2015年02月20日

事業(原発など)の失敗と戦争の失敗はにている (撤退すること負けること失敗することを事故を想定しない)



事業(原発など)の失敗と戦争の失敗はにている


(撤退すること負けること失敗することを事故を想定しない)

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失敗の構図は事業でも戦争でもにている。
なぜ日本軍はこんなに無謀な戦争をしたのだろうかとなる
シンガポールを落とすということは計画的に戦略としてありえた
でもアジア全域に戦線を拡大したのはまさに無謀だった
そしてもう負けることも撤退もなくなっていった
要するに最後は原爆を落とされるまで突き進むほかなかった
なぜなら負けるということが計画にもないし
撤退することもありえない、一億総玉砕の戦争だったからである。




事業というのは経営はあらゆる人間的なことにかかわる。
だから技術者だけで理系だけでは運営できない
職人だったらその技をひたすら磨けがいいとなる
でも経営となると全体にかかわるし一部の狭い分野だけ
を追及しても成功しない
理系だったら何かマニアックでもオタクでも雇われているなら別にかまわない
でも経営となるとまた別なのである。
それは人間的なものモラルとか人格とか何かそうした幅広いものがかかわってくる
だから事業に失敗した人に接してみるとわかる。

その人はなぜ事業に失敗したのか、その人は最高にむずかしい資格をとっていた。
理系の職人として優れていた。
でも事業をはじめたとき、経営をはじめたとき失敗した。
その原因はよくわかないにしろ理系として職人として優れていたから事業も成功するものと思ったのだろう。
だから最初から設備投資も多額であった。それも金を借りてしたのかどうかわからない
その経営にしてもどういう目的があってよりただ金をもうけるということしかなかった
何かのためにするというものはなかった
なんらかの理念にもとづく経営もなかった
経営と商売はにている。成功した商家では家訓とか残っているから経験からそういう家訓が残された。
家訓というときそういう家のものでもやはり歴史の教訓ともなる

人間は事業するとしても戦争でもまず失敗がある負けることもあると想定しないのであるもちろんそんなことをマイナスの面ばかり見ていたら事業などできないというのもわかるでも一方で事業には何が起きるかわからない、だから失敗も負けるということも想定しなければならない
戦争でも負けるということを想定しないから日本軍は負け戦なのにどんどん戦線を拡大していった
それは経営でも事業を拡大して失敗しているのと同じである。
つまり小規模にとどまっていればかえってその経営が成り立つ、あまりに拡大するとかえって失敗するということも常にあることは素人でもテレビなどで紹介ししているからわかる
小規模でもその店のいい点を味わいを出すというのがいいとなると規模を拡大しすぎるとそれができなくなる。

日本軍の失敗は事業を拡大しすぎたことなのである。戦線を無計画に拡大しすぎたのである、朝鮮とか台湾辺りまでに限っていればあんな大失敗にはならなかった。
その人も全国の人を相手に事業をはじめたのも失敗だった。
それも一人でやろうとしたのだから無謀だった。
それは大きな会社ならできるが一人ではとてもできない相談である。
そして事業から撤退できなくなっていた。
事業が実際は失敗していたのに成功を装っていた。
内実は借金で首が回らなくなっていたのが最近まで家族も借金のことを知らなかったのである。
「俺は成功者だ」と装っていたしみんなもあの人は頭がいいから成功していたと思っていたのである。
早めに失敗したのだから撤退していれば傷も浅くてすんだ。
これは日本軍の失敗と同じだった。
早めに負け戦だと悟り戦争をやめて撤退していればあんなに犠牲者が出なかったのであるそれは最近になって盛んに言われるようになった。
負けているのに勝った勝ったという大本営発表しかなかったのである。
事業に失敗していたのに成功していたと装っていると同じだった。
だから事業と戦争はにていると思った。
早めに負けを認め撤退することはそれだけむずかしいということである。

その人は正直職人として技術者としてやっていれば成功者だった
事業経営者や商売人になったとき失敗したのである。
東北人は職人としては向いている。
でも商売人とか事業経営者には向いていていない
商売や事業経営者に向いているのは関西である。
そこにはそれだけの歴史もあるからである。
近江商人とかもそうであり大阪商人もそうである。
そこではそういう人を育てるのである。
東北では農民とか職人は育てられても事業者とか商売人は育てられない
そういう歴史もないのである。
伊達政宗などは何か東北人に思えないのである。
宮城県人は東北人でないというときそういうことなのかとも思う

原発事故でもこれもあまりにも一職人とか理系の技術者とか科学者だけでやれるものではない
総合的なものであり国家的事業でありその指導者も戦争を指導するような人でないとできないというのもわかる。
文系なんか何の役にもたたないとか常に言われるけど原発は理系的なものだから
文系など何の役にもたたず必要ないというのが現実だった
ただそこにも盲点があった。
一見モラルなど関係しない世界のうように見えて関係していた。
科学者は嘘をついてたとかだましていたとかなっていたのである。
科学者は素人は科学のことはしらない原発のことを知らないから簡単にだませるともなっていたのである。

そういうモラルの欠如が事故に結びついていたのである。
科学者も正直であることがむずかしいのである
科学的におかしいことでも曲げて発表する
御用学者は事故が起きたとき盛んに原子炉は安全だと言っていた。
メルトダウンはしないと言っていた。
でもメルトダウンしていたのである。
人間は成功ばかりみて失敗を想定しない、いいことばかりみて悪いことを見ないようにする、そこに落とし穴があった。
悪いこと想定して事業もはじめねばならなかったのである。
戦争でもそうである、負けることがあり負けたらどうするかとういことを想定する必要があった。
しかし天皇教となり神国だから負けないとなっていて撤退もできなくなっていたのである。それで百万人死んだというからその罪も重いのである。
原発は戦争と違う、事故が起きたらと明らかに科学者なら放射能のことを知っているのだからシュミレーションできたし事前に訓練もできたのである。
そんなことをすると安全でないと原発を作れないのでしなかったのである。

つまり戦争も原発事故もリスクがあることを正直に言わなかった。
株なんか元金がなくなることもありますよとリスクを言っている。
だから元金までなくなっても株している人は文句いわないのである。
そういうものだとしてやっているからである。
もちろんそうなると戦争でも原発でもできないことになるかもしれない
戦争で負けるかもしれませんと言ったら誰もついてこないかもしれない
原発でも危険を言ったら誰も建てろと言わない
でもそのリスクの責任をとらされるのは国民であり住民なのである。
だから300万人も戦死した責任を誰をとるのかとなる
もし国民がそういうリスクを納得して戦争するならいい
原発でもそのリスクを納得して建てるならいい
そのリスクを隠して全くないようにして事をすすめることは誰の責任となるかである
国民が主権の時代なら国民に知らされないとしたら誰が責任をもつのかとなる。
要するに戦争でも原発でも事業でも重大な責任が課せられている。
だからこそ失敗したときどうするのかとかマイナスの面も想定しておく必要があった。
そうすれば犠牲も最小限ですんだとなる。


