2015年02月11日

江戸時代から明治への変化を見直す (大規模産業化工業化が社会を根本的に変えたー原発事故もその過程で起きた)


江戸時代から明治への変化を見直す

(大規模産業化工業化が社会を根本的に変えた

原発事故もその過程で起きた)

●明治の大規模産業化工業化が最大の変化

江戸時代から明治への変化こそが現代史の出発点なのである。それはあらゆる面でそうでありここを知らないと日本の歴史が解読しようがないのだ。
だから最近明治維新が見直されるのは太平洋戦争の原因が明治維新の過度の尊皇主義から発していて吉田松陰のアジア制覇という思想が太平洋戦争の源があるとれる。
明治維新から太平洋戦争は連続しているのだ。
歴史とは連続なのである。明治維新で日本がまるで変わったように見えても連続したものがあり明治維新が成された。
ただその変化があまりに大きすぎたので江戸時代のことが理解できなくなったのである。外国から来た人達が江戸時代の人間を見て温和ないい顔をしていたという。
幸福そうな顔をしていたときいうとき、それはなぜなのか?
江戸時代は貧乏でも人間は融和的であり村というコミニュティがあり精神的に安定していたし生活のリズムも自然に合わせていたから現代のように絶えず仕事に情報に追われるようなことはなかった。
だから近代化して工場を作ったとき時間を守らないということで外国人が不満だった。

これは産業化工業化するときどこの国でも起きてくることである。
江戸時代の時間の感覚と近代化した産業時代工業時代の時間感覚はまるで違ったものとなったのである。
教育にしても寺子屋では机はばらばらに勝手に置かれていた。学校になり整然として置かれたし常に集団行動をさせるようになったのは工場労働者としての時間を守る集団に適応するために学校が作られたということがあるからだ。
大量規格生産のために人間も教育されたのである。
江戸時代は一人一人の職人が注文に応じて丹精込めて作っていた。大量生産品でないから同じものがないとまでなる。職人はそれぞれ芸術家だったとなる。
だから一つの一つの下駄も違っていて職人の名前がついたりしていた。
それは今の大量生産感覚のもの作りとは違っている。

江戸時代から明治時代の変化は産業や工業面での変化が大きく政治的な面だけではなかったのである。
要するに産業化工業化が社会を変えてしまったのである。
ただ明治以降も江戸時代と田舎は変わりなく継続するものがあった。
燃料は近くの森の木材で炭を焼きほとんど自給自足であった。
その生活は江戸時代と変わりないのである。
ただ原町市に原町紡績が作られ自分の母が働いたように大規模工場ができて変わったのである。
人間の社会を変えたものは世界的にも産業化工業化でありそれは機械化でありその影響は共通していたのだ。それはいい面と悪い面をもたらした。
その影響は今日までさらに極端化してつづいているのである。
戦前とかはもったいなとかいうことがあり物を大事にしていたがそれもなくなった。

●機械化は非人間化をすすめてきた

産業化工業化機械化はいい面として過重な労働から解放された。しかし一方で失ったものがあった。機械により機械に追われる生活となった。人間は今や自然と格闘しているのではない、あらゆる面で機械と格闘しているのである。機械の役割がそれだけ産業化機械化によって大きな役割を果すようになったからである。
この産業化工業化こそが実は世界的な社会の大変化をもたらしそれが非人間的なものとなっていった。
機械は一面人間性を奪うのである。人間は機械を使うことによって人間も機械化されるのである。人間が機械に合わせざるを得なくなるのだ。
人間が機械によってロボット化されるのである。
だから人間の未来の夢は人間が労働せずに機械がすべてしてくれるロボットの出現なのである。ある意味で社会はロボット化しているのである。
自動販売機はロボットでありレジでも何でも機械化されやすいのは機械化されるからである。
ただそこに人間の理想が実現されるかとなるとならない、そこにも思わぬ落とし穴が待っているのだ。原発事故のような思いもかけないことが必ず起きてくる。
老子が二千年前にすでに鍬を使うことを拒否した。道具を使うことを拒否したのはその道具によって人間性が奪われることを警戒していたのである。
現実に鍬が大規模な機械化社会になったことでもわかる。

