2015年06月01日

「大和心」と「大和魂」は全く違ったものだった (吉田松陰の大和魂は戦争に結びついていた)



「大和心」と「大和魂」は全く違ったものだった


(吉田松陰の大和魂は戦争に結びついていた)



敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花 本居宣長


大和心と唐心を日本語を分けて日本の心を探求したのが本居宣長である。
吉田松陰は大和魂にしたが大和心とは違っていた。
その時欧米は驚異でもないし敵対しないから純粋に大和心だった。
大和魂になるとそれは日本意外の国に対して「大和魂」」を示すということで攻撃的でありと平和を感じない。
吉田松陰はアジア侵略の基の水戸学や平田篤胤の国学を学んでいたのである。
それが太平洋戦争につながっていたのである。
ただ本居宣長の歌は戦時中は利用されていた。
「敷島」「朝日」とかのタバコが売られていたのである。

いづれにしろこの歌の良さは極めて日本人の心情に訴える歌だった。
日本の自然の美の代表である桜を歌っていたこともある。
その桜も染井吉野とは違う純自然の山桜だからまさに日本の美の極致ともなった。
桜とか富士山とかは日本人の心ともなっている。

真直なる富士の姿や今日も映ゆ美しき日本正すべしかな(自作)
http://musubu2.sblo.jp/article/130457064.html

真直なるというのが大和言葉であり大和心なのである。それは日本の自然の中で汚れのない、真直なるということである。

飛騨たくみほめてつくれる真木柱立てし心は動かざらまし賀茂真淵

この歌のいいのは飛騨のたくみというのは万葉集にもでてくるから古いのである。

かにかくに ものは思はじ 飛騨たくみ 打つ墨縄のただ一筋に (万葉集)
 
 飛騨の歴史
http://panoramahida.iza-yoi.net/hidatakumi.html

この伝説で面白いのは飛騨の匠と争ったのが百済川成はそうである。
当時は何でも渡来人の方が技術的に上だし渡来人を通じて技術が入ってきた。
だからここで渡来人と争った伝説があるのは日本にも飛騨の匠がすでにいて
その技術を競ったとなる。
真木柱というときその柱は国産であり飛騨にとれたものとなる。
つまり技術も国産でありその資材も国産だということに大和心があるとなる
外国から取り入れた技術でも国産化することに大和心が生まれる
漢字をカナにしたしたのもそうである。

飛騨の匠の起源

薬師寺・法隆寺夢殿・東大寺など幾多の神社仏閣の建立に関わり、平城京・平安京の造営に活躍して日本建築史の黄金時代の一翼を担ったのでした。現在も奈良の橿原市に飛騨町がありますが、高山の町並みを思わせる小ぎれいな木造家屋が軒を連ね、また大和路には飛騨と共通する地名が多い事から、飛騨から上京した人たちが現地にとどまり土着化したものとも考えられます。

いづれにしろ大和心と大和魂は根本的に違っている。
大和心は平和的てあり大和魂は戦闘的だから戦争で称揚された。
大和心にはアジアを侵略する意図などその時なかったのである。
ただ文化的な相違として大和心と唐心を分けて追及したのである。
だからそもそも戦争と結びつくようなことはありえなかったのである。
つまり吉田松陰の

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

この歌は何かわかりにくい、大和魂とは何なのか?これは大和心とはまるで違っている。
これは非常に危険なものをふくんでいた。それはアジア侵略のために利用されやすかった現実にアジア侵略の思想があり歌われたのである。
戦争で日本人が戦い死んでも大和魂はとどめおくともなる。
大和心は別に世界でもそれぞれの文化がありそれを主張することは否定できないし
それがなくなればその国の文化もないのである。
大和心を世界に示すというとき今の「和の文化」がそうでありそういうものは別に平和の事業であり世界に宣伝してもいいのである。
でも「大和魂」となると「大和心」とは違う戦闘的なものとなってしまう。
それは吉田松陰によって日本人の心に植えつけられた。
だから吉田松陰の功罪があっても功の面ばかりが戦前でも戦争中もとりあげられすぎたのである。
大和心は「和の文化」は受け入れられも世界にそうした侵略的な思想は受け入れれない。明治維新もだから今見直されている、太平洋戦争がすでに明治維新の吉田松陰の時から予定されていたのである。
吉田松陰を神格するということは危険なものだったのである。
つまり江戸時代から明治になるとき「大和心」が江戸時代にあり明治維新で吉田松陰によって「大和魂」になった、その変化も大きかった。それが後の災いの元となったのであるそうした人物をもちあげたしは司馬遼太郎とか明治維新をやたら持ち上げた人たちが今は問われている。
歴史は必ず時がたては見直されるのである。






タグ:大和魂

2015年06月02日

野馬追いの写真はみんな違っている (シャッターチャンスが一回しかないから地元でもうまくとれない)


野馬追いの写真はみんな違っている

(シャッターチャンスが一回しかないから地元でもうまくとれない)


 
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野馬追いの時は梅雨も晴れ夏の雲がでる


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アレンジした

樹に炎が映える

緑の木に映えた赤い炎の旗

下は妙見神だから星の形になり馬が跳ね飛ぶ

野馬追いの旗は様々なデザインなのである。

幾何学的なものがあり現代に通じる斬新なものもある

野馬追いを楽しむには旗を知る必要があるのだ

その旗が多様だからわかりにくいのである。

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白髪の髪は何を意味しているのか?老人なのか?
馬のたてがみのようなものなのか

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前から見るとこんな風になる

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黄色の旗は小高神社

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赤は中村神社(相馬市)

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これはカモメなのか?

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本陣へ

治に居て乱を忘れず
平和な時でも、世の中が乱れた時の事を忘れてはいけない。という意味。
平穏で順調な時であっても、万が一の時のための用意・心構えを怠ってはいけない。

類義 ⇒ 安に居て厄を思う/治まりて乱るるを忘れず/太平にも乱を忘るべからず/文事ある者は必ず武備あり/安きに危うきを忘れず
出典 ⇒ 易経・

君子安くして危うきを忘れず
存して亡ぶるを忘れず
治まりて乱るるを忘れず
ここを以って身安くして国家保つべきなり

君子安而不忘危
   存而不忘亡
   治而不忘乱
是以身安国家可保也

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帰る馬



野馬追いも近づいてきているけど毎年写真とっているけどなかなかいい写真がとれない
必ず違った場面がありそれが一時で過ぎてゆくからとれこないのである。
今いい場面だなと思ってもすぐに過ぎてしまうからとれないのである。
野馬追いには毎年相当遠くからも写真とりにきている人がいる。
雲雀が原の中に入るには前から予約していないと入れない
地元でも毎年見ていてもいい写真がとりにくい
それは動いているのもとるからである。
そしてチャンスは一年に一回しかないからそうなる
野馬追いの写真は多様なのだけどそれがすぐに過ぎてしまいいつもとりのがしてしまうのである。
この写真もデジカメがないときの写真だった
これはこれで貴重なものだった。
一応記録としてとっておくためにパソコンに入れた
デジカメの便利なのは一日の行動が写真で記録されることである。
写真の日記になるのはデジカメがでたからでありせらにスマホで常に日々の行動などが写真化される時代である。
だから写真から何をよみとるかが問題になる
写真には相当な情報が視覚的に見れる、でもその情報が何なのか
例えば野馬追いだと旗の意味しているのもが何かという情報を解く必要がある
でも野馬追いの旗のことは地元でも他でも説明されないしできない
それほど多様になっているのである。
白髪のうよな兜をしているのか、やはり老人イメージしているのか?
茶色の髪を伸ばしたようなものもあり一つの装飾である。

雲雀が原では野馬追いの前の誰もいないところに立ってみたら松だけが目立った
ここにこんな松あったのということが発見だった
松は何か身近であり人間的だし何か忠臣という感じになる
ただ人が混んでいる時はあの松に注目しない
誰もいないから松が注目されたのである。

本陣に旗とる武者の勇み来る雲雀が原や松そ立ちにき
タグ:野馬追い
posted by 老鶯 at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

野馬追いの旗は抽象画になりやすい (漢字が抽象画だから日本でも古くからあった)


野馬追いの旗は抽象画になりやすい


(漢字が抽象画だから日本でも古くからあった)


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この写真を抽象画の旗にするとさほど変わらないし
違和感がないのである


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野馬追いの旗が何を意味しているのか?
具象画なのはわかりやすい、猪であれば勇猛な猪のような武者とかなる
神社とかなればその土地の神社なのだろう。
五輪塔と先祖現しているとか、鎌だったらもともと武士は農民だから農作業していたからだろう。
梯子があれば梯子で城に上り攻めるとか何か意味がある
炎だと炎のように燃える気持を現している
月とか星とか妙見信仰は方角を示す北斗七星である
遊牧民の文化は朝鮮経由で日本に入ってきたからである。
馬というのは遊牧民に欠かせないものであり移動が方角が大事になるから
妙見信仰になった。
抽象画的なものはただ敵と中までも単に区別するために使われた
線が二本なのと三本では違うからである。
一の旗は使いの旗である。
この旗は連絡係なのである。
だから一の旗は一番多い

野馬追いの旗がなぜこれほど多様なのか?
3000もの旗があるのはなぜなのか?
中国辺りでも旗の種類は単純に見える
日本とヨーロッパには城があり旗が多い
ヨーロッパにも旗祭りがある
中国は城ではなく壁で囲んで城壁の内でありヨーロッパとか日本の城はない
こんなにいろんな旗印はない
何かそこにも歴史的な背景がある。

日本の旗には植物的なものも多い、ヨーロッパは強い動物の旗や紋章になる
日本の旗にはライオンとかないのである。
ライオンとか虎は日本にはなじみがない
そもそもいなかったからである。
ヨーロッパにライオンがいなかったとしてもローマ時代にコロッセオで闘技場でライオンと人間を戦わせたり虎と戦わせたりとかライオンを知っていたのである。
そういう伝統の上に紋章がある
紋章文化と日本の紋や旗印の文化はにている。

野馬追いの旗の見方としては抽象画として見るのもいい
自分はこれまでパソコンのソフトでそれをしてきた。
抽象画的なものは漢字がそうであり太陽だったら○にするとかそれが日になったとか
抽象画思考は漢字からすでに生まれているのである
アルハベットからは生まれにくいのである。
つまり漢字は抽象画だから漢字を使う国は抽象画思考に抵抗がないとなる

不思議なのはアルハベットの国では英語でも音の出し方で意味の違いを出しているというこういうことは本当に理解しにくい
文化とはともかく理解しにくいのである。
ただヨーロッパの紋章と日本の紋や旗印の文化はにているとなるとそこから理解するということがある
ヨーロッパに騎士がいて日本に侍がいたということはにているから理解かやすい
中国にも武人はいたとしてもヨーロッパと日本のとは違っていたのである。

 
posted by 老鶯 at 20:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

田んぼが増えて蛙も増え復興を感じた



田んぼが増えて蛙も増えて復興を感じた

 

ヨシキリや田に人ありや暮らしかな
ヨシキリや今日も働く人のあり
久々に夏の星写る夜の田に
復興や蛙鳴きあふ夜の田に
復興や田ごとに映る月円し

田んぼは五分の一に増えた、やはり田んぼが増えると蛙が確実に増えた
田んぼに蛙が鳴き合うのを聞いたのは四年ぶりだった。
これも明らかに復興だった。
田んぼは山間の狭い場所の田んぼは原野になり放置している
もうあういうふうに狭い所はめんどうだからやらないかもしれない
昔だったらそういう狭い場所も田んぼを作っていたのである。
それが狭い国土の日本だった。
原発事故以後は田畑をやる人はへる、手間かけても金にならないしめんどうになるからだすると田んぼも集約的にできるかもしれない
小さく分けられた田んぼは放置されて原野か他のものに変わるかもしれない
米は安いし小さな田んぼをもっていてもめんどうだからやらない

自分の生活はこの七年間に起こったことを延々と書いてきた。
絶えず介護から家事からプログを書くことでも追われてきたのである。
前は三食用意されていたし確かに買い物と風呂くらいはしていた。
他は何もしていないから常に時間が余っていたのである。
今は時間に追われている

ともかく田んぼがなくなるということはイメージすらできなかった。
もちろん津波でもなくなることがイメージすらできなかった。
故郷を離れて仮設で暮らすなどイメージできなかったとか
この辺で起きたことは本当に全くイメージすらできないことが連続して起きたのである。だから田んぼとは何なのだとか故郷は何なのだとか考えるようになったのも
そんなこと誰も考えない、あって当たり前だったからである。
田んぼは田舎の風景であり田んぼがない田舎が考えられなかった。
それは千年とかの単位で田んぼとともに暮らしてきたからである。
蛙が鳴くというのもそうである。
田んぼは自然の生態系の中に組み入れられていて田んぼの水には蛙でも水すましでも何か自然の命が生息できて鷺などもやってくる
原野だとネズミが増えてノスリが増えたのである。
原野化すると雉なども増えていつでも人を恐れずでてきていた。
雉などにも住みいいのだろう。

ヨシキリが鳴いていたというとき田んぼの脇にヨシキリが鳴くのはまだ原野が多いからそうなる
普通ヨシキリは川で鳴いていたのである。
そして今日は満月が光っていた。
これも何か復興を感じた
この辺は4年過ぎて復興しているのだろう。
ただ除染はまだまだつづく
それで外部から来ている人が5000人いるとかも言われる
これは当分つづくのである。
それでにぎわっているように外部から来た人は感じるけど
その人たちが帰ったら火の消えたように淋しくなっているかもしれない
仮設でもいろいろ文句言っていたが鹿島などは小高の人が帰ると相当に淋しくなってしまうだろう。
だから何かこの際小高に帰らせるより老人なんか集めて暮らせるような政策が必要かもしれない
高齢化社会にどう対処するかということで仮設が意外と隣り合って老人が暮らすのには向いていたのである。
小高でも広いからまたばらばらに暮らすというのがかなり困難になっているからである。
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ケロケロケロロ
田んぼがふえた
田んぼがふえた
みんな帰ろよ
帰って来いや
ケロケロケロロ
仲間がもどってきて
みんなで鳴いてうれしいな
田んぼが増えた
みんな帰ってこいよ
ケロケロケロロ

やっぱり蛙の声というのもなじんできたものだから聞けないとういことは異常だった
鷺も見掛けなかった、それが4年もつづいたのである。
自然は意外と復興するものなのか?
田んぼが増えて水があるとたちまち蛙も増えてくる
ただ警戒区域で帰れないところは野生の自然にもどっている
何でも青大将とかのヘビが捨てられた猫を食っているというから不気味である。
チェルノブエリでも狼が増えたきたのだからそういうのとにている
人が住まないと自然にもどるといっても何かそこは不気味なものにもなる
ネズミなどもチェルノブエリでは増えたし放射能の影響もなかったのである。
避難区域ではどうなってしまうのかわからない
時間がたつにつれて元の状態に戻すことはますますむずかしくなるからだ。



 

2015年06月03日

函館の夏の短歌十首(お土産のガラスの壺に花をさす)


函館の夏の短歌十首(お土産のガラスの壺に花をさす)


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函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花 啄木

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これは函館のお土産ではない、安い壺である
でもこれが夏菊とあっていたのである。
フラワーアレンジメントは実際は簡単である。
様々な花を活けてみるとそれぞれの花が映えるのである。
それはなんら考える必要がないのである。
ただ意外と壺が関係している
壺と花を合わせることも必要になる
この夏菊は外でとってきたものである。

