2015年06月01日

「大和心」と「大和魂」は全く違ったものだった (吉田松陰の大和魂は戦争に結びついていた)



「大和心」と「大和魂」は全く違ったものだった


(吉田松陰の大和魂は戦争に結びついていた)



敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花 本居宣長


大和心と唐心を日本語を分けて日本の心を探求したのが本居宣長である。
吉田松陰は大和魂にしたが大和心とは違っていた。
その時欧米は驚異でもないし敵対しないから純粋に大和心だった。
大和魂になるとそれは日本意外の国に対して「大和魂」」を示すということで攻撃的でありと平和を感じない。
吉田松陰はアジア侵略の基の水戸学や平田篤胤の国学を学んでいたのである。
それが太平洋戦争につながっていたのである。
ただ本居宣長の歌は戦時中は利用されていた。
「敷島」「朝日」とかのタバコが売られていたのである。

いづれにしろこの歌の良さは極めて日本人の心情に訴える歌だった。
日本の自然の美の代表である桜を歌っていたこともある。
その桜も染井吉野とは違う純自然の山桜だからまさに日本の美の極致ともなった。
桜とか富士山とかは日本人の心ともなっている。

真直なる富士の姿や今日も映ゆ美しき日本正すべしかな(自作)
http://musubu2.sblo.jp/article/130457064.html

真直なるというのが大和言葉であり大和心なのである。それは日本の自然の中で汚れのない、真直なるということである。

飛騨たくみほめてつくれる真木柱立てし心は動かざらまし賀茂真淵

この歌のいいのは飛騨のたくみというのは万葉集にもでてくるから古いのである。

かにかくに ものは思はじ 飛騨たくみ 打つ墨縄のただ一筋に (万葉集)
 
 飛騨の歴史
http://panoramahida.iza-yoi.net/hidatakumi.html

この伝説で面白いのは飛騨の匠と争ったのが百済川成はそうである。
当時は何でも渡来人の方が技術的に上だし渡来人を通じて技術が入ってきた。
だからここで渡来人と争った伝説があるのは日本にも飛騨の匠がすでにいて
その技術を競ったとなる。
真木柱というときその柱は国産であり飛騨にとれたものとなる。
つまり技術も国産でありその資材も国産だということに大和心があるとなる
外国から取り入れた技術でも国産化することに大和心が生まれる
漢字をカナにしたしたのもそうである。

飛騨の匠の起源

薬師寺・法隆寺夢殿・東大寺など幾多の神社仏閣の建立に関わり、平城京・平安京の造営に活躍して日本建築史の黄金時代の一翼を担ったのでした。現在も奈良の橿原市に飛騨町がありますが、高山の町並みを思わせる小ぎれいな木造家屋が軒を連ね、また大和路には飛騨と共通する地名が多い事から、飛騨から上京した人たちが現地にとどまり土着化したものとも考えられます。

いづれにしろ大和心と大和魂は根本的に違っている。
大和心は平和的てあり大和魂は戦闘的だから戦争で称揚された。
大和心にはアジアを侵略する意図などその時なかったのである。
ただ文化的な相違として大和心と唐心を分けて追及したのである。
だからそもそも戦争と結びつくようなことはありえなかったのである。
つまり吉田松陰の

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

この歌は何かわかりにくい、大和魂とは何なのか?これは大和心とはまるで違っている。
これは非常に危険なものをふくんでいた。それはアジア侵略のために利用されやすかった現実にアジア侵略の思想があり歌われたのである。
戦争で日本人が戦い死んでも大和魂はとどめおくともなる。
大和心は別に世界でもそれぞれの文化がありそれを主張することは否定できないし
それがなくなればその国の文化もないのである。
大和心を世界に示すというとき今の「和の文化」がそうでありそういうものは別に平和の事業であり世界に宣伝してもいいのである。
でも「大和魂」となると「大和心」とは違う戦闘的なものとなってしまう。
それは吉田松陰によって日本人の心に植えつけられた。
だから吉田松陰の功罪があっても功の面ばかりが戦前でも戦争中もとりあげられすぎたのである。
大和心は「和の文化」は受け入れられも世界にそうした侵略的な思想は受け入れれない。明治維新もだから今見直されている、太平洋戦争がすでに明治維新の吉田松陰の時から予定されていたのである。
吉田松陰を神格するということは危険なものだったのである。
つまり江戸時代から明治になるとき「大和心」が江戸時代にあり明治維新で吉田松陰によって「大和魂」になった、その変化も大きかった。それが後の災いの元となったのであるそうした人物をもちあげたしは司馬遼太郎とか明治維新をやたら持ち上げた人たちが今は問われている。
歴史は必ず時がたては見直されるのである。






タグ:大和魂

2015年06月02日

野馬追いの写真はみんな違っている (シャッターチャンスが一回しかないから地元でもうまくとれない)


野馬追いの写真はみんな違っている

(シャッターチャンスが一回しかないから地元でもうまくとれない)


 
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野馬追いの時は梅雨も晴れ夏の雲がでる


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アレンジした

樹に炎が映える

緑の木に映えた赤い炎の旗

下は妙見神だから星の形になり馬が跳ね飛ぶ

野馬追いの旗は様々なデザインなのである。

幾何学的なものがあり現代に通じる斬新なものもある

野馬追いを楽しむには旗を知る必要があるのだ

その旗が多様だからわかりにくいのである。

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白髪の髪は何を意味しているのか?老人なのか?
馬のたてがみのようなものなのか

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前から見るとこんな風になる

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黄色の旗は小高神社

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赤は中村神社(相馬市)

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これはカモメなのか?