江戸時代から明治への産業化工業化近代化で本当は一番恐ろしい結果をもたらしたのは
大量殺戮の兵器が作られたことである。それが最終的に日本に核爆弾となって落とされたことである。
ナチスでも真偽は今は不明にしても人間が物のように大量殺戮されたのはなぜかということであたる。それはベルトコンベアーの上を人間が物ののように押し出されてゆくチャップリンの映画にあった。
大量に規格製品を作るということは人間もまた大量の規格製品化してベルトコンベアーから押し出される。
それが恐るべき大量の殺戮になっていった。
20世紀は兵器の殺傷力があがり人間の歴史で最も大量に人が殺戮された時代なのである。その原因を国際関係とか政治的な関係とかから解こうとするだけではできない。
近代化とはグローバル化であり産業化工業化が世界で共通に行われてきたことになった。だから世界でみんな同じように学校が作られたことでもわかる
社会組織は世界で共通しているのである。
だから世界は言葉は違っていても社会組織はにたものとなっているのである。

江戸時代から明治に変わったとき産業化工業化が根底から社会を変えたのである。
江戸時代は農民主体の生活だから自然のリズムの中で暮らしていた。
日が昇るとともに起きて仕事して日が沈むと休むという自然のリズムである。
工業化になると特に現代は夜も眠らない生活となる。
そういうことが根本的に人間を変えてしまう。人間も生物だとするとき生物から離れた人間が実は機械になっているのである。
だからこうした機械化は非人間化でありこれに反発する人が出るのも必然なのである。
機械が主人になることに耐えられないのである。
詩人であれ芸術家であれ哲学者であれこういう機械化産業化工業化の世界には耐えられないのである。
そういう人はだからアウトサイダーになってしまうのである。ニ-チェからヘンリーミラーから上野霄里原生人間の主張などとしてつづいている。

●イスラム国は文明人より野蛮なのか?

イスラム国のあの恐るべき野蛮性はどこから起きてくるのか?
一方でヨルダンのパイロットがつかまり焼き殺されたけどそれはなぜなのか?
空爆で大量殺戮している文明人が野蛮なのか?
それともあの恐るべき野蛮性が本当に野蛮なのかとなる。
大量に人を殺戮できルウよになったのは産業化工業化の結果である。
ただそれは人をもの大量に無差別に殺戮する道具となったことである。
産業化工業化が非人間化した原因であり文明化とは何なのかとなる。
文明人などというと高等に見えても大量に人を殺戮する機械を発明した実行したとなると何が文明人かわからないのである。
原発の災禍も文明の災禍であり故郷にも住めなくなった。その被害もあまりにも大きかったのである。
日本は原子爆弾を落とされ原発事故が起きて二回も核で被害を受けたのである。

今日の様々な問題は江戸時代から明治への移行ですでにはじまっていた。
太平洋戦争も原因も明治維新で作られていたのである。
それが吉田松陰の過激な攘夷思想である。外国に対して攻撃的でありアジアへの侵略思想をかかげた大和魂が太平洋戦争に受け継がれたのである。
その根底には産業化工業化がありグローバル化した経済も原因していた。
石油が入らないようにアメリカが経済制裁したとき文明は動かなくなる。
それで戦争するしかないとなるのはそれは経済が世界的になっているからだ。
江戸時代なら石油がなくてもそれなりに生活する他ないのである。
ただ油でも相当貴重でありあらゆるものが貴重であり一切無駄にする生活はしていなかった。

