2015年06月12日

今日一日の実り(詩) (労働に充実感をもちえない時代)


今日一日の実り(詩)

(労働に充実感がもち得ない時代)



父の手は手というよりもむしろ大きな馬鋤だ
合掌することもなければ
無論他人のものをかすめとることも知らない手
生まれたままの百姓の手
まるで地べたの中からでも掘り出した木の根っこのような手だ
・・・・
いまもその手は骨と皮ばかりになって
なおもこの寒天のやせた畑地を耕している
ああ 自分は何も言わない
自分はその土だらけの手をとっておしいただき
このところではるかにその手に熱い接吻をする
山村暮鳥(父上のおん手の詩)



今日一日の実り

今日一日実りのあれや
多くのものがあふれ
今日も我はスーパーに買う
金があれば何でも手に入る
物なら何でも買える
しかし何か実りなきは
何か充たされるものなきは何故や
食べれば確かにうまく腹を充たす
とはいえ何か充たされぬは何か
ただ買いて腹を充たす
今日一日の実りのあれや
田畑に労して実りしもの
その住む大地から実りしもの
それを食べてこそ実りのあれや
今日一日腹は充たせど心は虚し
そのもののいづこよりきて
いかにして作られしものか知らじ
パートに働きて時給をもらいて
そは充たされしや
どこに働いても賃金のみで計られ
金が実りのすべての基準
今日一日いくら稼いだか
それが今日の実り
現代の仕事は無数あっても充たされない
ただ消費されることで充たされる
腹を充たしても心は充たされない
それでみんな仕事が嫌になっている
しかたなく金を得るために仕事している
金がたりない、金がたりないと
毎日不満を言っているのが現代
これほど物があふれても豊かにならないのはなぜ
そこに現代の心の貧困がある
いかなる仕事も本当に今日一日の誠の実り
それがなければ虚しいとなる



おそらく「豊かさの貧困」でも様々なことで現代文明は批判されてきた。人間はアトム化されるとか人間が数化されるとか人間が人間でなくなる、それでアウトサイダーとなり人間回生を目指したのかニーチェとかミラーとか上野霄里とか他の思想家でもそうなった。それは過激となったのは天才だったからそうなった。
天才は普通の人より生きるエネルギーが大きいからそうなる。
静かな思想家でもピカートなどはろはりアトム化した文明を「沈黙の世界」で示した。
それはそうした高度の思想とか文学でなくてもいろんな方面からの批判があった。
経済思想からもあったのが「豊かさの貧困」であったり他にそういうこと様々に語られてきたのである。その本も膨大になるから読みきれないのである。
結局本はいくち買っても読んでも自分のものとして書かなければ読んだともならなかったのである。
現代の消費社会はまさに消費するというときただ費やすという消極的なものとなったからだろう。
今でも生産するというときは積極的なものとしてある。
人間はただ消費しているばかりだったら何ら生産性がなかったらあらゆるものが虚しいとなる。
この世の中今はあらゆるものがそれは物だけではない、情報でも一方的に消費するだけなら虚しい、自分なりに考え自分で評価すれば生きたものとなる
だから何でも受け身では精神は充たされないし虚しいとなる
テレビの情報の奴隷になっている人たちもそうであり自ら考えないで生きている人たちも奴隷になりやすい。

いづれにしろ現代は何か労働そのものが拒否される、それはなぜなのか?
労働は嫌悪されているしなるべくしない方がいいとなる。
それが生まれたのがフリ-ターでありニートとかである。
労働はその場しのぎであり一時の賃金をえるだけのものとなる
労働の形態がそうなってしまった。労働はWORK(作品)ではない
JOBでありその場しのぎの一時的賃金を得るものにすぎないのである。
そういうふうに労働があるとき社会全般も荒廃してしまうのではないか?
なぜなら社会の基本は労働にあるときその労働が嫌われ労働しないことこそが一番いいことだとなっているからである。

現実に労働は機械にさせるべきで人間は労働しない方がいいという社会になっている
だからあらゆるものが機械化して雇用すらなくなってくる
その時人間は不用なものとなってしまう。
その時人間を山村暮鳥の詩のように讃歌することなとなくなる
(父上のおん手の詩)のようにその手はもうない
それは機械に置き換えられてしまったのである。
もはや働くの機械であり人間ではないからである。
そういう社会はまたどうなってしまうのか?
人間の生きる充実感はどうなってしまうのか?
人間はお払い箱となり頽廃してしまうのではないか?
それとも労働から解放されてパラダイスになるのか?
この辺では補償金で毎日パチンコだとか遊び暮らすようになった。
飯館村の人がギャンブラーになったとかもそうである。
みんなか知識人でもないから本など読まないのが普通だからである。

