2015年06月22日

六号線と相馬市の道の駅の写真 (角度を変えると違って見える)


六号線と相馬市の道の駅の写真

(角度を変えると違って見える)


 
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立葵6号線に遠嶺かな

6号線往き来の車立葵

立葵一日明るく外にあり

青田風曲屋風の道の駅

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六号線から相馬市の道の駅は近いから毎日のように行っている。
六号線は歩道もあり一応自転車も往き来しているからまだ人間的な道だとなる
ただ歩いている人はいない、歩くというのは何か過去のものになっているのである。
だから人が歩くだけで絵になるということが今やある。
歩いて感じるものと自転車で感じるものはまた違っている。

車というのは自分は嫌なのだけど結局人間は何であれ今生きているところが活気あるところにひかれるのである。
六号線は自転車で毎日のように通っているから親しい道となり人が行き交い活きている道となる。一方で死んだ衰退した道がある。
シャッター通りとなると人も歩いていない、車が通りすぎてゆくだけでゴーストタウンのように見えるし鉄道の駅は今やこの辺は相馬市と原町間で二両の電車が通っているだけである。
駅は閑散として淋しい、駅に一人とか二人とか待っていることはいる
昔は鉄道の駅は街の中心でありにぎわっていた。
それでも前はスーバーヒタチが走っていたから違っていた。それなりに常磐線は活きていたのである。

やはり何であれ人が集まらないと活気が生まれない
相馬氏道の駅には全国から来る、工事関係者も多いが他の人も来ている
車のナンバーを見てまわる、今日は奈良の番号があった
少しでもそういう人と話すことで見聞が広まるということはあるがなかなかできない
今の季節と立葵である。この花は明るい夏らしい花である。
この花は六号線にあっている。遠くに山が見えて遠くに行きたくなる
でも今は本当に遠くても相馬市くらいしか行けないのである。
この辺に欠けているのは高い山なのである。
だから高い山を見たいということか自分には常にある

ただ何回来ても角度を変えるとまた風景が違って見えるのも不思議である。
普通だったら外部の人だったら六号線だと本当に通過するくらいになる
これだけいろんな角度から見ると違って見えるのである。
写真をとるということが一つの目的として毎日行っているよさらに発見がある
いい写真をとろうとして見るからそうなる
ともかく今はこうして風景でも見過ごしていることが多い
ただ通りすぎて行ってしまって心に残らないのである。
あそこに注目したのは立葵があれだけ咲いていたからである。
写真の魅力か大きいのはやはり写真にするとまた見えないものが見えてくるからである。俳句でも写真俳句、写俳という分野が生まれたし写真の日記も生まれた。
写真で日々記録するのが現代である。
でも写真からどれだけのものがよみとれるのか?
写真は無数にありそこから異文化とか知らない自然にふれるということもある

高速道路は自転車では走れないから自分にとっては関係ない
そこは完全に車だけの世界になってしまう
六号線はまだ車と自転車とかが併存しているのである。
この辺はまだ日影の道が多い、ただ放射能汚染で南相馬市は木が切られた。
これもどうかと思った。
相馬市は除染していないから前のままであり同じ風景になっている。
そもそも除染がそんなに効果あるのかとなる疑問なのである。
仮設の商店街に「原子力委員会」という車が水戸から来ていた。
そんな人たちも来るのがこの辺なのである。


2015年06月23日

abstract(black mountain)


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人間の脳


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火口

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黒い山


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水に写る黒い山



これは外国の写真を加工したものである。こんなふうに変化することが常に意外なのである。
その手順はたいがい決まっている、それはと企業秘密とかなるが別にすぐわかる
もっといいソフトもあるだろう。
ただ十回くらい試してみるから結構手間なのである。
黒い山が水に映ったようなのに変わったのが意外だったし黒い山になったのも意外だったつまり抽象画は具象画と違い常に意外なものとして現れる
予想がつかないのである。そしてまた変化するのである。

最初の原画とか写真からは水に映った山に変化するのはまるで違っているから著作権を指摘もできないだろう。
私の原画を変化させたものだと言ってもオリジナルだという言えばそうなってしまうだろう。
そういう証明ができるのか?
抽象画の不思議はその元となるのものがインターネットに無数にあることなのだ。
別なソフトがあればまた別な変化が楽しめるのである。
ただ手間がかかる、そして創作とも違っている、化学変化を楽しむのとにているのである。

 
タグ:黒い山

青森県の地形の詩 (青森県は最果ての海に囲まれた小宇宙の魅力)


青森県の地形の詩

(青森県は最果ての海に囲まれた小宇宙の魅力)


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一戸、二戸、三戸、八戸・・
辺境の蝦夷の柵
黒石のこみせ通り
雁木造り通り薄暗し
トンネルをくぐり
雪に埋もれる小国
弘前は開けし都会
青森は青い森
津軽鉄道あわれ
終点の中里駅
砂に埋もれぬ十三湖の湊
龍飛崎は本州の果て
西風は十三湖に吹きつけ
津軽平野に吹き渡る
西風はロシアよりも吹くや
外ヶ浜、日本の果て
寥々として暮れぬ
深浦は日本海の湊
野辺地は陸奥湾に望み
北前線の寄港地
下北半島に古風の習わし
丸山山内遺跡は縄文のまほろば
ヒスイは日本海を巡り来る
アイヌのここに痕跡を残し
粛慎、北の大陸と通ず
何故に日本中央の碑
そこは日本の果てにして中央
陽は太平洋より昇り
日本海に赤々と沈む
海に囲まれた一つの青森県
本州はここに尽きて
北海道は新たなフロンティア
函館と青森の対称的明治の日本
青森は一つの県にて海が巡り
大阪京都と通じてアイヌとも
船が巡り湊が点々と栄えぬ


青森県は意外と地形的にわかりやすい、太平洋と日本海とがある県はまれである。
青森県は太平洋と日本海がある。県としても岩手県とか福島県に比べると小さいから地形的に複雑に見えても一つのものとして地形を把握しやすい。
そうはいっても地形だけはどこでも狭い範囲でもわかりにくいのだ。
確かに丸山山内遺跡は縄文の都市とかされて青森市の港に近く青森県の中央に位置していた。古代の中央が今の中央となったので古代からの連続性がある。
県の中心がどこにあるかはわかりにくい、廃藩置県になったとき無理して藩をまとめて一つにしたのが無理だった。
江戸時代の藩は自然条件を基にして作られていたから地形とマッチしていた。
どうしても福島県だと浜通りと会津は遠すぎるから一つの県としてまとめることに無理があった。
これは他でも同じであり歴史と地形を無視して大きな県にしたからその弊害が今日にも及んでいる。

