2015年06月13日

サウスカロナイナ大学関係者が相馬市の道の駅に (燕の放射線の影響を調べていた)


サウスカロナイナ大学関係者が相馬市の道の駅に

(燕の放射線の影響を調べていた)


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燕の写真をとっていた。



サウスカロナイナの大学生なのか、相馬市の道の駅で燕の巣を掃除していたのかと思ったら燕の放射線の影響を調査していたのである。
双葉とか大熊の方でも調査していた。
そこは燕が少ないと言っていた。ここは多いと言っていた。
本当にあそこは燕の巣が十以上もそれ以上もあった。
燕の巣を作るのに適していたのである。
燕は高さとか人が住んでいる所に巣を作る。
烏などに狙われない場所に巣を作る
 ツバメが人目につきやすい所で営巣するのは、巣や卵や雛を、他の鳥の攻撃やヘビなどから守るためで、人間をガードマン代わりに利用しているためのようです。人がいつもいるところ、人の出入りが多いところでは、巣を奪うスズメや卵や雛を狙うカラスなどが近づかないことから、力の弱いツバメは人間の近くで営巣することによりその非力をカバーしていると考えられます。(川内博「四季の野鳥」)
 

相馬市の道の駅に燕が集まり巣が多いのは燕にとって最適の場所だったのである。
烏や猫やヘビやスズメからも守られる所にあった。
燕は人が住んでいたり車があったり人が往き来している場所が安全なのである。
だから大熊とか双葉には燕が少ないと言っていた。
人が住んでいないから燕も巣を作らない、また安全でもない
人が住まないとたいがい野生の動物によっては住みやすくなるのでふえる
燕が人と共存していた鳥だから違っていたのである。
双葉とか大熊とか浪江は今人が住んでいないからどうなってしまったかわからない
野生の動物にとっては住みやすくなっているだろう。
野良猫などがうろついて捨てられた子猫とか青大将に食べられているとか
なんか不気味でもある。
チェルノブエリでは狼がやってきてヘラ鹿もやってきて野生化した
今回の事故で野生の動物などに鳥などにどれくらいの影響があるのかわからない
これも影響がすでにでているとか蝶で調べたとかある。
でもその確証はなかなか得られない
突然変異とかあり常に否定されているからでもある

とにかく放射線の影響はどうでるのか素人にもまた専門家にもわからない
それでも相馬市の道の駅で売っている野菜などは日下石(にっけし)などのあの近くの農家の人が出している、でも高いせいもあり売れないし地元の人も買わないという
確かに相馬市の道の駅は野菜でも普通に高いのである。
放射能の影響は検査しているけど地元の人も買わないという
松川浦でとれた魚も売れずに残っていたという
放射線量の調査が本当なのかどうか疑う人が地元でも多いということである。
ただ老人は気にしないで食べているというのは言える
自分も別に気にしないであそこの野菜などを買っている
放射線は学者によれば遺伝子に一万年影響するとか言う人もいる
遺伝子に影響するとそれが子孫にも影響するから深刻になる
ただそんな長い先はもう関係ないだろう。

サウスカロナイナ大学の教授が燕の奇形を指摘
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-1291.html
University of South Carolina, Columbia(サウスカロライナ州)
国際経営学に定評がある大学

生物科学科(Department of Biological Sciences)
化学•生物化学科(Department of Chemistry and Biochemistry)
海洋地球学科(Department of Earth and Ocean Sciences)
物理・宇宙科学科(Department of Physics and Astronomy)

こういう学科もあるから生物化学の学生だろう。

ともかく相馬市の道の駅は広いし車をとめているのにもいいし、田んぼが見えて山も見えるから眺めのいい場所にある。
それで散歩コースとして良く行くのである。
そこで遠くから来る人たちの車のナンパーを見ている。
ただ外国の人にあったのはめずらしいし原発事故のことで来ていたのである
タグ:放射線と燕
posted by 老鶯 at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2015年06月15日

電車を待っている時間 (詩) (金のように計算できないから時間が節約できない)



電車(ディーゼル車)を待っている時間 (詩)

(金のように計算できないから時間が節約できない)

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春の雲がぽっかり浮いている
自由な気ままな旅
見知らぬ駅で途中下車
なかなか電車が来ない
遠い北の果ての鉄道
やっと一両のデーゼル者が来る
線路の脇にでんでん虫が眠っている
遠い見知らぬ駅におりたつ
そこには何軒かの農家があり
牛を飼い畑を耕し暮らしがある
そこにも駅があることがなつかしい
ああ、そういう自由な気ままな旅の日
それがなつかしい
今はただ日々家事に追われ介護に追われる
その時線路はどこまでもつづき
自由な時間がありふらりと途中下車
誰もとがめるものもなく
「どうぞゆっくり電車 (ディーゼル車)を待っていて下さい
その内電車も来ますよ」
夏の蝶が花々にとまり蜜を吸い
私は気ままに放浪していた
立葵の花が一際明るかった
私は延々と線路がつづく限り
自由な旅をしていた
そこに尽きることない自由な時間があった
しかしその時間も尽きたのだ
何事時間は尽きる
恵まれたものは自由な時間
それはもはや得られないことの衝撃
人に与えられる時間は限られている
何をするにしろ時間は限られている
そしてたちまち時間は尽きて老いる
そしてただ思い出すだけになる
そしてこの世から去ってゆく
私の時間は見知らぬ駅でなかなか来ない
汽動車(ディーゼル車)を待っていた時間
それは幸せな時間
その時間はもう二度と帰ってこない
人がこの世にいる時間は限られている
なかなかディーゼル車が来ないと思っていたら
本当にディーゼル車は来なかった
でも待つ時間に意味があった
待っている時間が人生の豊かな時間
そういう時間がない旅は記憶に残らない
ただあわただしく過ぎ去り
記憶に残らない旅となる


人間の盲点は常に時間を浪費していることである。
時間は金のように計れないから自ずとそうなってしまう。
金だったら物を買うのにもいつも意識して節約したりする
時間は節約するという思考が働かないのである。
時間をためるとか時間を一気に使うということもできない
金だったら多くたまったら一気にぜいたくして使ってしまうことができる
時間は一気に使ってしまったりできないしためることもできない
だから時間というのは常に不思議な理解できないものなのである。
ただ時間を理解できるのは老人になったときだけである。
これは誰でもはっきりと理解できる

人生の時間がなくなってしまったことを否応なく意識させられるからである
金だったらためることができるし老人になっても金は確かに有効に働く
ただ若いときの時間とかはもどってこない
青春という時間も二度ともどってこない
女性だったら若いときの美貌でももはや二度ともどってこない
ただ老人が若いときに失ったものの代わりとして経験から得たもの
知恵とかが備わってくる
若いときに読んだ本はいろいろあったが理解できない
今読んでみると理解できるのである。
人間の知恵とか理解力は老人にならないと身につかないようなっているのだろうか?

