2015年04月16日

福島県(一部宮城県)桜の短歌二十首 (桜は城を中心にして見るようになる)


福島県(一部宮城県)桜の短歌二十首

(桜は城を中心にして見るようになる)

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(仙台)
広瀬川瀬音のひびき青葉城今し桜の盛りなるかな
青葉城石垣の反り燕飛び流れひびきて桜咲き満つ
東京より陸奥の街道染めにける花にしあるかな仙台に着く
たずぬれば千本桜みな散りぬ我が帰りゆく道のり遠しも
(福島県)
白河の城に春の夕日さし電車は行きぬ西のかなたに
船引に桜咲き満ちここにしも電車の音のひびきけるかな
三春なる城跡に立ちほのぼのと桜の色に染まる夕暮
合戦場の枝垂桜の優艷に謂われも古く夕暮るるかな
雨にぬれ白河街道福良かな御前桜や我が泊まるかな
(古殿)
越代の桜今盛り山風そよぎ磐により見ゆ
古殿の越代の桜その下に岩のいくつか動かざるかな

(会津)
花染める会津の城やかなたにそ残雪の飯豊神々しかも
城を染む会津の桜相馬より遠しもかしこ栄えありなむ
会津なれ知られぬ花のなほ奥に殿のたずねし歌の残りぬ

(二本松)
二本松城の桜のはや散りぬ相馬よりたずね帰りゆくかな
二本松天守の跡に見晴らしぬ春の山々十万石かな
相馬よりたずねてあわれ二本松残れる花を惜しみけるかな

(阿武隈川の桜)
梁川の城跡古りぬ我が来る桜の盛り要の城かな
阿武隈の流れ蛇行し渦巻きぬ岸に桜の映えにけるかな
阿武隈川流れゆたけく淀みつつ渦巻く淵や桜咲き満つ
(霊山)
残雪の吾妻嶺光り霊山に花咲き映えて小鳥しき鳴く
霊山の岩黒々と夕べ咲く桜のあわれ南朝滅ぶ
(相馬)
夕日さしみちのく寒し花映ゆる我が里に住み年ふるりけり
夕べ咲く相馬の城跡桜見ゆともる灯静か誰かたずねむ
田町にそ柳しだれて城下町夕べ桜や暮れなづむかな
桜咲きスーパーヒタチ走るときいわきを通り東京へ進む
若くして死す人あわれ国の花見ずに悲しも七〇年過ぐ



桜は咲いている期間が短いから近くても見れない、福島県の桜前線は西から東京の方から咲いてくるのと東から浜通りから山国の会津の方に咲いてゆく
会津は寒いから遅れる、そこに時間差がある
桜でもやはり歴史的場所が印象に残る。
会津の桜はほとんど見ていない、ただ白河街道の御前桜は自転車で行ったし雨にぬれたときだったし福良の蔵の宿にとまったので覚えている。
かえって何か雨にふられたり風に吹かれたりして難儀したとき旅は記憶に残ったりする。だから車でも何でもあまりにも便利すぎると旅にはならない、そういう旅が今はしにくいのである。わざわざ不便な旅をしないとできないのである。
白河街道は鉄道もないし車も通るのが少ないから昔を感じるならあそこの方が良かった。
阿武隈川を梁川から丸森に下った時の桜はきれいだった。
遠くに残雪の吾妻峰が光り桃の花も咲いて阿武隈川は大きく蛇行するときその淵に満開の桜が咲いていた。
梁川にも城があったところであり何かやはり城が中心にしてみている。

桜は満開のときだけではない、咲き始めでも散ってゆくときも散ったあともそれぞれに感じるものがある。船岡の一目千本桜を見に自転車で行ったときは遠かった。
そうして苦労して行ったのにあの千本桜がみんな散っていたのでがっかりした。
でもそのこともまた感慨深いものがあった。
ただ電車で行ったらそんなに感じなかった。
わざわざ苦労して自転車で行ったということでああ、来るのが遅れてみんな散ってしまったなと感慨深いものが生れた。
それは江戸から芭蕉がみちのくに旅して「奥の細道」が生れたと同じである。
江戸から歩いた距離によって生れたのである。今とは距離の感覚があまりにも違い過ぎたからである。
ただ元禄時代にも桜が咲いていたと思うがその時期は終わっていた。
五月に入っていたからである。ただその手前で今の茨城県で八重桜のことを俳句にしている。芭蕉には桜の俳句は少ない、その頃あまり桜は咲いていなかったのかもしれない
そもそも城には桜は咲いていなかった。
桜と城が一体として見るようになったのは明治以降なのである。
ただ西行は桜を歌ったから平泉で桜の歌を残した。