 
タグ:事業の失敗
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2015年02月23日

梅咲くー春北風(はるきた)ー日立木から黒木まで


梅咲くー春北風(はるきた)ー(日立木から黒木まで)


まちばばし紅梅咲くや我が来る
春北風や日も暮れなむや五本松

春北風(はるきた)に向かいて走る坂越えて黒木までかも行きて帰りぬ
日立木の薬師堂に咲く紅梅やここに祈りぬ昔の人かな

3カ月ぶりなのか4カ月ぶりなのか相馬市には行けなかった。寒かったのとなかなか介護で出れないためである。
介護でショックだったのは自由に外出もできないことであった。
最近また弱ると手がかかる。便の始末とかでもかかる。
だから家で介護することは離れられなくなるから苦しいのである。
施設だったら誰かが代わってめんどうみるからいい、代わってめんどうみる人が家族にいないと在宅の介護は大変になる。
この辺ではまず特養とかには入れない、まず東京辺りでも介護難民が深刻な問題になる。
今日は風が吹いていた。この風は春北風(はるきた)である。寒くなくあたたかいから風を受けて走ってきた。電動自転車は風とか荷物に強い、馬力があるから風に向かっても走るのである。
相馬市の黒木まで行ってきた。黒木というと結構相馬藩では話題になる黒木氏がいた。
一時は伊達氏についたりした。丸森にも近いからそういう地理的なもので黒木氏が伊達市につくか相馬氏につくかで問題になったのである。


途中日立木の薬師堂によったら紅梅が咲いていた。あそこの薬師堂は何か場所がいいのである。
あそこは何かほっとする場所なのである。それはなんというか場所の不思議である。
日本の神社は場所に意味がある。パアースポットだというのは本当である。
薬師堂というときどこにでもあるがそこは病気の時祈る場所だった。
病院に行くように薬師堂に祈っていたのである。
病院も医者もいないのだから薬師堂に来て祈る他なかったのである。
だからあそこにはなんか場所の力、パワースボットになっているのかもれない。
そういうところでエネルギーをもらえるということもありうる。
ただそれもそこに頼りすぎると危険である。
場所でも頼れば偶像崇拝と同じになるかもしれないからだ。


ただ自分は旅してきたから何か場所にこだわるのである。
何度も書いてきたけど日立木から相馬の城跡までは一番歴史を感じる
相馬藩では日立木から松並木を通り城跡まで行く道が歴史の道である。
そして道の駅に行く所にある五本松は何か心なごむのである。
あの五本松が変わらないということがいいのである。
この辺はあまりにも変わりすぎたから余計にそう思うようになった。
五本松には実は人間を見ているのである。
五本松は人間が変わらずあるというふうに見ているのである。

ともかく今年は寒かった、今日は春だった。ただ風は東風(こち)ではなく春北風(はるきた)だったのである。
春北風とか季語があるのも日本的である。日本では季節が常に変化しているからである。
タグ:春北風

五本松俳句十句 (日立木から相馬市の城跡へ)


五本松俳句十句


(日立木から相馬市の城跡へ)

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草の花たどれる道や五本松
五本松老人集まり秋日没る
高齢化芒のあわれ五本松
夜もふけぬ月影さして五本松
冬の朝身の引き締まり五本松
冬日没る鬼越館に五本松
五本松ここに変わらじ冬田かな
五本松質実にして冬田かな
春北風に日も暮れなむや五本松
春の暮城跡たずね五本松

昔の街道には浮世絵でも良く松がでてくる。その松もいかにもいい松なのである。
街道にはどこでも松並木がありいい古い松があった。
日本は松の国である。松は何か人間に見えるのである。
今はそうした風景も何か脇道に取り残されたようにある。
それは車社会になったとき街道もすたれ松も映えなくなったのである
車社会は風景も破壊したのである。
五本松はどこにでもあった。それも歩いてゆくとき五本の松があると感じる。
車だったら一本一本の松を感じないからである。
五本松から日立木から松並木を通り相馬の城跡へ行く道は昔の街道を感じる道である。

こういう昔を感じる、歴史を感じるためには何回も日常的に往き来していないと感じられない、季節の変わってゆくなかでも感じるからだ。
自然と人間が一体化するというのは現代では本当にむずかしくなった。
生活のテンポが早すぎることもある。
自然はやはり悠長なときに自然のものと一体化するのである。
ともかく現代は何か自然と一体化しないから人工的になりすぎて索漠とするのである。
あそこに五本松があると何がほっとするのである。
ただ芸術は必ず時代の影響を受ける
高齢化社会だというときあの松も老人なのかと感じる
なぜなら相馬の道の駅にいつも老人がちょうど五六人集まっていたからである。
あそこはそういう場所にふさわしかったのである。
何することもなく集まって日が暮れると去って行っていたのである。
冬はさすがにいなかった。


 
タグ:五本松

2015年02月24日

インターネットで変わった買い物や本を買わないこと (現代的情報環境に適応できない)


インターネットで変わった買い物や本を買わないこと


(現代的情報環境に適応できない)


インターネットの買い物で一番便利なのは買った本人が使ってみてどうだったか書いてあることである。
そして何人もこれがいいと書いてあるとそれは確かにいいと判断する。
これはほとんど間違いない評価である
ところが電器店の量販店に行ってみても使った人が評価するのではないから
量販店ではどうぞどれでも買ってみてくださいとなる
その中には古いものや店がすすめるものでもその人に合わないものもある
品物の数も少ないから自分で選んで失敗した買い物がある
オカユを作るのを8000円ですすめられて買ったが使いなかった。
ところがアマゾンで4000円のオカユ製造機は良くできているなと感心した。
8000円のすすめられて買って失敗した。
量販店は本当に不親切なのである。

今は物がやたら増えているから何を買っていいか迷うのである。
オカユ製造機でも十もあったりすると何を選んでいいかわからない
店ではどれでもいいから買ってくださいとしか言わない
使った人の評価を聞くことができないのである
こういう点で量販店が通販と比べてかえって不親切だと思った。
ただバッグなどは重さと大きさがわからないので買って失敗したのがいくつかある。
だから店がすへてだめだとはならない
ただ通販とどうしても比べられるようになったのである。

