2015年02月05日

郷土史の意義とは (時間軸を基本にして故郷に生きる意義の探求)


郷土史の意義とは

(時間軸を基本にして故郷に生きる意義の探求)

hhhhhhhhhh123.jpg

郷土史の意義とは何か?それはある範囲での総合的価値の追及である。
現代の文明は複雑化して職業も無数に分化してつながりとか一体感が感じられない。
郷土史というとき自然をベースにしてアイディンティティを見いだし構築してゆく。
その自然というとき昔なら自然から糧を得ていたし80パーセントが農民だという時代は
自然そのものを意識することはない、自然がどうのこうのなどあまり考えない
生きることが自体が自然なしではありえないからである。
それが現代では自然から遊離して生活できる環境を文明が作った。
だから東京のように一千万の都会でも自然がなくても暮らせる
ところがその東京ですら水は自然があって供給されているのである
水は利根川の奥とかいくつかのダムから水を供給している
そのダムの水が実は今回の原発事故で放射性物質で汚染されたのである。
フクシマに原発を作れば東京は安全だと思っていてもそうではなかったのである。

郷土史というと何か狭い範囲の学問だと思っている。好事家がしているうよてうなものだと思っている。それが自分がプログで「相馬郷土史研究」で発信しつづけてわかったが
広範囲な知識と学問が必要でありこれだけ狭い相馬藩内でも自分一人では手に負えない
知識が必要になる。
今回の原発事故では自分は科学に弱いから放射能汚染について何か伝えることができなかった。
郷土史というといとき土から成るということも書いたから土と密接に結びついてある。
とすると地質学だって関係してくるともなる。そうなると自分には手に負えないとなる。地質学は地震とも関係してくるし地盤とも関係してくるから重要だとなる。
だから街中の墓地の前に復興団地が建ったときここは地盤が弱いというとき
そこは沼地だったらしいからそうなる。そういう江戸時代辺りの自然がどうなっていたかも知る必要があるのだ。あそこは地震に弱い地域だとなる。

それから郷土史というと史であるから長い時間軸で形成されたもののなかで人間の生きてきた価値とかこれから生きる価値を見いだす、意義づけることなのである。
自分の母親が百歳になったというときその人の生きた意味は何なのか?
一つは個人として価値づけるものがありもう一つは家族として生きた価値づけがあり
もう一つ故郷に生きたという価値づけがある。
さらに広域的になると戦争を経験したりすると国家的価値付けが問題になる
一人の人間の生きる意義とか価値は重層的なのである。

まず人間が生きる価値というとき自然があり人間の価値も生まれてくるのである。
それが大都会にはない、海があり大地があり山があり森があり川があり・・そこにまず人間の価値が生まれてくる。江戸時代でも戦前でもその地域地域で自然の糧を得て生活していたのだからそういう自然のことを意識していなかったろう。
戦後十年も炭で生活していたのだから地域が資本になってい生活していたのである。
地域地域の自然を糧として生きているとき自ずと精神的価値も自然に人間が付与するのである。

例えば石の詩を自分が百編書いたというときそうである。
石はその土地の要のように千年とか千歳とかあるから重みがあるとなる
石とか山にアイディンティティをもつのは人間として極めて自然なのである。
とても高層ビルにアイディンティティをもつことはできない、それは非人間的人工物となるからだ。
石にしてもそれは山とか大地にあるものでありビルの谷間に石一つあっても庭にあっても活きてこないのである。
石は四季の風雪の中で千歳の磐として重みを増してくるのである。
つまり自然は人間に食を与え養い美を与え神道のような信仰を与え哲学を与える
人間は自然からアイディンティティを見いだして人間形成するのが自然なのである。
都会のビルの谷間ではそうしたことができない、毎日がビジネスでありただ金を計算しているだけになる。それが人間の営みだろうかとなる。
そういう疑問ももたないというとき人間は何なのだろうとなる。
だから自然から離れた文明は奇形文明だとしたのである。

