2015年06月16日

エマーソンの「償い」の思想はカルマの理論と同じことを言っている (与えたものが一方的に損することはありえない)


エマーソンの「償い」の思想はカルマの理論と同じことを言っている

(与えたものが一方的に損することはありえない)



わたしのためにはなっても相手のためにならぬ益を少しでも求めようとすれば、とたんにわたしの隣人はその不当な仕打ちを感じてしまう
わたしは身を引いただけ、枯れもわたしから身をひいてしまう。
彼の目はもはやわたしを求めず、われわれのあいだに戦いがはじまり、彼の内部には敵意が生じる

人々を歩駒のように扱えば、扱ったこちらまでが彼らと同様きっと苦しむことになる

百を数える恩恵を受けながら会えた恩恵は皆無だという人は果たして何が得したのだろう。
いつも支払っていたまえ、いづれは負債を所詮自分で支払わねばならない
失ったものがあればその代償として必ず何かほかのものが手に入っており、手にはいったものがあれば必ずその代償として何かを失う
集めるものが集めすぎたら「自然」は彼の金庫のなかにいれてやるだけのものを彼自身から奪い取る



人間の世界に何をするにも償いが働く、その償いは仏教で言うとカルマ論になる。
それは現世だけではない、前世にも及ぶからエマーソンより深遠なものがある。
カルマのことをエマーソンが言わなかったのは仏教を知らなかったからである。
つくづくこの自分のこの七年間の苦しみはまさに償いを強いられた。カルマの清算を強いられた。カルマの清算ということは「償い」のことである。
親には世話になったから介護を強いられたというのもそうである。
遺産が入ってきたときそのために大きな災いが生じたのもエマーソンの言う通りだった。富が集まりすぎるとそこに災いが生じるのだ。
なぜ中東で常に熾烈な争いがあるかとなれば石油という巨大な富があるためなのだ。
あまりに金をためこむとそこにはよからぬ人も金目あてに集まってくる
そのために殺されるとういことも常に人間の社会ではある。
その人相応の金ならいいがそれを越えると災いが生じるのである。

とにかく人間の関係は

わたしのためにはなっても相手のためにならぬ益を少しでも求めようとすれば、とたんにわたしの隣人はその不当な仕打ちを感じてしまう
わたしは身を引いただけ、枯れもわたしから身をひいてしまう。
彼の目はもはやわたしを求めず、われわれのあいだに戦いがはじまり、彼の内部には敵意が生じる

このことは日常的に誰でも経験している。無償で与えるものは一人もいない
そしてただより高いものはないということも経験している。
自分のつきあった人はこれを徹底していた。その人は事業を商売をはじめたけと失敗した理系で技術者で頭がいいのだけど何か経営とか商売には不向きだったのだろう。
それより東北人はつくづく商売には向いていない、それがただ如才ないとかではない、
農民体質だから臨機応変でないとかでもなく、商売がどういうものわかっていないのである。
近江商人はそういうことがわかっていたから成功したのである。

売り手よし 買い手よし 世間よし
http://www.mahoroba.co.jp/saying.php?itemid=2644

商売は一方的に相手から利益を得るというものではない、利他的精神がないと成功しない、何も得られないものに金を払ったり社会が認めたりしないのである。
資本主義が修道院からはじまったというときもそれこそ信仰に基づいた利他的精神だった商売はもともとそういうものでありとても今のように株で暴利をむさぼるようなことはありえなかった。
その人は商売をはじめてからもの凄く計算高くなったのかもしれない、まず売ったら五分はもらほねばならぬ、何かしたら五分はもらう、でも与えるのは一分でいいという精神である。
それが自分が病気のときもそういうことを実行して借金を求めてきた。
多額の借金している人はすでにモラルは喪失しているから危険である。
そんな人が病気のとき来たのだから最悪だった。
相手が弱者でも病人でもかまわない、今金がとれるということで借金をその弱みにつけこんで借金を請求してきた。

