2015年05月04日

夏になり様々な花が咲き買った


夏になり様々な花が咲き買った

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八重桜影なす下に小花かな
釣人や夕べ水面に写る藤
蛙鳴き夕日さし暮る五本松
夏燕ハーレーダビドソンに去りにけり

しのぶれど薄紫のその薔薇の我がたもとに咲きて夕ぐる
街中にそちこち赤しチューリップ今日も用あり街をめぐり
我が庭の七輪の牡丹風に散り残る一輪見つつ暮れにき


昨日の夕方に溜池で釣りしている人がいた。藤の花が水面に写っていた。
釣りしている人はなにか自然と調和している感じになる
でもあの人は違っていた
パチンコならもうかるけど釣りはもうからないとか下品なことを次々に言っていた。
あういう下品なのが田舎でも多い
そもそも自然に親しむといってもそれは農家だったら生業としているのであり
自然に親しむという感覚はないだろう
農家だったら自ずと自然と生きなければ生きられないから違っている
釣りといってもそれは遊びであるから釣った魚を離している
あの人は別にそれほど釣りが好きではない、暇だからしている
パチンコなどの方が好きなのだろう。

桜は散り八重桜の季節になった。それから藤の花も咲いた。
今年は夏が早い、老人のライダーは一時休み去った。
あれも気持いいとなる
ところどころ植田がふえた。でも一割くらいしかまだない
それでも田が増えると元にもどるような気がする
田んぼに水か張られると蛙も鳴いていた

庭の牡丹は昨日の風で散った。一輪だけ残っていた
この季節何かめまぐるしく変わる
花もいろいろ咲いて買った
「しのぶれど」という薄紫の薔薇は名前のつけ方かいい
百人一首からとったのだが名前でさらに活きる
センスのある人が名前をつけた
もちろん百人一首を知らないとつけられない
ただ薔薇の名前にしてもそれが公認されて一般化するとなると
それにふさわしくないと定着しないと思う
「イヌフグリ」という名前は嫌なのである。
でもそれを変えられないし定着しているのはなぜだろうともなる
その名前がついたのはなぜだろうとなる

イヌノフグリの花はとても小さいので、たぶん実のほうがずっと印象が強かったのでしょう。その形から名前が付いたとしても理解できます。
http://homepage2.nifty.com/tnt-lab/s/nat/inufuguri/inufuguri.htm

これもインターネットに解答があった。
実の方が目立つのでそこからとった名前である。
確かに花は小さいから実の方が目立った
でもみんな花に注目しているからこの名前はいいものではなかった
でも一旦定着すると変えられないのである
薔薇の名前は「しのぶれど」とか文学的にでもつけやすいのだろう。
でもこれは文学的な粉飾には感じない、薄紫といえこの花にあっているのである。
街中にあっているのはチューリップである。
チューリップは何か都会的だともなる
野に咲く花とは違っている感じになる、薔薇もそうである。
何か都会的なのである。野生の薔薇の花とかチューリップなどは見ないからである。

ハーレーダビッドソンに乗った大熊の人は去った、夏燕の季節になる
自分は以前として介護から家事から買い物から時間に追われる生活なのである。
家のことをきりもりすることは一仕事だった
金の管理から掃除から次から次と仕事がある
ご飯をたくのとおかゆを作るのは機械だから楽である。
でも一日三食を用意するのが手間なのである。
だから生活にずっと余裕がないのである
プログに書くのも四時間くらいの時間はかかる
書く前に想をねることから時間がかかっている
前は時間がありすぎたけど今は時間に追われる
要するにどんなに暇なものでもいつか本当に時間がなくなるのが人間である。
そしてやれることは極わずかだったとなる
ニートとか何か今は暇な人が働かない人が多くなった
それも必ず後悔する、まず後悔しない人は人生ではいない

なぜなら時間はどんなに暇であっても死ぬほど暇と思ってもそれは一瞬のことである。
たちまち青春は過ぎて時間はなくなる
なにしてもなにしなくても時間は切れるということである。
だから暇で暇でしょうがなかったのがこれほど時間に追われるとは思わなかった
暇であると思う時間はいかに貴重だったとかなる
その時間を無駄にしているのが人間なのである。
ニートとかあとですごく後悔するようになるしひどい目にあうことになる
社会的に訓練していないと最後に困るのも人生だった
この七年間の苦しみはそのためにそうなったのである。

