2015年03月06日

木の幹 (具象画から具象画をイメージて作り上げる)


木の幹


抽象画から具象画をイメージて作り上げる

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ゼンマイ

これもインターネットにあったものを変化させた。だからまた見つかれば著作権違反かもしれない、外国のアメリカのものだからまずインターネットではわからないということがある
これが著作違反だと指摘されたことがないからだ
そもそもこの抽象画はインターネットから生まれたart(技術)なのである。
創作というより技術なのである。
要するにソフトを使って変化させることでありそれは元の絵があってできる
その元となる絵がインターネットには無数にある。
だからこれ面白いから変化させてみようとなり変化させる
するとそれらしいものができる

ただ抽象画でも具象画をイメージして作為的に表現しようとしている
これは変化させたらゼンマイに見えるし極めてゼンマイのように生き生きとしたものになった。
つまり具象画をイメージしないと抽象画でも鑑賞できないということがある
これはゼンマイだなと思うとき生き生きとしたものに見える
他でもこの抽象画は何を現しているのかと見ていて苦慮する
すると何か生き生きと見えないのである。

もう一つはこれは変化させているから元の絵からは推測できない
ただここでも幹を作るために故意に作り上げたのである。
最初は抽象画だがその一部を切り取りこれは幹だな見えたので幹を作り上げる努力をしたのである
それをまたフォトスケッチャーで変化させると違ったものに見えてくるのである。
つまりパソコンだといくらでも変化させることができるのである。
タグ:木の幹

椿は海に映えて咲くもの (津浪の跡の海老浜に椿が映える)



椿は海に映えて咲くもの


(津浪の跡の海老浜に椿が映える)

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朝の海光り百輪の椿映ゆ
百歳を生きて幸あれや梅開く

石一つ津浪の跡に残りつつ船行く遅し春の海かな



   川の上うえのつらつら椿つらつらに見れども飽あかず巨勢の春野は (56)
吾妹子(わぎもこ)を早見浜風大和なる吾待つつばき吹かざるなゆめ
   巻一 七三 長皇子
   
あしひきの 山海石榴咲く 八つ峰(お)越え 鹿(しし)待つ君が 齋ひ妻(いわひづま)かも 
巻六 一二六二 詠人不知 
   
   
ツバキは典型的な照葉樹であり、わが国では東北南部までの照葉樹林帯には普通に分布し、海岸地方だけでなくかなり内陸部にも自生し、所々に大群生が見られる。ツバキの材は堅く丈夫なので古くから利用されてきたが、考古学資料としてもっとも古いのは福井県三方五湖の縄文遺跡鳥浜貝塚で発見された漆塗りの櫛(くし)で約5000年前のものと推定されている。鳥浜貝塚からツバキ製の石斧の柄も出土しているという。前述したように、ツバキの実は良質の油脂に富み、古代では中国への主要な朝貢品の一つであった
http://www2.odn.ne.jp/had26900/topics_&_items2/on-tsubaki.htm

『隋帝国』第二代皇帝で詩人・文人でもあった煬帝(在位604年〜618年)が遣隋使の小野妹子が献上した椿を見て『海石榴』と名付けた。それは、基本的に内陸に文化の中心を持つ漢民族にとって海は辺境であり、椿が異国の更にその海を越えたところから持ち込まれた赤い花を見て感嘆し、同じ赤い色の花をつけ、当時の中国人がこよなく愛したとされる石榴(ざくろ)の名をとって、詩の中に『海石榴』と漢名として初めて使われたという
これは、景行天皇が熊蘇征伐後、豊後(大分県中南部)に凱旋したとき土蜘蛛(つちぐも)を討つ話しで、ツバキの木を武器として槌を作った処を海石榴市(つばきち=大分県大野郡)と名付け
http://mitsusima.jugem.jp/?eid=460

