2015年04月04日

相馬市の中村城の大手門で若い人と歴史を語る (歴史は想像力がないと見えてこない)


相馬市の中村城の大手門で若い人と歴史を語る

(歴史は想像力がないと見えてこない)

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中村城大手門の滴水瓦


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新地の神社にあった文禄の碑

滴水瓦は支那式唐草瓦(しなしきからくさがわら)、高麗瓦(こうらいがわら)、朝鮮瓦(ちょうせんがわら)とも呼ばれ、今から約600年ほど前の中国明時代に普及し、李氏朝鮮(りしちょうせん)に多大な影響を与えました。日本では豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名たちが築いた城に突如多く用いられるようになります

相馬義胤は文禄元(1592)年、豊臣秀吉に随従して肥前名護屋に陣城を築きます(文禄・慶長の役)


滴水瓦(てきすいがわら)

 瓦の瓦当面が、雨水が滴るように「雲頭形・倒三角形」に垂れ下がった軒平瓦で、一般に「朝鮮瓦」と呼ばれます。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名達が権力の象徴として、朝鮮の瓦を真似たものとされています。
 仙台城本丸跡では、瓦当中央が花菱文の滴水瓦(3点)や菊花文(10点)が出土しており、仙台城二ノ丸跡・松島瑞巌寺・利府町大沢窯跡などでも出土しています。
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/castle/08.html



相馬市の城跡の大手門の瓦も滴水瓦なのである。この時伊達藩の方から技術が伝わったのかもしれない、相馬氏は肥前名古屋城を陣を築いていた。だから朝鮮のことを知っていた新地には伊達藩の侍だった人が住んでいて相馬市との合併を拒んでいたという。その屋敷も津浪で流されたのである。伊達とは敵対しても因縁深いのが相馬藩なのである。そもそも野馬追いも伊達に対抗するための軍事訓練からはじまっていることでもわかる。
新地の神社にあった文禄の碑は何なのか?
これは文禄慶長の役とは関係ないだろう。おそらく検地の記念である。たいがい年号の記念は検地に由来しているからである。
文禄時代に検地が行われたからである。ただその時相馬藩の領域に新地は入っていないから伊達藩でした検地だったのか?慶長16年に中村城は築かれているからだ。

中村城の大手門で相馬市の若い人と歴史を語る

何か中村城の取材にきていた若い人に出会った。一人は市役所の人だろう歴史に詳しかった。
「この大手門の瓦は滴水瓦だ」
「それってなに」
「これは朝鮮系統の瓦で有名なんだよ」
「ええ、そんな瓦なの」
「そもそも瓦というのは江戸時代でも庶民の家ではない
みんな茅葺きの家だよ、瓦の家はまれだったんだよ」
「この瓦が朝鮮系統とは知らなかった」
「歴史を知るには想像力が大事なんだよ、今の時代から昔を見えない、すると想像するほかない゛瓦一つでもそこから想像をふくらませれば何の変哲もないものでも違って見えるんだよ」
そこにまた貧弱だが石垣が残っていた。これなどもあまり注意しないし見過ごしている。
「この石垣は貧弱だから野面積みだ、城の石垣でもいろいろな作り方がある、石を切って合わせるのはかなりの高度な技術が職人が必要だよ、面白いのは慶長16年にここに城を築いたとき会津の浪人がきて石垣作りを教えたという、会津はその頃先進国だったから技術も優れていた。、蒲生氏郷の時代には七層の黒川城があったからあれは見物だった、そのあと地震がきて今の五層の城になったんだよ、他にも萱葺きの職人や大工も相馬藩内に移手に職をもった人はどこでも生活できるということなんだ

