2015年03月01日

原発事故で福島が東京の犠牲になった (事故を想定して福島に作った)


原発事故で福島が東京の犠牲になった


(事故を想定して福島に作った)


原発では盛んに東電は政府は事故を想定していないと言われた。でもよくよく考えてみると事故を想定していたから東京から離れた福島にわざわざ送電線で不便で金がかかっても作ったのである。
東京にも作れたがあえて作らなかった。東京だけは守らねばならない、事故になったら東京が終わりになると想定していたのである。
安全だったら東京に作るのがコスト面でも一番適地だったのである。
東京の電力を東京で供給するのが理にかなっている。
なぜ福島にもってきたのか?
それは事故を想定していたからなのである。
まず事故が起きても東京には影響が及ばない地としてフクシマが選ばれたのである。
原発が安全だったらそんなコストのかかることをしない
だから東京に原発を建てるべきだとした本が出たのは今になると理にあっていた。
その時はそれはSF小説のように見られていたのである。
そもそも原発については広く議論もされず政府主導で計画され実行されたのである。
湯川秀樹博士が原発のことで相談したらまだ時期が早いとして反対したことでもわかる。まだ日本はその技術について未熟だったのである。

それをあえて日本に作ったのはアメリカの意向もあった。アメリカは日本の風土とか外国だからその安全を真剣に考えていなかった。
ところがアメリカでは真剣に考えていたから西部の方には原発を作らず地震の少ない東部に作っていた。その安全管理も進んでいたのである。
結局他国のことになると無責任になるのが常である。
それで尖閣諸島でもアメリカは日本を守らないと言われる。
中国に日本が勝てるなどあおっていてアメリカはいざ中国と戦争となったらただ外部から見ているだけでかかわらないという。
本当に日本を守るのは日本しかない、戦争でもそうだけど原発のような危険な技術でもそうだったのである。
他国は真剣に安全のことを考えない、それで古い型のマーク1を売りつけたのである。
それが事故の基になったということもある。
アメリカの責任もあるのだがそれは日本が受け入れたから悪いとなるだけである。

核兵器のことでは国民的議論になっていたが原発は平和利用であり原水協ですら原発には賛成していたのである。
原発は国民的議論にもならず一部の指導的な人たちによって作られたのである。
それは読売新聞社長だった人が日本テレビで原発を推進させる宣伝をした。
原発が安全だという宣伝をしたのである。
その後中曽根首相などがかかわり原発は50以上にふえたのである。
福島県の渡部更三もアメリカのGEと関係して積極的に誘致にかかわったのである。
まず安全神話が作られて国民的議論にならず秘密裏に原発が作られたのである。
だから指導者に原発を作った責任が一番あるということは言える。
それにのっかって利益を得ようとした住民にもあったがやはり原発に関しては良くわからないからそうなった。
それでも巻町のように反対して建てさせなかったという町もある。
それは例外的なものでありほとんどは地元では金になると賛成したのである。

ともかく原発は危険なものだということをしりえなかった。それは支配層によって隠されていたのである。危険だというと検察まで動いてその口を封じていたのである。
原発が安全なら東京に作ればいいということは本当に今になると正論だったのである。
そして東京に作った方が安全だったという皮肉があるのだ。
東京湾は津浪をそぐ地形でありフクシマのような大きな被害にはならない
ただ大きな地震はわからない、津浪に関してはそうである。
それより東京に原発を作ることはまず左が反対するからてきないということがあった。
フクシマなら建てられるという見通しがあり建てたのである。
原発の危険性は東電でも承知していたから東京には建てなかったのである。

福島県でも広いから原発の危険性に関しては誤算があった。

その後小選挙区となって、何故か浜通りと中通りと地域差が激しいのに
相馬地域と福島市が同じ選挙区になった。
選挙では人口比率で福島市に首根っこを押えつけられる結果となっている
福島県は広いから地理的一体性がない、福島市と相馬地方が同じ選挙区にすることはわかりにくいのである。地理的に不自然なのである。
そして福島市は東京と同じように原発は離れているから安全だと見たことはありうる。
それが放射性物質が福島市まで風で流されてかえって南相馬市よりも高い地域になったのも天罰だったのかともなる。
原発事故については誰もその危険性を予知したりするものがいなかった。
ただ科学者なら爆発したらメルトダウンしたどうなるのか想定はできた。
それをしないのは「安全神話」作りその原発関係者もそれで安心していたのかもしれない、自分たちで安全神話を作り安全だと思い込むようになった。
これは科学者が集まっているのには科学的ではなかったのである。
人間は純粋に科学的だとか合理的になれない、科学が何か迷信になったりするのもそのためである。百万年に一回しか事故に起きる確率がないというのもそうであった。
その時千年単位で起きた津浪のことを警告していたが聞かなかった。

要するに「安全神話」は願望にすぎずまさに科学的でないからこそ事故が起きたのである最初に「安全神話」を作り次にコストカットに走る。
原発は誰の責任かと問われると武田邦彦氏などは政府や東電にあったと言っている。
それは国民的議論にもならず秘密裏にすすめられたからである。
民主主義が何でも情報を公開して議論してすすめることだがそさをしなかった。
最初から権力によっておしすすめられた。
それで地元の人も責任があったにしても一番責任があったのは指導的立場にある人たちだったとなる。
そうは言っても巻町のように素人でも原発のことを知り原発を建てさせなかった自治体もあったのだからそれと比較すると住民に責任がかなりあったことになる。
つまり止めることもできないことはなかったからである。

武田邦彦氏はこれだけの事故があってから今度は住民は住民エゴで原発を建てたら責任とれというのも正論なのだろう。
その一地域の利益のために広い範囲も被害を受けるからである。
それなのに双葉とか大熊では原発を再稼働しろと言っているのだから全然反省もしていないのである。

福島・大熊町長が再稼働問題に言及 

性急な脱原発議論には「今も福島原発で作業に従事している町民も相当数いる。雇用確保の面から原発との結び付きは今後も保たざるを得ない」とした。国が進める関電大飯原発の再稼働については「安全の担保と地元住民の合意が前提。政治的事情で手続きが進んではいけない」とした。
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/earthquakeafterayear/33791.html