ツバキは北海道を除く日本列島に、本州から四国・九州をへて琉球諸島まで自生する。ツバキ自生の北限は、本州の最北端、青森県は陸奥湾に突き出した夏泊半島の椿山である。この北限の椿山については伝説があり、「柳田邦夫全集・第12巻『豆の葉と太陽』」(筑摩書房)は次のように紹介する。


 昔この湊に往復して、木材を西に運んで居た船の船頭がこの土地の婦人と馴染みになって居りました。
或年の出舟の別れの日にその女が申すには、貴方の御国では椿の実の油を用いる故に、女の髪がいつ迄も黒く艶々つやつやとして居るということを聞いて羨ましいと思います。どうか来年はその椿の実を持って来て私に下さいと謂ったそうであります。船頭は快く承諾して約束をしましたが、何か故障があって次の年も、又その次の年も津軽には来ませんでした。
 三年目の同じ頃に、約束の椿の実を船に積んで、男は小湊へやって来たのでありますが、もうその時には待兼ねて疑い且つ恨んで、海に身を投げて女は死んでしまって居たと申します。そこでこの岬の山にあった女の墓に参って来て、その椿の実を墓のまわりに播き散らして往いったのが、後に是だけの椿の森になった のだと伝えて居ります。



  
 古代、人が約束の言葉を交わすとき、ツ(唾)の神が出現すると信じられた。「日本書紀」にも、こう記す。
時に、イザナギまた慙はぢたまふ。よりて、出で返かえりなんとす。時に、直ただに黙もだし帰りたまはずして、盟ちかひて曰のたまはく「族うがら離れなむ」とのたまふ。また曰はく、「族うがら負けじ」とのたまふ。すなはち唾つはく神を、号なづけて速玉はやたま之男のおと曰まうす。  [ 神代紀・上・第5段 ]
 http://www.ctb.ne.jp/~imeirou/soumoku/s/tubaki.html
 
 津浪で村が消滅した海老浜には今は椿が咲いていた。その椿は今までは家があって隠されていたので気づかなかった。かなりの数が咲いている。
 海老浜は前はシャリンバイの自生する南限の地として有名だった。
 椿というのも南の植物である。だから海に映えるのである。
 海にふさわしい花なのである。
 
 ただ万葉集は奈良が中心だから山に咲いていて歌われていた。山海柘榴という表現があるのはまず海柘榴があり山を加えたのである。
 
 基本的に内陸に文化の中心を持つ漢民族にとって海は辺境であり、椿が異国の更にその海を越えたところから持ち込まれた赤い花を見て感嘆し、同じ赤い色の花をつけ、当時の中国人がこよなく愛したとされる石榴(ざくろ)の名をとって、詩の中に『海石榴』と漢名として初めて使われたという
 
 中国にとって海はなじみがない、それで椿に海をつけて名前にした。石榴はシルクロードを通じて入ってきた植物である。ここでシルクロードとの交わりが見られるから興味深い。ただ椿にこれだけの交流の歴史があるとは思わなかった。
 
 照葉樹林文化に共通する物質文化は以下のようなものがあります。水晒しあく抜き技法、発酵茶、絹糸虫の繭からの製糸、漆器、柑橘シソ類の栽培、麹発酵酒、納豆などの大豆の発酵食品、ナレズシ、コンニャク、雑穀稲のモチ種、オコワ、チマキ、モチなどのモチ性の儀礼食品、高床の吊り壁、雑穀イモ類の混作焼畑、山の神信仰、歌垣や鵜飼の慣行、天の羽衣説話、死体化生神話などです。

照葉樹林文化というときイワキの波立薬師のある海岸にはツワブキと椿が咲いてそれらしかった。ツワブキは海岸地帯に自生する。
キク科の多年草。海岸近くに自生。長い柄のある葉が束生し、葉は腎臓形で厚く、上面は光沢がある。10月ごろ、花茎が約60センチ伸び、黄色の頭状花が多数咲く
これは秋に咲くのである。
いづれにしろ椿は日本では親しみのある花であり海岸地帯を起源としている。
ただ奈良時代に万葉集が作られたから山に咲いているのが多く歌われたのである。

