2015年03月01日

原発事故で福島が東京の犠牲になった (事故を想定して福島に作った)


原発事故で福島が東京の犠牲になった


(事故を想定して福島に作った)


原発では盛んに東電は政府は事故を想定していないと言われた。でもよくよく考えてみると事故を想定していたから東京から離れた福島にわざわざ送電線で不便で金がかかっても作ったのである。
東京にも作れたがあえて作らなかった。東京だけは守らねばならない、事故になったら東京が終わりになると想定していたのである。
安全だったら東京に作るのがコスト面でも一番適地だったのである。
東京の電力を東京で供給するのが理にかなっている。
なぜ福島にもってきたのか?
それは事故を想定していたからなのである。
まず事故が起きても東京には影響が及ばない地としてフクシマが選ばれたのである。
原発が安全だったらそんなコストのかかることをしない
だから東京に原発を建てるべきだとした本が出たのは今になると理にあっていた。
その時はそれはSF小説のように見られていたのである。
そもそも原発については広く議論もされず政府主導で計画され実行されたのである。
湯川秀樹博士が原発のことで相談したらまだ時期が早いとして反対したことでもわかる。まだ日本はその技術について未熟だったのである。

それをあえて日本に作ったのはアメリカの意向もあった。アメリカは日本の風土とか外国だからその安全を真剣に考えていなかった。
ところがアメリカでは真剣に考えていたから西部の方には原発を作らず地震の少ない東部に作っていた。その安全管理も進んでいたのである。
結局他国のことになると無責任になるのが常である。
それで尖閣諸島でもアメリカは日本を守らないと言われる。
中国に日本が勝てるなどあおっていてアメリカはいざ中国と戦争となったらただ外部から見ているだけでかかわらないという。
本当に日本を守るのは日本しかない、戦争でもそうだけど原発のような危険な技術でもそうだったのである。
他国は真剣に安全のことを考えない、それで古い型のマーク1を売りつけたのである。
それが事故の基になったということもある。
アメリカの責任もあるのだがそれは日本が受け入れたから悪いとなるだけである。

核兵器のことでは国民的議論になっていたが原発は平和利用であり原水協ですら原発には賛成していたのである。
原発は国民的議論にもならず一部の指導的な人たちによって作られたのである。
それは読売新聞社長だった人が日本テレビで原発を推進させる宣伝をした。
原発が安全だという宣伝をしたのである。
その後中曽根首相などがかかわり原発は50以上にふえたのである。
福島県の渡部更三もアメリカのGEと関係して積極的に誘致にかかわったのである。
まず安全神話が作られて国民的議論にならず秘密裏に原発が作られたのである。
だから指導者に原発を作った責任が一番あるということは言える。
それにのっかって利益を得ようとした住民にもあったがやはり原発に関しては良くわからないからそうなった。
それでも巻町のように反対して建てさせなかったという町もある。
それは例外的なものでありほとんどは地元では金になると賛成したのである。

ともかく原発は危険なものだということをしりえなかった。それは支配層によって隠されていたのである。危険だというと検察まで動いてその口を封じていたのである。
原発が安全なら東京に作ればいいということは本当に今になると正論だったのである。
そして東京に作った方が安全だったという皮肉があるのだ。
東京湾は津浪をそぐ地形でありフクシマのような大きな被害にはならない
ただ大きな地震はわからない、津浪に関してはそうである。
それより東京に原発を作ることはまず左が反対するからてきないということがあった。
フクシマなら建てられるという見通しがあり建てたのである。
原発の危険性は東電でも承知していたから東京には建てなかったのである。

福島県でも広いから原発の危険性に関しては誤算があった。

その後小選挙区となって、何故か浜通りと中通りと地域差が激しいのに
相馬地域と福島市が同じ選挙区になった。
選挙では人口比率で福島市に首根っこを押えつけられる結果となっている
福島県は広いから地理的一体性がない、福島市と相馬地方が同じ選挙区にすることはわかりにくいのである。地理的に不自然なのである。
そして福島市は東京と同じように原発は離れているから安全だと見たことはありうる。
それが放射性物質が福島市まで風で流されてかえって南相馬市よりも高い地域になったのも天罰だったのかともなる。
原発事故については誰もその危険性を予知したりするものがいなかった。
ただ科学者なら爆発したらメルトダウンしたどうなるのか想定はできた。
それをしないのは「安全神話」作りその原発関係者もそれで安心していたのかもしれない、自分たちで安全神話を作り安全だと思い込むようになった。
これは科学者が集まっているのには科学的ではなかったのである。
人間は純粋に科学的だとか合理的になれない、科学が何か迷信になったりするのもそのためである。百万年に一回しか事故に起きる確率がないというのもそうであった。
その時千年単位で起きた津浪のことを警告していたが聞かなかった。

要するに「安全神話」は願望にすぎずまさに科学的でないからこそ事故が起きたのである最初に「安全神話」を作り次にコストカットに走る。
原発は誰の責任かと問われると武田邦彦氏などは政府や東電にあったと言っている。
それは国民的議論にもならず秘密裏にすすめられたからである。
民主主義が何でも情報を公開して議論してすすめることだがそさをしなかった。
最初から権力によっておしすすめられた。
それで地元の人も責任があったにしても一番責任があったのは指導的立場にある人たちだったとなる。
そうは言っても巻町のように素人でも原発のことを知り原発を建てさせなかった自治体もあったのだからそれと比較すると住民に責任がかなりあったことになる。
つまり止めることもできないことはなかったからである。

武田邦彦氏はこれだけの事故があってから今度は住民は住民エゴで原発を建てたら責任とれというのも正論なのだろう。
その一地域の利益のために広い範囲も被害を受けるからである。
それなのに双葉とか大熊では原発を再稼働しろと言っているのだから全然反省もしていないのである。

福島・大熊町長が再稼働問題に言及 

性急な脱原発議論には「今も福島原発で作業に従事している町民も相当数いる。雇用確保の面から原発との結び付きは今後も保たざるを得ない」とした。国が進める関電大飯原発の再稼働については「安全の担保と地元住民の合意が前提。政治的事情で手続きが進んではいけない」とした。
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/earthquakeafterayear/33791.html

原発なしでももう町が成り立たなくなっていた。双葉町でも富岡町でもそうである。
でも事故を起こしたら回りの市町村も被害を受けるのだから補償金をもらったらそれを回せとなる。事故後はそういう責任が課せられたというのも正論になる。
これだけ被害が出ることが国民全部が承知しているからそれなのに原発から住民エゴで利益を受けることは許されないということである。
補償金問題では継続して問題にしたけど補償金をもらっていない市町村はもらっている市町村に対して大きな不満があった。
それは南相馬市内でも小高、原町、鹿島で補償金の額に大きな差があったために起きたのである。
それは今度は相馬市とか福島市などは補償金をほとんどもらえないから不満になったのである。
なぜ30キロ圏内だけがもらえるのか実際の放射線量はさほど変わらないからである。
事故が住民が責任あるものとされる。
つまり民主主義は権利とか利益を主張することができるがそれにともなって責任も課せられているのである。
責任を逃れることができないが権利だけを利益だけを主張するということがまだ民主主義が日本では未熟なものとして成熟していない。
ともかくこの辺は様々な問題の場所になったしその問題も簡単に解決しないのである。

 
タグ:安全神話
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2015年03月02日

春の伊豆ー俳句十句


 
春の伊豆ー俳句十句

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春風や下田に望む沖の船
崖を打つ波や伊豆の寒緋桜
崖に波ひびきて伊豆や春の冨士
西伊豆や菜の花よそおい冨士望む
菜の花に長くもあれな春の冨士
西伊豆や水仙にさす夕日かな
春の星伊豆を巡るや波の音
大島や海の碧さに椿かな
大島や東京離れ春の月
春潮に魚(うお)打ち上げて冨士望む
駿河湾波打ちひびき春の冨士
羽衣の松や砂浜春の冨士
静岡や茶畑つづき春の冨士


伊豆の海に 立つ白波のありつつも 継ぎなむものを乱れしめめや(万葉集 東歌 )

伊豆を旅したのはこれも30年前以上とかそれ以上である。
これだけ時間がたつと思い出すのもむずかしくなる
でも何度も言うけど自分の場合、ゆっくり旅していたから記憶に残っているものがある。伊豆で印象的だったのは思い出しているのは菜の花が一面に咲き冨士が見えていたことである。
その菜の花がとにかく印象に残っている。
それでインターネットで写真を調べたらやはり西伊豆に菜の花の写真がでていた。
西伊豆から見た富士と菜の花が印象に残っていた。
西伊豆からの富士山はきれいだし絵のようである。
富士山は見る場所によって相当違った印象を与える。
だ。から富士山はまだ良く見ていないのである。
伊豆というとやはり波が切り立つ崖に打ち寄せる地形である。
だから万葉集にもその波のことが歌われている。

日本では海に囲まれているけどその海も場所によって印象が違ってくる。
大島から見た海の碧さは東北の海とも違う色である。
椿がその海に映える。東京から近くても大島は淋しい場所なのも不思議である。
あそこには東京の混雑したものはなにもないのである。

西伊豆から駿河湾に出た時、波がうちよせ魚がうちあげられていた。
あの辺は清水港とか何か豪快な感じがする所である。
いつも背後に富士山が見えるから富士と一体となっている
羽衣の松のある前は広々として砂浜があるから昔の日本の風景が残っている
静岡というとき茶畑があり冨士が望める
静岡とはまさに静かな岡であり茶畑をイメージする

下田は黒船が来た所だから歴史的な場所でもある。
下田まで電車が通じているが西伊豆になるとバスになる。
春にはあの辺が旅するにはいいかもしれない、富士山が見えることがいいのである。
あそこから見える富士山は遠景の冨士でありどこでも絵になっている
西伊豆は夕日でも有名である。写真とか絵もでている。
太平洋岸で夕日がさして見えるのは東北ではないからである
だから伊豆は西伊豆まで一周しないとその良さがわからないのである。

 

タグ:西伊豆
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何に時間を費やしたかが人生である (旅の時間も今行けなくなると貴重だった)


 
何に時間を費やしたかが人生である

 
(旅の時間も今行けなくなると貴重だった)


かりそめに通りすぎて
十分に愛さなかった かずかずの場所への郷愁よ
それらの場所へ 遠方から 何と私は与えたいことか
しわすれていた身振りを つぐないの行いをもう一度ー今度は独りでーあの旅を
静かにやり直したい
あの泉のところにもっと永くとどまっていたい
あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい
(リルケ)

つくづくこのことを旅ができなくなって思う。まさか遂に6キロくらいのしか往き来できなくなると思わなかった。
すでに一年は仙台にも行っていない、やっと原町とか相馬市に行くだけである。
それは外国まで自由に旅していた自分にしたら考えることもできないことだった。
そしてつくづく自分はこれだけ自由に旅できたから恵まれていたなとそのことに感謝した人間はいつしか旅すらできなくなる時が誰にでも来る
病気になったり老人になり体が弱くなるとできない
それから人間の時間は何するにしても限られているのだ
旅しているだけでも時間はたちまち過ぎてしまうのだ。

人間の一生をふりかえるときある人がガンになった。
その人は工場でフォークリフトで荷物を運ぶ仕事をしていた。
その人は余命何カ月とか言われた。その時何をしたいかと思ったらもう一度工場で働きたいと思った。仲間と一緒に仕事したいと思い実際にしたのである。
つまり何にその人が時間を費やしたのかが人生なのである。
その人はともかく何であれ工場で働いたの一生だからそこが人生であり一番愛着ある場所だった。それは理屈ではない、そこに人生の時間が費やされたからこそガンになっても
そこでもう一度働きたいとなったのである。
原発事故で避難した人が田植えをしたとき収穫したとき喜びがあった。
漁師だった人が津浪の後に仲間と漁をしたとき喜びに溢れていた。
つまりそこにその人の人生があった。
もちろん金のために生活の糧を得るためにも仕事はある
しかし人生の時間をそこに費やしたら単に金だけではなくなる
だからガンになった人がもう一度働きたいというとき金だけの問題でなくなっいたのである。
外から見るとそんな仕事がそれだけの意味があるのかとみる
でもその人にとってともかく人生の時間がそこに費やされたのだから
そこでもう一度働き死にたいとまでなっていたのである。