本や雑誌が買わなくなったというとき、特に雑誌は売れなくなったというとき、ネットの影響が大きい。
メデアが変わると表現の仕方も変わることも影響していた。
雑誌とネットの表現の仕方は根本的に違っていた。
ネットでは前は応答が主だったとき長い文章は嫌われていたのである。
短い文で応答するのがネットのメデアの特徴なのである。
それは今でも2chなどでそうである
そういう情報環境になれると人間の頭もそういう環境に適応する
雑誌的情報の出し方が現代に合わないとなってしまった。
新潮などで雑誌を出しているが他にも文藝春秋とかあるがそれには中味があっても
とても全部読む気力もなくなった。
これは老化のためであるが若い人でも雑誌を読まないというとき長いの十人くらいが別々に書いているから全体として理解するのが相当にむずかしい
一人の文を理解するだけで相当に頭を使うから疲れる
それで自分は読もうとしたがギブアップした。
十人もの長い文章を読んで理解することができなくなったのである。
それは別に年取ったからではなく若い人もそうなのである。

一方でプログでもやはり今では長い文を書く人もいるがどっちかというと短い文を毎日出すのが読みやすいとなる。
でもそれなりに長くないとそれは中味がないのでプログで毎日読んでいるのはまれであるプログで毎日それなりの長い文で読めるのを出すのはむずかしいのである。
ただ毎日プログ読んでいると首尾一貫してその人の言いたいことを理解するようになる。だから「心の青雲」などは全部納得できなくても何を言いたいのか理解するようになったただあれだけの内容あるものを書き続けることが普通はできない
だから毎日読めるようなものをプログがまれなのである。
ただプログが長いと言っても雑誌からすると短いから読みやすいのである。
毎日読むにしても苦痛のない量なのである。
もし一カ月分くらいをまとめて読むとしたら雑誌と同じでありとても読めなくなるのである。
毎日少しづづ同じ人の文を読むから理解できるのである。

本が読まれない買わないというときネットのこうした情報環境になれたことも原因である本はたいがい薄くても厚いし情報量が多いのである。
だから本一冊を読むことは苦労なのである。
実際本を千冊買ったとしても理解できるのは百冊が限度である。
それくらいしか生涯で本は読めない
本はそれだけ情報量が多いのである。
そして年取るとますます読めなくなるのである。
実際は若いとき苦労してでも古典などを読んでおくべきなのである。
なぜならあとで読めなくなるからである。

ただ以前として本の種類は膨大である。
だから本を選ぶということも何を買っていいかも迷う
なぜなら本は厚いから買っても全部読むことが苦労だからである。
金もかかるからなかなか買いにくいとなる
それでもネットだけではデープな情報は内容あるものにはふれがたいということはある。本が売れないというときこうした情報環境がちがってきたことに対応できない
買い物でもネット環境に対応できないということがあった。
やたら本の評価を書いている人がふえた。
そしてその本自体を買うのではなくネットでの評価を読んで終わりという人もふえた。
なぜなら本を買うことは金がかかるし読むとなると厚いから苦労するからそうなる。
インターネットは今になると様々に現実社会に影響が大きくなってしまったのである。


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おかゆを作る

4200円では安い優れもの

タグ:通販

数学史からみるとわかりやすいイスラム文明 (世界文明は平和的融合である)


数学史からみるとわかりやすいイスラム文明

 
(世界文明は平和的融合である)



 現在我々が使用している算用数字はアラビア数字と呼ばれる。インド数字を原型として、イスラム世界で完成し、後にヨーロッパに普及し、現在は世界中で使用されている。この アラビア数字の最大の長所はインドから学んだゼロの観念をアラビア数字・十進法と結びつけたところにある。
 ローマ人はアルファベットを用いて数字を表記した(1はI、5はV、10はX、50はL、100はCなど)が、大きな数字を表記するのに大変苦労した。例えば1999はCIC(1000) IC(500) CCCCLXXXXVIIII(1000と500の右端のCは、Cを裏返して左右を逆にした記号になる)と表記した。

 従来の数学は、例えばギリシアの場合も発達したのは代数学でなく幾何学であった。代数学が発達せず、幾何学が発達した理由はやはり数字の問題だと思う。
 天文暦学は、古代オリエントでも盛んであった占星術がイスラムでも大いに発達し、そこから天文観測や暦学が発達し、正確な暦も作成された。
 http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/91-islam11.html


 それら三つとも、すなわち火薬にせよ羅針盤にせよ印刷にせよ、中国に起源をもつものがイスラム圏に伝えられ、西欧はそれを最後に学んだに過ぎない。ルネッサンスに功績があるとすれば、それを量産したということだけである。
 ルネッサンスとは要するに「大翻訳時代」であり、西欧はようやく17世紀に入って先生であるイスラムを追い抜いたのである
 http://pathfind.motion.ne.jp/isram.htm
 
 

中国が起源の火薬、羅針盤、印刷がありさらにインドを通じてゼロの観念が入りイスラムで代数学が発展した。ギリシャは幾何学だったということはエジプトの数学も幾何学でありピラミッドを作るのに用いられた。代数となると抽象化が高度になる。
スペインのトレドにイスラムの集積した知識が本として保存されていた。
イスラムを通じて数学が代数学として伝えられ医学や化学なども伝えられた。
イスラム独特の建築も伝えられた。
今イスラムというと石油とアラーの神、宗教しか見えない、そのイスラム教もイスラム国のテロとか政治だと独裁制の遅れた国としか見ていない、つまりイスラム文明は先進国としてあったがいつしか後進国になってしまったのである。
そして何かイスラム国の野蛮性とかテロとか何ら文化的なものがない世界にしか見えないのである。
西欧のルネサンスがこうしたイスラム文明が融合して生まれた。
それが西欧文明だけではない、中国にも起源がありインドにもありイスラム社会で発展してスペインにイスラム圏が拡大したときその文化的遺産がトレドに残された。
ルネサンスが華開いたというときそれは世界文明として華開いたものだった。

