2015年01月23日

山の村の幽霊屋敷(童話)


山の村の幽霊屋敷

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......一軒目の空家......

 そこは山の村であり市の中心部から大分離れている。確かに中心部の市街には鉄道が通っているし海がそこからは近い。ここはずっと海からも市の中心部からも離れている。
 山側にありここはそれでも古い場所である。早くから開拓された場所である。
 ここでの暮らしは戦前から戦後十年は日本全国どこでも同じような暮らしをしていた。
 山の木で炭を作り薪を燃料にしていて水は井戸水でありほぼ自給自足の生活である。
 第一市までは遠いし車もない時代である。市に買い物にゆくこと自体まれだった。
 その村のすぐ山のそばに一軒の古い家がある。
 そこを訪ねる者があった。
 「佐藤さんの家は古いでしょうか」
 「家系的にはこの辺で一番古いかもしれません」
 「がらんとして何か淋しいですね」
 「一人暮らしもなげえよな、息子は市役所に勤めているんですよ、もう一緒に住まないし農家の跡を継ぎやしませんよ」
 「猫を飼っているんですか」
 「猫は友達だよ」
 「わびしいですね」
 外には家がぽつりぽつりとあるが回りは田んぼであり冬なので特に淋しい風景である。
 それでも静かでそれなりにいい場所である。冬の日がおだやかにさしている。
 「ここでの暮らしも大変だったでしょう」
 「いろひいーありましたな、戦争終わったときは食うものがねえ
 それで猿を食ったんですよ」
 「ええ、猿を食ったんですか、なんかアマゾン辺りで裸で暮らす人が猿を焼いて食っていたのをテレビで見てびっくりしましたが・・・・」
 「猿のノウミソはうまい・・・」
 「ちょっと考えられませんが猿はよくこの辺では山からでてくるのを見ています」
 「イノシシもしょっちゅう出てきますよ」
 ここだったら確かにすぐうしろが山だからイノシシでも猿でも出てきても不思議ではないと思った。竹藪が川沿いにありそれは土手の補強にあった。
 竹は強く根をはるので川の土手に植えているのが多い。
 「跡継ぎがいないことは淋しいですね」
 「これもどうにもならん、世の中変わってしまったんだ、農業は機械に金かかるしな
 他の田んぼを請け負って米を作ったりしていたがなかなか金にはならんんですから」
 「農業が大変なのはどこでもそうですね」
 「この村ではすでに三軒空家になっていますよ」
 「空家はどこでも多くなっていますが・・・ここでもそうですか
 そろそろおいとましましょう」
 「あなたはどちらからきたのですか」
 「隣の町ですよ」
 「そんな近くからでしたか・・・」
訪ねた人が去ったあとには実はその家は空屋であり誰も住んでいなかった。
死んだ人と話ししたことも知らないでその人は去ったのである。
 
 .....幽霊屋敷を訪ねる.......

 
 その家を訪ねたものは去りその家を出て細い道を行くと杉の木が二本立っている。
 それがなんとも普通の木とは違う、その影が細い道にのびてさえぎる。
 何か人をとどめるようにさえぎる。
 するとそこに廃屋となった農家が確かにある。それがいつ人が住まなくなったのかわからないが大分時間がたっていて放置されたままになっている。空家ではなく廃屋である。それは本当に幽霊屋敷に見えるのだ。あういうふうになるのはやはり相当な時間がたたないとならないだろう。
 その作りは昔風のまである。外に便所があり風呂まであり外に井戸がある。
 それはみんな昔そうだったのである。その配置が昔のままであり放置されている。
 こっそりと隣の町から来た人はのぞいてみる。
 すると風呂は立派である、煉瓦作りの五右衛門風呂になっている。
 煉瓦だということが珍しいしこの家はそれなりに裕福だったのかもしれない。
 煉瓦ということは職人も必要だし作るのにめんどうだからである。
 遠くの市の職人がかかわって作ったのかもしれない。すると余計に金がかかることになるからこの風呂にひかれた。
 
 そこから家の中をのぞくと戸があいていて炬燵が置いてあり柱時計がありとまっている
 炬燵がここにあるということは電気のをすでに使っていたのか、下は囲炉裏風になっていて炭だったかもしれない。ただ囲炉裏ではない、なぜならそんなに時間はたっていないから電気を使った炬燵である。

 「いらしゃいませ」
その時びっくりした、奥からのっそりと白髪のおばあちゃんがでてきたのである。
「よごれていますけど炬燵に入れや」
「いいですか、なんか人がいないと思い入ってきたので失礼しました」
「人が来てくれてにぎやかになりいいですよ、なにしろ家というのは人が住まないと人の声が家にひびかないと死んだようになるから」
「あの煉瓦の風呂は立派ですね」
「まあ、あれはいい風呂だった、職人をわざわざ市から呼んで作ったんじゃ
あの風呂に入ったときは疲れはとんだな」
「自分も子供のころ、外に風呂があったんです、その風呂は自分の父親が作った小屋の風呂でした。鉄砲風呂で子供のとき新聞紙とかたきつけにしてバタで燃やしていたんですよ」
「あなたはどこにお住まいで」
「隣の町ですよ」
「それは近いそこはなじみです」
「ところでおばあちゃんは何歳ですか」
「わしか、百歳じゃよ」
「ああ、そうですか、自分の母もその年に近いですが・・・・」
「まあ、今はみんな長生きじゃよ」
「でもこんな立派な煉瓦の風呂はみかけなかったですね」
「まあ、お茶飲んでゆっくりしなされ」
「今日はゆっくりもできません、街の方に買い物があるんで」
「そうかい、それは残念じゃな・・・・」
その時またすーとその白髪のばあちゃんは消えてしまった。
あれどこに行ったのかと思うともう見えなくなっていた。
ただ幽霊のように消えた。
その家全体が今でも残っているけど本当に幽霊屋敷であり空家とは全然違うのが不思議である。つまり幽霊が本当に棲みついたような家になっているのだ。
なぜそうなってしまったのか?
長い年月放置されていたためなのか、それが不思議だった。
一つはその家を離れたくない人の霊が感じられるからかもしれない
だからこそ幽霊となってもそこに人が住み続けているのである。
そこを出ると野原に一本のこれも幽霊じみた一本の老木がくねり長い枝を伸ばして濃い影をおとしていた。
そこに根付いてから相当に長い木である。
そういう木は老人と同じでその土地を離れたくない、そこで朽ちてその土となってゆく。人間もまた生物だから木のように老いてゆくと何てゆくのが自然である。
隣の町から来た人はこうして二つの人が住まなくなった空家と廃屋をあとにして街の方に去った。

タグ:幽霊屋敷
posted by 老鶯 at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 童話

2015年01月24日

何事にも因果の法則がカルマがつきまとう (原発事故にもあった)



何事にも因果応報のカルマがつきまとう


(原発事故にもあった)


人間の社会は何でこんなに不公平なんだと思わない人はいない
特に不遇で貧乏な人はそう思っている
それは社会のせいだとかなんだとかいろいろ言う
でも何でそうなっているのか謎であり解明できない
本当に社会の不公平だけなのか、それも確かにある
金持ちの家に生まれるのと貧乏な家に生まれ差は大きすぎる
そういう生まれつきの格差は常にあり
ではなぜそういう親から生まれたのだろうとなる
それは親の因果が子に報いとなるしか説明しようがないのだ