確かに青森県も複雑なのだが地図を見るとそんなに広くないからわかりやすい
津軽平野は縄文時代とかは深く十三湖が入り込んでいた。
だから太古になると藤崎が淵崎であり十三湖が入りこんでいたからその名がついたのか?
弘前もやはり前は崎である。広い崎が十三湖に突き出ていたのか、そういう地形にあることも見える。
弘前)崎)とあり藤崎とあるのはやはり十三湖につきでた岬のような地形だったからなのかでもそんな古い時代に地名がつけられたのか?
ただ崎とつけばたいがい海に突き出た台地であり岬だからそういう所に早くから人は住んでいた。
この辺でも今回の津波で柏崎など高台の崎は津波の被害がなかったのである。
縄文人は今回の津波の被害にあった地域には住んでいなかった。

青森県の魅力は本州の最果てになるからである。最南端とか最北端とかそういう場所に人はひかれる。日本は何か海に囲まれているから世界が尽きるという感覚になる。
こういう感覚は大陸ではもたない、どこまで行っても陸地は果てることなくつづくからである。日本の特色は意外と狭く世界が尽きてしまい日本という島国に閉ざされる宿命として地理的にあった。
だから海を越えて世界と交流するという感覚がともしいのである。
江戸時代の鎖国は地理的必然性としてそうなったのでありいろいろ原因はあっても地理的制約の結果だった。
他の国では大陸などではまず鎖国などできない、絶えず異民族が侵入してくるからであるそれで万里長城が築かれたのてある。
ともかく人間の不思議は簡単に地理はどこでもわかりにくい、でもまずその土地を知るときイメージ化するとき地名があるということも確かである。青森だと最初は八戸だとか二戸だとかその地名から辺境をイメージするのである。
青森では青森という青が森のイメージであり黒石は黒い北国のイメージであり雪国らしくかんきのこみせ通りなどがあり黒いイメージがその名とともに心象化されるのである。
黒というと何か黒のイメージを最初からもつから不思議である。
弘前だと広く開けた土地の感覚をもつから対称的である。
何か弘前は明るく先進的な地であり黒石は雪国の暗さをイメージするが実際に街もそういうふうに感じるのである。

黒石からバスで小国を通り十和田湖近くの温川(ぬるかわ)温泉に二日泊まったことがあった。
トンネルをぬけると雪国だった・・・とあるがあそこは最果ての雪に埋もれて小国だったあんなところにも村があるのが日本である。
日本は山が多いからトンネルも多いのである。そのトンネルは短いにしろトンネルをぬけたら小さな村落が隠れ里があっとなるのが日本である。
小国という地名は日本全国にあり山里に多い。そこで時給自足の生活をしていたのである一つの小さな自給自足の国だったのである。
岩手県とか秋田県とか山形県は地形的にわかりにくい、青森県は地形的に比較的わかりやすい、それは太平洋と日本海が一つの県にあり一つの最果ての小宇宙になっているかかもしれない。県としての全体のイメージが浮かぶとその県を知ったことになる。
福島県は会津は会津であり中通りでも浜通りでも地形的には別な世界なのである。
青森県の最大の特徴は一県が海に囲まれた最果ての小宇宙になっている魅力なのである。


2015年06月25日

新地にあった「文禄」の碑 (伊達藩の検地の碑だった)


新地にあった「文禄」の碑

(伊達藩の検地の碑だった)


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新地で誤解していたのは相馬藩内だと思っていたことである。
それはなぜか?
相馬郡となっていたから相馬藩領だと誤解していた。
これは基本的知識の欠如だから相当な落度である。
普通の教育を受けていたらそういう誤解がなかった。
もう一つは今日買ってきた「新地町史」を読めなかったことである。
こういう郷土史でも基本的なものを読んでいないと誤解するのである。
歴史というのは何かわかったようでほからないのが多すぎるのである。
だから日本史でも何でも歴史は誤解しているこが非常に多いのである。

新地は相馬藩と伊達藩の境目でありそれが古代からそうだった。
宇多(相馬市)領域は南相馬市鹿島区の浮田国造が最初の領域であり
新地は亘理の領域で思国造とかあった。
これは定かでないにしろ古代から亘理が別な領域であり伊達藩との境となっていたのである。
丸森とかは山で遮られているから地形的に別な国として発展することがわかりやすい。
新地は平地であれ亘理につづいているから相馬藩の延長でもあり亘理の延長にもなる。
そこに駒ヶ峰城や画牛上や新地城で伊達藩との攻防が行われていたのである。
相馬市の領域は相馬藩が城を築くまでは伊達藩の領域だったのである。
なぜ中村に相馬藩の城が築かれたかとなると当然伊達藩の支配地域に侵入して
その土地を得たのだからそこはまた伊達藩から奪われる危険があった。
駒ヶ峰と新地では城があり攻防戦があり新地は伊達藩に帰属する結果となった。
だから相馬藩士は新地には住んでいないし代々伊達藩の武士が住んでいた地域である。
だから「黒田」という姓があるとしたらそれは伊達藩の侍の子孫であり
その他の姓にしても相馬藩の武士の子孫はいないとなる
文禄のときに秀吉の命令で厳格な検地が施行された。伊達藩ではいち早くその検地が実行された。それができたのは文禄時代にすでに新地の領域は伊達藩内として支配されるようになっていたからである。
だから年表として記憶すべきは元禄までは必要である。


文禄 ぶんろく 1592〜1595 1594 家康が田方郡の一部を大社に寄進す
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(江戸時代)
慶長 けいちょう 1596〜1614 1603 徳川家康が江戸幕府を開く
元和 げんな 1615〜1623 1621 豊臣氏が大阪夏の陣で滅びる
寛永 かんえい 1624〜1643 1636 徳川家光が大社社殿を造営する
正保 しょうほう 1644〜1647
慶安 けいあん 1648〜1651 1649 慶安の大地震(江戸3大地震のひとつ)
承応 しょうおう 1652〜1654
明暦 めいれき 1655〜1657
万治 まんじ 1658〜1660
寛文 かんぶん 1661〜1672
延宝 えんぽう 1673〜1680 1680 この頃の三島宿の家数596軒、3,814人
天和 てんな 1681〜1683
貞享 じょうきょう 1684〜1687 1687 言成地蔵の伝説が生まれる
元禄 げんろく



つまり文禄がいかに古いかわかる。相馬藩内では南相馬市の鹿島区の屋形にある田中城主の墓が慶長であり古い、それより古いのである。
伊達藩の歴史の方が古いからそうなるし記録も伊達藩には残っている。
津波の記録でも伊達藩に残るのが多く相馬藩内で残らなかったのはその時まだ相馬藩では支配がされていないからである。

だから

(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
http://musubu2.sblo.jp/article/104967935.html