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本陣へ

治に居て乱を忘れず
平和な時でも、世の中が乱れた時の事を忘れてはいけない。という意味。
平穏で順調な時であっても、万が一の時のための用意・心構えを怠ってはいけない。

類義 ⇒ 安に居て厄を思う/治まりて乱るるを忘れず/太平にも乱を忘るべからず/文事ある者は必ず武備あり/安きに危うきを忘れず
出典 ⇒ 易経・

君子安くして危うきを忘れず
存して亡ぶるを忘れず
治まりて乱るるを忘れず
ここを以って身安くして国家保つべきなり

君子安而不忘危
   存而不忘亡
   治而不忘乱
是以身安国家可保也

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帰る馬



野馬追いも近づいてきているけど毎年写真とっているけどなかなかいい写真がとれない
必ず違った場面がありそれが一時で過ぎてゆくからとれこないのである。
今いい場面だなと思ってもすぐに過ぎてしまうからとれないのである。
野馬追いには毎年相当遠くからも写真とりにきている人がいる。
雲雀が原の中に入るには前から予約していないと入れない
地元でも毎年見ていてもいい写真がとりにくい
それは動いているのもとるからである。
そしてチャンスは一年に一回しかないからそうなる
野馬追いの写真は多様なのだけどそれがすぐに過ぎてしまいいつもとりのがしてしまうのである。
この写真もデジカメがないときの写真だった
これはこれで貴重なものだった。
一応記録としてとっておくためにパソコンに入れた
デジカメの便利なのは一日の行動が写真で記録されることである。
写真の日記になるのはデジカメがでたからでありせらにスマホで常に日々の行動などが写真化される時代である。
だから写真から何をよみとるかが問題になる
写真には相当な情報が視覚的に見れる、でもその情報が何なのか
例えば野馬追いだと旗の意味しているのもが何かという情報を解く必要がある
でも野馬追いの旗のことは地元でも他でも説明されないしできない
それほど多様になっているのである。
白髪のうよな兜をしているのか、やはり老人イメージしているのか?
茶色の髪を伸ばしたようなものもあり一つの装飾である。

雲雀が原では野馬追いの前の誰もいないところに立ってみたら松だけが目立った
ここにこんな松あったのということが発見だった
松は何か身近であり人間的だし何か忠臣という感じになる
ただ人が混んでいる時はあの松に注目しない
誰もいないから松が注目されたのである。

本陣に旗とる武者の勇み来る雲雀が原や松そ立ちにき
タグ:野馬追い
posted by 老鶯 at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

野馬追いの旗は抽象画になりやすい (漢字が抽象画だから日本でも古くからあった)


野馬追いの旗は抽象画になりやすい


(漢字が抽象画だから日本でも古くからあった)


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この写真を抽象画の旗にするとさほど変わらないし
違和感がないのである


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野馬追いの旗が何を意味しているのか?
具象画なのはわかりやすい、猪であれば勇猛な猪のような武者とかなる
神社とかなればその土地の神社なのだろう。
五輪塔と先祖現しているとか、鎌だったらもともと武士は農民だから農作業していたからだろう。
梯子があれば梯子で城に上り攻めるとか何か意味がある
炎だと炎のように燃える気持を現している
月とか星とか妙見信仰は方角を示す北斗七星である
遊牧民の文化は朝鮮経由で日本に入ってきたからである。
馬というのは遊牧民に欠かせないものであり移動が方角が大事になるから
妙見信仰になった。
抽象画的なものはただ敵と中までも単に区別するために使われた
線が二本なのと三本では違うからである。
一の旗は使いの旗である。
この旗は連絡係なのである。
だから一の旗は一番多い

野馬追いの旗がなぜこれほど多様なのか?
3000もの旗があるのはなぜなのか?
中国辺りでも旗の種類は単純に見える
日本とヨーロッパには城があり旗が多い
ヨーロッパにも旗祭りがある
中国は城ではなく壁で囲んで城壁の内でありヨーロッパとか日本の城はない
こんなにいろんな旗印はない
何かそこにも歴史的な背景がある。

日本の旗には植物的なものも多い、ヨーロッパは強い動物の旗や紋章になる
日本の旗にはライオンとかないのである。
ライオンとか虎は日本にはなじみがない
そもそもいなかったからである。
ヨーロッパにライオンがいなかったとしてもローマ時代にコロッセオで闘技場でライオンと人間を戦わせたり虎と戦わせたりとかライオンを知っていたのである。
そういう伝統の上に紋章がある
紋章文化と日本の紋や旗印の文化はにている。

野馬追いの旗の見方としては抽象画として見るのもいい
自分はこれまでパソコンのソフトでそれをしてきた。
抽象画的なものは漢字がそうであり太陽だったら○にするとかそれが日になったとか
抽象画思考は漢字からすでに生まれているのである
アルハベットからは生まれにくいのである。
つまり漢字は抽象画だから漢字を使う国は抽象画思考に抵抗がないとなる

不思議なのはアルハベットの国では英語でも音の出し方で意味の違いを出しているというこういうことは本当に理解しにくい
文化とはともかく理解しにくいのである。
ただヨーロッパの紋章と日本の紋や旗印の文化はにているとなるとそこから理解するということがある
ヨーロッパに騎士がいて日本に侍がいたということはにているから理解かやすい
中国にも武人はいたとしてもヨーロッパと日本のとは違っていたのである。

 
posted by 老鶯 at 20:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

田んぼが増えて蛙も増え復興を感じた



田んぼが増えて蛙も増えて復興を感じた

 

ヨシキリや田に人ありや暮らしかな
ヨシキリや今日も働く人のあり
久々に夏の星写る夜の田に
復興や蛙鳴きあふ夜の田に
復興や田ごとに映る月円し

田んぼは五分の一に増えた、やはり田んぼが増えると蛙が確実に増えた
田んぼに蛙が鳴き合うのを聞いたのは四年ぶりだった。
これも明らかに復興だった。
田んぼは山間の狭い場所の田んぼは原野になり放置している
もうあういうふうに狭い所はめんどうだからやらないかもしれない
昔だったらそういう狭い場所も田んぼを作っていたのである。
それが狭い国土の日本だった。
原発事故以後は田畑をやる人はへる、手間かけても金にならないしめんどうになるからだすると田んぼも集約的にできるかもしれない
小さく分けられた田んぼは放置されて原野か他のものに変わるかもしれない
米は安いし小さな田んぼをもっていてもめんどうだからやらない

自分の生活はこの七年間に起こったことを延々と書いてきた。
絶えず介護から家事からプログを書くことでも追われてきたのである。
前は三食用意されていたし確かに買い物と風呂くらいはしていた。
他は何もしていないから常に時間が余っていたのである。
今は時間に追われている

ともかく田んぼがなくなるということはイメージすらできなかった。
もちろん津波でもなくなることがイメージすらできなかった。
故郷を離れて仮設で暮らすなどイメージできなかったとか
この辺で起きたことは本当に全くイメージすらできないことが連続して起きたのである。だから田んぼとは何なのだとか故郷は何なのだとか考えるようになったのも
そんなこと誰も考えない、あって当たり前だったからである。
田んぼは田舎の風景であり田んぼがない田舎が考えられなかった。
それは千年とかの単位で田んぼとともに暮らしてきたからである。
蛙が鳴くというのもそうである。
田んぼは自然の生態系の中に組み入れられていて田んぼの水には蛙でも水すましでも何か自然の命が生息できて鷺などもやってくる
原野だとネズミが増えてノスリが増えたのである。
原野化すると雉なども増えていつでも人を恐れずでてきていた。
雉などにも住みいいのだろう。

