2015年03月25日

補償金で遊んでいる原発事故周辺への批判 (南相馬市も批判されているが誤解もある)



補償金で遊んでいる原発事故周辺への批判


(南相馬市も批判されているが誤解もある)


ちなみに日本で一番ベンツ売れてんのが東京じゃなく福島県相馬市だよ。

なぜかこういう金って身に付かないんだよね。
でもここの住民はそのお金使い切っても
 まだ何か特典がありそう。ナマポ移行とか。
 要はこの人らを金で黙らせて原発利権維持したいんだな。
 政治家が。その金も他人に負担させてるから構わないと。

フィリピンに旅行行ったとき
原発の補償金で現地のホテルで暮して
連日、女を買いまくってる福島の奴に遭遇したな
口を開けば、買った女の話か東電の悪口ばかりの奴だったけど
 あいつに遭遇して、被災者に同情する気持ちが無くなったわ

千日前のアムザで、その日来ていた被災民の方の話を聞いた。
 知らない間に、勝手に500万ものカネが振り込まれたそうだ。
その他にも、ことある毎にお金が振りこまれる、と。
で、京都の府営住宅を被災民に無料で提供してもらってるんで、京都から
 キタ、ミナミに遊びに来る毎日だそうだ。
 復興支援の増税が馬鹿らしくなったね。まあ、可哀想な人もいるんだけど。

30年来のいわき民だけどこれホントの話だよ
病院は激混みで歯医者なんか2週間に1回くらいしか予約取れないし
引っ越そうにも空き部屋が見つからないし家賃も値上がり
土地も値上がりしてるから地元民は家も建てられない
 いわき市の成人は1人あたり72000円くらい貰ったのかな
子供は150万くらいだったと記憶してるけど子なしだからホントそれだけ
景気が良くなったとか恩恵を感じる事もなくただ治安が悪くなり住みにくくなっただけ
文句の一つも言いたくなるわ

開沼博(笑)あたりの御用学者見習いが必死こいて
福島に寄り添え(笑)と偉そうに講釈たれて
国から国民の税金を搾取するキャンペーンはってるわけだ(笑)
勿論、こういう偽善の御用学者連中にも
我ら我々の税金から金が支払われている(笑)
原発利権ほど、美味しいものはないんだよ(笑)

いかに国民の税金を使って、
 原発利権で金儲けに余念がない売国奴が集まるかなんだよ(笑)
結局、原資は国民の金、いかに巻き上げるかなんだから(笑)
原発利権とはそういうものなんだよ(笑)



これは別に嘘でもデマでもない、現実に前に書いたけどは相馬市と書いているけどこれは南相馬市と間違えている。南相馬市と相馬市は原発事故の補償金では全く別々である。
南相馬市でも合併して小高と原町と鹿島に別れた。
この合併したことが複雑化させた。
自分のNTTに申し込んでいた住所が合併前の住所になっていた。
それもおかしなのは南相馬市となっていてそのあとが合併前の住所だったのである。
外から見てもこの辺は混乱している。つまり南相馬市と相馬市は間違えられやすいし
一つの市に見られるということがある。
一見市の名前にしては無難だと思っていたが外部から見た視点に欠けていたのである。

今の時代はまず内部志向だけではやっていけないグローバル化社会である。
自分たちの市町村がよければいいとならない時代である。
現実になぜこんなに原発事故などで外部からとやかく言われるのか?
それは一兆円を越える巨額の賠償金が支払われたためである。
それは邦の税金だから批判される。
そもそも限界集落はなくなった方がいいというときインフラを維持するのに180倍もかかるとか今はなっているからでてある。
昔だったら別にインフラ整備の金も使わない、他に頼らず自給自足で生活していたから外部から何かやと言われることはなかったのである。
自分たちは自分たちでやってゆくで良かったのである。
現実に外部から頼らずに生活していたのだから外部からとやかく言われることもなかったのである。
そして外部からするとまた南相馬市と相馬市とは区別つかない、それで相馬市も損しているとなる。相馬市は補償金をもらっていない、それはイワキ市でも中通りの福島市でも二本松市でも郡山市でももらっていないのである。

南相馬市無いでも外部からみるとみんなもらっているように見える。
でも小高は避難区域になったから住めないからもらっている。それは双葉とか大熊と同じである。
原町区も鹿島区からすると倍以上もらっているのである。
避難した仮設に住んでいる小高区の人たちに対する不満は南相馬市内でも大きいのである鹿島区は一人十万七カ月分しかもらっていない、30キロ圏外でそうなった。
原町区は2年以上もらっている差も大きいのである。
そして小高区の人は医療とか高速代とかも未だに無料であり福祉関係でも優先的にサービスが受けられるのである。
自分かもらったのは二人分で140万である。それでも隣の相馬市はもらっていないから相馬市の人たちも不満である。
相馬市にも避難した人たちが仮設に住んでいるからである。
すると女性はスーバーでいいものをう買っているとか細かいところを見ているしあいつらは遊んで暮らしているとか不満が大きくなっているのはイワキと同じなのである。