ここに確かに文禄と相馬藩でも出ているがこれは検地ではない、一応相馬氏が支配領域とした所である。相馬市は文禄には検地はしていない
伊達藩では検地をしていたのだから「文禄」の碑はその時のものだろう。
検地の記念として「文禄」の碑を建てたとなる

新地の歴史は伊達藩の歴史だから相馬藩からはわかりにいのである。
新地はそもそも相馬郡になる歴史的必然性があったともいえないが
廃藩置県で丸森と角田県になる予定だったことでもわかる。
それが何か複雑な過程を経て福島県になって相馬郡になったのである。
でも古代からそうしたどっちつかずの位置にあったのが新地だったのである。

新地は谷地小屋、小川、今泉、杉目、の各村と大戸浜のうち、谷地小屋に置かれた新地駅(宿駅名)に由来があり、駒ヶ峰は単独の駒ヶ峰村に由来があってなづけられた。
(新地町史ー歴史編)

新地という名前が宿駅に由来していた。鹿島も鹿島神社に由来しても鹿島宿があり原町も原町宿があって原町市になったこととにている。
新地という名が新地町となり新地という地名が目立つようになったが実際は新地は狭い領域だった。原町ももともと野馬追いの牧があった雲雀が原がであり原町市となったのは
宿駅となったことが関係していた。

新地の歴史で面白いのは新地の浜で砂鉄がとれてそれを丸森で精錬し鉄を作っていたという、それも古代から武井遺跡は鉄を生産していたから連続性があった。
それで相馬藩は鉄を岩手県の宮古から岩泉から鉄を輸入して請戸港で仕入れて今度は葛尾村で精錬していた。
葛尾大臣がいてその鉄の生産で財を築いたのである。
こういうことは日本史でも世界史でもどこでも起きているだろう。
国交関係が悪くなれば貴重なものでも輸入できなくなる。
中国からレアメタルの輸出がおさえられて高くなり日本でも世界でも困って他からその輸入先を開発するほかないとなったのもそのためである。
ともかく相馬藩は伊達藩と密接な関係にあるから伊達藩を知らないと相馬藩もわからないとなる。
「新地町史」手元に置かないと相馬藩のことも調べられない
自転車で新地までは遠いからなかなか行けない
でも意外と鹿狼山は近いと思った。海と山との距離が新地は一番近いのである。
自転車でもそれほどの距離には感じなかった。
この距離感とか地形をまず実地に知らないと歴史はわからない
ただ基本的な教科書的知識もないどんと郷土史も誤解してしまう。
ともかくこの辺では「文禄」時代の碑があるということは相当に古いとなる。
それは伊達藩領域だから残っていたのである。

タグ:新地町
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んだちゃーは仙台弁だった (新地の人はんだちゃと言っていたのはそのためか?)


んだちゃーは仙台弁だった

(新地の人はんだちゃと言っていたのはそのためか?)

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方言の地域図



相馬市を含む相双地区には氷柱のことをさすシガという方言が分布しています。これが一歩新地町に足を踏み入れると,タレヒという全然別の方言に変わってしまいます(ちなみにタレヒは平安時代に京都で使われていた「垂氷」ということばに由来するものです)。同様に,内出血によるあざのことを新地町ではクロチ(クロジ)と呼ぶのに対し,相馬市以南ではクロナジという別のことばが使われます。相双地区に広く見られるカーマシ(川の増水)やカンカチ(火傷)は新地町ではほとんど聞かれませんでした。


カーマシという方言がないのは新地には大きな川がないからかもしれない
相馬には真野川は大きな川であり自分の家は二回も水害で浸水した。
カーマシという表現はやはりその土地特有の気候とか災害でもあるからそれを強調するために方言になったのか?

水運の発達した北上川沿いなどでは、太平洋岸の水運で江戸と繋がっていたために、江戸言葉と共通する特徴もよく見られる。これは、東北地方の日本海側の港町が、西廻り航路 (北前船) で関西と繋がっていたために、京言葉や大阪弁の影響を受けているのと対照をなしている。
浜通りの北端にある新地町は、江戸時代に仙台藩の亘理城主・伊達藤五郎の所領であったため、隣接する宮城県亘理郡と同じく仙台弁が使用されている


んだげんちょも(そうだけども…)(相馬弁)

仙台弁の特徴はやたら語尾にだっちゃがつくことである。相馬弁ではんだになる
だから丸森の人がんだちゃといったときそれは相馬弁と仙台弁が一緒になったのかと思った。
んだちゃは仙台弁でもあった。

んだげんちょも→んだちゃ

縮めるとこうなる、ただ方言というのは地元の人でもなかなかいろいろしゃべらなくなったのでわからなくなったのである。
新地で仙台弁を聞けばここはやはり伊達藩なのかと国が変わったことを意識する。
新地は平坦な所であり相馬から地形の変化がないのである。
だから地形的に別な国に行くということが全く感じないのである。
それで常磐線でも亘理までは変化がないのでつまらないのである。
ただ阿武隈川を渡り蔵王を見るとき変化があり別な国に行くという感覚になる。
そして丸森は必ず峠を越えてゆくから別な国に行くことをはっきり意識する。
風景もがらりと変わる、蔵王が見えて大きな阿武隈川が流れているからだ。



「んだがらー」
訛り?
じゃなくて、
いちいち、同意したよと同じ言葉を話すより、
この一言で済むという便利さ。
「さっぱり、わがんなくてー」
「んだがらー、言ったべー」なんてね。

んだがらーというのは相馬弁ではない、がらーとは言わない

語尾につける「ちゃ」、
これも最近、めっきり減ってきました。
「どうですか?、そうでしょうー」なんて言うとき、
「んだっちゃー、んだからさー」で済みます。
http://sendai-satouya.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-7c04.html


んだっちゃーは明らかに仙台弁であり丸森だけではない、ただんだというのは東北弁の語尾に多い。それが基幹語としてありそのあとにまた地域で変化したのである
相馬でも仙台方面と結婚したがしきりに「ちゃっこい」と言っていたのは仙台弁をしゃべるようになったためだろう。
相馬で「ちゃっこい」と聞いていないからである。
結婚すると相手の言葉の方言の影響を長くいるから受けやすいことは確かである。
方言はだから地域的な文化的な境界として区別されるのである。
今でもなまりはなかなかなくならない、国の手形が訛りである。
推理小説でもなまりは消えないからそこから地域を特定して推理してゆく。
ただなまりと方言はまた違っている。同じ言葉でも音のイントネーションとか発音の相違である。
英語とかは音で主に表現するから普通の言葉でも音で違った意味になる。
人間の言葉は音が最初にあり音で表現していた。
同じ音でも「これたかい」というのと「これたかい」でも
イントネーションが違うと本当にそれがたかいように思えるのである。
低い声で普通の音で言うのと「これたかい」というのは伝える感じが相当違ってくるのだ音を文字に買えたときそうしたニュアンスがなくなったから何か一様化して数式のようになったのである。
いづれにしろ方言は直接の会話で活きてくる。そういう場が今はもてない
ほとんど地方でも標準語でしゃっべっているからである。
ただ関西では標準語ではなく関西弁だからその相違がはっきりする
関西に来たというとき言葉からすぐわかるのである。