ヨシキリが鳴いていたというとき田んぼの脇にヨシキリが鳴くのはまだ原野が多いからそうなる
普通ヨシキリは川で鳴いていたのである。
そして今日は満月が光っていた。
これも何か復興を感じた
この辺は4年過ぎて復興しているのだろう。
ただ除染はまだまだつづく
それで外部から来ている人が5000人いるとかも言われる
これは当分つづくのである。
それでにぎわっているように外部から来た人は感じるけど
その人たちが帰ったら火の消えたように淋しくなっているかもしれない
仮設でもいろいろ文句言っていたが鹿島などは小高の人が帰ると相当に淋しくなってしまうだろう。
だから何かこの際小高に帰らせるより老人なんか集めて暮らせるような政策が必要かもしれない
高齢化社会にどう対処するかということで仮設が意外と隣り合って老人が暮らすのには向いていたのである。
小高でも広いからまたばらばらに暮らすというのがかなり困難になっているからである。
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ケロケロケロロ
田んぼがふえた
田んぼがふえた
みんな帰ろよ
帰って来いや
ケロケロケロロ
仲間がもどってきて
みんなで鳴いてうれしいな
田んぼが増えた
みんな帰ってこいよ
ケロケロケロロ

やっぱり蛙の声というのもなじんできたものだから聞けないとういことは異常だった
鷺も見掛けなかった、それが4年もつづいたのである。
自然は意外と復興するものなのか?
田んぼが増えて水があるとたちまち蛙も増えてくる
ただ警戒区域で帰れないところは野生の自然にもどっている
何でも青大将とかのヘビが捨てられた猫を食っているというから不気味である。
チェルノブエリでも狼が増えたきたのだからそういうのとにている
人が住まないと自然にもどるといっても何かそこは不気味なものにもなる
ネズミなどもチェルノブエリでは増えたし放射能の影響もなかったのである。
避難区域ではどうなってしまうのかわからない
時間がたつにつれて元の状態に戻すことはますますむずかしくなるからだ。



 

2015年06月03日

函館の夏の短歌十首(お土産のガラスの壺に花をさす)


函館の夏の短歌十首(お土産のガラスの壺に花をさす)


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函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花 啄木

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これは函館のお土産ではない、安い壺である
でもこれが夏菊とあっていたのである。
フラワーアレンジメントは実際は簡単である。
様々な花を活けてみるとそれぞれの花が映えるのである。
それはなんら考える必要がないのである。
ただ意外と壺が関係している
壺と花を合わせることも必要になる
この夏菊は外でとってきたものである。

それから何か津軽ビイドロは津軽的なものがありその色合いが違ってた。
その地方の特色を出せば売れる
鎌倉彫りも武士がはじめたというのもで何か武士の感覚が伝えられている
相馬では大堀で相馬焼きの窯元があったが原発事故でなくなったのである。
その土地のカラーを出すことがこれから経済的な面だけではなく
地域創生にとって大事なのである。
もう経済的発展は日本には望めない
文化になるとそれは道路を造るとか建物を作るのとは違うソフトの面である
そういう面はいくらでも開発できるということがある
だから文化の面にエネルギーがシフトされてゆく
現実に釜石では工場があっても機械化して地元の人を雇っていないという
もの造りなどは機械化するから人は雇わないとなると
人間はどこで働くのかとなるからだ。


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矢車の花

様々に彩る花や函館の街に船よる夏の夕暮
函館の市電にのりておりる駅白波よせて夏の日の街
啄木の青春の日や明治の日海に響きぬ教会の鐘の音
函館の坂上り下り船とまり夏菊咲きて旅人行きぬ
榎本の五稜郭に陣とりて意気の高しも船は沈みぬ
函館に上陸してそ様々の思いや若き明治の日かな
北海道希望の地なり学びけれ働きにしや明治の青春
函館の交差する通り市電ゆく船も見えつつ夏の夕暮
函館に異人の墓やロシア人ここに眠るや厳かにして
函館に明治の夜明け様々の思い交差し夏の夕暮




北海道というと梅雨の時期に必ず太平洋フェリーで一カ月くらい自由に旅していた。
今考えるつくづく恵まれていた。
別に旅行しても金はそれほどかからない、最初は電車で旅していた。
それからものたりなくなり自転車で旅するようになった。
函館には何回も行った、青函連絡船の時も何回も行った
あんなふうに自由に旅できたのが今になると恵まれていた。
つまり旅に行ったらいつ帰ってこいという縛りがなかったのだ
勤め人だったら一カ月も旅できないだろう。
すでにその時から社会からはずれてしまったし普通の社会生活からもはずれてしまっていたのだ
ただ家庭環境でなぜか自由な旅ができた。
家の人は何にも文句いわなかったからである。
こういうこともあまりないだろう。
今になるとただ記憶をたどる旅になってしまった。

函館は何回も行ったから今でもそこを歩いている感じになる。
何回も行ってそこに深く親しむと何か旅してなくても旅のつづきがイメージの中でつづいているのである。
だから不思議なのは日本全国でも世界でも何か自分はあっちこっち旅していている
心が日本全国に浮遊して世界に浮遊してそこにあるという感じになるのだ。
だから今は全くすぐ近くにゆくのも容易ではないが
心は日本全国を浮遊して世界にも浮遊している不思議があるのだ。

旅したときはその場所がどういう歴史があるとかなかなかわかりにくい
でもあとからなぜかその場所について理解が深まることがある
それは全部ではない、旅したある場所が特別思いだす
函館は春にも夏にも行ったし冬まで行っていたのである。
北海道は冬にも流氷見るために行っていた。
だから自分はだいたい全国の人とあうと住んでいる場所を聞くとイメージできる
最近この辺では工事関係者とか除染の人が全国から来ている
時々その人のことを聞いてみてその人がどういう場所に住んでいるかイメージできる
ただ富士山を毎日見て暮らすという人の場所はイメージできなかった
全部ではない、イメージしやすい場所とそうでない場所がある
京都とかこみ入った所はイメージしにくい
ただ近江は自然環境があり琵琶湖中心にイメージしやい場所である。
だからそういうところは思い出して短歌や俳句や紀行文でも調べて書けるとなる