「ええ、そんなこと知らないな・・・」
その若者は歴史にはほとんど興味がなかったのである。
「侍だけが大事じゃないよ、職人がいないと城も造れない、石垣だって作れないしこの滴水瓦だって作れない、だから職人を確保する必要がある、ではその職人はどこにいるのか?その職人は信長の時代は京都などの寺が雇っていた、寺が侍より力があったからな
それで信長は職人を確保するために僧侶を寺を焼き討ちして殺戮したということもあったんだよ」
「ええ、そんてことあったの、面白い」
その若者は何も知らないのだが興味をもったようだ。
歴史でも誰かが面白く話したりすると興味をもつようにもなる。
ともかくむずかしくなると誰も興味をもたないのである。
「歴史は侍だけの歴史じゃないんだよ、この辺で津浪があったけどそのことで相馬藩政記に700人溺死と一行だけ記されていたんだよ、みんなそのことを知っている人がいなかった、やたら戦争のことばかり記されていたが津浪の被害については一行だけしか記されていない、その時相馬藩は戦国時代であり戦争が多かったし秀吉、家康の時代でありなんとか領地を安堵するために努力していてそのことは記したが津浪の被害のことは一行だけであった、それからわかることはその時庶民は被害があっても自ら記すことができなかったんだ、文字も書ける人もいないしまた石碑を建てるのも財力がないとできない、伝説はわずかに残っていても注目もされなかった、庶民でも墓を建てたのは幕末であり豊かにならないと墓も作れなかったんだよ・・・・」
「墓など今じゃいくらでもあるでしょう」
「侍の歴史だけじゃないんだ、歴史は、それで柳田国男は侍の歴史だけじゃない、戦争だけが歴史じゃないと、民俗学を起こした、庶民の歴史を掘り出した、だから庶民が文字を残せないから口碑として庶民の残した伝説や伝承や祭りなどから歴史を語った」
歴史はやはりその現場に立って説明したり話したりすると現実味を帯びてくる。
だから現場に立つことが大事なのである。外国でもそうでありテレビでいくら見ても現実味を感じられないのである。
川が多いとしてその川でも現場に立てばその川の上はどうなっているのかと想像する
そこから想像がつぎつきにふくらんでくる。

相馬藩の中村城の大手門からイメージがふくらんでくる。
その時代は瓦はめずらしい、茅葺きの家がほとんどであり街中すらそうだった。
ただ田町通りは瓦屋根があった、そこは繁華な街となっていた。
連甍 両両 西東に満つ
瓦の屋根はめずらしいからこそ詩になった。回りはほとんど瓦葺きの屋根だったからである。つまりそういうことがイメージできると歴史にも興味をもつのである。
だから歴史はいかにして昔をイメージできるかということにもなる。
それは戦争のことでもすでにイメージできないものとなっているからだ。
70年すぎたらすでに戦争が何なのかイメージできないのである。
馬が多く利用されていたのは馬で荷物を武器でも何でも運んでいたからである。
トラックで運ぶようなことはなかったのである。だからあの当時の戦争は武器でもかなり技術的には貧弱なものだったのである。
戦艦大和とか船とかは技術的に進んでいても一方で馬が戦力になっていたことでは戦国時代と同じだったとなる。
現場に立つことの重要性は相馬藩の最初の城が小高に建てられていた、実際に立ってみると津浪で海が見えるようになった。
小高は意外と海が近い、駅を越えて津浪がきていたのである。
そして小高には港があり海が今の小高の城まで迫っていたのである。
その港も蔵が建ち大規模なものだった。
それで浮舟城という名にもなっていたのは舟のように浮かぶ城となれば何か港に近いからそういう名になった。
村上に一時城を移したのは港があったから港の機能として城を作ろうとしたとなる。
それが縁起が悪いとしてとりやめた理由は謎にしてもそのあと慶長の津浪に襲われた。
その時港の機能が壊滅した、文禄の記録におんふねというのが小高のみに記されている
それは港か津浪で壊滅したからかもしれない、おんふねと相当記されているのは小高だけだからである。

