2015年06月18日

「心に青雲」では自然循環論を言っても東京の暮らしは全く反している (文明人はみな自然と相反して生活している)


「心に青雲」では自然循環論を言っても東京の暮らしは全く反している

(文明人はみな自然と相反して生活している)

だいたいシャケの体の6割は森に棄てられる。一頭の熊が1年で平均700匹のシャケを森に棄てる。
 そういう時期に森に入ると、すごい腐臭がただよっている。
 森中に白いコメがまいてあるようになっているが、それは腐ったシャケの死骸にウジがうごめいているのだ。
 それをさらに鳥が来て食う。鮭の死骸は10日間で白骨化し、翌年にはそれも消えてなくなる。ネズミが食べ、鹿がかじり、昆虫がたかり、微生物が分解する。
 熊がいて鮭が登ってくる川がある森はとても元気だそうだ。
 鮭が海の栄養素を運んで来て、その死骸は山に還元されていくからだ。
 http://kokoroniseiun.seesaa.net/
 
 
C・W・ニコル氏のことを「心の青雲」でとりあげている。これは自然には無駄なものは何もないということを無駄にしないということを具体的な例でとりあげたからわかりやすい森と川と海は別々なものではなく一つの生命体として連続して連環してあるというのはわかる。
でもそこで問題になるのは文明人の矛盾しているのは自分もそうだが東京という大都会で暮らしているとその生活がそうした自然の連環的な生命のリサイクルの中にあるのとは全く違ったものとして生活している。
東京でそういう森も川も海もないのである。だからそういうところでそうした自然を認識するのかとなる。
東京だと最も自然とかけはなれた生活をしているのである。
そういうことに感心するのはわかるけど現実の生活は全く正反対の生活をしている。
田舎だと山を神としたのは山から田んぼに水が流れて稲を実らすからである。
それで春になると山から神がおりてくるというのは水が流れて田んぼをうるおし稲を実らすからそうなる
そして死ぬと山に還るというのはそうした稲作と深く関係した生命の循環的思想はその生活から生まれたのである。
田舎では田んぼがあるから農民でなくても何かそういうものを意識する。

ところが東京のような大都会になるとそもそも田んぼもないのだから意識しようがないのである。
でも江戸時代では江戸の回りは自然豊かであり農民が住んでいて糞尿を農民が肥料にするために取りにきていたのである。
農業は肥料がともかく一番大事だからそうなった。
つまり江戸だったら都会で生命の循環的生活をしていたからそれは具体的なものとして
実感としてわかる。
でも今の東京でそうした自然のことは理屈としてわかっても実感としてはわからない
遠くの世界として感心しているだけであり現実の生活は正反対なのである。
毎日膨大なゴミが捨てられているしそれが家事では一仕事なのである。
それは東京でなくてもどこでも同じである。
文明人としてみんな生きているのでありそのシステムの中で生きている。
人間はつくづく自分もそうだが言っていることとしていることが必ず矛盾してくる

「心の青雲」の著者は東京に住んでいる。すると東京電力の電気を利用しているしそれを供給した場所がフクシマでありそのためにフクシマは住めなくなるまでになった。
循環的生命論を言うなら東京はそれと全く反した所に生きている。
東京を維持するには膨大な電気が必要である。文明を維持するにも必要である。
そのために石油が必要になり原子力が必要になる。
もちろん田舎でもそうした文明の中に生活しているのだから電気は必要である。
ただ東京にはどれだけの電気が必要なのか?
それだけのエネルギーを消費することはすでに循環的生命の世界とは正反対の社会なのである。
そして放射能はたいしたことはないと最初から言っていた。
それはわからないにしてもそれも無責任だろう。
東京に電気を供給するためにフクシマで事故が起きた、そして放射能はたいしたことがない、普通に生活すればいいとか言うのは無責任になる。
だから何かそうした自然循環論の生命論を説いても矛盾している
それは自分にもあるし何か矛盾していることは必ずある。
自分も資本主義を批判しても資本主義でもうけているから得しているから資本主義が実際はいいとなる方なのである。