そういうことはなかなか若い内は理解できない、仕事なんかただ金のために働かせられているだけだというのが奴隷にされているだけだとしか不満しかないのが普通である。
漁業でも農業でも金にならないからやらないとかしかなかった。
でもあなたの人生とは何だったの?
補償金もらって遊んで暮らしていればいいの、それが人生でいいのともなる。
だから漁師が原発事故で確かに補償金をもらっているから暮らせる
でも何で自分はこの港にいるんだろうと言っていた。
もう漁師でもなんでもない、その人生はただ遊ぶだけなのかとなる。
遊び人の人生になってしまうのである
工場で働き生きた、漁師として農民として職人として生きた
何かそこに人間の人生の価値があったのである。

現代はすべて金をいくらもうけたかどれだけの収入を得るかですべてが決まる
では人生の最後に何が価値があるかとなるとどれだけ金を残したかで
人生が決まるともなる。もちろんそういう価値観も現代にはある。
金をすべて否定したりは現代はできないのである。
ただすべて金だけ計れるかというとそうはならない
老人になるともう金があっても使いこなせないのである。
自転車も何代かいいの買ったが乗る時間がないと利用できないとかなる
もう長い旅もできなくなったからである
他の自転車にとりつける動画をとるカメラも買ったがこれも利用できていない
何かをやろうとして物を買ってもできないことに気づいたのである。

老人になると何が残るかというとその人が何に時間を費やしたかなのである。
それが何であれその人の人生だったのである。
だから旅というのもあそこにいた時間がいかに貴重な時間だったか理解した。
自分が旅したのは故郷にいたくないということがあった。
故郷がいいというけど故郷はあまりにも見慣れていて感動しなくなっている。
それから田舎だと人間関係でも狭いから監視されているようでそこから解放されたいということがある。
四六時中ある老人の男性は女性が入って来たりするのを見張られている。
だから簡単に人を家に入れることもできないと言っていた。
だから故郷とか田舎はみんないいものではない、そこから解放されたいというのがある。ただ都会ではなく、旅は自然の美があるところに行きたいとなる
その時はそうした狭い嫌な人間から解放され、自然の美だけにひたっていられるということである。

ただふりかえるとこれだけ旅してもそこにいる時間が短すぎるのである。
だからなぜもっとそこに長くいなかったのかということが後悔になる
もっとその美にふれていなかったのかとなる。
今になるともっと富士山を堪能しておけばよかったとなる。
つまり旅でもその場にいる時間が貴重だった。
旅ではいつでもその景色が見られないからである。
日本の自然は今でも美しい所がいたるところにある。
それはいかに文明化してもそうである。
その美にふれる時間があまりにも短かかったのである。
それでも自分の場合はこれだけ旅したのだから旅の蓄積がある
それが記憶として蘇ってくるから俳句にしたり短歌にしたり詩にしりたする
現代は忙しいからかえって何か記憶に残ることが少ないのである。
だから浅薄な時間を人生を生きていることが後でわかるようになる

菜の花に長くもあれな春の冨士

菜の花に埋もれて長く春の冨士

そこに長くとどまっていたかった。しかしその日はもう帰らない、それは旅だけではない、人生の時間はすぎさる、その時あらゆるものがなつかしくなり価値を帯びてくる。
平凡な日常生活すらそうである。なぜなら家庭ですら喪失する。
老人ホームで家に帰りたいというとき今の家族ではなく昔あった自分が母親とかであったときの昔の家族に帰りたいということなのである。
この辺ではそもそも故郷すら消失してしまったから故郷自体がなくなったのだから
故郷にあったときのことを思うようになった。
普通は故郷など当たり前にあるものだから特別思ったりしない
でも今は故郷は特別なものになってしまったのである。
つまり人生とはあらゆることが過ぎ去ってゆく一こま一こまである。
その一こま一こまには実は意味があったがそういうふうにはその時は思わないのである。

人生で何を一番後悔しているかとなるとその喪失した帰らない人生の時間なのである。
それは巨万の金があっても取り返すことかできないのでてある。
自分は金があったから旅行していたのではない
時間があったから旅ができていたのである。
まず食べるものも宿泊代も節約していた。どうしてもそこしか節約できないからそうなっていた。
温泉宿に泊まったことはない、何か料理を楽しむ旅などしていない、それは外国でもそうだった。
自分は旅したいということが目的だったからそうなった。
だから旅を目的にすればさほど金がなくてもできるのである。
問題は時間だとなる、それで上に立つ人なのか収入があっても時間がない
時間に追われているというとき人間はつくづく二つ物を得られないようにできている
金があっても時間がない、時間があっても金がないとかなる

あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい

何か原発事故で故郷を離れた人もこういうことを思っているかもしれない
人間はもう死ぬんだとなると何か平凡なものでもいとおしくなる
旅をしている何か急いでいると旅では見逃すことが多すぎたのである。



2015年03月03日

福寿草(つづく介護)


福寿草(つづく介護)

春なるも老人施設の窓の外に枯芒見ゆ介護のつづく

我が庭に福寿草咲きその女に幸あれにしと与えけるかな

今日は寒い、今ころ寒いと余計寒く感じる
今日は近くの施設にショートスティに行った
嫌がったがいつも無理やりやっている
百歳になると実際に苦しいことあるからやめたいことはわかる
でも一カ月に一回くらいは福祉のつながりとして必要になる
この辺では訪問してもらうのは今は人手がたりないからである

なんか家に来るものはなにかしら問題をかかえている
直接家とかかわる人はその家から何かを受ける
プラスの面もマイナスの面も受ける
そもそもその家に来て裕福だから奪うことは良くない
分けられれば別にかまわない、福がその人に与えられるということもある
もちろん奪ったものに福がなくいくら不平等にしても呪われることがある

ともかく介護は不毛である。春になっても春が来るのか?
介護施設の外は枯芒、冬芒のままであり延々とつづくのである。

タグ:福寿草

2015年03月04日

春の月(原町市へ)


春の月(原町市へ)

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高台の墓地に春日や平和かな
春日さす鳩の数羽や平和かな
余裕あれ喫茶店の窓に春の月
春満月海より昇り4年すぐ
春の灯や新築の家増えにけり

川子の高台の墓地はいい場所にあると思う。あそこの下まで津浪が来たから驚く、
あそこはずっと高いから津浪とは何の関係ないにしても何かこの辺では津浪が来なくて良かったなとかなる。
自分の住んでいる所も津浪が来た場所から500メートルくらい離れていても何か津浪の影響が大きいのである。
500メートルの地点で津浪が来た家があった。あの辺は遠いからたいしたことがないと思っていた。でも床上まで来ていたのである
あそこは海から3キロは離れている。それでもそれだけの被害があった。
だから今でも住んでいて怖いとなる。実際のその感覚は自分でもわかる。
だから常にこの家の庭の石が流されなくて良かったなとか見るのである。

イオンでは本などを買った、あそこでさつまいもを焼いているのがいい、サツマイモが大きいのが一本120円だった。鹿島ではそれより細いのが170円だったのである。
鹿島ではスーパーが一軒であり値段が高くなっているから損なのである。
つくづく川内村から郡山市に移り住んだ人が帰りたくなるというのもわかる。
物価だってかえって今は田舎でもさらに辺鄙なところがありそこはかえって物価が高いのである。
そして歯医者も何もないとなると住みたくないとなる、飯館村なども住居としては森に囲まれていていいのだが規模の小さいスーパーが一軒とか他は診療所があっても何もない
第一車がないと住めないのである。なにするにも遠くに出ないと生活できないからである自転車では生活できないのである。

今暮らしいいのは最低で4,5万の都市である。そこなら田園都市にもなっているからいいのである。そこなら車がなくても便利な暮らしができる。
田舎は車がないと生活できないとしきりに都会の人が言うけど4,5万の都市なら病院でも医者でも一応そろっているからできるのである。
まず一万だったら今は不便である。車がないと医者にも行けなくなる。
そして年取って病気とか介護になると余計に今は不便になるのである。

今日は春満月が出ていた。ガストの窓にその満月がでていた。
今日は老人施設にショートスティだから食事の用意をしなくてもいいからゆっくりしていた。
食事の用意で結構時間がとられるのである。
金があればもう外食にすれば時間の余裕が生まれる。
ただ野菜が不足するから野菜を食べるためには家で料理するほかないのである。

この辺は震災から四年すぎる。春満月が出たとしても津浪の跡は以前として寥々としている。ただ徐々にその傷跡も癒えて春満月がふさわしいとなる。
ただその日はまだまだ遠い、あと十年なのか二十年なのか?
その傷跡はあまりにも深かったのである。
新築の家は今でも増えている、でも家を建てられる余裕のある人はもう少なくなっているという、あとは復興団地のような所に入る人なのかもしれない。
今日はともかくあたたかかった。でもまた北風が吹いてきたのである。
電動自転車は風でも馬力があるから走れるのかいい、これがないと今日は原町には行けなかった。

タグ:春の月

2015年03月05日

復興とは経済的復興だけなのか? (田がない田園都市がイメージできない)


復興とは経済的復興だけなのか?


(田がない田園都市がイメージできない)

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田んぼがあり山から水が流れてきて山の神の信仰が生まれた
それは江戸時代の前からつづいていたのである。
その田んぼがなくなる世界がイメージできない
そこで思考停止になってしまう

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田んぼなくなったあとの世界がイメージできない
田園都市とは何なのか?
田んぼがなん田園都市が日本ではありうるのか?
そこは公園のようなものになるのか、原始の森になるのか?
その変化に対応できない
ひまわりを植えてひまわりの田園都市なのかともなる
ひまわりから何もとれない、食料にはならない
ただの花畑にしてて田園都市なのだろうか?



今回の津浪とか原発事故が提起した問題は何なのかというとあまりにも多岐にわたるから様々な見方が生まれた。
経済的側面からのみ語られのは震災前からの継続である。
福島県の人口は実際は減っていないとか経済的損失はそんなにないとかそういう本もでていた。
そもそも第一次産業は浜通りでも一割にも満たないのである。
まず漁業などは零細であり宮城県からする10分の一とかしか漁獲量がなかった。
農業はそれなりの規模があったから違っていた。
ただこれも跡継ぎがいないとか全国的にも農業の問題は同じである。

ただ第一次産業というのが何を意味しているのか?そのことが問われたのである。
何度も書いてきたように農業であれ漁業であれ林業であれ建築土木ですらその土地と密着した仕事なのである。
小高の大工さんには本当に感心した。庭作りから大工でも壁塗りから何でもできる万能の人だった。そして庭作りは農業の知識が必要である。
なぜならまず木を植えたり花を植えたりするのは農業と同じなのである。
だから第一次産業は農業だけでもない裾野が広いのである。
確かに今の時代は会社中心であり工業中心だけど地方では以前として第一次産業の重みがある。
それは統計的には一割にもみたない、だからこの辺で別に田畑を作らなくても今ならいくらでも食料が入ってくるから生活できる。
米なんか減反で余っているから補助金で零細農家は兼業農家は収入になっているんだよとか言われてきた。そういう事情もある。
農家に嫁いだ女性は農業などしていない、田んぼはあっても他にまかせているだけであり本人は何もしない、農作業すらしたこともないのかもしれない,夫は会社員であり妻も会社で働いているだけなのである。つまり田畑をもっていても何もしない嫁が多くなっているのがいるのが今の実情である。
昔の農村の嫁のイメージとは違っている。

自分の場合はこうした農業などの第一次産業がすでに田舎でも全体の一割にも満たないということがあってもそもそも田んぼがない田舎がイメージできるかとなるとできないだろう、田舎とは田があって田舎であり田園としとは田があって田園都市になっている。
そもそも自分はそうした統計的数字としての第一次産業ではなく農業ではなく
現実の感覚としての第一次産業なのである。
山があり森があり田畑があり海があり漁業があるという風景が作りだしている田舎なのである。
柳田国男が民俗学を創始したのは日本文化としての日本人の魂を形成してきた文化の考察だったのである。経済的数字とか生産力としての数字ではないのである。

