2015年02月07日

明治維新が見直される (歴史も地理ー長州閥が日本を歪めた?)


明治維新が見直される


(歴史も地理ー長州閥が日本を歪めた?)


歴史をみるとき地理とか風土が基本にある。
関が原が明らかに日本の東西の分かれ目であり天下分け目の戦いになったのもそういう地理が決定していたのでてある。
「地の利、天の時、人の和」があるけど地の利が歴史でも大きく作用している。
だから地歴という教科になったのもうなづける。
地理を離れて歴史もないからである。

みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

この歌もみちのくの真野として知られた地点が地理と関係していたのである。
マルハシャリンバイというのが自生する南限の地として海老浜があったからだ。
まだあたたかい地域であった。
それでもイワキからはそれなりに遠く感じるのである。

なぜ今の宮崎県の日向(ひゅうが)から神武天皇の東征の神話があるのか?
瀬戸内海から吉野の方をまわり奈良の橿原に遠征して初代の天皇になっている神話であるこれも日本の地理からすればわかりやすい。
九州は古代から朝鮮とか中国と関係深いのである。外国の窓口になっていた。
それは鎖国時代でも長崎が外国の窓口となっていたことでもわかる。

明治維新もなぜ薩摩長州が活躍して成したのかということである。
それもやはり地理的なものがそのパックポーンにあった。
沖縄と貿易で豊かであり最初に外国とイギリスと攘夷で戦っている。
長州でも外国勢と実際に戦っている経験は大きいと思う。
そういうことが会津とか東北になると地理的に以前としてみちのくの立場にたっていたのである。
東北などは外国を肌で感じる立場にはなかったのである

明治維新は錯綜しているから理解するのがむずかしい。
明治維新が何であったかの見直す作業が最近成されている。
吉田松陰にしても勝者となり権力を握ったものが作り出したもので
実際はテロリストであり一人のはみだしものに過ぎなかったとかいう人もいる。
つまり松下村塾はテロリストが会合した場所にすぎなかったという。
何らそこには教育などはなかった。
それもそうかもしれない、そもそも松陰は20代であり若いから血気盛んだから学問を教えるなどできなかった。
血気盛んだからまず行動ありきだったのである。
青春時代はいつの世でもそうでありまさに思慮分別もない若者が活躍する場を与えられたとなる。
そういう無謀あ若者がいてそのエネルギーが明治維新になった。
奇兵隊出身の下級の伊藤博文が初代の首相になったり地位の大逆転があった。
殿様であった人達は一庶民に転落したのだからその変化も大きかったのである。
藩がなくなり殿様がいない世界というのも全く新しい世になったとなる
そして誰が偉いとなったのか?天皇が一番偉いとなって天皇の臣民となったのである。
天皇もまた権力を握った長州閥によってもちあげられたのである。
その長州閥は安倍首相まで今もつづいている政治の構図があるのだ。

変な視点だけど百歳が多い県と明治維新で活躍した県は一致している。
四国が一番多く長州辺りも多く薩摩の九州も多いし沖縄県もそうである。
これは気候の関係でそうなっているけどこれも地理であり明治維新とも関係しているのだろうか?
明治維新と言っても日本の地理的環境が影響しているのだ。
会津は悲劇だったけど「なさぬものはならぬ」とか雪に埋もれて何もなせないのが会津だったという見方もある。
相馬藩はいち早く水戸天狗塔になり尊皇派であり仙台藩と丸森で争った。
これも相馬藩は水戸が地理的に近いからそういう影響を受けたともなる。

明治維新の問題は長州などのあまりにも若い人達、テロリストなのか、そういう人達が国の権力をにぎったことにあった。そして腐敗したのである。
革命とか戦争になれば若い人の力が必要だが政治を動かすとなる経験を積んだ人達が必要になる。
それで幕臣も明治政府に採用された。幕臣には優秀な人達が相当いたからである。
でも若造が権力を握ったから国がゆがめられてしまった。
それは何かイスラム国とにているのだ。
明治維新でもあれとにた残虐なテロリストが横行していたのである。
会津藩士が血祭りにあげられたのもそうである。

明治維新が何であったのか、その歴史を見直すことはなぜ必要か?
それは明治以降の歴史がなんであったのか?
そのはじまりが明治維新にあったから見直されているのである。
太平洋戦争から70年すぎるとまた大きく歴史の見方が変わってくる
要するに歴史の評価となると百年とか二百年過ぎないと冷静に判断できないのである。
佐幕派開国派が権力をにぎっていたらもしかしたら日露戦争とか太平洋戦争はなかったかもしれないというとき吉田松陰の思想にすでにアジアに進出して制覇するという過激なものがあった。
吉田松陰の尊皇思想がやがて太平洋戦争に結びつく源があったともなるからだ。
幕臣だったら天皇はそれなりに尊重しても現実路線になったことがあるかもしれない
尊皇とはカルト的宗教の狂気があった。イスラム国ともにている。
それが太平洋戦争にもつながっていたいうことはありうる。
イスラム国は何か明治維新の状態を再現しているようにも見える。
ただ日本のように江戸幕府三百年の歴史がないことが違っている。
300年の徳川時代があって明治維新も成されたのである。
何もないところから全く新しいものは作り得ようがないからだ。