原発なしでももう町が成り立たなくなっていた。双葉町でも富岡町でもそうである。
でも事故を起こしたら回りの市町村も被害を受けるのだから補償金をもらったらそれを回せとなる。事故後はそういう責任が課せられたというのも正論になる。
これだけ被害が出ることが国民全部が承知しているからそれなのに原発から住民エゴで利益を受けることは許されないということである。
補償金問題では継続して問題にしたけど補償金をもらっていない市町村はもらっている市町村に対して大きな不満があった。
それは南相馬市内でも小高、原町、鹿島で補償金の額に大きな差があったために起きたのである。
それは今度は相馬市とか福島市などは補償金をほとんどもらえないから不満になったのである。
なぜ30キロ圏内だけがもらえるのか実際の放射線量はさほど変わらないからである。
事故が住民が責任あるものとされる。
つまり民主主義は権利とか利益を主張することができるがそれにともなって責任も課せられているのである。
責任を逃れることができないが権利だけを利益だけを主張するということがまだ民主主義が日本では未熟なものとして成熟していない。
ともかくこの辺は様々な問題の場所になったしその問題も簡単に解決しないのである。

 
タグ:安全神話
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2015年03月02日

春の伊豆ー俳句十句


 
春の伊豆ー俳句十句

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春風や下田に望む沖の船
崖を打つ波や伊豆の寒緋桜
崖に波ひびきて伊豆や春の冨士
西伊豆や菜の花よそおい冨士望む
菜の花に長くもあれな春の冨士
西伊豆や水仙にさす夕日かな
春の星伊豆を巡るや波の音
大島や海の碧さに椿かな
大島や東京離れ春の月
春潮に魚(うお)打ち上げて冨士望む
駿河湾波打ちひびき春の冨士
羽衣の松や砂浜春の冨士
静岡や茶畑つづき春の冨士


伊豆の海に 立つ白波のありつつも 継ぎなむものを乱れしめめや(万葉集 東歌 )

伊豆を旅したのはこれも30年前以上とかそれ以上である。
これだけ時間がたつと思い出すのもむずかしくなる
でも何度も言うけど自分の場合、ゆっくり旅していたから記憶に残っているものがある。伊豆で印象的だったのは思い出しているのは菜の花が一面に咲き冨士が見えていたことである。
その菜の花がとにかく印象に残っている。
それでインターネットで写真を調べたらやはり西伊豆に菜の花の写真がでていた。
西伊豆から見た富士と菜の花が印象に残っていた。
西伊豆からの富士山はきれいだし絵のようである。
富士山は見る場所によって相当違った印象を与える。
だ。から富士山はまだ良く見ていないのである。
伊豆というとやはり波が切り立つ崖に打ち寄せる地形である。
だから万葉集にもその波のことが歌われている。

日本では海に囲まれているけどその海も場所によって印象が違ってくる。
大島から見た海の碧さは東北の海とも違う色である。
椿がその海に映える。東京から近くても大島は淋しい場所なのも不思議である。
あそこには東京の混雑したものはなにもないのである。

西伊豆から駿河湾に出た時、波がうちよせ魚がうちあげられていた。
あの辺は清水港とか何か豪快な感じがする所である。
いつも背後に富士山が見えるから富士と一体となっている
羽衣の松のある前は広々として砂浜があるから昔の日本の風景が残っている
静岡というとき茶畑があり冨士が望める
静岡とはまさに静かな岡であり茶畑をイメージする

下田は黒船が来た所だから歴史的な場所でもある。
下田まで電車が通じているが西伊豆になるとバスになる。
春にはあの辺が旅するにはいいかもしれない、富士山が見えることがいいのである。
あそこから見える富士山は遠景の冨士でありどこでも絵になっている
西伊豆は夕日でも有名である。写真とか絵もでている。
太平洋岸で夕日がさして見えるのは東北ではないからである
だから伊豆は西伊豆まで一周しないとその良さがわからないのである。

 

タグ:西伊豆
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何に時間を費やしたかが人生である (旅の時間も今行けなくなると貴重だった)


 
何に時間を費やしたかが人生である

 
(旅の時間も今行けなくなると貴重だった)


かりそめに通りすぎて
十分に愛さなかった かずかずの場所への郷愁よ
それらの場所へ 遠方から 何と私は与えたいことか
しわすれていた身振りを つぐないの行いをもう一度ー今度は独りでーあの旅を
静かにやり直したい
あの泉のところにもっと永くとどまっていたい
あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい
(リルケ)

つくづくこのことを旅ができなくなって思う。まさか遂に6キロくらいのしか往き来できなくなると思わなかった。
すでに一年は仙台にも行っていない、やっと原町とか相馬市に行くだけである。
それは外国まで自由に旅していた自分にしたら考えることもできないことだった。
そしてつくづく自分はこれだけ自由に旅できたから恵まれていたなとそのことに感謝した人間はいつしか旅すらできなくなる時が誰にでも来る
病気になったり老人になり体が弱くなるとできない
それから人間の時間は何するにしても限られているのだ
旅しているだけでも時間はたちまち過ぎてしまうのだ。

人間の一生をふりかえるときある人がガンになった。
その人は工場でフォークリフトで荷物を運ぶ仕事をしていた。
その人は余命何カ月とか言われた。その時何をしたいかと思ったらもう一度工場で働きたいと思った。仲間と一緒に仕事したいと思い実際にしたのである。
つまり何にその人が時間を費やしたのかが人生なのである。
その人はともかく何であれ工場で働いたの一生だからそこが人生であり一番愛着ある場所だった。それは理屈ではない、そこに人生の時間が費やされたからこそガンになっても
そこでもう一度働きたいとなったのである。
原発事故で避難した人が田植えをしたとき収穫したとき喜びがあった。
漁師だった人が津浪の後に仲間と漁をしたとき喜びに溢れていた。
つまりそこにその人の人生があった。
もちろん金のために生活の糧を得るためにも仕事はある
しかし人生の時間をそこに費やしたら単に金だけではなくなる
だからガンになった人がもう一度働きたいというとき金だけの問題でなくなっいたのである。
外から見るとそんな仕事がそれだけの意味があるのかとみる
でもその人にとってともかく人生の時間がそこに費やされたのだから
そこでもう一度働き死にたいとまでなっていたのである。

