2015年06月22日

六号線と相馬市の道の駅の写真 (角度を変えると違って見える)


六号線と相馬市の道の駅の写真

(角度を変えると違って見える)


 
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立葵6号線に遠嶺かな

6号線往き来の車立葵

立葵一日明るく外にあり

青田風曲屋風の道の駅

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六号線から相馬市の道の駅は近いから毎日のように行っている。
六号線は歩道もあり一応自転車も往き来しているからまだ人間的な道だとなる
ただ歩いている人はいない、歩くというのは何か過去のものになっているのである。
だから人が歩くだけで絵になるということが今やある。
歩いて感じるものと自転車で感じるものはまた違っている。

車というのは自分は嫌なのだけど結局人間は何であれ今生きているところが活気あるところにひかれるのである。
六号線は自転車で毎日のように通っているから親しい道となり人が行き交い活きている道となる。一方で死んだ衰退した道がある。
シャッター通りとなると人も歩いていない、車が通りすぎてゆくだけでゴーストタウンのように見えるし鉄道の駅は今やこの辺は相馬市と原町間で二両の電車が通っているだけである。
駅は閑散として淋しい、駅に一人とか二人とか待っていることはいる
昔は鉄道の駅は街の中心でありにぎわっていた。
それでも前はスーバーヒタチが走っていたから違っていた。それなりに常磐線は活きていたのである。

やはり何であれ人が集まらないと活気が生まれない
相馬氏道の駅には全国から来る、工事関係者も多いが他の人も来ている
車のナンバーを見てまわる、今日は奈良の番号があった
少しでもそういう人と話すことで見聞が広まるということはあるがなかなかできない
今の季節と立葵である。この花は明るい夏らしい花である。
この花は六号線にあっている。遠くに山が見えて遠くに行きたくなる
でも今は本当に遠くても相馬市くらいしか行けないのである。
この辺に欠けているのは高い山なのである。
だから高い山を見たいということか自分には常にある

ただ何回来ても角度を変えるとまた風景が違って見えるのも不思議である。
普通だったら外部の人だったら六号線だと本当に通過するくらいになる
これだけいろんな角度から見ると違って見えるのである。
写真をとるということが一つの目的として毎日行っているよさらに発見がある
いい写真をとろうとして見るからそうなる
ともかく今はこうして風景でも見過ごしていることが多い
ただ通りすぎて行ってしまって心に残らないのである。
あそこに注目したのは立葵があれだけ咲いていたからである。
写真の魅力か大きいのはやはり写真にするとまた見えないものが見えてくるからである。俳句でも写真俳句、写俳という分野が生まれたし写真の日記も生まれた。
写真で日々記録するのが現代である。
でも写真からどれだけのものがよみとれるのか?
写真は無数にありそこから異文化とか知らない自然にふれるということもある

高速道路は自転車では走れないから自分にとっては関係ない
そこは完全に車だけの世界になってしまう
六号線はまだ車と自転車とかが併存しているのである。
この辺はまだ日影の道が多い、ただ放射能汚染で南相馬市は木が切られた。
これもどうかと思った。
相馬市は除染していないから前のままであり同じ風景になっている。
そもそも除染がそんなに効果あるのかとなる疑問なのである。
仮設の商店街に「原子力委員会」という車が水戸から来ていた。
そんな人たちも来るのがこの辺なのである。


東電は津波を来るのを予想していた (コストがかかるとか経営陣が対策をとりやめていた)



東電は津波を来るのを予想していた


(コストがかかるとか経営陣が対策をとりやめていた)




東電は08年春、社内の研究で、明治三陸地震が福島沖で起きたと仮定、想定水位5・7メートルを大幅に超え、
 最大で水位10・2メートル、浸水高15・7メートルの津波の可能性があるとの結果を得た。
 新たな津波評価を受け、原子力・立地本部の幹部らが対応策を検討したが、
 設備を主管する原子力設備管理部は「そのような津波が来るはずはない」と主張。同本部の上層部もこれを了承したという。
 実際にはこの津波評価が的中した形となったが、
原子力設備管理部の部長を07年発足時から昨年6月まで務めていたのは、
 皮肉にも現在、福島第1原発で陣頭指揮を執る吉田昌郎所長だった。
http://megalodon.jp/2011-1128-1551-43/www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20111128/dms1111280716000-n1.htm

東北電力は第一原発のすぐ北で小高浪江原発の計画をしていて、
 今回クラスの津波が来ていたことは調査で分かっていた。
 (東北電力は掘って津波の痕跡を調べていた。
 東電が津波を知らないなんで嘘でしかない。

やっぱり理系は優秀だから、正しく事態を見抜いていたんだな。
たしか、東日本大震災前に
福島県議会で、津波の危険性を指摘したけど
東京電力はシカト


そもそもこういうふうに津波の話題がでていたこと自体あまり地元でも関心がなかった
もし津波に対して東電で警戒していたとか話題になれば地元の人も津波が来るんだと
警戒したからそれで今よりは命も助かったかもしれない
福島県浜通りでは特に津波の伝承もなくほとんど関心がなく津波が来ないものだと思い込んでいたからである。
だから自分も前になぜ理系集団の東電が津波をポーリング調査で科学的に証明して学者が東電に警告していたのにきかなかったのか疑問だった。
実際はそうではなく津波が来るのを想定していたのである。