ただいづれにしろ最後には人生の総決算がくる
これはもうさけることができない、その人の一生否応なく現れる
もう隠すことはできない、内面的にも現れる
その顔にも現れ体にも現れる
不摂生していたらどんな丈夫な人でも病気になる
だから老年というのは怖いことなのである。
どんな人生を送ったか何でもあれ結果として現れるて隠すことができなくなるからだ。
地位ある人でも金があってもそれでその人生でしたことを隠すことはできない
その不徳な人生も顔にでも結果として現れて隠すことができなくなる
真善美でも何か見えなくなっている
つまり時間の浪費とそうした不徳な人生を悔いることが最大の恐怖である
なぜならもはやとりかえすことができないからである。
自分もそんなことを考えなかった。
今になってもはや死が近いとき感じたのである。
タグ:夏の花

ハーレーダビドソンに乗って去った大熊の人 (補償金でイワキに家を建て遊んでいる方がいい)


ハーレーダビドソンに乗って去った大熊の人


 
(補償金でイワキに家を建て遊んでいる方がいい)


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近くでイワキから来たというバイクにのっていた老人に出会った。
新車のハーレーダビドソンに乗っていた。
頭はまるっきり禿げているから相当な年だと思ったが73才であった。
網一人も70才とかだがこの人は若く見えた。
1800ccの大型バイクに乗っていた。
値段はわからないがインターネットでは百万以上であり大きなのは二〇〇万くらいだから車なみだろう。

その人はイワキに家を建てた、もう大熊には帰らない、飲み屋に行っている人もいるが
気を使っているとか言っていた。
そこには原発事故で被害を受けた苦しみは微塵も見られなかった。
ハレーダビドソンにのり老後を楽しんでいる
その人には老人でも何ら原発事故が悪く影響したようには見えなかった。
何か快活であり遊んで暮らしているらしい
家も建てたから別に帰らなくてもいいしあとは遊ぶだけだとなっているのかもしれない
ただこれは原発避難者だけではない、団塊の世代などか退職してバイクに乗っている人は良くみかける
若い人は高いから買えないけど老人は買えるからである。

何かそうした暇になった退職者などが遊んでいるのが良くみかけるようになった
青森の弘南鉄道でしきりに温泉の温度を聞いている退職して旅している人がいた
温泉が熱いとかどうかなど普通は気にしないだろう
なんらか温泉を回っているマニアなのかもしれない
暇で金があるとそんな人が増えてくる
高速バスで全国を旅している人にも出会った
その人も退職した人だった
まず退職した人とか団塊の世代などはバイクにも乗っていたし遊び上手なことがある
それで暇になり金があるからハーレーダビドソンなどを買ってのるということは聞いた

ただここでは大熊の人ということでそれだけの金があるからなとこの辺では思う
小高の人ももらっているが大熊、双葉となるとその何倍ももらうし事業やっていたとも言うから億の金は軽くもらっている。
そうすれば家も建てられるバイクでも高いものが買えるし車でもそうである
飲み屋でも金を使える、それは本当だったとなる
結局原発事故で補償金もらっているような人たちは勝ち組なんだよなと
外部で言うとき否定はできないのである。
つまり原発事故で故郷奪われたなんだとか言ってもそれで億の金が入りかえって得して良かったという人もいる
人によっては違うにしろほとんどがそうかもしれない
大熊と双葉になるとそうかもしれない
農家の人は生きがいとして代替え地を欲しいと言っていたが農家の人ももともと少ないからそれを基準にはできないのである。
ほとんど会社員とか事業しているとか仕事は農家ではない

この辺でも大熊の人が家を建てたということを聞いている。
それだけの金がある
小高の人も金が入っているが家とか土地の金は入らないから補償金を来年で打ち切られるとどうなるのか内情はわからない
でも小高はもう帰ることを強制される、外に家を建てた人は別である

ともかく原発事故で大熊や双葉の人は悪いとは言えない面があった
これからも長く補償金が入る
土地をもっている人は放射性物質の廃棄場になっても土地代だけで遊んで暮らせるだろうだから故郷に帰りたい帰りたいということが報道されていてもそれがすべてではない
あのように遊んで暮らしているのを見たらそう思う
それで原発をとめないでつづけろとか大熊の町長が言っているのはそうすれば別に町外に住んでいても補償金とか入るから町も維持できるし公務員としてありつづけられる
ただ土地がないのに他の市町で大熊町とか双葉町とか浪江町としてあり得るかとなるど問題がある
でも避難した先ですでに公営の復興住宅に入っている人もいるのだから
復興することばむずかしい、すでにそういう事実がありますます消滅の方向に向かっているように見える

今の世の中金があれば楽に暮らせる
そうしたら小高でも帰るより補償金で家を外に建てたり苦労するのは嫌だとなる
小高に帰っても金をもっていてもいい暮らしはできないからである。
イワキに住んで金があれば病院でも買い物でも恵まれているからいいとなってしまうのが現代なのである。
双葉の人が南相馬市立病院に入院していたことがあった
病院では浪江や双葉は不便なのである。

