2015年04月03日

小高の城跡と鳩原((懸(かけ)の森の方を回った (津浪の後に海が見えるようになった)


小高の城跡と鳩原((懸(かけ)の森の方を回った


(津浪の後に海が見えるようになった)


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ここから海が見えた

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津浪後開けし海や春の朝

(鳩原)
鳩原や百輪の椿に夕日さす
鳩原に天保の碑あり落椿
夕日さし牛舎残りて梅匂ふ
春日さし山鳩飛びぬ鳩原に
 (懸(かけ)の森山 (536.1m))
春の日や二段の滝のひびきけり
山の奥巌に樹々の芽吹きかな
夕雲に匂うがごとく春の月

春の朝沖に船行き6号線我が自転車に見つつ走りぬ
(小高の城跡)
枝垂桜はや咲きにけり城跡の小高より見ゆ朝の海かな
石段に椿赤々と散りにつつ枝垂桜の城跡に咲く
(鳩原)
鳩原に椿のあまた散りにしを人の帰らぬ農家の暮れぬ
鳩原に小学校あり春の日や生徒もなしに今日も暮れゆく
鳩原に天保の碑あり古りにしを農家に椿散りて暮れゆく

 (懸(かけ)の森山 (536.1m))
この山路踏み入る人もまれなりし苔むす石に春日さすかな
この山路踏み入る人もなきにしにシロスミレの花に苔むす石かな
この山路岩根を踏みて分け入りぬゼンマイいでて流れひびきぬ
山雀の枝にとまりて動かざる人去るあとの春の森かな
この山路キクザキイチゲの開かむやひそけかるかな我が見て去りぬ

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天保とあるから古い

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 (懸(かけ)の森

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キクザキイチゲが開こうとしている

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これは牧場のある所で見た山雀





今日も天気がいいので小高の方に行った。津浪のあとに太平洋が見えるようになった。
前は家とか樹があってさえぎられみえなかったのである。
やはり海が見えるということは気持かいい、常磐線からも海が見えるところはわずかだった。
小高はやはり人が住んでいないから庭に花が咲いていたが淋しい、人が住まない街というのも不思議である。数人の人がみかけたがそれにしても淋しい街である。
区役所で「ほっと悠」という休憩所がありコーヒーを飲んだ。
まさにあそこだけがほっとするという空間になっている。
人が住まないということは死んだ街になってしまうことである。


街の方から今回は山の方に向かったら鳩原という所にでてきた。
そこに小学校あった。こんなところに小学校がまだあるのかと思った
それも今は誰もいないから廃墟と化した村の小学校のように見えた。
ここにも子供が通っていたのかと何か不思議になった。
廃墟趣味の人がいるがそんな人がこの辺に来ているかもしれない。
廃墟とは違うがにているのだ。


ここも丘の上に墓地があったからあれは新しいのかと思ったら天保の碑があったからこの村も江戸時代からあった。あとから開拓に入ったものもあった。
おそらく懸(かけ)の森で牛舎があって牛を飼っていた人は開拓に入ったのかもしれない
なぜならかえって奥地の不便なところはあとから開拓に入る場合が多いのである。
そこは不便な所であるからだ。そこで牛を飼っていたという女性にあった。
あそこが自分の家だと言っていた。
その女性は鹿島区の仮設に住んでいたのである。
仮設は狭くて嫌蜷だろうとか言ったら今じゃ慣れた、友達もできたからそうでもない
そんなものか、やはり4年も仮設にいればそんな諷にもなのかと思った。
田舎では大きな家で広い庭に住んでいる人が多いから狭い所は嫌だと思っていたのであるしかし人間とは何でも慣れるものだと思った。
あの辺は除染しても牛は飼えないだろう、だから除染していも無駄に思えるのだ。
そもそも帰らないのに住む人がないとしたら除染しても無駄なのである。
だから何のために除染しているのかとなる。

そこから懸(かけ)の森に入った、あそこは始めて登った、流れが奥へ奥へと通じている。今回は上りきることはできなかった。
まだまだ行っていないところがあるから山はわかりにくいのである。
小高はどういうわけかあまり行っていない、浪江の高瀬川には行っていたが小高は見る所がないと思っていた。
小高ではやはり浮舟城と言われたのは海が城の前まで瀬迫っていたのである。
津浪でわかったように小高は意外と海が近かった。駅まで津浪が来ていたのである。
中世には港があり蔵まであった。
だから小高の城は港と隣接してあったのてある。
津浪で小高の城跡から海が見えたからである。
東北では城から海が見えるのはここしかないだろう。
だから海が見えたということで景観が代わり浮舟城というのが何か海と港と関係して名付けられた。
また紅梅山とか言われたのも今回春に訪れてぴったりだった。
梅でないにしろ枝垂桜が咲いていたからである。

いつれにしろ小高は相馬氏の最初の城が作られたところであり相馬藩の歴史としては重要である。
そして小高の城跡であり鳩原の村であれ江戸時代からある。
もし人が住まなくなったらそういう歴史も失われる。
それは何を意味しているのか?
それは江戸時代からつづいた歴史の喪失である。
そういうことを今まで考えたこともないのでどう考えていいのか戸惑うのである。
江戸時代からつづいた街であれ村がこうして消えてしまっていいのかとなる。
そのこともまたこの辺では考えさせられる問題なのである


 (懸(かけ)の森山 (536.1m))
http://yamayama.jp/kakenomori/kakenomori.htm
タグ:小高

2015年04月04日

南相馬市小高区の鳩原村の歴史 (原発事故で無人化した村の不思議)


南相馬市小高区の鳩原村の歴史

(原発事故で無人化した村の不思議)


相馬一族。岡田氏の庶流で、陸奥国行方郡小高郷大井村(南相馬市小高区大井)を領して大井を称した。

大井兵右衛門 給人 14石 行方郡小高郷鳩原村8(安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』)

大井氏は岡田氏系統の系譜にある。大井氏という姓が南鳩村にあり大井村がある。
すると大井村とは大井氏の姓をとって名付けられたものなのか?
普通は姓はその土地の地名をとってつけている。
相馬藩内でもすでに地名は相馬氏が進出したときは大方あった。
相馬市の黒木とあれば黒木氏が出たところだが黒木という地名があって名付けられた。
相馬氏が進出してもその姓が地名化することはまれなのである。
土着化することはその土地の地名を姓にすることが普通である。
ここは例外的に大井氏系統が土着して名付けられたのか?
南相馬市小高区大井とあったのだから地名をとったともなる。

