2015年06月06日

縄文語とアイヌ語の謎 (福島県は関東より弥生文化の先進国だった)


縄文語とアイヌ語の謎

(福島県は関東より弥生文化の先進国だった)

千島列島とカムチャッカ半島の地名を見ると、アイヌ語地名は北上したもののようであり、南下してきたものではない、村山七郎著「アイヌ語の起源」(三一書房)
http://www.dai3gen.net/ainutoku.htm

アイヌ語が北上してのであり南下していないという指摘は重要である。
アイヌ語はもともとの縄文語に由来して民族の移動とともに蝦夷(エミシ)が伝えた言葉である。
アイヌ語はツングース系統とすると北から侵入したようで南からの移動の勢力が強かった北海道にもエとつく地名が多いのはなぜなのか?
それは南方から北へと地名が移動していたのである。
アイヌ語はアイヌが何なのかわからないにしろエとつくのは北上してきたものであり
アイヌ語はアイヌは北方系にしても南方系に由来しているのである。

そうなるとアラハバキもアイヌ語で解がないであろうか。arpa-pake と解すると、これは、行く(発つ・出発する)・首領(頭)、ほどの意味になる。果たして出発して旅をしたものが熊の頭だったか部族の首領だったかはともかく旅してくるものをマロードとして祭ってきたわけだ。
一方、paki となるとこれは「エビ」の意味である。エビ、つまり、蝦夷、に転意するのに造作も無い。アラハバキが「蝦夷」の語源を教えてくれてはいまいか。
http://www.dai3gen.net/arahabaki.htm

ezogo111.jpg

目・見・お前・?・? アイヌ語 e= お前(ニ人称単数)
いーせ
いーそ
いーる
いーま(居間)
いーね(稲)
いーほ(飯)
いーい(飯)
いーち(中国語)
いーし(石)
いーえ(家)
いーも(芋)
いーむ(忌む)
いーなう(いなう)
いーりえ(入江)
いーけ(池)
いーき(息)
いーのる(祈る)
いーにし(いにしえ)
いーねる
いーく(食う)
いーさご
いーらっしゃい

「えびす」の語源は、「エミシ(蝦夷)」が「エミス」になり、「エビス」になったとされている。また、「えびす」は蛭子の神さまでもあり、水に関わりがあるから、兵庫県の西宮戎神社や大阪の今宮戎神社のように海に近いところにあるのが多いのである。

えびすが蝦夷とかエミシの由来なのか?それは水に関係あるのか?
それでエが江になったのかとなる
図で示すとイから派生する言葉がある。イは接頭語でありそれ自体意味があるとはなっていない、要するに強調するためにイが用いられた。
日本語ではセは瀬であり一語でも成り立つのが多い
伊勢とあってもイは接頭語であり強調語でてある。
イネとあってもネも根であり一語で成り立つ、いほでも穂(ほ)であり一語で成り立つ
この接頭語がつくのは北方系ではなく南方系の特徴だという

たとえば、日本語の接頭辞は、ツングース語にはまったくみられない。
接頭辞は、常に他の語の前に付いて用いられる語構成要素で、「お寺」「ま昼」「か細い」「い抱く」などのオ、マ、カ、イがそれにあたる。
 このように、日本語は、ツングース語的な文法を持っていながら、ツングース語では説明できない要素も非常に多い。
 
「日本語はオーストロネシア語とツングース語の混合言語」ではないかという結論に到達する。すなわち、縄文時代に、日本列島ではすでに原ツングース語を話す人がいたとして、その後、渡来したオーストロネシアンとお互いに混じり合うなかで、日本語の原型が形成された、という。

 http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn5/005_04nihonngo_ha_konngougenngo.html
 
