2015年05月01日

北右田の人の津波の話と昔話など (無法所帯,混乱状態で火事場泥棒など必ず起きる)



北右田の人の津波の話と昔話など

(無法地帯,混乱状態で火事場泥棒など必ず起きる)


土手の道で休んでいた老人は北右田の人で津波に家を流された人だった。
北右田というと野球場のある所である。
あそこには津波のときに逃げた、逃げるのにはいい場所だった。
角の店があった所は大きないい石の庭を残してなくなった。
ばあちゃんと孫が死んで今はこの土地にはいないという。
あの場所は海からそれなりに離れているから津波か来るとは住んでいる人も思っていなかった。
でも実際はその倍の距離に津波が来ていたのである。
それで小学校前で津波が止まったのだがその手前でも床上浸水だった。
その被害にあった人に聞くと家が残っていてもひどかった。
泥があがりその泥をのぞくにも大変だし潮水だからそれも大変な作業だった。
あそこちは家を建てることはできない禁止地区だが家が何軒か建っている。
確かにあそこは今になると津波には危険地帯になっていた。
それは今だからこそ言えるがあの距離だと津波が来ると思えなかったのである。

その人は農家であり橲原(じさばら)の山に馬車で肥料の草をとりに行っていたという
橲原には北右田の山とか所有していて草を刈り肥料にしていたという。
その場所を通った道は昔の道であった。
それは自分の家の脇の道も通っていた。自分の家のあるところは昔は本道であり新しい道ができて旧道になったのである。
真野川にかかっている木の橋がありその道は見た感じも通ってもゆれたりして何か危険を感じる橋だった。
だから馬車が通るのには荷物も積んで重いからさらに危険を感じた。
その頃の道は舗装されていない、土埃のたつぼこぼこの道だったからだ。
それにしても橲原は遠いからそんなにしてまで肥料として草を刈って運ぶのは難儀であった。
農業の問題は肥料なのである。肥料でいい野菜でもとれるし米でも土が良くないといい米はとれないのである。
だからエチゴでも高級な苺はたっぷり栄養を与えたものなのである。
焼畑農業も肥料を作るために森を燃やして灰を作っていたのである。
江戸時代が人糞が肥料として貴重だったことでもわかる。
花だって土に栄養を与えないと咲かないのである。

橲原と北右田が肥料のために結びついていたということは郷土史として注目すべきである昔は自給自足であり化学肥料もあまり使わないとするとその土地土地にあるものを利用して何でもするからそうなる。
燃料も薪や炭であるとき近くの山の木を利用していた。
山を利用していたのは山の人だけではないのである。
海でもあて山として海からの目印となっていたのである。
地元の山の木材で地元の大工が家を建てていた。
今は大きな会社が外部から来た人が家を建てている。
家を建てるというより組み立てているという感じになっている。
だから何か地元でしている地元を地に足をつけて生活しているということが見えない
特に津波原発事故以後は主に外部の人が来て仕事しているのである。
そういう点で今は地元のつながりがなくなった時代でもあった。
一つの自給自足的生活圏としてあったのが江戸時代から戦後十年はあった。
そういう社会は貧しくても人と人のつながりは自ずとあった。
ただそこにも様々な問題がありすべてがいいとはならない
現代に失われたものが過去に昔にあったということで考察しているのである。
津波の被害にあった人は小高のように補償金がもらえない、もらったとしても南相馬市では小高区、原町区、鹿島区とあり額が違っている。
鹿島区は30キロ圏外でありもらっても少なかった。
別に津波の被害にあったからといって原発事故とは関係ないから津波ではもらえないのである。
ただ漁業組合に入っている人は東電から補償金を前ももらっているしその後も海を汚したとしてもらっている。
それでその人たちをうらやましがってる。北右田には船主はいなかったからである。
大内の人もなにもなくなったと嘆いていた。
近くに烏の人も家を建てた。土地も広いからかなりの金がかかっている
そういう金の問題でこの辺は複雑であり不満がある。

そして庭の石を最近までもっていかれたと言っていた。
庭の石が津波の跡にごろごろしていた。立派な大きな石もあった。
あれはかたづけたのかと思ったらみんな誰かがもっていったのかもしれない
あの大きな石をもっていけるのと庭作りとかする業者である。
石は意外と高いから売れるのである。それもいい石があったからだ。
津波で流された石は誰の所有なのかわからない。
だから盗まれても所有者が特定できないから盗み安いとなる。
何でも椅子までもっていかれたとか言っていたから津波や原発事故の混乱で盗まれたことがかなりあったようだ。
避難区域では骨董品を盗んでいた人が逮捕された。
人間の怖いのはそうした無法状態になると欲望がむきだしになってくることである。
そういうことは自分の家が店をして洪水にあったとき店の品物が流されみんなもっていかれた。
それかち最近でも自分が突然の病気になったときも家に誰もいなくなりその時家にいた人に大金を盗られた。
それから借金していることが自分が病気になったことをいいことに借金していたから自分からその弱さにつけこんで金をあからさまに要求してきた。
「今がチャンスた、金だ、金だ、金をとれ」しか自分の場合なかったのである。
津波とか原発事故では絆だとか助け合い精神が生まれたというが反面そうした人間のもともとある悪しき面が露骨に出てきたのも現実だったのである。

それで小高の人で良く戦争のことを話する老人が言うことにはやはり信憑性ある。
沖縄の戦争で一番怖かったのは隣の人、近所の人だったという。
混乱にまぎれて無法状態になったとき何が起きたか?
若い女性が近所の人にレイプされたというのである。
そのことか一番怖かったという。
近所の人でも助け合うということが戦争でも必ずしもなかった。
無法状態混乱状態になると人間の悪い面が露骨にでてくるのも現実なのである。
そんなことは沖縄の人は語らない、それも本当なのかとも思っていた。
それが何度も言うしその人はどこで聞いたと言ったら実際に沖縄に建築関係で仕事に行っていて飲み屋で聞いたというから本当なのだろうと思った。
つまり普通は語られないことがそうした飲み屋とかで語られるからである。
要するに近所の人が一番怖いというのは自分も体験しているからだ。
そんな人が同じ郷里の人にいるのかという驚きであった。
人間の欲望が無法地帯や混乱状態になったら露骨にでてくる。
石を盗み椅子まで盗むというときそれが誰のものかわからなくなっているからである。
津波原発事故では何かそうした老人の経験したことを聞きやすい。
その人も何もすることがなくて土手で休んでいたのである。
そうした暇な人が多くなったからである。


草を肥料にする

インターネットの知識はこういうふうに関連して調べられことである。
草の用途もいろいろある、そういう経験した人が書いているから参考にする
草はやっかいなものだけど役にたたせることもできる




 
タグ:火事場泥棒
posted by 天華 at 14:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処