2015年06月25日

んだちゃーは仙台弁だった (新地の人はんだちゃと言っていたのはそのためか?)


んだちゃーは仙台弁だった

(新地の人はんだちゃと言っていたのはそのためか?)

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方言の地域図



相馬市を含む相双地区には氷柱のことをさすシガという方言が分布しています。これが一歩新地町に足を踏み入れると,タレヒという全然別の方言に変わってしまいます(ちなみにタレヒは平安時代に京都で使われていた「垂氷」ということばに由来するものです)。同様に,内出血によるあざのことを新地町ではクロチ(クロジ)と呼ぶのに対し,相馬市以南ではクロナジという別のことばが使われます。相双地区に広く見られるカーマシ(川の増水)やカンカチ(火傷)は新地町ではほとんど聞かれませんでした。


カーマシという方言がないのは新地には大きな川がないからかもしれない
相馬には真野川は大きな川であり自分の家は二回も水害で浸水した。
カーマシという表現はやはりその土地特有の気候とか災害でもあるからそれを強調するために方言になったのか?

水運の発達した北上川沿いなどでは、太平洋岸の水運で江戸と繋がっていたために、江戸言葉と共通する特徴もよく見られる。これは、東北地方の日本海側の港町が、西廻り航路 (北前船) で関西と繋がっていたために、京言葉や大阪弁の影響を受けているのと対照をなしている。
浜通りの北端にある新地町は、江戸時代に仙台藩の亘理城主・伊達藤五郎の所領であったため、隣接する宮城県亘理郡と同じく仙台弁が使用されている


んだげんちょも(そうだけども…)(相馬弁)

仙台弁の特徴はやたら語尾にだっちゃがつくことである。相馬弁ではんだになる
だから丸森の人がんだちゃといったときそれは相馬弁と仙台弁が一緒になったのかと思った。
んだちゃは仙台弁でもあった。

んだげんちょも→んだちゃ

縮めるとこうなる、ただ方言というのは地元の人でもなかなかいろいろしゃべらなくなったのでわからなくなったのである。
新地で仙台弁を聞けばここはやはり伊達藩なのかと国が変わったことを意識する。
新地は平坦な所であり相馬から地形の変化がないのである。
だから地形的に別な国に行くということが全く感じないのである。
それで常磐線でも亘理までは変化がないのでつまらないのである。
ただ阿武隈川を渡り蔵王を見るとき変化があり別な国に行くという感覚になる。
そして丸森は必ず峠を越えてゆくから別な国に行くことをはっきり意識する。
風景もがらりと変わる、蔵王が見えて大きな阿武隈川が流れているからだ。



「んだがらー」
訛り?
じゃなくて、
いちいち、同意したよと同じ言葉を話すより、
この一言で済むという便利さ。
「さっぱり、わがんなくてー」
「んだがらー、言ったべー」なんてね。

んだがらーというのは相馬弁ではない、がらーとは言わない

語尾につける「ちゃ」、
これも最近、めっきり減ってきました。
「どうですか?、そうでしょうー」なんて言うとき、
「んだっちゃー、んだからさー」で済みます。
http://sendai-satouya.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-7c04.html


んだっちゃーは明らかに仙台弁であり丸森だけではない、ただんだというのは東北弁の語尾に多い。それが基幹語としてありそのあとにまた地域で変化したのである
相馬でも仙台方面と結婚したがしきりに「ちゃっこい」と言っていたのは仙台弁をしゃべるようになったためだろう。
相馬で「ちゃっこい」と聞いていないからである。
結婚すると相手の言葉の方言の影響を長くいるから受けやすいことは確かである。
方言はだから地域的な文化的な境界として区別されるのである。
今でもなまりはなかなかなくならない、国の手形が訛りである。
推理小説でもなまりは消えないからそこから地域を特定して推理してゆく。
ただなまりと方言はまた違っている。同じ言葉でも音のイントネーションとか発音の相違である。
英語とかは音で主に表現するから普通の言葉でも音で違った意味になる。
人間の言葉は音が最初にあり音で表現していた。
同じ音でも「これたかい」というのと「これたかい」でも
イントネーションが違うと本当にそれがたかいように思えるのである。
低い声で普通の音で言うのと「これたかい」というのは伝える感じが相当違ってくるのだ音を文字に買えたときそうしたニュアンスがなくなったから何か一様化して数式のようになったのである。
いづれにしろ方言は直接の会話で活きてくる。そういう場が今はもてない
ほとんど地方でも標準語でしゃっべっているからである。
ただ関西では標準語ではなく関西弁だからその相違がはっきりする
関西に来たというとき言葉からすぐわかるのである。

