2015年02月24日

数学史からみるとわかりやすいイスラム文明 (世界文明は平和的融合である)


数学史からみるとわかりやすいイスラム文明

 
(世界文明は平和的融合である)



 現在我々が使用している算用数字はアラビア数字と呼ばれる。インド数字を原型として、イスラム世界で完成し、後にヨーロッパに普及し、現在は世界中で使用されている。この アラビア数字の最大の長所はインドから学んだゼロの観念をアラビア数字・十進法と結びつけたところにある。
 ローマ人はアルファベットを用いて数字を表記した(1はI、5はV、10はX、50はL、100はCなど)が、大きな数字を表記するのに大変苦労した。例えば1999はCIC(1000) IC(500) CCCCLXXXXVIIII(1000と500の右端のCは、Cを裏返して左右を逆にした記号になる)と表記した。

 従来の数学は、例えばギリシアの場合も発達したのは代数学でなく幾何学であった。代数学が発達せず、幾何学が発達した理由はやはり数字の問題だと思う。
 天文暦学は、古代オリエントでも盛んであった占星術がイスラムでも大いに発達し、そこから天文観測や暦学が発達し、正確な暦も作成された。
 http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/91-islam11.html


 それら三つとも、すなわち火薬にせよ羅針盤にせよ印刷にせよ、中国に起源をもつものがイスラム圏に伝えられ、西欧はそれを最後に学んだに過ぎない。ルネッサンスに功績があるとすれば、それを量産したということだけである。
 ルネッサンスとは要するに「大翻訳時代」であり、西欧はようやく17世紀に入って先生であるイスラムを追い抜いたのである
 http://pathfind.motion.ne.jp/isram.htm
 
 

中国が起源の火薬、羅針盤、印刷がありさらにインドを通じてゼロの観念が入りイスラムで代数学が発展した。ギリシャは幾何学だったということはエジプトの数学も幾何学でありピラミッドを作るのに用いられた。代数となると抽象化が高度になる。
スペインのトレドにイスラムの集積した知識が本として保存されていた。
イスラムを通じて数学が代数学として伝えられ医学や化学なども伝えられた。
イスラム独特の建築も伝えられた。
今イスラムというと石油とアラーの神、宗教しか見えない、そのイスラム教もイスラム国のテロとか政治だと独裁制の遅れた国としか見ていない、つまりイスラム文明は先進国としてあったがいつしか後進国になってしまったのである。
そして何かイスラム国の野蛮性とかテロとか何ら文化的なものがない世界にしか見えないのである。
西欧のルネサンスがこうしたイスラム文明が融合して生まれた。
それが西欧文明だけではない、中国にも起源がありインドにもありイスラム社会で発展してスペインにイスラム圏が拡大したときその文化的遺産がトレドに残された。
ルネサンスが華開いたというときそれは世界文明として華開いたものだった。

わかりやすいのはアラビア数字とかローマ数字とかがある、ローマ文明が数字の表記に苦労していたというのもあれだけの建築を作ったのに意外だった。
文明とか文化は戦争により争いではなく戦いではなく平和的融合なのである。
そこに人類の歴史の意義がある。別にイスラム教とキリスト教が争うというのではなく
文明や文化面からした融合なのである。十字軍のときもイスラムの富と文化が流入した。その時もイスラム文明の恩恵を西欧では受けていたのである。
中国文明というと世界とあまり関係ないように見えても紙の発明がイスラム圏に入り西欧に入り印刷術が伝播されて本が作られるようになった。
紙の発明は意外と重要であったた。それは知識を伝達してまた保存するという役割があったからである。だから本の役割は大きく文明を作るものだったともいえる。
それでローマでも図書館が立派なのである。イスラムでも図書館がありそこが学びの場となっていたのである。
その図書館の役割がインターネットになるとどうなるのかということになる
やはり知識は今までとはまた違って普及するだろう。
こうしして自分が書けるのも知識が要約的でも読めるからである。
世界史は大きくて複雑でどう勉強していいかもわからない、でも数学史という面から見るとわかりやすいとなる。世界史はまた戦争史のようにも見える。
でも世界史は文化の融合でありそれは平和的なものとしての実りなのである。