日本語が混成後であることはまちがいない、それはオーストロネシアンと北方系のツングース系だということである。
その典型的な象徴がイーエという言葉である。それはエにイが強調語として接頭語としてつなぎあわされたのである。
エがさきにありエはエゾーエソでりエミシなのである。
そのイエに漢字が入り家をあてたのである。
ツングースが北方系が東北地帯一帯に先に縄文人として日本を形成していた。
そこに南方系のオーストロネシアンが入ってきて混成後が生まれた。
日本の最古の原住民、蝦夷は東北にあったともなる
それは例えば福島県でも茨城県より田が先に作られたということが考古学の発見でわかってきた。
福島が先進国で茨城、ヒタチの方が後進国だったということもその一つである。
つまり原日本人が東北にあるということはかなり重要だろう。
そのげんじゅうみんか言葉がなかったというのではなく縄文語としてすでに言葉をもっていたのである。
日本の最古層に東北の縄文文化があったともなる。

ただこのエミシは本当に謎であり不明である。
渡来人がこの蝦夷にも交じり地名とか言葉も残した。
アラハバキが蝦夷とかいうけどこれも渡来人系統である。アラとはツノガノアラシトのアラでありアラという国が韓国にあったからである。荒という姓は渡来系なのである。
東北にはツガルもツノガノアラシトから敦賀(敦賀)がありツノガからツカルになったのである。鹿角(カヅノ)などもそうかもしれない、
つまりツノガノアラシトの変形したものである。
カヤというのヤマトタケルに抵抗した蝦夷の一団の中にいたのである。
カヤは伽耶なのである。それは渡来人の一団がすでに蝦夷でもあった。
だから蝦夷は物部氏とかツノガノアラシトから伽耶(かや)とかの渡来人と一体化した人たちのことである。
そして弥生文化は関東の方より福島県側が発達していた。


稲作の伝播には太平洋側と日本海側の2ルートがありました。そして、稲作は日本海側の方が向いていますから、このルートの稲作の伝播は太平洋側よりさらに速度を速め、たった100年で青森県まで到達しました。そして、東北の太平洋側の稲作は、日本海に注ぐ川を遡上して広まりました。
このルートは新潟から阿賀野川から東進し会津盆地に入るルートです。弥生時代中期の福島県域の人たちは、たぶんこの阿賀野川に沿ってやってきた人たちです。この人たちが県域の各地に広がり、その子孫が弥生時代に県域に住んだ人たちでした
http://blogs.yahoo.co.jp/asakayama1000/20944129.html

つまり弥生人はすてに渡来人でもあり福島県には濃厚にその跡が残っている。
これは渡来人の影響が大きかったともなる
しかしその前に縄文人が東北にはいてそれが縄文語のルーツでありそれにオーストロネシアンとツングース系の北方言語が混じり合ったのである。

いづれにしろ日本語が孤立語でそのルーツがわからないのはそもそも満州に住んでいる人たちとかインドネシアに住んでいる人たちの言葉とか東南アジアの言葉を知らないことによる
もし交流があったなら共通語が東南アジアとか中国でも形成されていたのである。
それはヨーロッパを見れば継続して交流があり明確に混成後として言葉がわかる
日本語は例えばオーストロネシアでもそれは断絶してしまったから不明になったのである現実に日本が戦争でオーストロネシア地帯にポリネシアなどに進出して兵隊が支配したときその島では日本語をしゃべっていたし今でもしゃべる人がいることでもわかる。
戦争を通じて日本と交流があったから日本語をしゃべっているのである。
戦争で征服、征服されると言葉が強制的に混成後になることが明確である。
日本は回りを海に囲まれて断絶してしまったのである。

言葉の不思議はもし縄文語があるとして縄文人がしゃべっていた言葉と同じ言葉をしゃべっているとしたら明らかに縄文人をルーツにした文化を言葉から受け継いでいるとなる
すると今の日常生活にも縄文人が日本人の中に生きているとなる
縄文時代となるとただ過去の死んだ遺跡のようにしか見ていない
今とは遠く切り離された遺物として見ているのである。
現実に今に生きていない歴史は歴史にはならないだろう。
民族の言葉を維持することはそうした縄文人の文化を受け継いでいるということにもある大和言葉というと縄文人が関係ないように見える
蝦夷といってもわからないから大和言葉は渡来人の言葉なのかともなる