そういうことはなかなか若い内は理解できない、仕事なんかただ金のために働かせられているだけだというのが奴隷にされているだけだとしか不満しかないのが普通である。
漁業でも農業でも金にならないからやらないとかしかなかった。
でもあなたの人生とは何だったの?
補償金もらって遊んで暮らしていればいいの、それが人生でいいのともなる。
だから漁師が原発事故で確かに補償金をもらっているから暮らせる
でも何で自分はこの港にいるんだろうと言っていた。
もう漁師でもなんでもない、その人生はただ遊ぶだけなのかとなる。
遊び人の人生になってしまうのである
工場で働き生きた、漁師として農民として職人として生きた
何かそこに人間の人生の価値があったのである。

現代はすべて金をいくらもうけたかどれだけの収入を得るかですべてが決まる
では人生の最後に何が価値があるかとなるとどれだけ金を残したかで
人生が決まるともなる。もちろんそういう価値観も現代にはある。
金をすべて否定したりは現代はできないのである。
ただすべて金だけ計れるかというとそうはならない
老人になるともう金があっても使いこなせないのである。
自転車も何代かいいの買ったが乗る時間がないと利用できないとかなる
もう長い旅もできなくなったからである
他の自転車にとりつける動画をとるカメラも買ったがこれも利用できていない
何かをやろうとして物を買ってもできないことに気づいたのである。

老人になると何が残るかというとその人が何に時間を費やしたかなのである。
それが何であれその人の人生だったのである。
だから旅というのもあそこにいた時間がいかに貴重な時間だったか理解した。
自分が旅したのは故郷にいたくないということがあった。
故郷がいいというけど故郷はあまりにも見慣れていて感動しなくなっている。
それから田舎だと人間関係でも狭いから監視されているようでそこから解放されたいということがある。
四六時中ある老人の男性は女性が入って来たりするのを見張られている。
だから簡単に人を家に入れることもできないと言っていた。
だから故郷とか田舎はみんないいものではない、そこから解放されたいというのがある。ただ都会ではなく、旅は自然の美があるところに行きたいとなる
その時はそうした狭い嫌な人間から解放され、自然の美だけにひたっていられるということである。

ただふりかえるとこれだけ旅してもそこにいる時間が短すぎるのである。
だからなぜもっとそこに長くいなかったのかということが後悔になる
もっとその美にふれていなかったのかとなる。
今になるともっと富士山を堪能しておけばよかったとなる。
つまり旅でもその場にいる時間が貴重だった。
旅ではいつでもその景色が見られないからである。
日本の自然は今でも美しい所がいたるところにある。
それはいかに文明化してもそうである。
その美にふれる時間があまりにも短かかったのである。
それでも自分の場合はこれだけ旅したのだから旅の蓄積がある
それが記憶として蘇ってくるから俳句にしたり短歌にしたり詩にしりたする
現代は忙しいからかえって何か記憶に残ることが少ないのである。
だから浅薄な時間を人生を生きていることが後でわかるようになる

菜の花に長くもあれな春の冨士

菜の花に埋もれて長く春の冨士

そこに長くとどまっていたかった。しかしその日はもう帰らない、それは旅だけではない、人生の時間はすぎさる、その時あらゆるものがなつかしくなり価値を帯びてくる。
平凡な日常生活すらそうである。なぜなら家庭ですら喪失する。
老人ホームで家に帰りたいというとき今の家族ではなく昔あった自分が母親とかであったときの昔の家族に帰りたいということなのである。
この辺ではそもそも故郷すら消失してしまったから故郷自体がなくなったのだから
故郷にあったときのことを思うようになった。
普通は故郷など当たり前にあるものだから特別思ったりしない
でも今は故郷は特別なものになってしまったのである。
つまり人生とはあらゆることが過ぎ去ってゆく一こま一こまである。
その一こま一こまには実は意味があったがそういうふうにはその時は思わないのである。

人生で何を一番後悔しているかとなるとその喪失した帰らない人生の時間なのである。
それは巨万の金があっても取り返すことかできないのでてある。
自分は金があったから旅行していたのではない
時間があったから旅ができていたのである。
まず食べるものも宿泊代も節約していた。どうしてもそこしか節約できないからそうなっていた。
温泉宿に泊まったことはない、何か料理を楽しむ旅などしていない、それは外国でもそうだった。
自分は旅したいということが目的だったからそうなった。
だから旅を目的にすればさほど金がなくてもできるのである。
問題は時間だとなる、それで上に立つ人なのか収入があっても時間がない
時間に追われているというとき人間はつくづく二つ物を得られないようにできている
金があっても時間がない、時間があっても金がないとかなる

あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい

何か原発事故で故郷を離れた人もこういうことを思っているかもしれない
人間はもう死ぬんだとなると何か平凡なものでもいとおしくなる
旅をしている何か急いでいると旅では見逃すことが多すぎたのである。



2015年03月03日

福寿草(つづく介護)


福寿草(つづく介護)

春なるも老人施設の窓の外に枯芒見ゆ介護のつづく

我が庭に福寿草咲きその女に幸あれにしと与えけるかな

今日は寒い、今ころ寒いと余計寒く感じる
今日は近くの施設にショートスティに行った
嫌がったがいつも無理やりやっている
百歳になると実際に苦しいことあるからやめたいことはわかる
でも一カ月に一回くらいは福祉のつながりとして必要になる
この辺では訪問してもらうのは今は人手がたりないからである

なんか家に来るものはなにかしら問題をかかえている
直接家とかかわる人はその家から何かを受ける
プラスの面もマイナスの面も受ける
そもそもその家に来て裕福だから奪うことは良くない
分けられれば別にかまわない、福がその人に与えられるということもある
もちろん奪ったものに福がなくいくら不平等にしても呪われることがある