南相馬市内でも補償金がまちまちであり津浪の被害者もいて複雑化した。
同じ仮設に住んでも小高の人たちは補償金もらっているからいいとかなる。
鹿島区の津浪の被害者はやはり一人一カ月十万で7カ月分しかもらえないからである。
だから南相馬市では合併前の小高と原町と鹿島に分断された皮肉があるのだ。
その中で30キロ圏外になった鹿島区の不満が大きいのである。
小高の人たちの態度も悪かったこともあるだろう。
全部ではないにしろ俺たちは金はあるんだよとか威張っていたとかなる。
そしてパチンコ通いになり働かないということが不満になった。
何も金があるんだから遊んでいてもいいじゃないかとなるが回りで迷惑になっている場合があるのだ。
福祉関係でもここだけではない、それだけの人が入って仮設に住むとそれを受け入れた市町村では福祉のサービスの人手がたりなくなることがある。
するとそこにもともと住んでいた人たちが迷惑になるのだ。
イワキでは数が多く二万人とか移り住んだとなるとそき影響が市全体に及んだからであるプラスの面もあったがどうしてもそこに軋轢が生れたのである。

だからといって避難区域にされて住めなくなってギャンブルや風俗で遊び暮らしている人が自分は幸福だとはうらやましいとも思わない
そんなことしていてもなんら楽しいかとなるとならないしモラル的に荒廃してくる。
そんな毎日遊んでギャンブルばかりして暮らしていたら子供たちにも影響する。
億の金が入ったりしたら確かに人間はどう使っていいかわからないということがある。
だから飯館村でもギャンブラーになったというのもわかる。
それをうらやましがっている外野もいるがそんなことがうらやましいとは思えない
だから米作りをして収穫した人が喜びにあふれてきたと漁師が魚を仲間でとったとき喜びにあふれていたとかありその仕事に喜びがあった。
その仕事が奪われたこともまた原発事故の悲劇だったのである。
普通仕事をしていることを意識しないからである。

結局金でもめるのはその金の出所が問題になる。
宝くじであたったりしたらその当たった人に対して当たらない人の恨みう受けることになる。なんだあいつばかり得するんだとやっかみがすごいものとなる。
だから宝くじにあたって大金を手に入れた人は死んだりしているし怖いともなる。
もし大金が入ってもパソコンを発明したような人は世間からそんなに言われないのである遺産でももめるのも何かそういうのと同じ面がある。
原発は利権が桁違いでありこんな何兆円もして除染したり補償金だすようなとてつもないものだった。
だからこそみんなその利権に群がったとなる。
事故を起こした後もこれだけ補償金出していることに地元でも驚いている
そんなに金がだせるものかとさえ思う。
いづれにしろ地元でも補償金問題で分断されてしまったのである。
これはこれからも尾をひく、浪江の会社経営している人がお前らたんまり補償金もらっているからと前の仲間から仕事を回してもらえなかったとかなる。
それもひどいとかと思うが億の金が会社経営だとその金が大きい、5億円もらった牧場経営者がいたとかなるからイワキに豪邸でも建てるとなる。
浪江の請戸の人が相馬市の病院で特等室に入り家を建てるとか言っていたのも反感があるだろう。あの人も軽く億の金はもっているからだ。
そういうふうに避難民が原発貴族化していることに反発がある。
俺たちは金はあるんたよと見せびらかしているというのも反発を受ける
一方で肩身を狭くして避難生活をしている人もいる。
それはみんないろいろでありただ遊んで暮らしている人は目立つからそうなる。
人間は掃除しているだけでも労働している人は強い
労働すればなんでも権利が生れる、何もしなければ何の権利も生れないのである。

福島県でも財政が原発マネーが事故後も入ってきて潤っているから宮城県とか他の津浪被害県からうらやまれるのである。
開沼とか本を出して福島県では人口が減っていないとか言っているけどそれはここ五年くらいじゃないか?
そのあとは福島県は衰退するし南相馬市は消滅するとか言われている。
それは十年後とかさらに年数がたつと外部の人が入ってこなくなるからそうなる。
今は何か除染関係でも外部の人が入っているからにぎわっているように見えるのである。

なぜかこういう金って身に付かないんだよね。
でもここの住民はそのお金使い切っても
 まだ何か特典がありそう。ナマポ移行とか。
 要はこの人らを金で黙らせて原発利権維持したいんだな。

そういう人実際にいた,、東京とかまで行って遊びあとは生活保護だと言っていた。
こういう金はやはり身につかない、それでこういう人はまた市の方でもやっかいものになる
それより市全体のイメージが原発事故で悪くなった。
だから何旅行して南相馬市と書く責められるようで外に出るのが怖いのである。
タグ:原発補償金
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光あれ

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月と地球

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蟹座

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火口

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津波


これも変化させたものである。
要するにオリジナルを変化させて別なものにする。
だから著作権違反になるかもしれない
ただこれが極めてインターネット的なのである。
文章でつなぎあわせて創作のようにもできるからである
パソコンの抽象画は変化しやすいようにできているのである
タグ:地球

2015年03月27日

ジャーマンウイングス機墜落は副操縦士が故意に機体を破壊させようとしたものだった (原発事故ともにていた密室化された操縦室の危険)


ジャーマンウイングス機墜落は副操縦士が故意に機体を破壊させようとしたものだった


(原発事故ともにていた密室化された操縦室の危険)


人間の世界はどんなことしたって万全な安全は計れないことを今回の飛行機事故でも事件でも示していた。
飛行機を操縦している人に問題があったらお手上げになる。
外からの侵入は防げても内部の人だったら防ぎようが無い
だから人間は完全な安全は計れない、いくら計ってもそこに落とし穴があり意外な結果で事故が必ず起きているのである。
それは日常的にも起きている
自分の母親は危険なことなどしない人だった。
家にいれば安全だと思うのが普通である。
ところが水害になって水が家まで入ってきて米をもって逃げようとして炬燵の穴に落ちて骨折したのである。
つまり家にいても人間は安全ではない、地震も来るし津浪も来る
泥棒も入ってくるしどこで事故事件にあうかわからないのだ。

