2015年05月06日

体育系でないと勤まらない看護師 (病人や介護する人に気力が奪われる仕事)


体育系でないと勤まらない看護師

(病人や介護する人に気力が奪われる仕事)


●医者や看護師への要求が大きすぎるのも問題

看護学校ってなんで体育会系なんですか?女ばっかりなのに。
前から不思議です。
看護学生の行う朝、昼、晩の挨拶は軍隊式だし
教育というよりは調教、制裁的指導といった雰囲気。

じゃあ看護師が
患者が血だらけになり血圧がみるみる下がった時
『無理〜!』と逃げたら?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1450816769

身体拭きのケアは体力勝負
1日に4〜5人もざらだし、
お風呂介助なんかしちゃったら
もう午前中で1日の体力を
使い果たしてヘトヘトになります。


看護師が主に看護婦が白衣の天使などというが実際は医者も看護師でも介護士でもハードな仕事である。
精神的に疲れる仕事なのである。看護師になると精神面から肉体面でもハードである。
看護師は病院を走り回ることがある。それはやはり緊急性がある仕事だからである。
患者の容体が急変したりするからである。
つまりなかなか気がぬけない仕事なのである。
だから看護師は体力も必要なのである。心身共に過重な負担がかかる仕事なのである。
自分の身内か看護婦だった。自分と違って体育系でありものすごく気が強かった。
体力もあったし頭の回転も早かった。男勝りであり力も持ちでもあった。
だから戦争で従軍看護婦としてシンガポールで四年間過ごした。
そこでは戦争で傷つく人を看護するのだから並大抵のことではできない
本人も腸チフスにかかったとか戦争が終わったときジャングルに逃れ食うや食わずのどん底を経験している。
そういう時を生き抜くにはとてもヤハの精神と体では生き残れないのである。
はっきりいって自分は体力もないしそういう強さがないから生き残れない

ただ看護師のことをいろいろ言うのはわかる。看護師に文句言うのもわかる
看護師にいい印象をもっている人は少ないのである。
患者側からすればそうなる、看護師に対してどうしても要求が過多なる。
なぜもっとやさしく接してくれないのかとかもっと気を使ってくれとか要求が患者側から常にあっても看護師は答えられないのである。
自分も入院してひどいめにあった。
ものすごい剣幕でしかりつけられたのである。
病人に対してあれほどまでに強く言う神経がわからない。
痴呆老人でもないしたかだか二週間程度の入院にすぎない手をやく患者でもない
でも患者に対してものすごく厳しい態度だったのである。
それ以来看護師が恐ろしくなった。
患者は弱者だから何も言えないのである。
医者や看護師や介護でも介護士に対してめんどうみられる方は弱者になる。
入院したときそこばまるで刑務所になるのである。

●医者や看護師は容易に人も殺せる仕事

病院に通ってみてもらうのとは違う、閉ざされた空間で絶対的優位な立場として医者や看護師に見張られるとなる。
実際に一カ月間病院から出れなくなっていた。
患者の言い分など聞かれない、一方的弱者の立場になっていた。
だから入院すると簡単にそこでは医者や看護師の言いなりにされ殺されることありうる
しかしそれはわからないとういことも恐怖だった。
医療ミスなど日常茶飯時に起きているけどそのミスは問われない
それも病院が入院で手術するとかなる怖い場所だと思った。
現実にブラジルで医者が三〇〇人殺したとか外でもドイツでも何百人殺したとかあった。そういうことが容易にできる場所なのてある。
そうしても気づきにくいのである。

シップマンは、1975年から98年にかけて250人をモルヒネで殺したとされるが、2002年に警察が
「シップマンによって、少なくとも215人以上の患者が殺された」
と発表する。
ハロルド・シップマン (イギリス)【1946〜2004】
http://syouji.blog.jp/archives/1006921136.html