わかりやすいのはアラビア数字とかローマ数字とかがある、ローマ文明が数字の表記に苦労していたというのもあれだけの建築を作ったのに意外だった。
文明とか文化は戦争により争いではなく戦いではなく平和的融合なのである。
そこに人類の歴史の意義がある。別にイスラム教とキリスト教が争うというのではなく
文明や文化面からした融合なのである。十字軍のときもイスラムの富と文化が流入した。その時もイスラム文明の恩恵を西欧では受けていたのである。
中国文明というと世界とあまり関係ないように見えても紙の発明がイスラム圏に入り西欧に入り印刷術が伝播されて本が作られるようになった。
紙の発明は意外と重要であったた。それは知識を伝達してまた保存するという役割があったからである。だから本の役割は大きく文明を作るものだったともいえる。
それでローマでも図書館が立派なのである。イスラムでも図書館がありそこが学びの場となっていたのである。
その図書館の役割がインターネットになるとどうなるのかということになる
やはり知識は今までとはまた違って普及するだろう。
こうしして自分が書けるのも知識が要約的でも読めるからである。
世界史は大きくて複雑でどう勉強していいかもわからない、でも数学史という面から見るとわかりやすいとなる。世界史はまた戦争史のようにも見える。
でも世界史は文化の融合でありそれは平和的なものとしての実りなのである。

文化面から見れば文明は対立しない、宗教でも対立しない融合なのである。
西欧文明とは世界文明であり西欧だけが作り出したものではない、西欧は世界史からみると辺境だったが世界の文明を融合させる地理にありそこで世界の文明として華開いたのである。それがルネサンスだったのである。
西欧の科学機械文明は数学が基礎にあるときやはりその数学がインドのゼロの観念からイスラムの代数学から発展したことが興味深いのである。
化学もイスラムが起源でありそれは今日の化学の基礎なのである。
今のイスラムの不満はそうした過去の栄光と何ら関係ない、外から何も文化的なものが見えない、かえって遅れたものしか見えなくなっている。
その不満は暴力では解決しない、日本では江戸時代は科学など相当に遅れていた。
技術でもそうであり第一駕籠というのは原始的な乗り物なのである。
人間が担いで運んでいたと何ら変わりないのである。
だから明治維新になってすぐに鉄道でも開通して発展したというのも不思議である。
イスラム社会では鉄道は発達していない、砂漠などで条件が悪いのかもしれない。
ともかく化学を生み出してイスムラで科学は発達しなかったのである。


イスラム国がテロで話題になったときイスラムとは何なのだとか関心を集めた。
イスラム社会はわかりにくい、今イスラム圏内、エジプトとかどこでも若い人の人口が多いのである。するとそうした若い人の就職先がないとかが大問題になる。
就職先がないからイスラム国で兵隊になるという人もでてくる。
それでイスラム国が経済的にも優遇したのは魅力となったのである。
月給とか家まで与えるとなると職もなくうろついているよりはいいとなる。
ともかくイスラム圏が若い人の人口が多いということはそれなりにポテンシャルがあるのかもしれない、そこに何かエネルギーが生まれる。
日本は高齢化社会であり老人の介護にエネルギーを使われている。はたしてそんな社会から新しいエネルギーが生まれるかともなる。
戦後の焼け野原になったときも今の団塊の世代が生まれたがその時も子供が多いし高度成長時代になるとその子供の多さが労働力となりエネルギーとなっていたのである。
だから若い人が多いということはやはりその国も若いのでありエネルギーが生まれるということはありうる。
だから少子高齢化の日本が衰退すると騒ぐのはそのためなのである。

数学とか科学は苦手でわからないけどやはり文系でもそうした科学にアプローチす方法はあるのだろう。歴史的にアプローチすると興味を覚える、数式だけで見るとギブアップになる。あらゆる学問も歴史的積み重ねで発展したものなのである。



カトリック教徒である支配者はトレドを自国の首都とし,ユダヤ教徒の市民は手工芸や商売で手腕を発揮し,イスラム教徒の職人はその才能を建築に役立てました。それら三つの宗教の学者たちが翻訳学校で一緒に働き,12世紀から13世紀にかけて,非常に多くの古い文献をラテン語やスペイン語に翻訳しました。それらの翻訳者のおかげで,西洋人もアラビア文化の膨大な科学的知識を利用できるようになりました。

このサイトは簡潔にトレドのことをまとめている。

 
タグ:数学史

2015年02月25日

小高もあと一年で避難解除 (鹿島区などは人口がへるので困ることに・・・)



小高もあと一年で避難解除


(鹿島区などは人口がへるので困ることに・・・)


小高は帰れなどと補償金問題で前に言ったが消費することで潤っていた面はあった。
飲食関係とか理髪店とかその他スーパーなどはにぎわった。
飲み屋では小高では金をもっているので使うという。
遊び人になった人もいた。飯館村の人もギャンブラーになったとか書いている人もいた。連日パチンコ屋がこんでそこも人手がたりないとかこの辺は異常な状態だった。
それで人手不足なのに人手がパチンコ屋にとられるというのも迷惑だった。
そんなこと遊んでいる人は意識しない。
イワキの方でも連日飲み屋で札びらを切っていたというからこの辺の飲み屋も同じことがあったということである。
飲み屋にして見れば金を落とすのだから悪いとはならないのである。

ただそこには複雑な感情をもつようになる。
金の力で威張っている原発避難民に対して良くは思わない
でも金を落とすからしかたないともなる。
ここでも小高の避難民に対してはそういうことがあった。
ただ違うのは南相馬市内であり南相馬市民になっていたからまた違ったものがあった。
そして小高とは親戚とかいろいろ関係している人がいるからイワキのように露骨な反発はなかった。
ただしかたないなということで受け入れていた。
ただ内心では反発するものをもっていた人たちもかなりいる。

ただあと一年で避難区域が解除されるとなるとまた状況が変わる
すでに変わっている、仮設を出ている人も多くなり空屋になるからそこに外部の除染関係の人などとめたらどうかとなり具体的な政策ともなった。
ただ仮設はあと一年すると壊されるのが多くなる。
すでに年内にもこの辺では大きな仮設が取り壊されるという。
だからあと一年になるとまた状況が変わる
小高に帰る人もいるが帰らない人はまだ復興住宅が少ないのでどうなるのかとなる
住む場所を確保するのが問題になるし補償金がもらえないとなると苦しいとなる。
でも外から見ると相当に補償金もらっていいわなと見ている人もいる。
実際に補償金は一人十万だけではない、もらう人はいろいろもらっているからその額は大きいと思う。
でも土地を確保して家を建てた人はだいたい終わったというから意外と家を建てた人は少ないだろう。土地が高くなりすぎたのである。三倍くらいになったかもしれない。
それなら土地も家もある小高に住んだ方がいいと考える人もいるだろう。

小高ではそれなり帰る人のための準備ができているのか?新しい工場も建つらしい。
ただ若い人が帰るかとなるとそれはわからない。
でも避難区域でも浪江とかとは違っているから補償金が打ち切られると苦しいという人は出てくるだろう。
でも外からみると補償金をたんまりもらっているのだからそれでやれとなる。
避難区域が解除されるとやはり小高に帰れば自力で不利な条件でもそこで生活するほかないのである。