江戸時代の生活がいいとかにはならない、ただどうしてこんなに20世紀が大量殺戮の時代であり原発事故でもそれは大規模産業化工業化文明化の結果として必然的に起きたのである。現代の社会は電気なくしてはありえない,電気社会である。
だから東電では事故後も収入が増えているのである。大量の電気なくして産業も工業も維持できないからである。電気がなくなるとき文明も終わるのである。
それはすでに予定されていたし歴史を見れば科学者でなくても起きることはさけられなかったのである。
それが安全神話が作られたのは政治家も官僚も東電もマスコミも文明人であり文明を維持するために安全神話を故意に作ったのである。
だからこそ文明の災禍としてさけられないものとして原発事故は起きたのである。
大きくは明治以降の産業化工業化を見直さないと真の原因はわからない。
つまり大きくは文明否定しなければ現代文明は一見豊かで繁栄しているようでも破滅に向かっている。
文明は自壊するのである。そういう日が必ずやってくる。
今回の原発事故はその一つの現象に過ぎないのである。


 
タグ:文明の災禍
posted by 老鶯 at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

冬樹(農家は人間に存在感を与える)


冬樹(農家は人間に存在感を与える)

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労務者や夕日のさして冬の草

我が庭に新しく置きし石一つ雪の積もりて重さを増しぬ
蔵に雪二本の樹の変わらずに池は凍りて農家の暮れぬ

この辺は今は除染の労務者が多い、3500人くらい入っている。だからいたるところにプレハブが建っている、またここに建ったのかとなる。
だからホテル関係や食堂や労務者が使うものなどは売れている、コンビニも夕方になると混んでいる。
何か人が多くにぎわっているから復興しているのかと外から来た人が言っていたがそれは地元の人ではない、外から来た人でにぎわっていたのである。
地元の人はパチンコなどで遊んでいるだけである。
補償金もらっているし高齢者が多いから働かないのである。
これも矛盾した話である。
あっち系の人が入っている、入れ墨の人が湯に入ってのも見た。
でもそういう人達だって働いているのである。
地元の人こそ遊んでいる人こそ非難されるべきだろう。

人間の存在感は人間そのものにあるが家とか土地とか回りのものによって存在感を与えられることがある。
特に田舎では家と広い土地と田畑がもっていることで存在感が与えられていた。
川子の高台の家はいつも存在感あるなと見ている。
二本の樹がまるで夫婦のようにあり蔵もあり変わりないのだが存在感がある。
何か毎年見ていてもそれがさらに存在感を増してくる
あの二本の樹がますます一体感をもたらしている
自然のものはそういうふうに時間の中で存在感をましてゆく
それは石でも同じなのである。
庭に新しい石一つ置いたがこれも時間の中で存在感をましてゆく

結局は自然を見るときまた人間を見ているのである。
田舎では自然とか田畑とか家がありそれぞれが存在感をもつ
だから復興団地とかなると存在感が消失するのである。
人間はもう年とってくると何か変わらないものがいいし変わらないものに価値を認める
ここに変わらずに二本の樹があるな、ここに五本松があるなということで心も安定する
変わることが苦手になる。
だから津波とか原発事故で老人は変化に耐えられないということがある
それで精神的にまいってストレスで死んだり自殺した人もいたようだ。

都会は豪邸に住んでも人間の存在感がない、存在感は自然の中で暮らす中で与えられている。一軒農家は存在感があり精神的安定感を与えているのである
ただ田舎でも街内になるとそうは感じないのである。
ともかく一身上でも回りでもあまりにも変化が大きすぎた。
コミニュティも破壊されたりこの変化の衝撃はつづいている。

農家の二本の樹は信頼を示している
それは変わらずにそこに立っている
風が鳴り枯木となり信頼を深める


そこに安心があり安らぎがある
その風景はまさに精神的に作用する風景なのである。
信頼というとき、自分の一身上では裏切りしかなかった
信頼は全くなかったから余計にそう思った。
人間が信頼しあうほどむずかしいことはないことを経験した
そもそも東電とか政府が信頼すべきものではなかった
信頼関係がなかったことが事故につながった
何事信頼関係がないと破壊されるのである。

タグ:農家