お前はどうなんだというとき、自分は旅に時間を費やした。その他学問とか芸術に費やした。その追及したものをプログなどで発表している
自分自身が流れ作業ばかりして日銭をかせぐ仕事ばかりだから労働を嫌悪して環境に恵まれていまになるまでせずにすんだのである。
そこに何でもそうだがプラスマイナスがあった。
いろいろな欠如したものも生まれてこの七年間は介護や自分の病気で苦労してきたのである。
現代の文明の問題は「今日一日の実りがない」ことではないか?
仕事をしてもそれを感じられないことではないか?
地球の裏側の人のために働いてもそういう労働自体に喜びを充たされたものがあるのか?
そういうグローバル経済というのももはや矛盾が大きくなり限界に達しているのではないか?
そんな遠くの人は何か困っても助けには来てくれない、確かに物は来ても助けてはくれない、実際に原町でも何かあったら家にきてもらいたいができなかった。
「遠くの親戚より近くの他人」は車社会になっても通用している。
車で原町かち来るのも手間なのである。グローバル経済の弱点は肝心なとき近くのものに助けてもらえないということにもあった。
それがアキレス腱なのだがまた反面この辺で津波や原発事故で働き助けたのは外部の人であり内部の人は遊んでいたという矛盾がある。
それは広域社会化しているからそうなった。
だからまたすべてが広域社会化したから悪いというものでもなかった。
すでに自給自足の村社会にはもどれないからである。

とにかく何か仕事の充実感が得られないというときそこに現代特有の問題がある
消費社会であり生産社会ではない、生産しても働いても充実感がない
例えば農家なら自給自足でもその働いたものは直接に家族とかが食べていた。
売るために働いて作っていないということが労働の充実感をもたらしていた。
そして父上のおん手の詩のように感謝していたのである。
いまスーバーに行って物を買って感謝している人などいない
ただ高いか安いのかうまいのかとかみているだけである。

でも名取の閖上(ゆりあげ)から来たシジミを売っていた。
あそこも津波で大被害を受けたからシジミもとれるようになって復興しているのかと感じた。他のシジミはどこから来るのかもわからなかった。
前はこの辺でも川でシジミがとれたし自分もとって家族に食べさせた。
それは大きなシジミだった。売っているのはみんな小さなシジミなのである。
そのシジミをとっていたとき何ら苦痛はなかった。

閖上(ゆりあげにとれるシジミをスーパーに買いて思いぬ津波の後に

それよりそれは楽しみだったのである。今では野菜でも米でも作るのは家族のために作るだけなら楽しみになる。機械でするしそんなに苦労ではないからである
それでもほんのわすかの野菜しか作らない人は毎日草取りだ肥料だ気候がどうだこうだと言っている。
だから農業というのは本当に手間でありかえって肥料だとかその他種でも金がかかるものなのである。
だから趣味としてやるのはいいがとても売るとなると全く違った労働となるのである。

結局変だが自分の今日一日の実りは風を切って軽快にロードで走ったことだった。
それは自分の一生すらそうだったとなる。何か仕事して充実感を得た経験がないのである仕事が多岐にわたりパーツ化すると仕事で充実感をもっているのは一パーセントくらいにしかならないのでないか?
そのことが現代文明の頽廃であり深刻な問題なのである。
ホイットマンであれ山村暮鳥であれあれほどすべてを賛美できたのはやはり時代だった。人間の労働が活きていて消費社会ではない自ら働いて労働自体が充実感をもたらしていたのである。だから現代は労働より遊びに重点が置かれる社会でもある。
ギャンブルとかでなくてもレジャーが盛んになったのもそのためなのである。



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貧乏が賛美されていた明治から戦前のこと (山村暮鳥の詩の不思議)


貧乏が賛美されていた明治から戦前のこと

(山村暮鳥の詩の不思議)


現代の生活は定着的農耕民的生活から離れている。江戸時代なら8割が農民であり生活も回りにあるものでまかなったからそんなに移動はしない
隣村にゆくのにも見知らぬものとして警戒されていたし民情が一致しないと飯館村大倉村と佐須村は明治以降になっても合併しなかった。
現代の生活からするとどうしてそういうことができたのか不思議である。
地球の裏側から物が入ってきてその物が入らないことを心配しているグローバル経済の時代である。
現代とは空間感覚が急速に拡大した。
文明とは空間を技術でもって交通でもって縮小することでもあった。
だから明治維新の象徴が鉄道になったのである。
鉄道によって日本という関所で閉ざされた空間が敗られ一挙に日本の国土意識をもったとなる。
切符一枚で日本全国に関所も通らず行けることがなくなったからである。
その江戸時代から明治の変化も大きかった
だから東京で鉄道でも見知らぬ人たちが乗り合わせることに違和感をもった
つまり見知らぬ人がそんなに一緒にいるということがありえてかったのである。
人間は常に見知った人たちと生活していた。
それが江戸でも長屋でもそうである。長屋でも人は移動しなかったのである。

