2015年05月27日

藤の花の俳句連作(まとめ作品鑑賞)



藤の花の俳句連作(まとめ作品鑑賞)
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日立木の五本松


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鹿島の蔵

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しのぶれどとは薔薇の名前

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相馬市や夕日のさして藤の花
朝静か図書館の前藤の花 
夕月や藤棚しつらえ町屋かな
相馬市の道の駅かな藤の花
道の駅曲屋風や藤の花
街道の松影なして藤の花
五本松変わらずここに藤の花
釣人や夕べ水面に藤写る
街中の倉に紋かな藤の花(鹿島)
公園に今日も我が寄り藤の花
白藤にしのぶれどかも室の中
六号線日影の歩道藤垂れぬ

ハイクは短いから連作にしないと作品にならない
一句一句鑑賞するのが無理なのである。
一句一句ではあまりにも短すぎるからだ。
十句とかなるとそさなりに読めるものになる
「藤の花」だったらその季語をテーマに一つの作品化する
自分はこれまで相当な量の俳句と短歌など作ってきたが
一句一句とかでは読みごたえがないし作品にならない
だから一連のものをまとめるとそれなりに読めるものになる
芭蕉の奥の細道でも一句一句ではない
全体の流れのなかで一句一句を読むのである
丁度川が上流から下流へと流れているがそれは一つの川なのである。
川を断片化して見せるのではなく一つの長い流れとしてみる

「藤の花」というのでこれまでも俳句などを作ってきた。
これは藤の花をテーマにして相馬市から日立木の五本松から鹿島までの道筋を行き俳句にした。
相馬市は城下町であり何かしんみりする場所である。
最初は中村神社の境内の藤の花は知られている
それから相馬市では公共の建物は曲屋風に統一している。
道の駅もそうである。それで藤の花がにあうのである。
藤の花も日本的な花であり外国人に人気なったことでもわかる
藤と松とかも何か日本的でにあっている。

道の駅から溜池がありそこではいつも釣りする人がいた。
そこにも藤の花が水面に写っていた。
それから鹿島に来ると街中に倉があり藤が塀の内に咲いていた。
六号線の小島田の歩道にも藤が咲いていた。
そこを自転車で通りとまっていたから俳句になった。
車では俳句とか短歌は作りにくいだろう。
そういう余裕が生まれないのが車なのである。

ともかく自分は今までプログでも前に創作したものでもまとめるのが大変な作業となっている
それも時間がかかるし手間になる。
俳句でも一連のものとしてまとめないとやはり作品としてはものたりないものとなる。
俳句の一句一句は断片化したものでありそれで作品とはならなくなっている
俳句はあまりにも短いからそうなる。
プログの便利なのは日々記録することでありそれをまたあとから検索で調べられることである。
何か奇妙なのは前に自分が書いたものすら忘れている
ええ、こんなこと書いていたのと発見するのも不思議なのである。
人間はつくづく次から次と忘れてゆくものだと思った。
膨大な人間が忘却されてゆく、次から次とこれからは同世代の人も死んでゆくからであるそれらの人にいちいち関心をもてないのである。
有名な人も芸能人ももう関心がもてない、次々に忘れ去られてゆくだけだとなる
最後は「さよならだけが人生だ」となってしまうのが人生も残り少なくなるとそうであるそしてこの世から自分も去ってゆくだけだとなる。




タグ:藤の花

青嵐(今年は風が強い)


青嵐(今年は風が強い)

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来たれかし大木をゆする青嵐
ゆさぶるも動ぜぬ大木青嵐
この町に一本の大木青嵐
青春は過ぎしやしばし青嵐
青嵐大木目指し揺さぶりぬ

今年は毎日のように風か吹いていた。
今日は全国で暑いけどここは最初は暑かったけど今日は涼しい
阿武隈を越えた福島市は暑い、あそこはいつでも暑い
でも福島市が暑くなるとここも暑くなることがあった
ここは今は暑くないから助かっている
暑いと自分の家は風通しが悪いし隣がトタン屋根で照り返しで暑くなる
クーラーもないので夏は嫌なのである。

浜通りでいいのはこの気候なのである。
暑くなく涼しい感じである。
半袖では寒い感じもする
だから気候は全国一様じゃない
ここも暑いときは暑かった
最近は異常な暑さをこの辺でも経験した
ともかく気候がいいということは意外と老後の生活にひびく
会津とか福島市とかは住みたくない
だからイワキに住みたいと避難者が家を建てたのはわかるのである。
北海道なんか老後は向いていない
気候は一番体に答える
自分は体が弱いからまず寒いところとか暑い所に住みたくないのだ
その点浜通りは気候だけはいいのである。
寒からず暑からずなのである。

