2015年03月29日

大和言葉を見直す時代になった (言葉はその国の文化の基成すものー神道は大和言葉に隠されている)


大和言葉を見直す時代になった

(言葉はその国の文化の基成すものー神道は大和言葉に隠されている)


この『よそう』を現代人は、つい先ごろまで、茶碗に飯を盛るときにも使った。(中略)

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 古代日本では飯を盛るのは女に限られていた。本来飯は神に捧げられるもので、女性が神事に奉仕したからである。(中略)

日本人が日頃何気なく使っている言葉には日本人の魂が宿っている。
ただそれが意識化しているからその精神を知ることができなくなった。
日本人とは何か?日本文化とは何かと言うときその言葉にこそある。
最も身近なものに日本文化の根源がアイディンティティがある

例えはよそおう・・という言葉が実は女性が巫女が神に仕えていて飯をよそおうということから出てきた言葉なのである。
飯を神にささげることはそれが神聖なる行事としてあった。そ木神事が日常化してただの普通の労働になってしまった。
介護になってから自分が主夫になってしまったので飯をよそおうのが仕事になったからこの言葉の意味に注目したのである。

たまふ(賜う)=たまる(賜る)。

たまふとはもともとは玉から由来している。たまるとは賜ったものがたまることである。たまふとはもともと神からたまわるものが語源なのである。
現代だとすべてが自分とるという感覚になる。
何かたまわるという感覚はない、授かるとかいう感覚も無い
だから誰も自然でも何でも感謝したりしないのである。
たまるとたくわえるは違う、たくわえるは人為的努力でありたまわるは神からの無償の恵みなのである。
人為的に貯えるのが現代の経済であり社会である。そこに呪いが隠されていた。
機械が過度に発達して人為的に自然から恵みを富を収奪して成り立っているのが現代文明である。
資本の横暴がグローバルで金が物が暴力的に横暴に支配する社会となった。
てはそういう西欧的文明の転換期になったとき何が新しい文明を生むのかとなると一つは日本文明も文化も東洋文明をになっているということである。

だから言葉から見直してゆくとき国風文化がまた再興(ルネサンス)するのである。
日本語では何か基本語となるもの、基幹語となるものがある。
それは一語なのである。
例えばチという語は広範囲に使われている。地は血でありあらゆるものの基本にチがあるトチでもカチでもマチでもサチでもチと語尾につくのはチは大地の意味なのである。
日本文化の感覚は農耕民であり土地に根ざしているのである。
だから植物的文化となりそれは荒々しい動物文化牧畜文化とは異なる。

ミチというときもミは身でありチは大地のことである。英語でも地球は地のこと大地のことであり土を意味していた。万物を生むのが土地であるからそうなる。
ただこの土地は意識しにくいのである。
大地がすべてをはぐくむ基だとしても大地のことを意識されにくいのだ。
農業している人が今は土がまだあたたまっていないからだめだとういう。
何か作るにしても土と深く関係しているるのが農業である。
土はすぐにはあたたまらないのである。徐々にしかあたたまらないし野菜でも徐々にしか生育しないのである。
そこにどうしても忍耐強く待つ時間が必要になるのが農業なのである。

神道とは何かというときそれは最も身近な日頃使っている大和言葉にあった。
ミチとはチに由来して身と地は一体てあり血が巡るとはめぐるー恵みとなる。
大地が基本にあるのが大和言葉なのである。
言葉には必ずその国の文化があり物の見方や思想が宿っている。
だから詩は翻訳すると何か別なものになっているのである。
詩は翻訳できないというのは言葉の背景にその国の風土とか文化があるからなのだ。
まず日本の俳句の季語を理解することは日本人だった多様で全部は理解できない。
ましてや日本の風土を知らない外国人には知り得ようが無いのだ。
時雨とか春時雨とかこれなどは理解できないのである。
本居宣長が国風文化を見直したとき唐言葉と漢字と大和言葉をかなとを分けたことからはじまったことでもわかる。
今は日本語があるがこれを大和言葉にさかのぼりその日本人の根源的な思想をアイディンティティを知る作業が必要なのである。
そして今や世界の言葉にふれる時代だから大和言葉とか英語でも比較して日本文化が何かを知る時代になったのである。

日々にしてよそおう飯やあわれかな家に仕えし我が仕事かな

これも奇妙だけど実際に自分が一人で今家を守っているのだ。主婦があり主夫がある。
男も最近では一人暮らしになれば料理でも家事もしなければならなくった。
介護は家事の延長なのである。だから女性には向いていても男性には向いていない面があり男性が妻が死んだり親の介護となると苦しくなるのはそのためなのである。
今や家というのは墓もあり家維持することはそれなりの資産も必要であり庭の手入れもあり家事全般すること自体が手間がかかりすぎるのである。
だから未だに整理がついていないのである。
一家を維持するにはそれなりの人手が必要だから一人暮らしでば無理だと思った。
大家族だった時代は家を維持できたが今は家自体が核家族とか分離してしまった。
だからこの辺ではそもそも故郷でも家族でも喪失して分離してしまった。
縁故をたどり全国に散らばり家自体は分離して故郷まで喪失してしまったのである。


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