現代は人口一万切ると自治体が維持できないという、それはインフラとの整備に金がかかるからである。限界集落などでは街の中心部から離れると百倍以上の金がかかるとかなるので反発されるのである。
するとコンパクトシティがいいとなる。人口を集中させた方がいいとなる
それは福祉の面でも街に人が集まれば訪問するのも効率的になるからである。
つまり小高の町を一万ならいいが5千人とかでも維持するのが現代ではむずかしいのである。
そうなら原町であれ鹿島であれそこに人口を集中させて住まわせた方がいいという考えもある。
でも小高は小高で土地も家もあるのだから暮らすべきだというふうになっている。
この辺は何か農業や漁業が放射能汚染ですたれた。
何かというと放射能であり除染するにしても疲れてしまう。
そこには放射能が具体的にどう影響するかわからないからである。
風評被害もあり放射能の実際の被害がなくても放射能、放射能で疲れてしまったのである。
放射能ノイローゼになってしまっているのである。
放射能が払拭できないからそうなる。
放射能から早く解放されたいとしても常に放射能がのしかかってくるのである。

いづれにしろ小高の問題は南相馬市の問題でありそれが合併して複雑になったのである。小高にも常磐線が通るとか常磐道が3月1日に開通するとなるとこれは大きな影響があるかもしれない。
それでも復興というときもともと農業や漁業などは全体の一割もみたないほどしか生産に関係していない、漁業などは外から見ると漁業権で暮らしていたのかとわかったのであるだから経済的には農業や漁業が喪失しても痛手はさほどない。
ただ田舎だと田畑がないという風景が考えられない、それは相当に精神的文化的には心の問題として影響する。
ソーラーパネルとか風車とか工場だけになればそれが田舎なのか?
都会と同じじゃないかともなる。
自分としてはやはり田舎なら田畑がある風景に心がなごむのである。

タグ:避難解除
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インターネットで変わった商品の買い方(2) (個別に対応することが何でもむずかしい)



インターネットで変わった商品の買い方(2)


(個別に対応することが何でもむずかしい)


または銀行の、個人の客に対しての営業のやり方なんです。自分たちが売りたい、今売らなくてはならない商品在庫を捌く。それしか頭にありません。本当にお客さんのことを考えてアドバイスができるところはないのではないかと思います
http://president.jp/articles/-/10732?page=4

これは銀行だけではない、電気量販店でもそうである。
前にオカユを作る機械を買いたいと思って商品をみせてもらったがとれを選んでいいのかわからなかった
まず買う方の問題としてオカユを作ることに関しての知識がない、商品知識がない
そうなると量販店に聞けばいいとなるが量販店でもこれが今一番売れているものですよとか説明してくれない、またそういう商品もおいてない場合がある。
だから商品に対する予備知識が必要なのである。
それでインターネットでアマゾンで調べて
今人気なのがどれなのかということを知る
レビューはだから役に立つ、出版社で本にケチつけられたと訴えた人もいることでわかるレビューの影響は何も知らないものにとって影響が大きい、判断材料になるのである。
本になるといろいろあり物の商品とは違っている。
中味は知識だからその判断がすべて正しいとはならない。

でもやはりこの本はつまらないとか書いてあるだけでも影響する
そのつまらないにしてもこういうところがつまらないと書いてあればいいが
一方的につまらないとだけ書いてあるのは誤解されやすい
その本を出している出版社にとってはそういう批評は困るとなるだろう。
ともかくインターネットではあらゆる人が批評者になったことも影響している
こうしてし二三行でもとりあげて文をつづるということなど今までできなかった。
本など出ても読者が何かを言うことはできなかったのである。
本というのは一方的メデアだしテレビでも新聞でも雑誌でも一方的メデアである。
だからたいがい宣伝費で経営するとなると宣伝する会社の言いなりになる
それでメデアの自立性が得られなかったのである。

ただこうして誰でもプログなどでソーシャルメデアで批評できる時代はものを考える人が増えるということがあるかもしれない、なぜなら自分なり書くとなるとその批評でも書いたことが誰かに読まれるとなるといいかげんなことを書けないとういこともあるからだ。批評できてもその批評を批評される時代になもなる
だから何か書くにしてもそれなりに知識や独自の考えないと相手にされないということもある。
こういうことは民主主義の促進につながることもある。
今までは商品を買うにしても売る方が主役であり買う方はただ従うだけだという面が大きかった。
商品についての知識がなかなか得られなかったからである。
それでも今は商品がふえたから本当に選ぶのがむずかしい
印刷機は4台買ったがいいものではなかった。
安いこともあったし選び方がまずかった。
最新の印刷機でも紙送りがうまくいかないとか欠陥があったみたいだ
かえって古いのがしっかりしていたがスキャン速度が遅すぎたりして使えなくなっていた印刷機はそれなりに高いからいいのを買うのが一番むずかしかった。

それからパソコンもwin8の買ってウィルスに二回やられのはショックだった。
それで中古品のwin7を二台安全のために買ったがこれの方が使い安いというのも今の時代である。
ソフトもwin7用のがありかえって中古品の方が良かったと思い失敗だった
中古品は3万くらいでいいのが今は通販でいくらでも買えていたのである。
中古品は古本でもそうだが全国規模になるからいいのが手に入るのである。
それとパソコンはすでにできあがったものだからwin7の方がかえって使い安いということあった。
そのことに気づかなかったのが失敗だった。
新しいパソコンはウィルスに弱い場合がかえってある、それも怖いなと思った。

今と物を売るにしても買うにしてもめんどうな時代になったのである。
その人の求めるものが多様化したのである。
だから売る方にしてもオカユを作る機械に関心がない人もいる
若い人など介護したりしなければ関心がないから売る方で商品について知らないことも多いのである
ましてや金融商品など銀行にまかせているがその若い人は本当に知らないのだろう。
ただ適当にいいことを言っているだけである。
そもそも金融について詳しい人は少ないのである。
銀行では金融が株が商売でないのだから余計にそうなる

ともかく人間は相手のことを知ることが大事だけどそれができない
まず人間は自分自身のことしか考えない
家に来た人もただ金をくれとかなり本当に家捜していたのだから驚く
他の人も借金かかえているから頭にそれしかなかった。
だから病気になり介護で苦しんでいるときも借金の要求だけになる
だからこの人死ねば金になるなとなっているから怖かった
ただ自分のことしか考えていないのである。
そういう人がふえたのが現代でもある。
だから相手のことを相手が求めていることに対応できないだろう。
あの人は相手のことを全く考えない人だったのである。
そういう人が経営者になれると思えない
もちろん人を雇ってもその人のことなど何にも考えないだろう。
そういう人が経営者として成功するとは思えないから失敗したのだろう。
経営者は技術だけではやっていけないのである。