ともかく介護は不毛である。春になっても春が来るのか?
介護施設の外は枯芒、冬芒のままであり延々とつづくのである。

タグ:福寿草

2015年03月04日

春の月(原町市へ)


春の月(原町市へ)

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高台の墓地に春日や平和かな
春日さす鳩の数羽や平和かな
余裕あれ喫茶店の窓に春の月
春満月海より昇り4年すぐ
春の灯や新築の家増えにけり

川子の高台の墓地はいい場所にあると思う。あそこの下まで津浪が来たから驚く、
あそこはずっと高いから津浪とは何の関係ないにしても何かこの辺では津浪が来なくて良かったなとかなる。
自分の住んでいる所も津浪が来た場所から500メートルくらい離れていても何か津浪の影響が大きいのである。
500メートルの地点で津浪が来た家があった。あの辺は遠いからたいしたことがないと思っていた。でも床上まで来ていたのである
あそこは海から3キロは離れている。それでもそれだけの被害があった。
だから今でも住んでいて怖いとなる。実際のその感覚は自分でもわかる。
だから常にこの家の庭の石が流されなくて良かったなとか見るのである。

イオンでは本などを買った、あそこでさつまいもを焼いているのがいい、サツマイモが大きいのが一本120円だった。鹿島ではそれより細いのが170円だったのである。
鹿島ではスーパーが一軒であり値段が高くなっているから損なのである。
つくづく川内村から郡山市に移り住んだ人が帰りたくなるというのもわかる。
物価だってかえって今は田舎でもさらに辺鄙なところがありそこはかえって物価が高いのである。
そして歯医者も何もないとなると住みたくないとなる、飯館村なども住居としては森に囲まれていていいのだが規模の小さいスーパーが一軒とか他は診療所があっても何もない
第一車がないと住めないのである。なにするにも遠くに出ないと生活できないからである自転車では生活できないのである。

今暮らしいいのは最低で4,5万の都市である。そこなら田園都市にもなっているからいいのである。そこなら車がなくても便利な暮らしができる。
田舎は車がないと生活できないとしきりに都会の人が言うけど4,5万の都市なら病院でも医者でも一応そろっているからできるのである。
まず一万だったら今は不便である。車がないと医者にも行けなくなる。
そして年取って病気とか介護になると余計に今は不便になるのである。

今日は春満月が出ていた。ガストの窓にその満月がでていた。
今日は老人施設にショートスティだから食事の用意をしなくてもいいからゆっくりしていた。
食事の用意で結構時間がとられるのである。
金があればもう外食にすれば時間の余裕が生まれる。
ただ野菜が不足するから野菜を食べるためには家で料理するほかないのである。

この辺は震災から四年すぎる。春満月が出たとしても津浪の跡は以前として寥々としている。ただ徐々にその傷跡も癒えて春満月がふさわしいとなる。
ただその日はまだまだ遠い、あと十年なのか二十年なのか?
その傷跡はあまりにも深かったのである。
新築の家は今でも増えている、でも家を建てられる余裕のある人はもう少なくなっているという、あとは復興団地のような所に入る人なのかもしれない。
今日はともかくあたたかかった。でもまた北風が吹いてきたのである。
電動自転車は風でも馬力があるから走れるのかいい、これがないと今日は原町には行けなかった。

タグ:春の月

2015年03月05日

復興とは経済的復興だけなのか? (田がない田園都市がイメージできない)


復興とは経済的復興だけなのか?


(田がない田園都市がイメージできない)

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田んぼがあり山から水が流れてきて山の神の信仰が生まれた
それは江戸時代の前からつづいていたのである。
その田んぼがなくなる世界がイメージできない
そこで思考停止になってしまう

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田んぼなくなったあとの世界がイメージできない
田園都市とは何なのか?
田んぼがなん田園都市が日本ではありうるのか?
そこは公園のようなものになるのか、原始の森になるのか?
その変化に対応できない
ひまわりを植えてひまわりの田園都市なのかともなる
ひまわりから何もとれない、食料にはならない
ただの花畑にしてて田園都市なのだろうか?



今回の津浪とか原発事故が提起した問題は何なのかというとあまりにも多岐にわたるから様々な見方が生まれた。
経済的側面からのみ語られのは震災前からの継続である。
福島県の人口は実際は減っていないとか経済的損失はそんなにないとかそういう本もでていた。
そもそも第一次産業は浜通りでも一割にも満たないのである。
まず漁業などは零細であり宮城県からする10分の一とかしか漁獲量がなかった。
農業はそれなりの規模があったから違っていた。
ただこれも跡継ぎがいないとか全国的にも農業の問題は同じである。

ただ第一次産業というのが何を意味しているのか?そのことが問われたのである。
何度も書いてきたように農業であれ漁業であれ林業であれ建築土木ですらその土地と密着した仕事なのである。
小高の大工さんには本当に感心した。庭作りから大工でも壁塗りから何でもできる万能の人だった。そして庭作りは農業の知識が必要である。
なぜならまず木を植えたり花を植えたりするのは農業と同じなのである。
だから第一次産業は農業だけでもない裾野が広いのである。
確かに今の時代は会社中心であり工業中心だけど地方では以前として第一次産業の重みがある。
それは統計的には一割にもみたない、だからこの辺で別に田畑を作らなくても今ならいくらでも食料が入ってくるから生活できる。
米なんか減反で余っているから補助金で零細農家は兼業農家は収入になっているんだよとか言われてきた。そういう事情もある。
農家に嫁いだ女性は農業などしていない、田んぼはあっても他にまかせているだけであり本人は何もしない、農作業すらしたこともないのかもしれない,夫は会社員であり妻も会社で働いているだけなのである。つまり田畑をもっていても何もしない嫁が多くなっているのがいるのが今の実情である。
昔の農村の嫁のイメージとは違っている。

自分の場合はこうした農業などの第一次産業がすでに田舎でも全体の一割にも満たないということがあってもそもそも田んぼがない田舎がイメージできるかとなるとできないだろう、田舎とは田があって田舎であり田園としとは田があって田園都市になっている。
そもそも自分はそうした統計的数字としての第一次産業ではなく農業ではなく
現実の感覚としての第一次産業なのである。
山があり森があり田畑があり海があり漁業があるという風景が作りだしている田舎なのである。
柳田国男が民俗学を創始したのは日本文化としての日本人の魂を形成してきた文化の考察だったのである。経済的数字とか生産力としての数字ではないのである。

