2015年01月04日

原発事故はなぜ起きたのか (現代文明が破綻すると原発事故周辺のようになる)



 原発事故はなぜ起きたのか

 
 (現代文明が破綻すると原発事故周辺のようになる)

 
 ●資本主義民主主義社会は崩壊する

 資本主義民主主義国家において、各人が各人の利益を追求していくのが当然とされるようになる、その末路は、共同体の崩壊ではないのか?各人が責任を厭い、権利を振りかざして過剰にエゴを追求した結果、国家は空洞化するのではないのか?グローバル企業が国家を食いつぶすアメリカのような状態になるのではないか?


原発事故がなぜ起きたかというのはいろいろ探求してきたけどこれは現代文明の欠陥から起きたともいえる。一見関係内容に見えても個々人のありようが原発事故をもたらした。現代は公共のためとか全体のためにとか国家のために尽くすとかがまるで消失した。
だからなぜ戦争で国家のために天皇のために三百万人も死んだのか犠牲にされたのかわからなくなっている。なんか馬鹿げているという感覚になる。
国家より自分、天皇より自分、公共のためより自分、故郷より自分、家族より自分、すべてが自分のためにあり自分が最大の優先課題である。
それは共産党員でも創価などのカルト宗教団体でも同じである。
自分の欲望実現のために活動しているし馬鹿な奴は利用されているだけである。
上の人の欲望の実現に利用されているだけだである。

原発事故の原因というとこれは誰が一番あったのかというと東電の幹部にあった。
では東電の幹部も上役も社長でも会長でもその人たちの欲望の実現のために会社があったのである。そこには公共性というのがなくなっている。
では政府でも官僚でもそうである。東電には検察が天下りしているから会長でも社長でも罰することができず海外でのうのうと暮らしていける。
検察が警察があったとしてもそれは個々人の特に上層部の人達の欲望を実現することが最優先されるとなるとそうなる。
検察自体がそうだとするとあとはみんな同じだとなる。
ではそういう支配階級がすべて悪いのか責任があるのかとなるとそうでもない
地元の人達も同じである。結局上も下も自分の欲望の実現のためしかない。

資本主義民主主義国家において、各人が各人の利益を追求していくのが当然とされるようになる、その末路は、共同体の崩壊ではないのか

資本主義民主主義のシステムがそもそもそういうシステムであり個々人の欲望を是認してさらに欲望を開発して刺激してゆくのが資本主義である。
個々人の欲望をどこも否定していない、カルト宗教団体も自分の個々の欲望実現のために神仏に祈っているのが現代である。
「もっともっと拝め、題目あげろ、お前の欲望はかなえられる」それは別にカルト宗教団体だけではないみんなそうである。

●地元の個々人の欲望も事故の原因になっていた

原発事故もそうした個々人の制御できない欲望の実現として作られたということもある。
「原発は金になるぜ、危険じゃないのか、馬鹿を言え、危険より金だよ、政府も科学者も安全だと言っているじゃねえか、金になればいいんだよ」
地元の一人一人を見てもいかに強欲になっているかわかる。
なぜあの人は大工でもいい腕しているしかなりいいときはもうけたのにさらにもうけようとしてブラックなものに手を出してさらに金を得ようとしているのか
あの人はなぜ事業を起こして見栄で借金までして自分を成功者に見せたいのか
そうして弱者になったものから今がチャンスだと借金をしてむしりとる。
相手のことなどかまわない、借金に追われているいる人は相手のことなどどうでもいいのである。保険金殺人者のような心境になり人間でなくなっている
実際にあいつが死んだら金が入ると思うことは殺意があり殺人者と同じである。
そういう地獄となっているのが現代であり自分が経験したことなのである。

一人一人を見ればなぜそんなに強欲なのかとなるか
でも資本主義民主主義社会ではそれは是認されたことであり奨励されていることだから誰も批判などできないのである。
科学は人間の欲望を実現させるものとしてありだからこそ現代文明では信仰にまでなっているのである。
サイエンスとは真理とか哲学であったが現代の科学は人間の欲望実現のためにある。
サイエンスだったら宗教ともにている。
だから科学者は実益なものだげでなく何か原理とか法則性とか科学の発見として見ていて実益性には関心がないという。でも大衆が求めているのはそんな抽象的なことではない、具体的な実益なのである。たからこそ現代の宗教までに科学がなったのである。

原発事故はこうして個々人のきりない欲望を解放して実現させるために起きたという側面がある。今の社会には公共性とか全体とか社会を統一させるものがない
ただ個々人の限りない欲望が刺激され解放され追及しろという社会である。
ただそういう社会が最終的にどうなってしまうのか?
それがまさにその見本となり現実化したのが原発事故周辺だったのである。
故郷という共同体、共同性は消失し家族もばらばらになり人も住めなくなった。
その後も補償金で金でもめて市自体の共同性もなく分裂している。
結局「お前らはたんまり金もらっているんだから金でめんどうみてもらえ」となり協力も絆もなくなっているのである。
金を個々人で求めその金を得たのだがそれでこの辺はかえって分裂してしまった
そもそも家族すら社会すらすでにそうした金による広域社会とかグローバル社会で分裂させられていたのである。
だから容易にコミニュティが市町村が解体したような状態になった。