結局人間は何か失ってももまた何かを得るようになっている
ただ時間だけは失ったら取り戻せないのである。
それは巨万の富を積んでも取り戻せない
人生の時間は確実に切れるのである。
だから時間の謎は人間は何かを成しうるために時間が与えられている
その時間はそれぞれ限られている
時間とは刻々の時間であり日々の時間であり四季の時間であり一年の時間がある
人生の時間も子供から青春時代から壮年と段階があり
時間とはそうした日々の集積であり経験の集積である。
だかち人生は一挙に何でも経験できなようになっている
今日経験することと明日経験することは違っている
そういう経験された集積されたものがやがて実りとなる
だから老人はになるとその実りがいい方面でも悪い方面でも否応でも現れてくるのである時間が何に費やしたか確実に現れてくる

それは電車を待っていたのが自分の時間であり人生であったとなってもそうである。
つまり人生は何に時間を費やしたかで決まるからである。
何に金を費やしたかというより何に時間を費やしたかの方が人生を決める
つまりあらゆることに時間を費やすことはできないからそうなる
百億もっていてもあらゆることに時間を費やすことはできない
それで享楽に費やしても煙のように消えるし
また苦労してもその苦労した時間がありまたそれも人生だったとなる
それも無益とはならないしその苦役の時間もまた人生を作っていたのである。

時間はたいがい与えらるのは平等なのである。
金は不平等でも時間は公平なのである。
ただ金持ちだと時間を節約できることはできる
食事でもめんどうだから贅沢な外食ですませば時間がうく
高い金を払って家政婦を雇えば時間が浮く
自分はそれができないから時間が奪われているともなる
それでも家事は機械化されたとか外食もしているから時間を浮かしている
時間はいくら金があっても基本的にはある人が特別長い時間を得るということはできないのである。
そして時間を節約するということが金のように意識しないので時間は必ず浪費されているのである。
あなたが使う時間があなたの人生を決めているのである。


ディーゼル車は(ディーゼル)は北海道に多い

北海道では廃線になったのが本当に多い
タグ:電車の旅

2015年06月16日

情報過多時代にどう対処する? (NHKクローズアップ現代ー買い物は“おまかせ”スタイルで!? )


情報過多時代にどう対処する?

(NHKクローズアップ現代ー買い物は“おまかせ”スタイルで!? )



今やインターネットとかで買い物も情報化している。そして情報過多に悩んでいる。
情報が多すぎて自分でも選びきれないというのが問題になる。
それはインターネットでは常に起きている。
種類が多くて何でもあるとしても何を買っていいのかわからなくなる。
そもそも買い物だったら昔だったら隣近所の店であり次にスーバーとかイオンとか
買い物の種類が増えたきた。
だから自分も買い物が仕事になっている。様々なものがりそれを選びきれないしわからないものがまだまだある。
意外といいものを買うのはむずかしい。特に野菜とかは生ものはむずかしい。
それから調味料とか料理に使う細かいものもわかりにくいのである。

自分はもうインターネットでプログで発信するために情報にアツセスしたり本を読んだりするからもうそんなにいろいろなことを一人でできないのである。
もうスーパーマンになるほかない状態である。
家事だけでも実際に書類とかいろいろあるからそれだけでも頭に入れることが手間になるそれは自分だけではない他の人も情報が多すぎて仕事するにもどうしていいかパニックになっている人が多いだろう。
人間が情報を処理できるのは限界がある。つまりもう情報はとても消化しきれなくなっているのだ。
情報の性質として情報は天文学的無限大であり常に膨張しているしグローバル化するグローバルに膨張しているから一人の人間の頭では処理しきれないのである。
情報の性質としては

●一つの物事一つの場所の深化する情報
●広域化グローバル化する情報
●視覚化する情報

一つの物事とか一つの場所で深化してゆく情報は江戸時代とかがそうであった。
一つの藩内からほとんど出ることがないからその中での情報を知ればいいのであり外部の情報はそれほど知るなくても困ることがなかった。
人間もそうした狭い範囲で親密に暮らしていたのである。

今の情報は単に情報でなくても物でもグローバルに流通しているときその情報を広げれば無限大になる。とてもそんな能力は人間にはない。
そして現代の特徴はデジタルカメラなどで動画になり写真の情報も膨大になっている。
その視覚化された情報でもそこには写真からよみとるものが様々にありまたふえてくる
そして原始的な情報の取得は対面的なものである。そこには活字だけではない、声や身振りや表情という情報を伝えるからそれは一番心に残りやすい。
でもこの対面的なものはわずかに限られた人にしかできない
外国になるといくら交通が便利なになっても直接合うことはむずかしい。
直接合うことわずかであり限られているからどうしもその他のことで知ろうとする
医者でも直接みてもらうとなると病院で半日待っているとか手間がかかりすぎるのであるそれで医者が説明するのは二三分なのである。
それだけで何かわかるかというと一方的に聞いているだけで詳しく聞くこともできないのである。
でも直接医者に聞かないで自分で判断するとまた命取りになることを経験した。
ある人は癌になり医者にも行かずインターネットとかで情報を調べて漢方薬の医療とか民間医療のようなことをして悪化して死んだとかもある。
これも様々な情報にまどわされてそうなった。
要するに癌の情報も膨大になると情報の迷路に入ってしまっておかしなことになる。

学問でも例えば本を読む場合でも今や古本から無数の本を知るしアマゾンでボタン一つ手に入る。だから何か調べて書こうとするときやはり情報が多い方が詳しくなるから毎月古本とかなるべく安いものを十冊は買っている。
でもその本を一冊一冊詳しくは読まない、要点だけをさーっとよんで利用しているだけである。
何回も今でも読んでいるのは古典的なものである。
そういうものは何回読んでも新たな発見がありなるほどいいことを言っているなと感心するものが何度読んでもある。
一種の古酒のような味わいになるのかもしれない。
ただそうして何度も読む本と何か学術的に調べる本は違っている。
それはあることについて様々な視点で書かれたものを知る事がいいからその方面の本を集める。
しかし本は中味はなかなかわかりにくいので古本だと立ち読みのようなことはネット上でもできないのでこまる。

そして電子本は読みにくいことがわかった。自分のように要点だけを読もうとするパラパラとめくり全体の要旨を知ることができないのである。
どうしても一ページづつ読むから手間になるからできない
そして活字を本で読むのと電子文字で読むのも相当に違っている。
何か本の方が記憶に残りやすいのがなぜかわからない。
だから本というメデアは出版社とか書店がなくなってもなちならないのかもしれない
要するに本で読みたい人は残る。でも出版社とか書店で本を買うということはなくなる
アマゾンのような販売になるだろう。

いづれにしろこの情報過多の時代でまた時間が奪われるのも問題だろう。
ただ本にしても今ふりかえると情報がずいぶん少ない江戸時代のようだったともなる。
なぜなら本自体が田舎だ専門的なものはほとんどなくベストセラーのようなもの売れるものしか置いていなかった。
それで仙台の方に度々自分が行っていたのは本を買うためだった。
その仙台の大書店でも本の種類は膨大だったのである。
それがわかったのはアマゾンで本を買うようになってからである。
地方では本は極端に少ないし古本は神田の書店のようなところでしか買えない時代があった。
そういうことでも田舎にいても今でも情報格差はないのである。
何か調べる気だったら田舎でもできる。

今は金に糸目つけず買っているからかなり専門的な貴重な本も手に入るのである。
そうはいっても本も買い切れないし読みきれない
だから若い人は今までもそうだったが情報過多になりつまらないものを読んで時間を奪われることである。
何が必要な本でももはや自力では選ぶこともできないかもしれない
本の内容を若いときは簡単に読めこめないからである。
要するに本を読むということは自分の文脈で読むとういことである。
その文脈の中でインターネットの検索があり本がある。
本には確かに詳しい専門的な情報があってもそれは自分の文脈で利用する
それではじめて本を読んだとなるのである。
あとはただ受け身だと頭にも残らないしただ読まされているというだけになってしまう。そういうものはたいがい忘れて何も残らないである。
つまり本を読むことは自分なりに解釈することである。
そして本を読んだことを自分の文脈で解説すれば取り入れればそれが他人にも有益となるのである。
タグ:情報過多

