2015年06月08日

南方系と北方系は世界史的なテーマ (日本では東西が歴史的にも風土的にも基になる)


南方系と北方系は世界史的なテーマ


(日本では東西が歴史的にも風土的にも基になる)


●ヨーロッパは南と北は明確である

日本での南方系と北方系の区別はむずかしい。
文化が地理から作られるから気候風土が深く関係している
それが明確なのはヨーロッパだと暑い方の地中海沿岸のラテン系と寒い国のゲルマン民族である。
フランス語とドイツ語が明確に別れているし言語学者でなくてもすぐにわかる
言葉の面から言えばドイツ語は東北のズーズー弁的なところがある
何か言葉が重いのである。そのドイツ語を基本にして英語が成り立っている
ということはドイツ語は世界的なものになっているという面もある
英語でドイツ語を意識しなくてもドイツ語がその根底にあるからドイツ文化の影響を受けているともなる
ヨーロッパだとこうして南と北は地理的風土的にも文化的にも歴史的にも別れているからわかりやすい
ギリシャやローマは南方系でありギリシャにはオレンジなどがとれる、それは日本だと瀬戸内海辺りになる。
ドイツとかは寒いし霧の国であり憂鬱になるから憂鬱な哲学者が輩出している
それは風土的な影響なのである。音楽でも重厚な音楽になる
ゴシック教会のようにゲルマンの森を象徴しているというのもそのためである。
日本だと東北から北海道はゲルマンににている北方系だが北海道は風土的にはより北方系である。トドマツなどがあり樹も重厚になるし太いのである。

カトリックはラテン系であり勤勉なプロテスタントは北方系である。
南方系のラテン系はシエスタとか昼間の長い時間を昼寝するとか休む
それは暑いせいもある、暑いところは昼間は働けないのである。
だからなまけもののように見える。
寒い国はかえって勤勉になるのである。
人種的に区別することもあるが人間はそこに住む風土の影響の方が大きい
ただユダヤ人は例外である。神の民として今も残存しているからである。
民族というより風土的歴史的に作られた文化的集団としての区別である。
だから日本人のルーツを探っても無駄なような気がする
遊牧民とか農耕民とか漁労民とか分けるのがその風土とか生業が人間の存在を規定する
世界は人種で分けるのではなく土地土地で培われた歴史と文化で分ける。
だからもし日本に移民がふえても日本の風土はかわらないから日本人の文化を受け継げば人種は関係ないとなる。
ただ言葉が変わったりしたら日本の文化は喪失するのである。

文化は風土が多様なように多様であるべきなのである。
方言をみんな標準語にしたのもつまらない、ズーズー弁は軽蔑の対象になったが
方言が喪失したら国の訛りもなくなり地域性もなくなる
今は子供からしてきれいな標準語をしゃべり方言は喪失しているからだ。
面白かったのは丸森の人がんだべっちゃと言ったことである。
仙台だと語尾がだっちゃになる、相馬ではんだとなる、それか結合してんだっちゃとなった
丸森には一時相馬藩の城があったから方言も結合したともなる
こういうふうに地域性があると方言でも文化であり面白いのである。
科学とか数学は共通であり地域性とかないからグローバル化で文化も破壊されたのである地域創生というとき方言だって見直す作業が必要なのである。

それは狭い一地域でも歴史が違っていて色合いか違ってくる
何回も書いたけど相馬市は相馬藩の城跡があり城下町である。
原町市はひは雲雀が原があり野馬追いでは神旗争奪戦が行われる場所である。
でも原町は明治になって鉄道が開通して原町機関区になったようにいち早く近代化した街である。
だから大正時代に巨大な東洋一の無線塔ができた。
駅前通りが主要な商店街になったのもそのためである。
相馬市は駅前と通りはなく城下町のままだった。
原町は何か感覚的に広々として感じになる、郊外が広い感じになり雲雀が鳴いているのがふさわしい、それで雲雀市という合併後の名前も浮上したことでもわかる
そういう土地柄なのてある
こういう違いはなかなか旅しているとわかりにくいのである。