推理小説ではテレビのドラマでも事件でも必ず借金が犯罪の動機になっているのが多いのである。借金していることを調べれば犯罪の大きな動機をもつからそこから犯人を探す。まず動機から犯人探しになる。
そうなった人はもう他者に対する同情もなにもない、ただ利益を得ればいいというだけになっている。かえって相手が弱者化したとき恐喝すれば効果的である。
そうして保険金殺人にもる、それとにた恐怖感を味わったのである。
そういう恐怖を与えたものはすでに刑がなくても犯罪者なのである。
別に刑を受けなくても犯罪を犯している人など無数にこの世にはいる。
むしろ刑を受けている人はカルマを負って清算しているのだから救われているともなる
ともかく借金はすでに大きなカルマを積んだことになり返還を要求されるのである。

そういう自分またカルマを背負っていたからこういうことにあったともなる。
何か積もり積もったものが必ず六〇代以降に清算を要求されるのである。
その人は借金のために風俗とまではいかないが働かせられるているからこれもカルマだったとなる。
ブラック企業とかが繁栄することはないだろう。人を人とも思わないような働かせ方をしたら繁栄するとは思えない、だから倒産したブラック企業がありざまあみろとかなってしまう。
もし利他的な行為としての商売ならそういうことはならないだろう。

つまり世の中は公平の原理が働くというとき「償い」の思想はそれを言っているしカルマ論はそのカルマを借りを返すことを強いられるということである。
それは共通した思想であるがカルマ論の方がより深いインドの思想なのである。
だからなぜ自分はこんな不幸なのだろうとかなぜ不運なことばかりなのだとか悩む人はいくらでもいる。
そううい不運なことはただ偶然なのかと疑問になるりカルマを知りたいとなる
自分に起きた不運とか災いは本当にここに書いていたようにそうしたカルマが重なって起きたのである。
六〇代以降は何かカルマの清算が誰でも要求される。
親にも子供としての償いをしなければならないし介護しなければならないとか社会にも償いをしなければならないとか必ずある。

その人はなぜか不幸だった、その不幸は他にもいる、障害者をかかえた人などがいてそれとにている。
でもそれも今はその人のカルマだったと思う。その人は弱者を虐待するような人だった。もちろん自分も虐待されるカルマがあったのかもしれない、例えは猫などでも虐待していたりするとそれがカルマとなるからペットを飼うのも怖い面はある。
虐待したものは虐待されるし盗んだものは盗まれるし殺したものは殺されとかそうした因果応報カルマ論はここの人生で納得いく理論なのである。
つまり殺すものと殺されるものは偶然なのか?それにも因果関係がカルマが働いているのではないかとなる。
親が子供を虐待すると子供が親になったとき子供を虐待するということもカルマとしてある。親の因果が子に報いというのは現実にそういう例が多いから常に言われるのである。
もちろんあまりにも人間は複雑だから謎であり不明なのも多い、ただ一般論として確率としてはカルマ論はあてはまるからこそカルマにこだわるのである。
インドでカースト制が生まれたのもそうした簡単に差別というのではなくしれだけ古い国だからこそそうした身分制も必然的に生まれてきた。
その土地で裕福になるのは勤勉に働いたとか何か理由があってなっている。
怠け者だったら裕福にはならないから金持ちをうらやむのは間違っている。
ただ今はそうした公平の原理が働かないということで資本主義が否定されつつある。
公平でないということはやはりその社会の危機であり社会自体が崩壊に向かっているともなる
格差で不満が増大してそれか革命につてがってゆくからである。

いづれにしろ与える時は与えるがいい、それが一見無駄なように見えても与えることは幸せだからである。
自分もなぜこの人にこんなに与えるばかりなのか?相手はさほど感謝もしないようにも見える、でも与える力があるときは与えていた方がいいとなる。
むしろ金持ちだったらそういうカルマをもっているのであり与えないとかえって災いが生じ安い、だから金持ちになることもむずかしいのである。
宗教はそもそも利他的なのもだから損することを厭わない、ただ与えることをすすめる。そんなことして自分に何の得があるのということになる
なぜならエマーソンの言うように少しでも自分の利益にならなければもうこの人とはつきあわないとなるのが普通だからである。
それほど利に聡いのが人間であり人間社会の普通のありさまなのである。