原発の安全神話というのはだから人間のこれまでの経験から見れば絶対な安全などないことが計れないことがわかるはずだった。
ではなぜそんな安全神話ができあがったのうかというとそれは原発にかかわるものが権力化していたからである。
それ5は危ないんじゃないかと実際に福島県の前の知事が指摘していたのである。
でもそんなことを聞く耳をもたなかったし無視できた権力かがあったからである
そして科学の専門家によって閉鎖された世界にもなっていた。
現代は専門家によってもう素人は口出しできない社会になった。
お前らごときが原子力のことなどわかるかと言われればそれまでである。
それは医療の世界でもそうでありどこでもそうなのである。

今回の飛行機事故をみても操縦室は二人とかの密室で行われている。
乗客も他の乗務員でもかかわれない、すべては二人にまかせられる。
そこで一人が意図的に墜落することを計った。
それはどうにも防ぎようが無いのである。
良くバスだと暴走したのを見て乗客がハンドルをきって操作して助かったことがある。
それは地上であり危険が乗客にもわかったからできた。
まず飛行機では急降下しても気づかないのである。
墜落寸前になって気づくのだという。
つまり乗客には何ら危険を察知することもなにもできないのである。

そのことは原発でも同じだった。
原発と地元の人たちとは完全に切り離されている
そこは密室化した空間であり地元の人たちが入れない
ただ許可を得て原発で働く人はいても肝心な操作する室内には入れない
そして原発のことを全部知り得る人間はいないという。
それだけ複雑なものとなりコンピューター制御で動かしている。
今回の飛行機事故も実際運転しているのはコンピュターであり
コンピュターの方が正確であり自動運転していたのである。
人間は補助役である。
だからコンピュターにまかせていれば事故は起きなかった。
人間がかかわって事故が起きたのである。
つまりコンピュターでいくら自動運転して事故が起きないようにしても
人間が最終的に運転するものとしてかかわっている限りその人間が事故を起こす原因になるから事故は起きる。
人間がかかわるかきり事故は起きるのである。

原発だって人間が最終的には判断して動かす、その人間が原因で事故は起きるのである。意図的に原発事故を起こすことも今回のようにできるのである。
だから本当に飛行機が密室で二人だけの操縦者でしきられあとは誰も入りこめないとなると安全面でこれも怖いものだと思った。
一人が何かの病気で倒れたならいいが意図的に爆破させるとか墜落させるとか計られたら防ぎようが無いのである。
「みんななんとかしてくれ」と乗客に叫ぶこともできない
その二人にまかせきりだからである。
原発にもそういう危険性があった。
原発の回りものは誰もかかわれないようになっていたからである。
テロで飛行機も爆破されたりしたから厳重なテロ対策で操縦室に入れないようにしていたそれが裏目ともなり事故が起きたのである。
だから人間は事故を完全に防ぐことはできない
それで原発のような危険なものは一旦事故が起きたら今回のように親類破滅までなるからやめるべきだとなる。

ともかく飛行機は乗客と操縦室が分離していて操縦室のことは何が起きているか全くわからない、そこに二人しかいなかったので一人が意図して墜落を計ればできたのである。
それは原発でも操作する人たちとそこの住民は分離されている
何を操作しているのか?中がどうなっているのかも全くわからない
何かを言えばお前ら素人にはわからないとか権力で無視できる
飛行機内も操縦室は密室化して誰も入れないのである。
テロ対策もあったが今度はそれが裏目になったからいかに完全な安全など計れないかわかる。

結局人間に完全な安全など平和時でもない、いつ交通事故にあうかもしれないし、家にいても地震であれ水害もあるし津浪もある
また家にいても泥棒は入ってくるし強盗だって入ってくる。
都会だと道を普通に歩いていてもさされることがある。
ただ飛行機は一度に大勢が死ぬから怖いとなるが交通事故の方があう確率が格段に高いのである。
だから乗り合わせた人たちは不運だったとなってしまう。
原発事故の場合は不運ではすまされないものがあった。
そこに住めなくなるような広範囲な大被害になったからである。

まず完全な安全を計るなら飛行機に乗るなとか車に乗るなとかなる
原発の安全は原発を作るなとなるべきものだった。
いづれにしろ便利なものには危険をさけることはできない
それは宿命としてそうであり人間の力では防ぎようが無いのだ。
それで「安全神話」というのがこれまでのことを人間の歴史をふりかえれば
ありえないことでありそれが通っていたこと自体問題だった。
権力化して奢りとなっていたために起きた事故だったのである。

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2015年03月28日

ジャーマンウイングスの旅客機墜落事故、副操縦士が故意に墜落させた可能性 (事故は人間が完全でないからなくすことはできない)


ジャーマンウイングスの旅客機墜落事故、副操縦士が故意に墜落させた可能性

(事故は人間が完全でないからなくすことはできない)

 
アンドレアス・ルビッツ副操縦士は女友達との関係で難しい状況に直面しており、これが旅客機を急降下させ山に激突させる行動に
 つながった一因ではないかと同紙は報じている。この女性の名前は明記していない。
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NLUKIL6TTDSG01.html