●現代文明の破綻した状態が原発事故周辺にある

なぜ十津川部落は貧乏なのに一体感を強い絆をもって北海道に村ごと移住できたのかを考えればわかる。援助が多少あっても多額の補償金をもらっていない、要求もしていない、
ただ一丸となって結束して北海道に移住して新しい村を作ったのである。
その正反対の現象が今の原発避難地域とか他の津波の被害地でもある。
十津川部落とは違ってコミニュティが広域化とかグローバル社会で破壊ささやすかったのである。
この世の中金さえあればどうにでもなる、故郷など固執しなくてもいい、土地にも家にも固執しなくてもいい、金があればどこにでも住めるしかえって便利な方に移動した方がいいとなり現実に川内村では郡山市に移住して補償金でいい暮らしした方がいいとなったのである。
だから根本的にそうした強欲資本主義とかグローバル社会が何を目指しているのか?
そういう文明自体を問うものとなったのである。
でもそうなると問題が大きくなりすぎて手に負えなくなる
世界自体がグローバル経済に組み入れられているからそれを個々人が反逆しても徒労になる。


ただこういう個々人のあくなき欲望の追及の社会を見直す時代に来ているし大変革が世界恐慌とか資本主義の崩壊現象が起きてくる。
個々人のあくなき欲望の追及を神を自然は許されないからである。
そういう自分もアメリカの株でもうけているから矛盾している。
「お前も同じじゃないか」となればそうなってしまう。
ただ金は下々のもののためにも使っている。
ただ自分は別に前から贅沢などしていない、家があったし家を建てるために苦労していない、旅行しても金は最低しか使っていない、食べるものを節約して旅行していた。
それが海外旅行でも同じだった。
もともと自分はそんな贅沢する金などなかったのである。

いづれにしろもうこうしたグローバル資本主義社会は限界にきて破綻に向かっている。
その現象が現れるのは意外と早い、そういう破綻した現実が原発事故周辺を見ればわかる食料さえ自給できず水も安心して飲めない、田畑は草茫々になっている。
津波も重なって荒涼たる風景となってしまったのである。
本当に「猿の惑星」でありそれが現実になっていることの驚きである。
これが現代文明の破綻が現実化した世界なのである。
人間の心もばらばらになり荒涼とした荒野が広がる、それはまさに自然災害だけではない、人工災害も加わってそうなった。それは現代文明が作り出した荒涼とした精神の現れなのである。

十津川村の教訓ー移住する意志と覚悟と決意があった
(原発事故周辺は補償金だけをもらうことしかないので復興はできない)

 
posted by 老鶯 at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

家庭用の風力発電の風車も大きくて高い (ソーラパネルでも風力発電でも景観の破壊がある)



家庭用の風力発電の風車も大きくて高い


(ソーラパネルでも風力発電でも景観の破壊がある)

WINDPOWER1.jpg

この風力発電はめずらしい
ソーラーバネルは多いけどこれは初めて見た
ただここは原町に行く所で頻繁に通っているので景観的には悪くなった
あそこは空地だったからである。
池もあった一本松があった

ただこの辺は景観自体がいたるところで変わってしまった
津波の跡もそうでありその変化が大きすぎたのである。
ソーラパネルも田んぼでも隠されるように設置していたところはわからなかった
他でも隠されるようにあるとわからない場合がある
でも日本では広い土地がないからソーラパネルは向いていない感じもする
小高の農家の人がいつのまにかソーラーバネルが設置されていたとか怒っていた
でも小高辺りは農家の人でも帰らないとすると土地があまる
そこを何に利用するかとなるとソーラパネルとか放射性廃棄物の土地を提供して金をもらうとなってしまう
そうして金をもらっていて他に住めばその人は定期的に収入が入るから生活できるとなる
ソーラパネルとか風力発電など自然再生エネルギーの問題は定期的に電力を供給できない太陽でも風力でもそうである。それだと家庭くらいならいいが工業的には使えない
それでも家庭だけもまかなえればそれなりに有効だとはなる
電力会社で買い取りができないとなったのは大量の電気を定期的に供給できないからである。

自分は何か田園的風景がいいと思うからソーラパネルでも風力でもいやだとなる。
写真の風車一台でどれくらい電力がまかなえるのか?
これはかなり目立つ、支援があって作ったのか
前に産業廃棄物の会社があるからその関係だろう。

これからのエネルギー確保をどうするのか最大の問題になる
水素エネルギーは本当に使えるのかとなる
いづれにしろ風力発電でもあんな大きなものは目立つからあまり立ってほしくないとなるでもあれくらい高くしないと風を受けないからあんなふうになった
テレビでみる風力発電の風車と実際身近で見るのは違っている
本当に大きくて高いな実感する、家庭用でもこれだけ大きくて高いのである。

ともかく一番人間は景観を無視されやすい、景観に価値を認める人が少ない
つまり景観は全体であり個々の価値ではない、全体が作る価値だから無視されやすい
ここの土地とか家の価値をみるが全体を見る人は少ない
だから景観は常に破壊されやすい、京都でもどこでも古い街並みでも破壊される
自然景観も破壊されやすい、携帯電話の鉄塔でも何か立ちすぎていやなのである
景観を考慮して建てられていないのである。

景観が破壊されやすいのは大衆にとって景観は金にもならないからである。
それは具体的に金のなるものとして認められないからである
ただ景観が破壊されることは人間の精神まで破壊される
大都会は自然の景観を破壊して人工的空間になってしまったからである。


大都会より田舎がいいというとき田園的風景があってこそなのである。
だから浪江でも高瀬川や海があり飯館村でも森につつまれていたし景観的には良かった
それが原発事故で人が住まなくなったことはもったいないとなる



タグ:風力発電