2015年03月01日

原発事故で福島が東京の犠牲になった (事故を想定して福島に作った)


原発事故で福島が東京の犠牲になった


(事故を想定して福島に作った)


原発では盛んに東電は政府は事故を想定していないと言われた。でもよくよく考えてみると事故を想定していたから東京から離れた福島にわざわざ送電線で不便で金がかかっても作ったのである。
東京にも作れたがあえて作らなかった。東京だけは守らねばならない、事故になったら東京が終わりになると想定していたのである。
安全だったら東京に作るのがコスト面でも一番適地だったのである。
東京の電力を東京で供給するのが理にかなっている。
なぜ福島にもってきたのか?
それは事故を想定していたからなのである。
まず事故が起きても東京には影響が及ばない地としてフクシマが選ばれたのである。
原発が安全だったらそんなコストのかかることをしない
だから東京に原発を建てるべきだとした本が出たのは今になると理にあっていた。
その時はそれはSF小説のように見られていたのである。
そもそも原発については広く議論もされず政府主導で計画され実行されたのである。
湯川秀樹博士が原発のことで相談したらまだ時期が早いとして反対したことでもわかる。まだ日本はその技術について未熟だったのである。

それをあえて日本に作ったのはアメリカの意向もあった。アメリカは日本の風土とか外国だからその安全を真剣に考えていなかった。
ところがアメリカでは真剣に考えていたから西部の方には原発を作らず地震の少ない東部に作っていた。その安全管理も進んでいたのである。
結局他国のことになると無責任になるのが常である。
それで尖閣諸島でもアメリカは日本を守らないと言われる。
中国に日本が勝てるなどあおっていてアメリカはいざ中国と戦争となったらただ外部から見ているだけでかかわらないという。
本当に日本を守るのは日本しかない、戦争でもそうだけど原発のような危険な技術でもそうだったのである。
他国は真剣に安全のことを考えない、それで古い型のマーク1を売りつけたのである。
それが事故の基になったということもある。
アメリカの責任もあるのだがそれは日本が受け入れたから悪いとなるだけである。

核兵器のことでは国民的議論になっていたが原発は平和利用であり原水協ですら原発には賛成していたのである。
原発は国民的議論にもならず一部の指導的な人たちによって作られたのである。
それは読売新聞社長だった人が日本テレビで原発を推進させる宣伝をした。
原発が安全だという宣伝をしたのである。
その後中曽根首相などがかかわり原発は50以上にふえたのである。
福島県の渡部更三もアメリカのGEと関係して積極的に誘致にかかわったのである。
まず安全神話が作られて国民的議論にならず秘密裏に原発が作られたのである。
だから指導者に原発を作った責任が一番あるということは言える。
それにのっかって利益を得ようとした住民にもあったがやはり原発に関しては良くわからないからそうなった。
それでも巻町のように反対して建てさせなかったという町もある。
それは例外的なものでありほとんどは地元では金になると賛成したのである。

ともかく原発は危険なものだということをしりえなかった。それは支配層によって隠されていたのである。危険だというと検察まで動いてその口を封じていたのである。
原発が安全なら東京に作ればいいということは本当に今になると正論だったのである。
そして東京に作った方が安全だったという皮肉があるのだ。
東京湾は津浪をそぐ地形でありフクシマのような大きな被害にはならない
ただ大きな地震はわからない、津浪に関してはそうである。
それより東京に原発を作ることはまず左が反対するからてきないということがあった。
フクシマなら建てられるという見通しがあり建てたのである。
原発の危険性は東電でも承知していたから東京には建てなかったのである。

福島県でも広いから原発の危険性に関しては誤算があった。

その後小選挙区となって、何故か浜通りと中通りと地域差が激しいのに
相馬地域と福島市が同じ選挙区になった。
選挙では人口比率で福島市に首根っこを押えつけられる結果となっている
福島県は広いから地理的一体性がない、福島市と相馬地方が同じ選挙区にすることはわかりにくいのである。地理的に不自然なのである。
そして福島市は東京と同じように原発は離れているから安全だと見たことはありうる。
それが放射性物質が福島市まで風で流されてかえって南相馬市よりも高い地域になったのも天罰だったのかともなる。
原発事故については誰もその危険性を予知したりするものがいなかった。
ただ科学者なら爆発したらメルトダウンしたどうなるのか想定はできた。
それをしないのは「安全神話」作りその原発関係者もそれで安心していたのかもしれない、自分たちで安全神話を作り安全だと思い込むようになった。
これは科学者が集まっているのには科学的ではなかったのである。
人間は純粋に科学的だとか合理的になれない、科学が何か迷信になったりするのもそのためである。百万年に一回しか事故に起きる確率がないというのもそうであった。
その時千年単位で起きた津浪のことを警告していたが聞かなかった。

要するに「安全神話」は願望にすぎずまさに科学的でないからこそ事故が起きたのである最初に「安全神話」を作り次にコストカットに走る。
原発は誰の責任かと問われると武田邦彦氏などは政府や東電にあったと言っている。
それは国民的議論にもならず秘密裏にすすめられたからである。
民主主義が何でも情報を公開して議論してすすめることだがそさをしなかった。
最初から権力によっておしすすめられた。
それで地元の人も責任があったにしても一番責任があったのは指導的立場にある人たちだったとなる。
そうは言っても巻町のように素人でも原発のことを知り原発を建てさせなかった自治体もあったのだからそれと比較すると住民に責任がかなりあったことになる。
つまり止めることもできないことはなかったからである。

武田邦彦氏はこれだけの事故があってから今度は住民は住民エゴで原発を建てたら責任とれというのも正論なのだろう。
その一地域の利益のために広い範囲も被害を受けるからである。
それなのに双葉とか大熊では原発を再稼働しろと言っているのだから全然反省もしていないのである。

福島・大熊町長が再稼働問題に言及 

性急な脱原発議論には「今も福島原発で作業に従事している町民も相当数いる。雇用確保の面から原発との結び付きは今後も保たざるを得ない」とした。国が進める関電大飯原発の再稼働については「安全の担保と地元住民の合意が前提。政治的事情で手続きが進んではいけない」とした。
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/earthquakeafterayear/33791.html

原発なしでももう町が成り立たなくなっていた。双葉町でも富岡町でもそうである。
でも事故を起こしたら回りの市町村も被害を受けるのだから補償金をもらったらそれを回せとなる。事故後はそういう責任が課せられたというのも正論になる。
これだけ被害が出ることが国民全部が承知しているからそれなのに原発から住民エゴで利益を受けることは許されないということである。
補償金問題では継続して問題にしたけど補償金をもらっていない市町村はもらっている市町村に対して大きな不満があった。
それは南相馬市内でも小高、原町、鹿島で補償金の額に大きな差があったために起きたのである。
それは今度は相馬市とか福島市などは補償金をほとんどもらえないから不満になったのである。
なぜ30キロ圏内だけがもらえるのか実際の放射線量はさほど変わらないからである。
事故が住民が責任あるものとされる。
つまり民主主義は権利とか利益を主張することができるがそれにともなって責任も課せられているのである。
責任を逃れることができないが権利だけを利益だけを主張するということがまだ民主主義が日本では未熟なものとして成熟していない。
ともかくこの辺は様々な問題の場所になったしその問題も簡単に解決しないのである。

 
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posted by 老鶯 at 15:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連