原発事故から考える理系と文系
(理系集団で構成された原発の問題)
●科学は万能ではない
文系大学などいらないと予算も減らされる、文系は自分もそうだったが何も勉強しない、遊びだったというのは本当である。文系でも自分はFランではないがたいして変わらないとかなる
でも団塊の世代の時代は田舎では大学に入る人は一クラスで四五人だったのである。
中卒で金の卵として就職した時代だった。
その時代からすでに大学はマンモス化して文系は遊びの場でしかなかったのである。
理系とは全然違う世界である。理系は実験の繰り返しとか毎日が実業に結びついている。文系は別に本を詠んだりインターネットでも学べるものである。
学者の授業など聞かなくてもまにあうのである。
では理系でこの世のことがすべてわかるのかとなるとそうはならない
●地震のことが基本的にはわからない
●癌のことはわからない(病気のすべてはわからない直せない)
●人間の寿命は誰が決めているのか医者にもわからない
●社会を理系では理解できない(社会は数式化できない)
理系でこの世のことが人間のことがすべてわかるのかとなるとならない
地震のことが科学的に合理的に説明できないし予知もできない
もし予知できるなら理系の科学者は神のようになるだろう。
人間の体もすべてわかっているわけではない、癌は未だにわからないし様々な病気のことも実際はわかっていないのである。
つまり病気が病は気からだというときそんなものを否定して薬とか手術とか医療技術とか科学の発展で直るとしたら医者だって神のようになってしまう。
つまり病気が病は気からだというときそんなものを否定して薬とか手術とか医療技術とか科学の発展で直るとしたら医者だって神のようになってしまう。
社会のことも数式とか統計とか盛んに利用しても社会がどうなるのか将来がどうなるのかわからない、今は株式もコンピューターで予測してコンピューターで一秒でも早く取引ができるシステムになっている
それは人間の頭脳よりコンピューターの方が株をまかせるとなると優れているとなる
ところが未来はコンピューターで予測できない
なぜなら突然の事件などが地震でも津波でも起きて狂ってしまうのである。
突然に株でも暴落してしまう、それは未来が予測不可能だからである。
そんなことは統計を見てもコンピューターでも予測できないのである。
それは人間の頭脳よりコンピューターの方が株をまかせるとなると優れているとなる
ところが未来はコンピューターで予測できない
なぜなら突然の事件などが地震でも津波でも起きて狂ってしまうのである。
突然に株でも暴落してしまう、それは未来が予測不可能だからである。
そんなことは統計を見てもコンピューターでも予測できないのである。
●科学には限界がある
そもそも理系であれ神ではないのだからいくら科学が発達しても限界があるのだ
もちろん地震が予測できない、病気も全部直せない、社会も理系ではすべて理解できない何が起こるか予測できない、それで地震を想念の乱れから起きるなどというとオカルトとかなってしまい拒否される
自分がある人を津波が来る前に呪いつづけた。その半年あとくらいに津波が来たことに驚いたのである。何か想念が影響したのかとも思ったのである。
病気も全部直らないから宗教に頼るのが今でも多い、それでオカルト宗教団体に入る数が未だに多いというのも矛盾である。
科学と宗教はガリレオに見られるように対立する面があったからだ。
科学は法則であり数式や法則通りに成るということである。
でも法則通りにこの世界が理解できればいいのである。
それができないから限界が生まれる
人間は絶対にこの世界を科学的にでも理解はできない、神のように全能でないからできない
科学には必ず思わぬ落とし穴があり今回のように原発事故も起きた
科学者が百万年に一回しか起きないと確率で計算していたことも滑稽である。
どうしてそんな計算が成り立つのか今回のように津波は400年前にも起きていた
千年単位になったら必ず大きな津波が来るし予測つかな自然災害も起きてきている
それは歴史を見ればわかるし科学的に実証されたことでもあった。
ではなぜ原発を操作していた主に理系の人たちはそんな絶対安全神話に陥っていたのか?