だからそれは日本人の信仰にまでなっていた。山から水が流れて田に流れる、それで山の神は田植えのとき平地におりてくる。そして山には先祖が眠るとなったのは田作りから起きた信仰なのである。
それは日本人の信仰までなったということ単に米を作り腹を満たすだけではなくなっていた。
外国でもオーストラリアでもアメリカでも飛行機で種まいて米を作っているが日本のような長い年月で培われた文化にはなりえないのである。
それは効率的に食料を大量に作るというだけである。
経済性だけが問題に世界である。

日本の田んぼは文化であり日本人の文化を精神を育んできたということがある。
だから田んぼがなくなった荒野となった風景は何なのだろうと思って今までも報告してきた。
田んぼがない風景というのがイメージできないからである。
それで復興というとき一体何が復興なのだろうとなる
田んぼがない復興とはどういうことなだろうとなる
田んぼなどなくても街は成り立つといっても何百年もつづいた田んぼがなくなるということが田んぼがない田舎はどうなるのかということがイメージできない
それだけ衝撃が大きかったのである。
田園としていってもその肝心の田がない田園都市がありうるのか?
北海道とかは牧場地帯でありヨーロッパでも牧場都市があるから田がなくてもありうる。飯館村などは牛の村だから牧草地があるから田んぼだけではない
でも飯館村では広いから田んぼの面積も広かったのである。
そこは牧場的風景でもなかったのである。
農民でなくても別に田畑で農作業しなくても景観が人間の心を精神を作ることがある。
景観の影響は思った以上大きいのである。
だから旧街道の日立木から相馬市のことを何度もプログで書いてきた。

五本松のことも書いた。

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五本松ここまた通り冬田かな

冬田というのがあって五本松がありそれが心に深く影響する。なぜなら五本松には人間を見ているし冬田もそれは南相馬市のような荒野になったのとは違う。
冬田は田であり春には田植えをして米をとる生活の場なのである。
冬田はまさに田園都市を形成する田なのである。

要するに現代はすべて経済的統計として数字で量で計る。でも計り得ないものがそこにはあった。それが文化的側面でありそれは精神を形成するものだせどそこはあまり語られないのである。
シュペングラーの指摘したのはまさに文化的な喪失による人間の精神の危機を警告していたのである。
ともかく田園都市が復興の目的だとしてもその田園とは何なのかと問われる。
それは公園がある近代都市なのか?何なのだろうとなる。
そういう文化的な面からも精神的な面からも復興を考えねばならないのである。
ただ今までのように経済的指標だけを問題にすれば原発というのも経済的恩恵は大きいのだから原発はいいものだとなり再稼働しろとなる
現実に大熊町長はもう原発なしでやっていけない町の事情を訴えていることでもわかる。


タグ:復興
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2015年03月06日

復興のビジョンとしての田園都市の形成 (復興だけではなく新しい価値の新創造へ)


復興のビジョンとしての田園都市の形成

 
(復興だけではなく新しい価値の新創造へ)


●人口増減の法則性

技術から情報へ、経済から文化へ、ハードからソフトへの比重が移ります
こうして二十一世紀のわが国では経済のあらゆる分野で「意味」や「文化」、つまり「コトバ」や「デキゴト」の「コト」のしめる比重が急増していくことです
(日本はなぜ縮んでゆくのかー吉田隆彦)

この本では人口増減には法則性がある。石器時代でも技術革命があり前期で後期では後期が人口増加しいる。それから縄文時代から稲作が普及した弥生時代でも飛躍的に人口は増加した。技術革新が人口を増やすのである。
江戸時代は大開墾開拓の時代で人口が増えていった。それが幕末辺りで飽和状態になり停滞した。
その時明治維新になり日本の工業化がはじまった。富国強兵であり太平洋戦争で三百万人死んでも焼け野原になっも復興したのは日本では工業化されていなかったからである。
経済成長する余地が十分に残されていた。
戦後十年は何度も言っているように炭が燃料であり水道もないし洗濯は近くの小川でしていたのだから江戸時代さほど変わらない生活だったのである。
道も舗装されていないし何もないところからはじまった。
その時団塊の世代が生まれた。人口が爆発にふえたとき養えたのは日本では工業化する発展する余地が残されていたからである。
経済成長る余地がありそれで高度成長になったのである。
つまりイギリスからはじまった産業革命が世界の人口を増やして日本の人口を増やしたのである。
だから人口増減には法則性があり上昇期と下降期がある。

今は下降期に入っているからその変わり目の現象が起きている。
下降期には新しい時代へ向かう模索期間であり成熟社会になり価値観が変わるのである。外面的拡大から内面的な価値観へシフトする。情報社会とはまさにそうである。
これからの時代は高度成長時代とは違う。物はあふれているしインフラも整備されている機械化も進んでいる。その中で何が価値が出てくるかは自ずと違ってくる。
つまり文化の時代になる。新しい文化創造の時代になる。
自分が主張していた国風文化の回帰なのである。
文化とはその国の風土とか歴史とかに深く根ざしたものでありそれは国ごとに違っているからである。
中国人も今は爆買などと言っているがこれからは日本の文化的なものを求めて観光に来るようになるだろう。
そもそも欧米に日本人が旅行しても買うものがない、何を買うのかと言ったら文化的なものになる。一番わかりやすいのは芸術にふれることなどである。

●文化の時代の田園都市形成

風土(地形)ー第一次産業
歴史(historyーstory)
都市の形成(商業、工業)