だからエマーソンでも例え損に見えてもかえって損であれば損であるほど与えないというのはそこに「償い」があるからだとなる。
その損は決して損はなく償いが必ずある、また何か得したとしても不正なら必ずカルマを積んでいるからその借りは返すことが要求されるのである。
とにかくなぜに人間は自分だけが不当な仕打ちをされるのだろうという不公平感におちいりやすい、それが犯罪にもなる。
でもそうした不満でも自分にも何らかの落度はあるのが普通である。
でもそれを否定して不運だ不公平だと言うとき納得できないのである。
人間は生まれた家で決まるんだよな,努力しても無駄だよともなる。
でも本当にそうなるのか?、人間は何かしら努力しないなら積み重ねがなければ何も成らないだろう。
だからどうしてもそうした不公平感も例えはあったとしても全部は肯定できないのである

虐待したものは虐待される
金持ちは与えないと奪われる
貧乏人もにも非はある
世は公正を求めるしのぎあいである
とても暴利を得る社会はつづかない
富は独占できない
そこにアメリカの危険がある
金持ち国の危険がある

ともかく人間は運不運があるにしろ公正を求めてる。だから公正でないことは許されない、だから公務員だけが得しているというときいづれはそれも正されるだろう。
官僚も得しているというときそれも社会は許さなくなる。
そういう公平を求める力が常に働いているからいづれはそうなる。
公平でないことは誰も許さないのである。


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情報過多時代にどう対処する? (NHKクローズアップ現代ー買い物は“おまかせ”スタイルで!? )


情報過多時代にどう対処する?

(NHKクローズアップ現代ー買い物は“おまかせ”スタイルで!? )



今やインターネットとかで買い物も情報化している。そして情報過多に悩んでいる。
情報が多すぎて自分でも選びきれないというのが問題になる。
それはインターネットでは常に起きている。
種類が多くて何でもあるとしても何を買っていいのかわからなくなる。
そもそも買い物だったら昔だったら隣近所の店であり次にスーバーとかイオンとか
買い物の種類が増えたきた。
だから自分も買い物が仕事になっている。様々なものがりそれを選びきれないしわからないものがまだまだある。
意外といいものを買うのはむずかしい。特に野菜とかは生ものはむずかしい。
それから調味料とか料理に使う細かいものもわかりにくいのである。

自分はもうインターネットでプログで発信するために情報にアツセスしたり本を読んだりするからもうそんなにいろいろなことを一人でできないのである。
もうスーパーマンになるほかない状態である。
家事だけでも実際に書類とかいろいろあるからそれだけでも頭に入れることが手間になるそれは自分だけではない他の人も情報が多すぎて仕事するにもどうしていいかパニックになっている人が多いだろう。
人間が情報を処理できるのは限界がある。つまりもう情報はとても消化しきれなくなっているのだ。
情報の性質として情報は天文学的無限大であり常に膨張しているしグローバル化するグローバルに膨張しているから一人の人間の頭では処理しきれないのである。
情報の性質としては

●一つの物事一つの場所の深化する情報
●広域化グローバル化する情報
●視覚化する情報

一つの物事とか一つの場所で深化してゆく情報は江戸時代とかがそうであった。
一つの藩内からほとんど出ることがないからその中での情報を知ればいいのであり外部の情報はそれほど知るなくても困ることがなかった。
人間もそうした狭い範囲で親密に暮らしていたのである。