それから何か津軽ビイドロは津軽的なものがありその色合いが違ってた。
その地方の特色を出せば売れる
鎌倉彫りも武士がはじめたというのもで何か武士の感覚が伝えられている
相馬では大堀で相馬焼きの窯元があったが原発事故でなくなったのである。
その土地のカラーを出すことがこれから経済的な面だけではなく
地域創生にとって大事なのである。
もう経済的発展は日本には望めない
文化になるとそれは道路を造るとか建物を作るのとは違うソフトの面である
そういう面はいくらでも開発できるということがある
だから文化の面にエネルギーがシフトされてゆく
現実に釜石では工場があっても機械化して地元の人を雇っていないという
もの造りなどは機械化するから人は雇わないとなると
人間はどこで働くのかとなるからだ。


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矢車の花

様々に彩る花や函館の街に船よる夏の夕暮
函館の市電にのりておりる駅白波よせて夏の日の街
啄木の青春の日や明治の日海に響きぬ教会の鐘の音
函館の坂上り下り船とまり夏菊咲きて旅人行きぬ
榎本の五稜郭に陣とりて意気の高しも船は沈みぬ
函館に上陸してそ様々の思いや若き明治の日かな
北海道希望の地なり学びけれ働きにしや明治の青春
函館の交差する通り市電ゆく船も見えつつ夏の夕暮
函館に異人の墓やロシア人ここに眠るや厳かにして
函館に明治の夜明け様々の思い交差し夏の夕暮




北海道というと梅雨の時期に必ず太平洋フェリーで一カ月くらい自由に旅していた。
今考えるつくづく恵まれていた。
別に旅行しても金はそれほどかからない、最初は電車で旅していた。
それからものたりなくなり自転車で旅するようになった。
函館には何回も行った、青函連絡船の時も何回も行った
あんなふうに自由に旅できたのが今になると恵まれていた。
つまり旅に行ったらいつ帰ってこいという縛りがなかったのだ
勤め人だったら一カ月も旅できないだろう。
すでにその時から社会からはずれてしまったし普通の社会生活からもはずれてしまっていたのだ
ただ家庭環境でなぜか自由な旅ができた。
家の人は何にも文句いわなかったからである。
こういうこともあまりないだろう。
今になるとただ記憶をたどる旅になってしまった。

函館は何回も行ったから今でもそこを歩いている感じになる。
何回も行ってそこに深く親しむと何か旅してなくても旅のつづきがイメージの中でつづいているのである。
だから不思議なのは日本全国でも世界でも何か自分はあっちこっち旅していている
心が日本全国に浮遊して世界に浮遊してそこにあるという感じになるのだ。
だから今は全くすぐ近くにゆくのも容易ではないが
心は日本全国を浮遊して世界にも浮遊している不思議があるのだ。

旅したときはその場所がどういう歴史があるとかなかなかわかりにくい
でもあとからなぜかその場所について理解が深まることがある
それは全部ではない、旅したある場所が特別思いだす
函館は春にも夏にも行ったし冬まで行っていたのである。
北海道は冬にも流氷見るために行っていた。
だから自分はだいたい全国の人とあうと住んでいる場所を聞くとイメージできる
最近この辺では工事関係者とか除染の人が全国から来ている
時々その人のことを聞いてみてその人がどういう場所に住んでいるかイメージできる
ただ富士山を毎日見て暮らすという人の場所はイメージできなかった
全部ではない、イメージしやすい場所とそうでない場所がある
京都とかこみ入った所はイメージしにくい
ただ近江は自然環境があり琵琶湖中心にイメージしやい場所である。
だからそういうところは思い出して短歌や俳句や紀行文でも調べて書けるとなる

まずその場所についての地理的空間的なもの時間軸の歴史的なものを知るのが大事である函館には明治の青春が凝縮された場所でもあった。
あそこに上陸して北海道に開拓であれ向かったからである。
北海道の玄関なのである。
ただ新幹線が通るというとき地下から北海道に行っては旅情がそがれる
なぜなら函館は船がよる港として栄えたからである。
船なくして函館の価値はないのである。
だから青函連絡船がなくなったとき一つの歴史が終わり函館はさらに過去のものになった函館の今は一番生活保護者が多い
それは経済的に衰退している街だということである。
北海道全般がそうだが函館が今がそれだけ衰退しているのはやはり北海道全部がそういうイメージになる
新幹線が通ったら来年になるけど今度は観光客が来るという
青森の人は青森を通過してしまうから困るとかも言っていた。
それでも函館は船が欠けたら魅力がない
船でゆくとき港だったのだから函館の昔と今も感じるのである。

ともかくなんらかその場所について語るときはやはり相当にその場所とコミットメントしないと書けない
それだけの暇がある人はまれである。
そうなると旅行作家にもなるが旅行作家でも一生旅ばかりしても深いものはなかなか書けない
たいがい一つの場所なら何回も行きその度に感じるものが違って新たな発見がありいろいろあとで歴史的なものも時間をかけて知るようになる
つまり何かを理解することはその場所でも時間がかかるのである。
一番何でもそうだが理解が深まるのは60以降である。
その頃になるとたいがい本を読んでもすぐわかる
十冊の本を読んでもすぐ要点がわかるのだ。
自分はばらばらに本を積んで最近はアマゾンでも自分の書きたいことを調べるためにもそのつど買っているからまた本が増えた。
それでもつれづれなるままに本を手にとり要点だけを読んで利用しているのだ。
一冊をじっくりと読むのもいいが本はやはり知識はあることについて理解を深めるには多様な知識に接することも必要になる

それを理解する基礎はやはり旅などをして実感を多くもつことなのである。
肌で感じたことは忘れないし思い出すし血肉になるのである。
本だけを読んでもテレビを見てもインターネットでもその場所に行かない限り実感にはならない
でもそれだけ理解を深めるとなると旅するとなると一生が終わってしまうのである。
自分はいつのまにか旅しているうち人生も終わりに来ていたのである。
人生はそれだけ短いのである。
何するにも時間不足で最後はできない
あの時はあんなに暇だったのに今になると時間があっというまに過ぎたとつくづく思う
そして人間はいろんなことができるようでできない
何か一つのことを習得するにも時間がかかるからできないのである。
まず結婚したり子供をもったり他に何かしていたり無駄なことをしているとあることに集中できない、人間はそんな時間がないのである。
家庭をもって勤めて子供をもったりしたすでに自由な旅などできないのである。


タグ:函館

2015年06月04日

NHKの昼の川俣町「山木屋」の避難者のこと (仮設に住む小高と共通していることが多い)


NHKの昼の川俣町「山木屋」の避難者のこと

(仮設に住む小高と共通していることが多い)

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それで今日昼間のNHKのテレビで川俣の山木屋のことを放送していた。
あそこも避難区域になっていた。
飯館村から近いのだが川俣町になっている。
あそこは自分も飯館村から塩の道をたどり良く行っていた。
一応小さな店もあったし食堂もあったし学校もあった。
あそこては葉たばこなどを栽培していた。
葉たばこは阿武隈山地では多かった。

そして川俣町の中の仮設に住んだ人が山木屋は寒いといっていた。
川俣町と山木屋は変わりないと思っていた。
飯館村は寒いことはわかっていた。
気候は近くても違っているものだと思った。
山木屋で納豆を作っていた。その豆は山木屋であり飯館村でとれたものなのである。
それでないと味がでないし特産品にはならない
地産地消にならない、飯館村は寒くても大豆の生産には向いていたのかもしれない
凍み大根などは特産品になっていた。
それは寒いからこそ味が出るものだったのである。
若い人で農家の跡を継ぐという人がトルコ桔梗などの花栽培をしたいと言っていた。
花は放射能の影響がないからである。
大内村でも花栽培を勧めたことでもわかる。
葉たばこなどは相当減っているだろう。花栽培は現代的なのだろう。


川俣町については何かなじみがない、相馬藩でなかったということもある。
川俣町には飯館村から坂を越えてゆくが川俣町から飯館村に帰るときの坂は急である。
そして山木屋にゆく別れ道がある。
なぜか二本松からの詩が読まれているのも不思議だった。
飯館村は取り上げられるが山木屋は川俣町などで見逃されやすい
小高と同じような位置にある。避難区域であるが来年は解除になる
でも帰る人は45パーセントとか少ない
山木屋で50代の女性が帰りたいと言って自殺したことで話題になった
そして今回の原発事故で高齢化が問題になったのだ。
テレビに出てきた人は山木屋の農家の人でも川俣町でもみんな60以上だった。
そこで跡継ぎ問題が出てきているのある。
農家でも町でも店の跡を継がせていいのかどうか迷っている。
飴屋では地元の広野町の塩とか地元のもので作っていたので風評被害があった。
それでもインターネットで販売して元の売り上げに回復したとういう。

山木屋でもここと同じ問題が起きている。
この辺で原発避難者が主に小高からきているがこれも高齢者が多いのである。
60代以上の人が多いのである。
それでいつも川の土手で何人かばあんさんがじいさんが休んでいる
もう五年くらい補償金もらって暮らしたいというのが本音になってしまった。
山木屋より川俣町が便利でいいし気候もいいという
飯館村の人は南相馬市にも避難している、そこでも同じように高齢者は便利で気候もいいから帰らずにここで住みたいとなる
若いならやる気があるが60以上になると苦しい所には住みたくないとなる
最初は狭い所で嫌だろうなと思っていたが実際は違っていた
意外となじんできて補償金ももらえし長屋のように親しくなり住みやすくなったのであるだから高齢化社会ではかえってあのように老人が一つにまとまり暮らすのもいいのかなとも思った。
世話する人でも一カ所に集まっていれば楽なのである。
田舎は広いから来るまで回るだけで手間なのである。
ただそうはいっても人間は集まればなにかしらいさかいが起こる
だからそれですべてうまくいくとはいかない。

ともかく自分の感覚では飯館村までは相馬藩であり川俣町は何かなじみがないしわかりにくい
ただ山木屋というのはいつも通る場所だった。
あそこから別れ道があり三春の方まで行ったこともある
そして川俣町に境となる水境神社の山を越えてビュビューと春に東風が吹いていた。
やはりあそこにあれだけ東風吹いたということはその風に放射性物質が運ばれたことを実感した。
この風も実感しないとわからないのである。
川俣町と福島市は意外と近く合併することも話題になった。
バスが通っているから通勤圏にもなっている
あそこは福島市に近い福島市の圏内にある町ともなっている
前は電車も通っていた。
山木屋と小高には共通したものがある
避難区域が解除されると補償金がもらえないとか共通している
帰る人も半分とかもにている。
ただ小高の方が山木屋と比べると有利である。
常磐線も二年後に小高駅まで来るとか南相馬市は原町があり大きいからである。
山木屋は飯館村がとなりであり川俣町だと小さいし福島市は遠いからである。
そういう点では小高の方が有利だが浪江町が無人化しているから
それは共通している問題である。


春の塩の道をたどる(二本松までの絵巻物の詩)
http://musubu.sblo.jp/article/3893027.html
タグ:山木屋
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新しく区画化された屋形に建てた家の人に聞く (県で地盤整理した小高の人も建てた)


新しく区画化された屋形に建てた家の人に聞く


(県で地盤整理した小高の人も建てた)



復興、県負担は400億円 来年度から5年間


 政府は3日、平成28年度から5年間の復興事業費の一部に1・0〜3・3%の地元負担を導入する案を発表した。本県では115号国道バイパス「相馬福島道路」や農村地域の基盤整備などが対象となり、県の負担額は5年間で100億円程度と見込まれる。さらに、東北自動車道から西側の県道事業が国の復興特別会計から一般会計に振り分けられ、県の試算では300億円程度の県負担も新たに生じる見通しだ。




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「この土地は南相馬市で区画したもの」
「いや、これは県で地盤整理した」
「でも県から予算がでている」
「市はその予算で区画整理した」
「ここにはどこの人が建てた」
「いろいろだよ、海老で二軒とか、烏崎の人とか、小高の人もいるよ」
「ええ 小高の人もいる、小高の人は金ももらっているからな」
「金はかかったよ、借金だよ」
「海老の土地は国で買い上げた」
「安いよ、本当に安いよ」
「原発の避難区域とは違うからな、これだけの家を建てるとなるとやはり金がかかった」
「ここは地盤が悪いんだ、田んぼだったから」
「地盤が悪いと地震の時わかるんだよ」
「自分の家の近くの土地が売れないのはそのためか?」

屋形の土地区画したところの人に聞いてみた。
あそこの関係は複雑である。福島県で区画整理して地盤を作り売り出した。
それを南相馬市にゆずった。そこは海老の人でも烏(からす)の人でも入っている
小高の人も入っているのは南相馬市だからである。
小高の人は補償金もらえたから最初から鹿島区に家を建てた人もいた。
原町区にもいたろう。
小高の人がここに建てられたのは南相馬市民だからである。
ただここでも小高の人は補償金たんまりもらえたのに鹿島区の人は津波の被害でも土地も国で買い上げたが安かったとか不満がでる
津波の彼岸を東電では補償しないからだ。
飯館村の人も仮設に住んでいてもここに家は建てられないのである。
そういう点南相馬市と合併していれば建てられたのである。
それは個人的に土地を買って建てるほかない
そうなると今は土地が高くなっているから金がかかる
海老村の土地は国で買い上げたが安いという
本当に相当に安いという感じだ
だから借金をどうして返すかとか言っていたから金はかかった
ただ土地代は他よりは安いだろう

ここで福島県の行政がかかわっていたことがわかる
県道は福島県で管理している。道はほとんど県で作り管理しているのだ
県の行政というのはわかりにくい、もちろん政治には関心がなかった
今回のことで地方政治のことなど地方と県と国の関係などが問題になった
国から復興予算がでてそれが減らされるとか問題になる
すると県の財政を圧迫するとか国と県と市との関係が予算から見えてくる
政治は抽象的なものより予算がどう使われているとか具体的なものから
知るとわかりやすいのである。
そういう利害関係で政治は常に動いているからである。
だから金の動きから政治が見えるとなる

この辺は様々な問題が集積した場所なのである。
だから沖縄とにて政治的な関心の場所になった。
だから政治とは何かということが問われる
それは個々人にでも影響しているのである。
反面政治でもそうだか普通は関心がなくても
行政についても関心をもつようになる
それは民主主義にはとってはいい方面に働く
政治に関心がないのは何か具体的に見えないからである。
県というのは特にわかりにくいのである。
県といっても政治でも会津は遠いし身近に感じないこともある

南相馬市でも合併してどうのこうのと問題になり
補償金で小高と鹿島がもめたとかいろいろ問題が起きた
それで県政とか市政とかを市民が考えるようになったのである。
つまり民主主義とはこうして長い時間の中で成長してゆくものなのだろう。
原発問題もその一つの大きな契機になったのである。
国ー県ー市町村の問題が原発事故でクローズアップされたのである。
要するに現代の問題は様々な問題が規模が大きくなりて見えないのである。
それで民主主義がかえって機能しないのである。
狭い範囲ならば相馬藩くらいの政治だったら具体的に見えたのである。
ただ江戸時代なら民主主義はない
福島県とかの行政単位は大きすぎるから何をしているのかわかりにくいのである。


posted by 老鶯 at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2015年06月05日

夏の日々(街の墓地から北屋形の方まわる)


夏の日々(街 の墓地から北屋形北海老の方まわる)