そして事故が起きたときどうなるかは科学的に放射能のことを知っているのだからシュミレーションできた。
むしろ安全を計り事故が起きた場合のことを想定して備えていれば良かった。
それが科学者が安全神話に陥りオカルト的になっていたのである。
「事故は起きない」という前提で運営されていればそうなる
原発はまず前提として絶対に安全だということはないのは科学者であればわかっていたのである。
科学者だからこそわかっていた。それが理系と文系に分別して見れば文系の官僚や社長もコストカッターとして文系だったらしい。
そういう文系に反発して科学者は原発は全体安全などありえないと反発すべきだったのである。
科学的思考を徹底すれば原発は絶対安全はないのだからそのことを考慮すべきだと抵抗して国民に知らせるべきだったのである。
結局官僚とか政治家とか文系的指導層の圧力に理系的科学者が屈して御用学者になった。文系の人は本当に放射能のことなどわからないのである。
それは理系の人たちが常に言っているし文系をこきおろしていることでもわかる。
それなら理系的科学者がそのことをもっと言うべきだったのである。
ガリレオのように宗教者から批判されても地球は回っているということが科学者の言うことだったのである。
●科学を越えたこと奇跡とか現実にありカルマ論も統計的に証明される
ともかくこの世はこの世の終わりまでこの世界のことは理解できない、ただ全能の神のみが知るのである。
なぜ人間が死ぬのか?まずそういう大きい命題に科学は何の力もないのである。
死は分子に分解してもとにもどるだけだというだけで納得する人はいない
それは宗教とか信仰でしか解決しない、「永遠の命」が現実にあるというのが信仰である人間は死なないということを死なない命があることは科学的に証明できない
奇跡は証明できない、奇跡は確実に起きたことであり聖書に記されたことはすべて事実から記されているのである。そもそもこの世は地球でも奇跡によって創造されたとしか説明しようがないのである。
それをオカルトだとするときでは科学者は不老不死の薬を医療を永遠に老いることがないようにできるかとなるとできない、stap細胞など作れないのである。
そこに科学の限界があり科学が万能になりえないのである。
また社会というのも考えてもマルクスの理論は科学的であり合理的でありまるで宗教のようになった。
でも社会はそんなふうにならなかった。それは共産主義の国をみればわかる。
中国では一番格差がある社会になったのである。
社会科学とあっても社会は科学的に見ることはできない、社会は何か予期せぬことが必ず起こるからである。弁証法などでも説明できない。
だからカルマ論なども科学的根拠があるのかとなると実際そんなこと証明できない
でも現実にカルマが個々の人生で起きていることが確実にある
それも不可解であり人生そのものがみんな謎なのである。
そのカルマ論が自分にもあてはまったことであることを書いてきた。
他の人にも確実にあてはまっていたことなのである。
まず子供は親の運命と同じ運命をたどるというのは統計的に調べてすべてではないにしろほぼ確実だということがカルマ論を否定できないものにしている。
どうしてそれぞれの人がみんな違った宿命に生まれてくるのか?
寿命にしてもどうして長生きする人とすでに60代でも一割は死んでいるのか?
百歳まで生きる人がいるのか?
寿命は神が決めているというのも不思議ではないか?
人間の体を最新の危機で検査しても優秀な医者かみても寿命がどれくらいかわからないのである。
なぜ男性として生まれ女性として生まれるのか?
