2015年02月04日

母の百才の祝い 南相馬市(小林トミ子)


母の百才の祝い-南相馬市(小林トミ子)

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会津塗りは県から授与された

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百歳は百(もも)で桃色のちゃんちゃさになる。
赤は還暦であり他のもそれぞれの年の祝うのは色が違っている。
通信販売ですぐ買えたのが便利だった
ひはり百歳は記念になるだろう



立春に母の百才の祝いかな

我が家に過ごす長き年月

今日は百才の祝いで民報と民友で来た。事前に連絡がないからあわてた。
県から許可得ているというけど取材は勝手に民間ではてきない
取材拒否だってできる、そもそも一個人が新聞にのせてくれといってものせない
それは出版でも本屋でもそうである。
公共の図書館でも拒否されたことがある。それは地元だったなのである。
こうして権力をもたないものは取材でも何でも権利がないのである。
そういうところから原発事故も起きて来たのである。
インターネットは誰ものせるなとか言う人がいないのが不思議なのである。
だからイスラム国の首切り映像もでているのである。
それもまた世界的報道の自由なのだけどインターネットでも世界的に影響力をもったことが今回の人質事件だったのである。


ともかく百才は一つの大きな区切りであり峠を越えたという感じである。
百才で死んで終わるわけではないけど何か一つの大きな区切りであっんる
それもちょうど立春であり日にちが良かったということがある
母はすでに小林家に嫁いでから70年ほどになる
この歳月も長いなと思った
実家で暮らすより長かったのである。
南相馬市で最高齢は108才だそうである。
まずこれからは百才の人が増えてくる
なぜなら90才の人が多いからである。90才以上はめずらしくもない時代である。
その人たちが百才まで生き残る割合が大きいからである。


長生きの秘訣は何かと聞かれたが80才まで店をやっていてそのあとも台所仕事をしていただから仕事を休んだことはない、働きづめで趣味も何もない、それはある意味で異常だった。
ただそれだけ働いていたからボケにならなかったのかと思う。
ただ認知症になるかどうかわ誰もわからない、原因がわからないからだ。
別に趣味が豊かだからならないとは限らない、頭のいい人もなっている
言えることは台所仕事でもしないと確実に体も頭も退化しして認知症になりやすいことは確かである。

母を見ているとなにかマラソンランナーに見える、たいして早く走らないのだがどこまでも長距離を走る姿である。それは日常的にもそうなのである。
真面目にごはんを食べて規則正しい生活をずっとしてきたからだた。
体は細く激しい運動はできない、力もないが長距離にはマラソンに向いているということがあった。
日本人は女性でも忍耐力があり持続力があり一時トップにたったのかとも思った。
百才生きるとなとマラソンランナーである。

一つの区切りを迎えたがこれで終わったわけではない。
ある意味でこっちの方が疲れてきたということがある。
まず介護は長くなるのか問題なのである。
介護を良くすれば寿命ものびる、介護する方になるとそれだけまた負担が増えるのである百才で頭がはっきりしている人はまれだろう。
例え長生きしても寝たきりとなっていたりすれば悲惨なのである。
とにかくこれから百才の人は増えてゆく、そしてこれからは百才といってもニュースバリューがなくなる。
新聞社さえこなくなるかもしれない、今はまだ百才でニュースバリューがある
だから福島の新聞社二社も来たのである
二社も来る必要ないからである。
南相馬市の広報にはのる、ただプログは全国版になる。

かといってどうしても知られるという点は広まることではマスコミである。
しかし今は本当にマスコミの情報だけではたたないのである
一つのことを報道してもほんの一部のことである。
細部にわたって報道することはできない
その点インターネットはできるが読まれる人は限られている
ただ「相馬郷土史研究」のプログが相当読まれている
原発事故で全国に散らばった人には意外と有効な情報の提供ができるということがあったそれで浪江でタブレットを配布したのである。
地元の情報が触れられないということで連体を薄れてゆくからである。

母の一生は何であったか?

それはまたすぐには解答はでない、これもまた郷土史の一遍だったのである。



南相馬市(原町市)で生きた)大正生まれのばあちゃん

大正生まれのばあちゃんは
関東大震災の揺れを経験した
原町ににょきにょきと雲をつくような無線塔
コンクリ-ト作りでアメリカに無線で助けを求めた
大正生まれのばあちゃんは
製糸工場(原紡)で十年働いた
女工哀史の語られる時代だった
東京からは蒸気機関車が原町にご-ご-と唸りをたててやってきた
燃料は石炭であり常磐炭鉱は東京に石炭を運んだ
最初は小名浜から船で次は常磐線で運んだ
石炭はいたるところで掘られた
鹿島の小池でも石炭掘りした大正生まれがいた
でももう死んでいなくなった
石炭は今の石油と同じだったのだ
原町機関区から木材や資材が東京に運ばれた
原町は一早く近代化した街
その象徴が東洋一の無線塔だった
原町の人は天をつくような無線塔を毎日見上げて暮らしていた
大正生まれのばあちゃんは戦争も経験した
農産(相馬農業学校))学校に爆撃があった
すぐ近くだから飛行機が家の上を通った
飛行機通るとばぐっと防空壕の蓋があいたとか
気丈夫な父親も飛行機に負けてたまるかと逃げなかったが
遂に防空壕に怖くて逃げた
農産学校は爆撃で燃えた
はるかに仙台空襲で空が真っ赤になりここからも見えた
雲雀が原には飛行場もあり飛行機も飛んだ!
大正生まれのばあちゃんは戦後まもなくの食料難も経験した
だか今でも庭に花より豆を植えているのか
戦後は丸三製糸工場ができてそこで弟は働いた
今もその煙が街なかにふきだしている
戦後60年もまたいろいろあった
みんな様々体験をした
戦後60年はまた長い
もう百歳もまじがになっいる
一人の息子は交通事故で死に
身内の一人は最後は認知症で死んだ
昭和の歴史も長かった
昭和天皇はすでに死んで平成の時代
大正生まれのばあちゃんはすでに90過ぎた
大正生まれのばあちゃんはそれでも元気な人が多い
かくしゃくと背も曲がらずに歩いている人もいる
しかしさすがに大正生まれの人は消えてゆく・・・
その刻んだ歴史は壮絶なものだった・・・・
だから今や大正生まれは貴重であり老人でも尊敬される



この詩のように南相馬市の前の原町市はまさに製糸工場とか無線塔とか丸三製紙とか原町機関区としての国鉄の拠点としていち早く近代化した街だった。だからこそ南相馬市という名前がそぐわなかったのである。現実にこうして原町市で生きた人々がいてそれが今や歴史となっているからだ。つまり大正生まれはすでに今や百年一世紀がたつのである。一世紀の近代化の歴史として原町市は作られていたのである。その百年を南相馬市という合併後の名前で消してしまったということがあるのだ。一世紀となれば相当に重い歴史なのである。特に明治以降は変化が激しいからそれだけ余計に重みがあるのだ。ともかく団塊の世代だってすでに高度成長は昔となりそんな恵まれた時代があったのかと回想する時代になっている。ただ大正生まれとかからすると団塊の世代は相当に恵まれていた。でも団塊の世代でも格差があり全部が全部ではない、中卒で苦労して退職しても退職金ももらえない、貯金もない人も結構いるのである。60年の歳月これもそれぞれの歴史だった。60年+30年の歴史となると一世紀でありこれだけのめまぐるしい変化を生きた時代はなかったのである
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