2015年04月18日

春爛漫二本松城 (二本松城から考える現代文明の荒廃)


春爛漫二本松城(詩)


(二本松城から考える 現代文明の荒廃)

二本松城山城にこそあれ
天守台高くも見晴らす峰々
残雪の安達太良、吾妻山
遠くは蔵王も浮かぶ

春の日や十万石の城にあれ
天然の要害にして
家臣は曲輪に配して
守りは堅き山城なり

二本松城の天守台上りて高き
滝の朝ひびき落ちて清し
椿の一段と赤く高峰映えぬ
こぶしは風に咲きゆれる

洗心亭炎上まねかれ残るかな
春の日や一服の抹茶を所望す
曲松の古りて茅葺きの茶屋
キクザキイチゲの咲くもにあわし

城内の日影の井戸の深しかも
赤々とそちこち落椿
城を守る水のここより汲む
その水に茶を飲めば癒されむ

二本松城の残る石垣によれ
千代の松によりて昔を偲べ
難攻不落の山城なれや
そちこち椿の赤しも

今し桜の霞とおおい
残雪の安達太良光り
見晴らす陸奥の春の山々
その麓の里に桜は映えぬ

陸奥の都より遠しも
安達ヶ原に名を知らる
その岩屋の伝説や
知られざる陸奥の国

二本松城のここにあり
城代は変わりしも
その山城に歳月重ぬ
陸奥の攻防の城なり

伊達政宗の攻めて
会津の名将蒲生氏郷や
相馬義胤もかかわり
ここは陸奥の要と争いぬ

ああ、時は移り急変する時
攻め来る官軍に抗して
あわれ少年隊の犠牲かな
その菩提に花は散るかな

城こそ命とここに果つ
城を離れて武士はなし
ここに切腹して果てし将二人
城と共に心も命もあり

悔いなきものとここに眠りぬ
春なれや城をおおいぬ桜花
散れる椿もまた赤しも
霞ととおおいこの城に眠りぬ

敗者に無情の仕打ちは世の習い
その記録をも消さむとす
会津も二本松も敗れて非情
官軍への怒りはなおも残りなむ

しかし誇りもて二本松城
高きに守りも堅く今もあれ
椿は一段と山頂に赤く
山の蝶もここに飛び来る

戒石銘戒に刻まる教え
奢りを戒め民とともに
この地を治めよと
その石に春の日さしぬ

守りも堅くその石垣によれ
常磐木の松によれ
雄大に安達太良は映えて
ここは陸奥の要の城なれ

万葉にも歌われし安達太良や
古の陸奥にはや知られし山
その山の大きく城に影なして
要の城と今もありなむ



薩長新政府への恭順を勧める密書も届きました。しかし、最後には長国の「城を枕に倒れんのみだ」という決断で、徹底抗戦することになりました。

戦国時代から明治維新のときまで城のもっていた意義は大きかった。
つまり城は単なる建物ではない、城は武士が身も心も一体となるものとなっていた。
だからこそ白虎隊や二本松少年隊の悲劇が生れたのである。
白虎隊は城が燃えているだけで落胆して絶望して自刃した。
城のもっているそれだけその当時は大きかったのである。
二本松少年隊もの同じだったのである。
城と共に身も心もあったのでありだからこそ少年でも城とともに死んだのである。
会津と二本松だけが徹底抗戦したのだからすべてにはあてはまらない。
その理由がなぜなのかというとまた考察が必要になる。

もともと二本松城は伊達政宗から会津から白河から北上するときも要の場所にあったのだ歴史は地理であり地勢が必ず影響しているのである。
だから地理がわかれば歴史もわかる。
福島県を理解するには二本松が一番地理的にわかる場所である。
それは理屈ではない、直観してわかるのである。
あの天守台に立って四方を見回すとあそこが福島県の中心だということを実感する
二本松県になるということもあったから中心的な場所であった。