だからそれは日本人の信仰にまでなっていた。山から水が流れて田に流れる、それで山の神は田植えのとき平地におりてくる。そして山には先祖が眠るとなったのは田作りから起きた信仰なのである。
それは日本人の信仰までなったということ単に米を作り腹を満たすだけではなくなっていた。
外国でもオーストラリアでもアメリカでも飛行機で種まいて米を作っているが日本のような長い年月で培われた文化にはなりえないのである。
それは効率的に食料を大量に作るというだけである。
経済性だけが問題に世界である。

日本の田んぼは文化であり日本人の文化を精神を育んできたということがある。
だから田んぼがなくなった荒野となった風景は何なのだろうと思って今までも報告してきた。
田んぼがない風景というのがイメージできないからである。
それで復興というとき一体何が復興なのだろうとなる
田んぼがない復興とはどういうことなだろうとなる
田んぼなどなくても街は成り立つといっても何百年もつづいた田んぼがなくなるということが田んぼがない田舎はどうなるのかということがイメージできない
それだけ衝撃が大きかったのである。
田園としていってもその肝心の田がない田園都市がありうるのか?
北海道とかは牧場地帯でありヨーロッパでも牧場都市があるから田がなくてもありうる。飯館村などは牛の村だから牧草地があるから田んぼだけではない
でも飯館村では広いから田んぼの面積も広かったのである。
そこは牧場的風景でもなかったのである。
農民でなくても別に田畑で農作業しなくても景観が人間の心を精神を作ることがある。
景観の影響は思った以上大きいのである。
だから旧街道の日立木から相馬市のことを何度もプログで書いてきた。

五本松のことも書いた。

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五本松ここまた通り冬田かな

冬田というのがあって五本松がありそれが心に深く影響する。なぜなら五本松には人間を見ているし冬田もそれは南相馬市のような荒野になったのとは違う。
冬田は田であり春には田植えをして米をとる生活の場なのである。
冬田はまさに田園都市を形成する田なのである。

要するに現代はすべて経済的統計として数字で量で計る。でも計り得ないものがそこにはあった。それが文化的側面でありそれは精神を形成するものだせどそこはあまり語られないのである。
シュペングラーの指摘したのはまさに文化的な喪失による人間の精神の危機を警告していたのである。
ともかく田園都市が復興の目的だとしてもその田園とは何なのかと問われる。
それは公園がある近代都市なのか?何なのだろうとなる。
そういう文化的な面からも精神的な面からも復興を考えねばならないのである。
ただ今までのように経済的指標だけを問題にすれば原発というのも経済的恩恵は大きいのだから原発はいいものだとなり再稼働しろとなる
現実に大熊町長はもう原発なしでやっていけない町の事情を訴えていることでもわかる。


タグ:復興
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2015年03月06日

復興のビジョンとしての田園都市の形成 (復興だけではなく新しい価値の新創造へ)


復興のビジョンとしての田園都市の形成

 
(復興だけではなく新しい価値の新創造へ)


●人口増減の法則性

技術から情報へ、経済から文化へ、ハードからソフトへの比重が移ります
こうして二十一世紀のわが国では経済のあらゆる分野で「意味」や「文化」、つまり「コトバ」や「デキゴト」の「コト」のしめる比重が急増していくことです
(日本はなぜ縮んでゆくのかー吉田隆彦)

この本では人口増減には法則性がある。石器時代でも技術革命があり前期で後期では後期が人口増加しいる。それから縄文時代から稲作が普及した弥生時代でも飛躍的に人口は増加した。技術革新が人口を増やすのである。
江戸時代は大開墾開拓の時代で人口が増えていった。それが幕末辺りで飽和状態になり停滞した。
その時明治維新になり日本の工業化がはじまった。富国強兵であり太平洋戦争で三百万人死んでも焼け野原になっも復興したのは日本では工業化されていなかったからである。
経済成長する余地が十分に残されていた。
戦後十年は何度も言っているように炭が燃料であり水道もないし洗濯は近くの小川でしていたのだから江戸時代さほど変わらない生活だったのである。
道も舗装されていないし何もないところからはじまった。
その時団塊の世代が生まれた。人口が爆発にふえたとき養えたのは日本では工業化する発展する余地が残されていたからである。
経済成長る余地がありそれで高度成長になったのである。
つまりイギリスからはじまった産業革命が世界の人口を増やして日本の人口を増やしたのである。
だから人口増減には法則性があり上昇期と下降期がある。

今は下降期に入っているからその変わり目の現象が起きている。
下降期には新しい時代へ向かう模索期間であり成熟社会になり価値観が変わるのである。外面的拡大から内面的な価値観へシフトする。情報社会とはまさにそうである。
これからの時代は高度成長時代とは違う。物はあふれているしインフラも整備されている機械化も進んでいる。その中で何が価値が出てくるかは自ずと違ってくる。
つまり文化の時代になる。新しい文化創造の時代になる。
自分が主張していた国風文化の回帰なのである。
文化とはその国の風土とか歴史とかに深く根ざしたものでありそれは国ごとに違っているからである。
中国人も今は爆買などと言っているがこれからは日本の文化的なものを求めて観光に来るようになるだろう。
そもそも欧米に日本人が旅行しても買うものがない、何を買うのかと言ったら文化的なものになる。一番わかりやすいのは芸術にふれることなどである。

●文化の時代の田園都市形成

風土(地形)ー第一次産業
歴史(historyーstory)
都市の形成(商業、工業)

風土というとき和辻哲郎の風土論は有名である。ヨーロッパなら牧場的風土とか中東は砂漠的風土から一神教が生まれたとか風土論から文化文明を見る。
牧畜文化が都市文明を発達させたとか稲作文明が仏教的な物の見方を作ってきたとかある牧畜文化は移動文明でありユーラシア大陸を移動して今のシリア辺りに到達して海洋民になったという説もうなづける。
シリア辺りは文明の十字路だったのである。だから最古の農業が開始されたという。
遊牧民が都市を作ったというとき牧畜民には遊牧民には動物を率いて治めるというのがありそれが人間にも適応されたのかもしれない、なぜなら奴隷制とは人間を家畜化することであるからだ。
そういう発想は農耕民には稲作民にはないからだ。
田園都市というとき大都市の郊外のような所をイメージする、田園都市線などがそうである。それは大きな都会化した田園都市である。
この辺はそれとも違っている。五、六万であり規模的には小さいからである。
だから田園都市という言葉は何かそぐわないかもしれない、在地都市とか自然からまさに自然に成長した城下町的イメージがある。

外国の田園都市は商業がまずありそのスケールも大きいから日本とは違っている。
大陸はもともと交通が発達してネットワーク社会が発達していたのである。
川が運河のように交通路になったこともある。
ヨーロッパは川が交通路となって商業都市と発展したのが多い。
大きな川があり運河となり地中海も貿易の海となりやがて大航海時代となった。
そういう地理的風土がヨーロッパを形成して世界へと波及したともなる。
田園都市は封建時代の城下町のように自然生成的都市と大都市の郊外型田園都市がある。それは近代的田園都市である。
この辺の田園都市の形成は相馬藩があり六万石でも自然生成した田園都市構想になる。

歴史(historyーstory)がある、物語がある田園都市である。
ただ会津藩とか伊達藩に比べると規模が小さいか大河ドラマになるようなものがないのが残念である。
ただ規模としてヒューマンサイズであり地理的にも一体感がもてる土地なのである。
自転車で一日で行ける範囲にあるからだ。
その地理でも海があり山があり川があり複雑なのである。
飯館村まで相馬藩であり飯館村は気候的にも環境的にも相当違った高原の山の村なのである。
それが原発事故で消失して葦が繁る原野になってしまった。
あのままにしていると元の森にもどる。原野化したところはやがて日本では木が生えて森になるのである。だからそこは鬱蒼とした原始の森に還ってしまう。
相馬藩内では双葉とか浪江とか飯館村でも消失するという衝撃が大きかった。
そこが元の原野に森にもどってしまうというのはどういうことなのか?
そこにはもう村は復興しないのかとなる。

●津浪の被害地が復興が遅れているのはなぜか

気仙沼辺りではインフラ整備、土木工事で高台を作っているがそこに住む人がいないという。復興住宅でも家賃が高いから入る人が少ないとか問題が出ている。
公共事業のように道路を作り高台を作り防波堤を作っても住む人がいなくなる
これは上から国が計画して下におしつけているからである。
インフラを用地を確保したからここに住んでくださいと言っても住民の要望を無視したものだからそうなっている。
公共事業は地方への中央からの金を分配するだけで実際は地方では無駄なものとしてあったのも多いからそれとにている。
やたらと道路を田舎では作ったのもそうである。
そんなに道路が必要なのかというのも疑問だった。
それは必要だからしているのではなく土木関係者に仕事を与えるためだということもあった。
だからそれと同じ方法で上からのおしつけで復興しようとしてもそれはそこに住んでいる人の要望に合わないのである。

要するに津浪からの復興であれ原発事故からの復興であり簡単には解決しない複雑な問題なのである。
それは何か新しいものを創造することが要求されている。
今までの発想では継続でも復興できない、というより何か大きな変革が要求されている。そういう根本的変化を強いられるから簡単にその解決方法が見つけられないのである。
今までの継続があってもいいがそこに新しい発想が強いられている。
津浪の跡には何もない更地になったとき、何か新しいものを作るには向いているからだ。それがただ高台を作りそこに住んでくださいといってもそこに住む人は住みたくないとなれば住民のニーズにあっていないのである。
住民はかえってもうそこに住むことをあきらめ流出している
すると上からの公共事業だけが残り住人がいないとしたらそこは何なのだとなってしまうだろう。

いづれにしろ日本は戦後七十年で外向的にもアメリカの植民地支配から離脱する時期にもなり憲法が問題になったり今回の津浪や原発事故で変革の時期に入った。
それは大きく見れば新しい文明の模索時期になったのである。
この辺の田園都市構想にしてもそれが簡単でないのはそのためである。
田んぼがない世界がイメージできないということがまさにそうだったのである。
ただ原発事故周辺はうまくいけば文明変換のモデル地域ともなるか可能性がある
一方でマヤ文明やインカ文明のように森に埋もれたり衰亡してゆく地域にもなる。
ここはそういう模索地帯なのである。
だから学問というときただ現実とは離れて理想郷を求める、でもここではまず現実が改革することを強いられている。
だから学問でもそれが現実的なものとして志向されているのである。
机上の学問ではない実際の学問として適用されることが求められているのである。
まずとどういうビジョンをもつかということが学問でも要求されている。
それは学問でもこの現実の場で適用されねば意味がないとなっているのだ。
自分が探求しいるのはここの現実から離れてありえないのである。

●復興だけではない新しい価値の新創造へ

歴史は逆戻りしない、元の時代へは戻れない、炭や薪を燃料として電気なしの生活はできない。
自然エネルギーの利用とか違ったものになる
復興というとき元と同じ状態の復帰という感覚である。
でも実際元と同じには津浪の被害地域も原発事故の周辺もならない
田がなくなったら田園都市がありうるのかという前のテーマで言ったことなのである。
田がなくなったものを埋めるのは何かというと前あった田とは限らないものとなった。
一時ひまわり畑になったのも一時的でもそれも新創造の新しい風景だった
戦後七十年とかは本当に外交でもアメリカの植民地支配から脱却する時期だとか変革を強いられる時代になったのである。
沖縄の基地問題と原発問題は相似している面があったからである。
アメリカの植民地支配として共通な面があったからである。