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デジタル写真も方角を変えたり近接するとどれかいいのがとれる

これもこういうふうにとれたとは思わなかったのである。


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ニコニコ堂喫茶店

ここは絵になる場所である

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我が前に大きく映えて白菖蒲
青嵐今日も樹々ゆさぶりぬ
三日ほどつづけて森に青嵐

我が墓の前を日々行き暇あらじ花ささじも今日さしにけり
それぞれに人はみな生くこの町に墓もともにし活きるものなれ
死したれどここに生きにし人にあれ見守れるかな墓の前行く
黄菖蒲の水面に写る橋わたり今日もここ行き変わりなしかな
広き庭大輪の薔薇夏日あび山陰にある喫茶店かな
北屋形山陰の道影なして海芋咲けるや行く人まれに
北屋形田の面に静か雲写り行く人もなし家もひそけき
北屋形ものさみしかな夏の日や木陰の道を通り来れり
北屋形や八沢浦にそ面しつつ津波の跡や夕日さし暮る
細道の行く人まれに北屋形影なす道や夏の日暮れぬ




それでいつも街中のすぐ近くにある墓地が自分の墓であり通りに面しているから
毎日通っている
それで花を挿さないでいたのでなんか花を挿さないと父と姉とに悪いなと思った。
父と姉は自分を愛してくれたし家族として暮らしたから今でも遠い人ではまだないのだ。これでわかったことは毎日でも墓の前を通るということは墓を意識するということである死んだ人が墓とともに以前としてこの町で故郷にともに生きているという感じになる。
死んだ人でも墓があればその後と生きている人となお生きているという感じになる。
特に毎日その墓の前を通っている意識せざるをえないのである。
でも今は墓は造花とかさされ花が枯れたままとか手入れされていない
それは意外と地元だけではない、遠くに墓参りする人がいて彼岸とかたまにしか来ないからである。


だから枯れた花とか造花がいやなのである。
造花とはまさに死んだ花なのである。
生け花とは生きた花のことである。花は日々でも変えてさすものなのである。
造花がいつまでもさしているとそれでは墓も活きていない
だからたまに遠くの墓に墓参りする人とは毎日墓の前通っている人とか感覚が違ってくるたいがい市町村でも墓は街の中にあるから身近なのである。
墓などいらないというのも墓の跡継ぎがいないからである。
確かにもう個々の家族の墓は維持できないのかもしれない、しかしやはり墓は以前として人間にとって意味あるものなのである。
墓参りすることは死者を思うことであり死者となお生をともにするということもある
人間の生は今だけではない、過去とのつながりで生きているし活かされているのである。


原発事故で失ったものは何なのか?
確かに補償金はもらったとしてもそうした長い年月でつられてきた村であれ町であれ
過去とのつながりも消失するということもあった
新しい街に移ったらはじめからやりなおしになるからである。
故郷であれ村だって規模は小さくても全体なのである。
自然と人間と過去とから形成された全体としてあり郷土なのである。
その全体が消失することはどういうことなのか問われたのである。
これまでそういう経験をしたということはそんなになかったろう。
だからそこで失ったものが個々に実際は気付かないということがある
でもだんだんと気付くようになるだろう。
それは避難して帰れないとかなった人でしかわからない心境である。
ただ意外と墓というものもその郷土と街と一体化してあったことを認識した。


自分はこの七年間この小さな町を行ったり来たりしただけだった。
介護になると遠くに出れないからである。
毎日買い物に家事に追われる生活だった。
一時は二つの家を往き来していたこともあった。
その間に入院が二回あり母もアパートに二年、交通事故で病院に一カ月
施設に二週間とか変遷したのである。
それも90過ぎてからだった。
90以上になってもこんなに変遷して翻弄される
人間は年取ったから落ち着くと安心があるとは限らないのである。
この辺では高齢化で年寄りが多くてもやはりこれだけの変化に見舞われたのである。
人間は死なない限り安心がないのかとつくづく思った。
墓に花をさす暇がないとかそういうことを今でもつづいている
次々にここを掃除しなければならないとかゴミもだしたあとからでてくる
それをしないとゴミ屋敷にもなってしまう。
三食出すのにも相当な手間であり時間がとられる
その中でなんとか時間をみてプログを書いている
パソコンは何か操作するところがまだめんどうなところがありこれも手間である。
ただこんなに忙しくてもプログを書けるのは出すのが簡単だからできているのだ。
まず4時間とか時間がないとプログだって書けないし
書く材料にさらに何時間とか費やす必要がある
それはただ毎日近くを自転車で暇みては走り回って書いている


北屋形のニコニコ堂には半年ぶりにくらい通った。
中には入っていない、大輪の薔薇の花が庭に咲いていた
あそこで休み薔薇を見るのはいいだろう
ただ食事になると予約制になるから食事はしていない
ニコニコ堂は北海老なのである。北屋形は街の方が見えるのが南屋形になる
だから小さな地域でも色合いが違う、北というと何か淋しい感じになるのも不思議であるだから地名の基本は方角地名なのである。
北屋形は八沢浦に面していたし江戸時代は海がはいりこんでいて港もあったのである。
だから海が見えるから入江があったから風光明媚な場所だった。
そこには細い道があり木陰があり涼しい感じになる
今年は乾燥しているからともかく風が吹き、強い、昨日も森を吹き荒れる青嵐だった。
北屋形の細い影なす道に咲いていたのは「海芋」だった

別名をカラー(Calla)ともいう。 これは以前の分類の名残である。 また、単に「海芋」としても流通している。 「海芋」は「海外の芋」といった意味合いである。 国交のあったオランダから伝わったのが和名の由来である。 俳句では「海芋」が夏の季語であった


あんなところに咲いているのもふさわしいとなる
あそこはほとんど人が通らない、六号線からはずれると細道は土地の人くらいしか通らない、でも田舎はそうした道を行くのが楽しいのである。
そういう道は車より自転車で風を感じ木陰を感じてゆくのが自然をじかに感じるからいいのである。

 
タグ:北屋形

2015年06月06日

ソフトパンクなどのモバイルの通信領域が現代を反映 (地図から読み解く福島県など)


ソフトパンクなどのモバイルの通信領域が現代を反映


 
(地図から読み解く福島県など)




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地図は実際は多様であり地図から何かを読み解くことはかなり創造的な作業である。
自分は全国を旅したから地図から読み解く作業をしたがわかりにくい
地図だと高低差とか全体像が把握しにくい
それはインターネットでも同じである。
地図を見るには多様な視点が必要になる。
グーグルマップでもわかりにくい,それだけで四次元とかの空間認識はむずかしい
まずいくら地図をみても世界はわからない
地図から世界の十干か得られないからである。
ただ自分の得意な点は福島県でせんもほとんど自転車で旅していることなのだ。
まず歩いて旅するのと自転車で旅するのと電車で旅するのとは感覚的に相当に違っている
それで棚倉町というのは東北本線からはずれてエアポケットのようになっている。
そこは城下町だから古い町である。
でも東北本線からはずれると何か目立たなくなる。
世界認識は交通手段とか交通路で時代によて違って認識されているのだ
だから江戸時代の地理認識と明治時代の地理認識は変わってしまったのである。
確かに奥の細道は今の東北本線の通っている所である。
そこも江戸時代は俳句でもわかるように淋しい場所だったのである。
須賀川がとても隠者のような人が住むような場所には思えない
むしろかえって隠者は市井に住んでいたとなる
隠者と言っても知識人だからである。
現代になるとこれだけ交通が盛んで情報が流通すると知識人はかえって田舎の方に住んでいるともなる
東京と田舎の情報の差がなくなっているからだ。

ともかく棚倉町について詩を書いたようにそこは何か福島県でははずれた町で目立たないのである。
そして棚倉町の特徴は水戸に通じていて街道が
東京からは六号線でも水戸街道と東京からは呼ばれている

国道118号線を北上して、棚倉町へと入ってきました。
棚倉街道の宿場町・八槻宿があったと思しき八槻地区には、八槻都々古別神社があります
棚倉町には神社仏閣が多い街として有名です。
118号線沿線には、八槻都々古別神社だけでなく馬場都都古和氣神社や宇迦神社、そして山本不動尊があります。
国道118号線は、神社仏閣めぐり街道でもあるのです。

ここは古代のヤマトタケルの伝説が残る古い場所である。久慈川を上ってきたのである。久慈川も万葉集に歌が残っているから古い場所である。
白河の関よりここが福島県では古代の通り道だった。
ここは水郡線がありこれは結構時間がかかる、水戸まで通じている。
これは一回だけしか乗っていない、ローカル線である。
ただここが記憶に残ったのは会津からここまで自転車で来てテントで秋にテントでとまったからである。
ここは茨城県に日立に近いからここも福島県になり福島県はつぐづく広いなと思う

それから猪苗代湖の福良とか湖南町なども通信領域からはずれている
あの辺もも白河街道で江戸時代は会津に通じる道であり秀吉もこの道を会津に向かった。鉄道がここを通らないのですたれて淋しい町になった。
でも情緒はこうした江戸時代の旧街道だったところに感じるのである。
この道も自転車で会津に向かった。
それから昭和村とかあるがここも町の中心部は通信領域になっているが孤立している。
ここも確かに自転車で行ったとき遠いし離れていて孤立した村に感じた。
これは自転車で行った実感なのである。
山が多い所は通信領域になっていない、そこには人家も少ないからである。
檜枝岐に行く道で古町温泉とかに入ったのも思い出であり
なんとも今になると夢のようであり不思議になる。
旅はこうして気まぐれでないと旅にならない
ここでちっっとよってみようか別れ道を行くこうかとなる
あそこの温泉は地元の人が入る温泉である。

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自分が作った俳句で「日永きやまた道二つに分るかな 」があったがそういう時があったときなつかしく思った。
ここに時間の余裕があった。
日が長くなり春の日にきままに自転車にのり阿武隈の道をたどっている
そこに制限されない時間の余裕がこの句から感じられた。
こんな句を作ったのも忘れていたのである。
俳句でも短歌でもそこからどれらだけよみとれるからである。
自分が作った俳句だからもちろんその時を思い出す
つくづくその時制限されな自由な時間があったんだなとふりかえる
そんな時間があたりまえだと思っていたがそういう時間さえなくなる。
人生の時間はいづれ誰でもつきるのである。
今になるとその時そこにあったということ自体が不思議になる

それで面白いのは丸森町である。宮城県は仙台を中心にして通信領域で赤になっている
でも丸森の地域は通信はできるが薄い赤でありやはり正式の通信はできない
丸森は秘境があるということを書いたし詩にした
丸森は伊達藩でも相馬藩と接して仙台からははずれている。
ただ丸森からも角田からも蔵王が大きく身近に見えるのである。
蔵王が見え領域としての地理もある。蔵王はみな南相馬市の鹿島まで見えるのである。
だから高い山から地理を把握するのも一つの地理の見方なのである。
通信領域からはずれているのは阿武隈の高原地帯である。
そこは広いのだが葛尾村とか今では過疎地域になる。

旅をして魅力があったのはこうした通信領域からはずれている過疎になっている地域であった。
そこは江戸時代はかえって街道が通じていたが裏道になってしまったのである。
記憶をたどる旅になるとどうしても地図をみる、その地図を見てもわからない
インターネットで旅した道の紹介があったたするから便利である。
つまり何度も言うが地理は実感の世界でありまさに像で把握する世界なのである。
それが四次元にもなっているから地図を見ても立体地図を見てもわからないのである。
このソフトバンクの通信領域の地図は全国的に見ても興味深い
なぜなら通信領域からはずれいるところは過疎化している地域と一致しているからである白くなっていて空白地域になり穴があいたような地域になっているのである。

現代では通信ができないことも過疎なのである。
なぜなら通販はインターネットでしているからである。モバイルでもしているからである
学問もいろいろあるが地理というのは基本にある。
これを知らないと何か実感として何も理解できない
歴史も文学もそうだし地質学でも地震学でもそうだろう
これは世界の歴史でも同じなのである。
だから最近アマゾンで「逆さ地図で読み解く世界情勢の本質」
これなど南砂諸島になぜ中国がこだわるからわかりやすくなる。
政治は基本的に地勢学、地政学だからである。
このソフトバンクの地図からまた全国を見直してみよう。



道にも古道があるが町にも必ず古町がどこにでもある。都路に古道とあるのはその道が古い道になったからである。
どこの街でも古町があるのはそこがもとは栄えていたからである。
南会津でも古町温泉とかあり地元の人が入っていた。
ここが古町だったのかと山奥だから不思議に思った。
会津田島駅発内川行き → 針生 → 山口 → 古町温泉入口下車(乗車時間約1時間) 
福島県南会津郡南会津町古町 字太子堂186-2

古町温泉赤岩荘
http://www.sayurinosato.co.jp/akaiwa/access.php

古町や会津の奥の湯秋の暮


古い道と新しい道(会津の古町温泉)

青森県の地名の謎 (鉄道の旅は地名が気になり記憶に残る)


青森県の地名の謎

 
(鉄道の旅は地名が気になり記憶に残る)

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今回久しぶりで青森の弘前まで旅した。それは新幹線でありあとは鉄道の旅である。
電車の旅だとどうしも駅名が心に記憶される。
それで自分は全国を旅して地名に興味をもつようになった。
今回もひさしぶりだったのでやはり地名が気になった。
何気ない地名でも鉄を旅はただ駅名だけが気になり風景が過ぎてゆきあとは記憶されないということもある。
地名とは一つの歌枕のようになっているのだろう。
その土地を地名を手がかりに知るというのは古代からあった
万葉集でも地名が基本にある。
日本を知るには地図もないのだからその地名をてがかりにしていたのである。

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎(かさのいらつめ)

これも陸奥ー真野ー草原(かやはら)も地名だと自分は推測した。
そしたら歌の中に三つも地名があるのだからいかに古代は地名が大事かわかる

浪岡

健保年間(1213〜1218)には行丘、鎌倉中期には波岡、慶長(1596)以降の徳川時代を通じて浪岡と改めたとされる。
地名の由来について詳細は分らず。

この町の名が気になったのは新幹線から乗り換えて弘前に行くとき山の中をぬけでた所にあったからである。
行丘(なめおか)とするとこの辺の行方(なめかた)郡と呼ばれていたからそれとにている。ナメという地名は滑らか(なめらか)から来ていて一字で滑(なめ)という地名もこのへんにある。
なめらかな丘で行丘となり波岡となった。そういう地形的なものが一番多い。
ここの地形は果たしてそうなっているのかわかりにくい。
ただ山をぬけたところであり行丘だと地形的にはあっているかもしれない。
なめらかな地帯に出てきてそこは人が生活しやすいということからついたのか?
新青森からは山深いなと感じた、今年は早めに春と夏がきていた。
青森も暑いくらいだったが新青森から浪岡にでるまでの山は深く雪がまだ残っていたのである。
やはり地名は地形的なものから名付けられるのが多いから地形を知らないとわかりにくいとなる。
弘前市について一晩とりま川部からのりかえて藤崎という駅があり町があった。
この藤崎もなになのか?