安永(1780)ー天明(1788)ー天保(1843)と年号の最後の年である。
安永に給人名簿に記されているがそのあとすぐに天明であり大飢饉があり相馬藩では三分の一の人口が流出した。
自分が発見した碑は天保である。だから飢饉から回復したあとの碑である。
小高は最初に相馬氏が城を築いたところだから相馬氏の歴史としては古いのである。
相馬氏は最初に片倉から入り太田村に入り小高に進出した。
ただその前に在地の勢力があってその土地の有力豪族と戦わねばならなかった。
相馬氏系統の進出でも何かいろいろ氏があっても相馬藩内では渡部氏が村の墓の中心のようにあるのも不思議である。
鳩原村の丘の上に墓地があり一番立派なのは渡部氏の墓だった。
渡部氏がなぜ相馬藩内で勢力を広げたのかはまた謎である。

岡田氏は相馬氏と対等の力をもっていたから中村城に岡田館が別にあったということでもわかる。
でも岡田という姓がそれほど相馬藩では目立たないのも不思議である。
姓の歴史もまた複雑である。
鳩原ははっぱらとなっているから鳩は当て字だった。はっぱらとはまさに何もない原の意味である。
相馬氏はこの地に進出するときはっぱらとか人がまず住んでいない中世の館(たて)のない地を選んで開墾に入ったのである。
原町の深野(ふこうの)には館(たて)とつく地名が二つあり中世の豪族が住んでいた。
だからそこをさけて大原に開墾に入ったのである。
この大原と海老の大工が結びついていたというのはやはり相馬氏系統が相馬市の今の中村に城を築くとき何かがあったのはもとも大原には相馬氏が勢力をもった地だったからである。
北郷は小高より北だから名付けられたのであり海老村でも北郷は相馬市か完全に支配していたわけではないからである。


鳩原村にもこうして歴史が積み重ねられている。
おそらく自分が会った牛を飼っている家は戦前か戦後かもしれない、開拓に入ったのかもしれない、不便な地域はかえって新しいのが多いからである。
あそこは村から森に入る所である。懸(かけ)の森とはカケにかけ離れているの懸けなのかもしれない。か・る【離る】となっているからである。
実際にかけ離れた所にあるのは確かである。
しかし不思議なのは人の住まなくなった村であり街である。
人が住まないと言っても廃墟の街とか村ではない、人は出入りしているからである。
浪江などでは荒廃した家がある。小高では少ない、やはり帰れる場所だから家も直している所が一部ある。
家を直さない所は住まなくなるのかもしれない。

鳩原小学校があったがあんなところに学校があったのかとなる。
鹿島区の真野小学校では一人しか入学する生徒がなかったとか今は本当に街から離れたら余計に少ない、消滅の危機である。やがては街に一つに統合されるような状態である。
でも何か人が住まない街でも村でもこれは何なのだろうとなる。
ただ一時的に大がかりなロケのために映画制作のためにしていることなのかと思ったりする。これが現実だと津浪で消失した村でもそうだが未だに思えないのである。
「猿の惑星」が映画であり現実でないと思って見ていたがこの辺ではそんな状態が現実化したのである。街や村に人がいなくなりイノシシや猿が我が物顔に出てきていることがそうである。
そして小学校でも横断歩道がありあそこを生徒が往き来していた。
そうした子供の声も聞こえない、姿もない、だから確かに廃墟の村とにている。

いづれにしろ牛は飼料が自前でとれないし放射能汚染でたいがいやめている。
他に移ってはじめた人もいるがたいがいはやめた。
もともと牛を飼うにしても採算がとれないと農業をやめたいという人が多かった。
この際補償金をもらってやめた方がいいとなるのも成り行きである。
だから仮設暮らしも慣れました、友達もできたしとか狭い所で難儀しているかと思ったらそうではない、いごこちか良くなっている。
そうなるといつまでも補償金もらって楽に暮らしたいとなるのも困るのである。
仮設に本当の暮らしはない、仮りの生活しかないのである。
地元でもそういうふうに暮らしていることは困るのである。
それは津浪の被害者でも仮設から出れない人々がいるから同じである。

鳩原村ははらっぱ村だったけど鳩にあてた、実際に山鳩が飛んでいた。
別に山鳩はこの辺では街の中にも普通に飛んでくるからめずらしくない
ただ牛舎のあった森の木に山雀が一羽じっととまっていた。
それは長い間動かなかった。それで写真がとれた。
鳥はたいがいすぐに逃げるので写真にとるのがむずかしいのである。
逃げなかったのはそこに人が住んでいない、家も空家であり人の気配がしないので安心しして長くとまっていたのかもしれらない。
それでも除染の人がいたから誰もいないというのではなかった。
人がいなくなるということは野生の生物にとってはむしろ繁殖しやすくなったりしてイノシシもネズミも増えるのである。
だからまさに「猿の惑星」が現実化したとういことで驚くのである。
SF小説でもありえないことが本当に現実化していることに驚く
原発を東京に作れと言う人が本まで出していたときそれがSF小説のようにみていた。
今になるとそういうふうにしむけられていたことがわかった。
権力によって操作されていたからそうさせられていたのである。
安全だったら東京に作るのが一番効率的だったからである。
東京に作るとすればそれこそ安全を最高度にしていたし真剣になっていた。
福島は東京から離れているということで安全に対しておろそかになっていたのである。


 
タグ:小高
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相馬市の中村城の大手門で若い人と歴史を語る (歴史は想像力がないと見えてこない)


相馬市の中村城の大手門で若い人と歴史を語る

(歴史は想像力がないと見えてこない)

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中村城大手門の滴水瓦


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新地の神社にあった文禄の碑

滴水瓦は支那式唐草瓦(しなしきからくさがわら)、高麗瓦(こうらいがわら)、朝鮮瓦(ちょうせんがわら)とも呼ばれ、今から約600年ほど前の中国明時代に普及し、李氏朝鮮(りしちょうせん)に多大な影響を与えました。日本では豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名たちが築いた城に突如多く用いられるようになります

