2015年04月13日

二本松城は山城から平城へ移る過渡期の城 (福島県では一番魅力ある城)


二本松城は山城から平城へ移る過渡期の城


(福島県では一番魅力ある城)

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洗心亭で抹茶を飲んだ。

「この洗心亭は江戸時代に作られたものでぼっしん戦争で消失したのですがこれだけは焼けなかったのです」
そうですか、日本の城はほとんど残っていません、石垣だけが残っているだけです
あとで新しく建てたのがほとんどですね
「これは江戸時代に作られたものだから貴重です」
「そういえば何か茶室風の作りですね」

茶室といってももともと民家を基にしたわびさびの作りは農民がそういう環境で生活していた。その時農民はわび、さびなど意識しない、そのわび、さびは豪勢な建築物が豊かさが生れたとき意識されたのである。

「この城で気になっていたのが何であんな高い所に城を築いたかなのです」
「それはここはもともと畠山氏が建てた山城だったからですよ」
「ああ、そうか、最初は城は防衛のために山城からはじまっていましたからあんなに高い所に建てた」
「畠山氏のあとは丹羽様が城を築いたんですよ、丹羽様が信長様と縁故があったんです」「信長が出てくるのは古いですね、東北では秀吉は会津にも来ていますし
石田三成は相馬に来ていて野馬追いの旗印の三成のものを残したんずすよ」

なぜその抹茶を出した年配の女性がしきりに信長のことを言うのがわからなかった。
ただ畠山氏は南朝で霊山の大将になっていたから古い氏族である。
二本松城では伊達政宗と激しい攻防戦があった.相馬氏もこの攻防戦に深くかかっていた。


畠山氏を救援するため、佐竹・芦名・岩城・二階堂・石川・白河・相馬氏の反伊達連合軍約三万の軍勢は一旦須賀川に集結したのち安積郡に進撃した。

 同年七月四日相馬義胤が伊達実元・白石宗実を介して二本松城の無血開城を申し入れてきた。その夜家臣と談合した伊達政宗はその申し入れを受け入れることにした。
  同月十四日畠山主従の安全が保障されるよう相馬勢が二本松城に入城し、同月十六日畠山国王丸は二本松城本丸に自ら火を放って城を退去し会津の芦名氏を頼り、ここに戦国大名畠山氏は滅亡した。
  
  城の歴史
  http://bit.ly/1aWnMXR

秀吉のもう一つの一夜城、石垣城の謎

このサイトの絵が二本松城とぴったりなのである。これと同じ配置なのである。
  
城の歴史をふりかかると中世の館(たて)と呼ばれた山城から城が発展した。
地名で館(たて)とつく地名は多くそこは中世の城でもあった。
それは平地には少なく自然の山によって敵から身を守っていたのである。
だから二本松城ももともとは山城だったからあんなに高い所に畠山氏が城を築きそのあとに丹羽氏が天守台をそこに建てた。
興味深いの二本松城は山城から平城へ移る過渡期の城であり石垣でもそれがわかった。
曲輪(くるわ)というのが城内にあり家臣はそこに家を構えそれが敵が攻めてくるのを防ぐ役割を果たしていた。
山城のその手前には家臣たちの屋敷がありそれが敵を守るものとなっていた。
平城でも相馬藩の中村城は岡田館がありそれは家臣でも敵を守るものとしてあった。
二本松城の位置もまた防衛のために選ばれた。
鎌倉のような切り通しがあり城に入りにくいような地勢を選んで城が作られた。
たしかに城のある場所に駅から行くのがわかりにくいのである。

戦国時代にはまだ平城は少ない、安土城でもあんな高い所に城を信長が作ったのはこの二本松の山城の天守台とにている。信長の時代はまだ防衛を第一に城を作ろうとしていた。城を見るときその過渡期の城、中世の館の延長としての山城と平城の過渡期の城の形態である。小浜城などもそうである。丸森の金山城もそうである。
家臣の屋敷は守るために城のすぐ下に曲輪(くるわ)として作られていたのである。
相馬藩で麓給人という人たちがいたのももともと山城がありその麓を守るものとして仕えていたから麓給人となった。
だから歴史はつくづく何か必ず連続したものであり段階的に発展しているのだ。
前の時代の継続が常にあるのだ。全く新しいものは作れないのである。
明治維新でも日本的なものが継続していたことでもわかる。
天皇を中心にしたのがそうである。これは変えることがてきなかったのである。
歴史は本当は飛躍したりしない、前にあったもの作られたものを再構築するのである。
山城から急に平城にはならない、その中間段階として山城と平城へ移る前の状態の城が二本松城なのである。