でも日本語が孤立語だというのはそもそも回りとアジアと交流がなくなっていることにあるのだ。
戦争でもアジアから孤立していたし今でも朝鮮中国からも孤立している。
その孤立語というのは言葉だけではない、現実の世界でもアジアから孤立していることがつづいているのである。
言葉というのはだから現実の世界情勢を反映したものとしてもありつづける。
中国などはかえって今ではその文化でもわかりにくいのは明治維新から欧米一辺倒になったからである。
中国がまたアジアの中心になると必ず中国文化が見直されるのである。
文化という視点になればやはりその土地と一体化するアイディンティティ化する
だから東北の源流を探ることも大事になる
そこから東北ルネサンスが生まれるのである。
それで東北の歴史も見直す必要が出てくるのである。



青森県の地名の謎 (鉄道の旅は地名が気になり記憶に残る)


青森県の地名の謎

 
(鉄道の旅は地名が気になり記憶に残る)

aomorimap.jpg

今回久しぶりで青森の弘前まで旅した。それは新幹線でありあとは鉄道の旅である。
電車の旅だとどうしも駅名が心に記憶される。
それで自分は全国を旅して地名に興味をもつようになった。
今回もひさしぶりだったのでやはり地名が気になった。
何気ない地名でも鉄を旅はただ駅名だけが気になり風景が過ぎてゆきあとは記憶されないということもある。
地名とは一つの歌枕のようになっているのだろう。
その土地を地名を手がかりに知るというのは古代からあった
万葉集でも地名が基本にある。
日本を知るには地図もないのだからその地名をてがかりにしていたのである。

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎(かさのいらつめ)

これも陸奥ー真野ー草原(かやはら)も地名だと自分は推測した。
そしたら歌の中に三つも地名があるのだからいかに古代は地名が大事かわかる

浪岡

健保年間(1213〜1218)には行丘、鎌倉中期には波岡、慶長(1596)以降の徳川時代を通じて浪岡と改めたとされる。
地名の由来について詳細は分らず。

この町の名が気になったのは新幹線から乗り換えて弘前に行くとき山の中をぬけでた所にあったからである。
行丘(なめおか)とするとこの辺の行方(なめかた)郡と呼ばれていたからそれとにている。ナメという地名は滑らか(なめらか)から来ていて一字で滑(なめ)という地名もこのへんにある。
なめらかな丘で行丘となり波岡となった。そういう地形的なものが一番多い。
ここの地形は果たしてそうなっているのかわかりにくい。
ただ山をぬけたところであり行丘だと地形的にはあっているかもしれない。
なめらかな地帯に出てきてそこは人が生活しやすいということからついたのか?
新青森からは山深いなと感じた、今年は早めに春と夏がきていた。
青森も暑いくらいだったが新青森から浪岡にでるまでの山は深く雪がまだ残っていたのである。
やはり地名は地形的なものから名付けられるのが多いから地形を知らないとわかりにくいとなる。
弘前市について一晩とりま川部からのりかえて藤崎という駅があり町があった。
この藤崎もなになのか?

古くは淵先または淵岬と呼ばれていたという。
十三湖が内陸部まで深く入り込んでいたころの名残と見られる

藤崎

五所川原付近まで十三湖だった。丸山三内の縄文遺跡からヒスイが発見された、そこは青森の湾の方に近いからそっちの方からもたらされたのか?
藤崎というと藤とかかわりがあるとなれるが地形的なものだろう。
地名はあとからその名前からいろいろ別な風に語られるのが多すぎるからだ。
藤崎氏由来の説もありこさは安倍氏とかかわっているから嘘とも言えない
安倍氏が藤崎城を築城した時期には、既にこの土地に「藤崎」の地名が
存在していました。
現・南津軽郡にある、この「藤崎」の地名の由来は――
平安時代初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂が奥州の蝦夷征伐の際、
この地を訪れ、生えていた藤の大木から枝を切り、鞭として使用した。
使用した後の鞭を自然に帰そうと地に突き刺した所は、
「旧跡・藤巻森」と呼ばれました。
鹿島神社の北にある沼州川にちなんで、「沼州」と称された地に
「藤巻森」はありました。