相馬義胤は文禄元(1592)年、豊臣秀吉に随従して肥前名護屋に陣城を築きます(文禄・慶長の役)


滴水瓦(てきすいがわら)

 瓦の瓦当面が、雨水が滴るように「雲頭形・倒三角形」に垂れ下がった軒平瓦で、一般に「朝鮮瓦」と呼ばれます。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名達が権力の象徴として、朝鮮の瓦を真似たものとされています。
 仙台城本丸跡では、瓦当中央が花菱文の滴水瓦(3点)や菊花文(10点)が出土しており、仙台城二ノ丸跡・松島瑞巌寺・利府町大沢窯跡などでも出土しています。
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/castle/08.html



相馬市の城跡の大手門の瓦も滴水瓦なのである。この時伊達藩の方から技術が伝わったのかもしれない、相馬氏は肥前名古屋城を陣を築いていた。だから朝鮮のことを知っていた新地には伊達藩の侍だった人が住んでいて相馬市との合併を拒んでいたという。その屋敷も津浪で流されたのである。伊達とは敵対しても因縁深いのが相馬藩なのである。そもそも野馬追いも伊達に対抗するための軍事訓練からはじまっていることでもわかる。
新地の神社にあった文禄の碑は何なのか?
これは文禄慶長の役とは関係ないだろう。おそらく検地の記念である。たいがい年号の記念は検地に由来しているからである。
文禄時代に検地が行われたからである。ただその時相馬藩の領域に新地は入っていないから伊達藩でした検地だったのか?慶長16年に中村城は築かれているからだ。

中村城の大手門で相馬市の若い人と歴史を語る

何か中村城の取材にきていた若い人に出会った。一人は市役所の人だろう歴史に詳しかった。
「この大手門の瓦は滴水瓦だ」
「それってなに」
「これは朝鮮系統の瓦で有名なんだよ」
「ええ、そんな瓦なの」
「そもそも瓦というのは江戸時代でも庶民の家ではない
みんな茅葺きの家だよ、瓦の家はまれだったんだよ」
「この瓦が朝鮮系統とは知らなかった」
「歴史を知るには想像力が大事なんだよ、今の時代から昔を見えない、すると想像するほかない゛瓦一つでもそこから想像をふくらませれば何の変哲もないものでも違って見えるんだよ」
そこにまた貧弱だが石垣が残っていた。これなどもあまり注意しないし見過ごしている。
「この石垣は貧弱だから野面積みだ、城の石垣でもいろいろな作り方がある、石を切って合わせるのはかなりの高度な技術が職人が必要だよ、面白いのは慶長16年にここに城を築いたとき会津の浪人がきて石垣作りを教えたという、会津はその頃先進国だったから技術も優れていた。、蒲生氏郷の時代には七層の黒川城があったからあれは見物だった、そのあと地震がきて今の五層の城になったんだよ、他にも萱葺きの職人や大工も相馬藩内に移手に職をもった人はどこでも生活できるということなんだ

「ええ、そんなこと知らないな・・・」
その若者は歴史にはほとんど興味がなかったのである。
「侍だけが大事じゃないよ、職人がいないと城も造れない、石垣だって作れないしこの滴水瓦だって作れない、だから職人を確保する必要がある、ではその職人はどこにいるのか?その職人は信長の時代は京都などの寺が雇っていた、寺が侍より力があったからな
それで信長は職人を確保するために僧侶を寺を焼き討ちして殺戮したということもあったんだよ」
「ええ、そんてことあったの、面白い」
その若者は何も知らないのだが興味をもったようだ。
歴史でも誰かが面白く話したりすると興味をもつようにもなる。
ともかくむずかしくなると誰も興味をもたないのである。
「歴史は侍だけの歴史じゃないんだよ、この辺で津浪があったけどそのことで相馬藩政記に700人溺死と一行だけ記されていたんだよ、みんなそのことを知っている人がいなかった、やたら戦争のことばかり記されていたが津浪の被害については一行だけしか記されていない、その時相馬藩は戦国時代であり戦争が多かったし秀吉、家康の時代でありなんとか領地を安堵するために努力していてそのことは記したが津浪の被害のことは一行だけであった、それからわかることはその時庶民は被害があっても自ら記すことができなかったんだ、文字も書ける人もいないしまた石碑を建てるのも財力がないとできない、伝説はわずかに残っていても注目もされなかった、庶民でも墓を建てたのは幕末であり豊かにならないと墓も作れなかったんだよ・・・・」
「墓など今じゃいくらでもあるでしょう」
「侍の歴史だけじゃないんだ、歴史は、それで柳田国男は侍の歴史だけじゃない、戦争だけが歴史じゃないと、民俗学を起こした、庶民の歴史を掘り出した、だから庶民が文字を残せないから口碑として庶民の残した伝説や伝承や祭りなどから歴史を語った」
歴史はやはりその現場に立って説明したり話したりすると現実味を帯びてくる。
だから現場に立つことが大事なのである。外国でもそうでありテレビでいくら見ても現実味を感じられないのである。
川が多いとしてその川でも現場に立てばその川の上はどうなっているのかと想像する
そこから想像がつぎつきにふくらんでくる。

相馬藩の中村城の大手門からイメージがふくらんでくる。
その時代は瓦はめずらしい、茅葺きの家がほとんどであり街中すらそうだった。
ただ田町通りは瓦屋根があった、そこは繁華な街となっていた。
連甍 両両 西東に満つ
瓦の屋根はめずらしいからこそ詩になった。回りはほとんど瓦葺きの屋根だったからである。つまりそういうことがイメージできると歴史にも興味をもつのである。
だから歴史はいかにして昔をイメージできるかということにもなる。
それは戦争のことでもすでにイメージできないものとなっているからだ。
70年すぎたらすでに戦争が何なのかイメージできないのである。
馬が多く利用されていたのは馬で荷物を武器でも何でも運んでいたからである。
トラックで運ぶようなことはなかったのである。だからあの当時の戦争は武器でもかなり技術的には貧弱なものだったのである。
戦艦大和とか船とかは技術的に進んでいても一方で馬が戦力になっていたことでは戦国時代と同じだったとなる。
現場に立つことの重要性は相馬藩の最初の城が小高に建てられていた、実際に立ってみると津浪で海が見えるようになった。
小高は意外と海が近い、駅を越えて津浪がきていたのである。
そして小高には港があり海が今の小高の城まで迫っていたのである。
その港も蔵が建ち大規模なものだった。
それで浮舟城という名にもなっていたのは舟のように浮かぶ城となれば何か港に近いからそういう名になった。
村上に一時城を移したのは港があったから港の機能として城を作ろうとしたとなる。
それが縁起が悪いとしてとりやめた理由は謎にしてもそのあと慶長の津浪に襲われた。
その時港の機能が壊滅した、文禄の記録におんふねというのが小高のみに記されている
それは港か津浪で壊滅したからかもしれない、おんふねと相当記されているのは小高だけだからである。