街中に立っている一本の欅の大木をゆすり青嵐の風が吹いた
青嵐という季語は使ったことがない
青嵐というのを経験したことがない
今年は風が強いからはじめて青嵐というのを経験した
日本の季語が多すぎて日本に住んでいてもすべて経験できない
それほど日本の天気は変わりやすいのである。
地震も常にあるから天候で日本は緊張するのである。
でも台風とか青嵐が過ぎくると何もなかったように暮らす
つまり日本人は忘れやいてのである。
一時は台風でも騒ぎ青嵐でもさらにこれは短いから過ぎ去ってあとは忘れるのである。
町に一本立っている大木に青嵐がゆさぶるのは迫力があった。
一本しかないから青嵐を感じたのである。
今年はやはり風が毎日吹いて強いから特に感じたのである。



タグ:青嵐

明治以降は入会権とかの共同性は喪失した privateは奪うことでありpublic(公共性)を破壊した


 
明治以降は入会権とかの共同性は喪失した

privateは奪うことでありpublic(公共性)を破壊した


privateの語源を調べると、
「stem of privare "to separate,deprive," from privus "one's own, individual,"」とあり、
奪う、分離するという意味があるようです

privateとはpublicに対してprivateがある
ヨーロッパではpublic(公共性)を基に市でも作られてきた。
広場もそうであり公共のものという設計のもとに市が作られている。
それに反するのがprivateになる。
だから奪う分離するのがprivateでありいい意味には使われていない
これも日本語だと私(わたくし)するとなると奪うとういことでいい意味がない
わたくしはわたしでありわが基になっている。
わが我になる。わは割れるにもなる。我とは割れるとなるからまさに入会権の共同の山が無数にわたくしされて割れて割山になった。
それは明治維新で極端化して起きたのである。
明治維新からは日本人はわたくしすることがあからさまに強くなったのである。
江戸時代は藩主がいて庄屋が村をまとめていてpublicがありそれは拘束力になったが
わたくしするということは庄屋ですらなかったろう。
侍にしても「わたくし」するということはドラマのようにはそれほどなかった。
江戸時代は一つのpublicに公に生活していた。
それが900にも区画化され私的所有になったとき人間の心も900に割れた分割したのである江戸時代から明治の変化が現代に形を変えて継続されていたのである。

現代人の心は900どころではない、一千万の東京があるとしても心は一千万人に分割しているのである。
一千万人の人間はただ貨幣を通じて売買する時だけつながっているという感覚になる。
それは田舎でも同じであり農業があってもpublicは喪失している
むしろprivateが奪うということが民主主義であれ資本主義であれその心性はpublicに生きるということはない、そもそもpublicがないからである。
個々に分離して互いに奪うという心性になっているのだ。
逆にだから常に人間関係は奪い奪われる関係になる。
働いてもそれは労働が奪われているのであり協力しているという感覚はない
それでブラック会社に働かされて安い賃金で奪われている、搾取されているとなる
一方で他者に対してとにかく奪うという感覚になる。
安く働かせてその労働力を奪うとか国家規模になると他国の富を資源でも奪うとかなる
そもそもヨーロッパの植民地主義はアジアの資源を奪うことだったのである。

奪うというとき別に明治以降だけではなく常にあった。それは盗むにも通じている。
ただ一国とか大規模になると戦争して他国の富を奪っていたのである。
それが戦国時代だったのである。それで戦争に勝つと自国が裕福になったから戦争が指示されたという。弱肉強食が人間の歴史でもあった。
publicがあったとしても村とかの狭い範囲でありまた藩単位のpublicである。
その外になると奪う対象になっていたのである。
今や大きな国が奪い奪われる関係になっている。国と国が利権で衝突して奪い合いになっている。

奪うというとき天皇とか薩摩長州は明治維新で藩単位管理していた土地を山林でも奪ったとなる。
革命とはたいがい権力の移動であり革命そのものが権力を奪うことだから当然だとなる。だからあらゆる団体はまた奪う団体になる。わたくしする団体になる。
それは組合でも宗教団体でも同じである。
露骨に権力を奪うことを明言しているのが創価などであるが他の団体も同じなのである。国を奪うということはオウムでもオウム王国を目指していたから同じである。
だから創価では三国志をよませていかに国を奪うかを画策しているだけなのである。