二本松城が自分が一番気にいった城になったかというとそこ山城であり自然がそのままに残っているからである。
城でもあういう城はめずらしい、会津城でも街中にある平城であり自然というものはない、青葉城でも仙台市街を見下ろすとなにかそこがあまりにも変わりすぎて都会化して嫌なのである。
姫路城は有名で最高の城でもそこに自然がない、街中にあるから何か映えないのである。大阪城でもビルの谷間になるから何か映えないのである。
都会化すると城がビルの方が高くなるから映えないのである。
城が活きていたときは城が高く見えたのであり天守閣に上れば遠くを見渡せる見張りの塔のような役目もしていたのである。
だから意外と城で感動するものが少ないのである。
自然そのものに映える城というのは少ないのである。
二本松城は山城であり自然そのものの中にあるからめずらしいのである。

明治維新のときもやはり白河城を落とし二本松城に入るとそこが陸奥の要の城となって立ちはだかった。
それで薩長軍に踏みにじられたのである。それは伊達政宗のときもそこで陸奥の覇権を争う攻防の城となった。
その時、相馬義もかかわっていたのである。会津と相馬とか三春が伊達政宗軍と戦っていたのである。
要するにそういう要の場所にあったからである。
そのことは二本松城の天守台に立てば一目瞭然なのである。
だから歴史は地理がいかに大事かわかる。地理によって歴史はあらかじめ決定されているともいえる。
イスラエルが世界の要であるというとき神が定めたからだというのもわかる。
地理によって世界史が決められるからである。
二本松はそういう陸奥の要の場所にあった。

ただ城の意味は時代が変わったとき意味も変わった。
第一桜が城には咲いていなかった。桜は明治以降城が公園化したとき咲くようになった。枝垂桜のことを糸桜として朝倉氏の城で歌われている。

折りを得てけふ咲く花は君がため今一しおの色や染めけむ 信忠

これは糸桜であり山桜でもないしもちろん染井吉野でもない、それは庭に咲くにふさわしい枝垂桜だったから城を染めるような桜は咲いていなかったのである。
枝垂桜も散るから今の桜とにてはいる。でも山桜とか染井吉野の散り方とはまた違っている。
このように歌をかわして朝倉氏に従う武将は城と共に信長に滅ぼされて死んだのである。でも今の桜とは違っていた、城を染めるような桜ではなかったのである。
枝垂桜と山桜とか染井吉野は同じ桜でも相当に違ったものだからである。
現代で城がもつ意味は変わった。城には石垣が残っている。
松も残っているしか松は城には欠かせないものだった。
石垣は石であり変わらぬ象徴としてあり城の礎であり城を今も支えるものとしてある
だから石垣だけ残っていても城があることをイメージできる。
二本松の石垣は立派なのである。
トロイの城でも建物は消えても土台となった石垣は残っている。

城のもつ現代的意義は二本松城だったら自然と一体化して美とモラルとしての城である。街中にある城は自然が欠けているから美が感じられない
二本松城には松があり椿も咲きそれも自生したような椿であり天守台に登ると陸奥の山が安達太良や吾妻山や蔵王まで見渡せるから違っている。
城と共に死すというとき自然とともに死す、自然の美があってそこが死ぬ場所としてふさわしいとなる。
まず東京のような場所は自然がないから美もないのである。
するとモラルもないのでてある。
山は精神的な象徴としてもある。不動であり誠実であり威厳がありとか何か人間の徳を人格を象徴するものともなる。聖なる山になる。
海にはなにかそうした人間の人格的なものがない、それでどうしても浜通りではその高い山がないから根本的に欠けたものとなっている。

中通りや会津や東北でも岩手山とかがあり山が中心的精神的支柱となる。
高い山を望んでいると心もその山に反映されるのである。心が山によって養われる。
自分は石をテーマにして詩を書いてきたが石も人間化したものとなる。樹でもそうであるだからそもそも自然がないところには美も真も善も育まれない
東京のよな所では経済しかないし人間に自然が反映されないのである。
そこでは人間と一つのロボットのようにされる。自然が反映されない機械ロボットになってしまう。
ロボットは自然とは関係なくありうるからである。
人間は自然とアイディンティティ化するとき人間となる。