いづれにしろあらゆる分野で想像力が必要である。想像力は創造力なのである。
stap細胞はないのにあるとしたがもしかしたらそれはありうるものかもしれない
想像したものでも現実化することがありうるがまだその段階になっていなかったのかもしれないのだ。
だから「猿の惑星」を映画であれその小説を作った人は相当な想像力があったと関心しる現実にこの辺が猿の惑星とにたようにな状況になったということである。
あれは核戦争の後のことを描いたのだかここも原発事故で人が住めなくなった状態になった。それは核戦争後の状態とにているからだ。
大都会が壊滅するという映画はもう見飽きるくらい見ている。
でもそれが現実になるとは誰も大都会に東京に住んでいる人でも思っていない
津浪とか原発事故にあった人はそれが現実になることを不思議に思わなくなったのである大都会すら廃墟と化して人が住まなくなる、それはSF小説、映画の世界だと思っていたがこの辺ではそうは思わない、この辺は現実そのものになっているからだ。
神戸の地震だって現実であり東京でそうならないとははっきりわかる。
そのことを何度も放送してもやはり人間は変わらないのである。
人間は危機感をよほどのことでないともたないのである。
危機感の欠如が大災難をもたらすのである。
もし津浪でも原発でも危機感をもっていればこんなことにはならなかったのである。
原発がなくても死ぬわけじゃてなていからなんとか原発のない世界を作りそこで暮らすのがいいとなる。
危機感がない人はそう思わない、津浪にしてもそうである。
あれだけの災難があったらもう恐ろしくて海岸近くには人間は住めないのである。



北山八景

田町晩煙 
     
秋気晴来市肆中   秋気 晴れ来たる 市肆の中、
連甍両両満西東   連甍 両両 西東に満つ。
人烟斜繞城湟外   人烟 斜めに繞ぐる 城湟の外、
士女縦横向晩風   士女 縦横 晩風に向かう。

《意味》
秋の気配が漂い、晴れ渡った商店街、
連なった家々が向かい合って軒を並べ東西に伸びている。
人も夕餉の烟りも城堀の外に繞ぐって流れている。
男も女も晩風に向かい忙しそうに行ったり来たりしている。
 *田町=地名
 *市肆(しし)=店、商店。
 *連甍=連なった屋根。沢山の家並み。
 *両両=二つずつ。二つながら。
 *城湟=城の周りの堀。
 *士女=男と女。男女。
 *中・東・風は上平声一東韻。
 *作:水慎君奉
タグ:中村城
posted by 天華 at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2015年04月05日

花に雨(貧乏な人が増大して表面化して犯罪が増える時代)


花に雨(貧乏な人が増大して表面化して犯罪が増える時代)

咲きそめし花の雨ぬる貧乏になりゆく人の多くなりぬれ

そもそも人間は貧乏人とつきあわないと貧乏人のことを知らないのである。
近くに困った人がいても何が起こっているかもしらない、つくづくすぐ近くに
十年くらい空家があったのだがそのことを誰も知らないという不思議である。
自分はその前毎日通っているからずっと気になっていた。
そのことを近くの人と話ししたら知らないというのも不思議だった。
今はこういうことが田舎でも多い
人のことは田舎では見なくてもどこかで見ているのである。
あの人なにしているのだろうかと田舎では別に詮索するのでもないが見えてしまうのである。
それがなぜすぐ近くの空家を知らないのか本当に不思議だった。
郷土史関係ですぐ近くの神社に天明の碑があったのを発見したのは最近だった

それは過去だけではない、人間はすぐ近くのこと古いことでも今のことでも知らないことが多くなった。
それはやはり生活を共にしているということがないからだろう。
勤めが遠くになっていると何をしているのかもわからないからである。
そういうふうに近隣のことを知らないと何か今回のような津浪だ原発事故など災難に見舞われると困ったことになる。
人間は日頃からコミニケーションをとっていないといざというときも助けたりできない
相手のことがわからないからである。
人間はつくづく直接話してみないとわからない

最近生活保護の人と知り合っていろいろ話あうことになった。
ところが生活保護の人に直接接していない人は生活保護のことがわからない
生活保護など食べるだけがやっと生活でいいものではない
その人は最近市営住宅に息子と同居して生活保護が打ち切られたのである。
ええ、そんな簡単にやめさせられるのかと驚いた。
なぜならその人は収入もわずかな年金しかなかったからである。
だからそんな簡単にやめさせられたら飢え死にするようなことにもなるだろう。
ただその人はならない、なぜならコミニケーション能力が優れているからである。
いろいす人と交渉することがうまいのである
ただ様々な問題をかかえていてこの人も犯罪一歩手前にあった
前の人はまさに犯罪者になった。
生活保護が何のためにあるかというと常にネットで言われているのは犯罪者にしないためだというのも理解した。
本当に犯罪者になるほか生きる道がないのである。
そのことは社会全般に影響して治安が悪くなるから金持ちの人でも一般の人でも影響する危険な時代になる。