まずその場所についての地理的空間的なもの時間軸の歴史的なものを知るのが大事である函館には明治の青春が凝縮された場所でもあった。
あそこに上陸して北海道に開拓であれ向かったからである。
北海道の玄関なのである。
ただ新幹線が通るというとき地下から北海道に行っては旅情がそがれる
なぜなら函館は船がよる港として栄えたからである。
船なくして函館の価値はないのである。
だから青函連絡船がなくなったとき一つの歴史が終わり函館はさらに過去のものになった函館の今は一番生活保護者が多い
それは経済的に衰退している街だということである。
北海道全般がそうだが函館が今がそれだけ衰退しているのはやはり北海道全部がそういうイメージになる
新幹線が通ったら来年になるけど今度は観光客が来るという
青森の人は青森を通過してしまうから困るとかも言っていた。
それでも函館は船が欠けたら魅力がない
船でゆくとき港だったのだから函館の昔と今も感じるのである。

ともかくなんらかその場所について語るときはやはり相当にその場所とコミットメントしないと書けない
それだけの暇がある人はまれである。
そうなると旅行作家にもなるが旅行作家でも一生旅ばかりしても深いものはなかなか書けない
たいがい一つの場所なら何回も行きその度に感じるものが違って新たな発見がありいろいろあとで歴史的なものも時間をかけて知るようになる
つまり何かを理解することはその場所でも時間がかかるのである。
一番何でもそうだが理解が深まるのは60以降である。
その頃になるとたいがい本を読んでもすぐわかる
十冊の本を読んでもすぐ要点がわかるのだ。
自分はばらばらに本を積んで最近はアマゾンでも自分の書きたいことを調べるためにもそのつど買っているからまた本が増えた。
それでもつれづれなるままに本を手にとり要点だけを読んで利用しているのだ。
一冊をじっくりと読むのもいいが本はやはり知識はあることについて理解を深めるには多様な知識に接することも必要になる

それを理解する基礎はやはり旅などをして実感を多くもつことなのである。
肌で感じたことは忘れないし思い出すし血肉になるのである。
本だけを読んでもテレビを見てもインターネットでもその場所に行かない限り実感にはならない
でもそれだけ理解を深めるとなると旅するとなると一生が終わってしまうのである。
自分はいつのまにか旅しているうち人生も終わりに来ていたのである。
人生はそれだけ短いのである。
何するにも時間不足で最後はできない
あの時はあんなに暇だったのに今になると時間があっというまに過ぎたとつくづく思う
そして人間はいろんなことができるようでできない
何か一つのことを習得するにも時間がかかるからできないのである。
まず結婚したり子供をもったり他に何かしていたり無駄なことをしているとあることに集中できない、人間はそんな時間がないのである。
家庭をもって勤めて子供をもったりしたすでに自由な旅などできないのである。


タグ:函館

2015年06月04日

NHKの昼の川俣町「山木屋」の避難者のこと (仮設に住む小高と共通していることが多い)


NHKの昼の川俣町「山木屋」の避難者のこと

(仮設に住む小高と共通していることが多い)

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それで今日昼間のNHKのテレビで川俣の山木屋のことを放送していた。
あそこも避難区域になっていた。
飯館村から近いのだが川俣町になっている。
あそこは自分も飯館村から塩の道をたどり良く行っていた。
一応小さな店もあったし食堂もあったし学校もあった。
あそこては葉たばこなどを栽培していた。
葉たばこは阿武隈山地では多かった。

そして川俣町の中の仮設に住んだ人が山木屋は寒いといっていた。
川俣町と山木屋は変わりないと思っていた。
飯館村は寒いことはわかっていた。
気候は近くても違っているものだと思った。
山木屋で納豆を作っていた。その豆は山木屋であり飯館村でとれたものなのである。
それでないと味がでないし特産品にはならない
地産地消にならない、飯館村は寒くても大豆の生産には向いていたのかもしれない
凍み大根などは特産品になっていた。
それは寒いからこそ味が出るものだったのである。
若い人で農家の跡を継ぐという人がトルコ桔梗などの花栽培をしたいと言っていた。
花は放射能の影響がないからである。
大内村でも花栽培を勧めたことでもわかる。
葉たばこなどは相当減っているだろう。花栽培は現代的なのだろう。


川俣町については何かなじみがない、相馬藩でなかったということもある。
川俣町には飯館村から坂を越えてゆくが川俣町から飯館村に帰るときの坂は急である。
そして山木屋にゆく別れ道がある。
なぜか二本松からの詩が読まれているのも不思議だった。
飯館村は取り上げられるが山木屋は川俣町などで見逃されやすい
小高と同じような位置にある。避難区域であるが来年は解除になる
でも帰る人は45パーセントとか少ない
山木屋で50代の女性が帰りたいと言って自殺したことで話題になった
そして今回の原発事故で高齢化が問題になったのだ。
テレビに出てきた人は山木屋の農家の人でも川俣町でもみんな60以上だった。
そこで跡継ぎ問題が出てきているのある。
農家でも町でも店の跡を継がせていいのかどうか迷っている。
飴屋では地元の広野町の塩とか地元のもので作っていたので風評被害があった。
それでもインターネットで販売して元の売り上げに回復したとういう。

山木屋でもここと同じ問題が起きている。
この辺で原発避難者が主に小高からきているがこれも高齢者が多いのである。
60代以上の人が多いのである。
それでいつも川の土手で何人かばあんさんがじいさんが休んでいる
もう五年くらい補償金もらって暮らしたいというのが本音になってしまった。
山木屋より川俣町が便利でいいし気候もいいという
飯館村の人は南相馬市にも避難している、そこでも同じように高齢者は便利で気候もいいから帰らずにここで住みたいとなる
若いならやる気があるが60以上になると苦しい所には住みたくないとなる
最初は狭い所で嫌だろうなと思っていたが実際は違っていた
意外となじんできて補償金ももらえし長屋のように親しくなり住みやすくなったのであるだから高齢化社会ではかえってあのように老人が一つにまとまり暮らすのもいいのかなとも思った。
世話する人でも一カ所に集まっていれば楽なのである。
田舎は広いから来るまで回るだけで手間なのである。
ただそうはいっても人間は集まればなにかしらいさかいが起こる
だからそれですべてうまくいくとはいかない。