江戸時代から明治に変わるとき空間意識も時間意識もまるで変わってしまったのである。ただ明治昭和戦前戦後十年とかとまだ生活的には江戸時代の延長ということがあった。
なぜなら燃料も炭とか薪であり時給自足的な生活だったからである。
そして農民的社会であり工業社会でも情報社会でもない、その土地土地に根ざした生活だった
一番驚くのは大正時代でも人口が6000万だったということである。
これくらいの人口だと日本の自然は十分に今より余裕があり残されていたのである。
それでけ山村暮鳥はホイットマンのように都会までありあらゆるものを賛美していた。
機械文明もその時は新しいものとしていいものだったのである。
そこに否定するものはなにもなかった不思議である。ガスタンクまで賛美している
その時文明は全面的に賛美するものとしてあった。
科学とか技術が新しいもの作り出してゆく未来と感じられていたのである。
明治から大正時代でもその時は日本の新しい文明の発展時代でありそれは何でも良いものとして受け入れられていたのである。
アメリカでも日本と同じように農民主体であり農本主義でありそこを基盤にして機械文明が発展してゆくはじめでありホイットマンも何でも賛美していたことは同じだった。
その時ソーローのように文明を批判していたのは例外的だったのである。
そういう田園を破壊する予感はあっても全体的にはそうはなっていなかったのである。

そして山村暮鳥の詩の特徴はまたその当時の詩の特徴は貧しさを賛美していることである貧しさの中になにか人間として尊いものを感じている。
現代は貧しさは最も嫌われるものでありふれたくないものであり貧しさ隠す時代である。だからボロを着ている人もいないし何か飢えている人などみかけない
生活保護制度もありそこまでにはならない時代である。
ただ現代の精神的貧困さはかえって車がないとか立派な家がないとか教育でもいい大学に入っていないとかそういうことで競っている
いい車をもっていない人は見すぼらしく見えるから借金してもいい車をもとうとする。
現実に前の親戚は事業を起こして失敗したがそういう見栄を維持するために借金していた他でも借金していい家を建てた人が多いのである。
だからいい車をもっていないとかいい家がないとかそうしたもので差別化される
教育でもいい大学に入っていないと馬鹿にされるとかなる
貧しい時代は食べるのが精一杯な時代はそういうことがなかったろう。
要するに江戸時代でもその後明治から戦後でも十年くらいは大方はその日暮らしではなかったか?

自分の家では一時部屋を貸していたみたいだ。その時毎日のように家賃をとりにいったと聞いた。これもありえないことである。一カ月に一回が普通である。
毎日となると手間になるからめんどうになる。
ではどうしてそうなったのか?それは日銭稼ぎでありその日暮らしが多かったからだろう酒でも升で子供のとき買わされたことがありその頃買い置きというのはできなかったのだろう。
そんな金をもっていなかったのである。
つまりその日暮らすのが精一杯だったのである。
今の時代は貧乏でも何かしら貯えのない人はいないだすろう。
ただ貧乏な人はその日その日を暮らせばいいとしている人はまだいる
蔵がある家はその時金持ちだったのだろう。
何かしら米でも貯えておけたからである。何も貯えられない人がほとんどだったのである病気になったらどうするのかといったらろくに医者にかからず死ぬ他なかったのである。今のような手厚い医療も介護もないのである。そんなことにかける余裕もなかったのである。
だから今の生活と比べるとその相違があまりに大きいのでそういう生活が理解できなくなっているのだ。

今の生活は今を見てもわからない、過去と比べると見えてくるのである。
今の当たり前のことは昔は当たり前ではない、特別恵まれたことだった
昔は三食食べられて眠る場所があればいいとか考えていたのだろう。
それ以上の贅沢は望みえようがなかったともなる
母が紡績工場で働いていて30分の休みに遊びたくてはや食いした女性が体を壊して死んだというのは信じられない、でも30分は短いから食べる暇もなかったのかもしれてない
そういう労働環境だったともなる
昔はなんらかどこでも働きづめの一生だったのが多かったことは確かである。
現代のように三分の一が働かない時代だとなるとこれは天国かもしれないとなる
自分などは恵まれてその天国を生きたのかともなる。
だから現代人の若者でも不満は過去に比べるとかわいいものなのかもしれない
もちろん時代時代によって苦しいことも楽しいことも変わっているから一がいにははかりえない
でも過去と比べれば現代は恵まれた時代なことは確かなのである。
ただそこで失ったものがは確実にある