ききもせず束稲やまのさくら花よし野のほかにかかるべしとは

だから西行のこの歌はめずらしい、これは東北の奥深い地をたずねた感懐がある。
その時代なら芭蕉の時代よりさらに遠いからである。

源義家の「吹く風をなこその関とおもへども道もせに散る山桜かな」はこれとはまたは違っている。
山桜であるのはその頃は山桜であり染井吉野ではない、山桜らしい歌である。
源義家の伝説は本当に多い、山桜と染井吉野の桜は違う。

しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花 本居宣長

これも山桜であり今の桜はほとんど染井吉野なのである。それがまた混同しているのだ。

日に風に清流ひびき山桜高きに咲きて散りにけるかな (自作)

山桜は一般に山の高い所に咲いているけど城に咲いているのはたいがい染井吉野なのである。それは城が公園化して植えられたらである。

あくがるる心はさてもやま桜ちりなむのちや身にかへるべき(67)[新後撰91]

これも山桜なのである。山桜と染井吉野が相当に違っているのだが混同しているのが現代である。城を染む桜・・・などと歌っても城に桜咲いていなかった。
西行が歌ったのは山桜もあるが吉野の桜は山桜ではないだろう。
西行の時代はまだ染井吉野はなかったからである。
吉野山には古来桜が多く、シロヤマザクラを中心に約200種3万本の桜が密集しています。
やはり吉野の桜は西行時代にさかのぼるから山桜なのである。

城といえば桜という印象が少なくないが、現在のように城に桜が本直えられるようになったのは明治に入ってからのことである。それ以前は、燃料や食料に適した「松」が多く植えられていた。松が食料というのはぴんと来ないかもしれないが、松の皮から取り出した繊維で、餅や団子が作られていたのだ。
http://www.kyosei-tairyu.jp/nihonn-shiro/column/shiro-sakura.html

これも意外である。いかに燃料となるもの食料となるものの方が大事だったかわかる。
美的なものより燃料と食料が切実だったのである。花より団子だったのである。
現代は生活によ余裕が生れた結果、美的に鑑賞するようになったのである。

春高楼(かうろう・こうろう)の花の宴(えん) 巡る盃(さかづき)影さして
千代の松が枝(え)分け出(い) でし 昔の光今いづこ

明治になった時やはり桜が植えられて桜の宴があった。花見が城で行われた。
松は城にはもともとあったが桜は咲いていなかったのである。

霊山にも南朝の城がありはかなく滅びた。一年もたたないうちに炎上したのである。
そこにも桜が咲いている。あの黒々とした玄武岩によりそい咲いていた。
あそこから残雪の吾妻峰も遠望できて見晴らしがいい。
その霊山城が炎上したとき一族がおちのびて南相馬市の鹿島の真野の館に住んだ。
そういう歴史を知らないとやはり桜でも鑑賞できない

いづれにしろなぜこれほど桜と城が一体化されたのか?
それは後世にそうなったとしても城と桜はにあうのであり絵にもなるのである。
ともかく桜は日本全国に咲いていて名所の桜だけではない、いたるところに咲いていて発見されない桜がいくらでもある。ただ咲いている期間が短いから見れないのである。

吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ(新古86)

つまり吉野山だけではない全国に今は桜は咲いている。だから見ぬ方の桜はいくらでもある。

今年とて桜は咲けど人住まぬ故郷淋し誰かたずねむ

この辺では津浪や原発事故で故郷を離れて住む人がいる。でもそこにも桜は咲いている。小高辺りにもいい桜が咲いているの紹介されている。
でも人が住まないとなると桜も咲いても淋しいとなる。
やはり人が住まないと自然も活きてこない、そういう世界が想像すらできなかった。

桜前線は仙台で終わるわけではない、岩手県にもつづき盛岡に城がありさらに青森につづき弘前城で一応東北が終わるがさらに函館から稚内まで桜は咲き続けるのである。
どうしても青葉城で終わる感じになるが東北はさらに奥深いのである。
会津となると陸奥街道からそれがそこにも桜咲き続けるのである。中通りから会津とかは高い山があるから神々しいとなる。
会津のかなたには飯豊山が見える、浜通りは海があっても山がないから何か欠けているのである
山には神々しいものがあるからだ。

昨日は荒れ模様であり春の雷が鳴った。

雷鳴りて桜前線北上す

まだ北に向かって桜は咲くのである。


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