ともかく自分の感覚では飯館村までは相馬藩であり川俣町は何かなじみがないしわかりにくい
ただ山木屋というのはいつも通る場所だった。
あそこから別れ道があり三春の方まで行ったこともある
そして川俣町に境となる水境神社の山を越えてビュビューと春に東風が吹いていた。
やはりあそこにあれだけ東風吹いたということはその風に放射性物質が運ばれたことを実感した。
この風も実感しないとわからないのである。
川俣町と福島市は意外と近く合併することも話題になった。
バスが通っているから通勤圏にもなっている
あそこは福島市に近い福島市の圏内にある町ともなっている
前は電車も通っていた。
山木屋と小高には共通したものがある
避難区域が解除されると補償金がもらえないとか共通している
帰る人も半分とかもにている。
ただ小高の方が山木屋と比べると有利である。
常磐線も二年後に小高駅まで来るとか南相馬市は原町があり大きいからである。
山木屋は飯館村がとなりであり川俣町だと小さいし福島市は遠いからである。
そういう点では小高の方が有利だが浪江町が無人化しているから
それは共通している問題である。


春の塩の道をたどる(二本松までの絵巻物の詩)
http://musubu.sblo.jp/article/3893027.html
タグ:山木屋
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新しく区画化された屋形に建てた家の人に聞く (県で地盤整理した小高の人も建てた)


新しく区画化された屋形に建てた家の人に聞く


(県で地盤整理した小高の人も建てた)



復興、県負担は400億円 来年度から5年間


 政府は3日、平成28年度から5年間の復興事業費の一部に1・0〜3・3%の地元負担を導入する案を発表した。本県では115号国道バイパス「相馬福島道路」や農村地域の基盤整備などが対象となり、県の負担額は5年間で100億円程度と見込まれる。さらに、東北自動車道から西側の県道事業が国の復興特別会計から一般会計に振り分けられ、県の試算では300億円程度の県負担も新たに生じる見通しだ。




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「この土地は南相馬市で区画したもの」
「いや、これは県で地盤整理した」
「でも県から予算がでている」
「市はその予算で区画整理した」
「ここにはどこの人が建てた」
「いろいろだよ、海老で二軒とか、烏崎の人とか、小高の人もいるよ」
「ええ 小高の人もいる、小高の人は金ももらっているからな」
「金はかかったよ、借金だよ」
「海老の土地は国で買い上げた」
「安いよ、本当に安いよ」
「原発の避難区域とは違うからな、これだけの家を建てるとなるとやはり金がかかった」
「ここは地盤が悪いんだ、田んぼだったから」
「地盤が悪いと地震の時わかるんだよ」
「自分の家の近くの土地が売れないのはそのためか?」

屋形の土地区画したところの人に聞いてみた。
あそこの関係は複雑である。福島県で区画整理して地盤を作り売り出した。
それを南相馬市にゆずった。そこは海老の人でも烏(からす)の人でも入っている
小高の人も入っているのは南相馬市だからである。
小高の人は補償金もらえたから最初から鹿島区に家を建てた人もいた。
原町区にもいたろう。
小高の人がここに建てられたのは南相馬市民だからである。
ただここでも小高の人は補償金たんまりもらえたのに鹿島区の人は津波の被害でも土地も国で買い上げたが安かったとか不満がでる
津波の彼岸を東電では補償しないからだ。
飯館村の人も仮設に住んでいてもここに家は建てられないのである。
そういう点南相馬市と合併していれば建てられたのである。
それは個人的に土地を買って建てるほかない
そうなると今は土地が高くなっているから金がかかる
海老村の土地は国で買い上げたが安いという
本当に相当に安いという感じだ
だから借金をどうして返すかとか言っていたから金はかかった
ただ土地代は他よりは安いだろう

ここで福島県の行政がかかわっていたことがわかる
県道は福島県で管理している。道はほとんど県で作り管理しているのだ
県の行政というのはわかりにくい、もちろん政治には関心がなかった
今回のことで地方政治のことなど地方と県と国の関係などが問題になった
国から復興予算がでてそれが減らされるとか問題になる
すると県の財政を圧迫するとか国と県と市との関係が予算から見えてくる
政治は抽象的なものより予算がどう使われているとか具体的なものから
知るとわかりやすいのである。
そういう利害関係で政治は常に動いているからである。
だから金の動きから政治が見えるとなる

この辺は様々な問題が集積した場所なのである。
だから沖縄とにて政治的な関心の場所になった。
だから政治とは何かということが問われる
それは個々人にでも影響しているのである。
反面政治でもそうだか普通は関心がなくても
行政についても関心をもつようになる
それは民主主義にはとってはいい方面に働く
政治に関心がないのは何か具体的に見えないからである。
県というのは特にわかりにくいのである。
県といっても政治でも会津は遠いし身近に感じないこともある

南相馬市でも合併してどうのこうのと問題になり
補償金で小高と鹿島がもめたとかいろいろ問題が起きた
それで県政とか市政とかを市民が考えるようになったのである。
つまり民主主義とはこうして長い時間の中で成長してゆくものなのだろう。
原発問題もその一つの大きな契機になったのである。
国ー県ー市町村の問題が原発事故でクローズアップされたのである。
要するに現代の問題は様々な問題が規模が大きくなりて見えないのである。
それで民主主義がかえって機能しないのである。
狭い範囲ならば相馬藩くらいの政治だったら具体的に見えたのである。
ただ江戸時代なら民主主義はない
福島県とかの行政単位は大きすぎるから何をしているのかわかりにくいのである。


posted by 老鶯 at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2015年06月05日

夏の日々(街の墓地から北屋形の方まわる)


夏の日々(街 の墓地から北屋形北海老の方まわる)

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デジタル写真も方角を変えたり近接するとどれかいいのがとれる

これもこういうふうにとれたとは思わなかったのである。


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ニコニコ堂喫茶店

ここは絵になる場所である

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我が前に大きく映えて白菖蒲
青嵐今日も樹々ゆさぶりぬ
三日ほどつづけて森に青嵐

我が墓の前を日々行き暇あらじ花ささじも今日さしにけり
それぞれに人はみな生くこの町に墓もともにし活きるものなれ
死したれどここに生きにし人にあれ見守れるかな墓の前行く
黄菖蒲の水面に写る橋わたり今日もここ行き変わりなしかな
広き庭大輪の薔薇夏日あび山陰にある喫茶店かな
北屋形山陰の道影なして海芋咲けるや行く人まれに
北屋形田の面に静か雲写り行く人もなし家もひそけき
北屋形ものさみしかな夏の日や木陰の道を通り来れり
北屋形や八沢浦にそ面しつつ津波の跡や夕日さし暮る
細道の行く人まれに北屋形影なす道や夏の日暮れぬ