つまりアベノミックスなどは何の効果もない、金持ちにはいいだけであり増大している貧困層には物価は上がるだけであり負担が様々に増えていいことはないのである
貧困者が増えて犯罪者に追い込まれる人が増えてくる危険な状態になっているのが現代である。
実際にそういう被害を受けたし今もそういう人とつきあった結果、なぜもうぎりぎりで生活している人がいるということを自分の問題のように深刻に思うようになったのである。まずそういう人と直接接しない人は感じないのである。
何も貧乏人だけではない、事業していた人も借金で首が回らなくなっていた。
それは贅沢していた結果というのもある。金がないのに金のある生活をしていたのだからそうなる。今の社会は別に金持ちは金持ちで金がかかり金がないとなっている社会であるそういう人はいい高い車をもっているのでわかるのである。
例えば八人に一人が裏の金融から金を借りているということでもいかに生活を無理しているかわかる。
なぜこんなに借金しているのかというのもそれだけ無理していい生活をしているからそうなる。
分相応の生活していればいいじゃないかとはならない、もっといい家が欲しい車が欲しい・・・欲しいとなって無理をするから借金してまでそうなるのがおかしいのである。

いづれにしろ日本は景気良くなったりもうならない、衰退国家である。高齢化社会がそれに拍車をかける。あらゆる方面で貧乏が今まで隠されていたがそれが様々なことで表面化してくる。犯罪も増えてくる、老人も年金だけ暮らせない、かかりがかかるからである。国民年金だけではない、会社の年金でも苦しくなる。
もうぎりぎりで生活する人が多くなる。犯罪一歩手前の人が社会にあふれてくるから危険な社会になる。それは富裕層でも中間層でも普通の人にも影響してくる。
犯罪にあう確率が増大してくるのである。

ともかく今日は花が桜が咲いたが雨がふってきた。何かそこで暗い日本の未来を感じてしまう。
もちろん世の中は暗いことがあれば明るいこともあるからすべて暗く考えるのは間違いである。これから物価高になり金の価値より物の価値が高くなると物を大切にするという時代に逆戻りするのは悪いことではない、だから悪いと思うことも良い面が必ずある。
ただはっきりしていることはアベノミックスなどで日本は豊かにはならない、貧乏の問題が表面化しているしそれがだんだん深刻化する時代である。
だから今までのような無理して豊かな生活をする借金してまで豊かな生活を求めるようなことはできない、分相応の生活をしないと犯罪者になってしまう時代である。


これが現実だ

生活保護が最多更新 161万8817世帯
http://www.sankei.com/life/news/150401/lif1504010025-n1.html
老人が40パーセント以上と増大している、貧困老人がこれからますます増大してくるのである


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何か貧乏な話の方が今は多くなっている
このグラフの推移を見てもわかる
親が仕送りできない、経済的余裕がなくなっているからである。
それでも今は大学に行かせるから無理がでてくる



タグ:貧乏

2015年04月06日

東北文化論 (わび、さびは豪勢な豊かさのアンチテーゼとしてありえた)


 
東北文化論


(わび、さびは豪勢な豊かさのアンチテーゼとしてありえた)



アントワネットはこのプチ・トリアノンに接した狩猟場に「王妃の村里」と呼ばれる農村風の庭園を創りあげた。農家風の建物を建て、家畜を飼い、野菜を植え、農婦ごっこや芝居に興じた。
外観をわざとボロく創っているが、・・・・
http://www.dokodemo-bessou.com/france/page5/page5-4.htm

信長や秀吉ばかりでなく、松永久秀にも近しく、武家権力の中枢に接近しながらも宮廷文化とは対極的な独自の価値観を生み出した利休の独創性は、こうした利休周辺の環境や人間関係が大きく影響したものだろうと思います。
http://www.osenkou.com/skaori1.html

「伊達者」、「伊達な振る舞い」等「ダテする」とは政宗以前から「タテる」または「タタせる」という言葉があり(際立つの意に繋がる)、よって、その言葉の意味合いが政宗の言動と見事に合致した



わび、さび、しおり・・とかいう美意識がどうして生れたのか?
それは秀吉の黄金の茶室と対称化された美意識である。東西の歴史で権力者は黄金を求め黄金で飾るのが通例である。スペインはインカなどから黄金を奪い教会を黄金でちりばめた。人間の富の象徴として黄金があったことは昔から代わりない、黄金の特徴はまた腐食しないということも価値が変わらないものにした。
だから秀吉が農民の出で黄金の茶室を作ったのは別に特別なことではない、古今東西の権力者はみんなしているからだ。

わび、さびの美意識が日本特有と思っているがそうでもない、例えばベルサイユ宮殿はもともと王の狩猟場としての森だったのである。ということはパリの中に大きな森があったということになる。そういうことも今は想像できない、だから歴史は何か常に現代から見るから間違った見方をしている。
あの豪勢な宮殿にいたらかえって疲れるというのはわかる。それで「王妃の村里」という村の風景を故意に作り出したのである。そこか王妃の癒しの場となったのである。
そのことと秀吉の豪勢な黄金の茶室とかその他の醍醐の花見とか絢爛豪華な安土桃山文化を築いた。

だからわび、さびを素朴なものを求めるものは人間の心性として共通しているのである。そのわび、さびが堺という当時一番栄えた自治体都市から生れたのかというのも不思議に思うがつまりわび、さびの美意識はそうした栄えた都市文化のアンチテーゼとして生れたのである。
なぜならみちのくにはそもそも西のように栄えた歴史がない、豪商などもいない、東北はそうして栄えた歴史がないのである。平泉は確かに栄えたとしてもそれも一時の夢として焼失してしまったのである。だから江戸時代もみちのくは辺境でありみちのくそのものがわび、さびの世界でありそれで芭蕉はその世界に憧れて奥の細道を残した。

わび、さびの美意識はわび,さびが日常であり日々の生活の場だったら意識しない、それが当たり前であり絢爛豪華ものなどないからである。そこにわび、さびを特別意識することはない、日常がわび,さびに暮らしているからである。
利休のわび、さびの美意識はむしろそういうわび、さびがない文化的環境で故意にプチ・トリアノンのように生れたのであり別にそれは人間の心性として理解できるのである。
文化というのはまず自然がありそれが人工化してゆく、そしてベルサイユ宮殿のようなものができる。その反動として素朴なものを求めるのは人間として不思議ではないのであるつまり豊かさとは人工的なものとして贅を尽くす豊かさと自然の素朴さがあるとき豊かな文化が育まれる。