結局避難区域になった所は町ごと消滅する方に向かっているのかもしれない
故郷に執着する人は現代では少ない
老人は帰りたいと言ってもあのように60代でも七〇代でももう遊んでいた方がいいとなってしまう。
年になれば苦労する不便な所はかえって嫌だとなってしまうのである。

今回の地震や津波や原発事故では津波の被害者は福島県でも家も土地もなくなったとなり同情すべきな人たちだった
一方で原発事故の被害者はそうでもなかった
かえってこのように楽している人が多いというのも現実である。
南相馬市では小高の人、原町区の人、鹿島区の人、津波の被害にあった人、漁業組合の人・・・これらの人がまじりあって複雑になっている。
そこに市町村も心ではバラバラになってしまったのである。

posted by 老鶯 at 13:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

抽象画(火と土と水) (抽象画は変化することによって意味が見いだされる)


抽象画(火と土と水)

(抽象画は変化することによって意味が見いだされる)

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春の大地

大地としてもふさわしいかどうかわからない
自分自身も何なのかわからない
春になると土があたたまるから種をまくのにいいという
土も寒いときとあたたかになると変化している
いづれにしろこれを大地と見えるかとなる
自分も見えないともいえる
俳句だって普通は自分が理解している
抽象画は自分さえ何かわからないのである。
でもなんか意味がありそうだとなるのが抽象画である

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地球の栄養分

心の青雲で人間の体は地球の成分から成っているという
それで他の惑星でも水だけは存在することはないという
人間の体も謎であり地球の成分がつまっている
だから地球が解明できないように人間の体もいまだに解明できない

この抽象画でも何か海の栄養分とか何か栄養のように見える
ただ見ているだけで栄養があるように見えるのである



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具象画にしてもこんな見方もできる
パソコンだからできたけど今までは絵画の鑑賞はこんなふうにできなかった



抽象画とは何か?
それが常に問題になるのはなぜなのか
それは結局未だに謎だからそうなる
具象画には謎がない、何を現しているから明確だからである。
抽象画は一体これは何なのだろうととなる
だから抽象画は評価されないというのもわかる
これか絵画なのかということになる

でも抽象画は具象画と切り離せない
赤ければ火をイメージしているとか青なら水とか土なら茶色とか
緑なら葉だとかイメージしているのである。
色からイメージしているのである。
色の配合でまた抽象画ができる
色というものの神秘の追及なのである。

一方で立体的なものの追及としての絵画もある
建築関係は立体の追及であり山は立体的なものとして追及の
典型的なものである。
抽象画は立体的なものがあるにしても色の追及になるだろう。
色の配合とか色を追及するとパソコンでは電気の色だからまた今までの色とは違っている
抽象画はまた無限の変容をしてゆく、形がないから無限に変化することになる
リンゴの絵だったらリンゴを変えることができないからである
抽象画にも変化させやすいものとないものがある
変化させてまた別なものになるときそれはまた一つの創作となるのだろうか?

苔というのはこれは明らかに著作権違反になるかもしれない
その原画を見せればすぐにわかくからである
やはり画家が描く抽象画は違っている、



私の実際の感覚から言うならば、抽象ばかり描いていると神経の一部が妙に疲れてきて制作意欲が減退してしまうのです。いらいらしてきますし空虚感にも悩まされるようになります

市民美術入門ー抽象絵画のすすめ
http://dantuku.blog59.fc2.com/blog-date-200607.html

抽象画をパソコンでしてみて画家が抽象画を描く気持がわかる
この人の言っていることを自分も感じたからである。
抽象画に上手下手もないのである。
それはパソコンの抽象画は機械的科学変化であるからだ。
だから自分で才能があって創作しているとも違うから何か虚しいとなる
そしてこの人の描いたものがこのページの最後にあったがこれを変えたら苔のように見えたのである。
これは原画を指摘すれば著作権違反になるのかもしれないが

もともとの絵から苔をイメージできない、変化した結果苔をイメージしたのである。
すると変化させて抽象画の意味を見いだすということもある。
変化させることに抽象画が意味がでてくる
抽象画はそれが一つの固定した作品として完結していないのである。
それが具象画との大きな相違である。
他者が素人でもかかわりやすい芸術だとなる
抽象画が何を意味しているかわからないというときそれを変容させることによって何か意味が見いだされるという不思議があるのだ
それで変わらない抽象画は優れていてもあきてしまうのである。
いつまでも同じなのだとなる。
具象画だったら変えようがないのだからそんなこと思わないのである。

変化しない抽象画は抽象画たりえない
こんなふうになるのである。
タグ:火と水と緑