古くは淵先または淵岬と呼ばれていたという。
十三湖が内陸部まで深く入り込んでいたころの名残と見られる

藤崎

五所川原付近まで十三湖だった。丸山三内の縄文遺跡からヒスイが発見された、そこは青森の湾の方に近いからそっちの方からもたらされたのか?
藤崎というと藤とかかわりがあるとなれるが地形的なものだろう。
地名はあとからその名前からいろいろ別な風に語られるのが多すぎるからだ。
藤崎氏由来の説もありこさは安倍氏とかかわっているから嘘とも言えない
安倍氏が藤崎城を築城した時期には、既にこの土地に「藤崎」の地名が
存在していました。
現・南津軽郡にある、この「藤崎」の地名の由来は――
平安時代初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂が奥州の蝦夷征伐の際、
この地を訪れ、生えていた藤の大木から枝を切り、鞭として使用した。
使用した後の鞭を自然に帰そうと地に突き刺した所は、
「旧跡・藤巻森」と呼ばれました。
鹿島神社の北にある沼州川にちなんで、「沼州」と称された地に
「藤巻森」はありました。

藤崎は坂上田村麻呂にまで由来していて古い、でもこれも後から地名を元にして伝説を作り上げたのだろう。
ただ鹿島神社があることころは蝦夷征服と関係して建てられたことが多いことは確かである。
ここは十三湖の説が地形的にはなる。ただ安倍氏も津軽では蝦夷とかかわりその子孫説がある
青森では良くアイヌ語説の地名が多いと言われる、内(ない)は川であり平内とかそうである。川部とかもそうである。ただこれも別に他でもあるからわからない。
そもそもアイヌ自体が謎の民族だからである。
藤崎で忘れてならないのはここが藤リンゴの発祥地だった。
リンゴは好きで毎日食べているからこっちの方で親しみか沸いた。

板柳町

古くからこの地方に「いたや」「えぞいたや」「おのえやなぎ」などが繁茂していたことから、板屋野木村という地名となった。
後に板柳に改められた。

蝦夷いたやとなっていたのも津軽らしい。

田舎館村 

(1)蝦夷が住む中心であったことから、蝦中(えなか)と称されそれが転化した。
(2)稲作の生活から生まれた大和言葉の「稲家」が転化した。
(3)平安時代に「田舎の郡」と言われ、鎌倉時代になって田舎館と称される。
ここで興味深いのは蝦中(えなか)から田舎館になったということである。
エという言葉蝦夷語に由来していることを前に書いた
それは地形的に高台のものにつけられたののかもしれない

「漬ず」というのを見つけた。「水に浸(ひた)す」とあり、水に浸すと物は水圧で変形するので風貌が明らかに異なる人々に、接頭語の「え」を付け、「え-ひし」「え-みし」「え-びす」などと呼んだのではないかとした


ここから前にコメントあったがこちらの方が地名は専門的だから読んでください



北海道では「江別」「江差」「江刺」「枝幸」「恵庭」「襟裳」「遠軽」「遠別」などをあげることができるし、関東では「江戸」「恵比寿」「江ノ島」「荏原」「海老野」、中部地方では「恵那」、滋賀県では「愛知川」、大阪では「江口」「江坂」「餌差」「海老江」「恵我の里」、中国地方では「江田島」、九州では「海老野」をあげることができる。
「えびす」の語源は、「エミシ(蝦夷)」が「エミス」になり、「エビス」になったとされている。また、「えびす」は蛭子の神さまでもあり、水に関わりがあるから、兵庫県の西宮戎神社や大阪の今宮戎神社のように海に近いところにあるのが多いのである。
http://asahi.co.jp/call3/diary/yamaken/chimei_05.html

エ・エトコ(頭,水源,山頂)
エサシ(山の頭を浜につけているもの,岬)
十三湖の小湾入のある「前潟」のことで,ie (尖った)rum (矢の根)ma (澗)J (尖った矢の根のような澗)
津軽にはほかに恵神崎(えがみざき)と
いう岬もあり,これは西津軽郡の岩崎村の岬である(図3)。この岬角名の語頭の「恵」
の部分にエンルムの「エ」が残存しているかもしれず,あるいは北海道の恵山(えさ
ん)のようにエサン(頭が浜に出ている岬)かも知れない




海老という地名もこの辺にある、それはえひであり海老とは関係なかった。
蝦夷はエミシでありそのエが何なのか、入江とか水と関係していることは確かかもしれない、蝦夷(エミシ)とは水辺に生活していた人たちのなのか
ヤマトはヤマを根拠地にしていたのかともなるがこれもわからない。
地名は何か確証がないのが問題であり勝手に想像で各人が言うから科学的でもないし
想像で作られた地名由来が多すぎるのである。
ただこれでもわかるようにエとは北海道にも広範囲にあるとなると蝦夷とはアイヌなのか?エとは北海道だげではない、日本全国の地名の基になっている。

相馬村 

鎌倉幕府の落人でこの地方に土着した一族に相馬氏がおり、その人物に由来するとされる
相馬藩も相馬氏が移住してその名となった。でも相馬市というのは戦後名付けられのであり新しい名である。相馬市と中村市だったからである。
だから意外と相馬市は地元でも実際はなじみかないのである。
地名でも姓名を基にしているのはまれである。
鎌倉時代に相馬氏の移住はここにもあったし津軽までもあったのかとなる。
タグ:青森地名

縄文語とアイヌ語の謎 (福島県は関東より弥生文化の先進国だった)


縄文語とアイヌ語の謎

(福島県は関東より弥生文化の先進国だった)

千島列島とカムチャッカ半島の地名を見ると、アイヌ語地名は北上したもののようであり、南下してきたものではない、村山七郎著「アイヌ語の起源」(三一書房)
http://www.dai3gen.net/ainutoku.htm

アイヌ語が北上してのであり南下していないという指摘は重要である。
アイヌ語はもともとの縄文語に由来して民族の移動とともに蝦夷(エミシ)が伝えた言葉である。
アイヌ語はツングース系統とすると北から侵入したようで南からの移動の勢力が強かった北海道にもエとつく地名が多いのはなぜなのか?
それは南方から北へと地名が移動していたのである。
アイヌ語はアイヌが何なのかわからないにしろエとつくのは北上してきたものであり
アイヌ語はアイヌは北方系にしても南方系に由来しているのである。

そうなるとアラハバキもアイヌ語で解がないであろうか。arpa-pake と解すると、これは、行く(発つ・出発する)・首領(頭)、ほどの意味になる。果たして出発して旅をしたものが熊の頭だったか部族の首領だったかはともかく旅してくるものをマロードとして祭ってきたわけだ。
一方、paki となるとこれは「エビ」の意味である。エビ、つまり、蝦夷、に転意するのに造作も無い。アラハバキが「蝦夷」の語源を教えてくれてはいまいか。
http://www.dai3gen.net/arahabaki.htm

ezogo111.jpg

目・見・お前・?・? アイヌ語 e= お前(ニ人称単数)
いーせ
いーそ
いーる
いーま(居間)
いーね(稲)
いーほ(飯)
いーい(飯)
いーち(中国語)
いーし(石)
いーえ(家)
いーも(芋)
いーむ(忌む)
いーなう(いなう)
いーりえ(入江)
いーけ(池)
いーき(息)
いーのる(祈る)
いーにし(いにしえ)
いーねる
いーく(食う)
いーさご
いーらっしゃい

「えびす」の語源は、「エミシ(蝦夷)」が「エミス」になり、「エビス」になったとされている。また、「えびす」は蛭子の神さまでもあり、水に関わりがあるから、兵庫県の西宮戎神社や大阪の今宮戎神社のように海に近いところにあるのが多いのである。

えびすが蝦夷とかエミシの由来なのか?それは水に関係あるのか?
それでエが江になったのかとなる
図で示すとイから派生する言葉がある。イは接頭語でありそれ自体意味があるとはなっていない、要するに強調するためにイが用いられた。
日本語ではセは瀬であり一語でも成り立つのが多い
伊勢とあってもイは接頭語であり強調語でてある。
イネとあってもネも根であり一語で成り立つ、いほでも穂(ほ)であり一語で成り立つ
この接頭語がつくのは北方系ではなく南方系の特徴だという

たとえば、日本語の接頭辞は、ツングース語にはまったくみられない。
接頭辞は、常に他の語の前に付いて用いられる語構成要素で、「お寺」「ま昼」「か細い」「い抱く」などのオ、マ、カ、イがそれにあたる。
 このように、日本語は、ツングース語的な文法を持っていながら、ツングース語では説明できない要素も非常に多い。
 
「日本語はオーストロネシア語とツングース語の混合言語」ではないかという結論に到達する。すなわち、縄文時代に、日本列島ではすでに原ツングース語を話す人がいたとして、その後、渡来したオーストロネシアンとお互いに混じり合うなかで、日本語の原型が形成された、という。

 http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn5/005_04nihonngo_ha_konngougenngo.html
 
日本語が混成後であることはまちがいない、それはオーストロネシアンと北方系のツングース系だということである。
その典型的な象徴がイーエという言葉である。それはエにイが強調語として接頭語としてつなぎあわされたのである。
エがさきにありエはエゾーエソでりエミシなのである。
そのイエに漢字が入り家をあてたのである。
ツングースが北方系が東北地帯一帯に先に縄文人として日本を形成していた。
そこに南方系のオーストロネシアンが入ってきて混成後が生まれた。
日本の最古の原住民、蝦夷は東北にあったともなる
それは例えば福島県でも茨城県より田が先に作られたということが考古学の発見でわかってきた。
福島が先進国で茨城、ヒタチの方が後進国だったということもその一つである。
つまり原日本人が東北にあるということはかなり重要だろう。
そのげんじゅうみんか言葉がなかったというのではなく縄文語としてすでに言葉をもっていたのである。
日本の最古層に東北の縄文文化があったともなる。

ただこのエミシは本当に謎であり不明である。
渡来人がこの蝦夷にも交じり地名とか言葉も残した。
アラハバキが蝦夷とかいうけどこれも渡来人系統である。アラとはツノガノアラシトのアラでありアラという国が韓国にあったからである。荒という姓は渡来系なのである。
東北にはツガルもツノガノアラシトから敦賀(敦賀)がありツノガからツカルになったのである。鹿角(カヅノ)などもそうかもしれない、
つまりツノガノアラシトの変形したものである。
カヤというのヤマトタケルに抵抗した蝦夷の一団の中にいたのである。
カヤは伽耶なのである。それは渡来人の一団がすでに蝦夷でもあった。
だから蝦夷は物部氏とかツノガノアラシトから伽耶(かや)とかの渡来人と一体化した人たちのことである。
そして弥生文化は関東の方より福島県側が発達していた。


稲作の伝播には太平洋側と日本海側の2ルートがありました。そして、稲作は日本海側の方が向いていますから、このルートの稲作の伝播は太平洋側よりさらに速度を速め、たった100年で青森県まで到達しました。そして、東北の太平洋側の稲作は、日本海に注ぐ川を遡上して広まりました。
このルートは新潟から阿賀野川から東進し会津盆地に入るルートです。弥生時代中期の福島県域の人たちは、たぶんこの阿賀野川に沿ってやってきた人たちです。この人たちが県域の各地に広がり、その子孫が弥生時代に県域に住んだ人たちでした
http://blogs.yahoo.co.jp/asakayama1000/20944129.html

つまり弥生人はすてに渡来人でもあり福島県には濃厚にその跡が残っている。
これは渡来人の影響が大きかったともなる
しかしその前に縄文人が東北にはいてそれが縄文語のルーツでありそれにオーストロネシアンとツングース系の北方言語が混じり合ったのである。

いづれにしろ日本語が孤立語でそのルーツがわからないのはそもそも満州に住んでいる人たちとかインドネシアに住んでいる人たちの言葉とか東南アジアの言葉を知らないことによる
もし交流があったなら共通語が東南アジアとか中国でも形成されていたのである。
それはヨーロッパを見れば継続して交流があり明確に混成後として言葉がわかる
日本語は例えばオーストロネシアでもそれは断絶してしまったから不明になったのである現実に日本が戦争でオーストロネシア地帯にポリネシアなどに進出して兵隊が支配したときその島では日本語をしゃべっていたし今でもしゃべる人がいることでもわかる。
戦争を通じて日本と交流があったから日本語をしゃべっているのである。
戦争で征服、征服されると言葉が強制的に混成後になることが明確である。
日本は回りを海に囲まれて断絶してしまったのである。

言葉の不思議はもし縄文語があるとして縄文人がしゃべっていた言葉と同じ言葉をしゃべっているとしたら明らかに縄文人をルーツにした文化を言葉から受け継いでいるとなる
すると今の日常生活にも縄文人が日本人の中に生きているとなる
縄文時代となるとただ過去の死んだ遺跡のようにしか見ていない
今とは遠く切り離された遺物として見ているのである。
現実に今に生きていない歴史は歴史にはならないだろう。
民族の言葉を維持することはそうした縄文人の文化を受け継いでいるということにもある大和言葉というと縄文人が関係ないように見える
蝦夷といってもわからないから大和言葉は渡来人の言葉なのかともなる

でも日本語が孤立語だというのはそもそも回りとアジアと交流がなくなっていることにあるのだ。
戦争でもアジアから孤立していたし今でも朝鮮中国からも孤立している。
その孤立語というのは言葉だけではない、現実の世界でもアジアから孤立していることがつづいているのである。
言葉というのはだから現実の世界情勢を反映したものとしてもありつづける。
中国などはかえって今ではその文化でもわかりにくいのは明治維新から欧米一辺倒になったからである。
中国がまたアジアの中心になると必ず中国文化が見直されるのである。
文化という視点になればやはりその土地と一体化するアイディンティティ化する
だから東北の源流を探ることも大事になる
そこから東北ルネサンスが生まれるのである。
それで東北の歴史も見直す必要が出てくるのである。



2015年06月07日

相馬市の道の駅は自転車の散歩コース (車社会で活気あるものは変わったー配達する仕事も同じ)


相馬市の道の駅は自転車の散歩コース


(車社会で活気あるものは変わったー配達する仕事も同じ)

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相馬市の道の駅の燕の巣




道の駅人々行き交い燕の子
道の駅燕の巣二つにぎわいぬ
ツツジ咲き人々集まる道の駅

新緑に風のそよぎて山帽子咲きて影なす道の涼しき
新緑の風にそよぎて時鳥声清らかに近くに鳴きぬ



今日も相馬市の道の駅に行った。あそこまでが自転車でも散歩コースになる。
北海老のニコニコ堂の庭をみて八沢浦を回り道の駅につく
あそこに燕の巣が二つあり雛が育っていた。
あそこは人の出入りがありかえって烏などにねらわれないいい場所だった
埼玉から来た人だった、南相馬市と相馬市があることでわかりにくいと言っていた。
やはり外から見ると区別しにくいだろう。
地名でも名前でもなにか区別する、分けるということもある
同じような名前だと区別できなくなる
南相馬市も相馬市も同じじゃないかと外からは見えるのである。
名前をつけるとき外からの視点も必要だった。
やっぱり雲雀市というのありかと思った。

いつも道の駅とかではナンバーをみている。
釧路から着ている子供連れがいた。
それが釧路だったのである。遠いと思ったが苫小牧からフェリーで来たと推測した。
なぜなら苫小牧から仙台の太平洋フェリーで自分は十回くらい北海道に行っているからだもう一人も北海道であり除染でんの仕事で何でも岡山からこっちに移ってきたばかりだという。
スマホとタブレットをもっていてコンビニで休んでいた。