何か事故を起きる原因には共通性がある。韓国でのフェリーの事故もそうだった。
もうけを出そうと無理をして船を改造したりしていた。
原発事故でも清水社長がコストカッターでのしあがったというのもそうである。
今回の飛行機事故も安い航空会社でありパイロットを安くしようとしたとか
解雇できないとか言う人もいる。
何かコストカットするとどうしても安全面はないがしろになる。
安全に金をかけるともうからないからである。
でも一旦事故が起きるとその影響はあまりにも大きいものとなる。
会社の存続さえあやうくなるから安全対策しないと命取りになる。
でも韓国のフェリー事故でも今回の飛行機事故でも原発でも同じように
コストカットが優先され安全面がないがしろにされたことでは共通している
ただパイロット自身の人間的管理までは行き届かなかった。
人間が一番危険でありそれは会社でも管理できない
機械は管理できても人間は何か必ず不測の自体が起きるし予測もできない
だからかえって飛行機は自動運転の方が安全だとまでなる
人間は完全に管理できないからである。
 
それは人間の心を管理できないと同じである。
人間には悪意とかいろいろな恨みとか心にあってもそれは見えないからである。
このパイロットもまだ27歳で何かと動揺していた。
それは女性問題もあったようだ。
そういうことはパイロットの技術問題と関係ないのだがそうした心の問題も影響してくるだから理系だと技術者だとそんなめんどうな人間関係のことなど関係ないように見えても関係してくる。
医者でも手術するとき何か悩み事などかかえていると動揺して手術がうまくできないとかあるかもしれない、人間は機械ではないから感情的な面とかいろいろ精神に作用するからである。
感情がたかぶっいると車でも運転すると事故になりやすい。
だからどうしても人間は事故がさけられないのである。

また事故でも犯罪でも一つの原因では起きない、様々な複合的要因がかさなり起きてくるテロからの安全を計るためにドアをあけられなくしたのも裏目にでた。
実際自分の金庫も暗証番号を忘れて開けられなくなったとかそうした不都合が常に起きてくる。完全な安全はありえないのである。
思わぬ所に落とし穴があり必ず事故が起きる。
だから事故は宿命的だとかカルマだとかまでなるしそう考える人も多いのである。
なぜ事故が起きて死んだのかとなるとその人のカルマだったともなる
不運だったとなり運命論にまでなる。
実際自分の兄弟の一人は事故で死んだが父親が違うがその父親も事故で死んでいたのである。二代して事故死んだのはなぜだろうとなる。
事故のカルマがあり事故で親子二代死んだとなるのかと考えるのも不思議ではない

日本の国土のカルマとして必ず地震とか津浪とか台風とかで被害がある。
津浪は千年単位でみれば日本では起きている。
ただそのカルマを忘れていて大被害になった。
カルマは前世からだとか歴史的カルマがありそれは忘れやすいのである。
だから事故もカルマ論になると事故にあうべきしてあったとかまでなる
今回の事故ではそれにしても一人の鬱病とか女性問題の巻き添えになったというのも
あまりにも理不尽だとなる
ただこの場合でもサッカーチームはたまたま便を変えて助かったとかあり運不運がある。必ず事故でも災害でも運不運がある、この辺でたまたま家族が他に出かけていて助かったという人がいた。
一方で他からたまたま来ていて津浪で死んだ人もいるのである。
それも運不運だとなる。
だから守護霊に守られていれば助けられるとかまでなる。
誰でも60くらいまで生きると死ぬか生きるかとかそういうことを経験している。
交通事故だって歩いていても車にぶつけられるから安全ではないからだ。
自分がこれまで生きてきたのはやはり守護霊の作用があったのかと自分でも思っているのである。
なぜなら自分は何らか死んでもしょうがないことがあったからである。
神に守られたから生きていたとなる。

いづれにしろ事故の責任問題は必ず起きてくる。
人命がこれだけ失ったのだから避けることはできない
原発事故でも原因を追及してきたがその原因は広範囲であり一つにはならなかった
そして誰に一体責任があるのかとなるとそれもわからなくなっている
東電にあったとしても罰せられていないからだ
今回の飛行機事故の原因は誰にあるのか?
副操縦士にあるのか?その一人におしつけてんることができるのか?
会社の管理が悪かったともなり会社の責任もまねがれない
だから原発事故のように複雑ではない
韓国のフェリー事故の場合は宗教団体とか権力化した人たちの悪があり
それは原発事故ともにていた。
「安全神話」を作り上げたのは権力化したからである。
権力化して専門家による密室化して他者はかかわることはできなかった。
もちろん地元の人たちもかかわることはできない、ただ金を与えてそれで地元の人を黙らせていたし地元の人も受け入れたのである。

だから権力が密室化すると危険なのである。オープンにしないと権力をもつことは危険になる。
誰も外からチェックできなくなるからだ。
カルト宗教団体でもそうでありオームが密室化して宗教によって他者の批判を拒むことができた。
信教の自由を犯すのかとなる、それは創価などでも巨大宗教団体はみな同じなのである。権力集団であり権力化組織化した集団は危険な存在なのである。
だからそもそも宗教と権力(政治)が結びつくこと自体危険なのである。
無知な大衆は宗教より権力化した面だけをみる。政治だとその権力を誇示できるからわかりやすいのである。
首相の側にいれば偉いとなり中国の要人と対談すれば偉いとみるのである。
それは韓国のフェリー事故で露骨に現れたのである。
大衆をいかに操作するかということで権力を得る
それが事故にもなってゆくのが現代である。