例えは虹がかかったときそれは契約の虹であた約束の虹だと聖書に書かれているとき自然とモラルが一致して見るからそう見る。
虹は単なる虹ではない,神との約束を果すことを示している。
虹でもビルの谷間にかかったら美がそもそも喪失しているから美もモラルも喪失する
人間の心が高層ビルとかと一体化できるのかとなる
だから自分は工業とか商業とか経済一辺倒の世界になじめないのである。
でも世間ではそういうことに無関心でありただ便利な生活ができればいいとなる
田舎はどうししても第一次産業を基本にしてあるべきだというとき
それは経済的効率とか経済一辺倒の論理ではなく自然を反映したものとしてのアイディンティティ化した人間としての世界の構築なのである。
ヨーロッパのルネサンスは地方都市が起こっている。
そこにはまだ自然があったと同時に建築とか絵画とかでも古典の世界、ローマの世界とかイスラム文化とがが融合して華開いたのである。
あの壮大な石の聖堂でもゲルマンの森がありゴシックの建築が生れた。
文化が興隆するには人工的なものと自然の融合があって成される。

現代の文明は科学機械文明であり自然破壊文明でもあった。
もちろん科学がいちがいに否定できないものである。
ただそれが暴力的に自然を収奪したり破壊するものとして働きすぎたのである。
魚がとりすぎて魚が高騰している、それは今はとりすぎるからそうなる。
そのブレーキがないから法律的にもないから魚はとりすぎて資源が減少する。
そのブレーキになるものは魚だけではない,科学の暴走が止められないのである。
それが原子力でもあり世界核戦争の恐怖にもなった。
放射能汚染でこの辺は住めなくなったのである。
そこにヨーロッパ文明の限界が生れたのでありこれからは東洋文明が起こるというのも自然破壊があまりにも進んでしまったからである。
でも東洋文明とは何かとなると実際は不明である。
過去の文明とは違うものになるからである。
つまり城が当時がもっていた意味と違ってみているのとにているのだ。
そもそも桜が咲いていない城を染める桜などないのに桜と城は一体化されている
城は今は違った美的なものとして人間の精神的な意味としても違った意味をもつようになっている。
世界的に自然破壊が進行し拡大化がやめないとき果たして東洋文明が再び起こるのかとなるとき疑問なのである。

森が中国でもインドでもインドネシアでも大規模に喪失しているのである。
むしろ日本は森は外材に頼った結果残っている不思議がある
外国でははげ山が多い、それは木をとりつくしたからはげ山になった。
山が森でおおわれているのは日本くらいなのである。
ともかく経済のことばかり言うけどそれが本当に人間の栄えなのか疑問なのである。
自然がない自然の美もない所に新しい文明が怒りうるのかとなる。
いくら反映しても東京のようになったら人間砂漠になってしまうだろう。
自然の復活復興が新しい文明を生む基となる

でも科学とか経済の発展とかばかりが言われるのがそれが人間の繁栄になるのかとなるとそれは東京でありニュヨークであり上海でありそれが人間を人間たらしめるものとはならない、自然の美が自然が人間の精神を作るからである。
人間の栄華が野の花より飾られていないというときそのことを言っている
東京はただ人間が巨大な胃袋と化した怪物的都市なのである。
その東京に電気を供給するためにこの辺は人も住めなくなったのである。
原発が未来を作ると双葉町とか大熊町がかかげていたのはまさに東京化した地方の姿だった。
つまり電気文明を否定できない、車文明も石油文明も否定できない、ただ人間の繁栄を電気や石油や車や機械にすべて頼るとき今回の原発事故のように住めなくなったら終わりだとなる。
だからなんらか第三の文明を志向せざるをえなくなっているのである。

城の詩