方言は文化交流の痕跡を残したものである。たいがい古語は辺境で沖縄とか青森などに残って使われていたというのもそうである。
それは古くから交流があった証拠である。
だから地図でも関西の影響を受けたのは日本海側であり青森などもそうである。
そもそもそうした方言が関西のでも土地の方言に入ってくるというのは相当な人の流入が長い期間ないと定着しないと思う。
英語などの言葉をカタカナにしているのも一つの文化流入である。日本語化したものだからやはり新しい言葉はそうなりやすい、ただ方言はまた違っている。
語尾の変化とかイントネーションの変化であり単語そのもののことではない
同じ単語でも発音の相違が生じているのである。

考えてみると知った人は新地の人だった。やたらだっちゃといっていたのは名取に住んでいたからだと思っていた。
そもそも新地だとなるとそこは伊達藩でありだっちゃを使っていたのである。
でも今新地でだっちゃという言葉をつかっているかどうかわからない
なぜなら相馬郡になっていたし明治以降は相馬の影響の方が強くなっていたからである。婚姻関係でも新地は相馬藩内の人とと多くなっているのである。
もちろん宮城県も多いが江戸時代は相馬藩内の人とは婚姻関係はまれだろう。
明治以降の変化もまた方言に影響しているということはありうるのだ。

いづれにしろ今は方言は普通はどこでもしゃべらない
だから何か地域性とか失われているし標準語になるとあたたかみがないということもある。
何か言葉が数式のようになったのが標準語である。
土地の人さえ方言でしゃべらないとなると地域のつながりも薄れているのである。
外国まで交わる時代は反面日本国の文化すら失われているのである。
それで日本文化のことを探り新たに発見する試みを万葉集などからしてきたのである。
つまり日本語は大和言葉にありそこに日本人の文化が言葉に純粋に残されているからである。
旅をするなら江戸時代の方が断然面白かった。
言葉も違うし関所を越えると外国になったからである。
地方創生が話題になっても何か地域的特色あるものが作り出せなくなっている。
なんでも一様化してしまうのが現代だからである。
タグ:方言 仙台弁
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2015年06月26日

新地の里の夏(詩) (新地は山と森と海が一体となる)


新地の里の夏(詩)

(新地は山と森と海が一体となる)

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ホトトギス六号線を朝走る
冷蕎麦カボチャの花や新地かな
杉林影なし店や清水飲む



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新地の里の夏

杉の林に影なす道や
右近清水に喉を潤し
森につつまれひそか
家点々と森に隠りぬ
畑に人小鳥の鳴きて
沙羅の花風にそよぎ
揚羽の舞い飛ぶごと
ゆくりかに気ままに
新地の里を巡るかな
六号線道標一つ古り
夏の日ざし照りつけ
旅心ここに湧きしも
海望み山を仰ぎつつ
今は我が里へ帰りぬ

many shadowy pathes
turn and turn in freedom
blooming flowers in the breeze
the houses covered apart
in the forest of the cedar
Strong sunlight of the summer day
at an old heated guidepost
a free wayfaring man want to go
in the distance



新地は伊達藩であり江戸時代までは相馬藩ではなかった。
でも明治以降相馬郡になったからすでにその歳月も長いから新地はむしろ相馬市とかの交流が長い
江戸時代までは伊達藩でも明治以降は相馬市とか原町市とかが近いのだから経済的には相馬に頼ることになる。
だから相馬市と合併しなくても相馬郡になっていたのである。
相馬市にある相馬総合病院は新地との合弁した病院であった。
相馬郡は消えて新地町は残った。
でも実質的には相馬市に頼る面が多いから相馬市になっても良かったと外からは見える
合併のときの事情はなかなか外からわかりにくいのである。
新地の地形的魅力は海と山が近接して杉の森の中に点々と家がありサイクリングして気持いい場所である。
ここは自転車だと遠いからあまり来ていなかった。
新地は飯館村とかと違うのは六号線があり最近は常磐高速道路も開通した。
鉄道も後に二年で開通するから意外と早いと思った。
常磐線が開通すればかなり復興したことになる。

今回は鹿狼山のレストランと宿泊所で冷蕎麦を食べた。地元の人が蕎麦を作っているという蕎麦である。
蕎麦通の人がいればその味がわかるかもしれない、自分は食通ではない、旅行してもただ腹をみたせばいいとしかならなかった。それは金がないからそうなっていたのである。
若いときは何も食べてもうまいからあまり味にはこだわらない
ただ最近旅もしないので食に多少こだわるようになった。
自分で料理しているせいもある。
料理しているとどうしても素材にこだわるようになる
料理できなくても素材がいいものを買いたいとなるのか自然になる。
料理の基本は礎材か良くなければいくら料理人でもどうにもならないのである。

蕎麦とカボチャの花が何かあっていた。
うどんと蕎麦はかなり違っている。蕎麦は山の味なのだろう。
新地だったら山海の味を作り出せば観光にはいいとなる
ただ今は地方でも独自のものを作り出すことがむずかしい時代である。
この辺はまた放射能汚染で海のものが食べられないというのも痛い
その土地の味を出せないのは致命的だとなる
でも右近清水の入り口にパン屋があるというのも何か街中にあるパン屋と違っていいなと思った。
もう一つ森の中に喫茶店があるともっといい、何かあそこは安らぐ場所だった。
杉林が多く杉目とあるのは元から杉が多く杉の目とは杉の間が目となってなづけられた。山から清水を取り入れて飲んでいたという家もあったからもともと山が近いから清水も出ていたのである。

六号線に出ると大正時代の道標の石碑があった。写真はとっていなかったのが失敗
大正時代というとまだ新しいという感覚があるがすでに百年たっているのである。
大正生まれの人は自分の母親のようにまだ生きている。
でもやはり百年は一世紀だから大正でも古くなっていたのである。
ただ明治と大正の碑は多いからあまり希少性を感じないのである。
でも大正と昭和があるがその差が際立っている
大正は何かより古い感じになる。昭和は最近まで昭和だし自分も昭和生まれだから実際は古くてもそう感じないのである。