参考
タグ:明治維新
posted by 老鶯 at 00:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

会津の雪の詩 (会津は一つの国の文化圏ー福島県は広い)


会津の雪の詩

(会津は一つの国の文化圏ー福島県は広い)

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雪深く技あ磨きぬ会津塗り
車窓より雪に埋もれぬ社かな
城により会津の武士道松に雪
城下町茶の道残り冬深む
雪埋もれ会津の武士の眠るかな
城下町蝋燭の光雪に映ゆ
曲屋の雪に埋もれてけ奥会津
雪埋もれ木地師の裔や山の中
山中に木地師の灯し雪深し
蔵の梁黒く太しも積もる雪
津南町川の港や凍る雪

深々と雪に埋もれて墓の見ゆ後ろの農家も雪におおわる
猪苗代湖畔の雪やあわれかな野口秀夫の貧しき生家
火を吐きし磐梯山の風雪を帯びて厳しく凍る湖かな



会津の雪の詩

雪の深さに樹々の静まり
寥々と風は鳴るかな
樹々に吹雪て引き締まる
今日も霏々と雪は雪はつもりぬ
その林の奥処の知らじも
会津の雪の白さや会津の心
会津の武士道こここに育ちぬ
火を噴きし磐梯山を望み
その厳しく凛々しき姿よ
貧しく清らかにも哀しき
猪苗代の湖畔に雪はふりにつ
湖は凍りて純白の白鳥こそそこにあれ
城下町技を磨きぬ会津塗り
蝋燭の灯は雪に映えにき
雪埋もれ木地師の裔の山に棲み
曲家の雪に埋もれて奥会津
長き夜や囲炉裏を囲み物語せむ
しんしんと雪はふりつつ
会津の城下や無念を秘めて雪に埋もれぬ



福島県はそもそも広すぎる、ハマ、ナカ、アイヅに別れていて気候が違う。だから福島県を一つとして語りにくい、歴史も違っている。
明治維新のときなぜ相馬藩が尊皇の水戸天狗党にいち早く属したのか?
それは浜通りであり水戸に近いからである
棚倉からは水戸街道であり水戸に通じている。
東京からも今でも浜通りの六号線は水戸街道と言っている。
会津は水戸より遠い感覚であり交流も少ない、ただ福島県内でも会津藩は大きいから中通りとか相馬藩にも影響はしている。
それでも会津藩は一つの大きな国であり文化圏なのである
会津は風土と歴史とが一体化した一つの大きな国である。
だから歴史の厚みがあり文化の厚みがあり福島県の文化の中心ともなる

福島県だと会津かなとなるのが外から見て会津が特別であり特徴が風土的にも歴史的にもあるからだ。
会津は雪国でありその雪から会津の心も作られたのである。
だから雪を知らずして会津や日本海などのことがわからないのである。
雪というとき全部同じ雪だと思っているけど雪質とか感覚は違っている。
「心から信濃の雪に降られけり 一茶」というとき信濃の雪はまた違ってる。
青森で朝降った雪は何か明るかった。これもしめった雪とか新潟辺りはそうなるのか、
何か違っている。会津の雪も会津らしい雪のなである。
ともかく会津は本当に広い、そして2000メートル級の山がひしめいている。
その山もわからないのである。それは尾瀬まで通じている
山を知らなければまた会津をしりえないのである。
山の心が会津の心にもなる。

会津はまた会津若松の城下町があり明治以降は喜多方が商人街として発展した。
この二つの街は対称的である。歴代の会津藩士の殿様の墓地があるのも特徴的である。
そして会津城下町は本当に城下町らしい体裁を調えている。
職人の街でもあったからである。会津塗りとか会津蝋燭とかか産業としてあった。
これも山が多いのだから会津塗りは木地師が碗を提供する必要があった。
その材料を求めて近江の方から蒲生氏郷が職人を連れてきたのである。
面白いのは浄法寺碗、秀衡碗(岩手県)の影響を強く受けたらしく仙台市が市場としてありそこを通じて技術が伝播されたという
仙台が江戸時代でも市場としてそこを中心にして東北のつながりがあったことは今に通じている。
「会津商人」というのが巣てに知られていた。

村紅葉會津商人なつかしき  蕪村

領国経営の手法は信長似ており、商業優先政策(楽市・楽座の実施)をとる。近江商人→松阪商人→会津商人と、経済政策において極めて優秀な統治を行う職人も多く招いた。漆器、ろうそく、木地、焼き物などの基礎をつくり、その産物は、日野や松阪から連れてきた近江商人によって全国に販売され、会津に大きな経済効果を生み出している。
芦名時代からの会津商人司簗田藤衛門道幸の屋敷跡でここに2500坪の屋敷を与えてその発展を期させた つまり会津は近江商人 伊勢商人の集大成の町で白虎隊だけの町ではないのです

養蚕、漆、ろう、紅花などの栽培を奨励して、価値の高い商品作物を生産することに力をいれました。特に朝鮮人参は高価な商品作物であることから藩直営の事業とするために人参奉行所を設け、人参の生産販売を専売制にしました。そして、藩の指導奨励と農民の根強い努力で、会津の朝鮮人参(会津和人参ともいわれる)は天保(1830)幕府の許可によって日本ではじめて輸出人参として清国(中華人民共和国)のむけ長崎の港を出港したのです。
http://www.musubu.jp/jijikyodoshi.htm#aizu

