2015年02月18日

森に埋もれた境石(童話)


森に埋もれた境石

東村があり西村があった。それは江戸時代からあり長い間二つの村の境石として呼ばれていた。それは二つの村を分けるものでありしるしでありみんなが言い伝えられて知っていたその石は風が吹き鳴り雨がふり雪がふる日もそこに長い間村人とともにあった。
その境石がとまどうことになったのはこの辺に起きた放射能騒ぎだった。
原発事故があり放射能で村は森も山も自然全部が汚染されたのである。
それで村人も住めなくなり人がいなくなってしまった。
田畑があった所は葦がぼうぼうとしげり元あった自然にもどった。
そこには人々の生活はなくなり葦など元の自然にもどる。
イノシシなどが出てきて土を掘り起こし田畑は荒れるばかりだった。
普通見られない羚羊まで里におりてきていたのだ。
境石はいぶかった。
「村人はどこに行ったのだ、人影も家もなくなっているみたいだ」
「もうみんな村から出て行ったよ、誰もいなくなったよ」
そう言ったのは人がいなくなり自由におそれるさとなく出てきている猿だった。
「そんなことあんのか、ありえん」
「世の中はな、ありえないことが起きるんだよ」
「どういうことなんだこれは」
「見ればわかるべえ、人はいなくなり家もない、ただ葦がしげっているだけだべぇ」
境石はそれが納得できなかった。
「西村も東村もなくなったら境石としてある意味もなくなるんだ」
「まあ、そういうことだな」
「俺はここに何百年と村人ともにあったんだ、そんな簡単になくなっては困る」
「そんなこと言ってもこれがまぎれもない現実なんだよ」
猿はこう言って森の奥に仲間とともに消えた。境石はまだ納得がいかなかった。
「俺は境石なんだ、東村と西村がありその境石として何百年もあったんだ、それを簡単に変えられるか、東村と西村は水のことで争ったりもした、そういうことを伝える石でもあるんだ」
そうは言っても時間がたつのも過ぎるのも早かった。辺りはまもなく葦がしげりおおわれてしまった。その境石も葦におおわれみえなくなるほどだった。
それでも境石は言い続けた。
「俺は境石なんだよ、村人が消えても葦におおわれても境石なんだ」
しかし葦だけではない葦から樹も生えてやがて林になり森になってしまった。
それは大昔の村人が住まない状態にもどっていた。
そんな森の中に境石は取り残されてしまった。
「俺は東村と西村の境石なんだよ、何百年もそうしていたんだ」
でも森の樹はさらに密生してそこは道もない状態にもどった。
そして森に向かっても叫んだ。
「俺は東村と西村の境石なんだ、境石なんだ」
そしたら深い森なってしまった森の神の声だろうか聞こえた。
「境石よ、もうここには東村も西村もない、どっちの村も消えたのじゃ」
「じゃ、俺は何の石なんだ」
「ただの前から名前のない石だよ」
「そんなの嫌だよ、俺は境石なんだよ」
「まあ、そうして叫んでいるのもいいだろう、やがては忘れるだろう」
こう森からの声はその境石に言いきかせた。森はさらに樹が増えて暗くなりさらに深くその境石をおおってしまったのである。
そして森の声は言い聞かせる。
「もう東村も西村もない、争うこともない、ただ名もない石に帰る」
しかしそれからも境石は境石とさけびつづけていた。
でもだんだんその声も弱くなりかてかとなっていった。
「俺は境石なんだ、境石なんだ・・・」
なおもかすかでも言い続けているが森は深くなり風が森に鳴りその声もひびかなくなっていったのである。

 
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posted by 老鶯 at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 童話

庭の石(石や樹を人間のように見ているー人とともにあった石や樹)


庭の石(石や樹を人間のように見ているー人とともにあった石や樹)


新しく庭に置きにし石一つ北風鳴りてここに落ち着く

しばしあり老人施設に掃除する女(ひと)のありしも冬のくれかな


庭の石は自然の石とは違って毎日見ているから石でも家族のようにさえ見えることがあるだろう。
山の奥にある石とまた違っている。
その石とは人間をイメージするし人間なのである。
最近知り合った人で家に来るからその人をイメージする
一年くらいつきあっているからその人を石のようにイメージする
人間は親しくなるにも時間がかかるし信頼し合う関係になるのも時間がかかる
とても一年とかでは信頼関係は結べない
家族は長い時間で形成されるから家族のような関係になることはむずかしい
だから離婚することは相当な損失ではないか?
なぜなら人間の時間は限られているし何度も結婚して信頼関係など結べない
そんな時間がないから離婚することその時間がもったいなとなる。
それでも熟年離婚もあるから何かその辺がわからないのである。