その土地土地を知るにはまさに地歴である。地形とかその土地の特徴がありそして歴史がある
新地は歴史的には伊達藩の歴史であり地形的に海と山と森の国だとなる
そして何か田舎はどこでもそうなのだが新地とか森が広がっていてそこは安らぐ場所になる
するとやはりそういう場所は癒しの場所になるし渡辺病院などができたように何か保養所とか老人ホームとか向いているのかとなる。
相馬市と原町は火力発電所があるから工業地帯でありまた違っている。
新地はそうした工場のようなものがあっても目立たず森におおわれているのである。
地方再生というとき何かその土地の特色を出そうとするとき今の時代は介護とか医療とか福祉になってしまう。
東京の老人を地方でひきとれというのも問題だが田舎は癒しの場なのである。
それで

老い二人木陰の深く休むかな

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こうして老人が木陰に休んでいることが何かあっているのだ。蕎麦を作っているのもあっている。蕎麦の味はうどんとは違い、何か地味なのである。
飯館村も森につつまれて点々と家があったが新地もそうだった。
でもその相違は海が見えることと六号線や常磐高速道路やあと二年で常磐線が開通するから交通的に便利なのである。
そして高架橋になるし松原も消えたから電車から海を見えるようになるから景観的には前より良くなるのである。
まあ、あと二年は自分も生きているだろう。
ただ近くの人が同じ年の人が癌で死んだ、もう一人も近くの人が癌になったという。
それは自分にとってショックだった。
この年になるといつ何になるかわからないという恐怖なのである。
69才で突然心筋梗塞で死んだ人もいた。
それもいつも見ている人だったしそういことが珍しいことではないからだ。
ただ百歳になってもまだ生き続ける人もいるので寿命はわからない
今はいろいろ旅したことなど思い出して作品化している
その量は相当なものになる

今思うと旅というのは実地の学問を経験することだった。
地歴が学問の基礎でありこれを知らないと文系では何もわからない
文系の学部は本当は地歴と法学部くらいでありあと文学部があるがこれも地歴と関係しているのである。
その土地のことを知らないと文学も鑑賞できないからである。
だから日本全国を世界でも表面的でも実地に旅するとあらゆるものの理解が深まるのである。
そうなるとまず勤め人ではできない、結婚したりしてもできない、結婚というのはあまりにも重圧なのである。
それで芸術家の八割は結婚していないということもうなづけるのである。
人間の時間は限られているからそんなにいろんなことに時間がさけないのである。
恋愛したり結婚したり子供を育てたり勤めていたら他に何か関心をもつことすらできなくなる。
人間の時間がいかに限られているからそれはすぐ老いるから誰でもその時痛切にわかるのである。
老人になって何か知らないことは恥になる。新地が江戸時代まで伊達藩だったということを自分が郷土史研究などとプログで出していたのだから恥だとなる
そういう基本的な知識を身につけるのにも時間がかかる。
学問の領域は膨大であり時間は限られているから結局何か他者にぬきんでたことを書くことでもなかなかできないのである。


タグ:新地の詩

2015年06月27日

沖縄の基地と原発問題はにている (必要悪として排除できない国家の政策の問題)



 沖縄の基地と原発問題はにている
 
 (必要悪として排除できない国家の政策の問題)

勉強会は冒頭以外、非公開。関係者によると、百田氏は「基地の地主さんは年収何千万円なんですよ、みんな」と発言。
 「ですからその基地の地主さんが、六本木ヒルズとかに住んでいる。大金持ちなんですよ」などと持論を展開したという。

 「沖縄の米兵が犯したレイプ犯罪よりも、沖縄県全体で沖縄人自身が起こしたレイプ犯罪の方が、はるかに率が高い」
 http://www.asahi.com/articles/ASH6V6F00H6VUTFK01V.html

 
このことは何かこの辺で起きていたこととにている。

原発はいらないといってもなぜやめられないのか?

沖縄に基地といらないといってもなぜできないのか?

東京に原発を作ればいいのになぜ東電はフクシマに作ったのか?

こうした疑問が沖縄とにている。
それがアメリカ軍基地でも原発でもその背後に国家としての国策としての問題があり
簡単にはやめられない事情がある。
アメリカ軍基地でも原発でもそれは国家的問題であり一地域の問題ではない
原発でもアメリカが背後にいて要請されているのであり核兵器製造のためにあるとか
原発には東電だけではない、国家の意図があり作られていたのである。
「電力不足、電力不足」と言うけどそれだけではないものが背後にある。
沖縄にしても経済力が弱いからアメリカ軍の基地に頼るということがあった
それはこの辺は特に大熊とか双葉地域にもそういうことがあった。
出稼ぎ者が多くて地元で働く場所がないから原発を誘致した。

要するに沖縄でも原発事故で避難区域になったところでもそれが国家的問題となっていた実際にだから国家的な問題として事故後も除染など莫大な金をかけているのである。
石油とかでもそれが入ってこないと国家的問題になり戦争までなるし戦争になった原因が石油の輸入をとめられたからだということもある
今でも石油が入らなければ車も動かなくなり大混乱になる。
この辺で一番問題になっのだがガソリンが入らなくなり身動きできなくなったことである戦争中でも特攻隊のゼロ戦でも燃料がなく片道の燃料で出撃したのだからそもそも帰ることはできない飛行機だったのである。
エネルギーはそれだけ文明の根幹を成すものでありそれが枯渇すれば文明も終わる。
常に言われるのは鉄が国家だということが古代からあった
鉄の生産を握るものが農業でも道具を供給できるので支配できる。
もちろん武器も製造するので支配者になれる。それが国家を作ってきて天皇は鉄の王だということが言われてもきた。
この辺で相馬藩と伊達藩が丸森で争ったのは木材資源のためであり新地で争ったのは
鉄資源のためもあった。
そういうことは人間社会では常に行われてきたのである。
地域単位で起きることは国単位に拡大したとなる

最近話題になっている憲法問題も自衛権をもち自衛隊を戦争できる体制を作るというのもそれがアメリカの要請でもありまた中国の脅威でそういうことが言われるようになった。沖縄は太平洋戦争では悲惨な犠牲を強いられた。そのことが以前としてまだトラウマになっている。
墓銘碑に名前も刻まれていないと親戚の人が最近名前を刻んだ、つまり死んだことすらわからない人もいたのである。その名前が刻まれることによって生きていた証がここにあるとその墓銘碑に思いをよせていた。
死んだときどうしてもなにもなくなるから墓に愛着するのである。
あういうことがあるのに父親の墓参りもしない人は何なのだろうととなる
父親でも思わない人は思わないから墓に無関心だとなる