今回の原発事故の不思議は何かその因果がカルマとなり数式のように配分された。
大熊とか双葉は一番被害か大きいのは当然だった
その恩恵も一番受けていたからだ。
大熊と双葉は競争して原発を誘致していた
あっちだけが得するのは許せない
こっちも得するべきだと誘致した
そして事故後も原発を稼働させろと言っていることが信じられない
だからここは同情できないことがある
お前らは恩恵を一番こうむっていたのだからしょうがないとなる

では浪江町になるとまた別である。でも何か原発からの距離に比例して被害があった。
距離に比例してカルマが課せられたのが今回の原発事故である
因果応報が距離に比例していたのである
30キロ圏内がやはりあとから放射性物質がもれたときホットスポットができていたことでもわかった。もちろん飯館村はやはり高かった
そして福島市かあれほど被害があるとは思わなかったろう
そこは県庁がある本丸だったのである。
今回の責任は県の責任も大きかったこともわかった
だから被害をみて因果応報だったなとつくづく思った。

ただ飯館村は何か恩恵を受けていないが被害が大きかったのは原発と福島市の線上にあったことである。
それでその災いを受けたのである。とばっちりを受けたのである。
小高も東北電力の原発を誘致してすでに工事がはじまろうとしていた。
それは浪江と小高の両方にまたがる地点にあった。
だから双方に責任がありカルマが課せられていたのだ
小高町は南相馬市と合併したがその前のことであり南相馬市はとばっちりを小高から受けた。
だから小高は補償金問題で嫌われているし責任を課せられているのも因果応報である
他にも富岡町であれ楢葉町でも同じ因果応報があった。
何かそれがまるで数式のように因果応報があった不思議である

それから漁業権者も相当に責任があった。
事故前も補償金をもらい原発御殿が建っていたとか恩恵があったし事故後も手厚くある。漁業権を売り渡してそれだけの利益を得ていたのである。
それで津波で港が壊滅したときそれは天罰だったという人が普通にいたのである
例えば港で船をみんなもっているわけではないし漁業に従事している人達だけでていからである。
結局浜通りは原発があった回りは他より強欲な傾向があった
原発が金になるということでそうなった
その因果応報があった

カルマは簡単に清算されない
介護もカルマであり延々としていねばならない
それも誰か代わってくれない
カルマは負うべき人が負い清算しないと解消できない
事業の失敗した人はが自分に借金を負わせようとしていた
それも自分が病気のとき弱ったとき迫ってきたのである。
借金もカルマであり人に肩代わりできない
なんらか犠牲が強いられる
家を売るとかなんか自分で負わねばならない
でも誰かに肩代わりさせようとしてはカルマは清算できない
もし誰かに肩代わりさせようとしたら二重三重にカルマが追加させられるのである

結局原発事故周辺は放射能というカルマを背負わされたのである。
それは自らのカルマもあった、そのカルマは子孫まで負わねばならない
プルトニウムの毒が2万年消えないとかもう百年は消えないとか
そういうカルマを背負った地域になったのである。
だから何事にも因果応報はある
一見不公平に見えても公平な因果応報の原理が世界には働いている
タグ:カルマ
posted by 老鶯 at 08:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2015年01月25日

瀬戸内海ー春の俳句連句


瀬戸内海ー春の俳句連句

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洲本城波のやさしく春の月
船見えて若草萌ゆる瀬戸の海
夕日さし船の往来明石城
汽笛鳴り大きな船や瀬戸の春
春潮や大阪へあまた船の入る
重なりて瀬戸の島々春の海
昔なれ島々の港春の月
潮流の早き流れや燕来る
常夜灯潮流の岸辺椿散る
三重塔島の栄や落椿
瀬戸の島蝶の生まれて島わたる
船を待つ暇のあれや島の春
春日さす待合室や船を待つ
船遅く菜の花の島めぐりさる
ひた走る電車や海沿い桜咲く


思い出す旅というのも不思議である。自分は瀬戸内海を旅したときもわざわざ遅くなるようにしていた。今だったらいくらでも早く行ける、それが旅の情緒をなくしている。
旅がなくなったというとき早すぎるからである。
歩いていた時代の旅と今は百倍の速さになっている。すると心に映し出されるものは記憶できない
めまぐるしく過ぎ去ってゆくからできない、団体旅行などでは人としゃべる時間にとられるとまた心に残らない、つまり旅の時間は回りの景色に注意しなければならない
それだけで相当な時間の余裕が必要である。
ここで一時間次はここで30分などと計画していたら旅にはならない
そういう旅は印象に残らない、ここは景色がいいから夕方までいて夕日まで見ようというのがいいのである。
だから時間が制限されたら見るものも見れないのである。
現代の旅はそういうことが多すぎるのである。
速度をわざと落とさない限り景色も心に残らないのである。

瀬戸内海を旅したときはすでに20年とか30年まえとなになった。
ただその時わざとゆっくりとした旅をしていた。
こういう時間に余裕をもてるのが贅沢であり金を使うことではない
その時間が消失したときつくづくそう思うようになった。
その場所にいつでも気軽に行けると思っていたが今は行けない
そういう時が誰にでもやってくる
あそこにもう行けないのかと思うときショックである
そうてるとあそこに長い間いたことが貴重だったとなる。
ただどうしても記憶は定かでなくなる
なんとなくこんな雰囲気だったなと俳句にしてみたのである。

こういう俳句が作れたのはやはり瀬戸の島々をぶらぶらする時間があったからである。
旅というのは意外とできない、家族を持ち勤めていたらこんな旅はできない
二三日の保養が精一杯になる。ただ移動して動いているだけなのである。
だから旅するということは意外と今は交通が発達して楽に見えてもできない
その時間が与えられないのである。これも皮肉なことである。
とにかく旅するなら一カ月間くらい余裕みてするのがいいがそれが勤めていればできないまず今はそもそも旅人というのはいない、旅人になれない、江戸時代辺りだとみんな旅人になっていた。それだけの距離を歩いて行くし時間がかかるからである。

瀬戸内海の春は春らしい、船が好きであり電車も好きである。車は好きではない
車が旅を破壊したということはある。船はやはりゆっくり進んでいる
電車も普通電車なら遅いから旅情がある
新幹線になるともう過ぎ去るだけになる。
瀬戸内海は昔だったらやはり生活があり活きていたのだろう。
港々が生活の場になっていた。
それも車時代になると変わった、運輸は船ではないだろう
ただ島から島へは橋がなければフェリーになるが橋がかかると港も廃れた
そこちまた旅情を牛なっている

瀬戸内海は潮の流れが早い、それが内海でも違った印象を受ける
その潮の流をしらないと船は操れない
瀬戸内海から村上水軍とか生まれたのは必然だった。
瀬戸内海はやはり日本の海としては魅力がある
日本の海では唯一古代から船の交通路となっていたからである。