それは京都にある金閣寺と銀閣寺の対処性でも即座にわかる。京都には金閣的なものと銀閣的なものがあるから日本の文化都市になる。
東北にはそうした歴史がないから未だ文化不毛地帯なのである。
それだけの栄える財力が貯えられなかったからである。
文化というのは財力と関係してくる、富がないところには文化は栄えない、ただその文化の基もまた富があるからだけでは生れない、その背景に純自然というバックグランドがないと文化は生れない、なぜ今東京から文化が生れないかというとその自然が森でも山でも何でも消失して人工化だけの空間になってしまっているからである。
みちのくは伊達政宗の時代も実際は西に比べると相当に貧しかった。
そこで伊達政宗は背伸びしなければならなかった、それで何か秀吉とか西に対抗するために豪勢なことを装ったのである。それが伊達者の起源だったのである。
みちのくはわび、さび・・そのものの世界だった。そうじゃない豪勢なものがみちのくにもあると威勢を張らなければならなかったのである。
つまり豊かであり富裕であるならわび、さび・・をまず人間は求めない、豪勢な黄金を求めるというのが普通なのである。
そのあとにわび、さびの世界を求めるのである。

そもそも文化は実があって大地に根付くものがあって花が咲く、花とは文化のことであるても東北ではまだ花は咲いていない、商業とかでも西のように栄えたことを経験していなのである。
そして最近つくづく感じたことはこの辺では田畑が津浪や原発事故で喪失したとき、もう文化的なものを追及できないという感覚になった。その余裕がないという感覚になった。文化でも田畑がない田舎の生活がない所で文化を追及できなくなる、だから何か補償金などが入ってきてもさらに精神的には荒廃した感じになった。
花が咲くにはその生活基盤が充実していない咲かないのである。
それは一身上でもそうである。毎日家事に追われていたら文化的なものを余裕をもって追及できないのである。
だから今になと自由に旅できた時間は相当に恵まれていたと思うようになった。
自由な時間を与えらることは相当に恵まれたことなのである。
それが特別なことと意識していなかったが今になると意識するようになった。
なぜなら毎日時間に追われて10キロ四方から出れない閉ざされた生活になったことで意識したのである。

 
タグ:.わびさび

2015年04月07日

桜は咲けど・・・(仮設暮らしが四年過ぎても先が見えない)



桜は咲けど・・・


(仮設暮らしが四年過ぎても先が見えない)


仮設住み鹿島になじむ夕桜

満開に桜は咲けど雨しとと仮設に住みつ四年過ぎぬ


桜も咲いたけどなんか雨の桜になっていてしめっぽい。桜のことを短歌にしたりしたけど毎年違って見える。
自分の一身上で回りでも波瀾つづきでありだから桜の見方も違っていた。
俳句は写生だけど短歌はその時々の感情的なものが入る。
悲しい、淋しい、うれしいとか感情的なものが表現される。

この辺は仮設でもすでに4年は過ぎてしまった。それも長いと思った。
だからそれぞれの土地になじむようになった人もいるかもしれない。
ただ仮設だとあくまでも仮りの暮らしだからその土地に土着するのとは違うから
なじむといっても以前として一時的なものである。

現代は土着的といっても農業とか漁業で暮らしている人は全体の一割にもみたない。
だから今回のような津浪原発事故でどうなったかというと会社中心に生活していたことが明確になる。
象徴的なのは小高の人で名取に息子が家を建てその家に親の部屋まで作った、そして会社が原町にあり常磐高速道路で通っている。
このことが原発事故や津浪で起きたことを象徴していた。
家族が分離してしまい職場も分離してしまった。
鹿島から二本松に会社が移り通っていた人もいた。
その人は二本松の方に移ったのかもしれない。
会社と共にあり会社中心社会だからそうなっている。

補償金にしても個々人で個々の家族でなるべく多くもらってそれをどうするのかとなると
もう自分の故郷には帰らない、このさい、その補償金を元にして他に移り新生活をした方がいいと働く
若い人は特にそなっている。
つまり多額の補償金は皮肉なことに復興にはならない方に働いているのである。

十津川部落などでは部落ごと北海道に移住したがそれはみんなその時農業で生計をたてていたからである。
だから北海道で開墾してみんなで農業をはじめたのである。
会社中心社会ならそういうことができないのである。
現代は土着的社会ではない、会社はどこにあってもいいという場合がある
確かに以前としてその土地でなければ利便性が欠けるとか立地性はある。
この辺はまだ東京に近いから部品を運ぶのでも立地性はある

いづれにしろ本当に満開に咲く花の日はこの辺はずっと先にになってしまっただろう。
もしかしたら市町村自体消滅しているとか少子高齢化でも言われるからなんか
満開の桜でも雨がしとしとで陰気に降っている感覚が反映される
やはり今の状態の気分が反映され自然に投影されるのである。

そうはいっても何とかしなければならないということはある。
その先が見えないのは会社中心社会であり農業が主体の土着的一体感が喪失していた社会からかもしれない、今は何か一人一人とそれぞれの家族がどうしようとしてもできない
みんなで何かをやろう一致してやろうという共同性が望まれる
その共同性は会社にはあっても他にはあるのかということもある
でも小高でもそうだが何か共同して一致してやろうとしないと町自体がなくなってしまうだろう。
ただどうして共同して一致してやるのかとなるとそれがあまりにもむずかしいのである。だからだらだらしていると分離分散してしまうことは確かである。

タグ:仮設四年

南相馬市最近の変化の写真


南相馬市最近の変化の写真

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なぜ戸塚ヨットスクールなのか?
その関係者が運転しているのか?

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ここを建設しているのは福島の会社である。
環境センターとは何なのか?