会津の歴史は厚みがあり会津藩は大きく明治維新で敗北したが大藩で最後まで幕府側にたち武士道を貫いた。会津の魅力は雪国であり風土と一体化しているところにある。
東京とか江戸城があったとしても大阪でも大都会化して風土ときりはなされているから魅力がない、ただ高層ビルを見るだけになっているからそこに精神性もつちかわれない。
徳性すらつちかわれない。ただ金儲けのビジネスがあるだけだとなる。
江戸時代の魅力は風土と歴史とかが生活そのものと一体化していたから魅力があった。

ただ時代か変わると価値あるものもの価値がなくなる。結局一つの物でも碗一つとってもその当時人々が使っていたから価値がでてくる。
今になるとあまり碗など使わないし規格化された大量生産のもので使い捨てにしている。昔だったら碗一つが高いし貴重でありていねいに一生も使っていたかもしれない、
だからこそ当時の使っていたものは当時の人にとって今の人の感覚では計り知れない価値があっんたのである。
今はそれを土産とかで買ってもその価値は喪失しているのである。
江戸時代は簪一つにしても今の価値とは全然違っている。
珊瑚の簪とか価値があった。それは美的なものとして使われていたから価値かあったのである。
江戸時代のものは一つ一つが職人の手作りであり価値があった。
下駄一つ一つに職人の名前すらついていたのである。
そういう価値観の時代と今の価値観は違いすぎるから価値あるものも価値ないものとされる。
ただそうした物の価値でも時代が作っているのである。
その時代に生きた人達がいて使っていて価値が生まれたのである。

だから使わなければ何の価値もでてこない、例えば自分の母が百歳になり百がモモであり桃色のちゃんちゃこを買って着せた。
これは一回だけ使ったのである。だから無駄だとも思えた。
しかし百歳まで生きることはまだまれだから記念に買った
そして一回だけ着ても使用しもそれに価値が生まれる
なぜならそのものか使われたことによって精神性が付与されたのである。
百歳生きた人が着てそこに百歳の魂がのりうつったとも大げさだがなる
つまり江戸時代の物でもそういうことがある。
使われたことによって価値が生まれそこにその当時の人の魂がのりうつっている物なるから貴重だとなる。
ただ現代になると骨董品のように飾っていても価値は生まれないのである。
時代時代に価値あるものがあるがその時代でしかその物の価値がしりえない、今では碗にはそれほど価値がない、でも漆器は近くに塗り屋がいたから漆塗りは塗るだけで相当な手間であり労働なのである。
そういう手間と労働を考えても碗一つの価値がどれだけ高かった偲ばれるのである。

 
タグ:会津

東風(こち)が今日吹いた (六号線もイワキに通じ常磐高速道も全線開通がまじか)



東風(こち)が今日吹いた


(六号線もイワキに通じ常磐高速道も全線開通がまじか)


東風(こち)吹くやイワキの方へ六号線
復興や六号線に東風吹きめ
六号線コーヒ飲み休み春の山

今日明らかに海からの風が吹いた、東風(こち)である。
今の時期にしては早いと思った。
今ころ吹いたと記憶がない、立春はすぎたが東風が吹くのは3月かと思った。
3月11日に津波と原発事故の時東風が吹き飯館村から福島市まで放射性物質が流れた。
だから東風が吹くの3月になってからだと思った。

今日は確かに春のような感覚だった、ただまだ春の山という感覚でもないだろう。
六号線は今度はバスでもイワキの方に行ける、二回くらいだが行ける
だから行ってみたいと思ったが介護あり苦しい
まず介護になってから本当に一日も出れない、こんなことになるとは思いもよらなかった
大野駅まで行きそこからイワキまで電車は復興している
大野駅など誰がのりおりするのかと見ていたがあそこは原発で仕事する人達が利用していたのである。
あの辺は原発で潤っていたからイワキから離れていても南相馬市から離れていても
経済的にはそれなりに恵まれていたのだろう。
原発は相当な人が東京辺りからもくるからである

常磐高速道も4月に全線開通するとか出ていた。
この影響も大きい、流通が経済で欠かせないとき道路は生命線になるからだ
現実ガソリンが入ってこないときこの辺では経済が麻痺したからである

ともかくこういうことがあって東風が流通が復興する風に感じた。
東風はイワキの方から吹くのではなく海側から吹く、南風はイワキの方から吹く
東風と北風がまじりあって吹く、でも東風が吹いたのは早いと感じた

2015年02月08日

抽象画(北海道の雪の紋章) (西村計雄の絵は抽象画的だから抽象画に加工しやすい)



北海道の雪の紋章

西村計雄の絵は抽象画的だから抽象画に加工しやすい

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地球創世記の地球



北海道共和町にある西村計雄記念美術館とあるけどこの人の絵は抽象画的なのである。
だから加工すると抽象画になる。
その当時はパソコンがないから人間がパソコン的な線とか光の感じとかだしていた
この人の作品は線を活かしたものだからである。
何か幾何学的なものと線のアートなのである。
だからこういうのは抽象画的だから加工しやすいとなる