相馬市公立病院の看護婦長はそういう気配りができていた。
書類見ただけで「お母さんの介護で大変ですね」と言ってくれた。
これは簡単にできない、書類だけで簡単にその人のことがわからないからだ
そこまで相手のことを知ること自体むずかしいからである。
ただ看護婦には虐待みたいなことをされたから全部がいいとはならなかった。
看護師などは本当はどういう患者なのか良く相手をみる必要がある
でも何人も相手にする、次々に変わるときそういうこともむずかしいだろう。
それはどこでも起こりうる。大勢を相手にすれば機械的になる
メカニカルな対応になりそっけないものとなる

現代ではやはりそういうことがどうしても多くなるのだ。
そもそも勤めるにしても今は時給いくらだとなるとその分しか働かないとなる
愛想など良くしろといってもそういう動機が働かないだろう。
時給いくらでありそれ意外のことに気を使うのも馬鹿らしいとなる。
オーナーだったら別だが時給で雇われている人にはそういう動機が働かない
だから今は個々の対応がぞんざいになりやすいのである。
大勢を相手にするところはみなそうなりやすい
カルト宗教団体などでもそうである。そこで問題になるのは数だけなのである。
あれだけ数が多ければ個々人などどうでもいいとなる
現代はそういう数が中心の世界である。
数で判断されるところには個々人などをとでもいいいのである。
単に統計的数字として処理されるだけだとなる


インターネットというメデアまだ熟成していないだろう
だからこれをどう利用するかはまだ未知である。
家事やっていると物を買っても料理する材料を買ってもそのノウハウの方が大事なのである、家事は本当に多岐にわたるからノウハウがわからないとできない
それで一人の女性に教えられることがあり助かった
やはり家事は女性がノウハウを積み重ねている
介護は料理など出すから女性向きであり男性向きではないのである。
それで男性が介護で苦労する時代になったのである。
だから男性も家事とか料理を習う時代になっている。
それでも一人で家事から介護からすると大変になる
それで毎日時間に追われる生活になったのである。


2015年02月26日

現代文明は何でも数字化されて非人間化される (米職業ランキング1位は数学者)


現代文明は何でも数字化されて非人間化される

(米職業ランキング1位は数学者)


米職業ランキング1位は数学者、最下位は? 2014年版
http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702304126604579504901060510912

<ベスト職業と中位所得>

1. 数学者、10万1360ドル
2. 大学教授(終身在職権付き)、6万8970ドル
3. 統計学者、7万5560ドル
4. 保険数理士、9万3680ドル
5. 聴覚訓練士、6万9720ドル
6. 歯科衛生士、7万0210ドル
7. ソフトウエア技術者、9万3350ドル
8. コンピューターシステム・アナリスト、7万9680ドル
9. 作業療法士、7万5400ドル
10. 言語聴覚士、6万9870ドル


これも現代という社会を象徴したものだろう。会社に就職したら必ず数字を処理する。数字を処理する仕事が多いのである。例えば銀行でもこれは紙幣を数えるのと数字を処理することに追われる。毎日が数字の世界で生きているのである。
金とは今では数字のことであり紙幣のことでもない、数字が増えれば豊かになったとなり数字がへると貧乏になる。
そしてゼロになったとき何もないものとなる
あらゆるものが現代は数字で計られている。経済も常に数字で計られている。
グローバル経済になると世界が数字で判断されているのである。
金という現物より数字で世界の経済が動いている。特に金融関係は毎日数字の世界で仕事しているのである。
こういう世界になると数字に弱いものは不利になるのは当然である。
だから文系は使い物にならないとかなるし文系でも数学できる人は高収入になる。
数字をみて統計などを見て判断することが多いからである。
株なども常にグラフをみているからやはり数字の世界なのである。

財政といっても金塊をどれだけ貯えているとかそうした具体性がまるでない世界である。たいがい富は具体性を帯びたものとして持っていたのである。
日本たったら米であり米俵を蔵に貯えている人か金持ちだとなる
小判でもそれは金だとしたら紙幣とは違ったその小判自体に価値あるものとして貯えられていたのである。
富は具体的な物として貯えられていて価値があった。
現代の問題は金融の世界では実際の富とは結びつかない数字で現され数字の変動で莫大な富が入る世界になっていることが指摘されるのも当然である。
富の裏付けとなるのは紙幣ではない、紙幣は紙でありそれも日本銀行で勝手に作り金融政策でデフレ脱却としてばらまかれる。
紙幣などいくらでも作れる。でもそれが国の富になったり世界の富になったりしないのである。
石油とか資源があればそれは具体的な富になる。紙幣をいくらもっていてもそれはいつか紙屑になる。現実に急激な時代の変わり目にはデフォルトして金の価値は極端に下落して紙屑になったことを世界恐慌など経験している。
戦前から戦後でも紙幣の価値はゼロになった。
戦前に金をもっていて土地を買っていたがその土地だけが価値として残されたということを知っている。
つまり紙幣はただの紙屑になるリスクが常にある。

具体的な富は土地とか資源とか今では技術力とかにあり紙幣を操作して金融を操作して富を作り出していることは現実の経済から逸脱している詐欺にも等しいともなる
架空の数字を操作して金融業者が莫大な富を得ていると感しるからである。
汗水たらして働いている人からみると一夜にして億の金が入ってきたとかなるとそれを理解できないだろう。
資本主義社会とは元金がないといい目は見ない、まさに資本がもの言う社会だとなる。
資本を蓄積できないものはまずいくら働いても富を得られないという社会である。
資本があれば一億円でもあれば投資していればもうかるようにできているのである。
元金がないことには資本主義社会では金持ちにはなれないのである。

何でも数字に換算される世界は何か抽象的になる。そこには切れば血もでる生身の人間が感じられなくなるのである。
戦争で三百万人死んだと言ってもそこに何も感じないのである。
要するに十万人の死者を積み上げる、死体や骸骨を積み上げたら具体的に感じる。
カンボジアではそうした骸骨を積み上げた所があり記念館になっている。
人間は数字から現実を感じられないである。
そこに現代の大きな落とし穴があり非現実を現実と錯覚する危険性がある。
イスラム国のあの残虐な殺し方を見ていると恐ろしくなる
そんなことができるのかと恐怖する。
ても空爆で六千人殺したとき何か感じるものがないのである。
でも六千人の死体を積み上げたらそれは残虐な殺し方より残虐だと見える