風土というとき和辻哲郎の風土論は有名である。ヨーロッパなら牧場的風土とか中東は砂漠的風土から一神教が生まれたとか風土論から文化文明を見る。
牧畜文化が都市文明を発達させたとか稲作文明が仏教的な物の見方を作ってきたとかある牧畜文化は移動文明でありユーラシア大陸を移動して今のシリア辺りに到達して海洋民になったという説もうなづける。
シリア辺りは文明の十字路だったのである。だから最古の農業が開始されたという。
遊牧民が都市を作ったというとき牧畜民には遊牧民には動物を率いて治めるというのがありそれが人間にも適応されたのかもしれない、なぜなら奴隷制とは人間を家畜化することであるからだ。
そういう発想は農耕民には稲作民にはないからだ。
田園都市というとき大都市の郊外のような所をイメージする、田園都市線などがそうである。それは大きな都会化した田園都市である。
この辺はそれとも違っている。五、六万であり規模的には小さいからである。
だから田園都市という言葉は何かそぐわないかもしれない、在地都市とか自然からまさに自然に成長した城下町的イメージがある。

外国の田園都市は商業がまずありそのスケールも大きいから日本とは違っている。
大陸はもともと交通が発達してネットワーク社会が発達していたのである。
川が運河のように交通路になったこともある。
ヨーロッパは川が交通路となって商業都市と発展したのが多い。
大きな川があり運河となり地中海も貿易の海となりやがて大航海時代となった。
そういう地理的風土がヨーロッパを形成して世界へと波及したともなる。
田園都市は封建時代の城下町のように自然生成的都市と大都市の郊外型田園都市がある。それは近代的田園都市である。
この辺の田園都市の形成は相馬藩があり六万石でも自然生成した田園都市構想になる。

歴史(historyーstory)がある、物語がある田園都市である。
ただ会津藩とか伊達藩に比べると規模が小さいか大河ドラマになるようなものがないのが残念である。
ただ規模としてヒューマンサイズであり地理的にも一体感がもてる土地なのである。
自転車で一日で行ける範囲にあるからだ。
その地理でも海があり山があり川があり複雑なのである。
飯館村まで相馬藩であり飯館村は気候的にも環境的にも相当違った高原の山の村なのである。
それが原発事故で消失して葦が繁る原野になってしまった。
あのままにしていると元の森にもどる。原野化したところはやがて日本では木が生えて森になるのである。だからそこは鬱蒼とした原始の森に還ってしまう。
相馬藩内では双葉とか浪江とか飯館村でも消失するという衝撃が大きかった。
そこが元の原野に森にもどってしまうというのはどういうことなのか?
そこにはもう村は復興しないのかとなる。

●津浪の被害地が復興が遅れているのはなぜか

気仙沼辺りではインフラ整備、土木工事で高台を作っているがそこに住む人がいないという。復興住宅でも家賃が高いから入る人が少ないとか問題が出ている。
公共事業のように道路を作り高台を作り防波堤を作っても住む人がいなくなる
これは上から国が計画して下におしつけているからである。
インフラを用地を確保したからここに住んでくださいと言っても住民の要望を無視したものだからそうなっている。
公共事業は地方への中央からの金を分配するだけで実際は地方では無駄なものとしてあったのも多いからそれとにている。
やたらと道路を田舎では作ったのもそうである。
そんなに道路が必要なのかというのも疑問だった。
それは必要だからしているのではなく土木関係者に仕事を与えるためだということもあった。
だからそれと同じ方法で上からのおしつけで復興しようとしてもそれはそこに住んでいる人の要望に合わないのである。

要するに津浪からの復興であれ原発事故からの復興であり簡単には解決しない複雑な問題なのである。
それは何か新しいものを創造することが要求されている。
今までの発想では継続でも復興できない、というより何か大きな変革が要求されている。そういう根本的変化を強いられるから簡単にその解決方法が見つけられないのである。
今までの継続があってもいいがそこに新しい発想が強いられている。
津浪の跡には何もない更地になったとき、何か新しいものを作るには向いているからだ。それがただ高台を作りそこに住んでくださいといってもそこに住む人は住みたくないとなれば住民のニーズにあっていないのである。
住民はかえってもうそこに住むことをあきらめ流出している
すると上からの公共事業だけが残り住人がいないとしたらそこは何なのだとなってしまうだろう。

いづれにしろ日本は戦後七十年で外向的にもアメリカの植民地支配から離脱する時期にもなり憲法が問題になったり今回の津浪や原発事故で変革の時期に入った。
それは大きく見れば新しい文明の模索時期になったのである。
この辺の田園都市構想にしてもそれが簡単でないのはそのためである。
田んぼがない世界がイメージできないということがまさにそうだったのである。
ただ原発事故周辺はうまくいけば文明変換のモデル地域ともなるか可能性がある
一方でマヤ文明やインカ文明のように森に埋もれたり衰亡してゆく地域にもなる。
ここはそういう模索地帯なのである。
だから学問というときただ現実とは離れて理想郷を求める、でもここではまず現実が改革することを強いられている。
だから学問でもそれが現実的なものとして志向されているのである。
机上の学問ではない実際の学問として適用されることが求められているのである。
まずとどういうビジョンをもつかということが学問でも要求されている。
それは学問でもこの現実の場で適用されねば意味がないとなっているのだ。
自分が探求しいるのはここの現実から離れてありえないのである。

●復興だけではない新しい価値の新創造へ

歴史は逆戻りしない、元の時代へは戻れない、炭や薪を燃料として電気なしの生活はできない。
自然エネルギーの利用とか違ったものになる
復興というとき元と同じ状態の復帰という感覚である。
でも実際元と同じには津浪の被害地域も原発事故の周辺もならない
田がなくなったら田園都市がありうるのかという前のテーマで言ったことなのである。
田がなくなったものを埋めるのは何かというと前あった田とは限らないものとなった。
一時ひまわり畑になったのも一時的でもそれも新創造の新しい風景だった
戦後七十年とかは本当に外交でもアメリカの植民地支配から脱却する時期だとか変革を強いられる時代になったのである。
沖縄の基地問題と原発問題は相似している面があったからである。
アメリカの植民地支配として共通な面があったからである。

