2015年03月18日

言葉に大昔の生活の痕跡が残されている (値(あたい)は生産することから生れていた)



言葉に大昔の生活の痕跡が残されている


(値(あたい)は生産することから生れていた)


「値・価(あたい)」の由来
あたいは、「相当する」といった意味がある動詞「あたう(能う)」が名詞化したものであるとか「あたあい(当合)」が変化して「あたい」になったと考えるのが妥当らしい。
「値」の漢字の「直」は、「まっすぐ」や「まとも」といった意味をもち「値」になると、「(人が)何かにまとも」といった意味を持つのだそう
あた・う〔あたふ〕

言葉はそもそも歴史がはじまったときからある。言葉は詩の化石化したものだというときそれだけ古いということである。
あたいが与えるから生れた言葉だというとき原始とか古代では人間はみんな生産者であり消費者ではない、戦後十年までは農家では納豆まで作っていたし自給自足していたのである。消費することが極めて少ない社会だったである。
現代の消費社会というのはここ五十年くらいつに起きたことであり人間はもともと生産者であり消費者としての歴史は極めて浅いのである。
何か生産しない限り生きていけないのが人間だった。
つまり自分で生産したものを消費したのであり自給自足であり他人が生産したものを消費していたのではない。
だから消費するという概念すらなかった。
それであたいという言葉が与えるから生じているのは自分で生産したものにこそ値が価値があるということであり他人が生産したものを消費するということに価値は生れないのである。
第一消費するというとき費やすとなるが費(つえ)えるとは

1 財物などが使われてひどく減る。「投機で家産が―・える」
2 時間や労力がむだに使われる。「いたずらに歳月が―・える」
3 (潰える)つぶれてすっかりだめになる。崩壊する。「災害に―・えた街」「計画も夢と―・えた」
4 (潰える)戦いでことごとく負けてしまう。
「是(ここ)に於て南軍大(おおい)に―・え」〈露伴・運命〉
5 やつれ衰える。
「年頃いたう―・えたれど」〈源・蓬生〉


こうした悪いものとしての意味しかないのである。
何か消費するというとき買うことになるが買うは代えるであり物々交換の名残りを残した言葉である。
買うとは自分が生産したものを交換することを意味していたのである。
だから消費という観念すらないのである。
こういうふうに言葉からふりかえると現代の生活がいかに異常なのかわかる。
もう自分でも毎日買うこと消費することが生活なのである。
何一つ生産せずに買うことが生活なのである。様々なものを買うことに費やされているのである。
江戸時代からしたら千倍とか買って消費している生活なのである。
人間は何一つ生産する能力を失っているという指摘も確かである。
それが豊かな生活かとなるとそうではない、何も生産できないということは何も価値をあたいを生まない生活にもなる。
何かを生産したとき自ら作りだしたときあたいが価値が生れたからである。
だからこういう消費生活はいづれは破綻する予感がするのである。
何も作らないで買ってばかりいたらいづれは食料すら手に入らなくなる。
何も生み出さないとしたらあたいが生れないからである。
つまりついえる・・・となってしまう。

うむとかあれば売る(うる)という言葉が基幹語から生れる。生む(うむ)があって売るとなると最初にやはり生産することがあり次に売るになる。その言葉にも消費するということはない、あくまでも生む、生産することに重点がある。
うみとは海はうむものとしてあるからうみになった。
うみーうむーうる・・・は関係している。最初に売ったものは魚だったらしいからであるそもそもそういう生活だからこそ言葉もそういうふうにできあがってくる。
だから現代の消費社会というのは無駄が膨大にありゴミをだしつづける。
それは自然の資源も無駄に消費する社会である。
原発もやはり核のゴミをだしつづける。それはプルトニウムだったら二万年消えないとかなる恐ろしいものだったのである。

とにかく費やすーつええるーことになる社会なのである。
最終的には現代の社会は文明はあらゆる資源を費やして遂についえる社会になる。
二十世紀とかは本当に膨大なの地球資源を消費した異常な社会である。
それは人間すら戦争で膨大な命が費やされてついえた社会なのである。
資本主義であれそれは何か現代では異常化している。
資本主義が修道院からはじまったというとき消費ということは頭になかった。
資本の蓄積をするプロテスタントシズム、勤勉にして神に仕えるということから資本主義がはじまったとなると消費という無駄に費やすということはなかったのである。

ともかく現代文明は科学技術文明でも核兵器や原発でもその頂点に達して崩壊する危機に直面している。現実に原発事故周辺は文明が崩壊した場所となってしまったのである。
だから文明の転換が望まれるし新たな文明の創造が望まれる場所にもなるしただ文明の廃墟として捨てられる場所にもなりうる。
つまり費やされついえた場所にもなるのである。

南相馬市鹿島区の最近の状況 (除染の作業が延々とつづく)


南相馬市鹿島区の最近の状況


(除染の作業が延々とつづく)


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ここは杉林だった、かなり切られてしまった
木でも飯館だと3マイクロあったから木の汚染もやっかいなのである。
木を切らないといつまでも放射性物質は減らないからである


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小池の仮置き場は広い、これもいつまでも置くようになるのか?
景観の破壊でもある

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ここに切った木を集めたのか


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牛舎は壊されるが多い


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これもいい風景ではない

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この家には古い蔵があった


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堀で4・1だから高くない

堀は泥にたまっていると思ったがそうでもない

まず堀から除染している

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田んぼの中もこの辺は低い

道路では0・2以下である

でも室内でも0・2とかあるから放射線量は変わらない面もある

ただ外では前からすると半分くらいに減っている



南相馬市で米の作付け面積が鹿島区で6倍にふえたとか全体でも増えている。
ただどれだけ収穫されるか不明である。土地が放置されて荒れているからだ。
元通りの収穫は望めないがいつまでも荒地にしておくわけにはいかない
米を販売することも許可するようになった。
今も除染しているが堀で0.4とか田んぼの中で0・3とか低いと思った。
堀は泥がたまり高いと思ったからである。
もともとこの辺は田んぼでも0・5くらいしか最初からなかった。
ただ山の方になるとどこでも高くなる。
まず堀から除染しているがその土の量が膨大になるのだ。
だから借り置き場がそちこちにある。

そしてその土を運ぶにしても量が多いからひっきりなしにダンプが通る
そういう点で落ち着かない場所なのである。
それからソーラパネルがところどころあり何か田舎の景観を乱していいものではない
これはここだけの問題ではなく全国的にソーラーパネルがふえたのである。
これの問題は景観を乱すことなのである。
その良い例が農家の前にソーラーパネルがあり古い土壁の蔵があるというアンパランスな景観となっている。
何かこれは田舎的景観ではないのである。
ともかく南相馬市まで除染作業しているが隣の相馬市になると何もしていない
これも変だなと思う、なぜなら相馬市でもそれなりに放射線量は高いからである。
さほど変わりないということもある。
南相馬市までは補償金をもらったが相馬市になると全くもらっていないから損なのであるそういう不満は福島県全体にある。

いづれにしろこの辺が落ち着くのはもっと先である。5年後とかになるかもしれない
それまでは外部の人の出入りがありにぎわっていることにはなる。
食堂なんか作業員でこんでいるからである。
スキヤは自給200円でも集まらない、どこも今は全国的にも人手不足なのである。

 
タグ:除染
posted by 老鶯 at 13:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連