●日本では南北が東西になっている

とう‐ざい【東西】 

もと相撲で、東から西までおしずまりなさい、という意で言い始めたという》興行物などで口上を述べるときに、また、ざわめきをしずめるときなどに言う語。東西。とざいとうざい。

1 東と西。また、その方向。「―に走る道路」
2 東洋と西洋、関東と関西、東側諸国と西側諸国などの意。「―の文化」「洋の―を問わない」「古今―」
3 世間。また、世間の事柄や事情。「―もわきまえない青二才」
4 《東や西の意から》あちこち。方々。

東と西。また,東洋と西洋,東側諸国と西側諸国,関東と関西など。 南北 「川は町の中央を−に流れている」 「人の気持ちは洋の−を問わない」 「古今−」
A方角。転じて,世間の事柄。 → 東西を失う ・ 東西を弁ぜず
Bもと中国の俗語で,物品または金銭の称。

東人(とうじん、韓国語:동인〔トンイン〕)は、李氏朝鮮の官僚の派閥の一つ。

東人と西人の対立が始まると当時の大司憲・李珥は、金孝元、沈義謙双方を地方に退かせたため、東人の領袖の座に鄭仁弘を着かせた。1584年、李珥が亡くなると本格的な党争が始まった。東人はほぼ政権を掌握していたが、西人から東人へ寝返った鄭汝立の謀叛事件により西人に政権を奪われることとなった。
しかし、1591年に西人が世子冊封の問題で失脚すると東人が政権を掌握した。東人は西人の粛清を始めたがその過程で、南人と北人に分裂することとな
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%BA

あずま‐びと〔あづま‐〕【▽東人】 

東国の人。田舎者の意を含んでもいう。あずまうど。あずまど。
「破 (わ) り子や何やと、こなたにも入れたるを、―どもにも食はせ」〈源・宿木〉

東男に京女
男は男らしくいきな江戸の男がよく、女は優しく美しい京の女がよい。
あずまあそび【東遊び】

古く東国地方で、風俗歌に合わせて行われた民俗舞踊。平安時代から、宮廷・貴族・神社の間で神事舞の一つとして演じられた。歌方(うたいかた)は笏拍子(しゃくびょうし)を持ち、笛・篳篥(ひちりき)・和琴(わごん)の伴奏で歌い、四人または六人の舞人が近衛(このえ)の武官の正装などをして舞う。現在は宮中や神社の祭礼で行われる。東舞(あずままい)。

あずまうた【東歌】
上代、東国地方で作られた民謡風の短歌。万葉集巻14と古今集巻20の一部に収められる。
あずまうど【東人】
「あづまびと」の音変化。
「あやしの―なりとも、賑ははしきにつきて」〈徒然・二四〇〉
あずまえびす【東夷】
京都からみて、東国の人、特に無骨で粗野な東国武士をあざけっていった語。東夷(とうい)。


日本では南方系と北方系は東と西である。だからトウザイ、トウザイとは東も西もで日本全国をさしている。
日本の方角感覚は南北ではない、東と西なのである。

●東西感覚は歴史的にも韓国と日本でも共通していた

それは歴史的にも関が原で東と西が奈良時代から別れている、東はあづまでありそれは戦国時代でも信長は尾張であづまの領域、東の勢力である。

それは天智天皇と天武天皇が争った壬申の乱からすでにはじまっていた。
大海人皇子は天武天皇元年6月24日(7月24日)に吉野を出立した。まず、名張に入り駅家を焼いたが、名張郡司は出兵を拒否した。この状況を不利と見た大海人皇子は、伊勢国に滞在し占いを行った後、伊勢神宮に参拝した。これにより大海人皇子は美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族の信を得ることに成功した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1