戦後七十年は憲法改正が話題になったように大きな変わり目にあらゆるものが直面している
人口が減少してゆくというとき工業社会が成熟した結果であり高度成長も日本は終わり
別な価値を求める時代になった。それは何なのかわからないにしてもそういう新創造の時代に突入したのである。
これは津浪や原発事故周辺に先取りして現象化したのである。
だから学問も机上の学問ではない、実際に有効に現場で働く学問なのである。
新しいビジョンを提示するのも学問の役割になる。
それが実際に現実化しないものなら学問は遊びだとなる
要するに新しい価値創造が学問にも求められているのである。
それは科学の時代だから科学だけに求められているようでも文系など役に立たないと言われても文系でも現実の場にたコミットする
科学だけではない総合力としての学問としてコミットすることが強いられているのである
そもそも津浪でも原発でも科学だけではどうにもならない総合力として対処するものだった。郷土史なとど原発に何の関係もないように見られていたが四百年前に相馬藩でも七百人津浪で溺死した記録があっても無視されていた。
それから原発事故の原因を探求してきたがそこに科学だけの問題ではない
何かモラル的な問題もあった。東電であれ政府であれ「安全神話」を権力で作り出した
傲慢さがあった。
権力の一方的乱用の結果として事故が起きたこともあった。
そして文明史的にもなぜ原子力が生まれたかというとそれは文明がこれだけの増加した人口を養うのには原発に頼るという人間の限界を越えたものでも利用するという危険に追い込まれていたともなる
それが破綻してマヤ文明のように神殿は放置されて森に埋もれた。
そこにおびただしい生贄の犠牲者が埋もれていたのである。
それまた何なのかとなる。文明の生贄だったのである。
それは石油が欲しくて戦争もしなければならない犠牲者とにているかもしれない
原子力のために故郷に住めなくなった人たちの犠牲ともにている
ともかくこの辺は文明の終末的現象が起きて次の新しい価値創造の文明文化が求められている。
それが何なのかはわからないにしろそういう模索がつづく場所なのである。
それは新しい価値の新創造の場所なのである。



タグ:復興
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椿は海に映えて咲くもの (津浪の跡の海老浜に椿が映える)



椿は海に映えて咲くもの


(津浪の跡の海老浜に椿が映える)

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朝の海光り百輪の椿映ゆ
百歳を生きて幸あれや梅開く

石一つ津浪の跡に残りつつ船行く遅し春の海かな



   川の上うえのつらつら椿つらつらに見れども飽あかず巨勢の春野は (56)
吾妹子(わぎもこ)を早見浜風大和なる吾待つつばき吹かざるなゆめ
   巻一 七三 長皇子
   
あしひきの 山海石榴咲く 八つ峰(お)越え 鹿(しし)待つ君が 齋ひ妻(いわひづま)かも 
巻六 一二六二 詠人不知 
   
   
ツバキは典型的な照葉樹であり、わが国では東北南部までの照葉樹林帯には普通に分布し、海岸地方だけでなくかなり内陸部にも自生し、所々に大群生が見られる。ツバキの材は堅く丈夫なので古くから利用されてきたが、考古学資料としてもっとも古いのは福井県三方五湖の縄文遺跡鳥浜貝塚で発見された漆塗りの櫛(くし)で約5000年前のものと推定されている。鳥浜貝塚からツバキ製の石斧の柄も出土しているという。前述したように、ツバキの実は良質の油脂に富み、古代では中国への主要な朝貢品の一つであった
http://www2.odn.ne.jp/had26900/topics_&_items2/on-tsubaki.htm

『隋帝国』第二代皇帝で詩人・文人でもあった煬帝(在位604年〜618年)が遣隋使の小野妹子が献上した椿を見て『海石榴』と名付けた。それは、基本的に内陸に文化の中心を持つ漢民族にとって海は辺境であり、椿が異国の更にその海を越えたところから持ち込まれた赤い花を見て感嘆し、同じ赤い色の花をつけ、当時の中国人がこよなく愛したとされる石榴(ざくろ)の名をとって、詩の中に『海石榴』と漢名として初めて使われたという
これは、景行天皇が熊蘇征伐後、豊後(大分県中南部)に凱旋したとき土蜘蛛(つちぐも)を討つ話しで、ツバキの木を武器として槌を作った処を海石榴市(つばきち=大分県大野郡)と名付け
http://mitsusima.jugem.jp/?eid=460

ツバキは北海道を除く日本列島に、本州から四国・九州をへて琉球諸島まで自生する。ツバキ自生の北限は、本州の最北端、青森県は陸奥湾に突き出した夏泊半島の椿山である。この北限の椿山については伝説があり、「柳田邦夫全集・第12巻『豆の葉と太陽』」(筑摩書房)は次のように紹介する。


 昔この湊に往復して、木材を西に運んで居た船の船頭がこの土地の婦人と馴染みになって居りました。
或年の出舟の別れの日にその女が申すには、貴方の御国では椿の実の油を用いる故に、女の髪がいつ迄も黒く艶々つやつやとして居るということを聞いて羨ましいと思います。どうか来年はその椿の実を持って来て私に下さいと謂ったそうであります。船頭は快く承諾して約束をしましたが、何か故障があって次の年も、又その次の年も津軽には来ませんでした。
 三年目の同じ頃に、約束の椿の実を船に積んで、男は小湊へやって来たのでありますが、もうその時には待兼ねて疑い且つ恨んで、海に身を投げて女は死んでしまって居たと申します。そこでこの岬の山にあった女の墓に参って来て、その椿の実を墓のまわりに播き散らして往いったのが、後に是だけの椿の森になった のだと伝えて居ります。



  
 古代、人が約束の言葉を交わすとき、ツ(唾)の神が出現すると信じられた。「日本書紀」にも、こう記す。
時に、イザナギまた慙はぢたまふ。よりて、出で返かえりなんとす。時に、直ただに黙もだし帰りたまはずして、盟ちかひて曰のたまはく「族うがら離れなむ」とのたまふ。また曰はく、「族うがら負けじ」とのたまふ。すなはち唾つはく神を、号なづけて速玉はやたま之男のおと曰まうす。  [ 神代紀・上・第5段 ]
 http://www.ctb.ne.jp/~imeirou/soumoku/s/tubaki.html
 
 津浪で村が消滅した海老浜には今は椿が咲いていた。その椿は今までは家があって隠されていたので気づかなかった。かなりの数が咲いている。
 海老浜は前はシャリンバイの自生する南限の地として有名だった。
 椿というのも南の植物である。だから海に映えるのである。
 海にふさわしい花なのである。
 
 ただ万葉集は奈良が中心だから山に咲いていて歌われていた。山海柘榴という表現があるのはまず海柘榴があり山を加えたのである。
 
 基本的に内陸に文化の中心を持つ漢民族にとって海は辺境であり、椿が異国の更にその海を越えたところから持ち込まれた赤い花を見て感嘆し、同じ赤い色の花をつけ、当時の中国人がこよなく愛したとされる石榴(ざくろ)の名をとって、詩の中に『海石榴』と漢名として初めて使われたという
 
 中国にとって海はなじみがない、それで椿に海をつけて名前にした。石榴はシルクロードを通じて入ってきた植物である。ここでシルクロードとの交わりが見られるから興味深い。ただ椿にこれだけの交流の歴史があるとは思わなかった。
 
 照葉樹林文化に共通する物質文化は以下のようなものがあります。水晒しあく抜き技法、発酵茶、絹糸虫の繭からの製糸、漆器、柑橘シソ類の栽培、麹発酵酒、納豆などの大豆の発酵食品、ナレズシ、コンニャク、雑穀稲のモチ種、オコワ、チマキ、モチなどのモチ性の儀礼食品、高床の吊り壁、雑穀イモ類の混作焼畑、山の神信仰、歌垣や鵜飼の慣行、天の羽衣説話、死体化生神話などです。

照葉樹林文化というときイワキの波立薬師のある海岸にはツワブキと椿が咲いてそれらしかった。ツワブキは海岸地帯に自生する。
キク科の多年草。海岸近くに自生。長い柄のある葉が束生し、葉は腎臓形で厚く、上面は光沢がある。10月ごろ、花茎が約60センチ伸び、黄色の頭状花が多数咲く
これは秋に咲くのである。
いづれにしろ椿は日本では親しみのある花であり海岸地帯を起源としている。
ただ奈良時代に万葉集が作られたから山に咲いているのが多く歌われたのである。

津浪では海岸の景観が変わってしまった。見晴らしが良くなった。
津浪の跡はいつまでもあのつまにしていいのかともなる。ただ四年すぎても悲しみは変わらない
だから何か手を入れるにもまだ土地の所有者がいるのだからむずかしい。
ただいづれ整地して公園のようなものにするほかないだろう。
他ではそういう計画がある。

インターネットはこのように編集しつつ書くのである。つまりインターネットには情報の集積がありそれをいながらにして検索できるから情報社会なのである。
図書館ではなかなか検索などできない、本でもできないことが編集するのがむずかしい。「椿」というキーワードで知識が広かり編集できるのがいいのである。

 
 

タグ:椿

木の幹 (具象画から具象画をイメージて作り上げる)


木の幹


抽象画から具象画をイメージて作り上げる

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ゼンマイ

これもインターネットにあったものを変化させた。だからまた見つかれば著作権違反かもしれない、外国のアメリカのものだからまずインターネットではわからないということがある
これが著作違反だと指摘されたことがないからだ
そもそもこの抽象画はインターネットから生まれたart(技術)なのである。
創作というより技術なのである。
要するにソフトを使って変化させることでありそれは元の絵があってできる
その元となる絵がインターネットには無数にある。
だからこれ面白いから変化させてみようとなり変化させる
するとそれらしいものができる

ただ抽象画でも具象画をイメージして作為的に表現しようとしている
これは変化させたらゼンマイに見えるし極めてゼンマイのように生き生きとしたものになった。
つまり具象画をイメージしないと抽象画でも鑑賞できないということがある
これはゼンマイだなと思うとき生き生きとしたものに見える
他でもこの抽象画は何を現しているのかと見ていて苦慮する
すると何か生き生きと見えないのである。

もう一つはこれは変化させているから元の絵からは推測できない
ただここでも幹を作るために故意に作り上げたのである。
最初は抽象画だがその一部を切り取りこれは幹だな見えたので幹を作り上げる努力をしたのである
それをまたフォトスケッチャーで変化させると違ったものに見えてくるのである。
つまりパソコンだといくらでも変化させることができるのである。
タグ:木の幹

2015年03月07日

抽象画ー樹齢千年の樹(幹の変化)


抽象画ー樹齢千年の樹(幹の変化)


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樹齢千年の樹

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ゼンマイ

抽象画が変化の芸術である。だからここでもさらに変化させると違ってきた。
幹を太くした方が貫祿が出る。
それから樹齢千年の樹というのもこんな感じの樹を実際に見たことがある
ゼンマイは元の絵をもっと取り入れた方が良かった。
ただこさを見ると元の絵がわかることが問題なのである。
その元の絵はインターネットはわからない
そこがインターネットでは抽象画にしやすいということがある

文章でもインターネットではコピーしないまでも似たようなものを自分のもののようにして作り上げることができるからだ
編集してつなぎあわせるというなにかそれが元の文とオリジナルなものと区別できなくなるのである。
それが極めてインターネット的なのである。
インターネットが集合知だなどということを言う人がいた。
確かに様々な知識が集合して一つの独創性ももつことがありうる
この世に膨大な知識があってもそれを利用することはもう不可能である。
知らない知識は宇宙の星のように多すぎるのである。
インターネットで人工知能を作ろうとしているのはそうした集合知を作ろうとしている
本を買うにしても前と違って文章を書くのに自分の文脈を作るために
キーワードとかで関連したものを買ったりする
つまり関連したものを買うのには便利だということである。
ただ本のように長いもの中味が濃いものは出ていないのである。

ただインターネットでは自分で本を読んでそれを独創的に解釈するということがやりやすい、本は読んだままでは読んだことにならない
自分なりに読むということが読んだことになるのである。
他人が発見したことを自分なりに解釈して評価するのである。
それを発表できることはやはり創造的になる。
ともかく他人の本でもこうした抽象画も他人の創作のオリジナルの二次利用なのである。

タグ:樹の抽象画

南相馬の玄米に放射性物質が直接付着 (セシウムボールの放送で不安が増大)