それからまた道の駅でぶらぶらしていると三輪車の大きなハーレーダビッドソンが二台置いてあった。
するとそれをしげしげみている人がいた。
「これは三輪車だからヘルメットかぶらなくてもいいんだよ、転ばないから」
「そうなの、これは転ばない、がっしりしている、まるで車だ」
「これは名取で売っているよ」
「これは高いだろうな」
「年配の人だよ、これに乗っているのは」
「みんな、いいバイクでも乗っているのは年配だな、この前もハーレーダビッドソンに乗っていたのは大熊の74才で頭がまるっきり禿げた人だったから驚いた」
「これはスピード出すというより車体を見せて自慢するもんだよ」
「ええ、そんなもんですか、ぴかぴかに磨いているな」


自分は何気なく触ったが触るなとその人に言われた。
三輪車が一台とサイドカーのついたものが黒いのと白いのが一台とめてあった。

「こんな大きなのはアメリカ向きだよ、アメリカで鉄道を利用したけど車内は広いんだよ、でも広くないと困るよ、太ったでかい人がどっしりと腰をおろすからあれくらい広くないと乗れない、日本では狭くてこまっているだろう」
「まあ、これは広い道路向きだよ、アメリカで作られたからな」

自分はアムトラックに乗ってアメリカを一度旅したことがあった。
車内は広いからゆったり座れたのである。まるで応接間のソファーにに座る感じだったのである。
そういう感覚がアメリカ的だと思った。日本では何でも一回り小さくなってしまう。
大陸的だというときそうした日常生活から何かするのにも影響している。
一見そんなことが関係ないようでも戦争のような大きなことをするにしてもアメリカのような大きな国は日本とは違ってものの見方まで変わっているのである。
日本は狭い国だから考え方もせせこましくなってしまうのである。
北海道はその点日本にてはアメリカ的なのである。
そのハーレダビッドソンに乗っていたのは意外にも南相馬市の地元の人だった
東京で買ったという、それなりに金がある人なのか、この辺でもそういう人がいたとかなる
もしかしたら補償金もらった避難民かもしれない、南相馬市にもいるからだ。
ともかくハーレダビッドソン見ていたやはり年配の人は相当にほしいという感じだった
やっぱりあれ一度のるのが夢なのだろう。
車を運転しない人にはわからないのである。
まあ、自転車だと百万円くらいのロードの軽い自転車に乗ってみたいとかと同じなのだろう。


道の駅に来る所の道に山帽子が咲いていた。外に咲く山帽子はまた気持良く咲いている。風がそよぎ木陰がなして気持いい、今日は晴天だけどそれほど暑くなかった。
そろそろ梅雨に入る時期だけど遠くには行けなかった。
ともかく介護とかなると遠くには行きづらいのである。
明日またショートスティだけどこれまた嫌だというし具合悪いとも言っていたしいつまで介護がつづくのだろうと思う。

ともかく相馬市の道の駅は自転車の散歩コースとして最適である。
原町は街中にあるから散歩コースにはならない、用事で行くことになる
今は鉄道の駅より本当に道の駅が駅らしいとなる。
そこには人々が行き交い集まるからそうなる。
前は鉄道の駅がそうして人々が集まる場所だったのである。
人間の生活は常に変わっている

アマゾンなどで何か本を中心になるが毎日のように配達してもらっている。
するとその人が田舎だから車をとめて家の玄関まで距離がある農家に配達していた。
そこまで走っていたのである。
走らないと時間を短縮できないからだろう。
今は通販時代になると配達することが社会にとって大事な仕事に見えた
自分でも配達されないと相当に困る。
だからますます配達する仕事が社会にとって重要な仕事に見えたのである。
そこには人手も必要であり人手もそういう所に移ってゆく
そういう仕事はこれから給料も高くなってゆくのかもしれない
社会で必要としている仕事は常に変わっているということである
道の駅とか配達している人が何か現代を象徴していて活気があるとなる
鉄道の駅は何かさびれているとなってしまったのである。

タグ:道の駅

2015年06月08日

南方系と北方系は世界史的なテーマ (日本では東西が歴史的にも風土的にも基になる)


南方系と北方系は世界史的なテーマ


(日本では東西が歴史的にも風土的にも基になる)


●ヨーロッパは南と北は明確である

日本での南方系と北方系の区別はむずかしい。
文化が地理から作られるから気候風土が深く関係している
それが明確なのはヨーロッパだと暑い方の地中海沿岸のラテン系と寒い国のゲルマン民族である。
フランス語とドイツ語が明確に別れているし言語学者でなくてもすぐにわかる
言葉の面から言えばドイツ語は東北のズーズー弁的なところがある
何か言葉が重いのである。そのドイツ語を基本にして英語が成り立っている
ということはドイツ語は世界的なものになっているという面もある
英語でドイツ語を意識しなくてもドイツ語がその根底にあるからドイツ文化の影響を受けているともなる
ヨーロッパだとこうして南と北は地理的風土的にも文化的にも歴史的にも別れているからわかりやすい
ギリシャやローマは南方系でありギリシャにはオレンジなどがとれる、それは日本だと瀬戸内海辺りになる。
ドイツとかは寒いし霧の国であり憂鬱になるから憂鬱な哲学者が輩出している
それは風土的な影響なのである。音楽でも重厚な音楽になる
ゴシック教会のようにゲルマンの森を象徴しているというのもそのためである。
日本だと東北から北海道はゲルマンににている北方系だが北海道は風土的にはより北方系である。トドマツなどがあり樹も重厚になるし太いのである。

カトリックはラテン系であり勤勉なプロテスタントは北方系である。
南方系のラテン系はシエスタとか昼間の長い時間を昼寝するとか休む
それは暑いせいもある、暑いところは昼間は働けないのである。
だからなまけもののように見える。
寒い国はかえって勤勉になるのである。
人種的に区別することもあるが人間はそこに住む風土の影響の方が大きい
ただユダヤ人は例外である。神の民として今も残存しているからである。
民族というより風土的歴史的に作られた文化的集団としての区別である。
だから日本人のルーツを探っても無駄なような気がする
遊牧民とか農耕民とか漁労民とか分けるのがその風土とか生業が人間の存在を規定する
世界は人種で分けるのではなく土地土地で培われた歴史と文化で分ける。
だからもし日本に移民がふえても日本の風土はかわらないから日本人の文化を受け継げば人種は関係ないとなる。
ただ言葉が変わったりしたら日本の文化は喪失するのである。

文化は風土が多様なように多様であるべきなのである。
方言をみんな標準語にしたのもつまらない、ズーズー弁は軽蔑の対象になったが
方言が喪失したら国の訛りもなくなり地域性もなくなる
今は子供からしてきれいな標準語をしゃべり方言は喪失しているからだ。
面白かったのは丸森の人がんだべっちゃと言ったことである。
仙台だと語尾がだっちゃになる、相馬ではんだとなる、それか結合してんだっちゃとなった
丸森には一時相馬藩の城があったから方言も結合したともなる
こういうふうに地域性があると方言でも文化であり面白いのである。
科学とか数学は共通であり地域性とかないからグローバル化で文化も破壊されたのである地域創生というとき方言だって見直す作業が必要なのである。

それは狭い一地域でも歴史が違っていて色合いか違ってくる
何回も書いたけど相馬市は相馬藩の城跡があり城下町である。
原町市はひは雲雀が原があり野馬追いでは神旗争奪戦が行われる場所である。
でも原町は明治になって鉄道が開通して原町機関区になったようにいち早く近代化した街である。
だから大正時代に巨大な東洋一の無線塔ができた。
駅前通りが主要な商店街になったのもそのためである。
相馬市は駅前と通りはなく城下町のままだった。
原町は何か感覚的に広々として感じになる、郊外が広い感じになり雲雀が鳴いているのがふさわしい、それで雲雀市という合併後の名前も浮上したことでもわかる
そういう土地柄なのてある
こういう違いはなかなか旅しているとわかりにくいのである。

●日本では南北が東西になっている

とう‐ざい【東西】 

もと相撲で、東から西までおしずまりなさい、という意で言い始めたという》興行物などで口上を述べるときに、また、ざわめきをしずめるときなどに言う語。東西。とざいとうざい。

1 東と西。また、その方向。「―に走る道路」
2 東洋と西洋、関東と関西、東側諸国と西側諸国などの意。「―の文化」「洋の―を問わない」「古今―」
3 世間。また、世間の事柄や事情。「―もわきまえない青二才」
4 《東や西の意から》あちこち。方々。

東と西。また,東洋と西洋,東側諸国と西側諸国,関東と関西など。 南北 「川は町の中央を−に流れている」 「人の気持ちは洋の−を問わない」 「古今−」
A方角。転じて,世間の事柄。 → 東西を失う ・ 東西を弁ぜず
Bもと中国の俗語で,物品または金銭の称。

東人(とうじん、韓国語:동인〔トンイン〕)は、李氏朝鮮の官僚の派閥の一つ。

東人と西人の対立が始まると当時の大司憲・李珥は、金孝元、沈義謙双方を地方に退かせたため、東人の領袖の座に鄭仁弘を着かせた。1584年、李珥が亡くなると本格的な党争が始まった。東人はほぼ政権を掌握していたが、西人から東人へ寝返った鄭汝立の謀叛事件により西人に政権を奪われることとなった。
しかし、1591年に西人が世子冊封の問題で失脚すると東人が政権を掌握した。東人は西人の粛清を始めたがその過程で、南人と北人に分裂することとな
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%BA

あずま‐びと〔あづま‐〕【▽東人】 

東国の人。田舎者の意を含んでもいう。あずまうど。あずまど。
「破 (わ) り子や何やと、こなたにも入れたるを、―どもにも食はせ」〈源・宿木〉

東男に京女
男は男らしくいきな江戸の男がよく、女は優しく美しい京の女がよい。
あずまあそび【東遊び】

古く東国地方で、風俗歌に合わせて行われた民俗舞踊。平安時代から、宮廷・貴族・神社の間で神事舞の一つとして演じられた。歌方(うたいかた)は笏拍子(しゃくびょうし)を持ち、笛・篳篥(ひちりき)・和琴(わごん)の伴奏で歌い、四人または六人の舞人が近衛(このえ)の武官の正装などをして舞う。現在は宮中や神社の祭礼で行われる。東舞(あずままい)。

あずまうた【東歌】
上代、東国地方で作られた民謡風の短歌。万葉集巻14と古今集巻20の一部に収められる。
あずまうど【東人】
「あづまびと」の音変化。
「あやしの―なりとも、賑ははしきにつきて」〈徒然・二四〇〉
あずまえびす【東夷】
京都からみて、東国の人、特に無骨で粗野な東国武士をあざけっていった語。東夷(とうい)。


日本では南方系と北方系は東と西である。だからトウザイ、トウザイとは東も西もで日本全国をさしている。
日本の方角感覚は南北ではない、東と西なのである。

●東西感覚は歴史的にも韓国と日本でも共通していた

それは歴史的にも関が原で東と西が奈良時代から別れている、東はあづまでありそれは戦国時代でも信長は尾張であづまの領域、東の勢力である。

それは天智天皇と天武天皇が争った壬申の乱からすでにはじまっていた。
大海人皇子は天武天皇元年6月24日(7月24日)に吉野を出立した。まず、名張に入り駅家を焼いたが、名張郡司は出兵を拒否した。この状況を不利と見た大海人皇子は、伊勢国に滞在し占いを行った後、伊勢神宮に参拝した。これにより大海人皇子は美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族の信を得ることに成功した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1

名張から伊勢へ向かった。伊勢から名張へ自分は旅をしたからこの地理感覚わかる。
面白いのは韓国でも同じ方向感覚で歴史が形成された。壬申の乱と同じように日本と同じように韓国でも東西の争いがあり国が作られた。
小野妹子が(7世紀初せいきはじめ)推古天皇時代607年,はじめての遣隋使として中国につかわされ,「日出づる処の天子、書を日没する 処の天子に致す、恙なきや」という書き出しで有名な聖徳太子しの国書を皇帝煬帝にわたした。
日本は極東だとか東海だとか東の果ての国なのである。南北ではない、それは陽が上る方向の国である。人間の方向感覚は陽が上る方向と沈む方向で知るのは人間が住み始めてからどこでも同じ傾向があったろう。
でも日本でも日本海は山から陽が上り海に沈む、西に沈む、この感覚が太平洋側に住んでいるとなじめないのである。
盆地だと東山から上り西に沈むとなる。京都に東山があるのは陽が上ることは意識するが西山はないのは陽が上る方向を人は特に意識するからである。

東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる 啄木

東海とは日本海も太平洋も視野に入れた広い範囲なのである。韓国から見ると日本は東海になっている。

東と西というとき不思議だったのは近江である。琵琶湖中心に湖西と湖東があり湖西となると淋しい感じになっている、東は風土的には陽の上る方向だから明るい感じになる。
西は陽が没する方向だから淋しい感じになる。
ただ歴史的には違っている。西となると別に関西は先進国で東は後進国であった。
それで今でも東京をトンキンとして関西人がネットで言っている。
地名でも書いてきたが地名の基本は方角地名なのである。
方角によってその土地を知るのが基本である。
それで相馬市と南相馬市となったがもともと相馬藩は小高に最初に相馬氏が拠点の城を築いてそこを中心にして鹿島とか相馬市の方向は北郷としていた。
北という感覚がここにはあった。東と北は日本では同一であり混同しやすいのである。
南はなじみがない、でも東風(こと)とか北風とか西風があり風では東風と北風がなじみがある、南が意識されたのは柳田国男の海上の道で沖縄や南が意識されたのである。

「名も知らぬ遠き島より 流れ寄(よ)る椰子の実一つ ふるさとの岸をはなれて なれはそも波にいく月(つき) もとの樹(き)は生(お)ひやしげれる 枝(えだ)はなほ影(かげ)をやなせる ・・・」

この遠き島が沖縄の島になるしさらに南の島々に通じる。オーストロネシア語圏内になる椰子の実は日本の岸に流れ着くのは南の島からである。
それは黒潮の流れにのって流れてくる。
南相馬市の鹿島区の海老浜は車輪梅は南限の地として有名だった。
これは奄美大島が原産でその種が流れ着いて自生したのである。
まず太平洋は広いしアメリカの方からは何も流れてこないし交流もないのである。
台湾から与那国島から沖縄の島伝いに九州の薩摩とつながった。
薩摩芋ももともと沖縄から伝播してきたものらしい。
米はこの海上の道から来たというけど沖縄では稲作になる適地がないし本土とは江戸時代になるまで交流がなかったからどうなるかとなる
ただ貝は中国に伝わり貨幣となったり日本の関東地域とかまで運ばれたことはわかっている。

ともかく旅すると必ず方角がわからなくなる。だから方角を知るために磁石が必要なる。近江は琵琶湖を中心にして地理がわかりやすいところだった。
それでも湖西があり湖東があり関が原から向こうが東だという感覚がわからなかった。
たいがい自分の住むところは太平洋から陽が昇るからである。
ただ湖西となると何かやはり陽の没るところで比良などの山々があり淋しい感じになる。西会津でも会津のさらなる奥で淋しい感じになる。
つまり東とつくと何か明るい感じになる。東山とかあり東山温泉とかあるのは会津でも同じである。
でもまた会津でもあそこが東山で陽が昇るのかということもわかりにくい、会津は山国になるからその地理がわからなかった。
そして一番不思議に感じたのは太陽が湾から山に沈んでゆく、西沈んでゆく光景である。大阪湾などがそうであり他にもそういう場所は西になると多いのである。
大阪の日下とはもともと大きな湾があり陽の沈む所として名付けられた。
日下部というのはそこから生まれた。一つの太陽の方向感覚から生まれた地名でありそれが氏族の名前となった。
旅の面白さはそうしたありえないような風景に接することである。
それは太陽が山から昇るでも海から昇る陽をいつも見ているのとはまるで違った感覚になるからである。