エマーソンの「償い」の思想はカルマの理論と同じことを言っている (与えたものが一方的に損することはありえない)


エマーソンの「償い」の思想はカルマの理論と同じことを言っている

(与えたものが一方的に損することはありえない)



わたしのためにはなっても相手のためにならぬ益を少しでも求めようとすれば、とたんにわたしの隣人はその不当な仕打ちを感じてしまう
わたしは身を引いただけ、枯れもわたしから身をひいてしまう。
彼の目はもはやわたしを求めず、われわれのあいだに戦いがはじまり、彼の内部には敵意が生じる

人々を歩駒のように扱えば、扱ったこちらまでが彼らと同様きっと苦しむことになる

百を数える恩恵を受けながら会えた恩恵は皆無だという人は果たして何が得したのだろう。
いつも支払っていたまえ、いづれは負債を所詮自分で支払わねばならない
失ったものがあればその代償として必ず何かほかのものが手に入っており、手にはいったものがあれば必ずその代償として何かを失う
集めるものが集めすぎたら「自然」は彼の金庫のなかにいれてやるだけのものを彼自身から奪い取る



人間の世界に何をするにも償いが働く、その償いは仏教で言うとカルマ論になる。
それは現世だけではない、前世にも及ぶからエマーソンより深遠なものがある。
カルマのことをエマーソンが言わなかったのは仏教を知らなかったからである。
つくづくこの自分のこの七年間の苦しみはまさに償いを強いられた。カルマの清算を強いられた。カルマの清算ということは「償い」のことである。
親には世話になったから介護を強いられたというのもそうである。
遺産が入ってきたときそのために大きな災いが生じたのもエマーソンの言う通りだった。富が集まりすぎるとそこに災いが生じるのだ。
なぜ中東で常に熾烈な争いがあるかとなれば石油という巨大な富があるためなのだ。
あまりに金をためこむとそこにはよからぬ人も金目あてに集まってくる
そのために殺されるとういことも常に人間の社会ではある。
その人相応の金ならいいがそれを越えると災いが生じるのである。

とにかく人間の関係は

わたしのためにはなっても相手のためにならぬ益を少しでも求めようとすれば、とたんにわたしの隣人はその不当な仕打ちを感じてしまう
わたしは身を引いただけ、枯れもわたしから身をひいてしまう。
彼の目はもはやわたしを求めず、われわれのあいだに戦いがはじまり、彼の内部には敵意が生じる

このことは日常的に誰でも経験している。無償で与えるものは一人もいない
そしてただより高いものはないということも経験している。
自分のつきあった人はこれを徹底していた。その人は事業を商売をはじめたけと失敗した理系で技術者で頭がいいのだけど何か経営とか商売には不向きだったのだろう。
それより東北人はつくづく商売には向いていない、それがただ如才ないとかではない、
農民体質だから臨機応変でないとかでもなく、商売がどういうものわかっていないのである。
近江商人はそういうことがわかっていたから成功したのである。

売り手よし 買い手よし 世間よし
http://www.mahoroba.co.jp/saying.php?itemid=2644

商売は一方的に相手から利益を得るというものではない、利他的精神がないと成功しない、何も得られないものに金を払ったり社会が認めたりしないのである。
資本主義が修道院からはじまったというときもそれこそ信仰に基づいた利他的精神だった商売はもともとそういうものでありとても今のように株で暴利をむさぼるようなことはありえなかった。
その人は商売をはじめてからもの凄く計算高くなったのかもしれない、まず売ったら五分はもらほねばならぬ、何かしたら五分はもらう、でも与えるのは一分でいいという精神である。
それが自分が病気のときもそういうことを実行して借金を求めてきた。
多額の借金している人はすでにモラルは喪失しているから危険である。
そんな人が病気のとき来たのだから最悪だった。
相手が弱者でも病人でもかまわない、今金がとれるということで借金をその弱みにつけこんで借金を請求してきた。

推理小説ではテレビのドラマでも事件でも必ず借金が犯罪の動機になっているのが多いのである。借金していることを調べれば犯罪の大きな動機をもつからそこから犯人を探す。まず動機から犯人探しになる。
そうなった人はもう他者に対する同情もなにもない、ただ利益を得ればいいというだけになっている。かえって相手が弱者化したとき恐喝すれば効果的である。
そうして保険金殺人にもる、それとにた恐怖感を味わったのである。
そういう恐怖を与えたものはすでに刑がなくても犯罪者なのである。
別に刑を受けなくても犯罪を犯している人など無数にこの世にはいる。
むしろ刑を受けている人はカルマを負って清算しているのだから救われているともなる
ともかく借金はすでに大きなカルマを積んだことになり返還を要求されるのである。

そういう自分またカルマを背負っていたからこういうことにあったともなる。
何か積もり積もったものが必ず六〇代以降に清算を要求されるのである。
その人は借金のために風俗とまではいかないが働かせられるているからこれもカルマだったとなる。
ブラック企業とかが繁栄することはないだろう。人を人とも思わないような働かせ方をしたら繁栄するとは思えない、だから倒産したブラック企業がありざまあみろとかなってしまう。
もし利他的な行為としての商売ならそういうことはならないだろう。

つまり世の中は公平の原理が働くというとき「償い」の思想はそれを言っているしカルマ論はそのカルマを借りを返すことを強いられるということである。
それは共通した思想であるがカルマ論の方がより深いインドの思想なのである。
だからなぜ自分はこんな不幸なのだろうとかなぜ不運なことばかりなのだとか悩む人はいくらでもいる。
そううい不運なことはただ偶然なのかと疑問になるりカルマを知りたいとなる
自分に起きた不運とか災いは本当にここに書いていたようにそうしたカルマが重なって起きたのである。
六〇代以降は何かカルマの清算が誰でも要求される。
親にも子供としての償いをしなければならないし介護しなければならないとか社会にも償いをしなければならないとか必ずある。

その人はなぜか不幸だった、その不幸は他にもいる、障害者をかかえた人などがいてそれとにている。
でもそれも今はその人のカルマだったと思う。その人は弱者を虐待するような人だった。もちろん自分も虐待されるカルマがあったのかもしれない、例えは猫などでも虐待していたりするとそれがカルマとなるからペットを飼うのも怖い面はある。
虐待したものは虐待されるし盗んだものは盗まれるし殺したものは殺されとかそうした因果応報カルマ論はここの人生で納得いく理論なのである。
つまり殺すものと殺されるものは偶然なのか?それにも因果関係がカルマが働いているのではないかとなる。
親が子供を虐待すると子供が親になったとき子供を虐待するということもカルマとしてある。親の因果が子に報いというのは現実にそういう例が多いから常に言われるのである。
もちろんあまりにも人間は複雑だから謎であり不明なのも多い、ただ一般論として確率としてはカルマ論はあてはまるからこそカルマにこだわるのである。
インドでカースト制が生まれたのもそうした簡単に差別というのではなくしれだけ古い国だからこそそうした身分制も必然的に生まれてきた。
その土地で裕福になるのは勤勉に働いたとか何か理由があってなっている。
怠け者だったら裕福にはならないから金持ちをうらやむのは間違っている。
ただ今はそうした公平の原理が働かないということで資本主義が否定されつつある。
公平でないということはやはりその社会の危機であり社会自体が崩壊に向かっているともなる
格差で不満が増大してそれか革命につてがってゆくからである。