南相馬の玄米に放射性物質が直接付着


(セシウムボールの放送で不安が増大)

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クリック拡大
30キロ圏内に緑色の点がありここは高い
でも30キロを出た鹿島区では緑色の点がないのである
だから30キロ圏内で線引きしたのは科学的だったと一目でわかる


●セシウムボールの不安

天候・風向きなど、様々な調査を重ねた結果、やはり、福島第一原発から風に乗り飛んできた放射性物質が付着したのではないか、という結論になる。
http://ch.nicovideo.jp/oshidori/blomaga/ar577921

NHKで放送したセシウムボールの放送は怖いと思った。セシウムは水に溶ける水溶性なの?二種類あって水に溶けないセシウムボールがある。
セシウムは最初水に溶けず泥などに付着していると言われていた。
だから真野ダムの水を飲んでいても大丈夫なのかと思った。
それが水に溶けるとなるとどうなるのか?
ただ水に溶けるのは安全だという、なぜなら体に吸収されても日にちがたつと排泄されるからだという。

ところがセシウムボールは水に溶けないのだから体内にとどまる
肺にとどまりやすく放射線をだしつづけガンになるという
そのセシウムボールが南相馬市の玄米に付着した
これは土壌からなど吸収されたものではない、爆発以後に飛んできたものである。
つまり爆発以後も放射性物質がとんできているのである
こんなもの米に付着していたら地元でも食べたくないし外部の人も買わないだろう。
どういうわけか最初は水に溶けないセシウムボールが飛んでその後に水に溶けるセシウムが流れた。これは種類の違ったものである。
すると最初の内の被爆が危険だったのか?
いづれにしろ放射線の被害については明らかではない、わからないことが多すぎるのである。だから憶測ばかりが肥大化する傾向がある

三十キロ圏内を避難地域にしたのは正しかった

原因は何か農水省で調査した結果、2013年8月に何らかの放射性物質の放出があったのではないか
放射性物質が付着している稲穂の部分は、位置からみると、8月に成長する部分であるということ、
同じ地域で7月に収穫した小麦などには放射性物質の付着が見られないこと
などから、8月に何らかの事象があり、放射性物質が付着したのではないかとのことであった

この地図をみるとやはり30キロ圏内が避難地域にしたのが正しかった。それはチェルノブエリでも避難させて人は30キロ圏内は立ち入り禁止にしている。
30キロ圏内というのは科学的根拠があった。
それはその後に飛んできた放射性物質が30キロ圏内で顕著に見られたことでもわかる。
これは3月ではない東風が吹いているときではない、8月だとすると南風なのである。
8月に成長して南風で運ばれて付着した。
つまり南風だったらこんな分布になったのである。
原町区までは30キロ圏内であり小高区は20キロ圏内である。
この距離に比例して8月に飛んだ放射性物質は分布しているのだ。

3月11日は東風であり浪江の山の方から飯館村に流れた。
南風だったらこんな分布になったのである。
明らかに30キロ圏の外の鹿島区は低くなっていた。
距離の二乗に比例して放射性物質が拡散するというのは科学的な根拠があった。
それで補償金も原町区では2年2カ月分、一人十万が支給されたようである。
鹿島区は一人十万で7カ月分だったのである。
これは政府で決めたことなのである。
大田地域は原町区に入る。
やはり小高区は距離では近いから危険地帯でありその後も放射能の影響を受けていたから避難区域にしたのは正しいともなる。
そして今後住むとなると以前として廃炉になっていないからまた放射性物質がセシウムボールも飛んでくる危険がある、だから住みたくないとなる。
結局チェルノブエリのことをもっと参考にするべきだったのだろう。
30キロ圏内は立ち入り禁止にした。フクシマより線量が低くてもそうしたのである。
ただ老人は細々と野菜を作り住んでいる人たちがいた。
老人は放射線の影響を受けにくいからそうなった。

●自分の体のことも心配

被ばくによる鼻血問題、口内炎、皮膚の疾患など、微量なセシウムボールに反応している可能性もあるのではないか。
とにかく、放射性物質にまつわる研究は、まだまだ未解明な部分が大きいのである
http://ch.nicovideo.jp/oshidori/blomaga/ar578043

放射線が口の周囲に当たると、唾液を出す細胞がダメージを
受け、唾液が出にくい状態になります。そうなると口やのどが
カラカラに乾いたり、唾液がねばねばしてくる症状が出てきま
す。
 実際には、食べ物をかんでのみ込もうとしても、パサパサとし
て食べ物がまとまらずのみ込めない、夜中に口が乾いて目が覚
めてしまう、唾液の殺菌作用がなくなり、虫歯が一気にふえる
などの症状が起こります。
http://ganjoho.jp/data/public/qa_links/brochure/odjrh3000000purk-att/
203.pdf#search='%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%
B7%9A+%E5%8F%A3%E5%86%85%E7%82%8E'

最近ずっと口内が乾燥して夜に寝ているとからからになっている。
口内炎というものではないがこれも不安になる。
自分は爆発した日に外を自転車で出歩いていたからである。
ただこれは老化現象であり放射線とは関係ないだろう。
別に味もあるし普通に食事できているからである。
夜眠るとからからになっているから結構苦しいのである。
自分は鼻ももともと悪く口呼吸していることも影響している
だからこれが放射線の影響とは思えない
それでも鼻血とかあったのなら不安になるだろう

放射線のことはわからない、だから不安になる人は不安になる
それより栄養をつけて運動して免疫力をつければ大丈夫だという人もいる
結局放射線の影響はわからない、科学者もわからない
セシウムボールについてもその影響も不確かである。
ただはっきりと目に見える形でセシウムの粒子を見つけたのだから
この発見は大きいのだろう。
それも水に溶けない、体に残るというのも科学的根拠がある。
ガンにまでなるかどうかはわからない、
放射線のことは何かと隠されるからNHKでも肝心なことは放送していないという
不安をあおるからしない、政府でも問題にする

茨城県の一般家庭の掃除機ゴミパック内から発見された2粒のホットパーティクルについて、
ガンダーセン氏はこう語ったそうです。
「この粒は80%どころの話ではないよ。ほぼ核燃料100%の粒だ。
まるいだろう? 核燃料はすごく高温になって解けるとこうして粒がまるくなるんだよ。
これはピュアなピュアなピュアな100%の核燃料だ。これはとてつもなく放射性が高い。
 事故のあった炉心から飛び出してきたんだ。
 本来ならこんな物は何重にも厳重に隔離されているハズの物質であって
普通に人が生活する環境にあってはいけない物なんだ。
もしこれが人体に入ったら100% 必ず癌になる」

こんなことを言う学者もいるから本当のことはわからない
ピュアなピュアなピュアな100%の核燃料
純粋な核燃料でありセシウムボールはやはり何らかの根拠があり大きな発見だったのか?



posted by 老鶯 at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2015年03月08日

津浪原発事故で復興しないのは高齢化社会のため (急速に老人が増えて取り残される地帯)



津浪原発事故で復興しないのは高齢化社会のため


(急速に老人が増えて取り残される地帯)


南三陸の前の志津川町から登米市に移り住んだ人は92歳の夫を介護していた。
病院が近いので長生きできたという。
南三陸は不便な地域だった。不便な所は病院とか医者が少ない地域である。
川内村では帰ったのは1500人とかいても老人が多いのである。
そこで立派な雛人形を飾ったが孫が見にこない、来たいと言うのだけど来ない
それでスマホで写真をとり孫に送っている。
娘なのか夫が息子なのか若い夫婦は帰らない
「放射能怖いから・・・帰りたくても帰れないんだ」
そういわれるとどうにもならないよと言っていた。
だけどもし娘でない嫁がそういっていたら若い夫婦はだけの方がいいとなる
なにかこの際、放射能のせいにすれば自分たちの言い分が通るということもある
姑と一緒に暮らすのが嫌だということがあり別々に暮らす方がいいとなる
つまり不便な川内村に住みたくない、姑と一緒に住みたくない
この際放射能のせいにすればそれができるともなる

ある女性の老人はは息子娘のところに行ったがいられなくてまた仮設に返って来た
これもまた老人がいにくいことがある。
老人は住み慣れた家と家族とか地域がいいのである。
そもそもなぜこんなに家族が分断されたのか?
津浪や原発事故のためだとなるがそれだけでもない
もともと大家族というのはあったとしても形だけであり昔の大家族とは違っていた。
地域でもこれも今までの地域とは違っていた。
便利な時代になれば便利て所に住みたいとなる
でももし便利な時代でなかったら自給自足のような生活だったらそういう考えにはならなんのである。

要するに金さえあればどこにても住んでいい時代なのである。
地域の崩壊とか家族のつながりは希薄化したとか前から言われていた。
それか津浪と原発事故で拍車がかかってしまったのではないか?
津浪の被害地域でもそこは南三陸とか岩手県の方はそうだった。
だからそういう過疎的な地域は一挙に崩壊現象が現れた。
石巻とか多賀城とか人口の多い所はそうはなっていない
川内村とか葛尾村とかは過疎地域だからもう村が復興しない
葛尾村1500人くらいとなると前から村を維持すること自体限界だったのだろう。
もともと働く場所もない山の村だった
それは明治以降もそうであり自分の父親が葛尾村から双葉の新山に丁稚奉公に出たことでもわかる。

大熊や双葉も相馬藩ではもともと辺境地域で森でおおわれていたのが開拓された地域である。双葉の桜並木はその記念事業として植えられた。
原発周辺は原発の恩恵で存続していたということもある
川内村の意外なのは三分の一が原発で働いていたのである。
意外と原発に近いからそうなる。
いづれにしろ高齢化社会がこの辺では急速に問題が現実になった。
小高でも半分帰るといっても老人が多いのである。
するとだんだん体が弱り病気や介護状態になったら誰がめんどうみるのか?
行政でも対応しきれない、すでに介護士も外部の人で今はまかなっている。
やがたその人たちが去ったら誰がめんどうみるのかとなる
娘や息子のいる所を頼るほかないかもしれない
そうなるとコンパクトシティがいいとなる
南相馬市なら原町区の中心部に人を集めたり鹿島区も街の中心部に人を集める
津浪では海岸に人が住めなくなり街に人が集まった

つまりこの辺は高齢化社会の問題が急速に現実化したのである。
高齢化社会の問題は都会の方が深刻だという。
なぜなら人口が多いからそうなる、すでに介護士も不足して施設も点てられない状態である。団塊の世代が介護状態が増えるあと十年後はさらに深刻になる
在宅介護といっても大家族でないからそれだけの余力がある家族は少ない
ともかくもともとあった社会の矛盾が津浪原発事故で顕在化したのである。

人間も生物だから土地と一体化して土着化して住むのが人間的だとなる
農家だったら代々その土地に住んでいてそこに愛着を見いだしアイディンティティを見いだす。それで精神も安定する。
農家でもなくてもそうした農村風景の中で都会があっても田園都市の中で心が培われ安定する。
もちろん都会といっても5万の都市と10万の都市の差は医療などでは大きくなる。
郡山は十万以上である。医療にはいい場所である。
十万でも田園都市としてありうる、仙台でもまわりはまだ田園が広がっていることもあるただ市街地化して自分としてはあまり好きではない、盛岡くらいがいいかもしれない。
東京の老人を地方で受け入れろとういうけと地方でも病院や介護士とか不足しているのだからそんな余力がない。
福祉や介護や医療にもうこれ以上金をつぎこむことは国自体衰亡してゆくという危機にもなっている。
老人栄えて国滅ぶという本も出ていたがそれも笑い事ではないだろう。

高齢化の問題は例えば遺産相続でも60以上であり遅いのである。
早めに遺産相続して家の跡を継ぐと新しく変われることがある
若い世代へ引き継がれ時代にあったように活用できる
自分でも早い時期に家の跡を継いでいたらこうはならなかった
自分自身も後十年とかでどうなるかわからない
すると家をどう処分するかなどの問題になってしまう。