いづれにしろあらゆる分野で想像力が必要である。想像力は創造力なのである。
stap細胞はないのにあるとしたがもしかしたらそれはありうるものかもしれない
想像したものでも現実化することがありうるがまだその段階になっていなかったのかもしれないのだ。
だから「猿の惑星」を映画であれその小説を作った人は相当な想像力があったと関心しる現実にこの辺が猿の惑星とにたようにな状況になったということである。
あれは核戦争の後のことを描いたのだかここも原発事故で人が住めなくなった状態になった。それは核戦争後の状態とにているからだ。
大都会が壊滅するという映画はもう見飽きるくらい見ている。
でもそれが現実になるとは誰も大都会に東京に住んでいる人でも思っていない
津浪とか原発事故にあった人はそれが現実になることを不思議に思わなくなったのである大都会すら廃墟と化して人が住まなくなる、それはSF小説、映画の世界だと思っていたがこの辺ではそうは思わない、この辺は現実そのものになっているからだ。
神戸の地震だって現実であり東京でそうならないとははっきりわかる。
そのことを何度も放送してもやはり人間は変わらないのである。
人間は危機感をよほどのことでないともたないのである。
危機感の欠如が大災難をもたらすのである。
もし津浪でも原発でも危機感をもっていればこんなことにはならなかったのである。
原発がなくても死ぬわけじゃてなていからなんとか原発のない世界を作りそこで暮らすのがいいとなる。
危機感がない人はそう思わない、津浪にしてもそうである。
あれだけの災難があったらもう恐ろしくて海岸近くには人間は住めないのである。



北山八景

田町晩煙 
     
秋気晴来市肆中   秋気 晴れ来たる 市肆の中、
連甍両両満西東   連甍 両両 西東に満つ。
人烟斜繞城湟外   人烟 斜めに繞ぐる 城湟の外、
士女縦横向晩風   士女 縦横 晩風に向かう。

《意味》
秋の気配が漂い、晴れ渡った商店街、
連なった家々が向かい合って軒を並べ東西に伸びている。
人も夕餉の烟りも城堀の外に繞ぐって流れている。
男も女も晩風に向かい忙しそうに行ったり来たりしている。
 *田町=地名
 *市肆(しし)=店、商店。
 *連甍=連なった屋根。沢山の家並み。
 *両両=二つずつ。二つながら。
 *城湟=城の周りの堀。
 *士女=男と女。男女。
 *中・東・風は上平声一東韻。
 *作:水慎君奉
タグ:中村城
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南相馬市小高区の鳩原村の歴史 (原発事故で無人化した村の不思議)


南相馬市小高区の鳩原村の歴史

(原発事故で無人化した村の不思議)


相馬一族。岡田氏の庶流で、陸奥国行方郡小高郷大井村(南相馬市小高区大井)を領して大井を称した。

大井兵右衛門 給人 14石 行方郡小高郷鳩原村8(安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』)

大井氏は岡田氏系統の系譜にある。大井氏という姓が南鳩村にあり大井村がある。
すると大井村とは大井氏の姓をとって名付けられたものなのか?
普通は姓はその土地の地名をとってつけている。
相馬藩内でもすでに地名は相馬氏が進出したときは大方あった。
相馬市の黒木とあれば黒木氏が出たところだが黒木という地名があって名付けられた。
相馬氏が進出してもその姓が地名化することはまれなのである。
土着化することはその土地の地名を姓にすることが普通である。
ここは例外的に大井氏系統が土着して名付けられたのか?
南相馬市小高区大井とあったのだから地名をとったともなる。

安永(1780)ー天明(1788)ー天保(1843)と年号の最後の年である。
安永に給人名簿に記されているがそのあとすぐに天明であり大飢饉があり相馬藩では三分の一の人口が流出した。
自分が発見した碑は天保である。だから飢饉から回復したあとの碑である。
小高は最初に相馬氏が城を築いたところだから相馬氏の歴史としては古いのである。
相馬氏は最初に片倉から入り太田村に入り小高に進出した。
ただその前に在地の勢力があってその土地の有力豪族と戦わねばならなかった。
相馬氏系統の進出でも何かいろいろ氏があっても相馬藩内では渡部氏が村の墓の中心のようにあるのも不思議である。
鳩原村の丘の上に墓地があり一番立派なのは渡部氏の墓だった。
渡部氏がなぜ相馬藩内で勢力を広げたのかはまた謎である。