現代の情報環境でもテレビの報道でも具体性が感じられない、テレビで写る映像でも何かそれがドラマのように見ているし現実味が感じられないのである。
だから沖縄で洞窟から戦死者の骨を大学生が発見したというとき戦争の悲惨さを実感したというのもわかる。
戦争で三百万人死んだといってもそれがなんだとなり実感できないのである。
そういうことが現代では多すぎるのである。
放射能でもそれはただ数字でしか計れないし感じようがないのである。
毒があるとしてもそれが吸って死んだとかもすぐにはない
もし奇形の生物が続々生まれたとなると実感できる。
そういうこともないと放射能は実感できない、ただまさに数字としてしか意識できないのである。
人間が数字化されることは量としてしか見れない、それは非人間化社会である。

それは政治の世界でもただ数字でしか一票でしかない、一人の人間の重みはそこに何もないのである。
政治でも経済でもただ数字として計られる、一人が買うより十人が百人が買えばもうかる多数を相手にするのが政治と経済である。一人の価値などそこにはない。
一人は個人は何の力もない、だからカルト宗教団体でも創価でもどこでも数を集めて政治力となる。
まさに「数は力なり」であり数は現代では権力なのである。
何でも数で計られる、マスコミでもテレビでも新聞でも視聴率で計られる
どれだけ多くの人に見られるかで影響力をもつのである。
だからこそマス(集団)なのである。
だから本当は数字から社会を見て人間をみることは危険にもなる。

ともかく一人一人の個別事情などに対応できない、数を集めればそれか即権力につながる数を集めるには大衆を操作することだとなる。
それにはめんどうをな理屈はいらない、ハイルヒットラーとか題目を唱えれば何でもかなうとかともかく簡単でわかりやすいのがいいのである。
それによって大衆は操作されて戦争でも何でも権力者の指示通りにされるのである。
現代は常にこうして大衆、マスとして数として見る社会だからファシズムの危険がある社会になる。
この危険から逃れるのは社会の外に立つアウトサイダーとなってしまうのである。
そこには個なるものが巨大化してゆく、大衆社会の非人間性の補いとして
自然の真善美がそのアウトサイダーを通じて表現されてゆく
それは大衆社会の数化した社会から人間の巨大性を神が与えているともなる。
ニーチェとかヘンリーミラーとか上野霄里(うえのしょうり)の原生人間とかは文明人には理解できない巨大なものとして文明に対峙するのである。それはまた偶像化でもあり危険である。

そこには文明という大都会という政治経済化した数字化した無機質化した世界に対峙しているのである。
大衆化マス化した社会は何か人間の真善美とは関係ない世界である。
政治的経済的活動が数字化したものでありそこに自然の真善美は反映されないのである。大衆消費社会とは人間も消費される、数字として消費されるともなる。
人間は数字でしかないとなる、顔もないし個性もない、抽象的な数字として人間が消費される社会なのである。数字化ささた無機質な世界である。
それはシュペングラーの言うように大都会に象徴されている。
田舎的土着的なものが文化であり都会には文化はないのである。



シュペングラー(1880−1936)は「数学は幻影である」と書いた。

「重ねて言うが、数学は幻影である。」(シュペングラー『西洋の没落』)
シュペングラーは数学者だった。パスカルもラッセルも理系であり数学者であった。
数学は知的な探求の基本がある。だから「西欧の没落」ではしきりに数字化している世界を最初に書いている。それは人間の無機質化であり非人間化なのである。
まさに数学は数字は実態ではない、幻影なのである。
シュペングラーには文化は土着的であり田舎的なものである。
都会と田舎の対比の中でも語られていることが興味深いのである。
これを読みこなすことは相当にむずかしいけど自分は理解できないなりに読んでいた。
若いときは理解できなくてもむずかしい本を読んでおくべきなのである。
あとで理解できるようになるからである。
今なら自分なりかなり解説することもできる。
本は自分なりに消化しない限り読んだことにならないのでてある。



2015年02月27日

福寿草(百歳生きる時代の人生はどうなるのか?)


福寿草(百歳生きる時代の人生はどうなるのか?)

春寒し老々介護のつづくかな
福寿草百歳生きる時代かな
春北風(はるきた)に松風鳴りて丘の上

今の季節はこんな状態である。まだ寒い、春北風(はるきた)というのも誰が作ったものか日本らしいし俳句的だとなる。
普通だったら北風だけど春に吹く北風はまた違っている。
近くの山とは言えない丘の森に松が多く風に鳴っていた。
近くに森とか自然があるのがいい、
海の方の松林は津浪でなくなったから松風は聞けなくなった。

今の時代はこれから百歳の人が百倍とかに増えてゆく
百歳生きればそれで苦しいということもあるがまた幸福もある
それは個々の事情によって家によって違ってくるのである。
なんでも統計的数字として処理するの間違っている
老人にしても無用だから金がかかるから早く死んだ方がいいというのも
統計的に考えるとそうなるがこれからは百歳生きて何かを成す人もでてくる

百歳の人生としてもし人生を見るならばどうなるのか?
六十歳あたりまでは人生で経験をつむ期間であり
六十歳あたりからその経験から芸術家なら作品をしあげてゆく時間となる
今までだったら六十歳で終わりだからそんな長い時間を想定できない
でも百歳時代になるとそういう時間設定が可能になるのだ。

つくづく人間の生きる時間は本当に限られている
終わってみればこれだけなのかとみんななる
束の間の人生でありただ時間を浪費したなとなっているのが普通なのである。
自分の場合も旅をしているうちに時間はたちまちすぎてしまった。
五十歳から海外旅行をはじめてしたのだから今は旅するにしても海外まであるから
とても旅しきれないのである。

人間は漫画を読んでいようがゲームしてようがなにしてようがたちまち時間はすぎるのである。
このことを老人になったら一番後悔することなのである。
若いときはこのことがどうしても理解できないのである。
時間はありあまって暇でしょうがないとなっている
自分も別に仕事もしないのに暇だったがやれたことはわずかだったのである。
会社勤めしていれば会社が人生でありそれがすべてであり終わる
会社なんかに尽くして無駄だったといってもそれがすべてになるである
だから会社だけに価値を置いた人は退職したらもぬけの殻のようになってしまうかもしれない、自分のよりどころを根こそぎ失ってしまうからである。