これは家だけの問題ではなく、社会全般の問題である。
若い人に交代させないと社会か時代に即応できない、もちろんグローバル社会からも日本は取り残される
若い人は何できないと言ってもやらせてみないとわからない
つまり経験を積まないと人間はできるかでないかもわからない
経験を積ませて若い人を成長させることも必要なのである。
それがまた高齢化社会の大きな問題なのである。
社会かか新陳代謝できないということである。
そういう社会は衰退してゆくことは確かである
団塊の世代の時は戦後の焼け野原でも今になると人口が爆発的に増大して活気ある時代だったとなる
今はあらゆるものが縮んでゆく時代であり下降してゆく衰退の時代になった。
ただ膨大な老人をかかえて呻吟している社会である。
やはりそれはプラス面よりマイナス面が大きすぎるのである。

女川町では被害が大きかった。街の8割くらいの家が損害を受けた。3割の人口が流出したその時町では若い人に新しい街作りをまかした。
「還暦以上の人は口だすな」これを実行して新しい街作りが他より進行している
21日には新しい駅も開業してし鉄道が通る
この例のように老人ばかりが集まっても何か新しいものは生れないのである。
老人は今まであったものの継続を望むし大事にするからである。
若い人はこれから自分たちの暮らしいい街作りを望む
その両方が必要なのだけど老人がかかわると新しいものは生れにくいのである。
家でも会社でも代替わりすると代わった人は新しいことに挑戦する
大塚家具でも新旧の世代で争いが起きる。

ただ老人がすべて不用かというとそうでもない
なぜなら老人は経験を積んでいるしその土地のことでも知っているからである。
でもこういう何もなくなるとそこに何を作っていいかわからなくなる
それが原発被害地域で起こっている
田んぼがない世界がイメージできない
田んぼのない後に何を作るんだとなりどうしていいかイメージできないのである。
それは津浪の被害にあった海岸地帯でもそうである
そこをどう利用していいのかわからないのである。
だからフクシマは復興がすすまない、放射能被害にどう対処していいかわからないからである


 
タグ:復興
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2015年03月10日

津浪はやはりノアの大洪水にも匹敵していた (縄文海進海退の時のような変化に直面している)


津浪はやはりノアの大洪水にも匹敵していた


(縄文海進海退の時のような変化に直面している)


4.千〜2千年前
  気候の冷涼化始まり、クリ栽培の衰退:2千年前。
海退が進行。貝塚衰退、北部九州で水田稲作開始:2千500年前。
 約4千年前、列島の気候は温暖な安定期から冷涼な不安定期へと移行した。三内丸山のクリ林などの人為的な生態系は衰退し、代わってトチの実の利用が各地で活発化した。
 これは、自然に対する人間の影響力の低下と自然林の回復を示すものとも考えられる。
 僅かながら海面の低下も進み、内湾や干潟の縮小によって貝塚も次第に衰退した。
 やがて縄文晩期後半に北部九州へと伝わった水田稲作は、弥生時代の入ると各地に普及し、稲作農耕社会への転換が一気に進んだ
http://www14.plala.or.jp/bunarinn/plala/DaieryAB/sizennkannkilyou/sizennkannkilyou.html#nihon

気候変化が人間に及ぼした影響は大きかった。それによって文明が消滅してまた新たな文明も生れるようになった。
ノアの方舟の洪水は実際にあったことを基にしている。
古代文明の崩壊には塩害、干ばつ、森林資源の消滅、そしして大洪水といった自然災害が決定的な意味をもっていたのである。
しかもその自然災害の大半は文明の発展の中で人間が自然を破壊したそのつけの上にひきおこされた。
あたかも人間の欲望が地に満ちた時、神が大洪水を引き起こし文明を崩壊ささられる。
(安田喜憲)

気候変動が文明の発展と消滅を決めていた。それはとりもなおさず自然の力が人間の力(文明、技術)を越えていることの証明なのである。自然に逆らえないというときそれは神に逆らえないということにもなる。
今回の津浪で経験したことは恐るべきことだった。それは本当にノアの洪水だったのである。
津浪の跡に山鳩が飛んできたときまさにノアもオリーブの葉をくわえた鳩が来たとき洪水はやんで陸地に到達した。
津浪には人間の想定を越える自然の力をまざまざと見せつけられたのである。
その前になす術もなかったともいえる。
原発にしてもそこには人間の奢りがあり科学者が神のようにふるまう奢りがあった。
科学者が現代ではあらゆる分野で神官になったからである。
その奢りも津浪によって打ち砕かれたのである。

あたかも人間の欲望が地に満ちた時大洪水を大きな自然災害が起きたということを自分も書いてきた。原発は人間の欲望の象徴でもあったのだ。
現代文明は限りなく欲望の増大を容認した社会である。
資本主義でも民主主義でもグローバリズムでもみんな人間の欲望の無制限の解放だったのである。
欲望を制限する思想がないのである。もっと欲望をもてもっと消費しろとか欲望をもっと刺激して物を売れ消費させろとかなっていた。
それが科学や機械の発達によって世界的に無制限になっていた。
そのたどりついたのが原発事故だったのである。

個々人をとっても自分が接した人でもなぜこんなにみんな多額の借金してまで立派な家を建てたりいい車を何台ももち贅沢しているのだろうと思った。
その借金が自分で始末するならいいが自分にも他者にもその借金を負わせようとしていたそれで自分は病気のときに苦しめられたのである。
つまり自分の欲望のためには他者などどうでもいいというモラルの荒廃が起きていたのである。
自分に起きたことは犯罪にもあったしモラルの荒廃が顕著となった時代なのである。
残酷な少年の殺人とか異常なほどのモラルの荒廃がありそれは大人にあり子供にその害が及ぶ、今やモラルの荒廃は頂点に達していたのである。
末世にはそうした異常なことが起こるというのは本当なのだろう。
それは田舎も何ら変わりない、その欲望は度はずれたものともなっている。
でもそれが資本主義や民主主義ではかえって奨励されるのだから根本的におかしいとなる

車なら一台あればいいようにも思う。田舎では一人一台だから都会より贅沢である。
今や都会と田舎の生活は医療をのぞいて何ら変わりない、田舎の方が贅沢である。
浜通りの人は会津とかより欲が深くなっていたかもしれない。
それは原発があり漁業者は補償金で暮らせる。
今回の津浪でも宮城県とか岩手県の方は原発の補償金がないから復興住宅に入れないとか高台の土地を与えられても家を建てる金がないとなっている。
原発事故周辺は補償金で家をイワキとか他の土地に建てた人が多いのである。
それで土地は何倍も高騰している。

原発事故は文明を崩壊させるほどの事故だった。
人が住めなくなり人口が流出して荒野化する。それはかつての文明が森を破壊して砂漠化したともにている。
森は残っていてもそこには人は住んでいないのである。
津浪が縄文時代と何の関係があるのかというと縄文海進があり縄文海退がある。
その時も大きな変化があった。貝塚が現在の海よりずっと奥にあるのは縄文海進時代に内湾で貝をとっていたからである。
新地の貝塚もそうであり海よりずっと奥の台地にある。あそこには貝をとっていた巨人の伝説がある。その伝説は勝手に作られたものではない、憶測でもない、明確な事実の上に作られていた。伝説は何かその基になる事実があってみんな作られている。
だから伝説を架空のものとするのは間違いなのである。
そして歴史を知るのには地理が大事である。地理を知らなければ歴史も知り得ない、相馬藩内でも歴史を知ろうとしたら地理を知らなければ根本的なことはわからないのである。それはどこの地域でもそうなのである。

だから津浪で本当に驚いたのは縄文海進時代が再現されたことである。
有名な万葉の歌の真野の草原の歌があるがその時は縄文海進時代が継続していて海は塩崎まで海だったのである。塩崎というのが海であったから名付けられた。
そこに船着とある地名も現実にそこに船が入ってきてから名付けられたのである。
そこの手前まで烏崎から船が流されてきたことには驚いた。
縄文海進時代は海に依拠した漁労生活になり縄文海退の時は山の幸に依拠する生活になった。ドングリや栃の実や山菜などである。
海の幸、山の幸が日本の国の恵みである。
そして縄文海退の時は平地が湿地帯が広がりそこに稲作する地ができたので弥生文化が稲作文明が発展したという。この説はやはり日本がいかに海側に平地が多く湿地帯が多いかでわかる。釧路湿原を見ればその時代が今でもわかる。あの広い湿地帯が田に変わってしまったのである。

つまり縄文海進とか縄文海退という海の変動が大きな文明の変化までもたらしたのであるそれは今回の津浪による変化ともにている。
気候変動とか自然の大災害は文明自体を変えてしまうような変化をもたらすのである。
相馬藩内の三分の一の人口が流出してそのあとは荒野化している。
それは宮城県とかでも人口が流出している。
それはもう一個人とかの手に負えない大きな変化に見舞われている。
だから田がなくなったあとに何を作るのかなどイメージできないことでもわかる。
縄文海退のときはそこで稲作文明が入り縄文文化から弥生文化に移行した。
今回は何に移行するのかとなるとそれもイメージできない。
稲作文明は自然のサイクルを利用した自然循環文明であり今の高度に科学化した機械化した文明とは根本的に違っているからである。
それでその先がイメージできない、見えないのである。



 
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抽象画(夏の色)


抽象画(夏の色)


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十字路

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夏の夕焼け

これは夏の夕焼けとして見れば見れるのである。
題がないとなにこれとなる

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夏の色
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夏の山

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変化する地盤

クリック拡大

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夏の山から変化したもの



抽象画は化学変化なのだろう。名前をつけるがそもそもつけにくいのが抽象画である。
これが何なのとなる。
でも不思議なのは十字路と名付ければ確かにそうしか見えないとなる。
夕焼けと名付けてはじめてこれは夏の夕焼けだと見る
名前がないとどう見ていいかわからないのがあるからだ
このなかの一つは変化させた元の絵が判明されやすいから問題がある。
色がきれいなのでだした。
パソコンの色は絵の具にはない色なのである。
電気の色でありそれが新しいart(技術)なのである。
タグ:夏の色

恩恵には災いがついてくる (日本は自然の恩恵があり災害の歴史でもあった)


恩恵には災いがついてくる


(日本は自然の恩恵があり災害の歴史でもあった)


つくづく津浪とか原発事故で考えたことは恩恵が大きいとまた災いも大きいということである。
原発の恩恵は実際は大きかった。もう原発なしでは自治体では成りたたなくなっていた。だから大熊町では原発を再稼働しろとまで今でもなっている
収入がなくなれば自治体も成り立たなくなり公務員は失業する
公務員がこれからは自治体が縮小したり消滅して失業する
そういう人口減少と縮小化時代に突入しているのである。
実際は海でも農地でも山でも自然の恩恵があった。
ただ金にならないということで無視されてきたのである。
だから海の恵み山の恵や水の恵や自然の恵みに感謝する人はなかった。
農業でも金にならない金にならないしかなかったし漁業は原発の補償金で優雅な暮らしをしていたとなる
つまり海の恵めや大地の恵みや水の恵や森の恵みやと自然の恵みに感謝する人などいなくなっていた。
それらはまさに意識しなくても自然にあるものだから感謝しない
空気のようにあって当然だとなるからだ。
それは故郷もそうだった、それは意識しなくても普通にあるものだったからである。
だから故郷があることに感謝する人などいなかったのである。

その無意識に普通にあったものが根こそぎなくなったときそれらの自然とか故郷を意識するようになったのである。
魚もとれない、米もとれない、野菜も作れない・・・そうなったとき始めて海や大地や山や森や水の恵みを意識したのである。
工業化社会はやはり自然の恵みをないがしろにしてきた
つまり自然の恵より人間が作り出したか科学技術の恵みが大きなものとなっていたのである。
そこでは科学者は神官となり支配者となりえた、実際の神官は科学者であり技術者であるそれに付随して政治家とか官僚とかマスコミかその利権にあづかったのである。
原発事故のあとでも科学者は技術者はあまり批判されないのは現代の文明に科学者や技術者なしで成り立たないからである。
現代文明の恵みは自然より科学技術によってもたらされたものなのである。