 
タグ:東西

2015年06月09日

神田うのベビーシッターに3000万の窃盗被害 (家に入り働く人は一番危険で要注意ー泥棒にも三分の理)


神田うのベビーシッターに3000万の窃盗被害


(家に入り働く人は一番危険で要注意ー泥棒にも三分の理)


神田うの、ベビーシッターによる3000万円以上の窃盗被害に 「シッター4人体制」も発覚し、ママタレ資質に疑問の声も
2015年6月5日(金) PM 6:36
「主文 被告人を懲役2年4月に処する」。5月14日、東京地方裁判所711号法廷で“ある窃盗事件”の判決が言い渡されていた。被告人は60歳の女性。A被告はベビーシッターとしての立場を悪用し、派遣先の家から27点、時価にして1千万円以上もの金品を盗んでいたという。実は、彼女はタレント・神田うの(40歳)の元ベビーシッターだったのだ――。
うのといえばタレントとして活動するかたわら、手掛けるブランドの年商が100億円とも言われる実業家だ。07年には、大手パチンコチェーンなどを展開する「日拓グループ」社長の西村拓郎氏(45歳)と結婚。11年10月に長女(3歳)を出産すると、子育て環境の充実に力を入れ始めたという。11年12月、彼女はベビーシッターの派遣を知人の会社へ依頼。そこで紹介され採用されたのが、A被告だった。


高島忠夫と寿美花代の子供が家政婦さんに殺害された事を思うと 3000万の金品盗難で済んで良かったと言うべきか

自称保育士の男がベビーシッターとして預かっていた子供を虐待し、死体遺棄した疑いで逮捕されました
被告人は60歳の女性。一番の古株←しなさそうに見えていたのかもね そういう人が一番怖いってことだ

信頼までは金で買えなかったかぁ…松嶋菜々子と反町隆史のところは、プライベートを知られるのは怖いから、シッターやお手伝いさんは雇わないとかいう記事が出た事あったけど、それ位警戒して丁度良い位だね。
http://www.officiallyjd.com/archives/452658/


これは事件が起きるべくして起きた。こういうのは被害者もカルマがある。
要するに犯罪でもただ偶然には起きない、その人の因果で起きる、偶然だけではこの世のことはかたづけられない。
なぜある人が事件とか事故にあうのか?
ただ偶然にそうなっているのか?
自分のことを考えられると偶然には思えないから自分にもカルマがあったから犯罪にあったと今では考える。
もちろん相手もそうなのだが自分もそうだったのである。

被告人は60歳の女性。一番の古株←しなさそうに見えていたのかもね そういう人が一番怖いってことだ
自分にもこういうことがあった。近くだしそんなことしないと思っていた。
でもその人にすれば自分の家で働く動機がなく金だっけだった
だから最初から金だけが欲しくて家の中を荒らされたとなる。
そこに突然の自分の病気とか重なってそうなったのだがこれも自分のカルマだった
カルマは必ず清算されることが要求される
人生のしたことが必ず60以上になったら清算要求される、ツケは払わされるのである。
それはどういうふうになるか個々人で事情が違うのでわからない。
何かこの世に偶然はありえない、犯罪にあうのもあうべくしてあう、あわない人はあわないのである。

この芸能人はあうべくしてあったのだ。その生活を見たら誰でも盗みたくなるような家だったのである。高価な宝石やら何やら家政婦でもベビーシッターでもそんなところで働いていたらそうなる
なぜこの家にこんなに高価なものがあるのか、こんなに金があるのか、私はこんなところでなてぜ下働きしなければならないのか?
他人の子供の世話をしなければならないのか?
そういう生活の差が露骨にありすぎたのである。
一番危険なのは家に入って来る人である。家の事情がわかってしまうからである。
信頼関係がない人は家に入れるべきではないが入れたとしても常に看視していなければならないから心も休まらないだろ。
今では介護関係などでも家に人が入ってくるから危険である。
でもまたそうならざるをえない事情もある。大家族でもないし人手たりていからである。本当はこういうふうに家に入ってくる人は一番犯罪が起こり安い場所なのである。
青森では家政婦が働いている家々に火をつけて火事にしたとか様々な問題が起きる。
要するに人間は働くにしても動機が肝心になる。
犯罪では必ず動機を問題にする。動機があれば犯人と目星をつけられるのである。
働くにしても働く動機が必要なのである。
それが今は金だけもらえるから働くという人が多くなった。

例えば江戸時代以前とかは乳母(めのと)とかが殿の子育てなどをしていた。
それはその侍社会では城を守るという共同性の中に生きて生死をともにしていた共同体があったからである。
その殿様の子を育てるということは自分自身達の利益にかなうことであり守らねばならないものだった。それは単に利益というだけではない、長い時間でそうした家族と同じような絆が作られていたのである。
今はそういう動機がない、ただ金で雇う雇われる関係になると家の中で働くとなると危険である。
信頼関係は簡単に作れないからである。
実際インターネットで離婚した男性がベビシッターを雇い子供が殺されたとか虐待されたとか外国でも普通に起きている。
そういうことが起こりやすい世界なのである。
特に今は金だけの関係だけになるから特に問題が起こりやすいのである。
他人の子供をめんどうみる動機がない、金のためだけだとなると盗んだ方がいいとなる
ここにはこんな贅沢している、盗んでもいいとなり泥棒にも三分の理があるとなる
現実にこの人との生活の差は百倍もあるだろうから当然だとなる
3000万盗まれても端金になってしまう。
だから本当に子供でも殺されなくて良かったとかつくづくそう思う。
一万でも殺される人は殺されているからである。
だからこういう犯罪はどっちにしろ起こるべくして起こるというカルマがあったとなる。

最近東京で介護する老人が増えるから地方で介護させるとのがいいと東京で言っているのもまた身勝手である。

農業は米を作れば作るほど赤字を作り、再就職先も無い。 
 田舎は独居老人と孤独死(都会者は信じられないだろうが、百姓の餓死などザラだぞ)、空家と無縁墓だらけ。
いかなる形であろうが、余所者が入り込める隙間などどこにもない。

それより田舎で暮らしてきた人が金がある東京の老人を介護者として優先して地元の人が介護されないとか金がない人はお断りとなったらどうなるのか?
田舎の人たちは怒るだろう。
そうなると東京から施設に入っても歓迎されないから危険な状態になるかもしれない
それは金だけではそもそも介護の動機にならないからだ
介護となると常に問題になるのが義理の父親とか母親は実の親ではないのだから介護したくないとなり離婚になったケースもある
それも動機がないからそうなる、介護はもともと家族がするのが動機があるのだからそうなるべきだとなる。
子供を世話したのはその介護される親だからである。
他人は金をもらったとしてもいやいやでしかできないだろう。
だから介護というのは動機が深くかかわっているから施設ではいい介護は金持ちでもされない
世話する人には動機がないから金だけもらえるとしても表面では愛想よくしてもどうしても本音が現れるのが介護の現場なのである。

いづれにしろ殺されなくて良かったとしてあきらめるべきだった。

その人にとって3千万でもはした金だったからである。
だから泥棒にも三分の理というのは諺にはつくづくそれなりの理があって今も変わらず人間は変わらないから通用している
盗まれる人は殺される人は何かそれなりの理由があり偶然ではないとなる。
ただ必ず例外的なことはありすべてとは何でも言えない
これは外から見てもわかりやすい例である。
何か世話になったとか金意外の動機があれば家で働くのも安全になる。
そうでなければ保証はないということである。
その子供でも雇い主でも殺されるかもしれないということを自覚しなければならない
いづれにしろ人を雇うとか雇われる関係というのもまた様々な問題が起きる
ブラック会社のことが問題にされるのもそのためである。

そこには金だけが働く動機となり雇う人も雇われる人も金だけの関係になるから問題になる。
雇う人にも雇われる人にもなにかしらの人間関係が生じればそうはならないのである。
今は人間の関係を金だけで処理しようとするから問題が起きる
金がやるからいいだろう何か文句あるのかとかで終わりになる。
そういうことは福祉とかでは人とじかに接するから割り切れないから問題が起きるのである。
ともかく家に人を入れるとなるとそれなりの家で待遇しないと問題が起きる
それだけの金があればもっと金をはらっても良かったからである。
家の中で働いてもらうことははっきり言って金でありなんであれ与えないとできない、高価な代償が要求される。現代は特にそうした人間関係が簡単に作れないから問題が起きるインターネットでベビーシッターを雇った殺されたというのもそうである。
つまり家族の役割をしてくれる人などもともといないのである。
それを自分は介護とか自分の病気で自分一人だったからいたいほどわかったということである。

金は借金でもすれば出てくるが
人は湧いては出てこない

人手不足といっても仕事ができる人は簡単にはみつからない、その仕事にマッチした人は簡単にでてこない、確かに金はでてくるしある人も多い
でも信頼ある人が来るかとなるとそうならない
だから人手不足簡単に解消しない
金だけではこの世のどうにもならないのである。
金+?が必要なのが人間社会なのである。




ベビーシッターの男が預かった子供を殺害した事件は、もちろん一番悪いのは犯人だけど、預けた母親もちょっとバカすぎるよね。 ネットで見つけただけの赤の他人に子供を預けるなんてね、非常識もいいとこ。
母親は被害者ぶってると思うけど、あなたもはっきり言って間接的な加害者だよ。被害者ぶらないでほしい。

hasekai526さん 編集あり2014/3/1919:07:56

別のサイトでは母親のブログに、預けた日は彼氏と2泊3日で旅行に行ったと書かれていたそう。
ブログは既に閉鎖されているらしいので事実かは分からないけど、本当なら最低です。
何被害者ツラしてんの!
家族も彼氏も同罪だよ。(知ってれば)


世の中の事故なんて、何かと何かが、タイミング悪く
重なった時に起こるんだと、改めて思いました

つくづくこれが自分にあてはまっていた、事故や事件はいろいろなものが重なり起きる。
自分も全くそうだった、なせそのとき突然病気になったのかもそうである。
それも偶然ではなくなるべくしてなったとなる。
だからこの世で起きることは自業自得なんだよ借金した人もそうであり見栄からしているだからそれを他人に負わせるのも納得しないだろう。
自分でそのツケを借りをカルマを払わなければならないんだよ
まあ、他人のことは言えない、自分もそうだった。
ただなんとか自分はこの七年間の苦しみで自分のカルマは清算した感じた
そのあとまだつづきがあるのかもしれないけど金があるから安全はない
本当に殺されなくて良かったというのが世間の見方であることを知るべきである。

=A7dP5XXUanZVIzsAwNEUAPR7?page=2&qid=13125064868
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抽象画(岩と地底) (抽象画は原画を変化させて意味与えて鑑賞する)


抽象画(岩と地底)

(抽象画は原画を変化させて意味与えて鑑賞する)

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奇岩

shikazannn11.jpg
死火山の火口

これは原画とかなりにているからまずい

ただ一連のものとして理解させるために出した


chiteipowaer.jpg

地底の紋章


これも著作権に違反しているかもしれない
でも抽象画が変化させてまた意味あるものとなる
つまり抽象画が見てもなにかわからない
それが変化させて岩になったなとしてまた鑑賞している
火口のように見えるとしてまた鑑賞している
これは原画みると変化させたものだからわかる
別に著作権は指摘されていない
結局わからないのだろう。

インターネットでは著作権違反は相当にある
なぜならインターネット自体が一つの巨大な本になっている
一冊一冊として作者があるのとも違っているからだ
共同制作みたくなっている
これも問題なのだけどそうなりやすいのである。
普通は絵画などは写真集でみているけどこんな変化させたりできないからである。
タグ:岩山

2015年06月10日

抽象画(光あれ、色のあれ)


抽象画(光あれ、色のあれ)

抽象画に適したレーザーグラフィックス


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光あれ、色のあれ

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山の色

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水がおおっていた




抽象画はこうした新しい電気の色に向いている。
電気の色は変化しやすいのである。
だからart(技術)とともに生まれた新しい芸術なのである。
タグ:

初夏の花々(薔薇などの写真)


初夏の花々(薔薇などの写真)

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roselight1234_FotoSketcher.jpg
クリック拡大ーニコニコ堂(北海老)

小さなるトルコ桔梗の桃色に壺にさし見ゆ可憐なるかな
年ふりて花に花のつつむかな夏蠟梅を庭に咲かせぬ
花の中小さき花をつつみつつ夏蠟梅の我が庭に咲く
三色の百日草を部屋におくその色映えて明るくなりぬ
触らずに薔薇に光や我がよりて掃き浄めける朝の庭かな
窓により若き男女や大輪の赤き薔薇映ゆニコニコ堂かな



写真はデジタルカメラだとまずこれが良くとれているんじゃないかなと思ってもとれていない、角度を変えたり接近したりランダムにとったものをあとで見るとこれがいいなと選んでいる。
こういうことは写真だけとるならできなかったろう。
現像する前にどんなふうにとれていたのかわかるだろう。
だから写真というのはより身近になった。つまり素人でもいいのが結構とれる
ただ6万くらいのカメラは必要である。
光の具合などでかなり差がでる、実際見たものとは違ってくる。
この薔薇の写真はやはり光の具合が見た感じとは多少違っていた。
さらにいいカメラだったら見た目と同じくとれるらしい
それはソニーのカメラで二十万とかなるがそれだけの価値はある
夏蠟梅とかめずらしい花である。そういう写真はインターネットに今はいくらでもでている。

自分は庭を掃除したり花を挿したり手入れしたり家事をしたり介護したり金銭の管理からなにから毎日追われている
プログだってインターネットでもパソコンの操作は結構手間だし疲れる
今日は厚寿苑に三日ショートスティした。
だから余裕あるといえばあるが前とはまるで違う。
前はなんかいつまでもなにしもしない時間が延々とあった
だから暇で嫌な面もあった。でもそういうことも今はない
だから家事でも何でも何もしない時間が長くつづいたらなと思う
そういう時間をもてたのは幸せだった
結局人間で一番貴重なのは時間だった
その時間が無駄なことに費やされることが一番浪費だったのである。
そのことが若いときにはいくら言ってもわからないのである。
人間は何でもそれが現実化しないと自分の身にならないとわからないのである。

誰だか一万時間費やせば誰でも他よりぬきんでる、プロになるというのは本当である。
なぜなら一つの楽器を覚えるにはそれに時間をいくら費やすかで決まるからである。
一万時間費やせばプロになれるはいうことである。
そして楽器にしたっていろいろな楽器など時間がないから覚えられないのである。
北海老のニコニコ堂には日曜日は人が入っていた、若い男女は窓に見えた
自分は入らなかったがあそこの庭はいろいろ花が咲いている
今は大きな薔薇が咲いていた。あそこは絵になる場所なのである。
ただ昼間でも予約制の食事だから行きにくい
仮設のあつみ食堂には一週間に二回くらいは行っている
あそこまた昼間だけだから困る、晩方もやればゆきやすくなる
結局これも時間の節約のためなのである。
外食すれば時間が節約できるからそういうふうに思う
ただ野菜類とか自分でとらないと体に悪いから自炊が必要である。
今日はまた暑くなった。
暑いと外にでると自転車は疲れる
また明日から介護がはじまるからゆっくりしていられないのだ。

