2015年01月08日

マクドナルド、京都の店舗でも異物混入 (グローバル化の食、工場の大量生産に疑問)



マクドナルド、京都の店舗でも異物混入


(グローバル化の食、工場の大量生産に疑問)
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●グローバル化経済は食でも見直される時代

自民党の渡辺美樹参院議員が創業したワタミグループの弁当宅配事業「ワタミの宅食」で、
弁当に金属製のネジなどの異物混入が相次いでいることが、現役社員の告発でわかった。

現代の食の疑問はいろいろある。食もグローバル化していることが問題なのである。果たして人間はそんなに世界中のものを食べていいのだろうかという疑問である。
結果的に食が欧米化した結果として欧米人がなりやすいガンでも何でも増えてきたのである。
今回の事件もグローバル化の食と関係している。中国で生産されたとかタイでされたとか日本ですら作っていない、そしたらそこで何が起きてもチェックしようがない、もともと中国産には何か入っているのか疑問であり怖いから食べないという人はいた。

自分がテレビを見て違和感を感じたのはベルトコンベアーで大量生産されていたことである。口に入るものがあんなふうにして大量生産されることに違和感を感じた。
もちろん今では食料もそういうことが多くなっている。
あんなふうに食料でも大量生産されていたからこそ何か混入されても不思議てはない、
そうなりやすいということである。
食のチェーン店には疑問を感じていた。特に安い食のチェーン店はそれだけのものだとも思っていた。まあ、納豆定食くいだったら別に家のものと変わりないからいい。
でもマクドナルドとかのは嫌だった。そもそも牛肉を自分は極力食べないからマクドナルドと食べない、でも外国では安く食べる所がなくしかたなく食べていた。味気ない食だった。安いから腹を充たせばいいという感覚である。

結局食の大量生産とか食を大企業にまかすことが何か人間的に変なものではなかったか?
まず何でも即席に買って食べるようになったのが食が変わったことである。
みんな大量生産されたものを食べ家庭料理も手料理もお袋の味もなくなり家ごとにあった味もなくなった。農家では納豆すら自家生産した時代があり味噌も作っていたとき味噌でもその家ごとに違った味になっていたし漬け物でもそうである。自家生産していたからそうなった。どこにもお袋の味があったのである。
そういうものがなくなり大量生産されたものを消費するだけになるとそうした自家生産の文化も消失する。それで郷土料理などもなくなる。
江戸時代だったら旅したら郷土料理が食べられたろう。今でも長野県のオヤキとかが名物となっているがそれはもともと郷土料理でありキリタンポなどもそうである。
その土地でとれたものを工夫して作るのが郷土料理である。
だから貧しくてもその土地でとれた素材を活かしたものであった。

つまりグローバル化経済というのは人間の根本的な食まで破壊したのである。
コカコーラが世界中で飲まれのもグローバル化の結果である。
それにあわないも国でも飲むようになった。それはアメリカの企業の戦略でありおしつけられたという面もある。日本のテレビを車を買っているんだからアメリカの牛肉を買いとグローバル化経済ではなってしまう。必要でないものすら買わされるのが現実なのである確かにグローバル化経済で貿易で必要なものはある。
それを全部は否定できない、でも食のこと関してはその国々の長い歴史があって作られてきたものである。だから食は文化なのである。
体すら欧米と日本では違っていた。欧米人は肉を消化する酵素を出しやすいという、日本は逆に肉を食するには適していない、むしろ米などを消化するために腸が長くなっていたのである。体自体がそうして長い時間の中で作られてきた。
それは日本なら縄文時代からのものだろう。
そういう文化を無視することは文化を無視することなのである。
法律や科学でもグローバル化してもいいものはあるしそうすべきである。しかし食などはできないのである。グローバル化というよよ国内ですら一様化できないものをもっている家庭家庭で味が違っていたことがそれを物語っている。

●作る過程が見えない現代の生産

そして現代の問題は食にしてもそれが作られる家庭がまるで見えないのである。
ベルトコンベアーで大量生産する場面をみて何か食欲すら湧かなくなるだろう。
厨房で料理しているのとは違うからである。
料理はしてみればわかるけど料理するときから食欲が湧いてくるのである。
料理は料理する時点からはじまっているのである。
それは自分が毎日料理して気づいたことである。
プーンと香りしたりグズグズにたてたりしている過程があってこそ料理なのである。
現代は何でも作るものが見えないのである。
どうして物がありそれがどうして作られてくるのかわからない
食料でもただ買うだけでありそれがどういう過程を通ってもたらされているかわからないだからこそ異物混入されてくるということも普通にある現代的な問題だったのである。

江戸時代とか職人が物を作っているのだからそさも一人一人だとその作るものがどうして作られているから見える世界なのである。
今はどうして作られるのかあらゆるものが見えない世界なのである。
食さえそうでありだからこそ異物混入されてくる。
それは食だけではない原発などどうして電気が作られるのかわかる人などいない
一般の人は立ち入ることもできないし見えないし知ることもできない
だからそこで何が起きてもわからないのである。
現代ではそういう見えない所で機械で操作されていたりして専門家でないものは立ち入ることすらできないようになっているのが多すぎるのである。
そこに危険があっても異物が混入されてもどうにもならない
危険なのは工場で大量生産されているのだから強力な細菌とかしこまれたら大量の人が死ぬテロにもなる。
グローバル化経済では様々な細菌の恐怖にも晒されている。エボラでも何でも人と物が自由に出入りするとなると防ぎようがないのである。

●現代の物作りも食も大量生産消費の時代は終わる曲がり角

いづれにしろグローバル化経済というのは全部ではないにしろ否定されるべき見直されるべき段階に来ている。
まずコンビニとかの弁当なども食べるべきではない、あれは栄養的にも良くない、やはり工場で大量生産されていて薬も使っているしあれは人間の料理ではない、腹を充たすだけのものである。マクドナルドと同じである。
自分は料理はめんどうでしていないけど野菜だけは何とか新鮮なものを食べようとしている。ただ最近野菜高いから困る。野菜は冷凍だとかなると栄養も味も落ちるだろう。
冷凍食品などもいいのではない、昔だったら農家の人は前の畑から新鮮な野菜を食べていた、それは農薬もないものだったのである。今でも農家では農薬を使わないものを食べているのだ。一旦大量に売るとなると農薬づけになってしまうのである。

とにかくグローバル化経済とかはコンビニでもチェーン店でも普及したが果たしてそれがいいのかどうかは見直される時期に来ている。
手作りの味とか郷土料理とか何か昔あったものが人間的であたたかいとか手なってゆくかもしれない、それで地域のものも見直されることもありうる。
チェーン店でもコンビニでも何かそうして普及したものも今は限界であり新たなものが求められるというときそれは昔あったものが見直されるということである。
つまり新しいものとは昔からあったものでありそれを現代に新たに活かすということなのである。生け花でもフラワーアレンジメントで和洋折衷となっているように食もそうなのである。手作り的なもの郷土料理などその土地土地に根ざしたものがこれからは見直されてゆく、地方再生というのは地方に昔からあったもの見直して再生することである。
そういう時代になりつつあるから食の大量生産などはこれからは向かないのである。
食の宅配便なども向かない、やはり新鮮なもので手作り的なものがいいとなる。
大量生産消費の時代は終わっているからその境目でみなん模索しているのである。
もはや大量に同じものを作っても売れない時代なのである。
物が豊富にあればやはりその土地にしかない作れないとかそういうものが価値がでてくるのでてある。


posted by 老鶯 at 14:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層