文化面から見れば文明は対立しない、宗教でも対立しない融合なのである。
西欧文明とは世界文明であり西欧だけが作り出したものではない、西欧は世界史からみると辺境だったが世界の文明を融合させる地理にありそこで世界の文明として華開いたのである。それがルネサンスだったのである。
西欧の科学機械文明は数学が基礎にあるときやはりその数学がインドのゼロの観念からイスラムの代数学から発展したことが興味深いのである。
化学もイスラムが起源でありそれは今日の化学の基礎なのである。
今のイスラムの不満はそうした過去の栄光と何ら関係ない、外から何も文化的なものが見えない、かえって遅れたものしか見えなくなっている。
その不満は暴力では解決しない、日本では江戸時代は科学など相当に遅れていた。
技術でもそうであり第一駕籠というのは原始的な乗り物なのである。
人間が担いで運んでいたと何ら変わりないのである。
だから明治維新になってすぐに鉄道でも開通して発展したというのも不思議である。
イスラム社会では鉄道は発達していない、砂漠などで条件が悪いのかもしれない。
ともかく化学を生み出してイスムラで科学は発達しなかったのである。


イスラム国がテロで話題になったときイスラムとは何なのだとか関心を集めた。
イスラム社会はわかりにくい、今イスラム圏内、エジプトとかどこでも若い人の人口が多いのである。するとそうした若い人の就職先がないとかが大問題になる。
就職先がないからイスラム国で兵隊になるという人もでてくる。
それでイスラム国が経済的にも優遇したのは魅力となったのである。
月給とか家まで与えるとなると職もなくうろついているよりはいいとなる。
ともかくイスラム圏が若い人の人口が多いということはそれなりにポテンシャルがあるのかもしれない、そこに何かエネルギーが生まれる。
日本は高齢化社会であり老人の介護にエネルギーを使われている。はたしてそんな社会から新しいエネルギーが生まれるかともなる。
戦後の焼け野原になったときも今の団塊の世代が生まれたがその時も子供が多いし高度成長時代になるとその子供の多さが労働力となりエネルギーとなっていたのである。
だから若い人が多いということはやはりその国も若いのでありエネルギーが生まれるということはありうる。
だから少子高齢化の日本が衰退すると騒ぐのはそのためなのである。

数学とか科学は苦手でわからないけどやはり文系でもそうした科学にアプローチす方法はあるのだろう。歴史的にアプローチすると興味を覚える、数式だけで見るとギブアップになる。あらゆる学問も歴史的積み重ねで発展したものなのである。



カトリック教徒である支配者はトレドを自国の首都とし,ユダヤ教徒の市民は手工芸や商売で手腕を発揮し,イスラム教徒の職人はその才能を建築に役立てました。それら三つの宗教の学者たちが翻訳学校で一緒に働き,12世紀から13世紀にかけて,非常に多くの古い文献をラテン語やスペイン語に翻訳しました。それらの翻訳者のおかげで,西洋人もアラビア文化の膨大な科学的知識を利用できるようになりました。

このサイトは簡潔にトレドのことをまとめている。

 
タグ:数学史

インターネットで変わった買い物や本を買わないこと (現代的情報環境に適応できない)


インターネットで変わった買い物や本を買わないこと


(現代的情報環境に適応できない)


インターネットの買い物で一番便利なのは買った本人が使ってみてどうだったか書いてあることである。
そして何人もこれがいいと書いてあるとそれは確かにいいと判断する。
これはほとんど間違いない評価である
ところが電器店の量販店に行ってみても使った人が評価するのではないから
量販店ではどうぞどれでも買ってみてくださいとなる
その中には古いものや店がすすめるものでもその人に合わないものもある
品物の数も少ないから自分で選んで失敗した買い物がある
オカユを作るのを8000円ですすめられて買ったが使いなかった。
ところがアマゾンで4000円のオカユ製造機は良くできているなと感心した。
8000円のすすめられて買って失敗した。
量販店は本当に不親切なのである。