"天才"に生まれ変わる「10000時間の法則」

これが参考になるかもしれない,旅でも旅人になるにはそれだけの時間を費やす必要がある
それはみんな時間がないのでできないのである。

知識にしても膨大だからそれに費やす時間がなくて中途半端で終わるのである。
タグ:薔薇

2015年06月11日

結婚もしない家族もいない人の末路 (何でも人生の最後は自業自得で覚悟が必要)


結婚もしない家族もいない人の末路


(何でも人生の最後は自業自得で覚悟が必要)


歳喰って入院してみろ
独り身の老いぼれ爺に対する看護師の嫌がらせ虐待は凄まじいぞ
傍で見ていて見ちゃおれんぞ
独り身の男は差額ベッドの個室に入れるようにしないとな
金をたらふく持っていれば女と言うのは見下さないから

違うよ、独身がキツイのは親の死の時期を意識したときと自分が病気になったときだよ
親が死んだらもう一人ぽっちだ、誰も相談にも乗ってくれない、そもそも親の葬式はどうやって出したらいいのか、親の墓は?そして自分の死後は?
 病気になったときも誰も看病してくれないし、入院することになったら誰が入院準備をしてくれる?誰もいない

東京ですが、また数十年続いた店が潰れた。そこいらじゅう。結婚以前に、
 生存出来るかどうかの状況が広がり続けている事を議論した方が良い。
 結婚や幸不幸を語っている内は実に長閑。不幸でも何でも無い。
ちゃんと食べれて、ちゃんと家の中で眠れる。これすら出来ない人達が
 もの凄い勢いで増えてる。結婚したって、出産するだけで50万円。
お金持ちだけの選択肢じゃないでしょうか。貧困層はそのうち消えると
吐き棄てた政治家がいたけど、確かに一理あるかもしれない。自分だけで精一杯。



このことを身をもって経験した。全くその通りだった。自分は別にこんなこと予想もしなかったからのんきだった。何となく不安があったから的中した。
なんとなく不安なことは何か的中する度合いが大きい、本当はそんなこと考えたくないけど的中する、何かになるんじゃないかと不安なことは本当にそうなる確率が多いのかもしれない
原発だって近くにあればあれ危険じゃないのか?とか放射能のことはわからないにしても不安に思う人がいたろう。
人間でもなんかこいつヤバイんじゃないかとなると君子危うきに近寄らずとなる
つまりそういう不安が的中しやすいのである。
だからといってこの世の中そんなこと言ったら暮らしていけないから楽天的にすごした方がいいとなる。
それでもこの世で最悪なことが国レベルでも市町村レベルでも個々人でも必ず起きるということを身をもって津波とか原発事故で経験した。
最悪のこととは戦争で300万人死んだというのも今より最悪だった。
それは今になるともはや想像もできない最悪だった。
あれだけの最悪を歴史的経験するとどうしたら戦争をさけられるのかという国民になってしまうのは当然だ、9条だけの話じゃない、戦争経験した人は戦争だけはするなと言って死んだ人が多い。それだけ悲惨すぎたからである。
それも国民の歴史的経験からそういうことになったのだから悪いとはならない
でも戦争のことを知らない人は戦争を軽く考えてしまう。
人間は何でも実際に経験しないとわからないことが弱点である。

例えば牧師だろうが何だろうが例え本を出したとてもそれは言葉では誰でも言えることがある、人類みんな愛しないとか同情しなさいとかいろいろいいことは言える
でも実社会ではそんなに簡単に言葉だけは言えても現実に対処できない
そういうことを身をもって遅かったが体験した。
人間かいかに非情で自分のことしか自分の家族意外のことしか考えていないかというのも知った。
そんなことが当たり前じゃないかというが経験しないときみんないい人だと思っていたのである。
だから肉親が家族が殺されたり被害にあったとき憎まずに許しなさいということは簡単に言えないのである。
自分も被害にあって許さなかったからである。
キリストの十字架の上での言葉ならそれは嘘ではない、身をもって示したからである。
言葉ならいくらでも人間は言えるのである。
だからいくら本にいいことを書いてもその人がどんな体験をしたのかが問題になる。
戦争のことなどもだから実際は体験した人でしかわからないのである。

将来を予測して結婚している人は若いとしてもしっかりしている
自分にはそういう感覚がなかった。
本当にこの通りになったのが自分だった。
もちろん自分にかかわった奴らも異常だった。
それぞれが大きな問題をかかえていた。
一人は家族から追い出されたとか離婚していたとかあり現代の家族関係を象徴していた。つまり現代では子供は親のめんどうみないし一緒に住むことはむずかしくなっている
たから結婚したら別々に暮らすのが普通なのだがその人はまた金もないなど追い詰められていたのだ。
もうぎりぎりに追い詰められていた。そういう人も老人で今は増えているのだ。
みんなが金持ち老人じゃないのだ。
もう一人はまた借金で首がまわらなくなった人だった。
成功していたというので本当に成功していたと思っていた。
前の代からつきあいがあったから信用もしていたがそんな人ではなかった。
事業を失敗したからこの人も追い詰められていたから自分の家が病気とかなり自分もなったとき借金の請求で攻めてきたのである。
だから自分が病院に入院するとき、保証人になってもらったがそのことで恩をきせるは
弱者化したときいじめてきたのである。
その人が事業に失敗したのも当然だと思った。弱者を虐待するような人だったのである。

ただ南相馬市立病院では別に保証人もいらなかったのが不思議である。
あそこは何かルーズだったので良かった。相馬総合病院はうるさかったのである。
その時手術もしたからその時立会人が必ず必要になる。それも結婚していないととかなる家族がなくなると困ることになる
そして人間は非情であり弱みにつけこまれたのである。
それもあったが相手もぎりぎりに追い詰められていたのである。
相手を思う余裕がなかったから当然そうなったともなる
腹減ったら動物でも獲物となるものを襲い食べなければならない
子供など怪我しているような動物だと獲物にされやすいというときそれはつかまえやすいからそうなる。
飢えているのだからてっとりばやくつかえまるものをねらうのである。
まさにこの弱肉強食の世界を自分は身をもって体験したのである。
弱者に対しては相手も言い分が通りやすくなるのだ。
何ら抵抗できない状態にあるからそうなる、それは病院とかでも起こりやすい

医者とか看護師には抵抗できない、だから身寄りのないものは悲惨なことになる
おもちゃのように看護師にもてあそばれていた90才くらいの施設に入っている老人がいたその老人が苦しくても家族がいなのだから看護師にとってやり放題になる。
現実自分も入院して虐待とにたようなことをされたから病院は怖いと思った。
看護師がやさしい人とか医者でも非情な世界だと思うようになった。
体をみても心はみないし病院で死ぬのは別に家族でもないのだし人間は次から次と死んでゆくのだから死ぬことは一丁上がりとかしかならなくなってしまう。
あとは物のようにかたづけるだけなのである。
だから家族がいないということは人間にとって弱肉強食の世界では恐ろしいことなのである。
そのことを結婚しない人が多くなったが60以降に自分のようになりやすいから恐怖を感じるべきなのである。

いづれにしろ結婚するに結婚しないにしろ離婚するにしろ家族をもっても様々な問題をかかえるのが人間だから別に結婚しなくても地獄を経験している人などいくらでもいる。
別に家族があってもでたらめな親だったら子供は介護したりしない、捨てられるから家族でもいろいろあるから家族が万能でもない、他人でも親切な人は親切である。
同情する人はまれでも同情するのである。
自分を弱者化した時攻めて来た人もぎりぎりに追い詰められていたのである。
結局何度も言ってきたが人間は結婚するにしろしないにしろ自業自得でありカルマの清算を60以降に否応なく強いられる。
これは本当に自覚すべきなのだが若い内はしないし想像できない

若いときの不品行など一時的なもので忘れると思っているが60以降にかえってよみがえりさえなまされるのである。
若いときはなにをしてもそんなに老人になるまで影響するとは思わないのである。
つまり若いとき老人になることが想像できないことが人間の弱点なのである。
若い人が良く俺は60くらいで死ぬのがいいとか言うがそんなこと60になったら誰も言わない、もっと生きたい70でも80でも平均寿命まで生きたいというのが普通である。
その若い人たちも必ずそうなるのである。
結婚しないとどうなるのかというのも想像できないからであり今回のような恐ろしい災害が起きたのも想像できないからこんな大きな被害になったのである。

結局人間はもう最後は結婚するにしろ結婚しないにしろ何になれすべてカルマであり自業自得としあきらめるほかない、つまり現実を受け入れ過酷でも覚悟するほかないと思ったそういう境遇なってしまったのだかからもう結果だからどうにもならないと現実を受け入れることを覚悟するほかない
借金した人も他人に負わされるのではなく自分でかたをつけるほかないのである。
人間はみんな最後は自業自得であり他人に責任転嫁ができないようになっている。
だから必ず何であれ責任がとらされる、最後はカルマの清算が強いられる
それは逃れることはできないと覚悟するべきである。
自分の場合はそういう覚悟を強いられたとなる。他の人も別に結婚しない人でも自分のカルマは借金でも自分で返す他ないのである。
結局他人がそれぞれの人生の責任など負ってくれない
その人自身が最後は負わされてカルマの清算を要求される

これからは日本も今までのような楽なことはない、経済的にもそうだし大きな国民的困難の時代になるだろう。貧乏になってゆくのもそうである
だから日本に関して甘い幻想をいだくのはやめた方がいいとなる
日本の経済成長とか楽な時代は高度成長のような時代はもうないのである。
日本は今回の震災や原発事故で苦難の時代に突入した。
それも国民的カルマとして自覚しておく必要がある。
まともに食べられないというとき、物価があがったから現実に野菜でも果物でもずいぶん上がって食べられないと思った。
だから何をたべればいいのか?バナナは安いからバナナでがまんするとかなるかもしれない、現実に自分の子供の時はバナナは田舎では売っていなかったし父親が病気になったとき仙台から買ってきた。バナナは最高の贅沢品だったのである。
だから昔の生活をふりかえりバナナが食べられることはまだ贅沢なんだとか思う必要もでてくる。
そういう心構えをもたないと今までのような贅沢の時代は終わったとしてひきしめないと生活すらできなくなるからだ。
物価が高いということは物の価値があがることであり賃金が上がることは労働の価値があがることでもある。それは悪いともならないのである。
それは節約とか倹約とか物を大事にするとかになりいい方面に働くこともあるが悪い面としては消費が落ちるから売る方では会社では困るともなる
ただ今までの贅沢な無駄な消費生活は見直される時代になるからいいことでもある

いづれにしろも老人は先がないからあきらめかつく、若者はそうはいかない、そこにまた大きな差がある。この辺で避難者は小高などに帰れというけど老人ばかりであり
そんな人たちがどうして復興するのだろうかと思う
シルバータウンになりうば捨て山になってしまうのじゃいなかと思う。
あと何年生きればいい、あと五年原発補償金もらって暮らしたいなどと言う人ばかりなのである。そんな人たちがどうして帰って復興できるのかとなる
そういう人たちを老人をみるともう復興がどうのこうの問題でなくなっているような気がする。
だからもう何も外からも何も言っても無駄だともなる。第一そこに住む人たちがもう復興などする意欲がないのだから外から何を言っても無駄である。

人間は例えばアメリカが日本を守ってくれるわけではない、日本が領土でも守る気がないとしたら血を流す気がないとしたらどうしてアメリカが血を流して助けるのか
それも日本人は他力依存に戦後アメリカに支配されてなってしまったのである。
戦争はするのはを拒否しても自分の領土を守るという気概が必要になる
なぜらなちら尖閣諸島だけではない日本自体が今度は中国の属国化してしまうからである人間は最後は覚悟と気概が要求される。
それは過酷な体験したことによりそういう覚悟ができる
イスラム国も残酷だがあそこまでしていることはやはり命かけて戦っていることは戦後に楽してきた日本人には理解できないのである。
だからあんな残酷な殺され方を日本人がされたとなる。
それは別に戦時中は普通のことでありめずらしいことでもなかっのである。
ギリギリにおいつめられると人間はどんなことでもする
飢えていると野獣と同じくなるからもはや何を言っても無駄である。
戦争終わってから捕虜になりどんな悲惨な目にあったかそういうことも体験したものでないかぎりわからないのである。


 
タグ:未婚

2015年06月12日

貧乏が賛美されていた明治から戦前のこと (山村暮鳥の詩の不思議)


貧乏が賛美されていた明治から戦前のこと

(山村暮鳥の詩の不思議)


現代の生活は定着的農耕民的生活から離れている。江戸時代なら8割が農民であり生活も回りにあるものでまかなったからそんなに移動はしない
隣村にゆくのにも見知らぬものとして警戒されていたし民情が一致しないと飯館村大倉村と佐須村は明治以降になっても合併しなかった。
現代の生活からするとどうしてそういうことができたのか不思議である。
地球の裏側から物が入ってきてその物が入らないことを心配しているグローバル経済の時代である。
現代とは空間感覚が急速に拡大した。
文明とは空間を技術でもって交通でもって縮小することでもあった。
だから明治維新の象徴が鉄道になったのである。
鉄道によって日本という関所で閉ざされた空間が敗られ一挙に日本の国土意識をもったとなる。
切符一枚で日本全国に関所も通らず行けることがなくなったからである。
その江戸時代から明治の変化も大きかった
だから東京で鉄道でも見知らぬ人たちが乗り合わせることに違和感をもった
つまり見知らぬ人がそんなに一緒にいるということがありえてかったのである。
人間は常に見知った人たちと生活していた。
それが江戸でも長屋でもそうである。長屋でも人は移動しなかったのである。

江戸時代から明治に変わるとき空間意識も時間意識もまるで変わってしまったのである。ただ明治昭和戦前戦後十年とかとまだ生活的には江戸時代の延長ということがあった。
なぜなら燃料も炭とか薪であり時給自足的な生活だったからである。
そして農民的社会であり工業社会でも情報社会でもない、その土地土地に根ざした生活だった
一番驚くのは大正時代でも人口が6000万だったということである。
これくらいの人口だと日本の自然は十分に今より余裕があり残されていたのである。
それでけ山村暮鳥はホイットマンのように都会までありあらゆるものを賛美していた。
機械文明もその時は新しいものとしていいものだったのである。
そこに否定するものはなにもなかった不思議である。ガスタンクまで賛美している
その時文明は全面的に賛美するものとしてあった。
科学とか技術が新しいもの作り出してゆく未来と感じられていたのである。
明治から大正時代でもその時は日本の新しい文明の発展時代でありそれは何でも良いものとして受け入れられていたのである。
アメリカでも日本と同じように農民主体であり農本主義でありそこを基盤にして機械文明が発展してゆくはじめでありホイットマンも何でも賛美していたことは同じだった。
その時ソーローのように文明を批判していたのは例外的だったのである。
そういう田園を破壊する予感はあっても全体的にはそうはなっていなかったのである。

そして山村暮鳥の詩の特徴はまたその当時の詩の特徴は貧しさを賛美していることである貧しさの中になにか人間として尊いものを感じている。
現代は貧しさは最も嫌われるものでありふれたくないものであり貧しさ隠す時代である。だからボロを着ている人もいないし何か飢えている人などみかけない
生活保護制度もありそこまでにはならない時代である。
ただ現代の精神的貧困さはかえって車がないとか立派な家がないとか教育でもいい大学に入っていないとかそういうことで競っている
いい車をもっていない人は見すぼらしく見えるから借金してもいい車をもとうとする。
現実に前の親戚は事業を起こして失敗したがそういう見栄を維持するために借金していた他でも借金していい家を建てた人が多いのである。
だからいい車をもっていないとかいい家がないとかそうしたもので差別化される
教育でもいい大学に入っていないと馬鹿にされるとかなる
貧しい時代は食べるのが精一杯な時代はそういうことがなかったろう。
要するに江戸時代でもその後明治から戦後でも十年くらいは大方はその日暮らしではなかったか?