要するに第二次第三次の作品としてパソコンとして加工しやすいいうことである。
それは創作というより新しいアートの楽しみ方なのである。
ただそれが著作違反とかになるのかどうかはわからない
でも何か北海道の共和町というとき何か北海道的な抽象画になっているのも不思議であるまずパソコンで加工するのはまさにart(技術)そのものである。
オリジナルなものがあり加工すると別なものになってゆく
抽象画になりやすいのがこの人の絵が抽象画的だからである。
タグ:雪の紋章

北海道の抽象画(続き)


北海道の抽象画(続き)

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北の十字架
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冬の山脈

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残雪の峰



北海道的なものはまた本州とは違っている。手つかずの処女地として開墾された地であるつくづく日本は島国で狭いけど多様な風土から形成されている。
北海道から沖縄まで北国と南国がある。
だから日本を知ることだけで容易ではない
北海道には近いから十回くらい行っているから親しい地である。
九州とかは二回くらいしか行ってないから地理的にもわかりにくい
北海道の魅力も大きい
要するに北海道の自然というとき未開の原始林の風景がある
北海道の冬は厳しい、ここも冬を知らないと本当はわからない
ただ住むのは寒いから嫌だとなる

とにかく自分は日本はほとんど行っている、だからそこがどういうところかイメージできる。世界は無理でもやはり実際に旅しているから常に旅しなくても心があちらこちらと以前としてたそこに旅している、心がその土地に飛んでゆくというか浮遊しゆくというか
なんかそんな感じになっているのも不思議なのである。
旅はテレビとか本を読んだりしてもできない
実際にその場にゆくことである、それもあまり乗り物に頼らなければあとでイメージされてくる。
車だと電車でも記憶に残りにくいのである。
苦労して峠を自転車で上ればそれが体で記憶されるからあとでイメージが浮かんでくる

この抽象画も前のつづきである。西村計雄の絵は抽象画的だから抽象画に変化しやすいのである。
自分のしていることは創作とも違う、オリジナルなものがあってパソコンのソフトで変化させているだけである。
だから最近そのオリジナルなものが見つけられなかったから抽象画を描けなかったのである。
たまたまテレビで見た時、これは抽象画だと思いインターネットで見たらそうであり抽象画に加工したらできたのである。
タグ:北海道

会津の方角地名 (方角地名がその土地を知る基本)


会津の方角地名

(方角地名がその土地を知る基本)

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塔寺の駅におりたちあわれかな秋の日さして豆たたく人
塔寺におりたち道の別れゆく西会津かな秋の夕暮
西会津道分け入れば芒かなかなたは越後や陽の没りゆきぬ

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地名の基本は方角地名である。南相馬市では合併して南相馬市になったのは相馬市から南だったからという、相馬郡はもともと相馬氏が小高に最初の城を築き在地の豪族を支配して行った、小高より北の北郷はみて南相馬市の鹿島区と相馬市の領域である。
相馬市はもともと伊達の支配地域であった。
だから北郷というときそれは歴史的地名としての北がある。
小高が中心として北郷がある。本郷というときもそこが中心の郷になるからである。
旅をするときまず方角がわからなくなる。方角がわかればその土地の全体の姿が見えてくる。滋賀県は琵琶湖中心だからわかりやすい、湖の西がありその方向の比良の山にが没る西は陽の没る地域である。西は何か淋しい感じを受けるのである。
東とつくと陽の昇る地域であり明るい感じがする。
京都でも方角地名から全体の姿をとらえると東山は陽の昇る山であり明るい感じになる。北山とかなると何か寒い感じになる。
だから会津の東山温泉となると京都の東山に通じるのかとなるとこれもどうしてあそこが東山なのかわかりにくい。
喜多方は北であるが北会津となるとまた違っている、どこから北会津なのだろうとなる
つまり方角地名はどこが中心なのかが問題なのである。
相馬地方だったら歴史的小高が中心だったからそこで北郷というのが歴史的方角地名として残っている。
histrical centered place がどこになるのかが問題である。

会津では西会津というのはわかりやすい、それは越後へ新潟へ通じているからである。
西会津は会津市街から離れた辺鄙な淋しい場所に感じられる。
秋に旅したときは芒がなびきそうだった。西会津の奥にも温泉があり新潟に出た。
バスだったので地理的にわかりにくかった。
白河街道は自転車で旅しているから地理的にわかる。
ただ白河街道が会津に出る場所が東山温泉だったことかわかりにくい。

いづれにしろ地名は方角地名が基本である。そもそも世界でも西と東(オリエント)に別れる、西はヨーロッパ
であり東はアジアであり中東となるとその中間とかなる。
日本でも西と東があり東はアヅマであり福島市には吾妻山がある。
遊牧民とか海洋民にとっては方角が一番大事である。
方角を知ることが生死を決する。砂漠で日本人の一団がラクダを率いて旅したが水のある方向がどっちかで苦慮した。幸い経験者がいて水のある方向に導いて助かった。
砂漠や平原とか大陸とか広いところを旅するには方角が一番大事なのである。
それで北斗七星と北極星が目印となり相馬藩でもそうだが野馬追いでも妙見信仰は北斗七星信仰が中国から伝わったのである。