郷土史というとき相馬藩での権力争いとか戦争とかがやはり国の歴史と同じく主要なもののように見えてくる。でも一般庶民でも郷土に生きる生きた意義を追及するのが歴史である。
自分の母親のことばかり例にとるのもなんだがそれは一つの例である。
他にも自分は庶民の話を聞いて郷土史に書いてきた。
郷土に生きることの意義がそれぞれある。それは国の歴史とも関係している。
製糸工場で働くということは地域史であり日本の歴史でもあった。
原町にある原町紡績は一つの大きなこの辺の歴史をになっていたのである。
原町市は近代化の歴史をになった街として明治から形成されていたのである。
原町の歴史をたどれば雲雀が原の野馬土手であり馬の放牧場であり次に原町村とあり宿場町として発展して明治以降は近代化した街として無線塔など原町機関区があり発展した。相馬藩内でもそういうふうに村でも町でも市でも違ったものとしてある。

郷土史はまた現代と関係ないということはない、歴史は必ず連続しているのである。
連続していない歴史はない、過去が全く消え去ることなどないのである。
江戸時代から明治になり何でも変わったかというそうでもない、実質生活は変わっていないものがかなりあった。農民の生活はほとんど変わっていなかったのである。
農民が八割もいたとなると当然だとなる。農本主義になるからそうなる。
万葉集だって以前として理解不能な面もあるがその当時の自然が喪失しても日本という自然がある限り理解しえる、富士山でもなくなれば理解不能になるにしても現実にその土地は継続しているのだから理解できるのである。
新しい意味と価値を帯びて継続されているのだ。


郷土史というときだからこれは現在と結びついてどこでも不可欠であり時間軸から思考して意義を見いだす作業なのである。
原発事故がなぜ起きたのか、これも明らかに時間軸で郷土史を探求しておくものだったのである。
400年前に慶長津波で相馬藩で700人溺死したという一行でも貴重な記録だったのである。そこから津波の危険を察知して郷土史関係の人が警告できたのである。
宮城県の学者の人がすでに科学的て発見とともに警告していたのである。
人間は時間軸で考えるのは苦手である。人間はともかく忘れやすいのである。
それが人間の弱点だから文書とかに記録していないとますます忘れてしまう。
なぜ地震国なのに危険な原発が多く作られたのか?
それは日本の風土の歴史をないがしろにしているから起きた天罰だともなる。
ともかく郷土に生きる人間一人一人の意義をみいだしてゆく作業が郷土史でもある。

     立春に母の百才の祝いかな我が家に過ごす長き年月
    
    
この我が家を故郷か日本と置き換えると郷土史とか日本史とかに通じるのである。
「長き年月」のなかに意義が見いだされてくる。
それは個人的にも家族的にも地域的にも日本的にまた世界史的なものとして意義を見いだすことが歴史である。
だから今はいろいろ日本史でも世界史でも見直す作業がなされようになったのである。

 
タグ:郷土史
posted by 老鶯 at 15:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

ももはなぜ百になるのか? (万葉集の大和言葉は日本の原自然から生まれた)



ももはなぜ百になるのか?

(万葉集の大和言葉は日本の原自然から生まれた)


ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨(かも)を今日(けふ)のみ見てや雲隠(がく)りなむ

巻三(四一六)
…………………………………………………………………………………………………
(百に伝う)磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を最後に、僕は雲の彼方に去って行くのか
…………………………………………………………………………………………………
この歌は謀反の罪で処刑されることになった大津皇子が、磐余の池に鳴く鴨を見て読んだ一首と云われています。


日本語の一字で意味がある、もともと日本語は大和言葉は一音が基礎である。
二音はその一音から派生したものである。地名からこれを探求した人がいるし他にもいる
ヒという一音があり日があてられる。ネという一音があり根になる。
もの起源は藻であり藻屑に派生する。
藻は一杯あるものでありもも(百)になった。
チは地であり血であり千があてられる。
千歳がそうでありチは地であるから千歳と長いものに通じている。
千歳とは地(大地)から発したものである。
ネも極めて大和言葉的でありその痕跡は多く連なっている。
ネにつながる言葉があまりにも多いのである。
それでネから地名を解読する人もいる
もから動詞的にはモルがある。何かを盛ることである。名詞的にはモリ(森)がありモノ(物がある
つまり大和言葉でモから発する言葉はそれなりに主要語になっている。
第一モノは一番使われる言葉である。モノとは藻のように一杯あったものであり
それが物の起源だとなる。
一つの物をさしていたのではない、つまり原始の日本はモノにおおわれていたからそういう表現が生まれた。
ものがつく・・・表現は一つのものにつくのではなく・・・おおくの物がありそれにつく、おおわれることなのである。
つみが罪でありつつむから発したのも原始の日本では木であれ草であれ森であれ原始状態の自然につつまれていたからその言葉が発している。