ただ何でも人間には恵みがあったとすると必ずそこには災いがついてくる。
これもどういうわけかわからない、石油がいいものでもそのために戦争にまきこまれるような状態になるし戦争は石油をめぐって起きる
原子力でもその恵みは大きかったのである。
自然よりも大きい恵みがあった。電気社会であり電気がなくなったら何もできない社会である
震災のとき自分は米がありそれを電気釜でたくことができた。水道も通っていた。
もし電気がとまれば米さえたけないからお手上げになる。
そういう場所もありそこでは裏山から薪をとり水をくんできて米を炊いていたのである。昔の自給自足生活にもどったのである。
米があれば何週間は生きられる、その米が尽きたとき町の方で古米を支給してくれたのである。
緊急のときもし電気かとまれば何もできなくなる。
だから電気の恵みは大きいし原子力だって大きな恵みとなっていたのである。

でも海の恵みも大きかったとするとその災いも大きかった。津浪はその恩恵の裏返しなのである。恩恵が大きければ大きいほど災いも大きくなる
石油の恩恵はあまりにも大きいからそこから戦争も起きる
原子力の恩恵もあまりにも大きいからその災害も人が住めなくなるほど大きかった
こういうことは何か人間の普通の生活でも起きている。
恩恵があるところに災いが必ずある。
車は便利でも交通事故があり便利なことがみないいとは限らない
これは人生でも親の恩恵が大きいとすると今度は介護させられる
今や親は長生きだから世話になった分今度は介護で苦労させられるのである。
だから兄弟でも一番可愛がられたものがめんどうみろとなるのも当然だとなる
自分は二人を介護してひどいめにあったし今も継続している
恩恵には必ず災いがつきまとっている

国々でも地域地域でも恩恵は与えられている。日本にも海の幸山の幸に恵まれた大きな恩恵が与えられた国である。
その反面は災害が多い国だということである。
それも海の幸山の幸が大きいからこそ災害も大きいとなる。
そういう両面性が必ずつきまとっているのだ。
日本では山が急峻で美しいのは火山国だからである。でも火山の被害があるのも日本である。
こうした風土を考慮しないで危険な原発を建てたことが問題なのである。
その風土にあった恵みがどこでもある。
石油がなければ何もできないとか原発がなかったら何もできないとならない
温泉が多いから地熱発電がいいとかにもなる
ソーラパネルとか風力発電はどうかとなるとそれも風土と関係している
やはり技術も風土にあわせる必要がある。
風車が生れたのは中東だというのもわかる
砂漠では風がいつも吹いているから向いている。
日本ではトンネルの技術が発達したのは山が多いからである
要するにその国の風土にあわせた科学技術の応用が必要だということである。

歴史は地理だというとき地球が地の球だと日本人は翻訳した。earthは土という意味があったから地球とした。地理となると地の理なのである。地から理を割り出す、地形や地勢からその土地の成り立ちを見る。そこに理があるというのである。
最近地理が「地歴」になったのはうなづける。地理と歴史は一体だからそうなる。
日本人はつくづく翻訳がうまいと思った。
最近「環境史学」が生れたのもグローバル化で地球的視野をもてるようになったからである。
庶民でも貧乏人でも日本なら外国旅行できる時代でありこの変化も大きかった。
海外旅行は安いホテルにさえとまれば金はかからないのである。
地球の歴史はその地理とかその地の風土と一体となりある
だから「地歴」という新しい科目は現代的だとなる
郷土史でもまず最初に地歴が問題になる、地歴がわからないと何もわからない
その地歴を知ることは簡単にできないのである。

津浪でも原発事故でも学問として科学にばかり注目していたのである。
地歴の分野に注目していない、津浪は千年単位になれば巨大な津浪がきていた。
相馬藩内にもきていた。
それは土のボーリング調査でわかった。
相馬市の奥までも津浪でもたらされた砂が発見されたのは最近だったのである。
津浪が来た何年か前だった。でもそれて津浪を警戒することにはならなかった。
学問的に「地歴」の分野は新しいからそうなった。
いづれにしろグローバル社会のいい面は地球全体を視野にした学問が必然的に発展するということである。
そういうことが実地を調べることがてきる時代でもある。

ともかくそれぞれの国には恵みがあるが災いもある。
人間は恵みだけを求めてその反面の災いを無視するのである。
その災いがどこから来るのかを知るべきなのである。
それをないがしろにすると今回のような大災害になり文明が崩壊するような危機に直面する
恵みを求めるのはいいとして恵みにつきまとう災いも前もって考慮すべきだったのであるつくづく日本の天皇が自然の災害から守るために神々に祈る祭司だったというのもわかるそれだけ日本では有史以来自然災害の大きい国であり災害の国だったのである。



posted by 老鶯 at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2015年03月11日

春から冬にもどる朝の景色 (今とって来た写真)


春から冬にもどる朝の景色


(今とって来た写真)

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海から昇る大洋

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山は雪が降っている

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凍った荒地に日がさしてくる



雪舞いて朝日昇りつ雲雀鳴く津浪の跡の凍る荒野に

春の朝陽の昇り来る誰かしるかすかに月の残るを見ゆる

プログというかインターネットでは本当は実況中継ができるメデアである。
ただプログだと時間差がかなりあって読んでいる
まだテレビで実況中継を見ている。
プログはまずまだ読む人が限られている。
だから実況中継しても見られないから力を入れないということがある
一日の中でも朝、昼,夜と景色は変わっている。
その日の内に見るとしてもそこに時間差が生れる
テレビを見たら北海道が寒く雪がふっている
他も今日は寒い、ここは山が雪で風花が舞っていた。


ただ春だから雲雀が鳴いていたのである。
津浪の跡は凍っていた。
写真に写っている所には津浪はきていないがすぐ前に来ているし光景的には同じである。そしてこの景色が今のこの辺の状況を語らずしして示している
凍った荒地に朝の陽が昇る、何か荒涼としているが春だから雲雀が鳴いている。
その雲雀の声が春の訪れを告げているがまだ寒く津浪の跡の荒地は凍っている。
今日の風景なにか不思議であった。
写真からだけではその場の風景を状況を知るのはむずかしい。
立体的に369度の感覚で見れないからだ。
寒さとかも感じないから写真だけでは感じない
人間は肌で感じない限り本当に感じたとはならない

結局写生が短歌でも基本である。
今日の景色はそのまま変わっているから写生になる
この辺は津浪の被害で写生そのものが驚くべきものとなってしまった。
未だに津浪の跡は荒涼としているからだ。

月もかすかに見えた、朝日が上り月は沈んで消えてゆく
それは世代交代ということも感じる
自然も人間を象徴しているのである。
タグ:朝日

南相馬市海老村の誤算 (津浪は同じ高さでは来ないー海底や陸の地形により複雑)



南相馬市海老村の誤算


(津浪は同じ高さでは来ないー海底や陸の地形により複雑)


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海老村は津浪の避難場所になっていた。NHKで今日放送していた。
40人あそこに逃げて助かったのは10人だった?
そんなに死んだのかという驚きである。
あそこに観音様の供養の像が立っている
そもそも海老村はや八沢とか右田からするとかなた高く感じられたのである。
だから自分もそれほど被害がないと思った。
しかし海老村は壊滅した。

津浪は一様の高さではおしよせない、あるところは高くなりあるところは津浪の圧力が強くなりと複雑なのである。
海底の地形も影響しているという、あるところではすごく高くなるのである。
宮古湾では湾の奥の方が高くなると思ったから東京にいた夫がそれで妻が死んだとあきらめたということを言っていた。
陸から見ると海老村は確かに高いがそれは陸の視点であり海からの視点ではない
海から見るとそれほど高いものでもなかった。
海老村にはなぜかせりあがるように高い波はおしよせたのである。

それであそこの崖の上に白河市から移り住んだという家族が三人死んだ。
八沢浦開拓記念の石碑から八沢浦をながめると確かに高く見える
でも海からだとそうでもないのかもしれなかったのである。
だからあそこが避難場所に指定したのは大きな過ちだった。
もう一カ所は前に書いた「命拾いの崖」だった。
あそこは結構高いから逃げれば助かった。
津浪は海老村をなぎたおして壊滅させて今度は右側に海水は下に向かって流れたのである一方は八沢浦の方に流れた。それで「命拾いの崖」の上から見た人は渦巻いておしよせたというから怖い。生きた心地もしなかったろう。

今回の津浪では想定を越えていて指定された避難場所こそ危険であり大勢の人がそのために死んだのである。
一カ所だけに避難するといきう考え方はよくない、何カ所でその時の情勢によって決めるべきだと言っていた。
そうはいっても人間は避難場所が決められると何か安全だと思うしそれが人間の心理である。
役所で決めたことは間違いないとか思うだろう。
しかし本当に政府とか役所がすべて安全を保証するのだろうか?
原発事故でもわかったように政府はあてにならなかったのである。
政府は必ずしも命の保証はしない、むしろ戦争のときのように民の命を勝手に奪うとういこともある。
政府でも本当に信じられるのだろうかということである。
あらゆる会社組織集団はその人たちの利益を第一にして動いている。
それは政府でも宗教団体でも同じである。
そういう大きな集団によって社会は動かされているがそれらは権力集団であり
その人たちの言いなりになっていると危険なことにもなる
東電は国と同じ権力をもっていたし行使できたしそれに歯止めをかけるものはなかったのである。そのことが事故にもつながっていたのである。

結局震災から四年すぎてもこの辺は何もかわらなかった。
津浪の跡は震災と同じままである。
津浪のその跡を日々見ていると人見ていない人の差も大きい
磯部村とか海老村とか烏崎村は一軒の家なく壊滅した状況である。
そこは何にも変わっていない、
そこでは大勢の人が一挙に死んだのでそこには何か草木も生えないとか
死霊がただよっているとか墓標のない墓地のうよにも見える
それほどその跡は以前として凄まじいのである。

津浪は本当に凄惨であり打ちのめされてしまった。
街自体が消失してそれを見たらとても住めないという感覚になる。
ただ以前として海の恵みがありそれで何とか復興しようとしている
料理店とかでもそうであり海の恵みがあるところではそれを糧に復興しようとしている
宮城県ではもともと水産関係は漁獲高も大きかったからそうなる
福島県の十倍はあったのである。

復興復興と言うけど人口流出がどこでも問題になり帰りたいというのは老人だけだとか
復興は進んでいない、街自体消失したところにどうして人を集めればいいのかとなる。
若者は復興している割合が大きい、年取るにつれて復興していないのである。
家を建てるにも資材の高騰とか人手不足とかなりそれもむずかしい
ローンで建てるのも年取ると返すのが容易でいなと嘆いていた。
その点原発の避難者は補償金があるから恵まれている。
それにしてもそこにも様々な問題があり金だけでは解決しない
家族がばらばらになったというのも苦しい
要するに復興は10パーセントくらいしかしていないのではないか?
それだけ広範囲な甚大な被害だったのである。

タグ:海老村
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2015年03月12日

春の朝(海老浜は津波の後に見晴らしが良くなった)


春の朝(海老浜は津波の後に見晴らしが良くなった)

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パノラマ写真ークリック拡大


海広く朝鳴きあいぬ雲雀かな
春の朝山鳩二羽や平和かな
イヌフグリ津波の跡の海老の浜

海向かい観音様や朝日さし供養の碑かな鶯の鳴く
椿咲き海広ろかに見渡して津波の跡の海老の浜かな
海老の浜津波の跡に春の霜我が踏みにつつ残る松かな
三十人ここに死ぬとて春の霜津波のよする跡凄まじき
広々と海広がりて阿武隈の奥に雪の嶺春の朝かな

今日は昨日よりあたたかい、それでも春の霜でありまだ寒さはあった。
海老の浜は津波で家がなくなり見晴らしが良くなった。
今までにない景観になった。
松原もないから海か広く見えるようになった。
海老はもともと高い所にあったから見晴らしがいい。
でもこんなふうに広々と見えなかったのである。
家がないとこんなに景観が変わるものかと思った。