自分の家では一時部屋を貸していたみたいだ。その時毎日のように家賃をとりにいったと聞いた。これもありえないことである。一カ月に一回が普通である。
毎日となると手間になるからめんどうになる。
ではどうしてそうなったのか?それは日銭稼ぎでありその日暮らしが多かったからだろう酒でも升で子供のとき買わされたことがありその頃買い置きというのはできなかったのだろう。
そんな金をもっていなかったのである。
つまりその日暮らすのが精一杯だったのである。
今の時代は貧乏でも何かしら貯えのない人はいないだすろう。
ただ貧乏な人はその日その日を暮らせばいいとしている人はまだいる
蔵がある家はその時金持ちだったのだろう。
何かしら米でも貯えておけたからである。何も貯えられない人がほとんどだったのである病気になったらどうするのかといったらろくに医者にかからず死ぬ他なかったのである。今のような手厚い医療も介護もないのである。そんなことにかける余裕もなかったのである。
だから今の生活と比べるとその相違があまりに大きいのでそういう生活が理解できなくなっているのだ。

今の生活は今を見てもわからない、過去と比べると見えてくるのである。
今の当たり前のことは昔は当たり前ではない、特別恵まれたことだった
昔は三食食べられて眠る場所があればいいとか考えていたのだろう。
それ以上の贅沢は望みえようがなかったともなる
母が紡績工場で働いていて30分の休みに遊びたくてはや食いした女性が体を壊して死んだというのは信じられない、でも30分は短いから食べる暇もなかったのかもしれてない
そういう労働環境だったともなる
昔はなんらかどこでも働きづめの一生だったのが多かったことは確かである。
現代のように三分の一が働かない時代だとなるとこれは天国かもしれないとなる
自分などは恵まれてその天国を生きたのかともなる。
だから現代人の若者でも不満は過去に比べるとかわいいものなのかもしれない
もちろん時代時代によって苦しいことも楽しいことも変わっているから一がいにははかりえない
でも過去と比べれば現代は恵まれた時代なことは確かなのである。
ただそこで失ったものがは確実にある

なぜ貧乏がその時代に賛美されていたのかということである。一種の清貧というものがあった。清貧というのもは貧しさのなかでも何か精神的には美しいものを維持しようとすることである。
現代ではそういうことはない、貧しいということは落伍者でしかないのである。
現実に水道でも電気がなければ生活できないというときその最低限の出費でも金がかかるのだから金がないということは生活できないということに通じているからである
山の清水を井戸の水を飲んで暮らせばいいとはならないからである。
だから清貧などという暮らし自体が成り立たないのである。
それで人間はかえって文明的便利な生活の結果として精神的には貧しくなったともなる
貧しさの中に人間的精神的な高貴さを維持できるものがありえたが今はありえないからである。
上野霄里氏は戦前生まれだから「貧乏の哲学」をもっていた。
だから貧乏な生活でも精神の高貴性を維持できていた。
でもあのような貧乏をもう強いることはできないのである。
旅をしても一杯の水を飲むにも金がかかるからである。
自分は別に車がなくても今は生活できるし車がなくても貧しさは感じない
そもそも車は自然を感じないから嫌なのである。風も感じないし日影をゆく自然も感じない、だから自然を感じるために自転車に乗っている
ただそれも車社会では贅沢なことをなのである。
日常生活では車をもたなくても車の恩恵で暮らしているからである。
ただ車をもっていないとなると現代では一段と低く見られる
車ももてない貧乏なのかと見られのである。
むしろ自転車で生活していること自体豊かなことだと自分では思っている

軽快にロードで走る夏雲雀

やはりロードだと電動自転車と違い早し気持いいとなる。電動自転車ばスピードは出せないからである。
ともかく山村暮鳥の詩はその時代を反映したものであり今ではありえないことを詩にしている、それはまた現代で失ったものがいくら貧しくてもあったのである。
だからそういう昔にあったものを見直す作業も必要である。
それより今の時代はかえってそうした昔のことをもっと知るべきだと思う。
何を得て何を失ったかを知るべきである。
それは原発事故などで故郷まで失った悲劇を考える手助けになるのである。
昔の詩歌は貧しさを歌っていてもそれは現実から生まれていた。
山尾三省は作られた文明という豊かさの中に作られた貧しさであり
本物の貧しさではない、パンも食べられないというのは故意に作られた貧しさなのであるテレビで放送するのも貧しさがものめずらしいものとしてとりあげている
本当の貧しさがわからなくなったからそうなったのである。
だから山尾三省の詩はそんなに価値がないかもしれない
つまり芸術はその時代時代でしか作り得ないものがある
芭蕉の俳句もその時代だから作れたのであり今でもこれほど俳句が盛んでも俳句が作れるの芭蕉以上の人は出てこないことでもわかる
その時代に作り出した価値はいくら文明が発達しても豊かになっても作れないのである。


ボロを来て野良仕事している人間
車も機械もなにもない時代
家もボロ家でみんな貧しい時代
そこにも人間の美しさがあったのか?
その心は正直で飾るものがなかった?
今人間はいろいろなもので飾る
その着るものでその持つもので
家や車や機械や道具で飾る
でもその心は貧しい
ただ毎日たりないたりないと嘆き
不満が絶え間なく起こり
何にかがないと嘆く人ばかり
一人も感謝するものはいない
多額の借金までして身を飾る
自然の美もその人たちには映えない
車のない人たちは失格者となり
見下して車を吹っ飛ばしてさる
人間同士いたわることもなくなった
ただ金を求める声のみがある
・・・・・・・・

つきあいが悪くなり親密さがうすれてきたことが現代経済の特徴だという
親密さには時間かかる
社会的に物質的に豊かになりますます時間に追われると人間同士の親密さや思いやりが少なくなってゆく

我々が成長と生産性を重視するのは「根」の感覚が薄れていることと密接な関係がある
自分を確かにつつんでいた共同体が失われ自分の孤独ともろさを思いしらされたとき我々はそれを所有で埋め合わせようとするのだ。
捨てな新しいものを買う時、家の中を見回して新しいして物を買うとき力を感じるのである。

「アメリカ人の来世はショッピング・センターにある。彼の勤勉はそこで報いられるのである」
(豊かさの貧困)ーポール、L ワクテル

自分も毎日が買い物であり買い物が一仕事なのである。
なぜこんなに買い物があるのかと思う、だから毎日行っているのはスーパーなのである。
ただそこは買う場所であり何か人間が親しくなる場所でもなんでもないのである。

この本も前に読んだが忘れていた、前に読んだ本を自分なりに活用してくるとき本も生きてくる
これをもう一度読んで評論してみよう



山村暮鳥の詩はいろいろあるが今ここでは紹介できない
山村暮鳥全詩集がでているのでそれを読む他ない
あとで詩の解説はするようになる



 
タグ:山村暮鳥
posted by 老鶯 at 16:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

今日一日の実り(詩) (労働に充実感をもちえない時代)


今日一日の実り(詩)

(労働に充実感がもち得ない時代)



父の手は手というよりもむしろ大きな馬鋤だ
合掌することもなければ
無論他人のものをかすめとることも知らない手
生まれたままの百姓の手
まるで地べたの中からでも掘り出した木の根っこのような手だ
・・・・
いまもその手は骨と皮ばかりになって
なおもこの寒天のやせた畑地を耕している
ああ 自分は何も言わない
自分はその土だらけの手をとっておしいただき
このところではるかにその手に熱い接吻をする
山村暮鳥(父上のおん手の詩)



今日一日の実り

今日一日実りのあれや
多くのものがあふれ
今日も我はスーパーに買う
金があれば何でも手に入る
物なら何でも買える
しかし何か実りなきは
何か充たされるものなきは何故や
食べれば確かにうまく腹を充たす
とはいえ何か充たされぬは何か
ただ買いて腹を充たす
今日一日の実りのあれや
田畑に労して実りしもの
その住む大地から実りしもの
それを食べてこそ実りのあれや
今日一日腹は充たせど心は虚し
そのもののいづこよりきて
いかにして作られしものか知らじ
パートに働きて時給をもらいて
そは充たされしや
どこに働いても賃金のみで計られ
金が実りのすべての基準
今日一日いくら稼いだか
それが今日の実り
現代の仕事は無数あっても充たされない
ただ消費されることで充たされる
腹を充たしても心は充たされない
それでみんな仕事が嫌になっている
しかたなく金を得るために仕事している
金がたりない、金がたりないと
毎日不満を言っているのが現代
これほど物があふれても豊かにならないのはなぜ
そこに現代の心の貧困がある
いかなる仕事も本当に今日一日の誠の実り
それがなければ虚しいとなる



おそらく「豊かさの貧困」でも様々なことで現代文明は批判されてきた。人間はアトム化されるとか人間が数化されるとか人間が人間でなくなる、それでアウトサイダーとなり人間回生を目指したのかニーチェとかミラーとか上野霄里とか他の思想家でもそうなった。それは過激となったのは天才だったからそうなった。
天才は普通の人より生きるエネルギーが大きいからそうなる。
静かな思想家でもピカートなどはろはりアトム化した文明を「沈黙の世界」で示した。
それはそうした高度の思想とか文学でなくてもいろんな方面からの批判があった。
経済思想からもあったのが「豊かさの貧困」であったり他にそういうこと様々に語られてきたのである。その本も膨大になるから読みきれないのである。
結局本はいくち買っても読んでも自分のものとして書かなければ読んだともならなかったのである。
現代の消費社会はまさに消費するというときただ費やすという消極的なものとなったからだろう。
今でも生産するというときは積極的なものとしてある。
人間はただ消費しているばかりだったら何ら生産性がなかったらあらゆるものが虚しいとなる。
この世の中今はあらゆるものがそれは物だけではない、情報でも一方的に消費するだけなら虚しい、自分なりに考え自分で評価すれば生きたものとなる
だから何でも受け身では精神は充たされないし虚しいとなる
テレビの情報の奴隷になっている人たちもそうであり自ら考えないで生きている人たちも奴隷になりやすい。

いづれにしろ現代は何か労働そのものが拒否される、それはなぜなのか?
労働は嫌悪されているしなるべくしない方がいいとなる。
それが生まれたのがフリ-ターでありニートとかである。
労働はその場しのぎであり一時の賃金をえるだけのものとなる
労働の形態がそうなってしまった。労働はWORK(作品)ではない
JOBでありその場しのぎの一時的賃金を得るものにすぎないのである。
そういうふうに労働があるとき社会全般も荒廃してしまうのではないか?
なぜなら社会の基本は労働にあるときその労働が嫌われ労働しないことこそが一番いいことだとなっているからである。

現実に労働は機械にさせるべきで人間は労働しない方がいいという社会になっている
だからあらゆるものが機械化して雇用すらなくなってくる
その時人間は不用なものとなってしまう。
その時人間を山村暮鳥の詩のように讃歌することなとなくなる
(父上のおん手の詩)のようにその手はもうない
それは機械に置き換えられてしまったのである。
もはや働くの機械であり人間ではないからである。
そういう社会はまたどうなってしまうのか?
人間の生きる充実感はどうなってしまうのか?
人間はお払い箱となり頽廃してしまうのではないか?
それとも労働から解放されてパラダイスになるのか?
この辺では補償金で毎日パチンコだとか遊び暮らすようになった。
飯館村の人がギャンブラーになったとかもそうである。
みんなか知識人でもないから本など読まないのが普通だからである。

お前はどうなんだというとき、自分は旅に時間を費やした。その他学問とか芸術に費やした。その追及したものをプログなどで発表している
自分自身が流れ作業ばかりして日銭をかせぐ仕事ばかりだから労働を嫌悪して環境に恵まれていまになるまでせずにすんだのである。
そこに何でもそうだがプラスマイナスがあった。
いろいろな欠如したものも生まれてこの七年間は介護や自分の病気で苦労してきたのである。
現代の文明の問題は「今日一日の実りがない」ことではないか?
仕事をしてもそれを感じられないことではないか?
地球の裏側の人のために働いてもそういう労働自体に喜びを充たされたものがあるのか?
そういうグローバル経済というのももはや矛盾が大きくなり限界に達しているのではないか?
そんな遠くの人は何か困っても助けには来てくれない、確かに物は来ても助けてはくれない、実際に原町でも何かあったら家にきてもらいたいができなかった。
「遠くの親戚より近くの他人」は車社会になっても通用している。
車で原町かち来るのも手間なのである。グローバル経済の弱点は肝心なとき近くのものに助けてもらえないということにもあった。
それがアキレス腱なのだがまた反面この辺で津波や原発事故で働き助けたのは外部の人であり内部の人は遊んでいたという矛盾がある。
それは広域社会化しているからそうなった。
だからまたすべてが広域社会化したから悪いというものでもなかった。
すでに自給自足の村社会にはもどれないからである。

とにかく何か仕事の充実感が得られないというときそこに現代特有の問題がある
消費社会であり生産社会ではない、生産しても働いても充実感がない
例えば農家なら自給自足でもその働いたものは直接に家族とかが食べていた。
売るために働いて作っていないということが労働の充実感をもたらしていた。
そして父上のおん手の詩のように感謝していたのである。
いまスーバーに行って物を買って感謝している人などいない
ただ高いか安いのかうまいのかとかみているだけである。

でも名取の閖上(ゆりあげ)から来たシジミを売っていた。
あそこも津波で大被害を受けたからシジミもとれるようになって復興しているのかと感じた。他のシジミはどこから来るのかもわからなかった。
前はこの辺でも川でシジミがとれたし自分もとって家族に食べさせた。
それは大きなシジミだった。売っているのはみんな小さなシジミなのである。
そのシジミをとっていたとき何ら苦痛はなかった。

閖上(ゆりあげにとれるシジミをスーパーに買いて思いぬ津波の後に

それよりそれは楽しみだったのである。今では野菜でも米でも作るのは家族のために作るだけなら楽しみになる。機械でするしそんなに苦労ではないからである
それでもほんのわすかの野菜しか作らない人は毎日草取りだ肥料だ気候がどうだこうだと言っている。
だから農業というのは本当に手間でありかえって肥料だとかその他種でも金がかかるものなのである。
だから趣味としてやるのはいいがとても売るとなると全く違った労働となるのである。

結局変だが自分の今日一日の実りは風を切って軽快にロードで走ったことだった。
それは自分の一生すらそうだったとなる。何か仕事して充実感を得た経験がないのである仕事が多岐にわたりパーツ化すると仕事で充実感をもっているのは一パーセントくらいにしかならないのでないか?
そのことが現代文明の頽廃であり深刻な問題なのである。
ホイットマンであれ山村暮鳥であれあれほどすべてを賛美できたのはやはり時代だった。人間の労働が活きていて消費社会ではない自ら働いて労働自体が充実感をもたらしていたのである。だから現代は労働より遊びに重点が置かれる社会でもある。
ギャンブルとかでなくてもレジャーが盛んになったのもそのためなのである。



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posted by 老鶯 at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題