戦後七十年は憲法改正が話題になったように大きな変わり目にあらゆるものが直面している
人口が減少してゆくというとき工業社会が成熟した結果であり高度成長も日本は終わり
別な価値を求める時代になった。それは何なのかわからないにしてもそういう新創造の時代に突入したのである。
これは津浪や原発事故周辺に先取りして現象化したのである。
だから学問も机上の学問ではない、実際に有効に現場で働く学問なのである。
新しいビジョンを提示するのも学問の役割になる。
それが実際に現実化しないものなら学問は遊びだとなる
要するに新しい価値創造が学問にも求められているのである。
それは科学の時代だから科学だけに求められているようでも文系など役に立たないと言われても文系でも現実の場にたコミットする
科学だけではない総合力としての学問としてコミットすることが強いられているのである
そもそも津浪でも原発でも科学だけではどうにもならない総合力として対処するものだった。郷土史なとど原発に何の関係もないように見られていたが四百年前に相馬藩でも七百人津浪で溺死した記録があっても無視されていた。
それから原発事故の原因を探求してきたがそこに科学だけの問題ではない
何かモラル的な問題もあった。東電であれ政府であれ「安全神話」を権力で作り出した
傲慢さがあった。
権力の一方的乱用の結果として事故が起きたこともあった。
そして文明史的にもなぜ原子力が生まれたかというとそれは文明がこれだけの増加した人口を養うのには原発に頼るという人間の限界を越えたものでも利用するという危険に追い込まれていたともなる
それが破綻してマヤ文明のように神殿は放置されて森に埋もれた。
そこにおびただしい生贄の犠牲者が埋もれていたのである。
それまた何なのかとなる。文明の生贄だったのである。
それは石油が欲しくて戦争もしなければならない犠牲者とにているかもしれない
原子力のために故郷に住めなくなった人たちの犠牲ともにている
ともかくこの辺は文明の終末的現象が起きて次の新しい価値創造の文明文化が求められている。
それが何なのかはわからないにしろそういう模索がつづく場所なのである。
それは新しい価値の新創造の場所なのである。



タグ:復興
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椿は海に映えて咲くもの (津浪の跡の海老浜に椿が映える)



椿は海に映えて咲くもの


(津浪の跡の海老浜に椿が映える)

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朝の海光り百輪の椿映ゆ
百歳を生きて幸あれや梅開く

石一つ津浪の跡に残りつつ船行く遅し春の海かな



   川の上うえのつらつら椿つらつらに見れども飽あかず巨勢の春野は (56)
吾妹子(わぎもこ)を早見浜風大和なる吾待つつばき吹かざるなゆめ
   巻一 七三 長皇子
   
あしひきの 山海石榴咲く 八つ峰(お)越え 鹿(しし)待つ君が 齋ひ妻(いわひづま)かも 
巻六 一二六二 詠人不知 
   
   
ツバキは典型的な照葉樹であり、わが国では東北南部までの照葉樹林帯には普通に分布し、海岸地方だけでなくかなり内陸部にも自生し、所々に大群生が見られる。ツバキの材は堅く丈夫なので古くから利用されてきたが、考古学資料としてもっとも古いのは福井県三方五湖の縄文遺跡鳥浜貝塚で発見された漆塗りの櫛(くし)で約5000年前のものと推定されている。鳥浜貝塚からツバキ製の石斧の柄も出土しているという。前述したように、ツバキの実は良質の油脂に富み、古代では中国への主要な朝貢品の一つであった
http://www2.odn.ne.jp/had26900/topics_&_items2/on-tsubaki.htm

『隋帝国』第二代皇帝で詩人・文人でもあった煬帝(在位604年〜618年)が遣隋使の小野妹子が献上した椿を見て『海石榴』と名付けた。それは、基本的に内陸に文化の中心を持つ漢民族にとって海は辺境であり、椿が異国の更にその海を越えたところから持ち込まれた赤い花を見て感嘆し、同じ赤い色の花をつけ、当時の中国人がこよなく愛したとされる石榴(ざくろ)の名をとって、詩の中に『海石榴』と漢名として初めて使われたという
これは、景行天皇が熊蘇征伐後、豊後(大分県中南部)に凱旋したとき土蜘蛛(つちぐも)を討つ話しで、ツバキの木を武器として槌を作った処を海石榴市(つばきち=大分県大野郡)と名付け
http://mitsusima.jugem.jp/?eid=460

ツバキは北海道を除く日本列島に、本州から四国・九州をへて琉球諸島まで自生する。ツバキ自生の北限は、本州の最北端、青森県は陸奥湾に突き出した夏泊半島の椿山である。この北限の椿山については伝説があり、「柳田邦夫全集・第12巻『豆の葉と太陽』」(筑摩書房)は次のように紹介する。


 昔この湊に往復して、木材を西に運んで居た船の船頭がこの土地の婦人と馴染みになって居りました。
或年の出舟の別れの日にその女が申すには、貴方の御国では椿の実の油を用いる故に、女の髪がいつ迄も黒く艶々つやつやとして居るということを聞いて羨ましいと思います。どうか来年はその椿の実を持って来て私に下さいと謂ったそうであります。船頭は快く承諾して約束をしましたが、何か故障があって次の年も、又その次の年も津軽には来ませんでした。
 三年目の同じ頃に、約束の椿の実を船に積んで、男は小湊へやって来たのでありますが、もうその時には待兼ねて疑い且つ恨んで、海に身を投げて女は死んでしまって居たと申します。そこでこの岬の山にあった女の墓に参って来て、その椿の実を墓のまわりに播き散らして往いったのが、後に是だけの椿の森になった のだと伝えて居ります。



  
 古代、人が約束の言葉を交わすとき、ツ(唾)の神が出現すると信じられた。「日本書紀」にも、こう記す。
時に、イザナギまた慙はぢたまふ。よりて、出で返かえりなんとす。時に、直ただに黙もだし帰りたまはずして、盟ちかひて曰のたまはく「族うがら離れなむ」とのたまふ。また曰はく、「族うがら負けじ」とのたまふ。すなはち唾つはく神を、号なづけて速玉はやたま之男のおと曰まうす。  [ 神代紀・上・第5段 ]
 http://www.ctb.ne.jp/~imeirou/soumoku/s/tubaki.html
 