岡田氏は相馬氏と対等の力をもっていたから中村城に岡田館が別にあったということでもわかる。
でも岡田という姓がそれほど相馬藩では目立たないのも不思議である。
姓の歴史もまた複雑である。
鳩原ははっぱらとなっているから鳩は当て字だった。はっぱらとはまさに何もない原の意味である。
相馬氏はこの地に進出するときはっぱらとか人がまず住んでいない中世の館(たて)のない地を選んで開墾に入ったのである。
原町の深野(ふこうの)には館(たて)とつく地名が二つあり中世の豪族が住んでいた。
だからそこをさけて大原に開墾に入ったのである。
この大原と海老の大工が結びついていたというのはやはり相馬氏系統が相馬市の今の中村に城を築くとき何かがあったのはもとも大原には相馬氏が勢力をもった地だったからである。
北郷は小高より北だから名付けられたのであり海老村でも北郷は相馬市か完全に支配していたわけではないからである。


鳩原村にもこうして歴史が積み重ねられている。
おそらく自分が会った牛を飼っている家は戦前か戦後かもしれない、開拓に入ったのかもしれない、不便な地域はかえって新しいのが多いからである。
あそこは村から森に入る所である。懸(かけ)の森とはカケにかけ離れているの懸けなのかもしれない。か・る【離る】となっているからである。
実際にかけ離れた所にあるのは確かである。
しかし不思議なのは人の住まなくなった村であり街である。
人が住まないと言っても廃墟の街とか村ではない、人は出入りしているからである。
浪江などでは荒廃した家がある。小高では少ない、やはり帰れる場所だから家も直している所が一部ある。
家を直さない所は住まなくなるのかもしれない。

鳩原小学校があったがあんなところに学校があったのかとなる。
鹿島区の真野小学校では一人しか入学する生徒がなかったとか今は本当に街から離れたら余計に少ない、消滅の危機である。やがては街に一つに統合されるような状態である。
でも何か人が住まない街でも村でもこれは何なのだろうとなる。
ただ一時的に大がかりなロケのために映画制作のためにしていることなのかと思ったりする。これが現実だと津浪で消失した村でもそうだが未だに思えないのである。
「猿の惑星」が映画であり現実でないと思って見ていたがこの辺ではそんな状態が現実化したのである。街や村に人がいなくなりイノシシや猿が我が物顔に出てきていることがそうである。
そして小学校でも横断歩道がありあそこを生徒が往き来していた。
そうした子供の声も聞こえない、姿もない、だから確かに廃墟の村とにている。

いづれにしろ牛は飼料が自前でとれないし放射能汚染でたいがいやめている。
他に移ってはじめた人もいるがたいがいはやめた。
もともと牛を飼うにしても採算がとれないと農業をやめたいという人が多かった。
この際補償金をもらってやめた方がいいとなるのも成り行きである。
だから仮設暮らしも慣れました、友達もできたしとか狭い所で難儀しているかと思ったらそうではない、いごこちか良くなっている。
そうなるといつまでも補償金もらって楽に暮らしたいとなるのも困るのである。
仮設に本当の暮らしはない、仮りの生活しかないのである。
地元でもそういうふうに暮らしていることは困るのである。
それは津浪の被害者でも仮設から出れない人々がいるから同じである。

鳩原村ははらっぱ村だったけど鳩にあてた、実際に山鳩が飛んでいた。
別に山鳩はこの辺では街の中にも普通に飛んでくるからめずらしくない
ただ牛舎のあった森の木に山雀が一羽じっととまっていた。
それは長い間動かなかった。それで写真がとれた。
鳥はたいがいすぐに逃げるので写真にとるのがむずかしいのである。
逃げなかったのはそこに人が住んでいない、家も空家であり人の気配がしないので安心しして長くとまっていたのかもしれらない。
それでも除染の人がいたから誰もいないというのではなかった。
人がいなくなるということは野生の生物にとってはむしろ繁殖しやすくなったりしてイノシシもネズミも増えるのである。
だからまさに「猿の惑星」が現実化したとういことで驚くのである。
SF小説でもありえないことが本当に現実化していることに驚く
原発を東京に作れと言う人が本まで出していたときそれがSF小説のようにみていた。
今になるとそういうふうにしむけられていたことがわかった。
権力によって操作されていたからそうさせられていたのである。
安全だったら東京に作るのが一番効率的だったからである。
東京に作るとすればそれこそ安全を最高度にしていたし真剣になっていた。
福島は東京から離れているということで安全に対しておろそかになっていたのである。


 
タグ:小高
posted by 老鶯 at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連