ただ人間は要するに事故でも不測の自体が起きて予期できないから宗教もかかわる
あいつは事故にあったのは信心がなかったのだとか真面目に言っている。
ところが創価など何百万人もいるのだから事故でも不運に死んでいる人など無数にいる。そういう人をまじかに見ているだろう。
交通事故で死んだり破産したりとか近くで実際に見ている。
創価に入ればもし事故にあわないとなれば誰でも入るのである。
ただそうういことが信じられるのは結局人間は事故ですらそれがさけられず宿命的に起きるからである。
どんなに安全策をとってもやはりまた落とし穴があり事故が起きる
それは人間自身が一番のリスクだからである。

人間は神でもないし完全でもない、だからいくら理系的に優れていても人間的な弱点が女性問題とからでもでてくる。
飛行機は操縦しできても女性は操縦できず挫折して自暴自棄になるとかになる。
事故は不完全な人間のリスクから起きてくる。
だからもうさけられない宿命論にもなる
テロから安全を計ろうとしたらそれが裏目になり安全でなくなったということが象徴している。
いくら安全策をとっても不可抗力に不可避的に事故は必ず起きるものなのである。
それは人間が不完全だからでありそれは永遠にそうである。
だから原発とか飛行機でもどんなものでも事故はさけられないのである。
「安全神話」こそがいかに危険なものだったか反省すべきなのである。
それは権力化して成されたことであったからである。

 
 
タグ:事故の原因
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小高の原発で働いていた人の話(2) (東電の部長と並んで歩いて一目置かれた話)


小高の原発で働いていた人の話(2)

(東電の部長と並んで歩いて一目置かれた話)

前にも聞いたけどてあの人の話は興味深い。戦争についても詳しい。
原発で30年働いていた。でも下請けではないから待遇が良かった。
今のサブドレインとかがありその穴堀りしていたとういう
その仕事をもらったのは何らかの小高の人の関係で東電の上層部と関係がもてた。
何でも工事現場を歩くとき部長と一緒に歩いたら偉い人に見られたとういう。
そこで鹿島建設から仕事をもらうことができたという。
東電の幹部ともなると鹿島建設より上だったのである。
東電の社員は事故前はどこでも偉い人たちだったのである。
事故後は東電社員お断りとかも飲食店であった。
そして鹿島建設は東電より大きい会社だったというが東電が建築関係を受注したから上だとなる。
東電はまた政府と関係していたから上になる

ただ原発は東電だけではない、大手の建設会社や原子炉関係では東芝とか三菱とか日立とか日本の主なる大企業がかかわり総合的なものとして作られていた。
そして建設会社は地方でもそうだが利権になりやすいのである。
だから時の政治権力者がかかわりそこに大金が動くのである。
地方の選挙では奄美大島だったか二つの陣営に別れ争い負けた方には建設会社が受注できないとなり必死だった。
選挙に負けた方には利権が入らないのである。
建設会社がゼネコンが一番利権にかかわりやすいのである。
それにしても東電の部長と並んで歩くだけで東電の幹部のように見られた、特別な人と見られたというのもそれで鹿島建設から一目置かれて仕事がもらえたというのもこれは今でもあくことだろう。
それだけ東電の幹部となれば鹿島建設でも頭が上がらないという権力をもっていた。

それから前にも聞いたけど何度も言っているのは浪江と小高の間の東北電力が原発を建てる場所の土地をもっていた人がその土地を売らないと抵抗していたという。
その人の名前もあげていた。その人はなぜ高いところに電源を置かないのだ、津浪が来たらどうするんだとしきりに言っていたという。
津浪のこと言うこと自体この辺では全くなかった。
津浪が来るなど話も聞いていないのである。
だから津浪が来るから危ないということを言うこと自体不思議だった。
地元の人でも津浪のことを言っている人はいないからである。
ただ小高と浪江の間の東北電力で建てる原発は工事が開始されようとしたが今回の事故で中止になった。
その建設予定地には津浪は来ていなかった。

双葉や大熊の原発を建てるときは最初からしきったのはアメリカである。
なぜなら日本では原発を建てる技術も知識もないから最初はアメリカの指示通りにして建てたのである。
GEが設計から建設を指示して建てた、だから相当にアメリカの責任も重かったのである。電源を地下にしたのもアメリカの指示だった。
アメリカは津浪のことを想定しなかったからである。
そのことが命取りになったのである。
アメリカの指示通りにするというとき日本は戦後70年過ぎてもアメリカの占領下と同じになっていた。自主的に判断させられない、アメリカの指示通りにする他ない、
そのアメリカの指示通りにして事故になった。
ただアメリカのことはあまり批判されないのである。
電源を地下に置いたのはまず致命的過ちだったのである。
一素人が津浪に危ないとか指摘して電源を上に置くべきだということを言っていたのだから東電でもわかっていてンたかアメリカの指示だから従ったのだろうか?
その辺の真意がまだわかりにくい、つまりアメリカの責任はあまり問われないからである
原発がなぜ日本で廃止できないかというとアメリカの指示がるからだとなる。
それは単に原発として電力としてではなく核の利用とかアメリカのためになるからだろう防衛上の理由もある。つまりアメリカの指示で原発は廃止できない
それは沖縄の基地ともにている。アメリカの指示で基地も廃止できないのである。
それは戦後70十年変わらなかったのである。
だから戦後70年過ぎてアメリカとの関係を見直す時期になった。
それは中国の強大化もあり外交政策を見直す時期になったのである。