淡路島の洲本に泊まったがあそこの海岸の波は穏やかだった。
自分の住んでいる太平洋岸は波が荒いから穏やかでやさしく見えた。
あそこには松がありいい場所だった。
洲本の城も小さくてかわいらしく見えた。
淡路島は大きい島でありただ洲本意外はわからない
結局今は思い出を綴る作業をしているのが自分である。
それを俳句でも詩でも作品化している
一連のものとなるときそれが一つの作品となるからである。
単発ではなりにくいのである。
だから一連のものとしてつなぎあわせる綴る作業をしている



禍福はあざなえる縄のごとし

江戸時代だったら
伊勢なんか遠い、もう一生に一度の旅だ
一カ月間はゆうゆうかかるな
歩いて歩いて目的地につく
一カ月間は農作業は休みだ
じっくりと見てまわるよ

伊勢か新幹線と数時間
パリかニュヨークか
飛行機で何時間
どこでもすぐに行けるな
でもそこで過ごす時間がない
毎日が勤めだからな

世の中とはこういうふうにできているんだよ
なんでも満たされることはない
便利だと思っても時間がなくて旅が楽しめない
肝心の時間がないんだよ
家族サービスだ、勤めは一カ月間休んだら首だよ
すぐに行けるんだけど時間がないんだよ

世の中こうなっているんだよ
原発は便利なものなんだけど
電気は便利なものでいいんだけど
原発事故になったろう
二つのものを人間は満たせないようにできている
便利が不便になり不便も実はいいところあったんだよ
何でもいいことはこの世にはない
禍福はあざなえる縄のごとし
時代時代に幸不幸があるんだよ

タグ:瀬戸の春

複雑な中東情勢 (ヨルダンにはパレスチナ人とシリアの難民で溢れている現実)


複雑な中東情勢


(ヨルダンにはパレスチナ人とシリアの難民で溢れている現実)


中東は複雑怪奇である。シリアにしろなぜあんなふうになってしまったのか、民主を求めていうがそれだけではない、大国の思惑があり分裂したのだろうか
トルコのイスタンブールに退職した人が長くいた。
あの人はあんなに若者に交じって旅行しているのも驚いた。
あの人はシリアに行っていた。シリアの人はいい人たちだと何度も言っていたのである。シリアは紛争の前は社会主義政権であり国王の支配下に安定していた。
そして外界とまじわらないので国民は貧乏でも素朴であった
それはラオスについても必ず言われる
外国と交わらないときその国民は貧乏でも素朴なのである。
日本も江戸時代がそうだった。
外国から来た人が日本人にじかにふれて感嘆していたのだ。
それは日本人が日本人のままであり素朴だったのである。
それは「逝きし世の面影」などで語られている
今はミャンマーなどがそうだろう。ブータンなどもそう言われる

いづれにしろ中東は複雑すぎる、今度の日本人人質事件でもヨルダンが自爆テロの女性と捕虜の交換をしろと日本人人質がその声明を読んだ。
すると日本人の助かる道はヨルダン政府にかかっんてくるとなる
ところがヨルダンはイスラム国の空爆に参加していてそのパイロットがつかまった。
だからパイロットと交換すべきだという。
人質問題がこういうところまで波及したのは本当に複雑である。
ヨルダンにはまた逃れてきたパレスチナ人が60パーセントもいるとかさらに複雑である。ヨルダンという国は何なのだというときわからなくなる
国際情勢はもともと複雑なのだけど中東は一番複雑である。
だからこんなところで外交をするのはへたをすると大怪我をする
それを安倍首相はいい気になって金を配りしたのである。

ともかく日本人の人質問題は世界的問題として波及したのである。
一個人の金儲けから日本は迷惑したと盛んに言っていた人は殺された
もう一人は生かしておきたいと言っていたジャーナリストは生きている
しかしこの人を生かすことが複雑な外交問題世界の問題になったのである。
そもそもヨルダンなどという国を普通日本人が考えない
でもそこが今注目の的となるときヨルダンとは何なのだとなる


紀元前8000年紀には人類最古級の農業が営まれた。西アジアに文明が発達すると交易の中心地として栄え、紀元前13世紀頃からはエドム人が住み着き、アンマンには旧約聖書に登場するアンモン人の国があった。紀元前1世紀頃には南部にペトラ遺跡を残したナバテア王国が発展するが、紀元1世紀から2世紀にローマ帝国に併合された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%B3


あの辺は砂漠である。だから隊商がラクダでとまる宿がある。それはイスラエルにもあるイスラエルも砂漠が半分だったが灌漑して農地に変えた。
つまり聖書の舞台になったところは砂漠なのである。交易の場でもあった。
だから水がたりないからヨルダン川の水が貴重でイスラエルとアラブが争った。
ヨルダン川は小さな川でも貴重だったとなる
もともとヨルダンとかシリアとかイラクでもアラブの国はヨーロッパによって作られた国である。ヨルダンもイギリスによって作られた国である。
だからイギリス寄りだとなるしエジプトは今でもホンドを使っていることでもわかる。
国王はベトウィン族であるというのも遊牧民として自由にあの辺を行動範囲にしていた
遊牧民は国境の意識がなかったがイギリスとかにより国境が人為的に作られたから不満がある

ヨルダンには57.5万人がUNHCRに難民登録されており、長引く紛争の影響を受け、ホストコミュニティにて避難生活を送るシリア難民46万人は孤立を深め、生活手段の欠如に直面し、危機的な状況におかれています。特にシリア難民の子どもは、児童労働や早期結婚、性的搾取、武装勢力への関与等のリスクに晒されており、学校で物理的に子どもを保護する必要があります
http://www.knk.or.jp/act/JOR/top.html

ヨルダンは難民受け入れの国人なりそれが大きな負担と化している。それで安倍首相が人道的援助をしたのだかイスラム国家からかえって心証を悪くして脅された。
この辺の混乱状態は日本では実感できないだろう
難民といっても原発難民などはかえって地元の人より恵まれている
施設には優先的に入れる、医療は無料だ、地元の家に変えるだけで支援金がでる、あらゆることでいたりつくせりである。
だから避難民といっんてもあまりにも差がありすぎるのだ。
何の避難民なの、避難民貴族化しているのが現状なのである。
かわいそうだなということなどないのである。
ただ狭い家で困るというだけである。
ただ津波の被害者は流されて何にもなくなったというとき避難区域に住んでいない人はかわいそうだと思った。

それでもこうした難民と比べると楽だなと思う。
そういうところに行ったら生きた心地もしなくなるかもしれない
そういう悲惨な現状があるのだからそんなところになぜ行ったのかとなる
ジャーナリストはそううい難民の子の写真をとって援助していたというが
何も何をしているのかわからない、武器商人を助けに行って自らつかまり日本に迷惑だとなる。
前もイラクで難民支援の若者が人質になったことがあった。
難民支援でもそういう危険な場所なのである。
そういう所には行かない方がいいとなる
金銭の援助ならしてもいいとなる
そういう場所に行ったら紛争に巻き込まれてわけわからなくなる


