2015年06月07日

相馬市の道の駅は自転車の散歩コース (車社会で活気あるものは変わったー配達する仕事も同じ)


相馬市の道の駅は自転車の散歩コース


(車社会で活気あるものは変わったー配達する仕事も同じ)

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相馬市の道の駅の燕の巣




道の駅人々行き交い燕の子
道の駅燕の巣二つにぎわいぬ
ツツジ咲き人々集まる道の駅

新緑に風のそよぎて山帽子咲きて影なす道の涼しき
新緑の風にそよぎて時鳥声清らかに近くに鳴きぬ



今日も相馬市の道の駅に行った。あそこまでが自転車でも散歩コースになる。
北海老のニコニコ堂の庭をみて八沢浦を回り道の駅につく
あそこに燕の巣が二つあり雛が育っていた。
あそこは人の出入りがありかえって烏などにねらわれないいい場所だった
埼玉から来た人だった、南相馬市と相馬市があることでわかりにくいと言っていた。
やはり外から見ると区別しにくいだろう。
地名でも名前でもなにか区別する、分けるということもある
同じような名前だと区別できなくなる
南相馬市も相馬市も同じじゃないかと外からは見えるのである。
名前をつけるとき外からの視点も必要だった。
やっぱり雲雀市というのありかと思った。

いつも道の駅とかではナンバーをみている。
釧路から着ている子供連れがいた。
それが釧路だったのである。遠いと思ったが苫小牧からフェリーで来たと推測した。
なぜなら苫小牧から仙台の太平洋フェリーで自分は十回くらい北海道に行っているからだもう一人も北海道であり除染でんの仕事で何でも岡山からこっちに移ってきたばかりだという。
スマホとタブレットをもっていてコンビニで休んでいた。

それからまた道の駅でぶらぶらしていると三輪車の大きなハーレーダビッドソンが二台置いてあった。
するとそれをしげしげみている人がいた。
「これは三輪車だからヘルメットかぶらなくてもいいんだよ、転ばないから」
「そうなの、これは転ばない、がっしりしている、まるで車だ」
「これは名取で売っているよ」
「これは高いだろうな」
「年配の人だよ、これに乗っているのは」
「みんな、いいバイクでも乗っているのは年配だな、この前もハーレーダビッドソンに乗っていたのは大熊の74才で頭がまるっきり禿げた人だったから驚いた」
「これはスピード出すというより車体を見せて自慢するもんだよ」
「ええ、そんなもんですか、ぴかぴかに磨いているな」


自分は何気なく触ったが触るなとその人に言われた。
三輪車が一台とサイドカーのついたものが黒いのと白いのが一台とめてあった。

「こんな大きなのはアメリカ向きだよ、アメリカで鉄道を利用したけど車内は広いんだよ、でも広くないと困るよ、太ったでかい人がどっしりと腰をおろすからあれくらい広くないと乗れない、日本では狭くてこまっているだろう」
「まあ、これは広い道路向きだよ、アメリカで作られたからな」

自分はアムトラックに乗ってアメリカを一度旅したことがあった。
車内は広いからゆったり座れたのである。まるで応接間のソファーにに座る感じだったのである。
そういう感覚がアメリカ的だと思った。日本では何でも一回り小さくなってしまう。
大陸的だというときそうした日常生活から何かするのにも影響している。
一見そんなことが関係ないようでも戦争のような大きなことをするにしてもアメリカのような大きな国は日本とは違ってものの見方まで変わっているのである。
日本は狭い国だから考え方もせせこましくなってしまうのである。
北海道はその点日本にてはアメリカ的なのである。
そのハーレダビッドソンに乗っていたのは意外にも南相馬市の地元の人だった
東京で買ったという、それなりに金がある人なのか、この辺でもそういう人がいたとかなる
もしかしたら補償金もらった避難民かもしれない、南相馬市にもいるからだ。
ともかくハーレダビッドソン見ていたやはり年配の人は相当にほしいという感じだった
やっぱりあれ一度のるのが夢なのだろう。
車を運転しない人にはわからないのである。
まあ、自転車だと百万円くらいのロードの軽い自転車に乗ってみたいとかと同じなのだろう。


道の駅に来る所の道に山帽子が咲いていた。外に咲く山帽子はまた気持良く咲いている。風がそよぎ木陰がなして気持いい、今日は晴天だけどそれほど暑くなかった。
そろそろ梅雨に入る時期だけど遠くには行けなかった。
ともかく介護とかなると遠くには行きづらいのである。
明日またショートスティだけどこれまた嫌だというし具合悪いとも言っていたしいつまで介護がつづくのだろうと思う。

ともかく相馬市の道の駅は自転車の散歩コースとして最適である。
原町は街中にあるから散歩コースにはならない、用事で行くことになる
今は鉄道の駅より本当に道の駅が駅らしいとなる。
そこには人々が行き交い集まるからそうなる。
前は鉄道の駅がそうして人々が集まる場所だったのである。
人間の生活は常に変わっている

アマゾンなどで何か本を中心になるが毎日のように配達してもらっている。
するとその人が田舎だから車をとめて家の玄関まで距離がある農家に配達していた。
そこまで走っていたのである。
走らないと時間を短縮できないからだろう。
今は通販時代になると配達することが社会にとって大事な仕事に見えた
自分でも配達されないと相当に困る。
だからますます配達する仕事が社会にとって重要な仕事に見えたのである。
そこには人手も必要であり人手もそういう所に移ってゆく
そういう仕事はこれから給料も高くなってゆくのかもしれない
社会で必要としている仕事は常に変わっているということである
道の駅とか配達している人が何か現代を象徴していて活気があるとなる
鉄道の駅は何かさびれているとなってしまったのである。

タグ:道の駅