ともかく東電とともに原発とともに人生があったという人たちもこの辺には多い。
だから東電をあまり批判できないとかなる
東電から利益を得ていた人も多いのである。
原発事故の周辺は議員も東電関係で勤めで関係していたとか何らか関係して恩恵を受けている。
だから大熊町長は原発を再稼働してくれとまでなおなっている。
もう原発なしでは経済も何も成り立たなくなっていたのである。

タグ:東電
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NHKスペシャル「プラントハンター 世界を行くを見て (グローバル化している花や植物の世界)



NHKスペシャル「プラントハンター 世界を行くを見て


(グローバル化している花や植物の世界)


プラントハンター(Plant hunter)とは、主に17世紀から20世紀中期にかえてヨーロッパで活躍した職業で、食料、香料、繊維等に利用される有用植物や、観賞植物の新種を求め世界を探検、冒険する人のことで、現在も存在する。

オレンジやレモンは北西ヨーロッパの貴族にとってあこがれの樹木だった。イタリアやスペインからアルプスを越えて運ばれ、夏の間だけ北西ヨーロッパの貴族の庭を彩った。イギリス人が、ヨーロッパ大陸に派遣され、サクランボやオレンジ、アネモネ、チューリップなどを購入したのが、プラントハンティングの起源だといわれている。
http://www.13hw.com/jobcontent/01_01_01.html

西畠清順さんは、数々のお金持ちの方からの依頼を受けていて、その1回の依頼料が、なななんと3000万円からだそうです。



プラントハンターはヨーロッパでは昔からあった。これはやはり金持ち国でないとできないだろう。
そもそも花を観賞する、生け花でも余裕がないとできないし鑑賞すらできない。
ヨーロッパでいろいろなもの芸術でも科学でも発達したのは生活に余裕ができたからだろう。
イギリスは寒い国だから南への憧れが強いし植物でも花でも南国のものを取り入れた。
花の種類はどうしても南国が多様だからである。

最近自分は家事とか介護に追われゆっくり花も観賞できないことに気づいた。
花見るにさえそれだけの時間的なゆとりが必要なのである。
だから時間の節約するにも金持ちだとできることがある。
家政婦を雇えば家事をしてもらうことができる。
でもこれは一日20万とか払う必要がでてくるし現代はできない
その代わり機械がその代わりをしてくれている。
オカユを作る機械は良くできているなと感心したのである。

金持ちが今何に金を使っているのか?
それは庭作りとかがあるだろう、世界の植物で飾る、花でもグローバル化しているから今は多様である。
ただ金があっても時間的余裕が無いと文化的なことがしにくいのてある。
あの人の出自が生け花の素材になるものを松の枝などを自然の中からとってくるなどが仕事だった。
つまり京都のそうした生け花などが盛んな所で文化的に鍛えられたのがグローバル化したのである。
前にも花を自由に活ける人がテレビに出た。
そういう人も京都などの文化があるところから出やすいのである。
田舎の花屋でも花の種類がふえたからグローバル化している。
それだけの知識も新しい技術も取り入れることが必要になる。

それにしてもあれだけ大がかりなことをしていることに驚いた。
樹齢千年とかのオリーブの樹とか酔っぱらいの樹とか飛行機で運んで日本で育てるのだから苦労である。
そんなことまでできる時代だともなる。
ただ残念なのは大阪とかであれ大都会で森の無いところで展示する
何本か植えるにしてもそもそもか都会には森がないのである。
一本のめずらしい樹があってもそれで森になるわけではない
森という全体があって一本の樹も生きるのである。
せめて公園きような所に小さな森でもあれば活きるのである
その点この辺は森がある、その森が深い、その森で樹も自然も野生の動物も野鳥も活きているのである。もちろんそこには岩もあり活きている。
都会のビルだらけの所ではそもそも樹も花も活きないのである
つまり森が無いということが致命的なのである。
森は作れないからである。

この辺では近くに深い森があるということは常に森を感じて生きていることにもなる。
森は瞑想的であり心を静める場所としてある。
放射能に汚染されても森は以前としてある。
飯館村は原始の森にかえるとしたら森にさらにおおわれた世界となってしまう。
双葉町でも大熊町でももともとあそこは明治まで深い森だったのである。
それが浪江町まで森にかえってしまうのか?
そうなると江戸時代にもどり広大な森におおわれることになってしまう。
森の国にになってしまうということてある。


つくづく人間の豊かさとは何なのだろうと思う
都会では森が無いのだから外国からでも一本の樹をもってきても活きない
そもそも森が無い自然が無いことがどんなにしても都会が貧しいことにもなる
都会にはそもそも森でも自然でもそんなもの作れないからである。
そういう人工的空間にめずらしい樹を外国からもってきても活きないのである。
ただ都会には金持ちがいるからやはりヨーロッパのように昔と同じくそうした職業が生れている。
金持ちに対して需要があるからそういう職業も生れている。
田舎では別に森があるのだからそんな職業は必要ないともなる。
ただ街路樹などはやはり都会でも自然を感じさせる。
仙台には欅並木がありやはりそれは自然を取り入れたもので気持いいとなる。
自分がしてみたいことは庭作りだった。ただこれも大変な労力が必要でありもうできない水やるだけでも手間であり家事から介護からやっていたらそれも手間になる。
だから金持ちでも時間に追われて仕事している人は時間がなくて旅もできない、自由にならないといっていることもわかる。
本当の金持ちは自由な時間がもてる人なのだからそういう金持ちは金持ちとも言えない
仕事の奴隷ともなっている。
日本人は豊かになっても何かそうした本当の金持ちがいないから文化も育たない
ヨーロッパのような貴族が生れないということである。