それは遺伝子の偶然の配合だとか科学的に説明できないのである。
人間はまた遺伝子によって生まれによってすべてが決まるわけではない
その後の人生で様々な体験を通して人間は変化するのである。
人間はすべて先天的なもの遺伝子とかで作られるわけではない
英雄なんかもその時代にもまれて作られるのである。
吉田松陰なども批判したが明治維新のような時代はそういう英雄を生む
今のような平和な時代には英雄はまた別な英雄になるのである。
要するにすべてを科学的に証明できないのである。
そこにだから「霊」の関与があり神が関与しているとなる。
すると科学者からはオカルトだとなるが科学者も説明できないからそうなっているのである。
この世には科学で理系ですべて説明できないから文系的思考になる。
その文系的思考を理系の人がすべて否定できるのか、オカルトと否定できるのかとなる
それより科学も科学を徹底すると原発事故は百万年に一回しか起こらないとか滑稽なことになる。専門馬鹿が生まれるのである。科学がオカルトにもなるのである。
科学とは水素と酸素から水ができるということは確実である。
でも「心の青雲」のプログで宇宙には水だけが存在することはありえないというのも確かである。
なぜなら世界はそんな単純なものではないし科学でわかるものではないからだ。
地球という全体の中で水も生成しているのであり水だけが存在することはありえないというのも言えるのである。
科学者は否定しても科学を越えたものとしての説も可能である。
なぜならこの世の事象はすべはて科学では説明できないからである。
科学的説明できないものはすべてオカルトだとして否定できとないのである。
心で思ったことがある人のことを思っていたらその人が現れた出会ったなどということは日常的に起きているのである。
すると人間の思いというのも科学的に説明できないものなのである。
思いは電波だとかしてもその電波が目に見えて科学的にとらえることはできないからである。
●人間は学歴だけではわからない
文系がいらないというとき、社会はみんな科学的に処理するようになる
その時原発事故を起こした科学者のように大きな落とし穴が生まれる
宗教であれ哲学であれ芸術であれそれは理系と文系とか分かつものではなく総合的なものとして生まれた。
例えば花を科学的に分析していたら花の美は喪失する。
もちろん科学的になれば花でも肥料が必要でありそれは科学的思考である
でも美というのはそうした科学的思考だけではない、美を感じるのは一体文系なのか理系なのかとか区別できないだろう。
理系的に花を分析していたら花の成分はどうだこうだとしたら美は失われてしまうのである。
その時原発事故を起こした科学者のように大きな落とし穴が生まれる
宗教であれ哲学であれ芸術であれそれは理系と文系とか分かつものではなく総合的なものとして生まれた。
例えば花を科学的に分析していたら花の美は喪失する。
もちろん科学的になれば花でも肥料が必要でありそれは科学的思考である
でも美というのはそうした科学的思考だけではない、美を感じるのは一体文系なのか理系なのかとか区別できないだろう。
理系的に花を分析していたら花の成分はどうだこうだとしたら美は失われてしまうのである。
その企業に育てる力がないのであれば、基礎学力の高い確率の集団から採用した方が無難でも、おもしろみのない、発展しない集団になるとも思う。
勉強のできる、学習能力の高い人のほうが、早く仕事を覚えられるが、役職が上がるほど、学校における学習とは違う能力、素養が要求されること。こちらの適性は、学歴・ペーパーテストの成績では判断できない。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK26032_W3A121C1000000/?df=5
東大ばかり出た人が上に立つことはできないしそんな人ばかりだったら社会はつまらないものとなる。
人間は学歴などで決まるものではない、そしたら社会は歪められる
むしろ東大閥とか官僚が現代の社会を歪めている要因にもなっている
人間社会にはエリートは必要である。でもそれが東大出でなければならないということはない、それが社会を大きく歪めるからである。
エリートというときそれは江戸時代の継続として侍がいてその侍を武士をすべて廃止したとき社会が混乱した。
一挙にそうした伝統的に培われたものを廃止して国民国家にしたとき指導者が明治維新で薩摩長州の下層のものがのしあがり支配者になったときゆがめられたのである。
その人たちにはモラルがない、利権とか地位とかそうしたものばかりを得ようとしてのしあがってきたからゆがめられたのである。
人間は学歴などで決まるものではない、そしたら社会は歪められる
むしろ東大閥とか官僚が現代の社会を歪めている要因にもなっている