津浪では海岸の景観が変わってしまった。見晴らしが良くなった。
津浪の跡はいつまでもあのつまにしていいのかともなる。ただ四年すぎても悲しみは変わらない
だから何か手を入れるにもまだ土地の所有者がいるのだからむずかしい。
ただいづれ整地して公園のようなものにするほかないだろう。
他ではそういう計画がある。

インターネットはこのように編集しつつ書くのである。つまりインターネットには情報の集積がありそれをいながらにして検索できるから情報社会なのである。
図書館ではなかなか検索などできない、本でもできないことが編集するのがむずかしい。「椿」というキーワードで知識が広かり編集できるのがいいのである。

 
 

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復興のビジョンとしての田園都市の形成 (復興だけではなく新しい価値の新創造へ)


復興のビジョンとしての田園都市の形成

 
(復興だけではなく新しい価値の新創造へ)


●人口増減の法則性

技術から情報へ、経済から文化へ、ハードからソフトへの比重が移ります
こうして二十一世紀のわが国では経済のあらゆる分野で「意味」や「文化」、つまり「コトバ」や「デキゴト」の「コト」のしめる比重が急増していくことです
(日本はなぜ縮んでゆくのかー吉田隆彦)

この本では人口増減には法則性がある。石器時代でも技術革命があり前期で後期では後期が人口増加しいる。それから縄文時代から稲作が普及した弥生時代でも飛躍的に人口は増加した。技術革新が人口を増やすのである。
江戸時代は大開墾開拓の時代で人口が増えていった。それが幕末辺りで飽和状態になり停滞した。
その時明治維新になり日本の工業化がはじまった。富国強兵であり太平洋戦争で三百万人死んでも焼け野原になっも復興したのは日本では工業化されていなかったからである。
経済成長する余地が十分に残されていた。
戦後十年は何度も言っているように炭が燃料であり水道もないし洗濯は近くの小川でしていたのだから江戸時代さほど変わらない生活だったのである。
道も舗装されていないし何もないところからはじまった。
その時団塊の世代が生まれた。人口が爆発にふえたとき養えたのは日本では工業化する発展する余地が残されていたからである。
経済成長る余地がありそれで高度成長になったのである。
つまりイギリスからはじまった産業革命が世界の人口を増やして日本の人口を増やしたのである。
だから人口増減には法則性があり上昇期と下降期がある。

今は下降期に入っているからその変わり目の現象が起きている。
下降期には新しい時代へ向かう模索期間であり成熟社会になり価値観が変わるのである。外面的拡大から内面的な価値観へシフトする。情報社会とはまさにそうである。
これからの時代は高度成長時代とは違う。物はあふれているしインフラも整備されている機械化も進んでいる。その中で何が価値が出てくるかは自ずと違ってくる。
つまり文化の時代になる。新しい文化創造の時代になる。
自分が主張していた国風文化の回帰なのである。
文化とはその国の風土とか歴史とかに深く根ざしたものでありそれは国ごとに違っているからである。
中国人も今は爆買などと言っているがこれからは日本の文化的なものを求めて観光に来るようになるだろう。
そもそも欧米に日本人が旅行しても買うものがない、何を買うのかと言ったら文化的なものになる。一番わかりやすいのは芸術にふれることなどである。

●文化の時代の田園都市形成

風土(地形)ー第一次産業
歴史(historyーstory)
都市の形成(商業、工業)