それよりこっちも日本で遠くから見ているよりこの難民の状態を見てくれ
こっちもイスラム国の空爆に参加してパイロットがつかまった
国民はこっちの方を助けてくれよと騒いでいる
日本人一人がそんなに大事なのか?
それよりこっちの悲惨な現実をみてくれ

日本だと日本人のことばかり言っているけどヨルダンとか向こうでそうはならない
天秤にかけたらどっちが大事なのかとなる
一方は命をかけて戦闘に参加してつかまった
一方はなにしにきたのかわからない
それは自己責任じゃないかとなる
日本は中東はあまりにも離れているからわかりにくい
ただそこが石油などので紛争地帯になる
すると今回のようなことになると右往左往することになる
これはアルジェリアでも石油で会社の人が十人死んだ
それは石油をとるためで目的がはっきりしていた。
今回はなんのために行っていたのかわからないのである
それにしても日本人人質二人で中東の問題がリアルに浮かび上がってくる
中東への関心が深まったという効果はあった。
まずヨルダンのことなどほとんどの人は考えもしないからだ
いづれにしろグローバル化ではどこかで日本人も必ず世界とつながり
その影響を受けるのである。


タグ:ヨルダン
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2015年01月27日

安易に危険地帯や困っている人達にかかわるべきではない (日本人人質でかえってヨルダン政府に迷惑をかけてしまった)


安易に危険地帯や困っている人達にかかわるべきではない

(日本人人質でかえってヨルダン政府に迷惑をかけてしまった)


個人的なことを延々と書いてきたけど人間の問題は別に個人的な問題であれ世界的な問題であれ共通しているところがある
人間の問題に常に普遍的なものがある、だからこそ宗教は世界的なものとして普及した。それは人間の問題が共通していてどこでも同じ問題が起きるからである。
人間の苦は世界で人間として生まれたら必ずあるからそうなる。

今回の日本人人質問題でもそうである。一見何か世界的問題のように見えて個人的な問題には見えない、ずいぶん世界がかかわる大きな問題になって複雑だからわからないとなるでも個人的な問題として見るとやはり人間ならこういうことが起きるのだなと自分の経験から考える、歴史的なものとか宗教的なものをぬきにしてもわかることがあると思った。
再三書いてきたけど自分が家族の介護とか自分の病気でさんざんな目にあった。
人は弱者になるとかえってこれがチャンスだと襲いかかってくる恐怖を経験した。
家の中に入れる人は本当に危険である。そして家の中に入るというとき家の中の事情がわかるからさらに危険である。
そして家政婦とかちょっとした手伝いでも家に入って下働きするような人自体がほとんど問題をかかえっているから余計に危険なのである。
青森で家政婦が何軒もの勤めていた家に放火したという事件があった。
その人も金に困っていたとか何か問題をかかえていたのでなるほどなと思った。
下働きとか家政婦になるような人は家族に問題をかかえる人が多いのである。

もう一人はわからなかったが前からつきあいがあったので助けてくれるのかと思った。
それも全然違っていた。その人も問題をかかえていた。
事業に失敗して借金をかかえていたのである。
だからその人のねらいははっきりししていた。自分が弱って困ったときチャンスだとなり借金の請求をしてきた。人間は弱くなるとどうしても弱みをもつと人につけいれやすいのである。でも表面では助けてやるとかいいことを口で言うのである。
その本心は借金で困っているからなんとか金をとろうとしかない
前の人はあからさまに強奪したがこっちは借金するのだが結局同じだったのである。
自分が問題をかかえ困っている人は人など助けることができないのである。
そういう人は困った人苦しんでいる人には迷惑になるのだ。
でも口ではいいことを言うのである

どれほどそのことで自分が介護や病気になったときその人に苦しめられたか相手は知らない、自分はいいことをしていると今でも思っているだろう。
あいつは恩を知らない奴だとも思っているからもしれない
人間は本当に人を助けることなどできないのである。
人を助けるとなる自らが犠牲になるし苦しむことにもなる
でも普通はそんなことをしたくないししないのである。
だから障害者をもってさんざん苦しんだ人は同情しない方がいいとか言っている。
同情してもどうせ何もできないのだからとそう言っている

今回の人質問題でも一見複雑な国際情勢がからんで起きた事件のように見える
ところが実際は違っている

困った苦しんでいる問題があるところや危険地帯には安易な気持ではかかわるな

なんか安易な同情心などそんな複雑な困難な場所にかかわることはできない
安倍首相が金を援助していい気分になっていたがそれがイスラム国の反感をかったことでもわかる。人道支援なのだとよと言っても通じない、それはその地帯の事情があるからだだから安易ないい格好する安易な同情心などでわらない方がいいとなる
現実にヨルダン政府に日本人人質で迷惑をかけるようになったことでもわかる
助けようと思ってもかえって迷惑になることがある
人を助けるとなると安易な気持ではできない、かえって苦しんでいる人を苦しめる

それは個人的にも経験した。そんな借金で苦しんでいる人が人を助けることなどできない、だからこそ自分はそのために苦しめられたのである。
だからボランティアが本当に人を助けるかとなるとできない、なぜなら本当に人を助けるとなる自らが犠牲になる覚悟が必要になるからだ。
自らが犠牲になるとしたら家族も関係してくるのである。結局自分の家族の方が大事だとなり他人のために犠牲になるなどやめろとなるからである。
カルト宗教団体でも宗教は名ばかりであり人を助けるなどないのである。
ただ普通の社会と同じようにそれぞれの欲を追及するためにあるだけなのである。

ともかく金を援助することは悪いことではないしろそれで安倍首相がいい格好したことなどが今回の事件で浮き彫りになったのである。

むしろめんどうな問題ある所には安易にかかわるな

かかわるとしたらそれなりの覚悟が必要になる。現実にヨルダンでは空爆に参加してパイロットがつかまった。つまり命懸けでイスラム国と戦っていたのである。
難民もパレスチナやシリアから国民の三分の二が難民だという現実がある。
そういう国を理解できない、あの辺の事情の深刻さを肌で理解できないのである。

血を流し犠牲になる覚悟ないならかかわるな

これは個人的問題でもいえる。困った人や苦しんでいる人にかかわることは安易にできない、それは事故満足のい偽善となりやすいからポランティアが批判されることになる
もちろんボランティアで外国で死んでいる人もいるがそれほどの覚悟をもっていたかとをかはわからない。
前から俺は死んでいいんだなどと思ってボランティアに行く人はまれだろう。

いづれにしろ中東はヨーロッパの確執の歴史が長い、十字軍の時代からある。
日本はそんな歴史と関係ないのである。だからその土地に土地のカルマがある
日本はそんな所と関係すべきではないのだ。
現実に安倍首相が金を援助するとイスラエルで日の丸をかかげたことがイスラム国から反感をかっている。
安倍首相が不用意に安易に金を援助するとかでかかわったことが裏目になったのである。安倍首相の海外での金のバラマキ自体が批判されていたのである。
海外で金を援助してもそれがその国のためにすべてなるとは限らないのである。
タグ:日本人人質
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2015年01月28日

カルマの総決算がハルマゲドン (原発事故もこの地域でカルマを積んだ結果)


カルマの総決算がハルマゲドン

(原発事故もこの地域でカルマを積んだ結果)

