2015年01月18日

原発事故で失われたもの (家や故郷もそうだが仕事も失われた)



原発事故で失われたもの


(家や故郷もそうだが仕事も失われた)


●仕事も失われてはじめてその価値をしる


漁師の人が「自分がどうしてこの浜にいるのかわからない」とテレビで言っていたが漁師なのに魚をとらないとしたら自分はなんなんだという疑問が生まれた。でも手厚い補償金がでているから別に生活には困らないのである。補償金で暮らせるけど魚をとらない漁師は漁師なのか、ただ毎日海をながめて何もしない、それはもう漁師ではないだろう。農家でも補償金がもらって働かなくてもいいにしても毎日暇だからパチンコばかりしていたら農民なのかとなる。働くということが単に金を得るという行為ではない、自然界の中で働くことは第一次産業は自然と直接かかわるものでありその仕事自体が他の仕事と違っていたのではないか?何かそうした根源的なことが問われたのが津波であり原発事故だった。
http://musubu2.sblo.jp/article/74006067.html

原発事故で失われたものはいろいろある。その中で注目されなかったのが仕事だった。
仕事など漁民でも農民でも苦労の割りには金にならないとか今は不満ばかりだった。
現代人はたいがい仕事には不満であり金のために働く消費の方に重点が置かれるからそうなる。いい車が欲しい、家が欲しい、うまいものが食べたい、子供にいい教育をさせたいとか仕事そのものに価値を見いだしている人が少ないのである。
仕事は当たり前にあるものでありむしろ苦労なものやっかいなものとしてあるようになった。
でも今回の原発事故で補償金で仕事もしなくても食べていける、食べるだけなら前より贅沢している人が増えたのである。

ただ仕事がなくなったときどうなったのか、飯館村でもギャンブラーになったというけど何もすることがなくそうなったのである。
前から馬券売り場は飯館村にすらあった。なんかそぐわないと思っていたがギャンブルはやめさせることかだできない、だから農村でも別にしていたのである。
下々の考えることは何か食べて金になればいいじゃないかとなるのが多い。
この辺で馬券場ができるとき反対した人達もいたが大方は賛成だった。
その火とが言うには馬券場でも掃除の仕事でもできるからいいんだよなと言っていた。
ともかくその人は生涯貧乏なのでそういう発想しかできないのである。
ギャンブルは必ず何か弊害がでてくる。回りも悪影響を及ぼすのである。

現実に自分もそういう被害を受けたのである。
この辺ではパチンコ屋が仕事しない人で繁盛した。
その時パチンコ屋で人手がたりないたりないと勤めている人が言っていたがその時病院であれスーパーであれどこでも人手不足で困っていたのである。
そういうときみんなが補償金あるからとパチンコ屋におしかけてパチンコ屋で人手たりないから人手が欲しいというのはこの辺の事情にそぐわないものたったのである。
そういうことをパチンコをしている人は感じないのである。
そんなものハチンコししている人が掃除なり何なりしていればいいのである。
その時自分は病気で苦しい面があり腹ただしくなったし怒りを覚えたのである。
だから小高の人は帰れと言ったのである。

●仕事の意味を問うことはなかった

結局原発事故で失ったものに仕事があったのである。
仕事の意味を意識している人は少ない、仕事も普通にあるものであり苦労なものと感じていた。それが一旦仕事をしなくてもいい、遊んでいてもいいよとなったときギャンブルになったのである。飯館村すらギャンブラーになったのである。
その弊害は周りの人にもでてくる。
あいつらは遊んで暮らせる、金がもらえるから立派な家も建てた、俺たちは働かせられるだけだとかなってイワキで原発避難者にいやがらせになった。
金があるからいいじゃないかというのが現代の生活である。
でもこの辺の事情ではそうはならなかったのである。
それによって周りに迷惑をかけていたのである。
ただギャンブルしている人はそのことは感じていない
普通の前のような状態だったら馬券場で掃除の仕事できるからいいよ、この不景気で困っている人はいくらでもいるんだから仕事ができることはいいことだとなる。
でも原発事故ではあらゆる場で人手不足の時、迷惑になっていたことに気づかないのである。

つまり人間は相手のことを考えないことが多すぎるのである。
自分が病気で苦しんでいるとき、借金の請求にきてあわよくば財産を全部とれるとかまでなって迫ってきた。借金している人は相手のことなど考えない
かえって死んだら金が入るぞとかしかなくなっているのだ。
だから本当に今ではその人には怒りを覚える。
その人が事業に失敗したのは当然だと思った。
まず相手に対する気遣いのない人だったのである。
その人はすでに殺意すらあったのだから殺人犯に近いのである。
その人は技術的に能力あり優秀なことは誰でも認めていた。
でも人間的にモラルの面では相手をきづかうことなどない人だった。
そういう人は人を使えないだろうし大きな仕事はできない
経営者と技術職はまた違っていたのである。
東電の上に立つ人にも何か経営者としてそういうことがあった。
原発をたつ周りの人など眼中になかったのである。
地元の人との交流はただ金を通じてなされていただけなのである。
地元の人は人でそれでいいとしていたのである。