不思議のなのは日本は最初ポリネシアとかの海洋民がわたってきたので日本語はポリネシアに由来するという説がある
海からみて船にのって日本列島を見る、海から方角地名が生まれる
ニシとはイニシであり太陽が去ってゆく方向にある。それは海から見てそうなのである。陸地ではない、だから日下石(にっけし)とはニシの方向にある海岸地帯だったのである。今回の津波で本当に日下石(にっけし)まで海なったことに驚いた。
あの辺は縄文時代は海だったであり海岸地帯だった。
鬼腰館という中世の砦があるがあれも鬼とは北の方角でありあそこは北風を受ける小高い山だった。

いづれにしろ方角地名からその地域をイメージさされることが多いのである。
奈良の西の京というとき何か西でありさびれた感じになる。

奈良市の西の郊外で、平城京の右京を西京と称したことに由来するといわれています。秋篠(あきしの)川西岸一帯をさし、薬師寺、唐招提寺・・・

ここは別にさびれた場所ではない、右京が西になっただけである。

赤々と椿の散りぬ西の京築地塀古り古(いにしえ)偲ぶ

西の京春の夕日影塀長く古偲ぶ堂塔の跡

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タグ:塔寺

2015年02月09日

抽象画(青い教会)



抽象画(青い教会)


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夏の山々


西村計雄の絵は抽象画になりやすい、抽象画的だからである。
抽象画として多少加工して成功しているのは
もともとその絵が抽象画的であり抽象画に変化しやすい素材だからである。
だから抽象画は一定していないく加工変化されやすいのである。

西村計雄の絵は明らかにパソコンを使ったらもっといい絵ができた。
なぜならパソコンの方が線とかを手より描きやすいからである
手術でもパソコンで操作した方がうまくできるとかいうとそれだけパソコンが進歩したからである。
色をパソコンで分解するというのも今までならでてきない
今はそんなこと2000円のソフトでできるのである。
ソフトは高い安いではない使い安いのとなれたのがいいとなる
ソフトは使いこなすこと自体相当な労力が必要だからである。

加工したということで著作権違反かもしれない
一つの実験として出したのである。
抽象画とはこういうものだいう見本である



タグ:抽象画

白河街道を会津へ (会津の歴史を白河から偲ぶ)


白河街道を会津へ


(会津の歴史を白河から偲ぶ)

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 小峰城の西側に広がる会津町。白河も領地としていた会津の蒲生家が改易となり、多くの浪人が出た。棚倉から白河に移ってきた丹羽長重が、これらの家臣を召し抱え住まわせたため、「会津町」と名付けられたとのこと。白河には、今でも会津にゆかりのある方が少なからず住み、「あいづ」の名で商いをしている店もある。
 http://www.city.shirakawa.fukushima.jp/view.rbz?cd=3704
 
伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている
奥州仕置によって伊達氏が岩出山城へ移ると、梁川城は蒲生氏郷の領地となり、氏郷の死後は、上杉景勝の領地となって、梁川城には須田長義が置かれた。現在の梁川城の遺構は基本的にこの時代の城主…蒲生氏郷家臣の蒲生喜内か上杉景勝家臣の須田長義によるものと考えられる
会津の勢力が梁川まで伸びていた。丸森で伊達政宗が戦いたのは梁川城があったためである。丸森は地理的に相馬に近い、今でも丸森と相馬の関係は深い。
相馬市の病院に入院していた人は丸森の人であり丸森の人は相馬市が近いから往き来する丸森から相馬地方に働く人達もいる。
だから一時金山城は相馬氏が城主となっていたのである。
ただ丸森から梁川はかなり遠い、山を下って行ったが地理的には不便である。
阿武隈川があるにしてもそこには急流があったりするから船を利用できないだろう。
この辺の事情はわからないが梁川は会津と伊達と米沢藩が城主となっていたからそういう場所にあった。


白河となるとここもわかりにくい、白河の関所があるがあそこが本当に古代からの関所だったのか特定されていない、ただ今でも奥深い場所にあり暗い杉の林の森でおおわれた道をゆくからあそこがいかにもみちのくへ入るにはふさわしいし奥の細道を感じるのは福島県ではあそこだけである。
あそこに盗賊が出たという伝説が残るのもわかる。
その白河から白河街道が会津まで通じていた。猪苗代湖の湖南町を通り東山温泉辺りに出る道である。ここは自転車で旅したからわかる。
勢至峠は今でも昔の面影を残している。道が細く両側に宿場町の名残りとして家並がある

馬を育て馬と別るるあわれかな馬頭観世音に秋風の吹く

此辺の若駒は凡て婦人の手で育てられるので、優しい別離の場がこの日何回も演ぜられた
勢至菩薩は馬の守護神かと思はれる。奥州では処々にその石塔がある。

馬と人間の物語はいろいろある。今は牛と人間の物語である。飯館村では牛の村だったからそうだった。牛の名前を十頭も覚えていた。意外と羊でも飼う人は特徴があり名前をつけて覚える。名前をつければ名前を呼べば人間と等しくなる。
猪苗代湖を見渡せる高原のような所がありそこに一面に月見草が咲いていたことを思い出した。