風土というとき和辻哲郎の風土論は有名である。ヨーロッパなら牧場的風土とか中東は砂漠的風土から一神教が生まれたとか風土論から文化文明を見る。
牧畜文化が都市文明を発達させたとか稲作文明が仏教的な物の見方を作ってきたとかある牧畜文化は移動文明でありユーラシア大陸を移動して今のシリア辺りに到達して海洋民になったという説もうなづける。
シリア辺りは文明の十字路だったのである。だから最古の農業が開始されたという。
遊牧民が都市を作ったというとき牧畜民には遊牧民には動物を率いて治めるというのがありそれが人間にも適応されたのかもしれない、なぜなら奴隷制とは人間を家畜化することであるからだ。
そういう発想は農耕民には稲作民にはないからだ。
田園都市というとき大都市の郊外のような所をイメージする、田園都市線などがそうである。それは大きな都会化した田園都市である。
この辺はそれとも違っている。五、六万であり規模的には小さいからである。
だから田園都市という言葉は何かそぐわないかもしれない、在地都市とか自然からまさに自然に成長した城下町的イメージがある。

外国の田園都市は商業がまずありそのスケールも大きいから日本とは違っている。
大陸はもともと交通が発達してネットワーク社会が発達していたのである。
川が運河のように交通路になったこともある。
ヨーロッパは川が交通路となって商業都市と発展したのが多い。
大きな川があり運河となり地中海も貿易の海となりやがて大航海時代となった。
そういう地理的風土がヨーロッパを形成して世界へと波及したともなる。
田園都市は封建時代の城下町のように自然生成的都市と大都市の郊外型田園都市がある。それは近代的田園都市である。
この辺の田園都市の形成は相馬藩があり六万石でも自然生成した田園都市構想になる。

歴史(historyーstory)がある、物語がある田園都市である。
ただ会津藩とか伊達藩に比べると規模が小さいか大河ドラマになるようなものがないのが残念である。
ただ規模としてヒューマンサイズであり地理的にも一体感がもてる土地なのである。
自転車で一日で行ける範囲にあるからだ。
その地理でも海があり山があり川があり複雑なのである。
飯館村まで相馬藩であり飯館村は気候的にも環境的にも相当違った高原の山の村なのである。
それが原発事故で消失して葦が繁る原野になってしまった。
あのままにしていると元の森にもどる。原野化したところはやがて日本では木が生えて森になるのである。だからそこは鬱蒼とした原始の森に還ってしまう。
相馬藩内では双葉とか浪江とか飯館村でも消失するという衝撃が大きかった。
そこが元の原野に森にもどってしまうというのはどういうことなのか?
そこにはもう村は復興しないのかとなる。

●津浪の被害地が復興が遅れているのはなぜか

気仙沼辺りではインフラ整備、土木工事で高台を作っているがそこに住む人がいないという。復興住宅でも家賃が高いから入る人が少ないとか問題が出ている。
公共事業のように道路を作り高台を作り防波堤を作っても住む人がいなくなる
これは上から国が計画して下におしつけているからである。
インフラを用地を確保したからここに住んでくださいと言っても住民の要望を無視したものだからそうなっている。
公共事業は地方への中央からの金を分配するだけで実際は地方では無駄なものとしてあったのも多いからそれとにている。
やたらと道路を田舎では作ったのもそうである。
そんなに道路が必要なのかというのも疑問だった。
それは必要だからしているのではなく土木関係者に仕事を与えるためだということもあった。
だからそれと同じ方法で上からのおしつけで復興しようとしてもそれはそこに住んでいる人の要望に合わないのである。

要するに津浪からの復興であれ原発事故からの復興であり簡単には解決しない複雑な問題なのである。
それは何か新しいものを創造することが要求されている。
今までの発想では継続でも復興できない、というより何か大きな変革が要求されている。そういう根本的変化を強いられるから簡単にその解決方法が見つけられないのである。
今までの継続があってもいいがそこに新しい発想が強いられている。
津浪の跡には何もない更地になったとき、何か新しいものを作るには向いているからだ。それがただ高台を作りそこに住んでくださいといってもそこに住む人は住みたくないとなれば住民のニーズにあっていないのである。
住民はかえってもうそこに住むことをあきらめ流出している
すると上からの公共事業だけが残り住人がいないとしたらそこは何なのだとなってしまうだろう。