ともかく戦後は経済成長一辺倒でがむしゃらに働いてきた。そして企業戦士とかエコノミックアニマルとか日本は言われた。その中核をになったのが団塊の世代だったのである。それが一つの転換期にきた。つまりこれまでは会社は意識しても会社員として生きてきた人がほとんどである。
では国家というのは意識されなかったのである。
ただ沖縄ではアメリカ軍の基地があったして戦争のトラウマをまだひきづっていた。
他の日本人はまず国家を意識しない時代だったのである。
また日本は世界でそうした戦争にかかわることもないので経済発展できたともいえる。
朝鮮戦争ではアメリカ軍でも4万人死んだとか中国でも他でも多大な犠牲があった。
朝鮮戦争では日本は特需となりもうけて復興になった。ベトナム戦争でも日本はかかわらず特需があった。

だから戦後は国家というのも特別意識する必要がなかったのである。
そもそもだから国家とは何か?というときもうわからなくなっているのだ。
戦争のとき、「国家、国家、国家」しかない、家族も会社も地域もない、ただ国家のみがあったのであり国家のために死んだのである。
ただ最近の世界情勢をみると本当にシリアとか国家がなくなると難民化して悲惨なことになると思った。
国家がなくなればもう家族も地域も維持できないから国家を最優先すべきだという意見になる。それが戦争のとき露骨に行われたのである。
国家の犠牲者が300万人とかなったのである。
戦後は経済成長一辺倒でありまず国家のために死ぬとかの気概はない
国家を意識する機会がなくなっていたからである。
国家を意識しないときは平和であり幸せな時代だったとなる
それで江戸時代の鎖国時代が世界とかかわらず平和が維持できたことは世界史的にまれであり海に囲まれた日本だからできたことなのである。

ともかく国家を意識しないときかえって平和であり幸せである。
国家を意識されるときは戦争とか何か国家の意志が強く感じられて平和でなくなってゆく中国に攻められとか国家の危機が国家を意識させられるからである

冷戦構造のなかでアメリカに全面協力した代わりに、日本は高度成長という非常に大きな果実を手にしたわけです
その背景には国家の戦略を放棄させられたという厳然たる事実があります
(日本なぜ原発と基地をとめられないのか?矢部宏二治)

日本は以前として戦争に負けて日本はアメリカの支配体制に組み入れられた国で自主独立国ではない、それが戦後70年でもそうだったのである。
だからどうして重大な過失死傷の事故に警察や検察が黙視して東電の幹部もなんら罰せられないのか?
それはそうしこアメリカの下でも権力体制ができあがっているからである。
つまり沖縄とはアメリカの最大の防衛拠点であり原発もアメリカの政策として日本は勝手にできない、それは日本だけの事情ではないのである。

ともかく原発の補償金のことでもいろいろこの辺はもめたし書いてきたがそれは沖縄でも同じだった。
地主は多額の補償金をもらって六本木で生活しているとか何かそういうこともにている。一方でそれは一部であり沖縄の大多数は基地はいらないとも言っている。
この辺でも補償金が全部そんなにもらっているわけではない、でも補償金で一番もめているのである。
金が今では一番現実的問題だからそうなってしまう。
そしてこの辺で沖縄で建築関係で働いた人が聞いたいう話

 「沖縄の米兵が犯したレイプ犯罪よりも、沖縄県全体で沖縄人自身が起こしたレイプ犯罪の方が、はるかに率が高い」

これは本当だったのか?その人は飲み屋で聞いたのだからただの噂とも違うのか?
沖縄が常に本土の人に犠牲になったことを延々と言うが沖縄の人が隣の人が一番怖かったというのもまた現実味がある
近くの人も怖いということを自ら体験したからである。火事場泥棒は必ずでてくるのが人間の社会である。病気になり家ががたがたになったとき入ってきたのはそういう人たちである。
そういう人たちも借金だとか貧乏でぎりぎりになっているから明日食うものがないとなれば一万の金でも人は殺しているのと同じである。
そういう混乱のとき、人間の欲望がむきだしになり露骨に現れてくる。
だから人間の本性は怖い、人間の欲望は戦争のようなときとめられず噴出するということがある
だから戦争は人間の一番醜いことが全面的に解放されて現れる
そこはまさに生き地獄の世界だった。日本兵も捕虜になり悲惨な殺され方をしたのであるそれが戦争の現実だったのである。


タグ:沖縄基地
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2015年06月28日

泰山木(陸前浜街道はまさに海沿いの街道)


泰山木(陸前浜街道はまさに海沿いの街道)


老い二人木陰に深く休むかな

日立木の細道咲きぬあやめかな薬師堂あり昔しのびぬ
浜街道松影なして菖蒲咲き田に鷺歩み立谷の村かな
城跡のお掘りに写る菖蒲かな昔を偲び街を歩みぬ
十輪の泰山木の花開く海よりの風に朝そよぐかな(新地)


陸前浜街道は仙台までつづいている。
でも新地になるとわかりにくい、もちろん昔の街道はとぎれとぎれになりわかりにくい
日立木から相馬市の城跡まではわかりやすいが他はわかりにく
旅の道になると六号線になっているからだ
ただ新地までは何か一つづきのものとして感じるし
地理的には新地はやはり相馬の領域に入る
新地に泰山木の花が十輪ほど咲いて海からの風が吹いていたのはふさわしい


陸前浜街道は仙台までつづいている。
でも新地になるとわかりにくい、もちろん昔の街道はとぎれとぎれになりわかりにくい
日立木から相馬市の城跡まではわかりやすいが他はわかりにく
旅の道になると六号線になっているからだ
ただ新地までは何か一つづきのものとして感じるし
地理的には新地はやはり相馬の領域に入る
新地に泰山木の花が十輪ほど咲いて海からの風が吹いていたのはふさわしい
新地は海がより近いからである。
泰山木は梅雨の時期に咲くから映えないのである。
海が一番近かったのは新地だったから駅も被害が大きかった
それで路線が変わって作られていた
ただ見通しが良くなり海が望めると書いたがそうではなかった
その前に津波を防ぐ高台が築かれていたからである。
だから海は見えないのである。
今回の津波で海岸沿いは高台が築かれてかえって海が近くから見えなくなったのが多いのである。
それも何か淋しいとなる、海が見えると心も何か開けたような感じになるからである。
これほど風景まで変わるというのはイメージできなかった

ただあと二年で開通するのは意外と早いと思った。
常磐高速道路も開通しているから交通的には便利なのである。
小高の人が新地に家を建てたというから小高はどうしても半分くらいの人口になり
そして老人だけになり廃れてしまうのだろうか?
子供のある若い人は帰ってこないからだ
小高まで鉄道が開通すればまた違ってくる
陸前浜街道というけど本当に浜街道だった
ただ海が見えるわけではないから海を意識しなかったのである。
それでもこの辺は海からの風が春から夏と吹いているのである。
海から離れては存在し得ない場所だったのである。

