夏になり様々な花が咲き買った
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八重桜影なす下に小花かな
釣人や夕べ水面に写る藤
蛙鳴き夕日さし暮る五本松
夏燕ハーレーダビドソンに去りにけり
しのぶれど薄紫のその薔薇の我がたもとに咲きて夕ぐる
街中にそちこち赤しチューリップ今日も用あり街をめぐり
我が庭の七輪の牡丹風に散り残る一輪見つつ暮れにき
昨日の夕方に溜池で釣りしている人がいた。藤の花が水面に写っていた。
釣りしている人はなにか自然と調和している感じになる
でもあの人は違っていた
パチンコならもうかるけど釣りはもうからないとか下品なことを次々に言っていた。
あういう下品なのが田舎でも多い
そもそも自然に親しむといってもそれは農家だったら生業としているのであり
自然に親しむという感覚はないだろう
農家だったら自ずと自然と生きなければ生きられないから違っている
釣りといってもそれは遊びであるから釣った魚を離している
あの人は別にそれほど釣りが好きではない、暇だからしている
パチンコなどの方が好きなのだろう。
桜は散り八重桜の季節になった。それから藤の花も咲いた。
今年は夏が早い、老人のライダーは一時休み去った。
あれも気持いいとなる
ところどころ植田がふえた。でも一割くらいしかまだない
それでも田が増えると元にもどるような気がする
田んぼに水か張られると蛙も鳴いていた
庭の牡丹は昨日の風で散った。一輪だけ残っていた
この季節何かめまぐるしく変わる
花もいろいろ咲いて買った
「しのぶれど」という薄紫の薔薇は名前のつけ方かいい
百人一首からとったのだが名前でさらに活きる
センスのある人が名前をつけた
もちろん百人一首を知らないとつけられない
ただ薔薇の名前にしてもそれが公認されて一般化するとなると
それにふさわしくないと定着しないと思う
「イヌフグリ」という名前は嫌なのである。
でもそれを変えられないし定着しているのはなぜだろうともなる
その名前がついたのはなぜだろうとなる
イヌノフグリの花はとても小さいので、たぶん実のほうがずっと印象が強かったのでしょう。その形から名前が付いたとしても理解できます。
http://homepage2.nifty.com/tnt-lab/s/nat/inufuguri/inufuguri.htm
http://homepage2.nifty.com/tnt-lab/s/nat/inufuguri/inufuguri.htm
これもインターネットに解答があった。
実の方が目立つのでそこからとった名前である。
確かに花は小さいから実の方が目立った
でもみんな花に注目しているからこの名前はいいものではなかった
でも一旦定着すると変えられないのである
薔薇の名前は「しのぶれど」とか文学的にでもつけやすいのだろう。
でもこれは文学的な粉飾には感じない、薄紫といえこの花にあっているのである。
実の方が目立つのでそこからとった名前である。
確かに花は小さいから実の方が目立った
でもみんな花に注目しているからこの名前はいいものではなかった
でも一旦定着すると変えられないのである
薔薇の名前は「しのぶれど」とか文学的にでもつけやすいのだろう。
でもこれは文学的な粉飾には感じない、薄紫といえこの花にあっているのである。
街中にあっているのはチューリップである。
チューリップは何か都会的だともなる
野に咲く花とは違っている感じになる、薔薇もそうである。
何か都会的なのである。野生の薔薇の花とかチューリップなどは見ないからである。
チューリップは何か都会的だともなる
野に咲く花とは違っている感じになる、薔薇もそうである。
何か都会的なのである。野生の薔薇の花とかチューリップなどは見ないからである。
ハーレーダビッドソンに乗った大熊の人は去った、夏燕の季節になる
自分は以前として介護から家事から買い物から時間に追われる生活なのである。
家のことをきりもりすることは一仕事だった
金の管理から掃除から次から次と仕事がある
ご飯をたくのとおかゆを作るのは機械だから楽である。
でも一日三食を用意するのが手間なのである。
だから生活にずっと余裕がないのである
プログに書くのも四時間くらいの時間はかかる
書く前に想をねることから時間がかかっている
前は時間がありすぎたけど今は時間に追われる
要するにどんなに暇なものでもいつか本当に時間がなくなるのが人間である。
そしてやれることは極わずかだったとなる
ニートとか何か今は暇な人が働かない人が多くなった
それも必ず後悔する、まず後悔しない人は人生ではいない
なぜなら時間はどんなに暇であっても死ぬほど暇と思ってもそれは一瞬のことである。
たちまち青春は過ぎて時間はなくなる
なにしてもなにしなくても時間は切れるということである。
だから暇で暇でしょうがなかったのがこれほど時間に追われるとは思わなかった
暇であると思う時間はいかに貴重だったとかなる
その時間を無駄にしているのが人間なのである。
ニートとかあとですごく後悔するようになるしひどい目にあうことになる
社会的に訓練していないと最後に困るのも人生だった
この七年間の苦しみはそのためにそうなったのである。
ただいづれにしろ最後には人生の総決算がくる
これはもうさけることができない、その人の一生否応なく現れる
もう隠すことはできない、内面的にも現れる
その顔にも現れ体にも現れる
不摂生していたらどんな丈夫な人でも病気になる
だから老年というのは怖いことなのである。
どんな人生を送ったか何でもあれ結果として現れるて隠すことができなくなるからだ。
地位ある人でも金があってもそれでその人生でしたことを隠すことはできない
その不徳な人生も顔にでも結果として現れて隠すことができなくなる
真善美でも何か見えなくなっている
つまり時間の浪費とそうした不徳な人生を悔いることが最大の恐怖である
なぜならもはやとりかえすことができないからである。
自分もそんなことを考えなかった。
今になってもはや死が近いとき感じたのである。
タグ:夏の花