いづれにしろ与える時は与えるがいい、それが一見無駄なように見えても与えることは幸せだからである。
自分もなぜこの人にこんなに与えるばかりなのか?相手はさほど感謝もしないようにも見える、でも与える力があるときは与えていた方がいいとなる。
むしろ金持ちだったらそういうカルマをもっているのであり与えないとかえって災いが生じ安い、だから金持ちになることもむずかしいのである。
宗教はそもそも利他的なのもだから損することを厭わない、ただ与えることをすすめる。そんなことして自分に何の得があるのということになる
なぜならエマーソンの言うように少しでも自分の利益にならなければもうこの人とはつきあわないとなるのが普通だからである。
それほど利に聡いのが人間であり人間社会の普通のありさまなのである。

だからエマーソンでも例え損に見えてもかえって損であれば損であるほど与えないというのはそこに「償い」があるからだとなる。
その損は決して損はなく償いが必ずある、また何か得したとしても不正なら必ずカルマを積んでいるからその借りは返すことが要求されるのである。
とにかくなぜに人間は自分だけが不当な仕打ちをされるのだろうという不公平感におちいりやすい、それが犯罪にもなる。
でもそうした不満でも自分にも何らかの落度はあるのが普通である。
でもそれを否定して不運だ不公平だと言うとき納得できないのである。
人間は生まれた家で決まるんだよな,努力しても無駄だよともなる。
でも本当にそうなるのか?、人間は何かしら努力しないなら積み重ねがなければ何も成らないだろう。
だからどうしてもそうした不公平感も例えはあったとしても全部は肯定できないのである

虐待したものは虐待される
金持ちは与えないと奪われる
貧乏人もにも非はある
世は公正を求めるしのぎあいである
とても暴利を得る社会はつづかない
富は独占できない
そこにアメリカの危険がある
金持ち国の危険がある

ともかく人間は運不運があるにしろ公正を求めてる。だから公正でないことは許されない、だから公務員だけが得しているというときいづれはそれも正されるだろう。
官僚も得しているというときそれも社会は許さなくなる。
そういう公平を求める力が常に働いているからいづれはそうなる。
公平でないことは誰も許さないのである。


タグ:償い

2015年06月17日

三野混沌の土着的生活が現代に問うもの (原発事故で故郷まで失ったものへの教訓)


三野混沌の土着的生活が現代に問うもの

(原発事故で故郷まで失ったものへの教訓)


いちばんむずかしいことで、誰にできること

ふしぎなコトリらがなく
花が咲いている
どういうものか ひとのうちにゆくものではない
ひろいはたけにいけ
きんぞくのねがいするヤマはたけにいけ
まっしろいはたけへいけ
そこでしぬまでととまれ
あせってはならない
きたひとにははなししろ
それでいい
クサをとりながらつちこにぬれろ
いきもはなもつかなくなれ
これはむずかしいことだが
たれにもできることだ
いちばんむずかしいことをのこしておけ
いちばんむずかしいなかでしね
(三野混沌)

現代は戦後十年は江戸時代のつづきだった。燃料は炭だったし電気は裸電球一つしかなかった。家には何もなかったし竈まで使っていた。
その後あまりにも便利になって過去のことが不便な時代のことがわからなくなった。
高度成長時代を経て人間は地方でも確かに田畑を作っていても小さな畑にしがみついて暮らす土着性は失った。
その当時は結局この詩のようにわずかの土地にしがみついてそこから離れることもできない生活だったのだ。

きんぞくのねがいするヤマはたけにいけ
まっしろいはたけへいけ
そこでしぬまでととまれ
あせってはならない

その生活のすべてがその畑にあったのであり他に生活する方法がなかったのである。

これはむずかしいことだが
たれにもできることだ
いちばんむずかしいことをのこしておけ
いちばんむずかしいなかでしね


その当時の残したものはその田畑を維持して生きろということであった。
それ意外生きる道がないからそういう遺言になった。
しかし高度成長時代からは全く変わってしまった。まず第一次産業はGDPの一割に低下した。地方でもこれは同じである。
回りに田畑があっても農業でも林業でも生活できないとなり跡継ぎがないと老人だけが細々と受け継いでいるだけであった。
漁業なども生活するには苦しいと思っていたが実際は原発の補償金で原発御殿が建っていたのである。事故後船主などは補償金がもらいつづけるから他の人とは違う特権者だったのである。

要するに第一次産業は高度成長以後、その役割が極端に低下した。
だから跡継ぐものがいない、農業でも漁業でもやっていけないとなっていた。
実際田舎でも専業農家となると少ない、農家といっても田んぼをもっていても自分では農業しないで他の人に委託している人も多い。
それから減反政策でともかく田んぼをもっていれば金になるとまでなる
最近米の値段が下がったから国で五〇〇億円の補償金を出すことになったのもそうであり国の援助で農業はなりたったいたしこの辺では漁業も原発の補償金で成り立っていたのである。
だからあまりにも戦前のような農業を理解できなくなったのである。
工業化して豊かになると第一次産業は農業は趣味的なもの楽しみとしてやるというのがある。
それでも毎日わずかの畑をするにも草取りだ肥料だ、虫に食われる、ネズミに食われる、盗まれるとかそういう苦労が絶えないのか農業なのである。
ただそれはあくまで趣味であるから昔のように真剣なものとはならない
野菜はとれなくても実際は買って暮らしているのである。
三野混沌の時代はそれが命にかかわってくる,飢えて死ぬということがありうる。

そういう時代のことを忘れていたし山尾三省のことでも書いたが貧乏暮らしが特別なものとして話題にして視聴率をとるような時代である。
それも今になると演技でしかなくなる、山尾三省だって何でパンも食えないような生活しているんだ、それで目立って売り出そうとしているのかというふうにみられる。
三野混沌の詩はそういうものではない、実際にぎりぎりで生きていた現実があって作られたのである。
今なぜそれが見直されたかというと原発事故が起きてからなのである。
原発事故では放射能で一番第一次産業が農業や漁業や林業でも被害を受けたし土が使いなくなり水は汚染されて故郷にすら住めなくなったからである。
その原因がなになのかとなるとやはりあまりにも第一次産業を軽視したのと土着的なものが失われていたのである。
自給自足はその土地にもともとあるものでしか成り立たない、土着的なものから離れて生活していたのが高度成長時代からそうなっていた。
三野混沌だけではない、原発事故で昔の生活を見直されることになったのである。

なぜ故郷にまですめなくなったのか?
それが単に原発事故のためだけだったきか?すでにその前からそういう状況が作られていた。原発事故はその引き金となっただけだとも言える。
つまり多額の補償金をもらって他に移り住む方もいいとなっていたのではないか?
金が万能となり別に故郷でなくてもどこに住んでも金さえあればいいという社会が現代のグローバル社会である。
だから金持ちは税金高くなるから外国に移り住むとかなる

われわれの文化を悩ませる、「駆り立てる衝動」は、現代にとどまることへの躊躇となって現れる。より多くを求め、よりよくなるために過去を捨てていかなければならないわれわれには落ち着きだけではなく、根もない、われわれは同じ場所にとどまってはならないのである。それは職業や生活水準だけのことではない、家族や共同体さえも知らぬ間にだが確実にわれわれがとどまってはならない場所になりつつある
上向きの社会移動性とは単に地位的、階級的、物質的な上方移動を意味するのではない、それは地理的心理的な離別、すなわち両親の価値観や趣味からも遠ざかってゆくことも意味する。(豊かさの貧困ーポール・L・ワクテル)