藤崎は坂上田村麻呂にまで由来していて古い、でもこれも後から地名を元にして伝説を作り上げたのだろう。
ただ鹿島神社があることころは蝦夷征服と関係して建てられたことが多いことは確かである。
ここは十三湖の説が地形的にはなる。ただ安倍氏も津軽では蝦夷とかかわりその子孫説がある
青森では良くアイヌ語説の地名が多いと言われる、内(ない)は川であり平内とかそうである。川部とかもそうである。ただこれも別に他でもあるからわからない。
そもそもアイヌ自体が謎の民族だからである。
藤崎で忘れてならないのはここが藤リンゴの発祥地だった。
リンゴは好きで毎日食べているからこっちの方で親しみか沸いた。

板柳町

古くからこの地方に「いたや」「えぞいたや」「おのえやなぎ」などが繁茂していたことから、板屋野木村という地名となった。
後に板柳に改められた。

蝦夷いたやとなっていたのも津軽らしい。

田舎館村 

(1)蝦夷が住む中心であったことから、蝦中(えなか)と称されそれが転化した。
(2)稲作の生活から生まれた大和言葉の「稲家」が転化した。
(3)平安時代に「田舎の郡」と言われ、鎌倉時代になって田舎館と称される。
ここで興味深いのは蝦中(えなか)から田舎館になったということである。
エという言葉蝦夷語に由来していることを前に書いた
それは地形的に高台のものにつけられたののかもしれない

「漬ず」というのを見つけた。「水に浸(ひた)す」とあり、水に浸すと物は水圧で変形するので風貌が明らかに異なる人々に、接頭語の「え」を付け、「え-ひし」「え-みし」「え-びす」などと呼んだのではないかとした


ここから前にコメントあったがこちらの方が地名は専門的だから読んでください



北海道では「江別」「江差」「江刺」「枝幸」「恵庭」「襟裳」「遠軽」「遠別」などをあげることができるし、関東では「江戸」「恵比寿」「江ノ島」「荏原」「海老野」、中部地方では「恵那」、滋賀県では「愛知川」、大阪では「江口」「江坂」「餌差」「海老江」「恵我の里」、中国地方では「江田島」、九州では「海老野」をあげることができる。
「えびす」の語源は、「エミシ(蝦夷)」が「エミス」になり、「エビス」になったとされている。また、「えびす」は蛭子の神さまでもあり、水に関わりがあるから、兵庫県の西宮戎神社や大阪の今宮戎神社のように海に近いところにあるのが多いのである。
http://asahi.co.jp/call3/diary/yamaken/chimei_05.html

エ・エトコ(頭,水源,山頂)
エサシ(山の頭を浜につけているもの,岬)
十三湖の小湾入のある「前潟」のことで,ie (尖った)rum (矢の根)ma (澗)J (尖った矢の根のような澗)
津軽にはほかに恵神崎(えがみざき)と
いう岬もあり,これは西津軽郡の岩崎村の岬である(図3)。この岬角名の語頭の「恵」
の部分にエンルムの「エ」が残存しているかもしれず,あるいは北海道の恵山(えさ
ん)のようにエサン(頭が浜に出ている岬)かも知れない




海老という地名もこの辺にある、それはえひであり海老とは関係なかった。
蝦夷はエミシでありそのエが何なのか、入江とか水と関係していることは確かかもしれない、蝦夷(エミシ)とは水辺に生活していた人たちのなのか
ヤマトはヤマを根拠地にしていたのかともなるがこれもわからない。
地名は何か確証がないのが問題であり勝手に想像で各人が言うから科学的でもないし
想像で作られた地名由来が多すぎるのである。
ただこれでもわかるようにエとは北海道にも広範囲にあるとなると蝦夷とはアイヌなのか?エとは北海道だげではない、日本全国の地名の基になっている。