いづれにしろ日本は戦後七十年で外向的にもアメリカの植民地支配から離脱する時期にもなり憲法が問題になったり今回の津浪や原発事故で変革の時期に入った。
それは大きく見れば新しい文明の模索時期になったのである。
この辺の田園都市構想にしてもそれが簡単でないのはそのためである。
田んぼがない世界がイメージできないということがまさにそうだったのである。
ただ原発事故周辺はうまくいけば文明変換のモデル地域ともなるか可能性がある
一方でマヤ文明やインカ文明のように森に埋もれたり衰亡してゆく地域にもなる。
ここはそういう模索地帯なのである。
だから学問というときただ現実とは離れて理想郷を求める、でもここではまず現実が改革することを強いられている。
だから学問でもそれが現実的なものとして志向されているのである。
机上の学問ではない実際の学問として適用されることが求められているのである。
まずとどういうビジョンをもつかということが学問でも要求されている。
それは学問でもこの現実の場で適用されねば意味がないとなっているのだ。
自分が探求しいるのはここの現実から離れてありえないのである。

●復興だけではない新しい価値の新創造へ

歴史は逆戻りしない、元の時代へは戻れない、炭や薪を燃料として電気なしの生活はできない。
自然エネルギーの利用とか違ったものになる
復興というとき元と同じ状態の復帰という感覚である。
でも実際元と同じには津浪の被害地域も原発事故の周辺もならない
田がなくなったら田園都市がありうるのかという前のテーマで言ったことなのである。
田がなくなったものを埋めるのは何かというと前あった田とは限らないものとなった。
一時ひまわり畑になったのも一時的でもそれも新創造の新しい風景だった
戦後七十年とかは本当に外交でもアメリカの植民地支配から脱却する時期だとか変革を強いられる時代になったのである。
沖縄の基地問題と原発問題は相似している面があったからである。
アメリカの植民地支配として共通な面があったからである。

戦後七十年は憲法改正が話題になったように大きな変わり目にあらゆるものが直面している
人口が減少してゆくというとき工業社会が成熟した結果であり高度成長も日本は終わり
別な価値を求める時代になった。それは何なのかわからないにしてもそういう新創造の時代に突入したのである。
これは津浪や原発事故周辺に先取りして現象化したのである。
だから学問も机上の学問ではない、実際に有効に現場で働く学問なのである。
新しいビジョンを提示するのも学問の役割になる。
それが実際に現実化しないものなら学問は遊びだとなる
要するに新しい価値創造が学問にも求められているのである。
それは科学の時代だから科学だけに求められているようでも文系など役に立たないと言われても文系でも現実の場にたコミットする
科学だけではない総合力としての学問としてコミットすることが強いられているのである
そもそも津浪でも原発でも科学だけではどうにもならない総合力として対処するものだった。郷土史なとど原発に何の関係もないように見られていたが四百年前に相馬藩でも七百人津浪で溺死した記録があっても無視されていた。
それから原発事故の原因を探求してきたがそこに科学だけの問題ではない
何かモラル的な問題もあった。東電であれ政府であれ「安全神話」を権力で作り出した
傲慢さがあった。
権力の一方的乱用の結果として事故が起きたこともあった。
そして文明史的にもなぜ原子力が生まれたかというとそれは文明がこれだけの増加した人口を養うのには原発に頼るという人間の限界を越えたものでも利用するという危険に追い込まれていたともなる
それが破綻してマヤ文明のように神殿は放置されて森に埋もれた。
そこにおびただしい生贄の犠牲者が埋もれていたのである。
それまた何なのかとなる。文明の生贄だったのである。
それは石油が欲しくて戦争もしなければならない犠牲者とにているかもしれない
原子力のために故郷に住めなくなった人たちの犠牲ともにている
ともかくこの辺は文明の終末的現象が起きて次の新しい価値創造の文明文化が求められている。
それが何なのかはわからないにしろそういう模索がつづく場所なのである。
それは新しい価値の新創造の場所なのである。



タグ:復興
posted by 老鶯 at 05:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連