つまりこの「駆り立てる衝動」がまさに自分が絶えず故郷から離れて旅することにあった故郷という小さな世界を脱するために旅が駆り立てる衝動だったのである。
ただそれは個々人だけではない、現代は全体のエートスとして心情、雰囲気として心持ちとしてそうなった社会である。
だから前々からなぜ簡単に故郷は捨てられ消失したのだろうということが疑問だった。
そんな簡単に何であれ故郷まで消失することかイメージもでてきなかったからである。
だから原発事故で故郷を消失したのではなくそもそもそういう故郷にこだわらない生き方が普通になっていて故郷から離れることに抵抗がなくなっていたともなる

現代は極端に移動する社会である。アメリカは特にそうなっているからアメリカに日本もにてくる。遊牧民的社会になっている。
だからなぜ故郷まで離れて消失してしまったのかというのは原発事故前からの生活そのものにあったともなる。極端に第一次産業は軽視されていたしグローバル経済でさらに豊かな生活を目指すようになっていたのである。
だから大内村の人でも郡山市で補償金で生活するとき帰りたくなくなったというのもわかるのである。
どうしてもすべでが原発事故だけでこうなったのではなくそういう状況を作り出すものがすでにあったから原発事故を契機として一挙に現実化したとも見えるのである。
つまり原発に頼る生活は一見豊かさをもたらしたが危険なものであり根もないものだったのである。
そうして個々の生活をみてもあまりにも贅沢でありその豊かな生活も無理があった。
八人に一人が借金しているとか家を建てるのにも借金してた建てるとか本当に無理してその豊かさを追及していたのである。
正直金になるならなんでもいい、モラルに反することでもいいし原発でもなんでもいいというのが現状だったのである。
もう欲望が無限に肥大化していたのがこの辺であり他でもそうである。

そうかといってももう三野混沌の時代にもどりそんな生活ができるかとなったら農民すらできないのは常に農業が金にならないと嘆くことでもわかる。
そんな極貧の生活を誰もしたくないしそれをやれということは命令することはできない
ただなぜそうした過去の生活が見直されたかというと故郷を失ってもいいのかという深刻な状況が生まれたからこそである。
故郷に暮らせなくなるということがどういうことなのか?
それはまだ自分の場合は暮らしているからわからない、その心境がどうなっているのかわからない、それでも故郷に帰りたい毎日泣いているろ老婆がいるとかは聞いている。
ある人は家族がばらばらになるなら蝋燭で暮らした方がいいという極端なことを言うようになったのも原発事故のためだった。
それなり三野混沌のような極貧でも故郷に住めなるいいという感覚になるのである。
要するに津波であれ原発事故であれはそれは様々なことを考えさせられるものとなった。その一つが三野混沌のような昔の生活も見直される結果になったのである。
しかしそんな極貧の昔の生活にはもうもどることはできない,ただ江戸時代でもそうだが現代を対比して見るとき現代が見えてくるものがある。
だから人間は常に過去を歴史をふりかえり現代を見直すということが必要なのである。

タグ:三野混沌
posted by 老鶯 at 09:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2015年06月18日

「心に青雲」では自然循環論を言っても東京の暮らしは全く反している (文明人はみな自然と相反して生活している)


「心に青雲」では自然循環論を言っても東京の暮らしは全く反している

(文明人はみな自然と相反して生活している)

だいたいシャケの体の6割は森に棄てられる。一頭の熊が1年で平均700匹のシャケを森に棄てる。
 そういう時期に森に入ると、すごい腐臭がただよっている。
 森中に白いコメがまいてあるようになっているが、それは腐ったシャケの死骸にウジがうごめいているのだ。
 それをさらに鳥が来て食う。鮭の死骸は10日間で白骨化し、翌年にはそれも消えてなくなる。ネズミが食べ、鹿がかじり、昆虫がたかり、微生物が分解する。
 熊がいて鮭が登ってくる川がある森はとても元気だそうだ。
 鮭が海の栄養素を運んで来て、その死骸は山に還元されていくからだ。
 http://kokoroniseiun.seesaa.net/
 
 
C・W・ニコル氏のことを「心の青雲」でとりあげている。これは自然には無駄なものは何もないということを無駄にしないということを具体的な例でとりあげたからわかりやすい森と川と海は別々なものではなく一つの生命体として連続して連環してあるというのはわかる。
でもそこで問題になるのは文明人の矛盾しているのは自分もそうだが東京という大都会で暮らしているとその生活がそうした自然の連環的な生命のリサイクルの中にあるのとは全く違ったものとして生活している。
東京でそういう森も川も海もないのである。だからそういうところでそうした自然を認識するのかとなる。
東京だと最も自然とかけはなれた生活をしているのである。
そういうことに感心するのはわかるけど現実の生活は全く正反対の生活をしている。
田舎だと山を神としたのは山から田んぼに水が流れて稲を実らすからである。
それで春になると山から神がおりてくるというのは水が流れて田んぼをうるおし稲を実らすからそうなる
そして死ぬと山に還るというのはそうした稲作と深く関係した生命の循環的思想はその生活から生まれたのである。
田舎では田んぼがあるから農民でなくても何かそういうものを意識する。

ところが東京のような大都会になるとそもそも田んぼもないのだから意識しようがないのである。
でも江戸時代では江戸の回りは自然豊かであり農民が住んでいて糞尿を農民が肥料にするために取りにきていたのである。
農業は肥料がともかく一番大事だからそうなった。
つまり江戸だったら都会で生命の循環的生活をしていたからそれは具体的なものとして
実感としてわかる。
でも今の東京でそうした自然のことは理屈としてわかっても実感としてはわからない
遠くの世界として感心しているだけであり現実の生活は正反対なのである。
毎日膨大なゴミが捨てられているしそれが家事では一仕事なのである。
それは東京でなくてもどこでも同じである。
文明人としてみんな生きているのでありそのシステムの中で生きている。
人間はつくづく自分もそうだが言っていることとしていることが必ず矛盾してくる

「心の青雲」の著者は東京に住んでいる。すると東京電力の電気を利用しているしそれを供給した場所がフクシマでありそのためにフクシマは住めなくなるまでになった。
循環的生命論を言うなら東京はそれと全く反した所に生きている。
東京を維持するには膨大な電気が必要である。文明を維持するにも必要である。
そのために石油が必要になり原子力が必要になる。
もちろん田舎でもそうした文明の中に生活しているのだから電気は必要である。
ただ東京にはどれだけの電気が必要なのか?
それだけのエネルギーを消費することはすでに循環的生命の世界とは正反対の社会なのである。
そして放射能はたいしたことはないと最初から言っていた。
それはわからないにしてもそれも無責任だろう。
東京に電気を供給するためにフクシマで事故が起きた、そして放射能はたいしたことがない、普通に生活すればいいとか言うのは無責任になる。
だから何かそうした自然循環論の生命論を説いても矛盾している
それは自分にもあるし何か矛盾していることは必ずある。
自分も資本主義を批判しても資本主義でもうけているから得しているから資本主義が実際はいいとなる方なのである。

だから人間は口で言うのと理論とは必ず矛盾してくる
要するに東京のような所に住んでいる人は自然とは切り離されているからもともと自然とは関係ないのである。
でもフクシマでは田畑があり海があり漁業があり林業がありと自然と関係しているから放射能汚染で致命的打撃を受けたのである。
東京の人もまたフクシマの事故には関係していたし現に東京の水源も汚染されたとかあるそして東京は東京で都会は都会で田舎は田舎で地方は地方で暮らせとかはならない、
フクシマなら東京から離れているから汚染しても東京までは及ばないという感覚でフクシマに原発を作ったことがそもそも疑問だった。
東京の電力は東京で作ればいい、原発も東京に作ればいいというのも正論だったのであるそうすればかえって今回のような津波のような事故にはならなかったのである。
もちろんフクシマにはフクシマの問題がありそれはこれまでも書いてきた。
それより原発は広範囲に影響するから日本全体の問題でもあった。
いづれにしろ生命循環論を語るなら東京に住んでいて語っても説得力がないことは確かである。

