ鴎が飛んだりするのは海が近いことを意識する。
実際に駅まで津波が来ていたのである。


石巻から女川線にははじめて乗った。途中の駅に鴎がとまっているのもいかにも海が近いからそうなる、万石浦も広いし牡蠣の殻が積まれていた。
女川駅は高台に移りそこはかなり高いしあの駅まで津波が来たとなると相当に高い津波だった。
まず復興するには女川であれ石巻であれ十年でもできないように思った。
今でも石巻でも店が閉まっているのが多いし復興するのは容易ではない
ただ仙石線と女川線がつながり新しく仙石東北ラインができたので石巻まで50分というのは早いから便利である。
通勤するにしても便利だなと思った。
常々思っていたことはなぜ常磐線はもっと便利にならないのか高速にならないのかと思うことである。
直通で急行で50分となれば確実に仙台の通勤圏になるからだ。
今は交通で遠い所も近くなるからである。

 
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