今回も船岡城をたずねて一目千本桜を見たが石垣も残っていないので城に思えなかった。中世の館(たて)が基であり二本松城と同じように平城へ移る過渡期の城だったようだ。
何か旅をしても城がないと何かが欠けている。どうしても過去への歴史のイメージがふくらまないのである。相馬の中村城は一応野面積みでも石垣が残っている。
船岡城には何も残っていない、だから歴史を感じられない、イメージできないということがある。外から来た人はあとから作られたものでも城があるとわかりやすいのである。
だから亘理駅を城にしたのはあそこに城がなかったにしろ伊達藩として亘理があり歴史があったから観光用に作ったものてはない、観光でも城がある所とない所は相当に違ってくる。ただ会津の城は平城であり山城ではない、何か平凡に感じてしまう。
ただ前にあった黒川城は七層でありあの城を見たら感動する。

亘理駅の城は遠くから映える、見えやすいのである。ビルなどないから目印になりやすいのである。
大坂城ですら建ったとき回りには高い建物がないし平野の中に高く目立ったものとしてあった。城はどこでも中心としてあった。
だから今でも城がないということは中心がないという感覚になるのである。
天守閣というのはそもそもなかったというとき信長の安土城からはじまったというとき
遠くから見ても目立つものとして作られた。安土城は琵琶湖に接近していて見られるように作っていたという。
建築物は必ずその時代の象徴として中心的役割を果すのである。

ともかく歴史に興味をもつには土地の人とその場でなんでもじかに話すると興味をもつ。なぜ年配の女性が丹羽様とか様をつけていっていたのか?
それは尊敬のためなのか?やはり丹羽様というとき二本松の人にとっては特別な感情をまだもっているとかなる。普通だったら丹羽氏という、相馬藩だって相馬様などと言う人はまれだろう。
それは特別な意味がないにしろあそこで山城から発展した城だということはその場で聞くと実感するのである。
だから歴史はその場を踏んで土地の人とじかに話すと何かそこがただ本を読むのとは違った土地に根ざしたものを感じるのである。
歴史とはそもそも何か継続してきたものでありそれは今にも通じているのである。

ともかく二本松城の魅力は自然と一体化していることなのである。
今でもその庭は野趣あふれていて山城と一体化している。
そして天守台に登ると安達太良や吾妻山や蔵王や・・・・なども一望できるのである。
二本松県として明治のとき構想されたというのも立地条件からしてわかる。
ただわからないのは平地が少ないのに十万石になっていたのか?
郡山市とか福島市の方が平地が多いから都市として発展した。二本松には平地が見えない、そしたら米でもそれほど作れないとなる。
ただ実際は米を作る土地はあるから十万石になっている。外から見てそういうことかわからないことがある。
飯館村でも山の村でも平地がかなり広い所があるのを実地に行って知っているからわかる飯館村はもともと米も相当とれていたのである。
だからおそらく米がとれる土地が二本松にあるとなる。

今回も絵になる写真が二本松城でとれた。それは俳句とか短歌と一緒にあとでだそう。
それにしても奇妙なのは城がつくられたとき江戸時代でも桜はそんなに咲いていなかったという、桜はあとから明治以降公園化して植えられて咲くようになった。
城があったとき桜は城に映えていない、でも今は城に映える桜をあたかも城が作られて侍がいたときもその桜を見ていたような錯覚に陥っているのだ。
だから確かに俳句でも短歌でも城と桜を歌ったものはないのである。
これもやはり現代から見ているから過去は常に錯覚して見ていることのわかりやすい例なのである。

「武士道の象徴としての桜」は明治時代以降の感覚。特に各地の城址に在郷軍人会が桜を植樹するようになってから、「城・武士=桜」というイメージが定着した

桜と城とか武士とは関係ないものだった。いさぎよく散るというのは戦争の時に作られたのである。
戦国時代の武士でも桜のようにいさぎよく若くても死ぬのがいいとかならない。
武士が望んだのは報償だった。だから手柄をたてて出世するために戦った。
簡単に死ぬのではない、あくまでも戦で勝って上に昇りたいという上昇志向が働いていたのである。
桜のようにいさぎよく散るというとき武士には全くなかったのに戦争のときのイメージが現代の人にも影響しているのである。
だから桜が城ににあうというときそれは城と一体化していた武士にはなかったことも奇妙なのである。
ただ美的にはそういうことが関係なく確かに城と桜はあっている。ただそれは城が作られたときは桜もないのだから武士が桜と城を歌ったということはないのである。

要するに歴史は過去はないことでも美化されることがある。
自分も桜を見て二本松城に登城していたとイメージしていたのである。
むしろ武士のイメージは松である。松は忠臣とか誠意とかイメージされるからである。
江戸時代の城の屏風絵はたいがい松である。桜など描いていないからである。
それにしても二本松少年隊にしても何か桜のようにいさぎよく散ったというふうに美化される。それは後世の人が特に太平洋戦争と関係してそうさせた。
しきりに若くても桜のように散るのはすばらしいこだとされた。
それは武士とは何ら関係ないことだったのである。
桜のように散るというときただ早く死ぬということが奨励され美化される。
そこに何のためにかとかはない、ただ早く死ぬのがいいのだとなっているからである。

花と散る二本松少年隊・・・・
とにかく早く死ぬことが美しいということになる。それは危険な思想にもなっていたのである。



 
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