体内に「生命の歴史の水」を保持するということである

歴史の水というのも何か新鮮な表現である。水にも歴史性があるとか原子も古くなっているとかいうのも何か理系的なものを文系的に解いているから自分は文系だから納得する。そういう点では新しい視点をもたらしたことは確かである。
人間の特徴は歴史的存在であり日本人は人種のことではなく日本の歴史の中で作られたのである。
歴史というのは例えば原発事故で三野混沌の極貧の生活を見直されたように常に歴史をふりかえり対比して現代を見るのである。
自然にも歴史があり津波にも歴史をみればこの辺でも大きな津波に襲われて四〇〇年前に七〇〇人溺死の記録があった。
そういうことが全く忘れられていたから歴史をふりかえることが忘れていたからこれだけの被害があったともなる
「生命の歴史の水」というとき「人間の歴史の血」というものを歴史的民族はもっている。
それは血統というのではなく長い歴史で培われたものが時代を経てももちつづけるということである。
血とは地のことでありその土地から受け継ぐものだからそうなる。

人間は一時代を一世代を生きただけではわからない、長い歴史を連続したものとして人間をみるとき人間がどういうものか理解する。
動物は歴史をもたないから進歩も発展もないとなる、いつも同じなのである。
歴史は必ずそれが教訓でありその教訓からいかに学ぶかが人間なのである。
だから最近七年間いろいろと苦労して諺というのがいかに今でも通用しているかわかったそれは庶民が伝えたにしろ人間とは今も昔も変わらないものがあるから通用している。
「遠くの親戚より近くの他人」というときその遠くは隣の村でも車もないのだから遠かった。
これは別に交通が便利になっても変わらなかった。
遠くの親戚というより東京でも何か大地震などが起きた時、即座に助けられるのはやはり近くであり遠くではできないし外国が助けるとは限らない、つまり東京でも何かそうした大災害にあわないと田舎などどうでもいいとかなる。
でも今回の東北の災害でわかったように想定外のことが必ず起きるということである。
だから災害の観点から社会を見直すことも必要になったのである。

諺は庶民は残したものでも深い真理があった。
それが今でも通用するということは人間自体が文明化しても変わっていないということなのだ。
だから諺は真理であり馬鹿にできないと思った。
学問もむずかしくすると理解できなくなる。「相互浸透」とかは朱に交われば赤くなるとかのことであり弁証法は何かとなるとそれももっとわかりやすくすれば理解できる。
ただ科学にも詳しいとなるとそこで浸透というのは化学反応のようにイメージしているのだろう。「朱に交われば赤くなる」というのは化学反応でもあるからだ。
学問はどうしてもむずかしい言葉を使うから庶民に敬遠される。
真理でもそれは単純なものとして表現できるのである。だから弁証法となると別に庶民でなくてもとっつきにくいのである。



タグ:心に青雲

2015年06月20日

夏の日々(相馬市の道の駅までー2)


夏の日々(相馬市の道の駅までー2)


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これは岩袋ではない、名前がわからなくなった

ここまでクリック拡大

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老鶯や離れつ藪に鳴きて暮る
老鶯やいつもの道に雨しとと
青葦の伸びて長きや風そよぐ
紫陽花や朝に水滴色づきぬ
遠くへと6号線に立葵
旭川のナンバーのあり夏燕
クローバーの匂いや夕べ走り去る
道の駅燕の雛の育つかな
一等星我に煌めく夏銀河
夏銀連なる星の一つかな
蠍座の赤く光るや夏銀河
全天に頭めぐらし夏銀河

雨の後塀よりあふれ山帽子風にそよぎて朝の日まぶし
この道の木陰のつづき五本松道の駅にし我も休みぬ
鹿狼山見えて青田にそよぐ風涼しや道の駅に行くかな
葦茂る青々として瑞々し悠々として風にそよぎぬ
街道に残れる松や夕日さし岩袋咲くこの道帰りぬ

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クリック拡大しないときれいに見えない

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このところ一週間は雨や曇りから前は晴れもあった。気候の変化が今年は激しい
この辺はまだ梅雨ではない。梅雨らしいという日もあった。
それで昨日は曇りであり雨もちょっとふるとかあった。
この辺ではまだ自然があるから老鶯がそれぞれ離れて縄張りをもち藪に鳴いている。

今日は晴れて朝まぶしく日がさして紫陽花の葉に水滴が光っていた。
それから相馬市の道の駅の方にまた行った。
青田に気持ちよく伸びた苗がそよいでいる。
遠くには鹿狼山が見える、新地まで相馬郡だったから鹿狼山見えるということで新地も相馬なのである。
ただあそこは伊達藩との境目である。

この青田の脇の道は長い日影の道となっているから気持いい
そして五本松があるから何かあそこが落ち着いて安らぐ場所なのである。
道の駅では遠くからの人が集まる。
この前は釧路であり今回は旭川のナンバーがあった。
工事とか除染関係ではないらしい、太平洋フェリー苫小牧からくる
燕の雛が盛んに鳴いて口をあけている
夕べは昔の街道の松がありそこに夕日がさし岩袋が咲いていた。
この辺では田んぼが増えたが原野化している所がまだ多い
だから田んぼの代わりに一面にクローバーで埋めつくされている。
それは北海道の光景である。
だかちクローバーというと北海道を思い出す。

今頃の葦は青葦である。
瑞々しく青々として悠々と風にそよいでいる。
梅雨の時期は必ず行っていたそれも長いのである。
今になるとつくづく恵まれていたなと思う。
旅に出たら一月くらいは帰ってこなかったからである。
だから北海道には思い出深い場所となる。

夜も自転車で走り走りながら銀河を見る、夏銀河というとなにか秋の銀河とも違って宇宙が輝いている。無数の知らない星が輝いている
プラネタリウムではとても現実の星のようには見ることはできない
自然は常に新鮮なのである。やはり夏は瑞々しいとか青々としたという感覚になる。
命が輝いている、それに感応するのが人間である。
自然に本当に感応するならゴッホのようになる。
それだけ人間の感受性が弱いから今一つ自然の強烈な命を表現できないのである。



 
タグ:青田

2015年06月21日

立葵の抽象画化したもの (抽象画には演繹法と帰納法が適用されている)


立葵の抽象画化したもの

(演繹法と帰納法が抽象画に適用されていた)


 
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演繹法は抽象化された事柄を具体例にあてはめること

帰納法は具体例からそれぞれに共通する性質をぬきだして抽象化すること

抽象画を見てこれなんなのだろう

「花ににているよな、特に立葵にているんじゃないか?」
「そういえばそうも見えるな」
「これは立葵だ」よ
「見ればわかるよ」
「でもこれは抽象化すると円にもなるし炎のようにもなる」
「それは言えるな」
「それから色は赤とかピンクだね」
「白もあるけど」
「立葵は色が鮮やかなのいい、夏らしくて・・・」
抽象画を解析する、理論化するというこいうことになる
花だったら円という形になりやすい、性質としてはそうなる
他にも円になるものはあるけど
基本的に性質は四角とか丸とか三角になる
色はまた別な要素である。