今は物がやたら増えているから何を買っていいか迷うのである。
オカユ製造機でも十もあったりすると何を選んでいいかわからない
店ではどれでもいいから買ってくださいとしか言わない
使った人の評価を聞くことができないのである
こういう点で量販店が通販と比べてかえって不親切だと思った。
ただバッグなどは重さと大きさがわからないので買って失敗したのがいくつかある。
だから店がすへてだめだとはならない
ただ通販とどうしても比べられるようになったのである。

本や雑誌が買わなくなったというとき、特に雑誌は売れなくなったというとき、ネットの影響が大きい。
メデアが変わると表現の仕方も変わることも影響していた。
雑誌とネットの表現の仕方は根本的に違っていた。
ネットでは前は応答が主だったとき長い文章は嫌われていたのである。
短い文で応答するのがネットのメデアの特徴なのである。
それは今でも2chなどでそうである
そういう情報環境になれると人間の頭もそういう環境に適応する
雑誌的情報の出し方が現代に合わないとなってしまった。
新潮などで雑誌を出しているが他にも文藝春秋とかあるがそれには中味があっても
とても全部読む気力もなくなった。
これは老化のためであるが若い人でも雑誌を読まないというとき長いの十人くらいが別々に書いているから全体として理解するのが相当にむずかしい
一人の文を理解するだけで相当に頭を使うから疲れる
それで自分は読もうとしたがギブアップした。
十人もの長い文章を読んで理解することができなくなったのである。
それは別に年取ったからではなく若い人もそうなのである。

一方でプログでもやはり今では長い文を書く人もいるがどっちかというと短い文を毎日出すのが読みやすいとなる。
でもそれなりに長くないとそれは中味がないのでプログで毎日読んでいるのはまれであるプログで毎日それなりの長い文で読めるのを出すのはむずかしいのである。
ただ毎日プログ読んでいると首尾一貫してその人の言いたいことを理解するようになる。だから「心の青雲」などは全部納得できなくても何を言いたいのか理解するようになったただあれだけの内容あるものを書き続けることが普通はできない
だから毎日読めるようなものをプログがまれなのである。
ただプログが長いと言っても雑誌からすると短いから読みやすいのである。
毎日読むにしても苦痛のない量なのである。
もし一カ月分くらいをまとめて読むとしたら雑誌と同じでありとても読めなくなるのである。
毎日少しづづ同じ人の文を読むから理解できるのである。

本が読まれない買わないというときネットのこうした情報環境になれたことも原因である本はたいがい薄くても厚いし情報量が多いのである。
だから本一冊を読むことは苦労なのである。
実際本を千冊買ったとしても理解できるのは百冊が限度である。
それくらいしか生涯で本は読めない
本はそれだけ情報量が多いのである。
そして年取るとますます読めなくなるのである。
実際は若いとき苦労してでも古典などを読んでおくべきなのである。
なぜならあとで読めなくなるからである。

ただ以前として本の種類は膨大である。
だから本を選ぶということも何を買っていいかも迷う
なぜなら本は厚いから買っても全部読むことが苦労だからである。
金もかかるからなかなか買いにくいとなる
それでもネットだけではデープな情報は内容あるものにはふれがたいということはある。本が売れないというときこうした情報環境がちがってきたことに対応できない
買い物でもネット環境に対応できないということがあった。
やたら本の評価を書いている人がふえた。
そしてその本自体を買うのではなくネットでの評価を読んで終わりという人もふえた。
なぜなら本を買うことは金がかかるし読むとなると厚いから苦労するからそうなる。
インターネットは今になると様々に現実社会に影響が大きくなってしまったのである。


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