名張から伊勢へ向かった。伊勢から名張へ自分は旅をしたからこの地理感覚わかる。
面白いのは韓国でも同じ方向感覚で歴史が形成された。壬申の乱と同じように日本と同じように韓国でも東西の争いがあり国が作られた。
小野妹子が(7世紀初せいきはじめ)推古天皇時代607年,はじめての遣隋使として中国につかわされ,「日出づる処の天子、書を日没する 処の天子に致す、恙なきや」という書き出しで有名な聖徳太子しの国書を皇帝煬帝にわたした。
日本は極東だとか東海だとか東の果ての国なのである。南北ではない、それは陽が上る方向の国である。人間の方向感覚は陽が上る方向と沈む方向で知るのは人間が住み始めてからどこでも同じ傾向があったろう。
でも日本でも日本海は山から陽が上り海に沈む、西に沈む、この感覚が太平洋側に住んでいるとなじめないのである。
盆地だと東山から上り西に沈むとなる。京都に東山があるのは陽が上ることは意識するが西山はないのは陽が上る方向を人は特に意識するからである。

東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる 啄木

東海とは日本海も太平洋も視野に入れた広い範囲なのである。韓国から見ると日本は東海になっている。

東と西というとき不思議だったのは近江である。琵琶湖中心に湖西と湖東があり湖西となると淋しい感じになっている、東は風土的には陽の上る方向だから明るい感じになる。
西は陽が没する方向だから淋しい感じになる。
ただ歴史的には違っている。西となると別に関西は先進国で東は後進国であった。
それで今でも東京をトンキンとして関西人がネットで言っている。
地名でも書いてきたが地名の基本は方角地名なのである。
方角によってその土地を知るのが基本である。
それで相馬市と南相馬市となったがもともと相馬藩は小高に最初に相馬氏が拠点の城を築いてそこを中心にして鹿島とか相馬市の方向は北郷としていた。
北という感覚がここにはあった。東と北は日本では同一であり混同しやすいのである。
南はなじみがない、でも東風(こと)とか北風とか西風があり風では東風と北風がなじみがある、南が意識されたのは柳田国男の海上の道で沖縄や南が意識されたのである。

「名も知らぬ遠き島より 流れ寄(よ)る椰子の実一つ ふるさとの岸をはなれて なれはそも波にいく月(つき) もとの樹(き)は生(お)ひやしげれる 枝(えだ)はなほ影(かげ)をやなせる ・・・」

この遠き島が沖縄の島になるしさらに南の島々に通じる。オーストロネシア語圏内になる椰子の実は日本の岸に流れ着くのは南の島からである。
それは黒潮の流れにのって流れてくる。
南相馬市の鹿島区の海老浜は車輪梅は南限の地として有名だった。
これは奄美大島が原産でその種が流れ着いて自生したのである。
まず太平洋は広いしアメリカの方からは何も流れてこないし交流もないのである。
台湾から与那国島から沖縄の島伝いに九州の薩摩とつながった。
薩摩芋ももともと沖縄から伝播してきたものらしい。
米はこの海上の道から来たというけど沖縄では稲作になる適地がないし本土とは江戸時代になるまで交流がなかったからどうなるかとなる
ただ貝は中国に伝わり貨幣となったり日本の関東地域とかまで運ばれたことはわかっている。

ともかく旅すると必ず方角がわからなくなる。だから方角を知るために磁石が必要なる。近江は琵琶湖を中心にして地理がわかりやすいところだった。
それでも湖西があり湖東があり関が原から向こうが東だという感覚がわからなかった。
たいがい自分の住むところは太平洋から陽が昇るからである。
ただ湖西となると何かやはり陽の没るところで比良などの山々があり淋しい感じになる。西会津でも会津のさらなる奥で淋しい感じになる。
つまり東とつくと何か明るい感じになる。東山とかあり東山温泉とかあるのは会津でも同じである。
でもまた会津でもあそこが東山で陽が昇るのかということもわかりにくい、会津は山国になるからその地理がわからなかった。
そして一番不思議に感じたのは太陽が湾から山に沈んでゆく、西沈んでゆく光景である。大阪湾などがそうであり他にもそういう場所は西になると多いのである。
大阪の日下とはもともと大きな湾があり陽の沈む所として名付けられた。
日下部というのはそこから生まれた。一つの太陽の方向感覚から生まれた地名でありそれが氏族の名前となった。
旅の面白さはそうしたありえないような風景に接することである。
それは太陽が山から昇るでも海から昇る陽をいつも見ているのとはまるで違った感覚になるからである。


 
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