相馬村 

鎌倉幕府の落人でこの地方に土着した一族に相馬氏がおり、その人物に由来するとされる
相馬藩も相馬氏が移住してその名となった。でも相馬市というのは戦後名付けられのであり新しい名である。相馬市と中村市だったからである。
だから意外と相馬市は地元でも実際はなじみかないのである。
地名でも姓名を基にしているのはまれである。
鎌倉時代に相馬氏の移住はここにもあったし津軽までもあったのかとなる。
タグ:青森地名

ソフトパンクなどのモバイルの通信領域が現代を反映 (地図から読み解く福島県など)


ソフトパンクなどのモバイルの通信領域が現代を反映


 
(地図から読み解く福島県など)




marummmori11.jpg

fukuraaa123.jpg

showa123.jpg

地図は実際は多様であり地図から何かを読み解くことはかなり創造的な作業である。
自分は全国を旅したから地図から読み解く作業をしたがわかりにくい
地図だと高低差とか全体像が把握しにくい
それはインターネットでも同じである。
地図を見るには多様な視点が必要になる。
グーグルマップでもわかりにくい,それだけで四次元とかの空間認識はむずかしい
まずいくら地図をみても世界はわからない
地図から世界の十干か得られないからである。
ただ自分の得意な点は福島県でせんもほとんど自転車で旅していることなのだ。
まず歩いて旅するのと自転車で旅するのと電車で旅するのとは感覚的に相当に違っている
それで棚倉町というのは東北本線からはずれてエアポケットのようになっている。
そこは城下町だから古い町である。
でも東北本線からはずれると何か目立たなくなる。
世界認識は交通手段とか交通路で時代によて違って認識されているのだ
だから江戸時代の地理認識と明治時代の地理認識は変わってしまったのである。
確かに奥の細道は今の東北本線の通っている所である。
そこも江戸時代は俳句でもわかるように淋しい場所だったのである。
須賀川がとても隠者のような人が住むような場所には思えない
むしろかえって隠者は市井に住んでいたとなる
隠者と言っても知識人だからである。
現代になるとこれだけ交通が盛んで情報が流通すると知識人はかえって田舎の方に住んでいるともなる
東京と田舎の情報の差がなくなっているからだ。

ともかく棚倉町について詩を書いたようにそこは何か福島県でははずれた町で目立たないのである。
そして棚倉町の特徴は水戸に通じていて街道が
東京からは六号線でも水戸街道と東京からは呼ばれている

国道118号線を北上して、棚倉町へと入ってきました。
棚倉街道の宿場町・八槻宿があったと思しき八槻地区には、八槻都々古別神社があります
棚倉町には神社仏閣が多い街として有名です。
118号線沿線には、八槻都々古別神社だけでなく馬場都都古和氣神社や宇迦神社、そして山本不動尊があります。
国道118号線は、神社仏閣めぐり街道でもあるのです。

ここは古代のヤマトタケルの伝説が残る古い場所である。久慈川を上ってきたのである。久慈川も万葉集に歌が残っているから古い場所である。
白河の関よりここが福島県では古代の通り道だった。
ここは水郡線がありこれは結構時間がかかる、水戸まで通じている。
これは一回だけしか乗っていない、ローカル線である。
ただここが記憶に残ったのは会津からここまで自転車で来てテントで秋にテントでとまったからである。
ここは茨城県に日立に近いからここも福島県になり福島県はつぐづく広いなと思う

