2015年04月17日

抽象画は無限の変化だ! 抽象画は固定しない、無限の変化の作用で価値が生まれる芸術


 抽象画は無限の変化だ!

 
 抽象画は固定しない、無限の変化の作用で価値が生まれる芸術
 
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京都の色合い

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これらは京都の色合いから変化したもの
あとはきりとったりしたものである。

抽象画→抽象画→具象画の変化である




 パソコンにはインターネットには無数の絵や抽象画がある。
 インターネットの世界は広いけどなかなか見つけられないのが多い
 今回中国の抽象画を見たらこれも国柄があって面白いと思った。
 それを変化させたらまた抽象画になった。
 
 抽象画の作用は
 
 抽象画→具象画 具象画→抽象画という双方向で創作される。

 抽象画から具象画ができることもある、最初から抽象画になるとは限らない
 抽象画を抽出すると具象画になることがある
 今回の山はそうである。
 
 京都の色合いというのはこれはインターネットにあった抽象画を変化させたものである
抽象画は固定しない、変化することに意味があった
だからいつも同じ抽象画がインターネットに出ているとそれが陳腐化している
何で変わらないのだ、新しいものにならないのだとなる
これが具象画の名画だったら変わらないことに価値がある

抽象画は変化することで価値がある
だから抽象画から抽象画と無限に変化する
誰かが変化させてもそれはオリジナルなものとなる
まず最初のオリジナルを変化させてもわからないから著作権違反にならないのだ
コピーとは違うのである。
だからいつまでも同じ抽象画になっていること自体変化がないから陳腐化するというのも抽象画なのである。 
 
タグ:京都の色

浪江町と小高町が合併しなかった理由は野馬追いのため? (小高に帰るのは老人ばかりになる問題も深刻)


浪江町と小高町が合併しなかった理由は野馬追いのため?

(小高に帰るのは老人ばかりになる問題も深刻)


2003年

  8月 浪江町小高町合併協議会を設置
  10月 相双地区の7漁協が合併、相馬双葉漁業協同組合に
  12月 新町ふれあい広場が完成
  12月 浪江町小高町合併協議会を解散
 
 
いろいろ話が面白い小高の人に今日もあって話した。
浪江町と小高町は合併することで協議していた。
それができなかったのは歴史的要因だった。
小高が浪江町と合併すると野馬追いの祭りなどで支障ができるということでできなかった小高は相馬氏が最初に城にしたところであり相馬藩では一番古い場所なのである。
それで野馬追いの野馬掛けという神事が城があった小高神社で行われる 
それで浪江町と合併することに異議を唱える人がいた
でも南相馬市でも相馬市でも浪江でも相馬藩なのである。
ただ野馬追いというのが相馬藩では重要な祭りであり行事であるからそうなった。
別に浪江も標葉郷としてあとからでも相馬藩になったのだからそれにこだわるというのもどういうことだったのか解せない面はある。
それでも野馬追いでは小高神社が旗をかかげて行列をになっているからである。
合併しなかったのは野馬追いだけの理由だけではないだろう。

他の理由として福浦に共産党の勢力が強く合併に反対したという径路もあるという。
小高は左翼系統の勢力が大きい所だったのである。
山側の人は反対したということも言っていた。
小高には東北電力の原発が建つことは決まっていてすでに工事もはじまる所だった。
浪江町と小高町の中間にあり共同で利益がえられる場所にあった。
共同の利益が得られるということで合併のメリットもあったとなる。
ただ野馬追いに支障が出るというので合併をとりやめたということがあるのか?
それは新地とにている。
新地も相馬市と合併していいのにしなかった。
それは新地に伊達藩の子孫が住んでいて頑なに合併に反対したという。
新地には伊達藩の侍の子孫が住んでいるということは歴史的にそういう場所だった。
だから相馬総合病院は新地町と合同なのである。

全国的に合併問題が起きたときどうして合併に賛成したり反対したりするのか?
その理由はいろいろあるがやはり歴史的な問題がある
境界というのも歴史的に確定されているから尖閣諸島問題でも歴史が問題になる。
飯館村でもなぜ南相馬市と合併しなかったのか?
その理由が何なのか?
別に飯館村も相馬藩内であったから歴史的には合併しても問題ない
ただ飯館村は飯館村で独自の道を歩むことを志向したとなる
確かに津浪原発事故があって飯館村は飯館村で被害が原発の放射能汚染に限られているし補償問題では村がまとめやすいのでいい面はあった。

その小高の人が言うのには飯館村はなくした方がいい、インフラなどで金がかかりすぎる不便だから人もそこに住みたくないんだとか言っていた。
飯館村には病院もスーパーでも小さなものがあるだけで何もない
だから現代の便利な時代は住みたくない村だったとか言う
たまに訪れ外からみている人と中から見ている人では違ったものになる
たまに来た人は自然に恵まれていていい村でてすねとかで終わるがそこに住む人はそうではない
病院がないなど様々な不便な生活を強いられるからである。

その人がしきりに言うのは浪江でも飯館村でも補償金もらうから得したんだという
それはどうかわからないにしろ実際問題になればそういう人も多いのも確かだろう。
同じ地域でも飯館村と南相馬市でも小高、原町、鹿島に住んでいる人の意識は違うのである。
鹿島はスーバーが一つしかない、大きくないからこれが一番不便なのである。
自分は車がないからこのことで不便なのである。
それから病院がないことも不便である。原町と相馬市に通うとなると車がないから不便なのである。
今になると時間がないから医者にすらゆっくりかかれないのである。
だから老後はこの辺は暮らしにくい場所になった。
もともと医療関係では医者が少ない不便な場所だったのである。

前にも小高の鳩原村の牛を飼っている年配の女性が「仮設は狭くて嫌になるでしょう」とか聞いたら「そうでもない、慣れたし友達もできたから」その人も農家でも広く点々とあるとなかなか会えないとか淋しいことあるんだよ、仮設のように近いといつも隣り合わせだから淋しいことがなくて老人にはいいんだよとか言っていた。
とすると川原の土手で良く仮設の老人がみんなで休んでいたりするけどあれは幸せなのかと思うようになった。
そして世話する方でも田舎だと広いから一軒一軒車で回るのが手間になる。
それでコンパクトシティがいいということが全国で言われるようになったのである。
つまり仮設のように人が集まっている方がその本人たちにとってもいいとなる。
そうなると市町村でもそうした要望に答える街作りを志向するのがいいとなる。

いづれにしろ小高に帰る人は老人が多いからこうした点からも市の方で考慮する必要がある。小高に帰っても老人だけになるとしたら世話する方の問題がでてくるからである。
かえって原町とか鹿島でも老人を集めて暮らさせた方がいいとなる。
鹿島に老人の福祉施設ができたことはいいことだった。近いからいいのである。
この辺では老人がふえた、若い人が流出して老人が他よりふえたのである。
それは全国的にそうでもここは先取りしたものとして老人がふえたからその対策が必要になる。
小高をどうするのかというときこういう老人ばかりが帰ってどうなるのかというとき、小高を南相馬市でとをするのかという未来を描くものとして欠かせない問題なのである。
そして今でも人手不足であり建物を建てても働く人がいない、医療や介護関係では特にそうである。
その問題もここでは他より早く深刻化しているのだ。


 
タグ:小高浪江町
posted by 老鶯 at 14:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連