ふりかえると自分が生まれたときからこの家を自分がになっていた。
実際に自分の家に残ったのは跡を継ぐのは自分一人しかいなくなったからである。
石でもそれは人間である。雨風に打たれ雪がつもりその石にも季節がめぐり石は庭になじみ落ち着いてくる。それはまだ半年もたたないくらいだけど何かなじんできたという感じになるのも不思議である。
それは身近で見ているからそう感じるのである。
雨風に打たれ雪がつもるというときそれは石に人間を感じているし石を通じて人間を見ているのである。庭の石は特にそうである。
だからいつも不思議に見ていたのは津波の跡に残された樹である。
あれがなんとも表現しがたいのである。
日本の樹がそこを離れがたく立っている、長年一緒にいた夫婦のように家族の一員のように見える、それが家がなくなり何か悄然として取り残されたように立っている
それはまるで人間のように見えたのである。
一方で津波の跡に松原がなくなり一本松が残っているというときそれは庭にあった樹とも違う。それも人間的なのだが庭に立っている樹とは違っている
そもそも松原は家の庭にあるものとは違っているからである。

ともかく津波とか原発事故で感じたことは避難区域では人が住んでいない、そしてもう人が住まないのかとなった。
その時自分は石をテーマにしているから何かしら謂われのある石がある。
境の石とか何か樹でも謂われのある古い石や樹がある
それは長い時間の中で何百年とかあるものはそれは村とかと一体となっている
人間化した石なのである。
だからもともとある自然の石とは違っているのである。
だか人がいなくなったときそういう石はその村の一部となっているとき
何か取り残されたような感じになる
別に石なんかどうでもいいともなるが言いたいことはその石をその村と一緒に歴史を刻んだ石だということである
それは庭の石より古くその村と共に長い時間を刻んだ石なのである。
そしてまだ見いだされていない石がある。
それはまだ人間化していない石でありそのことを詩にしたりした。


長い間人が住んで歴史を刻んだ土地に人が住まなくなるとどうなるのか?
それが今回の津波でも原発事故でも問われたことである。
そういう長い時間で形成されたものが失われることの問題である
それは別に古い家でないにしろ二代くらいでも自分の家のことなど書いたが
それなりの歴史を刻んできている。
だから農家辺りだと江戸時代からあるのも普通である。
そういう歴史が消失することはどういうことなのかとなる
そんなことを考えもしなかったろう。
人間でも村でも故郷でもどこでも人間は一代だけで作られているのではないということである。
人間は歴史的存在である、動物には歴史はない、自然そのままでも歴史はない
人間だけが歴史を作り歴史的存在としてある
そこに人間の意味があるから避難区域に人が住まなくなるということはその土地自体の歴史の消失なのである。
ではそうした謂われ石が元の自然に帰るかというとそうはならない
やはりその村でも町でも石はやはりそこに住んでいた人間を語りつづけるのである

近くの介護施設で一生懸命掃除している女(ヒト)を見た
その時感じることは掃除している女性でもそれはその建物があり介護のために仕えているということである。
それは病院でも感じた、掃除している女性にはあまり注意を払わない
医者とか看護師は注目している
しかし掃除している女性を見ていると働いてくれているなと感じるのである。
でもがっかりするのは金のない貧乏な女性が馬券売り場で掃除の仕事できるからあってもいんだよなとかパチンコ屋だって仕事になるからいいんだよなとか
貧乏だからそういう発想になる、それは原発があったほうがいいんだよ、金になるんだからと同じ発想になるのである。
この辺では他でも人手不足で困っているのだから実際は全体で迷惑になっていることがある。
パチンコ屋で人手たりなくて困っているんだよとかおかしいのである。
その女性は借金しているからしかたなく行っているが何でも金になるからいいとはならない、そこに貧乏な人や思慮のない人の問題がある

この辺でもこんな状態でないならあんまりそういうことは言わなかったろう
毎日補償金でパチンコ屋通いとなると他から見ても何だろうとなる
こんなところで仕事しても馬鹿らしいと他の人も思って地元の人と喧嘩になったりしたのもわかる
そういうことをわきまえなければならないのだがしない、もちろん何もできないとか事情はある。
でも何かわきまえることがないから仮設に補償金をもらっていい暮らししている人は非難されるのである。
まあ、後一年でそうした仮設暮らしも終わるからまた違ったものとなってくる
その時五年間の時間の浪費がひびいてくるということもある
もっと何かしていれば良かったとかなるかもしれない
五年は長かったのである
その時間もまた浪費されたとなる


介護の仕事など誰もしたくないし意味がないとか盛んに言われるけどこれも豊かな時代に生まれた仕事なのだろう。貧乏だったら介護ということが仕事になるということはない
もともと家でしていたし介護するまでもなく人は早く死んでいったからである。
今は介護になって暮らす時間が長いということである。
百歳で終わりだともならない、確かに弱っているからあと数カ月の命なのかとも思う
でもまたそれもわからないのである。
だから介護社会というのは社会的な負担もそうだが家族の負担も大きいのである。
会社をやめて介護したりとか本当に切実なのである。
そして介護はそれなりに金もかかるのである。
でも介護から逃れることはできない、介護社会なのである。

タグ:庭の石