●カルマの総決算が必ずくる

ハルマゲドンは、「カルマの総決算」とも言い換えることもできる。

更に、知花氏は『人類を救う意識改革』の中で、次のように述べている。
「家庭の一人一人の不調和は家庭のカルマとなって現れます。
それを家庭のカルマと言います。
家庭が思わしくいかないのです。
そこに住んでいる一人一人の心の不調和が家庭の状態に現れて来るのです。
今度はその家庭のカルマが村単位で現れて来るわけです。
ある村に不調和な村と調和のとれた村があったとします。
どちらに災難は起こりますか。
それは調和のとれていない村民に起こります。
それが村民のカルマなのです。
知花俊彦

人間の起きてくることには必ずカルマが関係している、それは個々人とか家族とか村とか町とかの単位でもカルマが関係している。
人間は生きていること自体カルマをつんでいる存在である。
人間が一人生きることのためにどれだけの動物の命が犠牲になっているかでもわかる
生きることは他の生物の命を食べること犠牲によって成り立っている
野菜を食べるにしてもそれは人が苦労して作ったものであり根本的には大地の恵みなのである。
金さえあれば何でも手に入る、用は金があればいいんだとなっているのが現代である。
だから大地に感謝したり海に感謝したり天に感謝したりすることもない
人間が生きることは業(カルマ)なのである。職業というときもカルマとして職業を認識していた。だからカルマから脱するには職につかないことだともなっていたのである。
職業とは何らか自然を破壊することに通じていた。縄文時代などは職業などはない、専門家した職業などはない、要するに生業というのがあてはまるだろう。
そもそも職業という観念もなかったのである。

原発事故が何だったのか?これも考えるとやはりカルマが関係していた。
人間の業として原子力発電に到達したのである。
職業がまさに業としてカルマとなって災いとなったのである
原発事故がそれは東京からもたらされたものであり外部の責任だ、東京の責任だと言うが現実はその村のカルマが原因していたこともある
その村や町が作り出したカルマという側面は確かにあるのだ。
飯館村はそういうことはなかくとばっちりをうけた、回りにどこか家族でももめごとがあると親戚であれ巻き込まれるのとにていた。
飯館村にカルマがなくてもすぐ近くにカルマをもった町があったときその影響をもろに受けたのである。離婚したりすると双方の親戚が必ずもめるのとにている。

●中東で起きるハルマゲドンもカルマの総決算

カルマというと個人レベルから国家レベルのカルマがある
中東で起きていることは国家的カルマでありそれは十字軍時代からであるから長い歴史があるカルマである
だからこそカルマの総決算がハルマゲドンになるということがありうる
要するにヨーロッパに蹂躪されたイスラムとの大戦争になる。
そこに歴史的国家的カルマの総決算が起こるハルマゲドンになる
カルマはまたどこかで総決算されないと消えないからである。
個人的にもカルマは決算を強いられる
それも他者ではできない、他者におしつけるとカルマはさらに何倍も重いものとなって本人にのしかかる
借金をしていたのはただ見栄であったのだから自分で清算しないかぎりカルマは清算できない、他人にその借金をおしつけてもカルマは解消しないのである。
もしそんなことをすればそのカルマにかかわりないものを苦しめるのだから本人のカルマはますます重くなるのである。
家があったら家を売るとか何らか自分を犠牲にしないとカルマは解消できないのである。

イスラム国の広報でイスラム国からハルマゲドンが起きてくると宣伝していることでもわかる。それは聖書で予言されていた。
最終戦争とはなぜ起きるのか?それはつもり積もったカルマの総決算が起きてくるということである。国家間で世界レベルで起きてくる。
人間の罪でありカルマであれそれがどれほど深く積もり積もっているか個人的にもそうであり国家的にもそうである
そういうものは簡単に解消できない、では解消するにはどうなるのかというとハルマゲドンが起きる、人類最終戦争が起きてようやく解消できるとなる
天変地異も起きる、それがノワの洪水だった。
それもカルマの清算の一つの現れだった。何でこんな無慈悲なことが天はするのかと嘆いていた人がいたがそれは人類に対する大きなカルマの結果だともなる
原発事故は明らかにそうだったのである。
人間が作り出したかカルマがこの辺を苦しめる結果になった。
プルトニウムの毒が二万年消えないというときまさにそのカルマの恐ろしさを実感する

ともかく個人的にもカルマつまないようにしないとそのカルマをもつようになる。
人に対しても必ず何らか人はカルマをもつようになる。
人に感謝されたりするときはいいが恨みをもたれたりするとカルマになる。
でも人間は平気で知らずにカルマを積んでいる。
不思議に恵まれた人も金持ちもカルマを積んでいるのだ。
なぜなら金持ちになれるのは実際はその人だけではなれない
周りの人々が関係しているのだ。
だからあまり金をもっているとその金を奪われたり殺されたりもする
金をもっていても有効に使わないとその金を奪われるのである。
そして最悪は殺されて奪われる
だからたいした金でなくても金をもっていることは怖いことだなとつくづく思う
金あればいいと思っているがそれを有効に使えないものは持つべきではないとなる
どんな人も生きる限りカルマをもたない人はいないのである。
自分ではそう思っていなくても知らずにカルマは積んでいるのだ。
その結果か必ず現象となって現れてくる

そもそもなぜこの辺でこんな悲惨な状態になってしまったのか?
漁民であれ農民であれまず海の恵みに大地の恵みに感謝したことがないだろう
ただ漁業ではもうやっていけない、農民でも跡継ぐなどもいない、農業ではくらしてはいけない、もうやめたいということしかなかった。
そういうことは時代的にわかるにしてもそうした限りなき人間の欲望が原発をもたらした漁民はこの辺では少ないにしろ漁業権を東電に売り渡して金を得ていた。
その金は漁業するより多額だったのである。
現代は海の恵みとか山の恵みとか森の恵とか大地の恵み感謝する人などいない
人間が作り出す科学の恩恵こそ恵みであり自然の恵みは無視されてきた
人間は神に天には何もできないけど感謝の心はもてる
今日一日の恵を与えてくれてありがとう・・とは言える。
それもなくただたりないたりないもっと欲しい欲しい・・これしかなくなっていた。
原発はその足りない分を満たしてくれるからいいものだとなっていったのである。

●それぞれの市町村にはカルマがある

それは調和のとれていない村民に起こります。
それが村民のカルマなのです。


双葉町とか大熊町は争って原発を誘致していたのである。
隣の町だけが原発で金が入る、こっちも金が欲しい、原発を建てろとかなっていた
それが災いの元を作り出していた。
そして双方とも共倒れになった。
原発が建つことで人間の欲は刺激されてとどまることがなかった
その前にも個々人は過度な富を求めるようになっていた。
調和がとれていないというとき自然との調和がとれていないこともある
飯館村は自然との調和を計った村作りをしていたから違っていた
だから県民所得も一番福島県では低くかったのである。
それも他の町のカルマを受けて悲惨な結果となってしまった。

