2015年05月02日

なぜ相馬藩で慶長津波のことが一行しか記されなかったのか? (戦国時代なのと全国に情報が流通されない時代だった)


なぜ相馬藩で慶長津波のことが一行しか記されなかったのか?


(戦国時代なのと全国に情報が流通されない時代だった)


●インターネットで調べた津波の記録

 『鎌倉大日記』という記録は戦国時代の関東域の動きが記された数少ない記録である。その中の明応4年の項に「八月十五日鎌倉由比浜海水到千度檀水勢大仏殿破堂舎屋溺死人二百余、九月伊勢早雲攻落小田原城大森入道」と記されていて、大津波で鎌倉と由比に溺死者二百人を出し、9月には早雲が小田原城を攻め落としたという。

  他の史料は小田原「自落」と記すものもあり、津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる。

永正7年8月27日の津波 1510年9月30日 1510年10月10日 遠江の津波
永正9年8月4日の津波 1512年9月3日 1512年9月13日 阿波の津波
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%AD%A3%E5%9C%B0%E9%9C%87

本多徳次さんが昭和61(1986)年に著した『四倉の歴史と伝説』という本に「千人塚」の話が載っている。本を読むまで知らなかった。伝説をかみくだいて言うと、ざっと500年前の永正年間、四倉の大浦全域に津波が来襲し、家屋が流失した。死者が続出したため、仁井田浦に遺骸を合葬して「千人塚」を築いた。今は跡形もないという。 永正年間に津波が押し寄せたのは事実なのだろうか。
千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余。四倉、小名浜に千人塚を築く」。そのわずか19年前の延宝5(1677)年にも、磐城の浜に「大津波来襲、死者800名余」の大惨事になった
http://www.j-cast.com/2012/01/22119521.html

永正9年(1512)8月4日、津波が宍喰を襲い、宍喰浦で3,700余人の犠牲者が出て、1,500余人は助かったという。この時代には、城や宍喰の中心は現在の正梶の地にあったが、津波により街が壊滅したため、その後現在の愛宕山に城を移したと言われている。なお、この永正9年の津波は幻の津波と呼ばれている。この日、徳島はもちろん、国内のどこにも地震の記録が見当たらず、外国の遠地津波によるものでもないようである。暴風津波(高潮)という説もあるが、被害規模から、被害地域が宍喰浦のみというのは疑問が残る。

政宗領所、海涯の人屋、波濤大いに漲り来り、悉く流失、溺死者五千人、
世にこれを津波と曰うと云々(『駿府記』)
「…時に海面滔天、大浪山の如く来る。肝を消失し魂を失するのところ、こ
の舟彼の波上に浮びて沈まず。しかる後、波の平らかなるところに至る。こ
の時心を静め眼を開きてこれを見るに、彼の漁人住するところの郷辺、山
上の松の傍なり、これ所謂千貫の松なり。すなわち舟を彼の松に撃ぐ。波濤退去
の後、舟松の梢に在り。
…政宗これを語る由、後藤少三郎御前に於てこれ
を言上す。」
政宗の語る千貫松伝承
政宗は2人の家臣を漁村に派遣、1人は天候不順で出漁せず。1人は出船

「奥州筋生波(ツナミ)」700人溺死(相馬藩政記)

●閉鎖された環境で情報が全国に流通しなかった

これらの資料から何が読みとれるのか?
弘前市のレストランでたまたま出会った人が千葉の人であった。
その人は海岸の港に住んでいた。
それで津波のことを調べていたら元禄時代に津波が来て神社を移動させていることがわかった。
それは神社を改修したことが記録にあったからだという。
元禄時代までに三回も津波が来ていたことがわかったという。
記録に残っているのは元禄時代だという。

ここに記したらように津波のことは全国に語られているし記録にも残っている。
伝説にもなっている。津軽鉄道で終点の中里駅でおりて十三湖に言ったとき
そこも中世に港として栄えていたが津波で砂に埋もれてしまったという伝説か残っているあそこもそうだったのか、ここも津波で村ごと流されて何もない、砂に埋もれてしまったとなる。
磯部とかはもともと海岸の砂州だったから一軒の家もなくなった。
そのままにしていると本当に砂に埋もれてしまうことがイメージできる。
そういうことは全国的にみれば日本では地震と津波の国だからありうることだった