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金沢の北泉で積み上げられた松の木


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ほとんど65才以上である
高齢化もあるが津波の話を聞くとかえって老人は津波などこないと逃げなかったのである。
何か悪い方に頑固になっていたのかもしれないのとやはり老人は腰が重いというのもある
機敏に動けないことや何かに家でも財産で執着することがあったのうもしれない。

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萱浜のソーラーバネルの野菜工場



この辺は次々に変わってくる、新しい建物もたつし工事をどこでもしている
加藤建材が実際は経営状態がかなり悪くなっていたという。
でも今回の津浪原発事故でトラックを買ったりして持ちなおした。
何か建設関係はかえってこうした災難の時活気がでてくる仕事なのか
加藤建材ではその創業者が真野川でじゃりふるいして原発にその砂利を大量にもっていって財を成したという、今度も原発事故などで立ち直った。
運かいいのか悪いのかはわからない、ただ建築関係はどこも経営状態が悪かった
今回の津浪や原発事故で景気良くなったことは確かである。
江戸でも大火事があると景気が良くなったということがあるからにている面はある。
建築関係には何か大きなことがオリンピックでもそうだがあれば仕事が飛躍的に増えるのである。
タグ:南相馬市
posted by 天華 at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2015年04月08日

抽象画(花と蝶)abstract(flowers and butterflys) (抽象画は加工に加工を重ねてできる)


抽象画(花と蝶)abstract(flowers and butterflys)


(抽象画は加工に加工を重ねてできる)


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抽象画は加工に加工を重ねるとそれがオリジナルなものになる不思議がある。
だから絵の才能が全くなくても絵らしいものになる。
まず自分は幼児のような絵しか描けない、絵については全く才能がない
ところがなんかこれが花だな、蝶かもしれないと加工してくると出てくる
それを合成させてまた加工してゆくと一つのオリジナルなものが絵らしいものになってゆく
ただ花は花らしいものにして蝶も蝶らしいなとして合わせるのである。

今回もただ描いていたらこんなふうにはならない
抽象画風にすると絵らしくなるのである。
チューリップが丸みを帯びたのは加工した結果なのである。
花のキッスは偶然にまた現れたものである。
これは面白いなとその部分だけを切り取ったのである。
抽象画が自分で意図したものを描いていない
偶然に現れたものをピックアップして絵にしあげるのである。
だから一種の合成術としての新しい芸術だともなる。


 アメリカの花のサイト

抽象画は外国のサイトが優れているし多様である。
ここのサイトは花の抽象画を集めているし芸術的に優れている
販売もしているのだからプロ的なのである。
抽象画に関してはプロも素人もないのかもしれない
自分も全く絵の才能なくても作っているからである。
ただ花がどういうものかもともと知らないと抽象画も鑑賞できないだろう。
具象画として自然を知らないと抽象画も鑑賞できない
花でもチューリップならチューリップきとして見るからである。
ともかくインターネットの世界は広い
でも何があるのか知ることが容易でないのだ
いいものでも埋もれてしまっているのである。
タグ:花と蝶

京都の桜(俳句十句) (京都には日本の歴史と文化が凝縮されている)


京都の桜(俳句十句)

(京都には日本の歴史と文化が凝縮されている) 

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枝垂桜夕べ艶なり京にあり
八坂なる枝垂桜の古木かな
雨にぬれ枝垂桜の艶なりき
琴の音や京の女かな花の散る
詩仙堂真昼散る花落椿
詩仙堂花散る真昼錦鯉
京の橋誰か逢わなむ夕桜
千体の黄金の仏や花盛り
屏風にそ醍醐の花見残す京
一庶民京の花見に酔いにけり
京都なれ哲学の道も花の道
たずぬべき名所あまたや京の花

優艷に枝垂桜や京にありその日は遠くみちのくに想ふ

ゆくりなく京に花散るその時をかえりみて今我が惜しむかな

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京都にも四回くらい行っている。桜が咲いた時も二回くらい行っているかもしれない、ただそれも30年前とかなると記憶が薄れる、八坂神社の枝垂桜はいかにも古くそういう古いものが街中にあるのも京都である。
つまり八坂なる・・というときそこにすでに歴史の古さを自ずと語ることになるのが京都である。あの枝垂桜は樹齢何百年という古さなのである。
それを雨にぬれた夕暮れに見た覚えがある。これも相当にうろ覚えになった。

京都とは何か?それは日本文化が凝縮して残された歴史の街である。
だから京都を理解することは一回くらい旅行してもわからない。
時間軸で偲ぶ歴史は簡単にその場を踏んでもわからないのである。
京都には見るべきものがあまりにも多いからである。
一つ一つに長い歴史がこめられている。八坂神社というのは全国にありそれも京都から広がったのだろう。北野神社などもこの辺にあるから京都から広がったのだろう。
そのルーツが京都にあるのが多いのである。
秀吉の醍醐の花見でも屏風絵として残っている、東北にはそういうものが残っていないことでも栄えた歴史がないのである。

だから日本の歴史と文化の栄は桜が咲くとき京都とか大阪とか西の方が一体として感じる京都にはやはり芸術の街であり芸術が花咲いた街である。
奈良は万葉集であり縄文時代の継続のような日本の原始性の世界である。
京都はかなとか発明され平安時代に女性が文学を残したことでもわかる。
奈良の男性的なものから女性的なものへの移行がある。
だから何か仏像でもやさしくふくよかなものになる。
平安仏は貴族の仏教だったからである。
小高の大悲山の磨崖仏は平安仏なのである。だから相当に古いものである。
鎌倉時代になると武士社会になり質実剛健なものとなってゆく

いづれにしろ京都というとき哲学の道とあってもそこは花の道になっていた。
美的なものは哲学的なもの宗教的なものが一体化している。
京都には日本の美意識の基がある。
京都に住めば日本の文化の真髄にふれることになる。
それでも京都は大都会でありそこで風俗的にも乱れていることもある。
最近中国人の観光客がふえたりすると何か京都の風情が乱される
修学旅行生でもうるさくて嫌だった。
今では外国人にホテルも占領されて泊まれないとか何か必ずあまりに観光化すると本来の風情は消失してしまうのである。

ともかく京都ならどこの道を歩いてみてもそこに先人の平安時代からの歴史を感じる。
ただその歴史を感じるには時間が必要であり旅にはその時間がないのである。
だから本当に京都をわかるには住んでみないとわからない。
京都の桜では御所の桜と詩仙堂の桜を今でも覚えている。
特に詩仙堂の桜が雪のように散って真っ赤な落椿が映えていたのはまるで絵のようだったとなる。
そういう絵になる場面が京都には多いのである。
ただあまりにも寺が多すぎるので困るのである。
寺はもともと観光の場所ではない、修行の場所であるから観光には向いていないのである詩仙堂などは風流人が住んだ所だから違っている。
京都で驚くのは寺の柱に応仁の乱で争った槍の跡が残っていたことである。
寺の中まで侵入して争っていたのである。
京都は政権争いの場でもあるから戦乱に常にまきこまれてきたのである。
そういう点でも常に歴史の中心としてあったから千年の都なのである。