漁業組合だって漁業権をたてに政府と東電から補償金を奪いとったとなる。
これも海は誰のものかというとき海をわたくしして国民から奪ったともなるのである。
個々にも奪うというわたくしすることが明治以降あからさまに容認された。
それは権利という名のもとにわたくしすることこそが正義だと戦後の民主主義でも公然のものとして容認されたのである。
それぞれがわたしくして利益を追及することが見えざる手に導かれるものとして奨励されたのである。
だから今や人間は人間にとって狼になった。
人間と人間の関係は家族でない限り奪い奪われる関係でしかなくなった。
食うか食われるかの獣社会である。互いに虎視眈々と奪おうとねらっている
食うおうと狙っているとしたら眠ることすらできなくなる。
そこに金だけが唯一の価値基準となりいかにして金をわたくしするかということが日々の活動なのである。

東電でもなぜ事故を起こしたかというとこれもpublicというものがない
privateでありあれだけの大会社でも自分の会社がよければ他はどうでもいい
政府も天下り先として検察でも用意しているから支配できる
自分の会社がよければいい、幹部なら多額の給料をもらえばそれでいい
我等の会社さえよければいいのでありあとは知らないと極端化すればなる。
会社があれだけ巨大化すると会社自体がわたくしすることが国単位になってもできる。
一つの団体が巨大化すれば宗教団体でも国をわたくしできる奪うことができる
官僚も東大閥で既得権化してその団体の利権を守るだけであり第一は官僚の利権を守ることにエネルギーが費やされる
公務員は常に批判されるけどこれも巨大な団体だから政府でもその既得権を奪うということはしない
つまり現代社会の不満はそうして巨大化する会社であれ団体であれそういうものに富がわたくしされていることに対する不満なのである。
でも結局その団体はあまりにも巨大だから何も言えないとなる。
この辺でも漁業権がどうのこうのなど事故前には言っていない、まず言えない
団体化したらどこでも何も言えなくなる、マスコミでも言えない
そういうことがどうなってゆくのか?今回の大事故や戦争とかにもまたなってゆく

だから資本主義がそれがなぜ生まれたのかとかいろいろあっても崩壊するというとき
そうしたモラルの荒廃から崩壊してゆく、誰も信じられない、信じられるのは金だけだとかなりモラルの荒廃から崩壊してゆく、人間が互いに信じられない、人間は人間にとって奪い合うものだとなるときそんな地獄のような社会に生きていたいかとなる
人間にはそういうものがもともとあったにしても欲望資本主義はその人間の悪しき面を
露骨にさせる。
何か抑制させるモラルがなければ人間は獣社会になってしまう。
そういうモラルの頽廃が限界点に達して崩壊してゆく

原発事故を起こした周辺を見れば何かそのことを象徴していた。
自分の一身上に起きたことでもそうだった。
漁業権で多額の補償金を得て原発御殿を建てたとかも本当だった。
富岡町長の五億円の金庫が津波で流れたというのも本当だろう
そういう金の噂は原発で飛び交っていたのである。
それだけの金が原発から生まれていたからである。
そして個々人をみて借金で贅沢しているというのも異常だった
借金して家を建てた人とか何か借金生活の人も多かったのである。
身の丈にあった生活など誰もしていない、金がなくても金のある生活をしていた。
そして借金で首が回らなくなりその借金を自分に肩代わりさせようと
病気のとき恐喝してきたのだから恐ろしい
そういうことをしても相手は何も感じなくなっている
それが当然であり奪うことが日々の生活だからそうなっているのかもしれないのだ。
金持ちは奪った人でありだから奪って当然だともなる
泥棒にも三分の理があるのだからそれも言える
津波とか原発事故はこうした社会のモラルの荒廃に対する自然の怒りのようにも思えたのである。
「もう醜い限りない欲望人間は一掃してやる」とノワの方舟のときのような大津波が来たのかもしれない。
そういう大転換期を迎えているのが今の現状である。


ノーベル賞受賞者で動物行動学のコンラート・ローレンツ博士はその著書『攻撃』において興味深い実験を報告している。それは、家族を形成しているネズミの群に、他のグループのネズミを放すと、あっという間に多数のネズミが襲いかかってこれを殺害してしまう、というものである。
 ローレンツ博士は「人間の社会構造はネズミのそれと大変よく似た構造を持っているのだと、十分な根拠をもって結論するだろう。人間はネズミ同様、閉じた同族の間では社会的に平和的に暮らそうとするが、自分の党派でない仲間に対しては文字通り悪魔になるのだ」といっている。

動物の行動と人間の行動はにている
人間も動物であり本能で生きる、欲望で生きる、

これで面白いのは人間でも家族でもなんでも団体化すると団体に属さないものに対しては敵対化するのである

動物にもあるとは思わなかったが団体化することは団体でわたくしすくことなのである

それは動物にあるということは人間と動物の行動は基本的ににているのである。


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posted by 老鶯 at 09:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)