この言葉を探求している人がいたけどこれも何か原始的な言葉である。
モモークキーネ・・・・これは原始状態の自然である。
たくさんのネがありクキ(茎)がありーネ(根)がある。
そこには道もなにもない原野の状態なのである。
地名は原野の状態をさしていることが多いのである。
この辺で山の奥の方の薔薇坂が何だろうと思ったら茨(いばらーうばら)だったのである。そこを開墾して住んだとき茨がありその名がついた。
茨城(いばらぎ)の由来も茨の中に足か住んでいたとか言われる。
万葉集時代は日本全国で二百万人くらいしか人が住んでいない
まわりはほとんど原野か山だったのである。
要する密生した木や草や森にとおわれていたのである。

なぜ大和言葉や言葉の驚異が言霊が失われたかというと言葉が生まれた日本の原自然が文明化とともに失われたからである。文明というとき弥生文明は稲作文明が原自然を破壊することから生まれた。
だから津波で松原が根こそぎ破壊されたことには驚いた。
松原は稲作で潮風を防ぐために作られた人工林だったのである。
杉林もそうである。楢とかブナがあるのが普通である。混成林が自然の状態なのである。
語源は不明。役に立たない木として、木へんに無でブナと読ませた。別名で、ソバの名があるのは、実が蕎麦の実に似ているため。
実は野生動物の食料になっていた。

ブナは用材にならないから役たたないから切って杉林にしたということがある。
それが自然破壊になり洪水が起きて麓の村が住めなくなったということもある。
原自然を破壊して文明化することは常に自然災害を作り出す基を作る。
松原ではなく混成林だとすると特に竹林だと根が強く張るから津波をある程度弱めたのではないかと混成林を新たに作る作業をした。
つくづく津波で感じたことは原自然がどうなっていたか?
縄文時代の自然を知ることが大事だったことを痛感したのである。
つまり海側に開拓した稲作文明自体が自然を無視した危険なことだったことを知ったのである

いづれにしろ百(もも)伝う・・の歌がなぜ不思議なのか
ここには日本の原始の自然の状態がありそれがなぜか理屈をこえて訴える
ただこの池は人工的な池だというときため池のようなものだというときまた違っている。ももづたふ磐余(いはれ)の池・・というとき大和言葉の理屈ではない言霊を感じる
磐余(いはれ)とはなにかわからないにしても磐と関係しているから重厚感がでている。万葉集の魅力は日本の原自然とイメージさせるから魅力的なのである。
枕詞でもそうである。現代はもう文明化が極端になり万葉集とかけ離れた環境になっているから万葉集を理解できないのである。


百才が(もも)であり桃色のちゃんちゃこになっている、でも江戸時代でも明治でも百才まで生きた人はいないだろう。90才まで生きた記憶はある。百才まで生きた記録はないだろう。
だから百才まで生きてモモが何だろうと自分なり解読した

日本(ヤマト)にそ百歳生きなば何思ふ大和心を汝(な)は知るべしかな

そもそも大和心は何なのか今やわからない、唐心が欧米の心が優勢になりすぎたのである
ただ日本人として生まれたらやはり大和心も知るべきなのである。
ただこういう文化的なことを理解するのは時間がかかるのてある。
百歳まで生きる時代になれば大和心を理解するということはある。
文化の時代は平和の時代であり吉田松陰の大和魂とか戦争中の大和心とは関係ないのである。
これまた戦争に利用されたのである。吉田松陰については最近疑問をさしはさむ人がでてきている。
そもそも大和魂とは何なのかとなるとこれまたわからないのである。
大和魂となると何か外に向かって攻撃的なのである。
それが外国の圧力に対して生まれた言葉だったのである。
原発の時も東京の消防隊が決死で水をまいた時に大和魂が言われた。
あれは何にも効果ないものだったからおおげさだったが犠牲的精神のことだったのだろうしかしこれも誤解されやすいものだった。
つまり大和心と大和魂は全く違ったものに由来している。
大和魂は吉田松陰が造語したものである
大和心に平和があるが大和魂は戦闘的なのである。
明治維新は海外に向かって戦闘的にならざるをえなかったからこの言葉が生まれたのである
時代によって言葉が死語となり新たな言葉の意味が生まれる、言葉は一定していない、常に時代によって解釈が違ってくる。



タグ:百(もも)
posted by 老鶯 at 00:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集