椿が咲いていてそこに海が広々として見える、あれは自生の藪椿である
景観的にはいいからあそこを海浜公園にすればそれなりに観光地になる
いづれはあのままにしておくことはできないから公園化するほかないだろう。
見晴らしがいいから気持ちいい
そういうとここで死んだ人を思わないのか死んだ人からするとまだ受け入れがたいだろうでもいつまでもそのままにしておくわけにはいかないだろう。
海老浜は烏崎より公園化しやすい、烏崎は火力発電所で景観が悪くなったからあそこは魅力がない、海老浜は前より景観的に良くなっているのだ。

防潮堤を高くして海が見えなくなるということで問題になった。
確かに海が見えないと海側に住んでいる魅力がなくなる
観光に来てもつまらないとなる
松原はなくなったのだが景観的にはまた違ったものとして魅力がでてきた
海が広く見えて阿武隈山脈が見える。
蔵王連峰も右田の方から見えたのである。

津波で景観が変わったのでそのことをずっと報告してきた。
椿は家並みに隠されて見えなかったのである。
意外は家が見晴らしを悪くしていることに気づいた。
何か家がなくなるとこんなに見晴らしが良くなると思わなかった。
家といってもあそこはビルなともないからである。
都会で景観を悪くしているのは家が密集してビルが建て込んでいるからである。
ビルがなくなり家も少なくなると見晴らしが良くなる
江戸時代は東京でもビルもないから富士山が見えて見晴らしが良かったのである。


タグ:海老の浜

帰りたい、帰れない、避難者 4年目の選択 (NHKクローズアップ現代を見てー浪江の老人に見る悲惨な現実)


帰りたい、帰れない、避難者 4年目の選択

(NHKクローズアップ現代を見てー浪江の老人に見る悲惨な現実)

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家の庭も中も荒れ放題だった
でも蝋梅と梅のようてものが咲いていた

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窓から見える夜景



蠟梅の庭に咲きあわれ老夫婦家は荒れにき帰れざるかも
浪江にそ帰りたしとて帰れざる皺深く老い故郷思ふ
浪江にそともに暮らす歳月やその家荒れて壊すも悲し

クローズアップ現代で浪江の人は高層ビルに住んでいた。1000人住んでいるというのも驚きである。夜景がきれいだというのもそうである。
でも田舎からあのような東京のど真ん中に住んでいるのもなじめないだろう。
だから帰りたいとなった。この気持はわかる。
夫は東電の下請けで働いていた。二人で苦労して家を建てたという。
家を建てたというとき近くでも苦労して夫婦で家を建てたという人を知っている。
何もないところから建てたから自慢していた。
家がもともとある人はそう思わないのである。
だから人間の思いは家があってもいろいろなのである。
その家に思いが深い人もいればまたそれほどでない人もいる。
年代によっても違ってくるのだ。
久しぶりで家に帰ってみたら荒れ放題だった。ネズミにかじられるは泥棒が入るはそれを見たらもう壊す他ないとなり壊す費用が出るので壊すことを決心した。
その老夫婦は80越えているからどうしても家に帰りたいということがあった。
でも家は4年も放っておくと荒れ放題になり住めなくなる
しょっちゅう近くだと帰って手入れしている人はいい
東京だと帰りにくいからそうなる
その荒れた庭に蠟梅が咲いていたのである。
蠟梅というと何か老人にふさわしいというか長寿の花のうよに見える

浪江ては東電関係で働いていた人が多い。南相馬市も多い。
その家を建てたというとき東電関係で働いたから家も建てられたともなる。
そういうことで複雑であまり東電を批判できない
高層ビルも東電関係のものなのだろうか?
そもそもか浪江でも原発の被害の大きかった所は東電の会社の社員のようになっていたところがあった。
自治体だったそうである。東電から金が入るからぜいたくもできたとなる

でも今になると東電というのは地元の生活とほとんど関係しなかったろう。
地元と関係するということは田畑を作っている人や漁業している人や何かその土地に根付いて生活している人と関係しない
もし田畑を作っている人と関係していればもし事故が起きて放射能汚染したらどうなるのだろうかと考えたかもしれない、その土地と関係しないから考えない
だから事故が起きたとき原子炉は心配したけど住民のことは考慮しなかった。
それで津島とか一番放射線量が高い所に浪江町では指示して避難させたのである。
これは自治体とも良く話あっていないからだろう。
そもそも原発は東電とか政府の一方的なおしつけがあり住民はかかわれなかったのであるただ金をもらえるということで容認していたのである。
下請けも多いのである。そういう人たちは東電の社員と同じだったのである。

故郷とか田舎だともともとは自給自足でありその土地土地であらゆるものをまかなっていた。それが広域社会化してグローバル化した経済では第一次産業は一割りの生産を担うくらいになった。
農業でも漁業でも老人だけになり跡継ぎもいないとかなっていたのである。
でも今回の原発事故で故郷とか田舎とは何なのか見直すことになった。
田舎とはその土地が一つの世界となって食料でも資材でも自給できることが基本になっていた。
例えば米でも野菜でも自分の田畑で作り燃料でも薪を裏山とりとかそして料理も自分でしたらその土地の糧で生きているという感覚をもつ、すると土地に愛着をもつ
そうでないものは金だけが頼りになる。自分もそうだけど別に田舎に住んでいても今は会社勤めだからそういう人が多い社会なのである。
それが外部との交流の割合は多くなると外部依存になる
その時地域のつながりも薄れていたのである。
実際に収入を得るのは東電という会社があってだとなると特にそうである。
東電中心に生活があったとなる。

そして高齢化社会となっているから老人は故郷に家に帰りたいとしても若い人は移転先で生活をはじめているから余計に老人だけが帰りたいとしても帰れなくなっている人がいたつまり「老いては子に従い」になってしまった。
生活の中心が若い人になり若い人は未来に生きるからそうなる
そこで老人も若い人に従うほかないとなってしまった。
そうしてもう故郷に帰る人はますますへりただ老人だけが帰りたいとなっても帰れないとなっていたのである。
だから今回の原発事故は老人にとっては残酷だった。
そして現実に夫が死んで自殺した高齢の人もいたのである。
原町でも90何歳かの人が一時避難するようになったとき墓に入りますと言って自殺した人もいた。
老人はそれだけもう移転して新しい生活ができないのである。
ただその老人にしても生活がなりたったのは東電があったからである。
その生活も東電とともにあったということが複雑なのである。

いづれにしろ浪江というと縁戚関係の人も多い、浪江は川が二つあり請戸漁港もあり高瀬川もあり大堀りで相馬焼きの窯元せあり風光明媚な所だったのである。
それが荒れ果ててしまった。
あの状態ではもう元の町にはもどらないだろう。
今回の津波であれ原発事故であれ街全体が壊滅したときそれから復興することは絶望的になる。
街自体が全部なくなったときその衝撃はあまりにも大きかった。
その前にたたずんだとき絶望的になるうちのめされてしまう。
そこで考えたことは街というのは村でも全体があって個々が成り立っていたのである。
今はどの市町村に住んでもあまりその市町村につながりとか感じないで住んでいる
田舎でも広域社会になると物は外部からいくらでも入ってくるから金の方が大事になる。でも一旦街でも村でもこんなふうに消失すると全体がないともう個々は維持できないということである。
商店でも街が衰退すれば人口が流出すれば成り立たなくなる。
それは大きくは国がなくなるとシリアのように難民となり悲惨なことになのとにている。でも国とか市町村とか普通はあまり意識しないのである。

ただ津波でも原発事故でもそういうこと市町村自体が消失して維持できないとなることなど想像もできなかったのである。
そしてもう老人だけが帰りたいとしても老人だけが残っても復興はできないのである。
小高などでも帰るのは老人てあり若い人は流出して帰らないとなると復興できない
補償金もらってもそれもいつまでもつづかないし老人だけでは復興できない
いろいろな悪条件が重なり復興するのは容易なものでなくなっている
それにしても80越えて東京で暮らすのは辛いとつくづく思った。
それから避難者は補償金でいい暮らししているだろうとか避難されているのも辛いというこれも小高の避難者に起きたことである。
それはあまりにも遊んでいるということが目立ったからである。
老人は田舎がいいくても若い人は都会がいいという人もでてくる。
だから原発事故は老人にとっては残酷だったのである。


浪江の高瀬川の近くで自分が一度だけ見た石は「皺石」と名付けた。
それはまさに皺を刻んだ老人の石に見えたからである。
浪江はまだ良くみてない所があった。
高瀬川は上流にダムもない自然の川だから名勝の地だった。
だから観光するのにもいい場所だったのである。


浪江の皺石と老人

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老人の一人一人はその顔の皺を深めて人生語る

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その石は存在し続けようとしている
その場その空間に定められて深く
その石は風を感じる
春の日に山の奥へ遠くへ道は通じている
春の風、夏に影なし涼しい風、秋の風、冬の風
あたたかな春の光、秋の光、冬の光を感じる
その風の色合いはそれぞれ違う
雨も雪もその石にふり動かざる
その石は苔むし皺が刻まれている
その深い皺は老人のようにも見える
その石はそこに存在しようとする意志
その場、その空間に歳月を経て深化させる
石はそこに重しのように意味をもつものとなる



浪江の高瀬川の近くで自分が一度だけ見た石は「皺石」と名付けた。
それはまさに皺を刻んだ老人の石に見えたからである。
浪江はまだ良くみてない所があった。
高瀬川は上流にダムもない自然の川だから名勝の地だった。
だから観光するのにもいい場所だったのである。

石でも人間が語っている
それが人間が住まなくなったらどうなるのか?
それは飯館村でも他でも言える
ただこの石そのものはなくならないのである。

posted by 老鶯 at 14:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2015年03月13日

今朝の海老浜(昨夜の雪が一面に・・・)


今朝の海老浜(昨夜の雪が一面に・・・)

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ネギ畑があり海が見える
この辺から海が見えたことはない
松原だったから海は見えなかった


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これはツグミだった、ツグミは地上で虫をあさっているが
朝は木にとまっている
でもこんなに群れているのは見たことがない
一羽づつ見ているからである。
ここからは海が見えるから気持ちいいとなる



海老の浜


昨夜の雪
椿に映えて
海老の浜
広々と見ゆ
梢に高く
鳥のとまりて
見晴らしぬ
阿武隈山脈
その奥の嶺
雪のふるかな
飯館村に久しくも
我は行かじも
沖行く船よ
朝広々として
津波の後に
視界開けぬ

昨夜の雪が一面に白く残っていた。
海老の浜に今日も行った。
あそこが津波が来て家がほとんど流された結果視界が良くなった。
今まではあそこに椿が咲いていることを知らなかった。
海外よりは奥でありまた家にさえぎられ見えなかった
海老の浜はもともと高いから視界が良かった。
でも今ではそんなに感じなかったのである。
360度展望すると阿武隈山脈が見えてかなたは飯館村となる。

どうしても人間は広い所と明るいところを指向する傾向がある。
山の方は暗い感じになるので朝には行きたくない
海はやはり心を広くする
こういう景観は心に影響してくる
山に囲まれていると閉塞感が強まるだろう
会津などでも山に囲まれているし中通りだってそうである。
日本は山国だから山に囲まれて生活している人が多い
会津の方に避難した人たちがイワキとかに移りたいというのは
海が見えるのとあたたかい所がいいとなる
海を見ていて生活しているのと山に囲まれて生活しているのとは
相当に心が違ってくる
海は開放的であり山国は閉鎖的なにる

明治維新もいろいろ見方があるが風土的地理的な影響もある
山口県とかでも海に面している
瀬戸内海は交通の要所であり薩摩藩でも海に面して貿易していたのである。
そして外国も関係していたからこの影響が大きかったのである。
東北の海は瀬戸内海の海とはあまりにも違っている。
村上水軍なども育たない海である。
ただ広く人間の営みの海ではないのである。

いづれにしろ海を見ていると心が広く解放された感じになる
だから朝は海の方に向かうのである。
そして毎日気候の変化があり感じるものが違う
介護になってから7年間くらい仕事に追われ遠くに行っていない
一人で家事でも何でもやっていると時間に追われるのである。

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