その点東北電力が違っていた。小高で津波の痕跡を調べていたという、それだけ津波に警戒感をゅっていた。女川の原発は津波に警戒して作り辛うじて助かった。
でも不思議なのはもし小高でそうして津波の痕跡まで見いだそうとしていたら
地元の人でも津波はこの辺でも来るのと警戒しただろう。
もし東電でも津波を警戒して防波堤を作っていたらあんな高い防潮堤を作ったのだから
そんな津波が来るのと驚き警戒しただろう。

確かに相馬市の松川浦の奥までボーリング調査して津波の痕跡の砂が発見された。
そんな奥まで来たのかと驚くものだった。
だから相馬市でも浜通りでも津波が来ないということはなかったのである。
ただそうはいっても津波には関心がなかった
それは東電とか東北電力とかなるとかやはり科学者の集まりだから違っていたとなる
そういう優秀な理系集団であったがその理系的なもの科学的追及心とかが活かされなかった
経営コストととかが幹部でかかわると政治家もかかわりとめられた。
そこには政治的なものや経営がかかわり科学的なものが活かされなかった
科学は客観的真理であり政治とか経済的コストととは関係ないものがある
それでガリレオはカトリック教団に攻められてもそれでも地球が回っていると言った。
つまり政治的なものやその他経営的コストなどに左右されないのが科学的真理なのである
もう一つは重大なことがマスコミでは取り上げないし報道しないことがある
福島県の新聞などもそうである。完全に官製報道でしかない
福島民報でも聖教新聞をすっているからもう東電でも宣伝費を出す所は批判しない
それで福島財界という本が最初原発に批判的な記事を出していたがすぐにとりやめた
それは東電から相当金が回ってきたのだろうと取りざたされた
そもそもあのような月刊誌が成り立つ資金など販売から得られない
すると宣伝費で成り立つから政府とか大企業にはさかえらないのである。

いづれにしろもし東電で津波対策して高い防潮堤を作ったらそれは新聞でもテレビでも隠すことができないし報道される
する地元の人もあんな高い防潮堤が必要なのか?
そんな高い津波が来るのかと驚いたろう
そしてもしそれが津波の警戒をうながしたら被害があっても少なくできたということもある。
そもそも津波に対してあまりにも浜通りでは無関心だったからである。
だから原発はかえって津波に対する恐怖を勘気するものとなったのである。

そして小高と浪江の間に東北電力の原発が作られるすでに工事がはじまるとういことにも無関心だった。
小高だと隣の原町でも鹿島でも相馬市までも避難区域になったから恐怖だった。
これもまた無関心だった。
ただ今回東北電力が作る所の高台は津波をまねがれたから東北電力は信頼できるとはなる東電と東北電力の差は津波に対する危機感が違っていたのだろう
それでもやはり東電となると理系の優秀な集団であり津波を予想していたのである。
それでも津波対策ができなかったのはなぜなのか?
やはり政治家とか経営とかがからみコスト的に損だしさけていて津波にあってしまった。
吉田所長の責任も重いものだったのか?
理系でありやはり津波のことを知っていてもその対策をしなかった。
吉田所長が責任を感じて最後まで原発に残ったというのもそのためだとかなる
現代は国の責任もあるけど大企業となると国なみの力をもつようになった
トヨタがすでに国ではないかとも思う、だから財界によって大企業によって国が左右されやすい、東電は一つの国の中の国だったのである。
権力関係では政府より力があり検察もとりこめる力をもっていたのである。
だから未だに東電の社長も会長も罰することができないことでもわかる。
それだけの権力をもっていたのが東電だったのである。
保安院などは単なる飾りであり官僚の検察でも天下り先が東電だったのである。

権力の怖いのは例え科学にかなわないことでも理不尽なのことでも権力でノーとなれば
それが通るのである。
官僚に不満があるのは民間会社の人がそうした権力でやれることもぃれなくなるからである。
そしてその権力に対抗するのは誰もできなくなるとき権力が暴走するのである。
自分の本でも図書館に置けないとか地方の役人でも権力をもっているのである。
創価でもなぜあれほど権力追及なのかとなれば権力でおいしい思いができるからである。だから東電の宣伝を聖教新聞でも積極的にしていた。
そういうふうに権力と癒着することが腐敗をうむ
そういうことは戦時中も特高とかいてとりしまられていたのである。
だから巨大な権力を誰が制御するのか?
政府も大企業の言いなりになり検察もそうでありマスコミもそうである。
結局誰もできないから津波が罰したとまでなるのである。
天により神により罰せられという他ないのである。


 
タグ:東電
posted by 老鶯 at 10:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連