泰山木は梅雨の時期に咲くから日本では映えないのである。
新地は海がより近いからである。
海が一番近かったのは新地だったから駅も被害が大きかった
それで路線が変わって作られていた
ただ見通しが良くなり海が望めると書いたがそうではなかった
その前に津波を防ぐ高台が築かれていたからである。
だから海は見えないのである。
今回の津波で海岸沿いは高台が築かれてかえって海が近くから見えなくなったのが多いのである。
それも何か淋しいとなる、海が見えると心も何か開けたような感じになるからである。
これほど風景まで変わるというのはイメージできなかった

ただあと二年で開通するのは意外と早いと思った。
常磐高速道路も開通しているから交通的には便利なのである。
小高の人が新地に家を建てたというから小高はどうしても半分くらいの人口になり
そして老人だけになり廃れてしまうのだろうか?
子供のある若い人は帰ってこないからだ
小高まで鉄道が開通すればまた違ってくる
陸前浜街道というけど本当に浜街道だった
ただ海が見えるわけではないから海を意識しなかったのである。
それでもこの辺は海からの風が春から夏と吹いているのである。
海から離れては存在し得ない場所だったのである。

タグ:泰山木

2015年06月29日

東京の老人を地方に移す問題 (放射能汚染とは関係ないから浜通りは老人が住むのには向いている?)



東京の老人を地方に移す問題


(放射能汚染とは関係ないから浜通りは老人が住むのには向いている?)



地方創生の新型交付金、高齢者移住拠点などに重点

2016年度に創設する地方創生の新型交付金を、高齢者の移住拠点や観光戦略の司令塔の整備などに重点的に配分する。地方の自治体に移住者数や観光客数などの目標を設けるよう求め、成果を毎年検証して首都圏からの高齢者の移住や、訪日観光客の増加につながるよう促す。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS25H68_Y5A620C1PE8000/



前にも書いたけど福島県浜通りでいいのは気候なのである。
暑からず寒からずでこれだけは推薦できる。
だからわからないのは会津とか北海道とか雪の多いとか寒い所に老人が移住するというのはあっていないと思う。
それで会津とか福島市の方に避難した人たちもイワキとか浜通りに帰ってきているし帰りたいとなる。

東京の老人を地方でめんどうをみろというのは問題である。地方も人手不足だしそんな老人ばかりめんどうみていいことがあるのかとなる。
それはここだけではない全国でそう言われている。
ただ現実問題としてこの辺は放射能汚染で困っている
今は外部から工事関係者除染とかで人が入ってきている。
それでダンプが多いから危険なのである。
でも後何年かで工事でも除染でも終われば相当にさびれてしまうだろう
今だって子供をもっている人で避難している女性が帰らないとかある
そしてなにか産業になるものがなくなる
何でも放射能であり風評被害もあり観光にも影響する
地元の食を提供できないことも致命的である。
今はいいとしてあと5年後くらいから相当に経済は厳しい状態になる

その点放射能とあまり関係ないのが老人なのである。
すると老人にはこの辺でも気候がいいから施設に入りたいという人がでてくる
それより東京ではもう世話しきれないという深刻なものとなる
それを引き受けて地方でやれというのには相当に問題がある
ただ財政的にはメリットがある
それでも地方だって人手不足なのだから少子高齢化なのだからその人手を確保できるかどうかである。
はっきりいって在宅で介護するというのは負担が大きすぎるのである。
毎日家事と介護に追われているのが自分である。
一人でもそうした介護する人とか病人がいるだけでどれだけ負担になるのかを身をもって知った。
三食出すだけで手間だし介護度が低くても手がかかるのが介護なのである。
だからこれからすでに介護の重圧で自殺したり殺人になったりすることがすでに増えている。それはもう日常的になってめずらしくなくなる
医療でも福祉の介護でも金をかけすぎるのである。
それは無駄なものでありもっと金をかけずにできる方法はある
金がかかることで政府は在宅でして介護にかかる金を減らそうとするのはわかる
だからといって在宅でやれというと家族も少ないのだから自分のようにすべて一人に負担がかかるようなことが現代では多くなる
そこでもう耐えられないとなり事件になる

ともかくこの辺の事情を放射能汚染は大きなマイナスなのだが何か老人にとっては放射能はほとんど関係ないというとき5年後とかには老人の施設で雇用を保つとするのも一つの案になる。
ただ今でも老人がこの辺では他より多くなっているし老人だけの街、シルバータウンになったらどうなるのか、活気もなにもなくなるとかそれもいろいろな反発がある
放射能汚染の問題の解決策として老人にとっては放射能汚染は関係ないから地元の食料でも野菜でも魚でも食べさせることができるということである。
そうすれば地元の農家でも売れるからいいとなる
米を作っても売れないとか常にそういう心配ばかりなのがこの辺だからそういう案もあるのかと書いた。

新地などは海と森と山もあり老人にとってはいい場所だなと思った。
他より森が多いからそれで落ち着く場所になっている。
海も見えるから気持いいし気候的にも浜通りはいいから老人には適していると思った。
保養地としては温泉はないのだが適した場所である。
もちろんこの辺は過疎地とは違っている、交通の便がいいし仙台に近いしだから青森とか北海道のような工場がないというわけではない
原町と相馬市と新地にも火力発電所がありあそこは2000人とか働いているとなり大きな雇用の場となっている。
工場もあるから老人施設を受け入れて何とか経済を維持しようとまではなっていないかもしれない。
ただ放射能汚染とういうことでそういうこともありえるかなと思った。

これには実際はいろいろな障害がある。一体東京の人を何で地元でめんどうみるのかという動機がある。金が払うからいいじゃないかともならない、地元に生活してきた人なら
地元でめんどうみるということはありうる
でも東京で働いて老後は介護は地方でしてもらうというのは何かそぐわない
それは介護する方でも介護される方でも問題なのである。
何でも金で解決できるということではない、これも結局社会が広域化したとかグローバル化したことで起きている問題である。
つまり人間は昔のように農業中心で一カ所で定着して生活していないし一地域だけで生活が成り立たなくなっいる。
それでかえって避難者がこの辺でも小高などの人は金をもらって威張っているというのも地元の人には反発が生まれた。

でも現実問題として何も小高の人が鹿島の人に世話になるとか他でも地元の人に世話になっているという気持がない、起きない理由は食料でもなんでも外部から入ってくるし家でも今は建て売りで地元の大工が建てているわけではない、
すると地元で何をしているのか、何か地元の人にしてもらっているという感覚が起きないのである。
「この食料はみんな九州から北海道から外から入ってきたものだよ、地元のものなんか、放射能汚染で買わないよ、別に買わなくても食料など金を出せばいくらでも入ってくるよ」
「そうだな、見ろ、家だってみんな建て売りで外部のものが建てたんだよ、復興というけど復興で働いていたのはみんな外部の人だよ、地元の人は補償金でパチンコだなんだと遊んでいただけだからな」
こういうふうに広域化グローバル化社会になっていたことが家族まで散り散りばらばらになるということもあったのではないか?
うるさい姑と暮らすより他で補償金もらって新しい生活をした方がいいとか若い人にもなった。そもそも地元にこだわる人は少なくなっていた。
それは農業とか林業でもその土地の資源などに頼って暮らすものではなくなっていたからである。