 

2015年03月29日

大和言葉を見直す時代になった (言葉はその国の文化の基成すものー神道は大和言葉に隠されている)


大和言葉を見直す時代になった

(言葉はその国の文化の基成すものー神道は大和言葉に隠されている)


この『よそう』を現代人は、つい先ごろまで、茶碗に飯を盛るときにも使った。(中略)

http://cds190.exblog.jp/4189811

 古代日本では飯を盛るのは女に限られていた。本来飯は神に捧げられるもので、女性が神事に奉仕したからである。(中略)

日本人が日頃何気なく使っている言葉には日本人の魂が宿っている。
ただそれが意識化しているからその精神を知ることができなくなった。
日本人とは何か?日本文化とは何かと言うときその言葉にこそある。
最も身近なものに日本文化の根源がアイディンティティがある

例えはよそおう・・という言葉が実は女性が巫女が神に仕えていて飯をよそおうということから出てきた言葉なのである。
飯を神にささげることはそれが神聖なる行事としてあった。そ木神事が日常化してただの普通の労働になってしまった。
介護になってから自分が主夫になってしまったので飯をよそおうのが仕事になったからこの言葉の意味に注目したのである。

たまふ(賜う)=たまる(賜る)。

たまふとはもともとは玉から由来している。たまるとは賜ったものがたまることである。たまふとはもともと神からたまわるものが語源なのである。
現代だとすべてが自分とるという感覚になる。
何かたまわるという感覚はない、授かるとかいう感覚も無い
だから誰も自然でも何でも感謝したりしないのである。
たまるとたくわえるは違う、たくわえるは人為的努力でありたまわるは神からの無償の恵みなのである。
人為的に貯えるのが現代の経済であり社会である。そこに呪いが隠されていた。
機械が過度に発達して人為的に自然から恵みを富を収奪して成り立っているのが現代文明である。
資本の横暴がグローバルで金が物が暴力的に横暴に支配する社会となった。
てはそういう西欧的文明の転換期になったとき何が新しい文明を生むのかとなると一つは日本文明も文化も東洋文明をになっているということである。

だから言葉から見直してゆくとき国風文化がまた再興(ルネサンス)するのである。
日本語では何か基本語となるもの、基幹語となるものがある。
それは一語なのである。
例えばチという語は広範囲に使われている。地は血でありあらゆるものの基本にチがあるトチでもカチでもマチでもサチでもチと語尾につくのはチは大地の意味なのである。
日本文化の感覚は農耕民であり土地に根ざしているのである。
だから植物的文化となりそれは荒々しい動物文化牧畜文化とは異なる。

ミチというときもミは身でありチは大地のことである。英語でも地球は地のこと大地のことであり土を意味していた。万物を生むのが土地であるからそうなる。
ただこの土地は意識しにくいのである。
大地がすべてをはぐくむ基だとしても大地のことを意識されにくいのだ。
農業している人が今は土がまだあたたまっていないからだめだとういう。
何か作るにしても土と深く関係しているるのが農業である。
土はすぐにはあたたまらないのである。徐々にしかあたたまらないし野菜でも徐々にしか生育しないのである。
そこにどうしても忍耐強く待つ時間が必要になるのが農業なのである。

神道とは何かというときそれは最も身近な日頃使っている大和言葉にあった。
ミチとはチに由来して身と地は一体てあり血が巡るとはめぐるー恵みとなる。
大地が基本にあるのが大和言葉なのである。
言葉には必ずその国の文化があり物の見方や思想が宿っている。
だから詩は翻訳すると何か別なものになっているのである。
詩は翻訳できないというのは言葉の背景にその国の風土とか文化があるからなのだ。
まず日本の俳句の季語を理解することは日本人だった多様で全部は理解できない。
ましてや日本の風土を知らない外国人には知り得ようが無いのだ。
時雨とか春時雨とかこれなどは理解できないのである。
本居宣長が国風文化を見直したとき唐言葉と漢字と大和言葉をかなとを分けたことからはじまったことでもわかる。
今は日本語があるがこれを大和言葉にさかのぼりその日本人の根源的な思想をアイディンティティを知る作業が必要なのである。
そして今や世界の言葉にふれる時代だから大和言葉とか英語でも比較して日本文化が何かを知る時代になったのである。

日々にしてよそおう飯やあわれかな家に仕えし我が仕事かな

これも奇妙だけど実際に自分が一人で今家を守っているのだ。主婦があり主夫がある。
男も最近では一人暮らしになれば料理でも家事もしなければならなくった。
介護は家事の延長なのである。だから女性には向いていても男性には向いていない面があり男性が妻が死んだり親の介護となると苦しくなるのはそのためなのである。
今や家というのは墓もあり家維持することはそれなりの資産も必要であり庭の手入れもあり家事全般すること自体が手間がかかりすぎるのである。
だから未だに整理がついていないのである。
一家を維持するにはそれなりの人手が必要だから一人暮らしでば無理だと思った。
大家族だった時代は家を維持できたが今は家自体が核家族とか分離してしまった。
だからこの辺ではそもそも故郷でも家族でも喪失して分離してしまった。
縁故をたどり全国に散らばり家自体は分離して故郷まで喪失してしまったのである。


タグ:大和言葉

2015年03月31日

春霞(相馬市の城跡から鹿島原町をめぐりて俳句十句)



春霞

(相馬市の城跡から鹿島原町をめぐりて俳句十句)