今の情報は単に情報でなくても物でもグローバルに流通しているときその情報を広げれば無限大になる。とてもそんな能力は人間にはない。
そして現代の特徴はデジタルカメラなどで動画になり写真の情報も膨大になっている。
その視覚化された情報でもそこには写真からよみとるものが様々にありまたふえてくる
そして原始的な情報の取得は対面的なものである。そこには活字だけではない、声や身振りや表情という情報を伝えるからそれは一番心に残りやすい。
でもこの対面的なものはわずかに限られた人にしかできない
外国になるといくら交通が便利なになっても直接合うことはむずかしい。
直接合うことわずかであり限られているからどうしもその他のことで知ろうとする
医者でも直接みてもらうとなると病院で半日待っているとか手間がかかりすぎるのであるそれで医者が説明するのは二三分なのである。
それだけで何かわかるかというと一方的に聞いているだけで詳しく聞くこともできないのである。
でも直接医者に聞かないで自分で判断するとまた命取りになることを経験した。
ある人は癌になり医者にも行かずインターネットとかで情報を調べて漢方薬の医療とか民間医療のようなことをして悪化して死んだとかもある。
これも様々な情報にまどわされてそうなった。
要するに癌の情報も膨大になると情報の迷路に入ってしまっておかしなことになる。

学問でも例えば本を読む場合でも今や古本から無数の本を知るしアマゾンでボタン一つ手に入る。だから何か調べて書こうとするときやはり情報が多い方が詳しくなるから毎月古本とかなるべく安いものを十冊は買っている。
でもその本を一冊一冊詳しくは読まない、要点だけをさーっとよんで利用しているだけである。
何回も今でも読んでいるのは古典的なものである。
そういうものは何回読んでも新たな発見がありなるほどいいことを言っているなと感心するものが何度読んでもある。
一種の古酒のような味わいになるのかもしれない。
ただそうして何度も読む本と何か学術的に調べる本は違っている。
それはあることについて様々な視点で書かれたものを知る事がいいからその方面の本を集める。
しかし本は中味はなかなかわかりにくいので古本だと立ち読みのようなことはネット上でもできないのでこまる。

そして電子本は読みにくいことがわかった。自分のように要点だけを読もうとするパラパラとめくり全体の要旨を知ることができないのである。
どうしても一ページづつ読むから手間になるからできない
そして活字を本で読むのと電子文字で読むのも相当に違っている。
何か本の方が記憶に残りやすいのがなぜかわからない。
だから本というメデアは出版社とか書店がなくなってもなちならないのかもしれない
要するに本で読みたい人は残る。でも出版社とか書店で本を買うということはなくなる
アマゾンのような販売になるだろう。

いづれにしろこの情報過多の時代でまた時間が奪われるのも問題だろう。
ただ本にしても今ふりかえると情報がずいぶん少ない江戸時代のようだったともなる。
なぜなら本自体が田舎だ専門的なものはほとんどなくベストセラーのようなもの売れるものしか置いていなかった。
それで仙台の方に度々自分が行っていたのは本を買うためだった。
その仙台の大書店でも本の種類は膨大だったのである。
それがわかったのはアマゾンで本を買うようになってからである。
地方では本は極端に少ないし古本は神田の書店のようなところでしか買えない時代があった。
そういうことでも田舎にいても今でも情報格差はないのである。
何か調べる気だったら田舎でもできる。

今は金に糸目つけず買っているからかなり専門的な貴重な本も手に入るのである。
そうはいっても本も買い切れないし読みきれない
だから若い人は今までもそうだったが情報過多になりつまらないものを読んで時間を奪われることである。
何が必要な本でももはや自力では選ぶこともできないかもしれない
本の内容を若いときは簡単に読めこめないからである。
要するに本を読むということは自分の文脈で読むとういことである。
その文脈の中でインターネットの検索があり本がある。
本には確かに詳しい専門的な情報があってもそれは自分の文脈で利用する
それではじめて本を読んだとなるのである。
あとはただ受け身だと頭にも残らないしただ読まされているというだけになってしまう。そういうものはたいがい忘れて何も残らないである。
つまり本を読むことは自分なりに解釈することである。
そして本を読んだことを自分の文脈で解説すれば取り入れればそれが他人にも有益となるのである。
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