まず第一次産業のしめる割合は地方でもこの辺でも一割にもみたない状態だったのであるその第一次産業が壊滅的打撃を受けても別に広域化グローバル化社会では金さえあれば困らないから避難者の方が原発貴族だとかなり威張っているとかなったのである。
それでも広域化グローバル化社会の弊害も様々に生まれた。
介護ではやはり住み慣れた所にしてもらいそこで死ぬというのが人間的なのである。
結局人間は物ではないから都合よく物のように移動させることはできないということはある。
物は人間と違って移動しやすいからグローバル経済になった。人間そのものは簡単に移動できないものなのである。
いくら金をもらったからといってどこに住んでもいいよと言われても戸惑うことがあり
それで老人は故郷に帰りたいとなる
だから人間の問題はすべて金では解決できないのである。

2015年06月30日

物は移動できても人間は簡単に移動して住めない (移民は日本の家族のように受け入れないと不可能)


物は移動できても人間は簡単に移動して住めない


(移民は日本の家族のように受け入れないと不可能)


物が移動するのと人が移動するのは全く違ったものになる。
人が他国に移動するとどうなるのか?
家族であれその国のことであれまたは宗教であれその人ともにもたらされる
だから移民したヨーロッパではイスラム教が増えてそこが別な国のようになってしまう。日本でも移民を入れるとなると単に人間を部品のように働かせることはできない
つまり人間は物でもないし機械でもない、人間に付随するものは全体だから
この一部門で働く人がいないからと機械のように部品のように人を外国から臨時的に入れて働かせることは問題が起きてくる
そういう働かせ自体に問題がありもめごとが起きたしこれからも起きてくる。
それは人間は機械でもないし機械の部品でもないからである。
ただ文明の仕事は移民を入れるにしろ入れないにしろ仕事自体が機械化して効率化を計ってきた。

つくづく文明とは膨大な分業であり部品化だったのである。
人間の仕事はもはや無数に細分化された部品の集合なのである。
それは車を生産して使うとういことで象徴されている。
国がトヨタの会社でありその車を使うために人間が部品化され配置されているとかなる
車は部品の集合からてりその部品を請け負い作る中小企業がいて従業員がいるからである文明そのものがそうして生産を機械化して効率化してきた。
ただそれが外国人でも何でもいい、その機械化部品化として人間があるからいいとはならない。
障害者が最近雇用を会社でもしなければならなくなった。
でも意外と障害者でも流れ作業とか部品化した分業化した仕事ができる
てもそもそも人間の仕事は普通の人でも分業化して細分化して部品化していたのである。そういう仕事はかえって障害者にもできる、向いていたとさえなる

まず全人間的仕事をしている人は文明社会では極少数である。
文明の全体を知る人など誰もいないだろう。
第一次産業は自然の中で仕事していたから全人間的である。
工業化すると機械も部品の集合であり人間も機械化され部品化される
一人の人間が一つのものを作るとういことはない
江戸時代ならほとんど職人であれ一人の職人の手仕事だったのである。
職人一人が製品を全部仕上げていたのである。
田から職人も全人間的に生きていたとなる
医者でも現代のようないろいろな科はない、人間の全部の体をみていた。
人間の体の部品化はないしできなかった。

でも移民が問題になるのはなぜなのか?
人手がたりないから国内のように人間を機械のように部品のように使えないからである。移民とともにもってくるものは家族であれ国であれ宗教であれ一人の外国人はその国を代表してもってくるものがある。
移民の一人でも何かその国を代表したように国自体を外国にもってくることにもなる
だから移民は文化的衝突することになる
つまり国の中にもう一つの国ができることになってしまう。
でも外国から物だけを取り入れていればそういうことはないのである。
別にバナナが入ってくるからとフィリッピン人がメキシコ人がどうのこうのとかにはならない゛フィリッピン人が風俗であれ嫁になるのであれ人間そのものが入れば必ず全人間的なものとして問題になる

人を雇うにしても自分でもちょっとした時間でもいかに人を雇うことが特に家で働いてもらうとなると大変なのもになるか身をもって経験した。
そこには常に露に人間的な問題が露骨に現れる
もちろん普通の会社でも経理でごまかすとかあるから人間にはそうした信用問題がつきまとっているのだ。特に家に入るものは一番危険なのである。
そして時給一時間いくらはらえばいいとはならない、なにやかにやとその家の問題がありそれまでめんどうみなければなちらなかった。
家族の一員のようにしてめんどうみなければならなかった。
だから人間を雇うをほどめんどうなものはないと思った。
ただ時給いくらで雇うというときコンビニなどでもそうした家の事情とかには立ち入らないシステムになっている。
いちいちそんなことを聞いていたらもうもうけることもなにもできない
社会福祉事業になってしまう。
移民でも人間が入ってくれば現実に日本人の家族として受け入れるようでないとうまくいかない。
機械のように便利に使っては使い捨てというわけにはいかないのである。

いづれにしろ原発事故で避難した人たちも人間が各地に移動したから問題になった。
人間はそもそも物ではないのだから移動するとなると移り住むとなると簡単にはできない、移った場所に簡単になじむことはできないのである。
ただ旅するなら別である。旅人になる別に移動することが目的だし一所にとどまらない事か旅だから別である。
でも人間は長年住み慣れた場所から他の場所へ移り住むのは様々な問題をうむ
確かに第一次産業の自給自足の生活ではないからその土地に愛着するというこはそれほどなくなった。
でもやはり長年住んでいる場所と人間は一体化する
それは自然でも人でも他にもその場所に長年住むということは石のようになることでもある
その本が見つからないが会津の民話では村の欅が一緒にお伊勢参りしていたとかあり
それだけその村の古い木とか石は単なる自然の物ではない人間と一体化していたのであるだから浪江の女性が60代の人は田舎の淋しい場所に住んでいた。
それが高層ビルに住むようになったから相当な違和感がある
都会の灯の海を見て暮らすのとはあまりにも違っていたのである。
物だったら例えはみかんであれリンゴであれ野菜でも移動してもその味は変わらないのである。
ところが人間そのものが移動するということは物ではないから機械の部品でもないから簡単に移動できないものなのである。
人間は一つの部品ではない、全体に生きているからそうなる。
人間はその土地に根付く植物や樹とかともにている。結局人間の自然の中の生態系に生きる生物の一種だからそうなるのである。


タグ:移民問題
posted by 老鶯 at 18:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題