この世には確かにカルマの法則だけはある
それは個人的にも家族にもあるし地域にもあるし国家にもある
それがいつかたまりたまって総決算が強いられる
結局自分自身の苦しみもそのカルマの総決算、家族のカルマの総決算を強いられたのである。個人的にも家族的にも必ずカルマの決算を強いられる
カルマは結果として必ず現れる、その一つの行為はささないものでも結果として現れるのがカルマなのである。否応なく現れるのである。
だからこの世の中はどれだけのカルマが集積しているかとなると目眩がするだろう。
この世にあるものはカルマだらけじゃないかともなる
会社であれ様々な団体であれカルト宗教団体であれカルマ集積している
国家自体、政府自体にカルマが集積しているのである
公務員とかが官僚が悪だというときもそうである
そういう巨悪は誰もとがめることができない、検察もできない、だから東電の幹部を罰することはできない
なぜ団体がその権力に物言わせて社会をゆがめるのか、横暴になるのか
それを正すことは誰もできない、原発事故も東電だけではない、政府からマスコミから宗教団体が一致して行われていたことでもわかる。
それをとがめることは誰もできなくなっていたのである。

津波という天変地異が起きてその真相があ明らかになったのである。
それが世界的になるとハルマゲドンになるのである。
世界最終戦争で総決算が迫られる
というのはイスラム国が聖書で予言されているハルマゲドンの地ともされからである。
だから不気味なのである。
そしてなぜ相馬地方に最悪の原発事故が起きたのも何かの因縁なのか?
ただの偶然なのか、そうとも思えないものがある。
原発を誘致したのはこの土地のものでもありその町民のカルマが報いとなって現れた。
そして以前として原発を再稼働しろとか補償金を要求するだけの土地になってしまった。それもやはりこの辺の土地のカルマが作りだした結果なのかもしれない
もしかしたらこの辺がソドム、ゴムラになっていたのかもしれない
自分の経験したことはそうだった、弱者を苦しめて喜ぶというか無慈悲なことを身をもって経験したからである。
ただここだけではない原発のあるところはこの辺と同じ運命になる
それはいつの日かわからないけどなりうる
だからここだけの問題ではないのである


 
タグ:カルマ
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冬の暮(家事、介護に追われる状態は変わらない自分)


冬の暮(家事、介護に追われる状態は変わらない自分)

寒椿なおひとしきり風唸る
今日も行く同じ路地裏冬深む
海老浜や沖に船行く冬の暮
知る人の小さき畑や冬の暮
冬芒一杯のコーヒーの味深し

故郷の山脈翳り冬の朝老いにし人とまた会えるかな


家事と介護で半分以上の時間がとられる。家が広いから余計に時間がかかる。
だからこの七年間はやはり何かゆっくりすることができない
それでコンビニの前がコーヒ一杯飲むのが息ぬきなのである。
コーヒは外の景色を見つつ飲むとうまい、あそこでは百円でのめるしうまい
寒いと遠く知自転車は行きにくい、それより毎日家事に追われて時間の余裕がないのである
今まではどうでであったかというは三食は必ず用意されていたし家のことはなにもする必要がなかった。一転して全部自分しなければならなくなった。
それも最初は二人も介護していたときもあった。一人は早く死んで助かった。
こういうとき一番怖いのは介護する方が病気になることである。
代わりがないから共倒れにもなる。誰も助けてくれない、それでむごい目にあった。
だから一人というのは実際はリスクが大きい、何になるかわからないしその時どうにもならない、だから今になるとそもそもこういうことになることがわかっていたから
何らか対策を前からしておけばいいと思った。
人間は前にも書いたけど楽天的なのだろう、なんとかなるだろうとしか未来を予想しないそんな取り越し苦労しても仕方ないよというのも生きる知恵である
でも人間は最悪は本当は予測できる゛ただしないだけなのである。
今回の人質事件でも最悪は予想できたけど楽天的になっていたのである。
そうでなければなんゅ事件にまきこまれることはなかったのである。
最悪を予想しないことは別に個人的なことでなくても津波でわかったように原発事故でわかったように最悪の状態を予想して作っていない
楽観的でありそんな津波なんかこないよで最悪でもないおそらく最低の準備すらしていなかったのである
最悪を考えれは避難訓練くらいするのが普通だがそれも安全神話があるからできなくなっていたのである。

この世の最悪の日はいつかやってくる、それはわからないにしてもそれに備えることも必要である。それは人間の力でもどうにもならないのである。
だから信仰が必要になる゛神により頼む以外ないからである
おそらくこれからも予想つかない最悪のことは確実に起こる
人間は未来のことはわからないからである

いづれにしろ自由に旅していた外出していた自分がやっとコンビニでコーヒ一杯飲むのが息ぬきになることなどありえないことである。
でも現実はそこからぬけだすことができない、毎日同じ道を往き来してそこからはずれることがほとんどできないのである。
それも自分のカルマだったとなる
タグ:冬の暮

2015年01月29日

人質交換劇で考えたこと (極限状態で人間の命がやりとりされる意味)



人質交換劇で考えたこと


(極限状態で人間の命がやりとりされる意味)


日本人が二人人質になったとき盛んに二人がどういう人物かとりざたされた。
一人は何か軍事オタクなのか、何のなのかわからないので死んでもいいとかされた。
それでもその人なりの過酷な人生があった。
妻をガンで亡くしたということは厳しいしずいぶん若くて死んだなと思った。
ただなぜあんなところに武器を売りたいとか行っていたのかよく分からない
でも県議会議員とか何か名だる人も関係していたとなると余計不可解になる

もう一人ジャーナリストでこの人は生かしたいとかが多かった。
それなりのジャーナリストとしての実績があったのか?
これも良くわからないにしろ世界中でケンジを助けろとまでなった。
そしてこんなに世界中で有名になったということも人質になったからである。

そしてなぜこれは劇のように展開したことである。
あと72時間で決めないと殺すとかなるとその命のことを誰でも見守る
あと72時間の命なのかとなると人間は誰でもその人がどんな人であれ
その人のことをかたずをのみ見守りその生死に関心をもつ
人間は結局いつ死ぬことなくだらだらと生きているから生に緊張感がないのである。
戦時中はいつも死ととなりあわせだから生きるということに緊張感があった
そういう時かえって生の意味を真剣に考える
それで特攻隊のような若い人が死んだことで最後の手記を残している

人質問題はさらに人質交換へと展開する、その時も一対一の交換だとか言われイスラム国の自爆テロの女性を解放をイスラム国は求めている。
他にも仲間の釈放を求めている
ヨルダンではパイロットの解放を国民全部で求めている
ケンジよりパイロットの解放が先だとヨルダンでなるのは当然である

ここで考えたことは人間の命が時間を区切ってやりとりされていたことなのである。
人間の命はその時双方にとって価値ある貴重なものとなっていた。
ヨルダンのパイロットの命とイスラム国の女性の命は等価として交換される
これは何か戦争でただ殺し合いパタバタ誰かわからずに死んでゆくのとは違う。
双方にとって敵同士が互いに生かしたいということから人質交換劇生まれた。
戦争はたいがい相手を殺すことが目的でありこのように互いに生かすということは例外的である。
ここでは互いに生かして敵同士で交換が成立する
一方でアメリカのようにテロ集団の要求をのむとまた人質になる危険が増してくるから
要求にのるなということも要求される