それでいつも街中のすぐ近くにある墓地が自分の墓であり通りに面しているから
毎日通っている
それで花を挿さないでいたのでなんか花を挿さないと父と姉とに悪いなと思った。
父と姉は自分を愛してくれたし家族として暮らしたから今でも遠い人ではまだないのだ。これでわかったことは毎日でも墓の前を通るということは墓を意識するということである死んだ人が墓とともに以前としてこの町で故郷にともに生きているという感じになる。
死んだ人でも墓があればその後と生きている人となお生きているという感じになる。
特に毎日その墓の前を通っている意識せざるをえないのである。
でも今は墓は造花とかさされ花が枯れたままとか手入れされていない
それは意外と地元だけではない、遠くに墓参りする人がいて彼岸とかたまにしか来ないからである。


だから枯れた花とか造花がいやなのである。
造花とはまさに死んだ花なのである。
生け花とは生きた花のことである。花は日々でも変えてさすものなのである。
造花がいつまでもさしているとそれでは墓も活きていない
だからたまに遠くの墓に墓参りする人とは毎日墓の前通っている人とか感覚が違ってくるたいがい市町村でも墓は街の中にあるから身近なのである。
墓などいらないというのも墓の跡継ぎがいないからである。
確かにもう個々の家族の墓は維持できないのかもしれない、しかしやはり墓は以前として人間にとって意味あるものなのである。
墓参りすることは死者を思うことであり死者となお生をともにするということもある
人間の生は今だけではない、過去とのつながりで生きているし活かされているのである。


原発事故で失ったものは何なのか?
確かに補償金はもらったとしてもそうした長い年月でつられてきた村であれ町であれ
過去とのつながりも消失するということもあった
新しい街に移ったらはじめからやりなおしになるからである。
故郷であれ村だって規模は小さくても全体なのである。
自然と人間と過去とから形成された全体としてあり郷土なのである。
その全体が消失することはどういうことなのか問われたのである。
これまでそういう経験をしたということはそんなになかったろう。
だからそこで失ったものが個々に実際は気付かないということがある
でもだんだんと気付くようになるだろう。
それは避難して帰れないとかなった人でしかわからない心境である。
ただ意外と墓というものもその郷土と街と一体化してあったことを認識した。


自分はこの七年間この小さな町を行ったり来たりしただけだった。
介護になると遠くに出れないからである。
毎日買い物に家事に追われる生活だった。
一時は二つの家を往き来していたこともあった。
その間に入院が二回あり母もアパートに二年、交通事故で病院に一カ月
施設に二週間とか変遷したのである。
それも90過ぎてからだった。
90以上になってもこんなに変遷して翻弄される
人間は年取ったから落ち着くと安心があるとは限らないのである。
この辺では高齢化で年寄りが多くてもやはりこれだけの変化に見舞われたのである。
人間は死なない限り安心がないのかとつくづく思った。
墓に花をさす暇がないとかそういうことを今でもつづいている
次々にここを掃除しなければならないとかゴミもだしたあとからでてくる
それをしないとゴミ屋敷にもなってしまう。
三食出すのにも相当な手間であり時間がとられる
その中でなんとか時間をみてプログを書いている
パソコンは何か操作するところがまだめんどうなところがありこれも手間である。
ただこんなに忙しくてもプログを書けるのは出すのが簡単だからできているのだ。
まず4時間とか時間がないとプログだって書けないし
書く材料にさらに何時間とか費やす必要がある
それはただ毎日近くを自転車で暇みては走り回って書いている


北屋形のニコニコ堂には半年ぶりにくらい通った。
中には入っていない、大輪の薔薇の花が庭に咲いていた
あそこで休み薔薇を見るのはいいだろう
ただ食事になると予約制になるから食事はしていない
ニコニコ堂は北海老なのである。北屋形は街の方が見えるのが南屋形になる
だから小さな地域でも色合いが違う、北というと何か淋しい感じになるのも不思議であるだから地名の基本は方角地名なのである。
北屋形は八沢浦に面していたし江戸時代は海がはいりこんでいて港もあったのである。
だから海が見えるから入江があったから風光明媚な場所だった。
そこには細い道があり木陰があり涼しい感じになる
今年は乾燥しているからともかく風が吹き、強い、昨日も森を吹き荒れる青嵐だった。
北屋形の細い影なす道に咲いていたのは「海芋」だった

別名をカラー(Calla)ともいう。 これは以前の分類の名残である。 また、単に「海芋」としても流通している。 「海芋」は「海外の芋」といった意味合いである。 国交のあったオランダから伝わったのが和名の由来である。 俳句では「海芋」が夏の季語であった


あんなところに咲いているのもふさわしいとなる
あそこはほとんど人が通らない、六号線からはずれると細道は土地の人くらいしか通らない、でも田舎はそうした道を行くのが楽しいのである。
そういう道は車より自転車で風を感じ木陰を感じてゆくのが自然をじかに感じるからいいのである。

 
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2015年06月06日

ソフトパンクなどのモバイルの通信領域が現代を反映 (地図から読み解く福島県など)


ソフトパンクなどのモバイルの通信領域が現代を反映


 
(地図から読み解く福島県など)




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地図は実際は多様であり地図から何かを読み解くことはかなり創造的な作業である。
自分は全国を旅したから地図から読み解く作業をしたがわかりにくい
地図だと高低差とか全体像が把握しにくい
それはインターネットでも同じである。
地図を見るには多様な視点が必要になる。
グーグルマップでもわかりにくい,それだけで四次元とかの空間認識はむずかしい
まずいくら地図をみても世界はわからない
地図から世界の十干か得られないからである。
ただ自分の得意な点は福島県でせんもほとんど自転車で旅していることなのだ。
まず歩いて旅するのと自転車で旅するのと電車で旅するのとは感覚的に相当に違っている
それで棚倉町というのは東北本線からはずれてエアポケットのようになっている。
そこは城下町だから古い町である。
でも東北本線からはずれると何か目立たなくなる。
世界認識は交通手段とか交通路で時代によて違って認識されているのだ
だから江戸時代の地理認識と明治時代の地理認識は変わってしまったのである。
確かに奥の細道は今の東北本線の通っている所である。
そこも江戸時代は俳句でもわかるように淋しい場所だったのである。
須賀川がとても隠者のような人が住むような場所には思えない
むしろかえって隠者は市井に住んでいたとなる
隠者と言っても知識人だからである。
現代になるとこれだけ交通が盛んで情報が流通すると知識人はかえって田舎の方に住んでいるともなる
東京と田舎の情報の差がなくなっているからだ。