感動するのは 峠を越えてしばらく下がったころから目の前に現れる猪苗代湖へ
続く里山の美しさである 
http://ameblo.jp/nanacuba/entry-11835922785.html

一面に月見草咲き猪苗代湖その藍色や秋となるかな

福良で蔵の宿に一回泊まったのも一興だった。福良は宿場町であり奥まった場所であり趣がある。

福良にそ磐梯山望み見る波音ひびく秋の朝かな

白河街道は春にも行った。今思い出しているのは秋である。

街道の奥にこそあれ足とめぬ野菊の咲きて清水流れぬ
街道の道のり遠し芒原山間越えて会津に出るかな

そこは車もあまり通らない、芒だけが茂っている淋しい場所である。
ただどうしても記憶はうすれてゆく、あそこから歴代の会津藩士の墓のある

苔むして墓も古りなむたずぬれば今ひとしきり秋の蝉鳴く
三人の戒名見れば女なり側室にあれ苔むしにけれ
歴代の藩主の墓の積み重ね墓山となり時は過ぎにし

あそこの松平家の墓所はまさに墓山だった。立派な墓があるのだがそれがすでに過去の栄光を語るだけであり今は苔むして無常を語るだけだった。
結局墓を立派にしてもその墓も苔むして無常を語るだけである。
三人の女性の戒名の墓があったのはそこには側室もいたのか、それはわからない。
どういうわけか女性個人の墓が相馬藩でも何人も残されている墓地があった。
なぜこんなに女性の墓があるのか不思議だった。やはり武家では女性個人でも重んじられていたということなのか?最後に人間残るのは墓である。ただ墓も無常なのである。
無縁墓として元禄時代の墓まで捨てられて墓の墓場になっていたことが放送されていた。墓の運命も遂には捨てられことにある。
自分も墓に金かけて新しくしたのが失敗だった。
どんなに立派な墓にしてもその墓も時代や時の流れに忘れられ無常を語るだけになる。
すでに明治からは武士の墓はそれほど意味ないものになっていたのである。
むしろ民俗学的には路傍の馬頭観音の碑とかは文化財として見直されているのである。

会津若松の中心から五つの街道がのびる。白河・二本松・越後・下野・米沢街道。白河街道は奥州街道を経て江戸につながる重要な道。今の国道294号がこれにあたる。 
  
晩年白河を越える折二人はこう詠んだ。
 
 八重 老いぬれど又も超えなん白河の関のとざしはよし難くとも。
 頼母 旅にねしむかしの夢のあととへばうらみを知るや白河の関

会津藩は明治維新では激しい興亡があり無常を語る場所になったのである。
その恨みが未だに残っていることでもわかる。
白河と棚倉が関係していたことはわかる。距離的に近いからである。
棚倉藩は水戸への街道が通じているように水戸に近い、白河はみちのくの境である。
水戸に近いから水戸学の水戸天狗党に尊皇の攘夷思想に相馬藩士がいち早く洗脳されていたことがわかる。
そしていち早く皇軍の薩摩長州軍に帰順して丸森で仙台藩と相馬藩士は戦ったのである。その時船で磐城の方まで行った、やはり船の方が便利ということがあった。

福島県が福島市を県庁とした理由は二本松にも会津にも置かなかったのは皇軍に抵抗したからだという。それで福島市は関係ないから置いたという、たた福島市は平坦な土地が広いからそういう地の利が影響しかのかもしれない。二本松市は山が多いから新都には向いていなかったともとれる。
福島県の歴史もこのように複雑に交差している。
だからそもそも福島県を一体のものとしてみることが歴史的にも地理的にもむずかしいのである。
歴史的には会津の人は会津の歴史から考えているからである。会津はそれだけの歴史の厚みがあるし広いからである。

白河に会津町あり城の側ここより偲ぶ会津への道

 
タグ:白河街道

2015年02月11日

冬樹(農家は人間に存在感を与える)


冬樹(農家は人間に存在感を与える)

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労務者や夕日のさして冬の草

我が庭に新しく置きし石一つ雪の積もりて重さを増しぬ
蔵に雪二本の樹の変わらずに池は凍りて農家の暮れぬ

この辺は今は除染の労務者が多い、3500人くらい入っている。だからいたるところにプレハブが建っている、またここに建ったのかとなる。
だからホテル関係や食堂や労務者が使うものなどは売れている、コンビニも夕方になると混んでいる。
何か人が多くにぎわっているから復興しているのかと外から来た人が言っていたがそれは地元の人ではない、外から来た人でにぎわっていたのである。
地元の人はパチンコなどで遊んでいるだけである。
補償金もらっているし高齢者が多いから働かないのである。
これも矛盾した話である。
あっち系の人が入っている、入れ墨の人が湯に入ってのも見た。
でもそういう人達だって働いているのである。
地元の人こそ遊んでいる人こそ非難されるべきだろう。