方言は文化交流の痕跡を残したものである。たいがい古語は辺境で沖縄とか青森などに残って使われていたというのもそうである。
それは古くから交流があった証拠である。
だから地図でも関西の影響を受けたのは日本海側であり青森などもそうである。
そもそもそうした方言が関西のでも土地の方言に入ってくるというのは相当な人の流入が長い期間ないと定着しないと思う。
英語などの言葉をカタカナにしているのも一つの文化流入である。日本語化したものだからやはり新しい言葉はそうなりやすい、ただ方言はまた違っている。
語尾の変化とかイントネーションの変化であり単語そのもののことではない
同じ単語でも発音の相違が生じているのである。

考えてみると知った人は新地の人だった。やたらだっちゃといっていたのは名取に住んでいたからだと思っていた。
そもそも新地だとなるとそこは伊達藩でありだっちゃを使っていたのである。
でも今新地でだっちゃという言葉をつかっているかどうかわからない
なぜなら相馬郡になっていたし明治以降は相馬の影響の方が強くなっていたからである。婚姻関係でも新地は相馬藩内の人とと多くなっているのである。
もちろん宮城県も多いが江戸時代は相馬藩内の人とは婚姻関係はまれだろう。
明治以降の変化もまた方言に影響しているということはありうるのだ。

いづれにしろ今は方言は普通はどこでもしゃべらない
だから何か地域性とか失われているし標準語になるとあたたかみがないということもある。
何か言葉が数式のようになったのが標準語である。
土地の人さえ方言でしゃべらないとなると地域のつながりも薄れているのである。
外国まで交わる時代は反面日本国の文化すら失われているのである。
それで日本文化のことを探り新たに発見する試みを万葉集などからしてきたのである。
つまり日本語は大和言葉にありそこに日本人の文化が言葉に純粋に残されているからである。
旅をするなら江戸時代の方が断然面白かった。
言葉も違うし関所を越えると外国になったからである。
地方創生が話題になっても何か地域的特色あるものが作り出せなくなっている。
なんでも一様化してしまうのが現代だからである。
タグ:方言 仙台弁
posted by 老鶯 at 19:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

新地にあった「文禄」の碑 (伊達藩の検地の碑だった)


新地にあった「文禄」の碑

(伊達藩の検地の碑だった)


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新地で誤解していたのは相馬藩内だと思っていたことである。
それはなぜか?
相馬郡となっていたから相馬藩領だと誤解していた。
これは基本的知識の欠如だから相当な落度である。
普通の教育を受けていたらそういう誤解がなかった。
もう一つは今日買ってきた「新地町史」を読めなかったことである。
こういう郷土史でも基本的なものを読んでいないと誤解するのである。
歴史というのは何かわかったようでほからないのが多すぎるのである。
だから日本史でも何でも歴史は誤解しているこが非常に多いのである。

新地は相馬藩と伊達藩の境目でありそれが古代からそうだった。
宇多(相馬市)領域は南相馬市鹿島区の浮田国造が最初の領域であり
新地は亘理の領域で思国造とかあった。
これは定かでないにしろ古代から亘理が別な領域であり伊達藩との境となっていたのである。
丸森とかは山で遮られているから地形的に別な国として発展することがわかりやすい。
新地は平地であれ亘理につづいているから相馬藩の延長でもあり亘理の延長にもなる。
そこに駒ヶ峰城や画牛上や新地城で伊達藩との攻防が行われていたのである。
相馬市の領域は相馬藩が城を築くまでは伊達藩の領域だったのである。
なぜ中村に相馬藩の城が築かれたかとなると当然伊達藩の支配地域に侵入して
その土地を得たのだからそこはまた伊達藩から奪われる危険があった。
駒ヶ峰と新地では城があり攻防戦があり新地は伊達藩に帰属する結果となった。
だから相馬藩士は新地には住んでいないし代々伊達藩の武士が住んでいた地域である。
だから「黒田」という姓があるとしたらそれは伊達藩の侍の子孫であり
その他の姓にしても相馬藩の武士の子孫はいないとなる
文禄のときに秀吉の命令で厳格な検地が施行された。伊達藩ではいち早くその検地が実行された。それができたのは文禄時代にすでに新地の領域は伊達藩内として支配されるようになっていたからである。
だから年表として記憶すべきは元禄までは必要である。