その性質を基にして抽象化すれば帰納法になる
抽象化されたもの、抽象画を具体例にあてはめるのが演繹法である


タグ:立葵

全国賃金時給分布からみる差 (データーを素人でも見るインターネット時代)


 全国賃金時給分布からみる差

 (データーを素人でも見るインターネット時代)


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平均賃金

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時給



鹿児島なんて最低賃金時給600円台半ばチョイくらいだよ。
で、地元じゃわりと大手の企業でも平気で最低賃金、サービス残業とかまかり通ってるよ。
 本当に生活保護が勝ち組みたいなレベル。
こんなんだから、鹿児島はパチンコ屋が異常に多い。
 市内中心部の一等地も立体駐車場完備の大型パチンコ店が多数進出していて、観光も多い県なのに本当に恥ずかしい、情けない景観。
 所得低いから金を安易に増やそうとパチンコ屋に入り浸る人が多い。
もちろん、ちょっと暇つぶし、気晴らし程度で2、3千円程度楽しむだけの人もいるけど、老若男女問わずパチンコ人口多いのは鹿児島の最大の恥。

中国人が「日本製品やっす!」「日本女やっす!」と爆買いするのを
「爆買い有りがたや ありがたや」と揉み手で迎える。
 戦後、米軍トラックを「ギブミー!」言いながら追いかけてた時代に逆戻り。
アベノミクスで見事に日本は三等国堕ちw
台湾、上海あたりの最低賃金っていくらなんだろ
地元民が食べる屋台のランチのヌードルですら一食日本円で1200円くらいだよね
日本は貧乏くせえわなあ、最賃、700円とかだろ?
 人の価値が安い国。


 中国人も逃げ出す日本の低賃金
 中国人の研修生はどんどん数を減らして東南アジアの研修生が増えている
彼らもご存知の通り日本の低賃金にすっかり騙されたと
失踪したり訴訟をしたり散々な状況



インターネットで変わるものは相当あった。ただそれが個々人ではなかなかインターネットは意識されない。
そもそもも物の値段だとわかりやすい、毎日買い物しているから物価には敏感になる。
アスパラガスは好きだから毎日買っている、国内産だと三〇〇円とかなると高い
今日は外国産が置いていなかった、メキシコ産など国内産の半分とかだった
この値段の差がどこから出てくるのか?
それはグローバル経済だからこそでてくる値段なんだよ
最近は外国産は円安で食料でも高くなっているから前のように買いずらくなった
輸入品が高くなり食料品も高くなる、これもまた当然なのかもしれない

そもそもグローバル経済では外国産は安くなりすぎていたのだろう
日本だったら食料でも人件費やなにやらで高くつく、種が上がったとかで農家の人も嘆いている 肥料だって輸入していれば高くなる
ただ食料品が高くなることは国内産にとって農家などにとっては有利になるだろう。
それは外国産が半分の値段とかなっていれば競争できないからだ
もし外国産と国内産がさほど変わらないとなれば日本産を買うようになる
つまり日本の農業にとっては円安は歓迎だとなる、それは生産者にとってである
まず経済とか景気感とかは個々人によって地域によってみんな違っている
アメリカで時給を一八〇〇円にするとなるとこれは高いなと思う
でもこさを日本と簡単には比べられないみたいだ
それでもアメリカが景気がいいというときアメリカに投資してなぜ分配金が高いのか驚いた
そういう株とかでもうけたことがないからである
だから資本主義とは元金が資本があるともうけられんだなと実感した
時給とかで働いても今や正社員でも賃金が高くならないからである。

その資本とは国内だけではないグローバル経済の中で活かさないともうけられないのである。
グローバル経済がいいの悪いのという前に世界の現実がそうなってしまっているのであるだから会社で時給で働くより株主になって配当金をもらった方が資本主義では得なのである。だから資本主義はとにかく元金がないと資本がないと得しない仕組みだとなる
賃金とか時給の差をみるとやはりその県の経済事情が反映している。
東北だと経済力は宮城県が一番であり次に福島県がいいのである。
ただ福島県は前は浜通りとか中通りと会津には差があった。
だからその県内でも差がある
一番ひどいのは青森県とか常に言われてきた。
それは全国の賃金差でも時給でも同じである
東京近辺は神奈川とか千葉とかはやはり高い
大阪近辺でもそうである。なぜか近江では賃金は高くても時給が740円では安いと思った
やっぱり大阪や京都から離れているのが影響している?

福島県が賃金で88は九州や四国より高い、原発事故後はこの辺は人手不足で飲食店では1000円を越えているがコンビニではそれほどでもない、飲食店は結構仕事がきついということがあるからだろう。
富山石川福井長野は賃金は福島県より高い、茨城、群馬、栃木なども高い
これは関東圏は高くなっているということだろう。
全国を地域別に見るのは別に経済力だけではない、いろいろなものに県別や地域差はあるただこれも全国を旅してその土地柄を地形など知らないとわかりにくいだろう。
まず神奈川などは本当にわかりにくいし他にも福島県なども広くて福島県に住んでもわかりにくい。
全国を旅したらその土地が歴史的文化的にどういう土地なのか興味をもつ
一回でもあそに行ったなとなると興味をもつ、それは外国でも同じである。

日本は相当におちぶれて衰退してきている、なぜなのか?
日本には何か欧米のような独創性がないからかもしれない
でもアジアはアメリカでも留学生でも成績がいい
特に数学の成績がいい、その理由は稲作と関係していたというのも面白い
農耕民は努力型であり欧米のような狩猟牧畜民、遊牧民と違っている。
そのメンタリティはなかなかわからないのだ。
なぜ欧米が主導権を握ったかというと何か新しいものを発明して作り出す能力は欧米人が優れているからではないか?
こつこつ努力型には何か天才的ひらめきで新しいものを作り出す能力に欠けている
それでITなどでも遅れをとった
今やロボットがニュースの記事を編集して書くということすらコンピュターでできるという。人工知能の進化は進んでいる
人間はやはりデーターが手元にあれば素人でも分析しやすくなる
こんなことを書けるのもインターネットの情報の流通によって書ける

ネットで面白いのは地域差があって地域から地方から発信されることにもある
マスコミだと中央よりだし取捨選択も何か視聴率にだけこだわるからかたよる
そしてマスコミは権力機関の政府でも団体でも宗教でも大企業でも広報機関なのである。宣伝費をそうした大きな団体からもらっているからそうした大きな団体はたたかないのである。
だからマスコミからだけでは真実はわからないのである。
ともかく情報は無限大でありそれをどう見るからはやはり個々人で判断するほかない
そのためには資料が必要でありネットでも交流が必要になる
ただネットでの交流は会話になるとめんどうだし若い人に老人はついていけない
自分は前もそうだったが今や会話することが一番労力を使う
相手となんらか合わせなければならないしめんどうになる
だから今は家事から介護からで毎日追われているからその余裕がないからいちいち答えられない、その時間の余裕がないのである。
ただプログだと時間をみて書きづづけている、発信できることを主体にしてそこにエネルギーをそそいでいるのである