ともかく棚倉町について詩を書いたようにそこは何か福島県でははずれた町で目立たないのである。
そして棚倉町の特徴は水戸に通じていて街道が
東京からは六号線でも水戸街道と東京からは呼ばれている

国道118号線を北上して、棚倉町へと入ってきました。
棚倉街道の宿場町・八槻宿があったと思しき八槻地区には、八槻都々古別神社があります
棚倉町には神社仏閣が多い街として有名です。
118号線沿線には、八槻都々古別神社だけでなく馬場都都古和氣神社や宇迦神社、そして山本不動尊があります。
国道118号線は、神社仏閣めぐり街道でもあるのです。

ここは古代のヤマトタケルの伝説が残る古い場所である。久慈川を上ってきたのである。久慈川も万葉集に歌が残っているから古い場所である。
白河の関よりここが福島県では古代の通り道だった。
ここは水郡線がありこれは結構時間がかかる、水戸まで通じている。
これは一回だけしか乗っていない、ローカル線である。
ただここが記憶に残ったのは会津からここまで自転車で来てテントで秋にテントでとまったからである。
ここは茨城県に日立に近いからここも福島県になり福島県はつぐづく広いなと思う

それから猪苗代湖の福良とか湖南町なども通信領域からはずれている
あの辺もも白河街道で江戸時代は会津に通じる道であり秀吉もこの道を会津に向かった。鉄道がここを通らないのですたれて淋しい町になった。
でも情緒はこうした江戸時代の旧街道だったところに感じるのである。
この道も自転車で会津に向かった。
それから昭和村とかあるがここも町の中心部は通信領域になっているが孤立している。
ここも確かに自転車で行ったとき遠いし離れていて孤立した村に感じた。
これは自転車で行った実感なのである。
山が多い所は通信領域になっていない、そこには人家も少ないからである。
檜枝岐に行く道で古町温泉とかに入ったのも思い出であり
なんとも今になると夢のようであり不思議になる。
旅はこうして気まぐれでないと旅にならない
ここでちっっとよってみようか別れ道を行くこうかとなる
あそこの温泉は地元の人が入る温泉である。

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自分が作った俳句で「日永きやまた道二つに分るかな 」があったがそういう時があったときなつかしく思った。
ここに時間の余裕があった。
日が長くなり春の日にきままに自転車にのり阿武隈の道をたどっている
そこに制限されない時間の余裕がこの句から感じられた。
こんな句を作ったのも忘れていたのである。
俳句でも短歌でもそこからどれらだけよみとれるからである。
自分が作った俳句だからもちろんその時を思い出す
つくづくその時制限されな自由な時間があったんだなとふりかえる
そんな時間があたりまえだと思っていたがそういう時間さえなくなる。
人生の時間はいづれ誰でもつきるのである。
今になるとその時そこにあったということ自体が不思議になる

それで面白いのは丸森町である。宮城県は仙台を中心にして通信領域で赤になっている
でも丸森の地域は通信はできるが薄い赤でありやはり正式の通信はできない
丸森は秘境があるということを書いたし詩にした
丸森は伊達藩でも相馬藩と接して仙台からははずれている。
ただ丸森からも角田からも蔵王が大きく身近に見えるのである。
蔵王が見え領域としての地理もある。蔵王はみな南相馬市の鹿島まで見えるのである。
だから高い山から地理を把握するのも一つの地理の見方なのである。
通信領域からはずれているのは阿武隈の高原地帯である。
そこは広いのだが葛尾村とか今では過疎地域になる。

旅をして魅力があったのはこうした通信領域からはずれている過疎になっている地域であった。
そこは江戸時代はかえって街道が通じていたが裏道になってしまったのである。
記憶をたどる旅になるとどうしても地図をみる、その地図を見てもわからない
インターネットで旅した道の紹介があったたするから便利である。
つまり何度も言うが地理は実感の世界でありまさに像で把握する世界なのである。
それが四次元にもなっているから地図を見ても立体地図を見てもわからないのである。
このソフトバンクの通信領域の地図は全国的に見ても興味深い
なぜなら通信領域からはずれいるところは過疎化している地域と一致しているからである白くなっていて空白地域になり穴があいたような地域になっているのである。

現代では通信ができないことも過疎なのである。
なぜなら通販はインターネットでしているからである。モバイルでもしているからである
学問もいろいろあるが地理というのは基本にある。
これを知らないと何か実感として何も理解できない
歴史も文学もそうだし地質学でも地震学でもそうだろう
これは世界の歴史でも同じなのである。
だから最近アマゾンで「逆さ地図で読み解く世界情勢の本質」
これなど南砂諸島になぜ中国がこだわるからわかりやすくなる。
政治は基本的に地勢学、地政学だからである。
このソフトバンクの地図からまた全国を見直してみよう。



道にも古道があるが町にも必ず古町がどこにでもある。都路に古道とあるのはその道が古い道になったからである。
どこの街でも古町があるのはそこがもとは栄えていたからである。
南会津でも古町温泉とかあり地元の人が入っていた。
ここが古町だったのかと山奥だから不思議に思った。
会津田島駅発内川行き → 針生 → 山口 → 古町温泉入口下車(乗車時間約1時間) 
福島県南会津郡南会津町古町 字太子堂186-2

古町温泉赤岩荘
http://www.sayurinosato.co.jp/akaiwa/access.php

古町や会津の奥の湯秋の暮


古い道と新しい道(会津の古町温泉)

青森県の地名の謎 (鉄道の旅は地名が気になり記憶に残る)


青森県の地名の謎

 
(鉄道の旅は地名が気になり記憶に残る)

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今回久しぶりで青森の弘前まで旅した。それは新幹線でありあとは鉄道の旅である。
電車の旅だとどうしも駅名が心に記憶される。
それで自分は全国を旅して地名に興味をもつようになった。
今回もひさしぶりだったのでやはり地名が気になった。
何気ない地名でも鉄を旅はただ駅名だけが気になり風景が過ぎてゆきあとは記憶されないということもある。
地名とは一つの歌枕のようになっているのだろう。
その土地を地名を手がかりに知るというのは古代からあった
万葉集でも地名が基本にある。
日本を知るには地図もないのだからその地名をてがかりにしていたのである。

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎(かさのいらつめ)