医者でも看護師でも患者に対して強者になっていることが問題の根にある。
「お前らは逆らえないだからだまっていな、死んでも何もいえないんだよ」となる怖さがある。
患者は弱者とてなり頼る以外ないものとなるからそうなる。
人間は弱者となったとき人間の悪しき面が露骨に現れることがある
自分はこの七年間その人間の悪質性に実際に身をもって苦しめられてきた。
それまではそういうことをされていないから人間はみんないい人だと思っていた
人間は本当に犯罪にあってひどい目にあったりしないと何でも他人事なのである。
他人事になると殺人事件があろうが災害で近くで死んでもそうなのである。
この辺ですぐ近くで津波で死んだ人がたくさんいても自分自身が被害にあっていないと
必ずしも同情するとは限らないのである。
それは何も普通の場合でも人が苦しんでいることはしょせん他人事であり無関心なのである。
そして他人が苦しんでいてもかかわりたくないのである。
なるべく病人とか弱った老人とか障害者とかにはかかわりたくないのが本音なのである。それはなぜなのか?
それはそういう人たちにかかわると自分自身も心身がそこなわれるからである。
身内の人に精神的障害者がいると必ず自分自身も精神を病むようになる。
自分も鬱病になっていた。だからそしいう人たちとかかわりたくないのが本音なのである

●人間が誰かを思うことのエネルギー量は大きい

ところが医者や看護師や介護士はそういう人たちと日常的にかかわることが仕事だから何か病んでくるのだと思う。
家族だったら何年かとか今では介護でも十年とか普通にあるからそれでか家族で苦しむ
でもいつか終わりがくるが仕事にしている人はやめない限りいつまでもそうした弱者とつきあわねばならない、そういう病人とか介護するような老人とか精神障害者と接することは健康な気が奪われるということがある。
自分も認知症の介護してそうなった。何か陰気なものとなり元気が奪われてゆく
いつまで寝たきりの人を介護しているからそこで元気が奪われてしまう
その影響は思った以上大きいのである。
どこの家でもそういう病人であれ介護する人であれ精神障害者をかかえていると何か正常ではなく気が奪われ家が陰気なものとなってゆく
だからそういう家には他の人も近づかなくなるのである。
それを冷たいとなかなか責められないのである。
自分自身だとそう思ったからである。

医者とか看護師とか介護士とかの職業は他のものと根本的に違うのはそうした弱者を相手に肉体的だけではない精神的な面で気を使うから異常に疲れる仕事なのである。
なにしろそうした弱者に気を使うだけで相当な労力なのである。
四六時中その人は家にいるということはさらに気力を奪われる
医者でも看護師でも介護士でも家に帰れば正常な世界で過ごせるというのではないからだ気が奪われるというとき、それが実際は相当に深刻なのである。
誰かに気を使うということは相当なエネルギーを必要としているからだ。
例えば一人の人間が気が使えるのは限られている、何十人もの人に気を使い気を配ることはできない、せいぜい十人くらいが限度だろう。
ためしにあなたが思っている人をどれくらいいるのか?
せいぜい常に思っている人は家族とかあとは数人にしかありえない
ただコンビニとかで物を売ったり機械的に接するのとは違って相手を気づかうということは違う。
それは気力が一方的に奪われることになるのだ。
現実に家に病人がいてヘルパーなどがきてその病人がいて気を使うことだけで単に掃除とか何か家の仕事するより疲れるのである。
だから常にそうした病人や介護する老人と接するのは心身ともに疲れるから体育系のタフな人でないとできないとなる。
優しさが要求されてもそれだけではできないのである。

つまり人が人を思うというときそれは数人が限度であることでもわかる。
人を思うこと何かしら思うことは相当なエネルギーなのである。
だからカルト宗教団体などでは数が多いからそこでは上の人はそんな一人一人を思わないただ一票とし数えるだけである。一人一人を思っていたら身がもたないからである。
政治でも数だからそうである。
そして人間の思いがそれだけのエネルギーが必要とするときある人への思えばそれだけで思いの力が働いてその人を左右できる、いい方面にも悪い方面にもできるというのは本当だろう。それだけ思いのエネルギーが労力を要するからそうなる
だからこそ家にそうした病人とか介護する老人とか精神障害者がいると消耗の度合いが大きいのである。健康な気力が奪われてしまうのである。
どうしても子供や若い人から発する気を受けると元気になる、老人に接すると普通は気が奪われるのである。
自然も何らかの気を出している。花でも色がいろいろであり赤は赤の気を青は青の気を出している。緑は緑の気を出している。
自然が出る気は何でも健康的なのである。だからエネルギーを自然からもらい元気になる山に接すれば山の気をもらい元気になる。岩に発する気があり元気になる。
動物は病気になるが死ぬが自然自体は常に健康体なのである。
天国に病人もいないし年をとらないし若い人しかいないというのもそうだろう。
そこにすべてが気力が充実する世界だからである。