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中村神社


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(相馬市)
城跡に黄色の蝶や舞いそめぬ
街道の道の狭さや梅におふ
夕鶯街道歩む二人かな
街道の細道変わらず梅と松
芽吹く樹を見上げて高く鳥の飛ぶ
(原町へ)
春霞原町広し国見山
阿武隈の山脈なだらか春霞
碑の一つ草に埋もれて落椿
江戸時代捨てらる墓や落椿
泉村たずねてあわれ落椿
紛々と夕陽に映えて梅ににおふ
晩年や梅の香満ちて里巡る
たちまちに燕の増えて鳴き騒ぐ

捨てられし夫婦の墓やなおともにあらむとここに春の日暮れぬ
日々暮らし我が墓ありぬその側の公園に散る椿見るかな


泉村十一面観音の捨てられた江戸時代の墓

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ここには文久と記されていた

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江戸時代の夫婦の墓

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北泉で津波から残った家

万作が咲いていた

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国見山が霞んで見える

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昨日今日と天気がいいので相馬市の城跡と昨日は原町の方へ行った。
相馬の城跡では相馬市の青年が何か城を取材して話した。
それはyoutubeに出すとか言っていた。
そきことはあとで書いてみる。


いつものように城跡から街道をゆくと梅林がありにおっている。
昔の街道は細いから人が歩くとより自然を感じる
そもそも今は人間が歩くことが絵になっている不思議である。
車しか通らないから歩くということが昔にもどることなのである。
旅であれ歩くことがない、だから歩く旅というものもなくなった。
歩く視点で見れないのである。自分は自転車だからまた歩くのとも違うのである。


原町に金沢を回って行った。泉村の十一面観音という所に行った。あそこも今回はじめて行った。あそこは看板があるから普通なら行っているはずだが行っていなかった。
そのことを若い人にも言ったけど本当に近くを知らないのか人間なのである。
最近すぐ近くの神社で天明の碑を見つけた。
こんなところにあったのかと驚いた。
なぜなら天明ということは天明の飢饉の時だから自分の住んでいる場所が関係しているのかと思ったからである。
60過ぎてから地元のことを知るのは遅い、でも最近知ったことも多いのである。
それだけ人間は近くのことでも知らないのである。
知ろうとしないということもある。関心をもたなかったら知ろうともしないだろう。
そして外国のことを情報社会だから気にして外国の方が詳しくなっている人がいるのが現代なのである。

原町に鹿島から出ると広く感じる。原町は確かに野馬土手あり馬を放牧していたから広いのである。広大な原っぱが原町だったのである。
春霞であり国見山が見える、あれは結構高い山だろう。あそこに国見山と名付けたのはやはり国見する山ということで名付けたのだろう。
小高と原町が中心に見えて鹿島が見えるが相馬市までは見えないというのもそきためなのか?つまり南相馬市を一望できるところが国見山なのである。
阿武隈山脈は山というよりなだらかな高原という感じである。
そこに昨日も今日も霞がかかっているから何かのどかである。
何か同じ場所でも季節で年によって見え方が違うのが不思議である。
たいがい同じ景色を見ているとあきるのである。
そして何ら自分の住んでる場所に故郷にも魅力を感じないのである。
富士山でもあればちがっているが山に関してこの辺は魅力ないのである。

それでも同じ場所でも今日は原町が広く見えたのである。
自分はここ七年間介護とか自分の病気とかで遠くに出ていない、だからいつも近辺を回るだけである。
でも今は一番いい季節である。梅はいたるところにありにおっている。
人間は晩年でも長く住み慣れた所がいいと思うとき幸せな気分になる。
だから前も書いたけど今回の津浪や原発事後では故郷に住めなくなったことが一番の悲劇だった。老人にとっては過酷だった。
若い人にはそうでもない、若いときは何かかえって都会でもいいし刺激のあるところがいいとなる。
ただ年取ると落ち着く場所がいいのである。
故郷が別にいい場所ではない、でも自然がありなごみがそこに生れる。
もう人間はもしかしたら田舎でもどこでも素朴だとかなくなった。
そういう社会になってしまったからである。
だから補償金とか金でももめて故郷でもばらばらになっていたしもともと一体感もなくなっていたということがあるのだ。
家族までばらばらになるというときそもそも家族すら一体感がなくなっていたということもあったのである。

自分の墓の側に公園がありそこに椿か散っていた。日々の暮らしの中でそうした自然の変化があり心にしみる。
だから毎日自分の家の墓の前を通っているから先祖をまだ死んだばかりの親でも意識するのである。
ところが墓が遠くになると意識しなくなる。彼岸とかに墓参りしても墓はその暮らしている場所と分離している。
そこに墓の意味が見いだせないのである。
墓地でも暮らしの中にあれば先祖でも意識するのである。
いづれにしろ避難区域ではそうして暮らしが破壊されたから墓もどうしていいかわからないとかなる。
若い人がも住まないとなるとそうなる
まずソーラーパネルで野菜栽培しているという風景も不思議である
普通俳句だと耕しといえば春の季語である。
そういうものもない、野菜工場である。何かそれも変わっている未来の姿である。
農業は実際は肥料だとか農薬だとか手間もかかるし採算があわないのである。
工場にしたらかえって楽なのかとも思うが実際はわからない。
ただ風景としては耕しという人間が大地を耕している風景が春らしいとなるのだ
ともかくこの辺の混乱状態はまだまだつづく
燕も一気に増えてなき騒いでいた、まさに春本番になる。

 
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