だから人間は口で言うのと理論とは必ず矛盾してくる
要するに東京のような所に住んでいる人は自然とは切り離されているからもともと自然とは関係ないのである。
でもフクシマでは田畑があり海があり漁業があり林業がありと自然と関係しているから放射能汚染で致命的打撃を受けたのである。
東京の人もまたフクシマの事故には関係していたし現に東京の水源も汚染されたとかあるそして東京は東京で都会は都会で田舎は田舎で地方は地方で暮らせとかはならない、
フクシマなら東京から離れているから汚染しても東京までは及ばないという感覚でフクシマに原発を作ったことがそもそも疑問だった。
東京の電力は東京で作ればいい、原発も東京に作ればいいというのも正論だったのであるそうすればかえって今回のような津波のような事故にはならなかったのである。
もちろんフクシマにはフクシマの問題がありそれはこれまでも書いてきた。
それより原発は広範囲に影響するから日本全体の問題でもあった。
いづれにしろ生命循環論を語るなら東京に住んでいて語っても説得力がないことは確かである。

体内に「生命の歴史の水」を保持するということである

歴史の水というのも何か新鮮な表現である。水にも歴史性があるとか原子も古くなっているとかいうのも何か理系的なものを文系的に解いているから自分は文系だから納得する。そういう点では新しい視点をもたらしたことは確かである。
人間の特徴は歴史的存在であり日本人は人種のことではなく日本の歴史の中で作られたのである。
歴史というのは例えば原発事故で三野混沌の極貧の生活を見直されたように常に歴史をふりかえり対比して現代を見るのである。
自然にも歴史があり津波にも歴史をみればこの辺でも大きな津波に襲われて四〇〇年前に七〇〇人溺死の記録があった。
そういうことが全く忘れられていたから歴史をふりかえることが忘れていたからこれだけの被害があったともなる
「生命の歴史の水」というとき「人間の歴史の血」というものを歴史的民族はもっている。
それは血統というのではなく長い歴史で培われたものが時代を経てももちつづけるということである。
血とは地のことでありその土地から受け継ぐものだからそうなる。

人間は一時代を一世代を生きただけではわからない、長い歴史を連続したものとして人間をみるとき人間がどういうものか理解する。
動物は歴史をもたないから進歩も発展もないとなる、いつも同じなのである。
歴史は必ずそれが教訓でありその教訓からいかに学ぶかが人間なのである。
だから最近七年間いろいろと苦労して諺というのがいかに今でも通用しているかわかったそれは庶民が伝えたにしろ人間とは今も昔も変わらないものがあるから通用している。
「遠くの親戚より近くの他人」というときその遠くは隣の村でも車もないのだから遠かった。
これは別に交通が便利になっても変わらなかった。
遠くの親戚というより東京でも何か大地震などが起きた時、即座に助けられるのはやはり近くであり遠くではできないし外国が助けるとは限らない、つまり東京でも何かそうした大災害にあわないと田舎などどうでもいいとかなる。
でも今回の東北の災害でわかったように想定外のことが必ず起きるということである。
だから災害の観点から社会を見直すことも必要になったのである。

諺は庶民は残したものでも深い真理があった。
それが今でも通用するということは人間自体が文明化しても変わっていないということなのだ。
だから諺は真理であり馬鹿にできないと思った。
学問もむずかしくすると理解できなくなる。「相互浸透」とかは朱に交われば赤くなるとかのことであり弁証法は何かとなるとそれももっとわかりやすくすれば理解できる。
ただ科学にも詳しいとなるとそこで浸透というのは化学反応のようにイメージしているのだろう。「朱に交われば赤くなる」というのは化学反応でもあるからだ。
学問はどうしてもむずかしい言葉を使うから庶民に敬遠される。
真理でもそれは単純なものとして表現できるのである。だから弁証法となると別に庶民でなくてもとっつきにくいのである。



タグ:心に青雲