ここで不思議に思ったのはただ敵を多数殺すということではなく互いに人質を生かすということに焦点があてれていたことである。
敵同士でも双方にとって命は大事であり生かして交換しようとなった
考えてみると双方にとってヨルダンのパイロットにしろまた生かせば飛行機で攻撃してくるから殺した方がイスラム国にとっては戦争しているのだからその方が戦力をそぐことになるからいい、一方でヨルダン側でも自爆テロしたような女性は解放すれば危険なのである。
ケンジになると解放しても別にそれほど害を与えられることはない
敵同士の人質交換になるとその人の命がまたあとで害を与えられるというリスクがある交換である。
一方で貿易は双方で利益を得る交換なのである
戦争になると命までが交換対象となりそれは双方にとって利益にならない
戦争そのものが双方にとって利益にならない
ただ今回の人質劇ではなんとか双方の命を生かすということでやりとりされている
だから戦争にしてはそこに人間的なものが生まれたということを感じた

人間はただ戦争で相手を殺せばいいんだとはならない、それで戦争という極限状態から戦国時代から武士道も生まれた。人を殺すにしても物のように扱うのではなく作法があるとかなる、ヨーロッパでもただ殺せばいいというのではないルールが生まれた。
騎士道もそうだろう。だから一見現代というのは中世とか戦国時代とかが首を切ったりと野蛮に見えるが一番野蛮になったのは現代である。
大量に機械で殺戮するからそこには人間が一対一で戦うことから生まれる人間的なものがなくなる
一見イスラム国のやっていることは残虐であり戦国時代だと思った。
でもアメリカやヨーロッパがそうではないのかとなる飛行機で無差別に爆撃して大量殺戮を行う,こっちのほうがどれだけ残虐なのか意識されないのである。

結局文明も何か人間として進歩したものとして発展したものとして考えられるが兵器でも技術改良されて人間を効果的に殺す道具を発展させたという側面がある。
その最たるものが原子爆弾だったのである。
現代文明が一番野蛮な文明になっていたのである。
ともかく人間が一挙に百人でも千人でも津波でも2万人死んだとかなると今回のように一人一人の人間の命のことなど考えない、だから死んだ人がどういう人だったのだろうとか数が多くて詮索しようがなくなる
今回の人質交換劇には数人の人質の命のことを貴重なものとして世界中で考えたのであるケンジをいろいろ言うにしてもケンジ助かって良かったな世界中でそうなっている
そんなこと一人の人間が世界から思われることはないのである。
人質劇は殺すということではなく生かすということが目的だからそうなったのである

そもそもイスラム国とは何なのだというと世界中でも謎でありわからない人が多いだろう単なる暴力的集団なのか、何を目指しているのか良くわからない、その内部もわからない、なぜシリアがあんなふうになってしまったのかも第一わからない。
いづれにしろ国が何であれなくなり無法地帯になると人間社会は暴力が露骨に出てくる
それは戦国時代と同じになるのである。
戦国時代にも人質があり城主の子供まで殺されたりしていたことでもわかる。
あの辺は戦国時代化した危険地帯になった。
あれも実際はイラク戦争の生き残りの残党が多いとするとアメリカが作り出したとも言える。 それはベトナムの地獄の黙示録とにている
戦争はそういう人間の極限状態になるからにてくるということである。
タグ:人質交換
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2015年01月30日

メデアで英雄化されたゴトウケンジ (つまらない人間もメデアを通して英雄化される)



メデアで英雄化されたゴトウケンジ

 
(つまらない人間もメデアを通して英雄化される)



大勢の底辺を見捨てて切り捨てて得た利益と繁栄を謳歌し
その一方で一握りの有名人のピンチにキレイ事を並べ擁護ショーをくりひろげ
社会の清廉潔白を偽造する
それがメディア化された文明社会です
ほんの一握りが自作自演する資本主義企業社会です
底辺の犠牲には黙ってフタをしテレビ的な悲劇のみを取り上げ偽善する
それがショーアップ格差社会です

凍死しそうな毎日を送ってるホームレスが日本中にいる
こっちを先に救助しろ10億円もありゃこの冬乗り切れる



今回の人質問題でもなぜこんなにケンジが世界的に有名になりまるで英雄化されたのか?
それは明らかにグローバル化してメデアを通して極大化されてしまったのである。
その前に起きた異物混入して自分の動向をyoutubeに流していた19才の少年が英雄になりたいというのと一面にていたのである。
何でもないつまらない人間でもメデアを通して極大化されて世界的有名人になり英雄化される、それを腹ただしく見ている人たちがいても現実問題としてそうなっている。
つくづくメデアの影響がグローバル化では大きいことを実感した。
メデアを制するものは世界を制するということもある。
世界のことになると何が正しいのか何が真実かもわかならいからメデアに左右されやすいのである。
真実よりメデアによって作り出されたものが真実なのである。
それを今回の人質事件はまざまざと見せつけた。

本来は自己責任論でかたづく問題だった。国家までゆるがすような問題に発展する問題ではなかった。それがなぜこれほど国家をゆるがし世界までゆるがしたのか?
それはまさに世界的にショーアップされたからでてある。
みんな世界中の人が注目したからである。
その人が重要人物でもない、特別の人間でなくてもショーアップされた結果そうなった。つまりメデアの力がいかに現代では世界を動かすかということを示した事件でもあった。だからイスラム国もメデア専門部門を作ってプロパガンダしている
ケンジが重要人物でなくても世界のメデアが取り上げ有名になれば宣伝に使えるということで駒とされたのである。

世界のことになるとそもそも真実がどこにあるか判断しようがない
メデア頼りになる、それも欧米側から流されるメデアに左右されやすいのである。
そししてなぜこれほど今回の人質事件が注目されたのか?
それはショーアップされた現実のドラマ化したからである。
それが世界という舞台でショーアップされたから注目されたのである。
インターネットも一役かってショーアップされたのである。
イスラム国も今ではテレビ放送できなくてもインターネットで放送できる時代になった。それも大きな変化であった。
インターネットで個人がテレビ局も作れる時代なのである。
それを証明したのが19才の少年の逃走劇の実況放送だったのである。
プログをみてもらいたいと放火した少女までいた。
こういうことは今までもテレビとかのメデアでもにたことが行われている。
人々の興味をひくことを視聴率をあげるためにとりあげる
でもその中に重要であってもテレビでもどこでも無視されているものがある

確かにホームレスが凍死するような状態にしあってもメデアは取材はしない、放置される他にもアフリカで飢え死にする子供が無数にいてもそれも取材しない
全然しないというわけでもないが人質問題のように取り上げないのである。
今回の問題でもメデアでこんなふうに世界的なものとして取り上げてなければ日本人二人は自己責任であり死んでもしょうがないとかなっていた
日本国内だったら事業に失敗しても自殺しても誰も助けないし話題にもならない
みんな自己責任で終わりなのである。