文禄 ぶんろく 1592〜1595 1594 家康が田方郡の一部を大社に寄進す
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(江戸時代)
慶長 けいちょう 1596〜1614 1603 徳川家康が江戸幕府を開く
元和 げんな 1615〜1623 1621 豊臣氏が大阪夏の陣で滅びる
寛永 かんえい 1624〜1643 1636 徳川家光が大社社殿を造営する
正保 しょうほう 1644〜1647
慶安 けいあん 1648〜1651 1649 慶安の大地震(江戸3大地震のひとつ)
承応 しょうおう 1652〜1654
明暦 めいれき 1655〜1657
万治 まんじ 1658〜1660
寛文 かんぶん 1661〜1672
延宝 えんぽう 1673〜1680 1680 この頃の三島宿の家数596軒、3,814人
天和 てんな 1681〜1683
貞享 じょうきょう 1684〜1687 1687 言成地蔵の伝説が生まれる
元禄 げんろく



つまり文禄がいかに古いかわかる。相馬藩内では南相馬市の鹿島区の屋形にある田中城主の墓が慶長であり古い、それより古いのである。
伊達藩の歴史の方が古いからそうなるし記録も伊達藩には残っている。
津波の記録でも伊達藩に残るのが多く相馬藩内で残らなかったのはその時まだ相馬藩では支配がされていないからである。

だから

(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
http://musubu2.sblo.jp/article/104967935.html

ここに確かに文禄と相馬藩でも出ているがこれは検地ではない、一応相馬氏が支配領域とした所である。相馬市は文禄には検地はしていない
伊達藩では検地をしていたのだから「文禄」の碑はその時のものだろう。
検地の記念として「文禄」の碑を建てたとなる

新地の歴史は伊達藩の歴史だから相馬藩からはわかりにいのである。
新地はそもそも相馬郡になる歴史的必然性があったともいえないが
廃藩置県で丸森と角田県になる予定だったことでもわかる。
それが何か複雑な過程を経て福島県になって相馬郡になったのである。
でも古代からそうしたどっちつかずの位置にあったのが新地だったのである。

新地は谷地小屋、小川、今泉、杉目、の各村と大戸浜のうち、谷地小屋に置かれた新地駅(宿駅名)に由来があり、駒ヶ峰は単独の駒ヶ峰村に由来があってなづけられた。
(新地町史ー歴史編)

新地という名前が宿駅に由来していた。鹿島も鹿島神社に由来しても鹿島宿があり原町も原町宿があって原町市になったこととにている。
新地という名が新地町となり新地という地名が目立つようになったが実際は新地は狭い領域だった。原町ももともと野馬追いの牧があった雲雀が原がであり原町市となったのは
宿駅となったことが関係していた。

新地の歴史で面白いのは新地の浜で砂鉄がとれてそれを丸森で精錬し鉄を作っていたという、それも古代から武井遺跡は鉄を生産していたから連続性があった。
それで相馬藩は鉄を岩手県の宮古から岩泉から鉄を輸入して請戸港で仕入れて今度は葛尾村で精錬していた。
葛尾大臣がいてその鉄の生産で財を築いたのである。
こういうことは日本史でも世界史でもどこでも起きているだろう。
国交関係が悪くなれば貴重なものでも輸入できなくなる。
中国からレアメタルの輸出がおさえられて高くなり日本でも世界でも困って他からその輸入先を開発するほかないとなったのもそのためである。
ともかく相馬藩は伊達藩と密接な関係にあるから伊達藩を知らないと相馬藩もわからないとなる。
「新地町史」手元に置かないと相馬藩のことも調べられない
自転車で新地までは遠いからなかなか行けない
でも意外と鹿狼山は近いと思った。海と山との距離が新地は一番近いのである。
自転車でもそれほどの距離には感じなかった。
この距離感とか地形をまず実地に知らないと歴史はわからない
ただ基本的な教科書的知識もないどんと郷土史も誤解してしまう。
ともかくこの辺では「文禄」時代の碑があるということは相当に古いとなる。
それは伊達藩領域だから残っていたのである。

タグ:新地町
posted by 老鶯 at 10:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)