 津浪で村が消滅した海老浜には今は椿が咲いていた。その椿は今までは家があって隠されていたので気づかなかった。かなりの数が咲いている。
 海老浜は前はシャリンバイの自生する南限の地として有名だった。
 椿というのも南の植物である。だから海に映えるのである。
 海にふさわしい花なのである。
 
 ただ万葉集は奈良が中心だから山に咲いていて歌われていた。山海柘榴という表現があるのはまず海柘榴があり山を加えたのである。
 
 基本的に内陸に文化の中心を持つ漢民族にとって海は辺境であり、椿が異国の更にその海を越えたところから持ち込まれた赤い花を見て感嘆し、同じ赤い色の花をつけ、当時の中国人がこよなく愛したとされる石榴(ざくろ)の名をとって、詩の中に『海石榴』と漢名として初めて使われたという
 
 中国にとって海はなじみがない、それで椿に海をつけて名前にした。石榴はシルクロードを通じて入ってきた植物である。ここでシルクロードとの交わりが見られるから興味深い。ただ椿にこれだけの交流の歴史があるとは思わなかった。
 
 照葉樹林文化に共通する物質文化は以下のようなものがあります。水晒しあく抜き技法、発酵茶、絹糸虫の繭からの製糸、漆器、柑橘シソ類の栽培、麹発酵酒、納豆などの大豆の発酵食品、ナレズシ、コンニャク、雑穀稲のモチ種、オコワ、チマキ、モチなどのモチ性の儀礼食品、高床の吊り壁、雑穀イモ類の混作焼畑、山の神信仰、歌垣や鵜飼の慣行、天の羽衣説話、死体化生神話などです。

照葉樹林文化というときイワキの波立薬師のある海岸にはツワブキと椿が咲いてそれらしかった。ツワブキは海岸地帯に自生する。
キク科の多年草。海岸近くに自生。長い柄のある葉が束生し、葉は腎臓形で厚く、上面は光沢がある。10月ごろ、花茎が約60センチ伸び、黄色の頭状花が多数咲く
これは秋に咲くのである。
いづれにしろ椿は日本では親しみのある花であり海岸地帯を起源としている。
ただ奈良時代に万葉集が作られたから山に咲いているのが多く歌われたのである。

津浪では海岸の景観が変わってしまった。見晴らしが良くなった。
津浪の跡はいつまでもあのつまにしていいのかともなる。ただ四年すぎても悲しみは変わらない
だから何か手を入れるにもまだ土地の所有者がいるのだからむずかしい。
ただいづれ整地して公園のようなものにするほかないだろう。
他ではそういう計画がある。

インターネットはこのように編集しつつ書くのである。つまりインターネットには情報の集積がありそれをいながらにして検索できるから情報社会なのである。
図書館ではなかなか検索などできない、本でもできないことが編集するのがむずかしい。「椿」というキーワードで知識が広かり編集できるのがいいのである。

 
 

タグ:椿

木の幹 (具象画から具象画をイメージて作り上げる)


木の幹


抽象画から具象画をイメージて作り上げる

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ゼンマイ

これもインターネットにあったものを変化させた。だからまた見つかれば著作権違反かもしれない、外国のアメリカのものだからまずインターネットではわからないということがある
これが著作違反だと指摘されたことがないからだ
そもそもこの抽象画はインターネットから生まれたart(技術)なのである。
創作というより技術なのである。
要するにソフトを使って変化させることでありそれは元の絵があってできる
その元となる絵がインターネットには無数にある。
だからこれ面白いから変化させてみようとなり変化させる
するとそれらしいものができる

ただ抽象画でも具象画をイメージして作為的に表現しようとしている
これは変化させたらゼンマイに見えるし極めてゼンマイのように生き生きとしたものになった。
つまり具象画をイメージしないと抽象画でも鑑賞できないということがある
これはゼンマイだなと思うとき生き生きとしたものに見える
他でもこの抽象画は何を現しているのかと見ていて苦慮する
すると何か生き生きと見えないのである。

もう一つはこれは変化させているから元の絵からは推測できない
ただここでも幹を作るために故意に作り上げたのである。
最初は抽象画だがその一部を切り取りこれは幹だな見えたので幹を作り上げる努力をしたのである
それをまたフォトスケッチャーで変化させると違ったものに見えてくるのである。
つまりパソコンだといくらでも変化させることができるのである。
タグ:木の幹

2015年03月07日

抽象画ー樹齢千年の樹(幹の変化)


抽象画ー樹齢千年の樹(幹の変化)


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樹齢千年の樹

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ゼンマイ

抽象画が変化の芸術である。だからここでもさらに変化させると違ってきた。
幹を太くした方が貫祿が出る。
それから樹齢千年の樹というのもこんな感じの樹を実際に見たことがある
ゼンマイは元の絵をもっと取り入れた方が良かった。
ただこさを見ると元の絵がわかることが問題なのである。
その元の絵はインターネットはわからない
そこがインターネットでは抽象画にしやすいということがある

文章でもインターネットではコピーしないまでも似たようなものを自分のもののようにして作り上げることができるからだ
編集してつなぎあわせるというなにかそれが元の文とオリジナルなものと区別できなくなるのである。
それが極めてインターネット的なのである。
インターネットが集合知だなどということを言う人がいた。
確かに様々な知識が集合して一つの独創性ももつことがありうる
この世に膨大な知識があってもそれを利用することはもう不可能である。
知らない知識は宇宙の星のように多すぎるのである。
インターネットで人工知能を作ろうとしているのはそうした集合知を作ろうとしている
本を買うにしても前と違って文章を書くのに自分の文脈を作るために
キーワードとかで関連したものを買ったりする
つまり関連したものを買うのには便利だということである。
ただ本のように長いもの中味が濃いものは出ていないのである。

ただインターネットでは自分で本を読んでそれを独創的に解釈するということがやりやすい、本は読んだままでは読んだことにならない
自分なりに読むということが読んだことになるのである。
他人が発見したことを自分なりに解釈して評価するのである。
それを発表できることはやはり創造的になる。
ともかく他人の本でもこうした抽象画も他人の創作のオリジナルの二次利用なのである。

タグ:樹の抽象画