自分の母親は百歳生きてもその内容はただ奴隷のように働くだけであり他は何の関心もない、花にもなににも関心がない、百歳生きてもそれが生きたのかともなる
だから長く生きたからそれで人生が充実したともならないのである。
人生はおそらく内容にあり短く生きても内容があれば長く生きたと同じかもしれない
自分は今は何か内容ある時間を生きている
それは若いときとは違う時間の感覚なのである。
何かを理解できるということが違っている
若いときはいろいろなことを本を読んでも理解できないのである。
ほとんどの本がすぐにだいたい理解できる
それを自分なりに解釈できる
創造的読書ができる、だから批評家に向いているのは老人の方だとなる
ただその本でも前に読んでいたのならできるが新しいのになると理解できないのがある
これもまた老人の特徴なのである
何でも新しいものが苦手になる、これまで経験したものは理解しやすいということである
タグ:福寿草 百才

土着的生活の喪失が思想をゆがめる (シュペングラーの思想は都市民と農村の対比で展開ー(1)


土着的生活の喪失が思想をゆがめる


(シュペングラーの思想は都市民と農村の対比で展開ー(1)



都市は農村の生活と思想とから分離できないところの土地という原始価値に代えるのに財から遊離した貨幣という概念を持ってこれによって経済の指導権を握るようになる。

農村の魂の中には祖先の子孫としてまこ後世の子孫の祖先としてここに根をおろしている彼の家、彼の所有、これはここで短い数年間における肉体の財産との一時的な組み合わせではなく永久の土地と永久の血との永続的な内的な結合を意味する

数百年にわたる恐るべき人口減少の時期がはしまる、それは頂上から崩壊し始める。
第一に世界都市がつき次に地方都市が最後に農村が崩壊する。
農村の最良の住民が度はずれに離村してゆく・・・・
文明とは都市の勝利であって文明はこれによってと土地から解放されるとともに自ら没落してゆくのでてある。
人種には根がある、人種と土地とはともに一体となっている。
植物はその根をおろしたところで死ぬ

世界都市的住民の共通語は精確で冷たく理知的で実際的で方言と詩を嫌悪するのである。それは人種とか宗教の精神ではなくただ単に経済の精神なのである。
「西洋の没落第二巻ー都市と民族」



シュペングラーは現代の文明の没落を予言していた。その内容が多岐にわたるからわかりにくいので理解することができないものだった。
人間の生存のアイディンティティの基盤は農村にあり農民こそが人間の原型であり都市民はむしろ亜人間とみていた。
文明はそうした人間の存在基盤を否定して離脱して成長して没落してゆく。
それが世界都市民でありそこで共通なものは貨幣であり言語でもそれはその土地土地から生まれた母国語とは違う、商売用の言葉でありそれは数字とにている。化学式の記号ともにている。そこにはもはや詩はない、言葉が最初詩語だったというとき言葉は日本語でもそうだがその民族の根本的なアイディンティティなのである。
もしその言葉を失えば民族のアイディンティティは失われるのである。
日本の言葉でも大和言葉は古語にはそれがある。それは神道に通じているのである。
日本の神道とは日本の土地と自然に通じた言葉なのである。
それは万葉集に残されている言葉である。今では解釈できないものがあるのは日本がすでに母語なるアイディンティティを失っているからである。

文化が何かというときcultureでありcultivate(耕す)からきているときまさに文化は土地から生まれてくるのである。だからシュペングラーが植物から建築が生まれたというとき建築は植物的なものである。大地に根をおろして不動だからである。
ドイツの文化が霧深いゲルマンの森から生まれた。その森厳な樅の木の森が音楽と哲学とゴシックの石の大聖堂を生み出したのである。
中世でも人の入れない森が延々とつづいていたのである。その森は文化となる前には生活の糧を供給していたのでてある。つまりドイツ人は森の民だったのである。
ドイツ人の実直さとか真面目さとか哲学者が生まれたのは森があったからだとなる
人間はその土地の自然をcultivate(耕す)してゆくことで文化が育まれ成長してゆくからである。都市民にはそうした根となるものがないから土地から離れてしまったからただ貨幣でもってグローバルに展開する経済の精神しかないのである。
そこから文化や詩が生まれようがないのである。

カルト宗教団体画あるかそれも現代では政治と経済の精神しかないのである。
なぜなら現代のカルト宗教団体からかつてのような文化が創造されるようがないからだ。仏教でも歴史を見ればわかるが重厚な文化を創造したことが残されたものを見ればわかるそれは現代の経済商業の精神ではない、文化が育まれ創造されたからである。
現代は確かに経済的には繁栄しているが文化的に衰退している。
「西欧の没落」と感じたのも人間の終末的感覚から生まれたからである。
人間がグローバル化して貨幣がそれも紙幣が数字となってこれだけ支配しているというのもそのためである。
アメリカは経済と科学の国でありまさに現代を象徴している国でありそのアメリカが世界を支配するというときアメリカ的に一様化されるのである。
グローバル化によってその土地土地の文化が消滅してゆく。
そして金だけが紙幣が数字と化した金が世界を席巻するのである。

アメリカが世界の国々の文化に無頓着で文化財を破壊するというときアメリカには文化がないから文化を理解しないとなる。
ただアメリカにしてもホイットマンの時代は日本の江戸時代とにていて今の文明とは全然違っていた。その時代は農本主義だから土地に根
ざす農民が主役だからそうなっていたである。
その時でもすでにソローが出たように文明化は急速に襲ってきていたのである。
ソローは森の湖で思念を深めて森の生活を書いたのである。
その時代はまだまだニューヨークのうような大都会は生まれていない、日本なら江戸時代から明治時代、大正時代なのである。

日本でも誤解しているのは大正時代には人口が六千万しかなかった。
この影響が大きいのである。東京すら百万でありそうなると東京も回りには自然があり今からすれば田園都市だった。
だから都会も賛美されていたのである。百万都市は東京にしかなくあとは五万くらいの都市であった。都市の規模は極めて小さいのである
都市文明を否定するにしても中世からのヨーロッパの都市は数万とか五万以下とか人口が今と比べる少ないから田園都市だったのである。
フィレンツすら五万くらいだったからなぜあそこにあれだけの文化がルネサンスが生まれたのかとなる。
一千万の都市が世界中にあってもそこから今は文化は創造されていないのである。
ただそこには経済の科学の精神があるだけなのである。

江戸時代でも明治でも大正時代でも何か貧乏だけがとたあげられるけどそれは経済の比較だけから見るからそうなる。文化の比較だったら日本でもアメリカでも江戸時代から明治の方が豊かだったともなる。
だからそこで暮らしていた人は満足していた顔をしていた、平和的だったというとき何か貧乏でもそれを補うものがあった。
その時代はそもそもその時代に生きてみないかぎりわからないのである。
その時代に生きた価値観も今ではわからないのである。
ただ今の時代から類推するから常に歴史には大きな誤解がつきまとっているのである。

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