それから猪苗代湖の福良とか湖南町なども通信領域からはずれている
あの辺もも白河街道で江戸時代は会津に通じる道であり秀吉もこの道を会津に向かった。鉄道がここを通らないのですたれて淋しい町になった。
でも情緒はこうした江戸時代の旧街道だったところに感じるのである。
この道も自転車で会津に向かった。
それから昭和村とかあるがここも町の中心部は通信領域になっているが孤立している。
ここも確かに自転車で行ったとき遠いし離れていて孤立した村に感じた。
これは自転車で行った実感なのである。
山が多い所は通信領域になっていない、そこには人家も少ないからである。
檜枝岐に行く道で古町温泉とかに入ったのも思い出であり
なんとも今になると夢のようであり不思議になる。
旅はこうして気まぐれでないと旅にならない
ここでちっっとよってみようか別れ道を行くこうかとなる
あそこの温泉は地元の人が入る温泉である。

abukumamichiii111-thumbnail2[1].jpg

自分が作った俳句で「日永きやまた道二つに分るかな 」があったがそういう時があったときなつかしく思った。
ここに時間の余裕があった。
日が長くなり春の日にきままに自転車にのり阿武隈の道をたどっている
そこに制限されない時間の余裕がこの句から感じられた。
こんな句を作ったのも忘れていたのである。
俳句でも短歌でもそこからどれらだけよみとれるからである。
自分が作った俳句だからもちろんその時を思い出す
つくづくその時制限されな自由な時間があったんだなとふりかえる
そんな時間があたりまえだと思っていたがそういう時間さえなくなる。
人生の時間はいづれ誰でもつきるのである。
今になるとその時そこにあったということ自体が不思議になる

それで面白いのは丸森町である。宮城県は仙台を中心にして通信領域で赤になっている
でも丸森の地域は通信はできるが薄い赤でありやはり正式の通信はできない
丸森は秘境があるということを書いたし詩にした
丸森は伊達藩でも相馬藩と接して仙台からははずれている。
ただ丸森からも角田からも蔵王が大きく身近に見えるのである。
蔵王が見え領域としての地理もある。蔵王はみな南相馬市の鹿島まで見えるのである。
だから高い山から地理を把握するのも一つの地理の見方なのである。
通信領域からはずれているのは阿武隈の高原地帯である。
そこは広いのだが葛尾村とか今では過疎地域になる。

旅をして魅力があったのはこうした通信領域からはずれている過疎になっている地域であった。
そこは江戸時代はかえって街道が通じていたが裏道になってしまったのである。
記憶をたどる旅になるとどうしても地図をみる、その地図を見てもわからない
インターネットで旅した道の紹介があったたするから便利である。
つまり何度も言うが地理は実感の世界でありまさに像で把握する世界なのである。
それが四次元にもなっているから地図を見ても立体地図を見てもわからないのである。
このソフトバンクの通信領域の地図は全国的に見ても興味深い
なぜなら通信領域からはずれいるところは過疎化している地域と一致しているからである白くなっていて空白地域になり穴があいたような地域になっているのである。

現代では通信ができないことも過疎なのである。
なぜなら通販はインターネットでしているからである。モバイルでもしているからである
学問もいろいろあるが地理というのは基本にある。
これを知らないと何か実感として何も理解できない
歴史も文学もそうだし地質学でも地震学でもそうだろう
これは世界の歴史でも同じなのである。
だから最近アマゾンで「逆さ地図で読み解く世界情勢の本質」
これなど南砂諸島になぜ中国がこだわるからわかりやすくなる。
政治は基本的に地勢学、地政学だからである。
このソフトバンクの地図からまた全国を見直してみよう。



道にも古道があるが町にも必ず古町がどこにでもある。都路に古道とあるのはその道が古い道になったからである。
どこの街でも古町があるのはそこがもとは栄えていたからである。
南会津でも古町温泉とかあり地元の人が入っていた。
ここが古町だったのかと山奥だから不思議に思った。
会津田島駅発内川行き → 針生 → 山口 → 古町温泉入口下車(乗車時間約1時間) 
福島県南会津郡南会津町古町 字太子堂186-2

古町温泉赤岩荘
http://www.sayurinosato.co.jp/akaiwa/access.php

古町や会津の奥の湯秋の暮


古い道と新しい道(会津の古町温泉)