ではなぜ相馬藩ではそうした慶長津波のことが一行しか残れず伝説にしても明確なものかなかったのか?
だから津波などなかったという人もいる。それはそれだけ記録がないのだから探りようがないからだ。
でも相馬藩政記に記されたのは明らかに事実であり慶長津波のことであった。

「奥州筋生波(ツナミ)」700人溺死(相馬藩政記)

ここで生波をツナミとしている。奥州のツナミだから広い範囲にツナミがあったと記しているし今回のツナミと同じなのである。ツナミということば慶長津波で全国で普及して定着したのである。
その記録も伊達政宗が生きていた伊達藩から広がったのではなく『駿府記』に記されていた。
家康に伝えて『駿府記』に記されて全国に広がった。
貞観津波が全国的に知られたのは多賀城に京都の中央の役人が赴任していてその被害を目撃したから記録されて全国に知られたのである。
末の松山の短歌などが伝説であったが現実にあった津波であったことは今回でもその前で津波がとまったことで証明された。
一地域の情報も中央の政権ど結びつかないと重要視されないし見逃され記録に残らない。津波が全国にあるとしても今ですらそれを調べるのは学者でないと容易でないだろう。

たまたま出会った千葉県の人はインターネットで調べているという。
自分も学者でないし調べようがないのである。
地方の図書館に行ってもその記録を調べることができない
ここで調べたのはインターネットにてていたからである。
四倉の津波のことがインターネットに出ていたが

元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余。四倉、小名浜に千人塚を築く」。そのわずか19年前の延宝5(1677)年にも、磐城の浜に「大津波来襲、死者800名余」の大惨事になった。

●戦国時代で相馬氏に敵対する勢力が津波で衰退した

これは事実だろう。元禄時代になると戦国時代も終わり平和と繁栄の時代になる。
だから津波の記録でもこの時代から残るのが多い。
千葉県の津波も元禄時代のものである。
慶長時代は戦国時代であり混乱の時代だった。
それでしきりに相馬藩政記でも記されているのは戦争のことである。
それはことこまかに記されているのである。
その時の最大の関心事は戦のことであった。
その後も秀吉や家康に領地をいかに安堵してもらうかが最大の課題だったのである。

大津波で鎌倉と由比に溺死者二百人を出し、9月には早雲が小田原城を攻め落としたという。
 
 他の史料は小田原「自落」と記すものもあり、津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる。

こういうことが相馬藩内でも起きた。
相馬氏が進出しても相馬藩内は相馬氏の支配下にはない、館を構えて中世の豪族が支配していた。
それは小高に大きな港があり原町の泉にも港があり勢力をもっている豪族がいた。
磯部も港の機能があり佐藤氏が大きな勢力をもっていた。
そうした在地の豪族が相馬氏に敵対していたのである。
だから小田原で北条早雲が
津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる

これは相馬氏にもあてはまる。津波は相馬氏にとっては都合が良かったのである。
在地の港をもっていた貿易で財力ももっていた豪族が津波で港が壊滅して衰退したのである。
相馬氏は片倉の八重米坂から入ってきて山側から勢力を伸ばして行った。
海側は港があり在地の豪族が支配していたからである。
戦国時代では大きな津波があっても被害が大きくても対処しようがない
むしろ自然災害でもかえって争う方にとっては都合がいい場合があった。
信長が桶狭間で嵐になって都合が良かったのもともにている。

慶長時代は戦乱の時代であった。津波でも四倉でも元禄になると記録が残された。
それでもなぜ四倉と言えば相馬藩ではすぐ近くであるのに相馬藩にはそのことも記録されていないのも不思議である。
四倉にそれだけの被害があれば相馬藩内にもあっても不思議ではない
それも元禄時代なのだから何らか相馬藩政記に記されてもいいはずだった。
それはなぜなのかというと封建時代は閉鎖社会であり狭い藩内で政治も経済も回っている他国に行くにも関所を通るとか情報も流通しないことがあった。
今でも全国で津波が起きたことを調べるのは容易ではない
たまたま弘前市で千葉県の津波を調べている人などに出会うことなどないのである。
そして津波の問題は百年に一回とか三百年のあととか四〇〇年とかの間隔になると
記録されたものも伝説も関心がなくなるのである。