 
タグ:京都の桜

2015年04月10日

南相馬市の春の絵になる景色 (橲原や大原や大谷まわりてー写真を絵画風に)


南相馬市の春の絵になる景色

(橲原や大原や大谷まわりてー写真を絵画風に)

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真野川の岸辺

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小池

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小池の墓地
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遠くへと咲きつづくかな朝桜
故郷の墓地に眠るや花の影
梅匂ふ一つの村や山に墓地
墓を継ぐ人あれ側に土筆生ゆ
磐を打つ流れのひびき芽吹きかな
四五本の枝垂桜の大原に

朝日さし桜の映えて風そよぎ紫木蓮あまた今開かわとす
朝日さし立目石かな橲原に桜の咲きて動かざるかも

(大原)

春の日の石にさしにき大原に知る人死して我がしのぶかな
大原に草の萌えるもここに死す農家の人の家のみ残りぬ
大原に老木一本春日さし我がたずぬかな田の畦の道
大原に朝風吹きて散りそめぬ山桜かな流れひびきけり
大原の山の小径にひそけくもキクザキイチゲとスミレ咲くかな
大谷に水芭蕉咲き赤々と散りし椿や朝に映えにき
山吹も咲きいずるかな大岩のずしりとここに大原の朝
竹藪椿の赤く二三輪隠さるごとに大原に咲く
大原の竹藪の小径椿散り我がひそけくも通り去りにき
大原に一軒の家のひそけきや小径に朝散る椿かな
大木戸に天保の墓や我がよりて菜の花匂ふ道を行くかな
石神の奥に社やここにしも暮らしのありて草萌ゆるかも
春の日や木の橋を渡り社あり村の暮らしここにありしも
一時は城にありしや牛越城山桜咲き映えにけるかな
一ケ月病院にありて大原を想いし人の今はなしかも
新田川流れの浅く朝ひびき芽吹きや東風の海より吹きぬ
この土手に小蝶一つやとまりけり春の草ふみ街の中かな

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新井田川の向かい側の景色



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大谷の八坂神社に水芭蕉が咲いていた


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高倉ー明治以降武士が開拓に入ったのか?
この紋は妙見神社であり八沢浦の社にもあった


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天保とある
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牛越城


昨日は天気よかったので小池から橲原(じさばら)から大原から高倉から大木戸辺りを回って写真をとった。
写真が良くとれたので絵になるなと思ってパソコンで加工した、そしたら一枚一枚絵ハガキのようになっていた。
これは今なら絵ハガキにもできるフォトブックにもできる。
ただ手間がかかるのである。
この一連の作品はフォトブックにしやすいのでまた試しに相馬市のイオンでもできるし
パソコンでも今でもは簡単にできる
つまり自宅が放送局であり出版社にもなっているのが現代である。
大原は新田川の奥に入ると発電所がありいい石があった。
発電所があるので自然そのものではない、真野川にしてもダムがあるそうである
自然そのものなど今はないだろう。
どこかしら人工化している。
ソーラパネルだって景観を乱すので嫌なのである。
なんか山里にそぐわないのである。
この辺はあとは放射性物質の廃棄場が多いのも自然でなくなっている

大原は南相馬市立病院で一カ月入院していてちょうど何か大原の中心の位置にある斉藤さんの家が今は空家になっている。斉藤さんは死んだからである。
でも一カ月毎日大原の方を病院から見ていたことは自分も一体となり忘れられない
だから何か大原が親しくなったのである。
大原は相当に広い、新田川を渡った向かい側もそうだろう。
竹藪があり椿が咲いていたのも絵のようである。
大谷という所には八坂神社があり水芭蕉が咲き椿が散っていた。
これも絵のようだった。
大原に老木があるのはふさわしい、人間は自然でもそこに人間を見ているのである
大原の老人は長老のような人は死んだのである。
長老というときその土地に根ざした人である。
だから会社というのではない、その土地と密接に暮らした人である。
それは農家の人なのである。
でも今は跡継ぐものもなく空家になっているのが淋しい

高倉の方に行くと社があり木の橋をわたるのも何か素朴な感じになる。
妙見の紋が屋根にあったから明治以降武士が開拓に入った地かもしれない
山側に真宗系統の移民の人たちが集まった墓地があった。
あの辺はまだわかりにくい所である。
それから大木戸辺りに出たら天保の墓があったから古い
石神に出ると何か石上第二小学校もあり原町市街の延長になる。
大原高倉押釜大木戸は市街から離れ山側になる。
原町区はもともと人口も多いから市街だけではない、山の方も広いと思った。

ともかく人間はある土地に故郷でなくても住んでいればその土地と一体化してくる。
それには相当に長い時間がかかる。
こうして未だに故郷でも知らない土地があり今日はじめてたずねたのである。
人間はこうして故郷といっても原町でもさらに小高でも浪江でも拡大してゆくと
知らない土地がまだまだある。発見されていない場所があるのだ。
人間は自然でも人でも土地になじむには相当な時間がかかる
回りにこんな美しい場所があったのかと今ころ気付いているのである。
すでにこの世から去ろうとするときに知ることがある
そうなると一段と長く住んだ土地に親しみと愛情を感じるのである。
つまりますます住んでいる土地と一体化アイディンティティ化してゆくのである。

だからこそ原発事故の最大の悲劇はそうして長く親しんだ土地から離れなければならない、住めなくなったということなのである。
そのことは老人が一番影響を受けたのである。
いくら億の金をもらっても癒されない傷を負ったのである。
なぜなら老人は慣れ親しんだ所の記憶に生きるようになるからである。
自分は旅したことの記憶してまた旅しているというのも不思議な感覚である。
老人になると新しいことができない、記憶された過去を生きているのである。
その記憶が一体化した場所と切り離されることは老人にとっては過酷なのである。
そのことが認知症になったりすることもある。
認知症の特徴は新しいことが記憶できずにただ過去の記憶に生きることになるからだ。

ともかく今の季節か日本では一番いい、また晴れたら出かけたい、今日も寒い
明日は晴れるとかなんか変わりやすいのも困る。




タグ:春の景色