いづれにしろ弱者をいためつける弱さにつけこんで責めてくるのは効果的である。
何も言えないし従うほかないからである。それは病院でも医者や看護師は悪魔に変質するというのもそのためである
そういう弱者になった人は絶対にその恨みは深いし忘れないのである。
だからいつか復讐されることを恐れるべきである。
例え現実にはなにもなくてもその恨みの念を受けることになるから気をつけるべきである
ともかく人間は仕事について仕事そのものの価値について考えない、説く消費社会になった現代では金を稼いで消費することが生活になっているから考えない
より多く金をもらって消費することの方が価値になっているからだ。
過去をふりかえると仕事そのもの価値を見いだしていた時代があった。
その時は逆に極端な貧乏時代だったのである。

●農民自身に価値を見いだしていた時代


父上のおん手の詩

父の手は手というよりもむしろ大きな馬鋤(からすき)だ
合掌することもなければ
無論人の手をかすめることも知らぬ手
生まれたままの百姓の手
まるでじべたの中からでも掘り出した木の根っこのような手
人間のこれがまこの手であるのか
ひとは自分の父は馬鹿だという
ただその手を思うと自分の胸は一杯になる
その手をみると自分は涙で洗いたくなる
いまもその手は骨と皮ばかりになって
なおもこの寒天の痩せた畑地を耕している
ああ自分はなにも言わない
自分はその土だらけの手をとってとしいただき
この所ではるかその手に熱い接吻をしている
(山村暮鳥)

天日燦として焼くごとし、いでて働かざるべからず(三野混沌)



トルストイも農民の手に注目していた。手をみればその人のことがわかったという。

無論人の手をかすめることも知らぬ手

農民は人の手をかすめることがないというとき、それはその当時そうだった。
第一農民に国から補助などなかったのである。
この価値観は八割が農民だったときの社会に通じる価値観だった。
ただ今でも人の手をかすめるというとき例えば仕事をみると公務員だろうが銀行員だろうが政治家だろうがそういう人は人の手をかすめている職業である。
お前は何なのだとなるとその一員だともなる
農民が一割にも満たない社会はそうなる
でも最近野菜が二倍以上高くなるとまた考えも違ってくる。
この辺では野菜すら作っていない人が多いし補償金もらっても金だけが頼りになる生活は不安になるだろう。
どうしても現代の価値観は金で計られるのである。
米が安ければ農民は価値ないものとされるのである。

農業社会でなくなったとき農民を基本にした価値観は消失したのである。
農民社会だったら農民が一番価値あるものとなる
それは江戸時代からつづいてきたのである。
その時農民に価値あるものとなっていたのは機械が発達していないからでもあった。
今の農民はみんな機械でしている
すると人間の手に価値を置かないのである。
仕事は機械がするものだとなると人間の手には価値がないとなる
そういうことは社会全般で起きている
苦労仕事は機械にさせて楽をしたいとなる
だからこのように人間そのものに価値を置くことはないのである。

だから前から書いてきたけど原発事故はそういう社会状況が極端に現実化しただけではないかとも思った。
仕事なんかつらくて農業なんか金にならないからしたくない


息子も跡継ぎにはならんよ
漁業では暮らしていけんよ、今の時代はな
・・・・・・・・・・
じゃ、農業をするな、原発事故で補償金もらっていいじゃないか
仕事なんかするな、遊んでギャンブルしてろ

漁業で暮らせないから漁業権を東電に売り渡した
別にいいじゃないか、事故後も手厚い補償が継続されるんだから
仕事なんかしたくなかったのだし願ったりかなったりだろう

もともとお前ら故郷などどうでもよかったんだよ
一億円もらったら故郷を出てゆきたかったんだよ
これ幸いじゃないか、と出て行ったとなる


極端になればこんなふうになるのである。一見原発事故の災難からすべて来ているように思われる。その前からそういう社会状況がありそれが原発事故で極端な現象として現れたにすぎないともいえる。
だから過去をふりかえるとその価値観の相違が大きくあり果たして今の時代の価値観に生きることが良かったのかともなる。
貧乏はいやだというのがわかっていても何か根本的な価値観の相違が問題の根底にある。つまり人間には価値がない、労働には価値がない、それより機械に価値がある、金がすべてだとなる。
だからこの詩のように農民自体に価値を見いだす人は今はいないのである。
だからこういう時代が幸せなのかというとまたわからなくなるのである。
今の価値観が根本的におかしいのじゃないかとなる。
そういうところからも原発事故が起きてきたとも深く考えればあることが見えてくるのである。
ともかく漁民が久しぶりで魚をとったとき喜びにあふれていたし農民を収穫を手にしたとき喜びにあふれていた。それはそれが金になるというのではなく収穫そのもの仕事そのものの喜びだったのである。それを仕事を失って見いだしたのである
posted by 老鶯 at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連