ともかく地震とか津波とか今回のネパールの大地震でも日本だけではない地球規模で起きているのである。
スマトラの大津波があったのも最近でありその惨状を見ていて日本人が津波を警戒していなかったんだとか盛んに言っていたが日本でもそうだったのである。
封建時代の閉鎖的環境はやはり地震でも津波でも伝えられない、その局所だけのものとして広範囲に検討されなかったということがある。
全国的に見れば津波がいかに日本海側でも起きているしそれを見れば津波に警戒しないということが日本ではなぜなのだろうとなった。
まず海岸線に接して村があったということがなぜなのだろうとなった。
港があり漁業のための利便性があり津波のことは忘れてしまうということもあった。
また津波の被害にあっても海が生活の場の人は離れられないということもあった。
三陸などでは特にそうである。
今なら津波の被害にあったところは家を建てることが禁止されたからである。
それだけの政治力経済力があるからできることである。



十三湖で津波があり港は砂に埋もれた

そうか、今回の津波でも相馬でも同じことが起きた
磯辺なんか一軒の家もなくなって放っておけば砂に埋もれる
元禄時代に四倉に津波があり二〇〇〇人くらい死んだ
千人塚とはそのことだろう
四倉にあって相馬藩内に津波がなかったのか?
何にも記録されていないのも変だ
津波のことを全国で調べればいくらでもある
ここにも津波があったのか、被害が大きかった
ここたにもあったのか、ここにもか
津波は日本ならどうこでも起きることだった

江戸時代じゃあるまいしいくらでもそういうことわかったはずだけどな
なぜみんな警戒しなかったのかな?
相馬藩ではこの辺では津波は起きないという確信までなっていたからな
これも江戸時代ならわかるけど
科学の時代であり情報化の時代だからおかしかったんだ

津波が海岸線だったら例外なく起きるものなんだよ
日本ではそういうことがどこでもくりかえされてきたんだ
だからなぜ警戒もしなかったのか?
原発もなぜ津波を警戒しないで建てられたのか?

人間はともかく時間感覚で考えるのが苦手ということもあるな
時間軸で考えることは苦手である。
空間なら変わらずあるから理解しやすい
ところがここの一〇年前がどうだったとか
三十年前になると昔になりさらにわからなくなる
十年一昔だからな
人が死ぬとすぐにその人のことは忘れられる
その人が生きていたのかどうかさえわからなくなる
それほど人は忘れやすいんだよ

人間は時間軸で考える歴史が苦手である。
それは人間は十年前のことでも忘れるからだ
百年前になるともちろんそうだし四〇〇年前になると
なおさらであり大昔のことで全く忘れてしまうんだよ
その忘れることが大きな災いを産んだだよ
人間は忘れてならないことがあるんだよ
なぜならそれが後の教訓となり災いを防ぐからなんだな

タグ:慶長津波
posted by 天華 at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

抽象画(水と緑)


抽象画(水と緑)


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入り江
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ピンクは街の色

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日本の複雑な地形


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地球の芽生え


これは一つのものから変化した。その原画はインターネットにある。
でも何かそれなりに変化させているから元の原画はわからなくなる
名前をつけるとなにかそれらしいものに見える。
「地球の芽生え」などとつけるとそんなふうに見えるから不思議である。
ただそれを変えて加工するのも手間なのである。

これは二つのソフトを使っている。
一つは2000円のペイントグラフィクでありG=TRIMである
ソフトは別に安いものでも今はできるが使いこなすのがめんどうなのである。
何十回と操作するから化学の実験ともにている
根気も必要になってくる。
それでもそれが一つの創作品になるからやっているとなる

奇妙なのはあとからピンク色にしたのは街である
三陸の入り江の街として桃色にしたのである。
だかち具象画が抽象画からも読み取る必要がある。
タグ:水と緑