人間の存在感は人間そのものにあるが家とか土地とか回りのものによって存在感を与えられることがある。
特に田舎では家と広い土地と田畑がもっていることで存在感が与えられていた。
川子の高台の家はいつも存在感あるなと見ている。
二本の樹がまるで夫婦のようにあり蔵もあり変わりないのだが存在感がある。
何か毎年見ていてもそれがさらに存在感を増してくる
あの二本の樹がますます一体感をもたらしている
自然のものはそういうふうに時間の中で存在感をましてゆく
それは石でも同じなのである。
庭に新しい石一つ置いたがこれも時間の中で存在感をましてゆく

結局は自然を見るときまた人間を見ているのである。
田舎では自然とか田畑とか家がありそれぞれが存在感をもつ
だから復興団地とかなると存在感が消失するのである。
人間はもう年とってくると何か変わらないものがいいし変わらないものに価値を認める
ここに変わらずに二本の樹があるな、ここに五本松があるなということで心も安定する
変わることが苦手になる。
だから津波とか原発事故で老人は変化に耐えられないということがある
それで精神的にまいってストレスで死んだり自殺した人もいたようだ。

都会は豪邸に住んでも人間の存在感がない、存在感は自然の中で暮らす中で与えられている。一軒農家は存在感があり精神的安定感を与えているのである
ただ田舎でも街内になるとそうは感じないのである。
ともかく一身上でも回りでもあまりにも変化が大きすぎた。
コミニュティも破壊されたりこの変化の衝撃はつづいている。

農家の二本の樹は信頼を示している
それは変わらずにそこに立っている
風が鳴り枯木となり信頼を深める


そこに安心があり安らぎがある
その風景はまさに精神的に作用する風景なのである。
信頼というとき、自分の一身上では裏切りしかなかった
信頼は全くなかったから余計にそう思った。
人間が信頼しあうほどむずかしいことはないことを経験した
そもそも東電とか政府が信頼すべきものではなかった
信頼関係がなかったことが事故につながった
何事信頼関係がないと破壊されるのである。

タグ:農家

江戸時代から明治への変化を見直す (大規模産業化工業化が社会を根本的に変えたー原発事故もその過程で起きた)


江戸時代から明治への変化を見直す

(大規模産業化工業化が社会を根本的に変えた

原発事故もその過程で起きた)

●明治の大規模産業化工業化が最大の変化

江戸時代から明治への変化こそが現代史の出発点なのである。それはあらゆる面でそうでありここを知らないと日本の歴史が解読しようがないのだ。
だから最近明治維新が見直されるのは太平洋戦争の原因が明治維新の過度の尊皇主義から発していて吉田松陰のアジア制覇という思想が太平洋戦争の源があるとれる。
明治維新から太平洋戦争は連続しているのだ。
歴史とは連続なのである。明治維新で日本がまるで変わったように見えても連続したものがあり明治維新が成された。
ただその変化があまりに大きすぎたので江戸時代のことが理解できなくなったのである。外国から来た人達が江戸時代の人間を見て温和ないい顔をしていたという。
幸福そうな顔をしていたときいうとき、それはなぜなのか?
江戸時代は貧乏でも人間は融和的であり村というコミニュティがあり精神的に安定していたし生活のリズムも自然に合わせていたから現代のように絶えず仕事に情報に追われるようなことはなかった。
だから近代化して工場を作ったとき時間を守らないということで外国人が不満だった。

これは産業化工業化するときどこの国でも起きてくることである。
江戸時代の時間の感覚と近代化した産業時代工業時代の時間感覚はまるで違ったものとなったのである。
教育にしても寺子屋では机はばらばらに勝手に置かれていた。学校になり整然として置かれたし常に集団行動をさせるようになったのは工場労働者としての時間を守る集団に適応するために学校が作られたということがあるからだ。
大量規格生産のために人間も教育されたのである。
江戸時代は一人一人の職人が注文に応じて丹精込めて作っていた。大量生産品でないから同じものがないとまでなる。職人はそれぞれ芸術家だったとなる。
だから一つの一つの下駄も違っていて職人の名前がついたりしていた。
それは今の大量生産感覚のもの作りとは違っている。

江戸時代から明治時代の変化は産業や工業面での変化が大きく政治的な面だけではなかったのである。
要するに産業化工業化が社会を変えてしまったのである。
ただ明治以降も江戸時代と田舎は変わりなく継続するものがあった。
燃料は近くの森の木材で炭を焼きほとんど自給自足であった。
その生活は江戸時代と変わりないのである。
ただ原町市に原町紡績が作られ自分の母が働いたように大規模工場ができて変わったのである。
人間の社会を変えたものは世界的にも産業化工業化でありそれは機械化でありその影響は共通していたのだ。それはいい面と悪い面をもたらした。
その影響は今日までさらに極端化してつづいているのである。
戦前とかはもったいなとかいうことがあり物を大事にしていたがそれもなくなった。