人間社会にはエリートは必要である。でもそれが東大出でなければならないということはない、それが社会を大きく歪めるからである。
エリートというときそれは江戸時代の継続として侍がいてその侍を武士をすべて廃止したとき社会が混乱した。
一挙にそうした伝統的に培われたものを廃止して国民国家にしたとき指導者が明治維新で薩摩長州の下層のものがのしあがり支配者になったときゆがめられたのである。
その人たちにはモラルがない、利権とか地位とかそうしたものばかりを得ようとしてのしあがってきたからゆがめられたのである。
特に文系になると学歴は実際関係ない、語学などは判別しやすいけどその他の能力は社会でどう活かされるかはわからないのである。
戦後の教育の失敗はただ学問でもそれは立身出世主義しかない、どれだけ社会で利益を得て得するか、楽して得するための教育しかなかった。
受験戦争もそのためにあったのである。それは福沢諭吉からはじまっていたのである。
内村鑑三はその反対の軸として明治にあった。
理系文系というとき文系はいらないと偏差値がどうだこうだというので人間を若い内に決めてしまうのは問題なのである。
人間は若い内ですべてが決まらない、特に十代とか二十代前半で決めるのは問題なのである。
人生をそこで決めてしまったらつまらない人間しか生きられなくなる。
人生には何が起きてくるか予測つかないし意外な結果として人生が終わるのである。
理系で優れた人が事業を起こして失敗した。
その原因は何だったのか?よく分からないけどその人間性に問題があった。
人間性というときモラルがない人が果たして上にたてるのかとなる
それは理系文系でも関係ないのである。
社長になるのが文系が多いというとき何か別な能力が要求されている。
とても理系学者とか研究者タイプが社長とか勤まるとは思えないのである。
理想は理系にも文系の知識は必要だし活かされる、文系にも理系の知識が必要であり活かされる
それが理想なのだけとその両方を兼ね備えた人はまれである。
自分も数学とか科学に弱いから原発事故問題でも厳しく追及できないものがあった。
人間は結局何が無駄かなどわからない、無駄だと思えるものが有効だったりふりかえるとなる。
社会でも無駄だと思えるものが実は社会的に効用があったとかわからないのである。
核を科学者が発明したけどこれが人類にとって必要なものだったか?
核が発明されなければ核戦争も広島の原爆の悲劇もなかったし原発事故もなかったからである。
人間であれ社会であれ実は何が有用で無用なのかわからないのである。
東洋的には無用の用は必ず存在する、無用にこそ大いなる有用がある。
そもそも宇宙はあまりにも広大でありそれは地球にとっても人間にとっても無用の空間なのである。
だからそもそも何が有用か無用かとか社会で決めることか問題になる。
もちろん税金の無駄使いもあるからやむをえない面はあるが文系なんかいらないとか
偏差値が低い人間は劣っているとかそんなことで人間は決められないのである。
それぞれの人間がどんな人間になるのか十代前半とか20代前半でも予想がつかない
社会では別に学歴がなくても意外な才能を発揮して成功している人もいる
それは学歴ではないその時代とかその人の人間性とか運とかも左右している
ただ30才ではその人の将来はだいたい決まる
30才までが青春であり青春時代にモラル的に荒廃したら一生ひきずることになる
それがふりかえると人間の一番の落とし穴だったともなるかもしれない
青春時代はだから潔癖である必要がありそれを貫くことが大事になる
それが一つの人生の分かれ目になることが確かであり学歴は関係ないのである。
そもそも宇宙はあまりにも広大でありそれは地球にとっても人間にとっても無用の空間なのである。
だからそもそも何が有用か無用かとか社会で決めることか問題になる。
もちろん税金の無駄使いもあるからやむをえない面はあるが文系なんかいらないとか
偏差値が低い人間は劣っているとかそんなことで人間は決められないのである。
それぞれの人間がどんな人間になるのか十代前半とか20代前半でも予想がつかない
社会では別に学歴がなくても意外な才能を発揮して成功している人もいる
それは学歴ではないその時代とかその人の人間性とか運とかも左右している
ただ30才ではその人の将来はだいたい決まる
30才までが青春であり青春時代にモラル的に荒廃したら一生ひきずることになる
それがふりかえると人間の一番の落とし穴だったともなるかもしれない
青春時代はだから潔癖である必要がありそれを貫くことが大事になる
それが一つの人生の分かれ目になることが確かであり学歴は関係ないのである。
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