これも陸奥ー真野ー草原(かやはら)も地名だと自分は推測した。
そしたら歌の中に三つも地名があるのだからいかに古代は地名が大事かわかる

浪岡

健保年間(1213〜1218)には行丘、鎌倉中期には波岡、慶長(1596)以降の徳川時代を通じて浪岡と改めたとされる。
地名の由来について詳細は分らず。

この町の名が気になったのは新幹線から乗り換えて弘前に行くとき山の中をぬけでた所にあったからである。
行丘(なめおか)とするとこの辺の行方(なめかた)郡と呼ばれていたからそれとにている。ナメという地名は滑らか(なめらか)から来ていて一字で滑(なめ)という地名もこのへんにある。
なめらかな丘で行丘となり波岡となった。そういう地形的なものが一番多い。
ここの地形は果たしてそうなっているのかわかりにくい。
ただ山をぬけたところであり行丘だと地形的にはあっているかもしれない。
なめらかな地帯に出てきてそこは人が生活しやすいということからついたのか?
新青森からは山深いなと感じた、今年は早めに春と夏がきていた。
青森も暑いくらいだったが新青森から浪岡にでるまでの山は深く雪がまだ残っていたのである。
やはり地名は地形的なものから名付けられるのが多いから地形を知らないとわかりにくいとなる。
弘前市について一晩とりま川部からのりかえて藤崎という駅があり町があった。
この藤崎もなになのか?

古くは淵先または淵岬と呼ばれていたという。
十三湖が内陸部まで深く入り込んでいたころの名残と見られる

藤崎

五所川原付近まで十三湖だった。丸山三内の縄文遺跡からヒスイが発見された、そこは青森の湾の方に近いからそっちの方からもたらされたのか?
藤崎というと藤とかかわりがあるとなれるが地形的なものだろう。
地名はあとからその名前からいろいろ別な風に語られるのが多すぎるからだ。
藤崎氏由来の説もありこさは安倍氏とかかわっているから嘘とも言えない
安倍氏が藤崎城を築城した時期には、既にこの土地に「藤崎」の地名が
存在していました。
現・南津軽郡にある、この「藤崎」の地名の由来は――
平安時代初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂が奥州の蝦夷征伐の際、
この地を訪れ、生えていた藤の大木から枝を切り、鞭として使用した。
使用した後の鞭を自然に帰そうと地に突き刺した所は、
「旧跡・藤巻森」と呼ばれました。
鹿島神社の北にある沼州川にちなんで、「沼州」と称された地に
「藤巻森」はありました。

藤崎は坂上田村麻呂にまで由来していて古い、でもこれも後から地名を元にして伝説を作り上げたのだろう。
ただ鹿島神社があることころは蝦夷征服と関係して建てられたことが多いことは確かである。
ここは十三湖の説が地形的にはなる。ただ安倍氏も津軽では蝦夷とかかわりその子孫説がある
青森では良くアイヌ語説の地名が多いと言われる、内(ない)は川であり平内とかそうである。川部とかもそうである。ただこれも別に他でもあるからわからない。
そもそもアイヌ自体が謎の民族だからである。
藤崎で忘れてならないのはここが藤リンゴの発祥地だった。
リンゴは好きで毎日食べているからこっちの方で親しみか沸いた。

板柳町

古くからこの地方に「いたや」「えぞいたや」「おのえやなぎ」などが繁茂していたことから、板屋野木村という地名となった。
後に板柳に改められた。

蝦夷いたやとなっていたのも津軽らしい。

田舎館村 

(1)蝦夷が住む中心であったことから、蝦中(えなか)と称されそれが転化した。
(2)稲作の生活から生まれた大和言葉の「稲家」が転化した。
(3)平安時代に「田舎の郡」と言われ、鎌倉時代になって田舎館と称される。
ここで興味深いのは蝦中(えなか)から田舎館になったということである。
エという言葉蝦夷語に由来していることを前に書いた
それは地形的に高台のものにつけられたののかもしれない

「漬ず」というのを見つけた。「水に浸(ひた)す」とあり、水に浸すと物は水圧で変形するので風貌が明らかに異なる人々に、接頭語の「え」を付け、「え-ひし」「え-みし」「え-びす」などと呼んだのではないかとした


ここから前にコメントあったがこちらの方が地名は専門的だから読んでください



北海道では「江別」「江差」「江刺」「枝幸」「恵庭」「襟裳」「遠軽」「遠別」などをあげることができるし、関東では「江戸」「恵比寿」「江ノ島」「荏原」「海老野」、中部地方では「恵那」、滋賀県では「愛知川」、大阪では「江口」「江坂」「餌差」「海老江」「恵我の里」、中国地方では「江田島」、九州では「海老野」をあげることができる。
「えびす」の語源は、「エミシ(蝦夷)」が「エミス」になり、「エビス」になったとされている。また、「えびす」は蛭子の神さまでもあり、水に関わりがあるから、兵庫県の西宮戎神社や大阪の今宮戎神社のように海に近いところにあるのが多いのである。
http://asahi.co.jp/call3/diary/yamaken/chimei_05.html

エ・エトコ(頭,水源,山頂)
エサシ(山の頭を浜につけているもの,岬)
十三湖の小湾入のある「前潟」のことで,ie (尖った)rum (矢の根)ma (澗)J (尖った矢の根のような澗)
津軽にはほかに恵神崎(えがみざき)と
いう岬もあり,これは西津軽郡の岩崎村の岬である(図3)。この岬角名の語頭の「恵」
の部分にエンルムの「エ」が残存しているかもしれず,あるいは北海道の恵山(えさ
ん)のようにエサン(頭が浜に出ている岬)かも知れない




海老という地名もこの辺にある、それはえひであり海老とは関係なかった。
蝦夷はエミシでありそのエが何なのか、入江とか水と関係していることは確かかもしれない、蝦夷(エミシ)とは水辺に生活していた人たちのなのか
ヤマトはヤマを根拠地にしていたのかともなるがこれもわからない。
地名は何か確証がないのが問題であり勝手に想像で各人が言うから科学的でもないし
想像で作られた地名由来が多すぎるのである。
ただこれでもわかるようにエとは北海道にも広範囲にあるとなると蝦夷とはアイヌなのか?エとは北海道だげではない、日本全国の地名の基になっている。

相馬村 

鎌倉幕府の落人でこの地方に土着した一族に相馬氏がおり、その人物に由来するとされる
相馬藩も相馬氏が移住してその名となった。でも相馬市というのは戦後名付けられのであり新しい名である。相馬市と中村市だったからである。
だから意外と相馬市は地元でも実際はなじみかないのである。
地名でも姓名を基にしているのはまれである。
鎌倉時代に相馬氏の移住はここにもあったし津軽までもあったのかとなる。
タグ:青森地名