なぜ貧乏がその時代に賛美されていたのかということである。一種の清貧というものがあった。清貧というのもは貧しさのなかでも何か精神的には美しいものを維持しようとすることである。
現代ではそういうことはない、貧しいということは落伍者でしかないのである。
現実に水道でも電気がなければ生活できないというときその最低限の出費でも金がかかるのだから金がないということは生活できないということに通じているからである
山の清水を井戸の水を飲んで暮らせばいいとはならないからである。
だから清貧などという暮らし自体が成り立たないのである。
それで人間はかえって文明的便利な生活の結果として精神的には貧しくなったともなる
貧しさの中に人間的精神的な高貴さを維持できるものがありえたが今はありえないからである。
上野霄里氏は戦前生まれだから「貧乏の哲学」をもっていた。
だから貧乏な生活でも精神の高貴性を維持できていた。
でもあのような貧乏をもう強いることはできないのである。
旅をしても一杯の水を飲むにも金がかかるからである。
自分は別に車がなくても今は生活できるし車がなくても貧しさは感じない
そもそも車は自然を感じないから嫌なのである。風も感じないし日影をゆく自然も感じない、だから自然を感じるために自転車に乗っている
ただそれも車社会では贅沢なことをなのである。
日常生活では車をもたなくても車の恩恵で暮らしているからである。
ただ車をもっていないとなると現代では一段と低く見られる
車ももてない貧乏なのかと見られのである。
むしろ自転車で生活していること自体豊かなことだと自分では思っている

軽快にロードで走る夏雲雀

やはりロードだと電動自転車と違い早し気持いいとなる。電動自転車ばスピードは出せないからである。
ともかく山村暮鳥の詩はその時代を反映したものであり今ではありえないことを詩にしている、それはまた現代で失ったものがいくら貧しくてもあったのである。
だからそういう昔にあったものを見直す作業も必要である。
それより今の時代はかえってそうした昔のことをもっと知るべきだと思う。
何を得て何を失ったかを知るべきである。
それは原発事故などで故郷まで失った悲劇を考える手助けになるのである。
昔の詩歌は貧しさを歌っていてもそれは現実から生まれていた。
山尾三省は作られた文明という豊かさの中に作られた貧しさであり
本物の貧しさではない、パンも食べられないというのは故意に作られた貧しさなのであるテレビで放送するのも貧しさがものめずらしいものとしてとりあげている
本当の貧しさがわからなくなったからそうなったのである。
だから山尾三省の詩はそんなに価値がないかもしれない
つまり芸術はその時代時代でしか作り得ないものがある
芭蕉の俳句もその時代だから作れたのであり今でもこれほど俳句が盛んでも俳句が作れるの芭蕉以上の人は出てこないことでもわかる
その時代に作り出した価値はいくら文明が発達しても豊かになっても作れないのである。


ボロを来て野良仕事している人間
車も機械もなにもない時代
家もボロ家でみんな貧しい時代
そこにも人間の美しさがあったのか?
その心は正直で飾るものがなかった?
今人間はいろいろなもので飾る
その着るものでその持つもので
家や車や機械や道具で飾る
でもその心は貧しい
ただ毎日たりないたりないと嘆き
不満が絶え間なく起こり
何にかがないと嘆く人ばかり
一人も感謝するものはいない
多額の借金までして身を飾る
自然の美もその人たちには映えない
車のない人たちは失格者となり
見下して車を吹っ飛ばしてさる
人間同士いたわることもなくなった
ただ金を求める声のみがある
・・・・・・・・

つきあいが悪くなり親密さがうすれてきたことが現代経済の特徴だという
親密さには時間かかる
社会的に物質的に豊かになりますます時間に追われると人間同士の親密さや思いやりが少なくなってゆく

我々が成長と生産性を重視するのは「根」の感覚が薄れていることと密接な関係がある
自分を確かにつつんでいた共同体が失われ自分の孤独ともろさを思いしらされたとき我々はそれを所有で埋め合わせようとするのだ。
捨てな新しいものを買う時、家の中を見回して新しいして物を買うとき力を感じるのである。

「アメリカ人の来世はショッピング・センターにある。彼の勤勉はそこで報いられるのである」
(豊かさの貧困)ーポール、L ワクテル

自分も毎日が買い物であり買い物が一仕事なのである。
なぜこんなに買い物があるのかと思う、だから毎日行っているのはスーパーなのである。
ただそこは買う場所であり何か人間が親しくなる場所でもなんでもないのである。

この本も前に読んだが忘れていた、前に読んだ本を自分なりに活用してくるとき本も生きてくる
これをもう一度読んで評論してみよう



山村暮鳥の詩はいろいろあるが今ここでは紹介できない
山村暮鳥全詩集がでているのでそれを読む他ない
あとで詩の解説はするようになる



 
タグ:山村暮鳥
posted by 老鶯 at 16:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題