とにかく日本は衰退してゆくとき、海外旅行でも中国でさえ高くなっている
カンボジアやミャンマーなどが残された安い国になるが海外旅行すら自由にできない時代になっている。
それで逆現象が起きている
日本人が中国人でももてなす時代になる、女性も安く中国人に遊ばれとかなる
それは日本人かさんざんしたことだから自業自得でありカルマである。
国にもカルマがあり必ずカルマが厳しくのそのツケが支払わせられるのである。
すでに日本人のいい時代は終わったということかもしれない
なんとか安いとき海外旅行に行ったのが良かったともなる
人間はチャンスを逃したら二度ともどってこない
その時にやるべきことをやらないと絶対にはもうできなくなる
このことは若い人は肝に命ずるべきだ
例え金になるしとてもそこに時間を費やして後で後悔する人も多い
結局人間の最後は結末は想定外、計算外のことが必ず起きる
今度の津波や原発事故もそうである。
何か計画していたものが一挙に破綻したりして計画通りにならないのが人生である。
世界情勢なども今後どうなるかわからない、結構若い人にとって厳しいものになってゆくのかもしれない,徴兵とかなるのかもしれない
国が破産状態になったりとこれからは日本は厳しい局面にたたされる
団塊の世代は特別恵まれていた時代に生まれたともなる
自分も特別私的にも恵まれていた、ただ二十代は危険だった
底辺労働で危険な死に目にもあっているから危険だった
それも別にそこに追い込まれたというのでもなく自らそういう場所に飛び込んだのであるそれも経験だったということである。




タグ:時給
posted by 老鶯 at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2015年06月22日

東電は津波を来るのを予想していた (コストがかかるとか経営陣が対策をとりやめていた)



東電は津波を来るのを予想していた


(コストがかかるとか経営陣が対策をとりやめていた)




東電は08年春、社内の研究で、明治三陸地震が福島沖で起きたと仮定、想定水位5・7メートルを大幅に超え、
 最大で水位10・2メートル、浸水高15・7メートルの津波の可能性があるとの結果を得た。
 新たな津波評価を受け、原子力・立地本部の幹部らが対応策を検討したが、
 設備を主管する原子力設備管理部は「そのような津波が来るはずはない」と主張。同本部の上層部もこれを了承したという。
 実際にはこの津波評価が的中した形となったが、
原子力設備管理部の部長を07年発足時から昨年6月まで務めていたのは、
 皮肉にも現在、福島第1原発で陣頭指揮を執る吉田昌郎所長だった。
http://megalodon.jp/2011-1128-1551-43/www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20111128/dms1111280716000-n1.htm

東北電力は第一原発のすぐ北で小高浪江原発の計画をしていて、
 今回クラスの津波が来ていたことは調査で分かっていた。
 (東北電力は掘って津波の痕跡を調べていた。
 東電が津波を知らないなんで嘘でしかない。

やっぱり理系は優秀だから、正しく事態を見抜いていたんだな。
たしか、東日本大震災前に
福島県議会で、津波の危険性を指摘したけど
東京電力はシカト


そもそもこういうふうに津波の話題がでていたこと自体あまり地元でも関心がなかった
もし津波に対して東電で警戒していたとか話題になれば地元の人も津波が来るんだと
警戒したからそれで今よりは命も助かったかもしれない
福島県浜通りでは特に津波の伝承もなくほとんど関心がなく津波が来ないものだと思い込んでいたからである。
だから自分も前になぜ理系集団の東電が津波をポーリング調査で科学的に証明して学者が東電に警告していたのにきかなかったのか疑問だった。
実際はそうではなく津波が来るのを想定していたのである。

その点東北電力が違っていた。小高で津波の痕跡を調べていたという、それだけ津波に警戒感をゅっていた。女川の原発は津波に警戒して作り辛うじて助かった。
でも不思議なのはもし小高でそうして津波の痕跡まで見いだそうとしていたら
地元の人でも津波はこの辺でも来るのと警戒しただろう。
もし東電でも津波を警戒して防波堤を作っていたらあんな高い防潮堤を作ったのだから
そんな津波が来るのと驚き警戒しただろう。

確かに相馬市の松川浦の奥までボーリング調査して津波の痕跡の砂が発見された。
そんな奥まで来たのかと驚くものだった。
だから相馬市でも浜通りでも津波が来ないということはなかったのである。
ただそうはいっても津波には関心がなかった
それは東電とか東北電力とかなるとかやはり科学者の集まりだから違っていたとなる
そういう優秀な理系集団であったがその理系的なもの科学的追及心とかが活かされなかった
経営コストととかが幹部でかかわると政治家もかかわりとめられた。
そこには政治的なものや経営がかかわり科学的なものが活かされなかった
科学は客観的真理であり政治とか経済的コストととは関係ないものがある
それでガリレオはカトリック教団に攻められてもそれでも地球が回っていると言った。
つまり政治的なものやその他経営的コストなどに左右されないのが科学的真理なのである
もう一つは重大なことがマスコミでは取り上げないし報道しないことがある
福島県の新聞などもそうである。完全に官製報道でしかない
福島民報でも聖教新聞をすっているからもう東電でも宣伝費を出す所は批判しない
それで福島財界という本が最初原発に批判的な記事を出していたがすぐにとりやめた
それは東電から相当金が回ってきたのだろうと取りざたされた
そもそもあのような月刊誌が成り立つ資金など販売から得られない
すると宣伝費で成り立つから政府とか大企業にはさかえらないのである。

いづれにしろもし東電で津波対策して高い防潮堤を作ったらそれは新聞でもテレビでも隠すことができないし報道される
する地元の人もあんな高い防潮堤が必要なのか?
そんな高い津波が来るのかと驚いたろう
そしてもしそれが津波の警戒をうながしたら被害があっても少なくできたということもある。
そもそも津波に対してあまりにも浜通りでは無関心だったからである。
だから原発はかえって津波に対する恐怖を勘気するものとなったのである。

そして小高と浪江の間に東北電力の原発が作られるすでに工事がはじまるとういことにも無関心だった。
小高だと隣の原町でも鹿島でも相馬市までも避難区域になったから恐怖だった。
これもまた無関心だった。
ただ今回東北電力が作る所の高台は津波をまねがれたから東北電力は信頼できるとはなる東電と東北電力の差は津波に対する危機感が違っていたのだろう
それでもやはり東電となると理系の優秀な集団であり津波を予想していたのである。
それでも津波対策ができなかったのはなぜなのか?
やはり政治家とか経営とかがからみコスト的に損だしさけていて津波にあってしまった。
吉田所長の責任も重いものだったのか?
理系でありやはり津波のことを知っていてもその対策をしなかった。
吉田所長が責任を感じて最後まで原発に残ったというのもそのためだとかなる
現代は国の責任もあるけど大企業となると国なみの力をもつようになった
トヨタがすでに国ではないかとも思う、だから財界によって大企業によって国が左右されやすい、東電は一つの国の中の国だったのである。
権力関係では政府より力があり検察もとりこめる力をもっていたのである。
だから未だに東電の社長も会長も罰することができないことでもわかる。
それだけの権力をもっていたのが東電だったのである。
保安院などは単なる飾りであり官僚の検察でも天下り先が東電だったのである。

権力の怖いのは例え科学にかなわないことでも理不尽なのことでも権力でノーとなれば
それが通るのである。
官僚に不満があるのは民間会社の人がそうした権力でやれることもぃれなくなるからである。
そしてその権力に対抗するのは誰もできなくなるとき権力が暴走するのである。
自分の本でも図書館に置けないとか地方の役人でも権力をもっているのである。
創価でもなぜあれほど権力追及なのかとなれば権力でおいしい思いができるからである。だから東電の宣伝を聖教新聞でも積極的にしていた。
そういうふうに権力と癒着することが腐敗をうむ
そういうことは戦時中も特高とかいてとりしまられていたのである。
だから巨大な権力を誰が制御するのか?
政府も大企業の言いなりになり検察もそうでありマスコミもそうである。
結局誰もできないから津波が罰したとまでなるのである。
天により神により罰せられという他ないのである。


 
タグ:東電
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