ただこの人質問題はこれだけで終わらない、あの辺の緊迫した状態はさらに波及しているリビアの次にエジプトでもイスラム国に同調してテロが起きた。
そしてヨルダン政府自体が有志連合から離脱しろと国民と騒いでいることはいかにあの辺が緊迫した状態にあるかわかる。
単なる日本人人質問題ではない、イスラム国にとって日本人一人二人の命などどうでもいいのでてある。
有志連合そのものへの分断が目的化している
すでにヨルダン政府が存続の危機に直面している。
だからかえってイスラム国に譲歩することは危険になってくる
一人二人の人間の命の問題でもなくなっている
戦争だったら一人死んでもそんなこと誰も問題にしない
日本が戦争したときもそうだろう、いちいち死んだからと問題にしない
あの辺はそうした普通の状態とは違う命懸けの戦争をしているのだ
そういうところに傍観的な人が入ってゆくべきではない
ただ迷惑になり国家まで動かされ結局ケンジによってヨルダン政府まで危機に瀕する

日本は人道支援など言っているが今度は欧米から軍隊の派遣を要求される、
そしたら日本はイスラム国の敵となり常にテロにおびえるようになる
つまりもはや一人二人の日本人の命の問題でなくなっているのだ。
刻々と状況は変わっている
大きなテロは今までのとは違っている
散発的ではない、世界同時テロであり有志連合を分断させてヨルダン政府も破壊しようとししているのだ
だから今やまたケンジの一人の命にこだわっているとますます傷口を広げるということがある
日本はどっちつかずでもいられなくなりイスラム国と戦うの戦わないのか選択が迫られる人道支援などいい格好ができなくなる
人間はやはり命懸けで戦っているものは怖いということである
日本は傍観者であり何かショーのように見ているがそんなものじゃない
イスラム国でも生きるか死ぬかでありヨルダンでも実際に爆撃に参加しているのだから
命懸けなのである。
その相違は日本が甘い見方となってかえって敵を有利にして迷惑をかけていることになる

我が命我がものと思わず
武門之儀あくまで陰にて
己の器量伏し
御下命如何にても果す可し
尚死して屍ひろう者なし 死して屍ひろう者なし

ここまで自分を殺して主君に仕えるとなると凄いと思う
忍者の方が厳しくいさぎよい
人道支援などと何かその人が宗教者みたいな感覚になる
戦場ではそんなものが通用しない
諜報員がジャーナリストであり秘密を守るためには自死するのである。
だからケンジは舌をかんで死ねとか傍観者は言っていた。
何か結局敵に対してあまりにも有利にする駒となりすぎたのである。
ジャーナリストの使命とは何なのかも問われたのである。



 
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音もなくふる雪(詩) (詩はテーマごとに分けて選別する作業が必要)


音もなくふる雪(詩)


(詩はテーマごとに分けて選別する作業が必要)



音もなくふる雪


しんしんと音もなく
雪はふるかな
雪に雪はつもりぬ
しんしんと音もなく
雪はふるかな
この世の汚れよ
この世の欲よ
放射能の汚染の村や町よ
もはや人は住まず
しんしんと音もなく
雪はふるかな
雪にうもれけるかな
その美は変わらずに
しんしんと雪はふるかな
ただ人は住まずに
雪にうもれけるかな
人よ その前に何も語るなかれ
大自然の粛清浄化は
このように音もなくくる
騒ぎ立てて来たりはしない
大いなる静寂の中に来る
山を思へ、大地を思へ、
そこに真の力が宿っている
不動の力が宿っている
神の業(わざ)には無駄はない
完璧にして寸分の狂いもなし
精密にして計り知れなく深く大きい
神の業は人間の思いを越えて大きい
音もなく深い空から来る
仰々しきものにあらず
いとも静かに来る
おやみなくふる細かき雪のごとくに
そのあとに世界は一変する
純白の雪におおわれる
その時いまわしき過去は消えさり
白無垢の雪のみ映えぬ
ああ しんしんと
音もなく雪はふるかな


今日はここも大雪だった。かなり積もった。このころ必ず雪が降る、この辺は東京がふると浜通りもふる。でも一日限りであり何日もふらない、それが会津や新潟などと違っている。
浜通りでは雪のことがわからないのだ。毎日雪がふるという感覚が実感できないのであるだから雪の俳句とか短歌でも詩でも雪についての文学が生まれない
雪はやはり毎年ふったとき雪について感じるからだ
ただ詩というのはあまりにも読まれない、今や誰が詩を書いているのかもわからない
この詩がいいとか評価するものもいない、それだけ詩はマイナーすぎるのである。

だから誰かがいい詩を書いていてもそれが評価されないしわからない
すでに十冊詩集出したという人がいてもその中味はない
でも今では詩集でも簡単に作れる時代になった
ただ詩を評価することはされていない
詩というのは誰でも書けるしわざわざ何をいいたいのかわからないようにむずかしくしているものもある
わからない故にかえってこれはいい詩なのかもしれないと思う人もいるだろう。
詩を評価するにはやはり自然をどう詩にしているかが目安ではないか?
自然は神の業でありそれをどう言葉にしているかをみる
とはいえ自然でも人間化するから自然を通じて人間の心を示すのである。
雪だったら純白でありけがれない美を示すのである。
詩というのは自分でもいくら書いても不満が残る
表し得ない自然の美に直面している
この詩でも誰かが同じようなもの書いているような気もするのである。

この辺では放射能汚染になったけどおそらく雪がふってまた放射能物質がふってきて放射線量が高くなる
放射能の不思議は何ら見た限りではどこも空気が汚くなったように見えないのである
火力からもうもうと煙が出ているから二酸化炭素で空もよごれているなとみただけで実感する、放射能は何も汚していない、その美は変わりないのが不思議なのである。
かえって火力発電所の煙突の煙の方がずいぶん空を汚しているように実感するのである。
もし放射性物質で黒い雪とか黒い雨とかふってきたらショックだろう。
それがないことが不思議であり何が汚染されているのかも実感できないのである。
ただ数字だけの世界であり実感できない
そのことがかえって怖いということになる

なぜなら汚れていれば危機感をもつからである。
放射能汚染は危機感をもつことができないのである。
奇形児でも動物でも生まれれば具体的にわかるがこれもわからない。
ただ美が変わらずにあるということは救いである
まず自分は空でも山でも海でも川でも汚くなったら住んでいたくない
東京に住みたくないのはそのためである。
田舎に住みたいというとき自分は自然の美に常にふれていたいというためである
だから自分は故郷といってもここだけにはこだわらない
富士山でも高い山などある所でそれを毎日見ていたら心も高くなくなる
この辺にはその高い山がないから大きなものが欠けているのである。

詩というとき詩を書くにしても参考にするとき「雪」というテーマで東西の詩を集めて学び書くことが必要になる
それが詩については本もまれにしか出ないしわからないのである。
また無数のつまらない詩で混乱させられる
いづれにしろ現代は詩であれ音楽であれ何であれ芸術が衰弱してしまった時代なのだろう雄大なものが生まれない時代である。
それも東京のようなゴミゴミした雑踏を歩いていたらネズミのような感覚しか生まれてこないだろう。
東京から詩人が生まれるとは思えないのである。
ただ東京はあれだけの人口があるか文化人は生まれるのである。

 
タグ: 雪の詩