●機械化は非人間化をすすめてきた

産業化工業化機械化はいい面として過重な労働から解放された。しかし一方で失ったものがあった。機械により機械に追われる生活となった。人間は今や自然と格闘しているのではない、あらゆる面で機械と格闘しているのである。機械の役割がそれだけ産業化機械化によって大きな役割を果すようになったからである。
この産業化工業化こそが実は世界的な社会の大変化をもたらしそれが非人間的なものとなっていった。
機械は一面人間性を奪うのである。人間は機械を使うことによって人間も機械化されるのである。人間が機械に合わせざるを得なくなるのだ。
人間が機械によってロボット化されるのである。
だから人間の未来の夢は人間が労働せずに機械がすべてしてくれるロボットの出現なのである。ある意味で社会はロボット化しているのである。
自動販売機はロボットでありレジでも何でも機械化されやすいのは機械化されるからである。
ただそこに人間の理想が実現されるかとなるとならない、そこにも思わぬ落とし穴が待っているのだ。原発事故のような思いもかけないことが必ず起きてくる。
老子が二千年前にすでに鍬を使うことを拒否した。道具を使うことを拒否したのはその道具によって人間性が奪われることを警戒していたのである。
現実に鍬が大規模な機械化社会になったことでもわかる。

江戸時代から明治への産業化工業化近代化で本当は一番恐ろしい結果をもたらしたのは
大量殺戮の兵器が作られたことである。それが最終的に日本に核爆弾となって落とされたことである。
ナチスでも真偽は今は不明にしても人間が物のように大量殺戮されたのはなぜかということであたる。それはベルトコンベアーの上を人間が物ののように押し出されてゆくチャップリンの映画にあった。
大量に規格製品を作るということは人間もまた大量の規格製品化してベルトコンベアーから押し出される。
それが恐るべき大量の殺戮になっていった。
20世紀は兵器の殺傷力があがり人間の歴史で最も大量に人が殺戮された時代なのである。その原因を国際関係とか政治的な関係とかから解こうとするだけではできない。
近代化とはグローバル化であり産業化工業化が世界で共通に行われてきたことになった。だから世界でみんな同じように学校が作られたことでもわかる
社会組織は世界で共通しているのである。
だから世界は言葉は違っていても社会組織はにたものとなっているのである。

江戸時代から明治に変わったとき産業化工業化が根底から社会を変えたのである。
江戸時代は農民主体の生活だから自然のリズムの中で暮らしていた。
日が昇るとともに起きて仕事して日が沈むと休むという自然のリズムである。
工業化になると特に現代は夜も眠らない生活となる。
そういうことが根本的に人間を変えてしまう。人間も生物だとするとき生物から離れた人間が実は機械になっているのである。
だからこうした機械化は非人間化でありこれに反発する人が出るのも必然なのである。
機械が主人になることに耐えられないのである。
詩人であれ芸術家であれ哲学者であれこういう機械化産業化工業化の世界には耐えられないのである。
そういう人はだからアウトサイダーになってしまうのである。ニ-チェからヘンリーミラーから上野霄里原生人間の主張などとしてつづいている。

●イスラム国は文明人より野蛮なのか?

イスラム国のあの恐るべき野蛮性はどこから起きてくるのか?
一方でヨルダンのパイロットがつかまり焼き殺されたけどそれはなぜなのか?
空爆で大量殺戮している文明人が野蛮なのか?
それともあの恐るべき野蛮性が本当に野蛮なのかとなる。
大量に人を殺戮できルウよになったのは産業化工業化の結果である。
ただそれは人をもの大量に無差別に殺戮する道具となったことである。
産業化工業化が非人間化した原因であり文明化とは何なのかとなる。
文明人などというと高等に見えても大量に人を殺戮する機械を発明した実行したとなると何が文明人かわからないのである。
原発の災禍も文明の災禍であり故郷にも住めなくなった。その被害もあまりにも大きかったのである。
日本は原子爆弾を落とされ原発事故が起きて二回も核で被害を受けたのである。

今日の様々な問題は江戸時代から明治への移行ですでにはじまっていた。
太平洋戦争も原因も明治維新で作られていたのである。
それが吉田松陰の過激な攘夷思想である。外国に対して攻撃的でありアジアへの侵略思想をかかげた大和魂が太平洋戦争に受け継がれたのである。
その根底には産業化工業化がありグローバル化した経済も原因していた。
石油が入らないようにアメリカが経済制裁したとき文明は動かなくなる。
それで戦争するしかないとなるのはそれは経済が世界的になっているからだ。
江戸時代なら石油がなくてもそれなりに生活する他ないのである。
ただ油でも相当貴重でありあらゆるものが貴重であり一切無駄にする生活はしていなかった。

江戸時代の生活がいいとかにはならない、ただどうしてこんなに20世紀が大量殺戮の時代であり原発事故でもそれは大規模産業化工業化文明化の結果として必然的に起きたのである。現代の社会は電気なくしてはありえない,電気社会である。
だから東電では事故後も収入が増えているのである。大量の電気なくして産業も工業も維持できないからである。電気がなくなるとき文明も終わるのである。
それはすでに予定されていたし歴史を見れば科学者でなくても起きることはさけられなかったのである。
それが安全神話が作られたのは政治家も官僚も東電もマスコミも文明人であり文明を維持するために安全神話を故意に作ったのである。
だからこそ文明の災禍としてさけられないものとして原発事故は起きたのである。
大きくは明治以降の産業化工業化を見直さないと真の原因はわからない。
つまり大きくは文明否定しなければ現代文明は一見豊かで繁栄しているようでも破滅に向かっている。
文明は自壊するのである。そういう日が必ずやってくる。
今回の原発事故はその一つの現象に過ぎないのである。


 
タグ:文明の災禍
posted by 老鶯 at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連